Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

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ニルス・メンケマイヤー リサイタル
 ヴィオラの音色というのは、滋味豊かで心にゆったりと浸透してくるものである。
 今日は、昨日インタビューをしたニルス・メンケマイヤーのヴィオラ・リサイタルを聴きに、渋谷区文化総合センター大和田 さくらホールに出かけた。
 プログラムは、前半がサント=コロンブ「哀しみの墓」より「涙」、コンスタンティア・グルズィ「新しい世界のための9つの子守り歌」op.49、J.S.バッハ「無伴奏チェロ組曲」第5番ハ短調BWV1011。後半がシューマン「おとぎの絵本」op.113、ヒンデミット「ヴィオラとピアノのためのソナタ」op.11-4。
 昨日の話のなかで、メンケマイヤーは「ヴィオラこそ、ぼくが弾きたかった楽器。これは自分の声である」と語っていたが、まさに深々とした抒情的で胸の奥にしっとりと響いてくる音楽は、彼自身の「ことば」であり、「声」であり、感情表現そのものだった。
 とりわけヒンデミットのソナタがエネルギーにあふれ、ドラマティックで、ピアノの松本和将と一体となり、幻想的でロマンあふれる曲想をじっくりと聴かせた。
 たった一夜のための来日とは、なんともったいないことか。もっと多くの人にヴィオラのすばらしい音楽を聴いてもらいたかった。
 次回はぜひ、コンチェルトも聴いてみたい。
 今日の写真は、リサイタルのチラシ。昨日のインタビューでは、現在の楽器との出合いの話がとても興味深かった。
 実際に聴く音は、肉厚で深々とした、低音弦の美しい響きだった。ミュンヘンのヴィオラとチェロの製作家、ペーター・エルベンの楽器である(2006年)。




 
 
 
| クラシックを愛す | 23:38 | - | -
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2017
 ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2017(LFJ)のテーマは、「LA DANCE ラ・ダンス 舞曲の祭典」。
 先日インタビューしたアーティスティック・ディレクターのルネ・マルタンや、ピアニストのルーカス・ゲニューシャスが話していたように、今年のテーマは、とても選曲がしやすかったようだ。
 クラシック音楽は、舞曲にまつわる作品が非常に多いからである。
 今日は、12:00〜12:55(ホールB7)のリシャール・ガリアーノ六重奏団(アコーディオンと弦楽)、13:30〜14:45(ホールC)のオネゲル「ダヴィデ王」、17:45〜18:30(ホールB7)のテディ・パパヴラミ(ヴァイオリン)、グザヴィエ・フィリップ(チェロ)、フランソワ=フレデリック・ギィ(ピアノ)のベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第7番「大公」を聴きにいった。
 ガリアーノ(1950〜)はフランスのアコーディオン奏者、バンドネオン奏者、作曲家。アコーディオン奏者の父親のあとを継ぎ、フランス新世代のアコーディオン音楽を追求している。1980年にピアソラと出会い、アルゼンチン・タンゴを演奏するようになったという。現在は、ジャンルを超えてさまざまな音楽を幅広く演奏している。
 今日は、自身の作品をメインにピアソラ作品も演奏し、哀愁に満ちた繊細で優雅な音色を存分に披露した。
 オネゲルの「ダヴィデ王」は、実在の古代イスラエル2代目の王で、旧約聖書の英雄ダヴィデの生涯を描いた3部構成全27曲からなるオラトリオ。
 当初は4時間を超える劇音楽として書かれたが、それを縮小する形でオラトリオに改訂された。今日は、改訂版をオリジナルの小編成である17人のオーケストラ(ダニエル・ロイス指揮シンフォニア・ヴァルソヴィアのメンバー)、ローザンヌ声楽アンサンブルで演奏された。歌手陣は、クリストフ・バリサ(語り)、ロランス・アミー(巫女)、リュシー・シャルタン(ソプラノ)、マリアンヌ・ベアーテ・キーランド(メゾ・ソプラノ)、エンドリク・ウクスヴァラフ(テノール)というメンバー。とりわけ、語りとメゾ・ソプラノが傑出していた。
 こういうオラトリオは、ふだんなかなか演奏される機会に恵まれない。これこそ、LFJならではのプログラムといえるのではないだろうか。
 最後に聴いたベートーヴェンの「大公トリオ」は、3人の息がピッタリ。彼らはよくトリオを組んで共演しているようで、ベートーヴェンが3つの楽器をまったく同等に扱い、それぞれの特質を最高に生かして雄大な作品に作り上げたその曲想を存分にうたい上げた。
 私は第1楽章の冒頭のピアノで奏される第1主題が大好きなのだが、第2楽章の堂々としたスケルツォも、第3楽章の深い情感をたたえた変奏も、第4楽章の明朗なロンドも非常に魅力的だ。
 約45分間の長い作品だが、3人の一瞬たりとも弛緩せず、集中力に富んだ見事なアンサンブルにより、一気に聴き込んでしまった。
 まったく異なる味わいをもった3つのコンサートを聴き、LFJ2017のテーマ、舞曲の要素を堪能することができた。
 ルネ・マルタンはもう来年のテーマを考え、選曲も始めているといっていたが、さて、2018年はどんなテーマが登場するのだろうか…。
| クラシックを愛す | 23:01 | - | -
辻井伸行×服部百音
 今日は、辻井伸行と服部百音の「究極の協奏曲コンサート」を聴きに、東京オペラシティコンサートホールに出かけた。
 コンサートの前に、「家庭画報」で連載している辻井伸行のインタビューを行い、次いで服部百音にも話を聞いた。
 辻井さんは、いつもながらにこやかに楽しそうに話してくれ、百音ちゃんのことを聞くと「とても素直ですばらしい才能の持ち主。早く20歳になって、一緒にお酒を飲みたいねと話しているんですよ」とのこと。
 服部百音は現在17歳。あと3年弱で飲み友達になれそうだ。
 もちろん、ふたりにはコンサートのこと、最近の活動状況、今後のことなどさまざまな面の話を聞いたが、百音ちゃんにも、辻井さんの印象を聞いた。
 すると、「音楽のすばらしさと人間性のすばらしさの両面に感動しました。私はまだ新人で、ノブくんはすごいキャリアのピアニストなのに、まったくそういうことを感じさせずにふつうに付き合ってくれる。そういう人への接し方に、懐の大きさを感じました」と、熱く語っていた。
 今日のコンサートは、このツアーの最終日。
 前半は、服部百音のエルンスト「夏の名残のばら」による変奏曲と、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。後半は、辻井伸行のショパンの「英雄ポロネーズ」とショパンのピアノ協奏曲第1番。共演は、ニール・トムソン指揮読売日本交響楽団である。
 服部百音のショスタコーヴィチも、辻井伸行のショパンも、それぞれ大得意とするコンチェルト。長年弾き込んで完全に自分の音楽となった、自家薬籠中の演奏だった。
 ふたりは、最後にアンコールとして「真田丸」のテーマをデュオで奏で、手を取り合って嵐のような喝采に応えた。
 今日の写真は、ふたりのインタビュー後のショット。百音ちゃんは、会うごとに大人っぽくなっていく。実は、ふたりの共通項は「甘い物が苦手」。ケーキや和菓子やチョコレートは好きではないということで、「20歳過ぎたらお酒を一緒に」の話で盛り上がったそうだ。
 一見すると、ふたりともスイーツが好きそうなのにね、不思議だワ。



| クラシックを愛す | 23:42 | - | -
ベアトリーチェ・ラナ
 勢いのある若手音楽家の演奏を聴くというのは、活力が湧いてくるものだ。
 今日は、トッパンホールにベアトリーチェ・ラナのJ.S.バッハ「ゴルトベルク変奏曲」を聴きにいった。
 ラナは「ゴルトベルク変奏曲」を長年研究し、2016年11月、ようやく録音にこぎつけた(ワーナー)。
 彼女はバッハを「初恋の作曲家」と語っているが、「ゴルトベルク変奏曲」はバッハの作品のなかでもとりわけ深い内容を備え、ピアニストの憧れの作品ともいうべき存在だ。  
 ラナの演奏は、豊かな歌心と抒情的な空気がただよい、ときにチェンバロの繊細さを表出し、弱音の美しさや微妙なニュアンスを生かした奏法である。録音ではアリアと30の変奏をすべてリピートし、じっくり大作と対峙し、真っ向勝負を行っている。
 もちろん、今夜の演奏も同様で、冒頭のアリアから、耳をそばだてて聴き入ってしまった。アリアは柔軟性に富み、静謐でゆったりと語りかけてくるような奏法で、古典的な解釈に貫かれ、聴き手の心に深く浸透してくる。
 そして変奏が始まると、若々しさと抑制された情熱、和声や対位法を大切にするピアニズムが顔をのぞかせ、バッハの深遠な世界へと分け入っていく。
 彼女のバッハは、確固たる構成と伝統的な枠組みを守りながらも自由闊達でのびやか。全編に前進するエネルギーがあふれ、長大な作品を一瞬たりとも弛緩することなく、一気に聴かせた。
 まったく長さを感じさせることなく、最後のアリアまで聴き手の心をわしづかみ。80分を超えるバッハの旅を堪能することができた。
 こうしたすばらしい新星の登場は、ピアノ界を活性化させる。ラナは、インタビューで、各地を回って演奏旅行しているため、自宅にほとんどいられないと語っていた。それだけ演奏のオファーが多いということ。
 ベアトリーチェ・ラナ、今後も目が離せない存在である。
 今日の写真は、「ゴルトベルク変奏曲」のジャケット写真。


 




| クラシックを愛す | 22:06 | - | -
ナタリー・デセイ
 ナタリー・デセイの演奏は聴くたびに心に深く響いてくるものだが、やはり初来日のときの演奏が強い記憶となって残っている。
 ナタリー・デセイが初来日公演を行ったのは、2004年9月のこと。彼女の名前は、1990年にウィーン国立歌劇場で開かれた国際モーツァルト・コンクールで優勝して一躍世界に知られるところとなり、欧米の名だたるオペラハウスに出演、音楽祭からも引っ張りだこの人気となり、来日が待たれていた。
 もっとも得意とするオペラの役柄はオッフェンバック「ホフマン物語」のオランピア、モーツァルト「魔笛」の夜の女王、ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」、ドリーブ「ラクメ」のタイトルロールなど、超絶技巧を要する役やコロラトゥーラ・ソプラノの名曲として知られるアリアが含まれるものだった。
 しかし、2000年ころからヨーロッパの新聞などのインタビューで、「オランピアや夜の女王は高い音を出すだけで面白みに欠ける。私が本当にうたいたいのは内容の充実した役柄であるヴィオレッタ、トスカ、蝶々夫人、エレクトラ、サロメ、マノンなど。そのためには低音域を磨き、表現力もより幅広いものを身につけないとならない」と語っている。
 初来日公演ではマスネ「マノン」とトマ「ハムレット」のオフェリア、ベッリーニ「夢遊病の女」のアミーナの各アリアが凄みを帯びたすばらしい歌唱で、驚異的な集中力に支配された最後のルチアでは会場が息を殺したように静まり、みな「狂乱の場」に酔いしれた。
 そんなデセイは、2010年7月のトリノ王立歌劇場の日本公演で待望のヴェルディ「椿姫」のヴィオレッタを熱演。これまでのヴィオレッタ像をくつがえす新しいヒロインを生み出した。         
 デセイは子どものころにバレエを習い、やがて女優を目指したというだけあって、演技力抜群。舞台狭しとはだしで走り回ったり寝転びながらうたったりする。どんな姿勢をとろうが、完璧に磨き上げられた歌唱はゆるがない。高音はもちろんコロコロところがる真珠の粒のようであり、また大空に飛翔していくかろやかな鳥のようでもある。
 しかし、このときは幾重にも表情を変えていく中音域の表現力の多彩さが際立っていた。「椿姫」は全幕にわたってほとんどうたいっぱなしの難役。それを幕ごとにあたかも異なった人物のように表情を変化させ、その場のヴィオレッタになりきり、聴き手の心にひとりの女性のはげしい生きざまを強烈に植え付けた。
 デセイが舞台に登場すると、そこだけ空気が変わるようだ。顔の表情からからだ全体が醸し出す雰囲気まで、すべてヴィオレッタそのもの。この演技力と表現力を兼ね備えた「奇跡の声」は聴き手の心を強くゆさぶり、もっと他の役を聴きたいと切望させる。
 これまでのヴィオレッタはアルフレードとの田舎での暮らしの場面でも着飾り、死の床でも美しいままだったが、デセイは素足だったりやつれを見せるなどリアリティが伝わってきた。昔は、オペラ歌手は棒立ちでも歌だけよければいいといわれたが、いまやオペラは演技力が欠かせなくなった。デセイの存在は、オペラそのものの新しい道を拓いている。

 あれから7年、オペラの舞台から引退したデセイは、いまや歌曲の世界で新世界を切り拓き、今回は盟友のピアニスト、フィリップ・カサールとともに前半はモーツァルト、シューベルト、プフィッツナー、後半はショーソン、ビゼー、ドビュッシー、グノーなどのフランス作品で圧巻の歌唱を聴かせた。
 デセイの歌曲の唱法は、各々の詩の世界へとひたすら没入していくもので、ひとつひとつの詩の表現があたかも台詞のようで、ストーリーを描き出していく。
 今回は、来日直前に初のシューベルトの「歌曲集」をリリース(ソニー)。これは彼女が長年研究し続けてきたもので、初期の作品から晩年の作品まで幅広い選曲による。
 ここでは、美しくかろやかで抒情的な高音を得意する、完璧に磨き上げられた歌唱を披露し、聴き手を魅了しているが、リサイタルでも繊細で気品にあふれ、みずみずしい歌声が横溢した。
 この夜は、デセイのもてるすべてが発揮された感が強く、いつもながら私は終演後に席を立てないような深い感銘を受けた。
 彼女はアンコールも次々にうたい、声の限りを尽くしたという様相を呈していた。
 曲は、ドリーブの「カディスの娘たち」、R.シュトラウスの「僕の頭上に広げておくれ」、ドビュッシーの歌劇「ベレアスとメリザンド」第3幕より、ドリーブの歌劇「ラクメ」より「美しい夢をくださったあなた」の4曲。
 まだずっと演奏の余韻が残っているため、また、徐々に胸の奥から記憶が呼び覚まされていくに違いない。
 今日の写真は、シューベルト「歌曲集」のジャケット写真。


 



| クラシックを愛す | 21:04 | - | -
ナタリー・デセイ
 毎回、ナタリー・デセイのリサイタルは完璧に磨き上げられたテクニックと表現力、深く読み込んだ歌詞の発音、隅々まで神経の張り巡らされた解釈など、すべてにおいて徹底した歌唱法に貫かれている。
 しかし、今夜の東京オペラシティコンサートホールでのフィリップ・カサールとのデュオ・リサイタルは、次元が違った。
 今日はもう時間がないため、ゆっくりとリサイタルについて書くことはできないが、いずれ詳細を綴りたいと思う。
 終演後、楽屋を訪ねると、ナタリー・デセイは、「今夜の自分はすべてを出し尽くした」という表情をしていた。
 今日は彼女の誕生日。アンコールが終わってからカサールが花束を携えてステージに現れ、デセイにプレゼント。そしてピアノに向かって「ハッピー・バースデイ」を弾き始め、会場を埋め尽くした満員の聴衆により大合唱となった。
 今日の写真は、デセイとカサールのツーショット。ふたりとも、すばらしいリサイタルを終え、とてもいい表情をしている。



| クラシックを愛す | 22:46 | - | -
ジャン・ロンドー
 2012年、弱冠21歳でブルージュ国際古楽コンクールのチェンバロ部門で優勝の栄冠に輝いたフランスの個性派チェンバリスト、ジャン・ロンドーが初来日を果たした。
 今日は、東京文化会館小ホールにリサイタルを聴きにいった。
 プログラムは、J.S.バッハ「ゴルトベルク変奏曲」。バッハの最高傑作のひとつと称されるこの作品は、アリアと30の変奏からなり、最後にまた最初のアリアが巡ってくる。
 よく、この作品を演奏するピアニストにインタビューすると、ほとんどの人が「最後のアリアは、これで終わりではなく、また最初に戻るような感覚を抱く。輪廻転生のような、新たな海原に漕ぎ出していくような感じ」と語る。
 今日のジャン・ロンドーの演奏も、最後はひそやかに締めくくられ、主題が静謐な空気をまとい、すべての音がスーッと天空に舞い上がっていくようだった。
 ジャンは、これまで見てきた写真の「いまどき」の個性的な風貌とは異なり、あごひげを長く伸ばし、髪型はお団子ヘアに変身。これはマンバンと呼ばれるヘアスタイルで、スウェーデン出身でプレミアリーグ、マンチェスターユナイテッドのセンターフォワードであるズラタン・イブラヒモビッチのトレードマークだ。
 ごくラフな白いシャツと黒のパンツでステージに登場したジャンは、チェンバロを自由自在に操り、自身のことばとなり、歌となり、心を吐露するような音楽を披露。ゆったりと始めたアリアも美しかったが、各々の変奏がチェンバロの機能を存分に使用した演奏で、実に味わい深かった。
 私は彼のチェンバロを聴くと、無性に「チェンバロを弾きたい」という気持ちが頭をもたげ、胸が痛いほどの渇望に駆られる。
 ジャンは、80分強の「ゴルトベルク」の後、F.クープランのクラヴサン曲集 第6組曲より「神秘的なバリケード」と、J-N-P.ロワイエの「スキタイ人の行進」をアンコールで演奏。まるで鍵盤と遊んでいるような自由でのびやかな響きを奏で、古楽ファンの心をとらえた。
 ジャンには、明後日にインタビューをすることになっている。おもしろそうだよねえ、どんな話が飛び出すか、興味津々である。
 今日の写真は、公演チラシのジャン・ロンドー。インタビューのときに写真を撮り、いまの彼の風貌をお見せします(笑)。



 もう1枚は、今日の使用楽器。これも彼にじっくり聞いてきますね。




 
 
| クラシックを愛す | 22:51 | - | -
伊藤恵
「よく最後の晩餐に何を食べたいですか、と聞かれる話はありますが、今夜のプログラムは最後に弾きたいと思う作品を演奏しました。でも、これからもまだ100年くらいはビアノを弾いていきたいため、これが最後ではありません(笑)」
 今日は、伊藤恵が銀座のヤマハホールでリサイタルを行った。
 プログラムは、前半が彼女のライフワークともいえる作曲家、シューマンの「幻想小曲集」、そして高い頂をひたすら極めていくベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番。後半は、いまもっとも魂を注ぎ込んでいるシューベルトのピアノ・ソナタ第20番。
 まさに、最後の晩餐ならではの熟成された音楽で、ひとつひとつの作品が聴き手の心の奥深く浸透し、作曲家の真意を伝えた。
 いつも伊藤恵のピアノを聴くと、私は胸がいっぱいになるというか、心の奥深いところで作品に共鳴するというか、微動だにせずに聴き込んでしまう。奏者と一体になって、その作品の内奥へと入り込んでいく感覚にとらわれるのである。
 彼女は、最後に冒頭に記したトークを行い、「リストに感謝します」といって、シューマンの「献呈(リスト編)」をアンコールとして演奏した。
 私はこの曲が大好きで、いつもこれを聴くと、ヘルマン・プライの晩年の来日公演のアンコールを思い出し、胸が痛くなる。
 終演後、楽屋にあいさつに行き、伊藤恵の写真を撮ったのだが、照明の関係で、うまく撮れなかった。
 今日の彼女は、早春らしい、非常にさわやかな若草色のドレスを着ていたのに、それを紹介できなくて残念…。
 帰路に着く間、ずっと私の頭のなかでは、シューベルトのソナタの第4楽章が鳴っていて、いまでも口ずさんでいるほどだ。やはりシューベルトは「歌曲の王」と呼ばれるだけあって、主題がとてもメロディアスだ。
 
| クラシックを愛す | 23:45 | - | -
アンドラーシュ・シフ
 コンサートが終わると、聴衆の鳴りやまぬ拍手に応えてアンコールが演奏される。その演奏会が聴き手の心に深い感動を与えた場合、音楽家は何度もステージに呼び戻され、アンコールも次々に演奏される。
 しかし、アンドラーシュ・シフほど、本来のプログラムからアンコールまで、一気に演奏するピアニストはいないのではないだろうか。
 昨夜は、東京オペラシティ コンサートホールでシフの「The Last Sonatas」と題されたピアノ・リサイタルが行われた。これはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの「最後から2番目のソナタ」(3月21日)と「最後のソナタ」(3月23日)を演奏するプログラムで、昨夜は4人の作曲家の「最後から2番目のソナタ」が演奏された。
 まず、モーツァルトのピアノ・ソナタ第17(16)番変ロ長調K.570、次いでベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110が演奏され、ハイドンのピアノ・ソナタ ニ長調Hob.XVI:51、シューベルトのピアノ・ソナタ第20番イ長調D959が続いて演奏された。
 そのプログラムの徹底したこだわりもシフらしいが、演奏スタイルがまた個性的。なにしろ、4曲のソナタを休憩なしに演奏し、しかもひとつの作品が終わっても舞台袖に戻らず、ほとんど弾きっぱなしの状態。
 さらにアンコールは5曲も登場したのである。
 シューベルトの「3つの小品D946-2」、バッハの「イタリア協奏曲」は第1楽章を弾き、再度第2楽章と第3楽章が演奏された。そしてベートーヴェンの「6つのバガテルより作品126-4」、モーツァルトのピアノ・ソナタK545の第1楽章と続き、さらにシューベルトの「楽興の時より」第3番が披露された。
 もう会場はやんやの拍手で、帰る人はほとんどいない。時間を見ると、9時20分を回っている。シフは午後7時からほとんど休憩なしに2時間20分以上もずっと弾き続けていたのである。
 このプログラムはヨーロッパでも実践しており、ベーゼンドルファーのVC280というピアノを使用している。このピアノはシフのいかなる要求にも応えることができ、弱音の美しさと繊細さ、深々とした音色、そしてダイナミックでドラマティックな要素も含まれているようだ。
 昨日は、各々のソナタの内容に合わせ、響きとダイナミズム、繊細さと奥深さなどを自由自在にピアノから引き出し、全体としては、豊かで自然でうたうような音色を響かせた。
 シフの演奏を聴くと、いつも思うことがある。それは「脱力の極み」「自然体の奏法」「やわらかなタッチ」「絶妙のぺダリング」である。
 モーツァルトはかろやかに天空に飛翔していくように、ベートーヴェンは大規模なフーガでドラマを編み出し、ハイドンは多彩な世界で音遊びをしているように、シューベルトは晴朗さの奥に無念と闇を潜ませるなど、さまざまな作風を自由闊達に紡ぎ出し、それぞれの作曲家の晩年の様相を抑制された響きで表現した。
 なんとナチュラルな響きだろうか。完全に脱力ができているため、からだのどこにも余分な力が入っていない。それゆえ、紡ぎ出される音楽は、ごく自然に語るように、うたうように、感情を素直に吐露するように聴こえる。
 シフは最後にピアノのふたを閉め、「アンコールはこれでおしまい」と合図し、聴衆はようやく異次元の世界から現実の世界へと引き戻された。
 以前、シフにインタビューをしたとき、静かな語り口なのにユーモアたっぷりで、話が止まらなくなったことを思い出した。まさに演奏と同様である。
 今日の公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定である。
 写真は、プログラムの一部。

| クラシックを愛す | 00:05 | - | -
辻井伸行in大阪
 連載を続けている「家庭画報」の記事のため、18日に辻井伸行のザ・シンフォニーホールのリサイタルを聴きに行った。
 このホールは初めて訪れたが、ステージが割に低く、親密的な雰囲気を醸し出していた。
 この日は土曜日で14時開演だったためか、満席の状態。辻井さんのコンサートはほとんどがソールドアウトだが、ここでは補助席がズラリと出ていた。
 プログラムは1月にサントリーホールで聴いたものと同様で、前半がJ.S.バッハの「イタリア協奏曲」、モーツァルトのピアノ・ソナタ第17番、後半がベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番「月光」と第23番「熱情」。
 これらの作品は2月のヨーロッパ公演でも演奏されたためか、より熟成された演奏となり、自信に満ちあふれたものとなっていた。
 終演後、ホテルに移動し、次号の雑誌用のインタビューを行った。
 辻井さんは、いつ会っても、どんな質問に対しても、元気に語ってくれる。このときも、あちこちに話題が飛び火し、爆笑になってしまった話もあり、演奏後にもかかわらず、雄弁に話してくれた。
 これを踏まえて、「家庭画報」の編集担当のSさんと、次号の内容を練った。
 今日の写真は、インタビュー後の辻井さん。話している最中はにこやかだったが、「ブログ用の写真、いいですか?」と聞いたら、急に真顔になってしまった。
 私はインタビュアーなので、その最中にはなかなか写真を撮ることはできない。ここが難しいところだ。
 本当は、アーティストはしゃべっているときの表情が一番いいんだけどね。


| クラシックを愛す | 23:32 | - | -
クラシック音楽との出会いによる未来創造事業
 3月4日に別府のしいきアルゲリッチハウスで行われる「クラシック音楽との出会いによる未来創造事業」の私の講演は、「ピアノと室内楽の楽しみ」がテーマ。
 いま、主催の別府アルゲリッチ音楽祭実行委員会の担当者とさまざまな打ち合わせを行い、講演内容と使用音源の確認をしているところである。
 今日は、数多くのピアノと室内楽のDVD、CDをチェックし、どれを使用したらいいか決めることにかなりの時間を有した。
 なにしろ、紹介したい音源は山ほどあり、それらを並べてチェックしていくのは大変な作業である。
 しかし、講演の時間は限られているため、そう多くのDVDやCDは使えない。加えて、1曲通して聴くと時間が長くなってしまうため、ほんのさわりだけかけて、音量を絞ってもらうしかない。
 しいきアルゲリッチハウスは、とても音響のいいホールである。こういう場所で音源をかけると、ナマの演奏でなくてもすばらしい音が響くに違いない。
 ようやく、6種類のDVDとCDが決まった。
 明日はこれらを担当者に送り、事前に下調べをしてもらうことになっている。
 私の方は、講演の内容を再度検討し、万全を期さなくては…。
 そうこうしているうちに、27日(月)のNHKラジオ「ごごラジ!」のナマ放送の最終台本が送られてきた。これも、もう一度話す内容を検討しておかなくちゃ。
 世の中は、プレミアムフライデーなのに、フリーの仕事というのはそうもいかない。いつになったら、私もプレミアムフライデーの仲間入りができるのかな。
 
| クラシックを愛す | 23:11 | - | -
キット・アームストロング
 ピアニストがリサイタルのプログラムを組むとき、あまり演奏されない作品を選ぶのには、かなりの勇気を要する。
 聴衆がそれらの作品になじみがないため、会場の雰囲気が盛り上がらなくなったり、退屈な顔をしたり、ときには眠ってしまう人が増えたり…。
 しかし、個性派の若きピアニスト、キット・アームストロングは自身の好きなバッハ以前の古い時代の音楽を積極的にプログラムに取り上げる。
 1月23日に浜離宮朝日ホールで行ったリサイタルでは、イギリス・ルネサンスを代表する作曲家、ウィリアム・バード(1540頃〜1623)の「プレリュード」、「パヴァーヌ」、「ガイヤルド」から幕開け。
 次いで「ファンシー」が取り上げられ、あたかもヴァージナル(主として16世紀にイギリスで流行したチェンバロの一種)を聴くような雰囲気を醸し出した。
 私はチェンバロを演奏していたためか、この時代の音楽がとても好きである。キットが完璧なる技巧とバードの書法を深く理解した奏法、舞曲のリズムを美しく表現する術にいたく感銘を受けた。
 プログラムは、モーツァルトの幻想曲K.394、ピアノ・ソナタ第17番と続き、かろやかでコロコロと転がる真珠の粒のような音が、天空に舞っていった。
 キットの演奏は、けっして派手ではない。しかし、そのピアノは深い思考に根差したもので、作品の内奥にひたすら肉薄し、楽譜に忠実ながらピアノ好きをうならせる造詣の深さが存在する。
 後半はリストのピアノ・ソナタ ロ短調が「巡礼の年」第3年より「エステ荘の噴水」が演奏された。
 ロ短調ソナタでも、大袈裟なことは何もない。生涯ピアノを愛したリストの伝統と革新、新たなソナタの様式、単一楽章で成し得る最高の表現を楽譜から読み取り、緻密で繊細で内的な情熱を遺憾なく発揮した。
 最後の「エステ荘の噴水」は、キットの美しい弱音が存分に堪能できる演奏となった。
 本当にすばらしい才能だ。もっともっと多くの人に聴いてほしい逸材である。
 欲をいわせてもらえば、バードをより多く聴きたかった。次回もまた、アーリー・ミュージックが登場するだろうか。
 今日の写真は、プログラムの表紙。


| クラシックを愛す | 23:39 | - | -
カルロ・マリア・ジュリーニ
 そのアーティストの音楽性にも人間性にも強く惹かれ、ぜひ実際に会って話を聞きたいと願ったが、どうしてもインタビューの機会がもてなかったという人が何人かいる。
 機会あるごとにインタビューの希望を出していたのだがかなわず、残念ながら亡くなってしまったという人である。
 イタリアの名指揮者、カルロ・マリア・ジュリーニはその筆頭だ。
 ジュリーニの音楽に命を捧げているような真摯、純粋、高貴、謙虚、高潔な音楽作りは、聴くたびに心打たれ、ぜひ一度会いたいと思った。
 しかし、ジュリーニはある時期から病気の夫人のそばを離れたくないという気持ちから、あまり海外での演奏を行わなくなった。
 日本でも聴く機会がなくなり、私はあるイタリア在住の知人に、マエストロの自宅にいって話を聞くというチャンスをもらえるかもしれないといわれたが、結局それもかなわなかった。
 ジュリーニは1998年に引退を表明し、2005年に91歳で亡くなっている。
 本当に、かえすがえすも残念である。一度も会うことができなかったからである。
 いまとなっては、残された録音を繰り返し聴くしかない。
 そんなジュリーニの壮年期、1971年にシカゴ交響楽団と録音したベートーヴェンの交響曲第7番がリマスター音源、SACDハイブリットとして蘇った(ワーナー 12月21日発売)。
 ジュリーニは1969年から73年にかけてシカゴ交響楽団の首席客演指揮者を務めている。当時、56歳。躍動感と生き生きとした新鮮な空気をただよわせ、シカゴ響を自由にうたわせ、ベートーヴェンの魂に寄り添うような演奏を聴かせている。
 私はベートーヴェンのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲における緩徐楽章(第2楽章)の、えもいわれぬロマンあふれる抒情的な曲想に心が奪われているのだが、この緩徐楽章もみずみずしい演奏で、こよなく美しい。
 これは初演時に拍手が鳴りやまず、アンコールで演奏されたといわれる楽章。ワーグナーが「不滅のアレグレット」「舞踏の聖化」と評したように、ベートーヴェンのロマンティシズムがあふれた傑作である。
 ジュリーニの音楽は、いまなお私の胸に熱き感動を呼び起こしてくれる。こういう指揮者はなかなかいない。
 今日の写真は、CDのジャケット。若きジュリーニの雄姿である。


 
 
| クラシックを愛す | 22:20 | - | -
マレイ・ペライア
 今日は午後、TOKYO FMで番組の収録があり、2時間半ほどマイクに向かった。
 この内容は、アーティストの情報が解禁になってから、ゆっくり綴りたいと思う。
 それが終了してから、夜はサントリーホールでマレイ・ペライアのリサイタルを聴いた。
 ペライアは、私が長年こよなく愛しているピアニスト。いつも聴くたびに深い感動を覚える。
 プログラムは、前半がハイドンの「アンダンテと変奏曲 ヘ短調Hob.XV:6」からスタート。次いでモーツァルトのピアノ・ソナタ第8番イ短調K.310へと進み、ブラームスの「6つの小品」より第3番バラードや「幻想曲集」より第1番幻想曲など5曲が演奏された。
 とりわけハイドンが印象深く、ペライアの現在の心身の充実が見てとれる内容。作品が内包する素朴さ、堅実さ、緻密さ、構造の豊かさが前面に押し出され、聴きごたえ十分なハイドンとなった。
 モーツァルトのこの有名なソナタも、実に味わい深く、特に第1楽章の全編を支配する主題の表現が印象に残った。
 私は今夜、ペライアのブラームスに期待していた。彼のしみじみとした滋味あふれるブラームスを聴きたかったからである。
 しかし、ペライアのブラームスは、枯淡の域を脱し、ほの暗さや北国特有の冷涼な空気を漂わせるブラームスではなく、抒情的でありながら情熱とロマンと明快さを感じさせる演奏だった。
 彼は指のケガが癒えたころから、タッチが強く鋭く重くなった。だからこそ、ブラームスは力強さを増したのかもしれない。このブラームスは、ペライアの新たな側面を表しているように思えて、新鮮な驚きを覚えた。
 もっとも今夜の白眉は、後半に演奏されたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」Op.106である。
 このソナタを論じ始めると、時間がいくらあっても足りない。今日の公演評は次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定にしている。そこでじっくり綴りたいと思っている。
 ペライアは、DGに移籍し、バッハの「フランス組曲」をリリースした。この録音は、もうレコードでいえば「擦り切れる」ほど聴いている。
 ニュアンス豊かな、歌心あふれる、ごく自然なバッハ。これぞ、ペライアという新録音である。
 実は、今日サントリーホールで友人のKさんにばったり出会い、ひさしぶりだったため、コンサート終了後に食事をご一緒し、しばらくおしゃべりに興じた。
 近況報告と情報交換を行い、家の近くまで一緒に帰り、すぐまた会おうということを約束して別れた。
 いろんな人に会い、いろんなことを行った日で、本当に長い一日となった。

| クラシックを愛す | 23:56 | - | -
ナクソス島のアリアドネ
 リヒャルト・シュトラウスの音楽は、なんと官能的で、情感豊かで、心が高揚するのだろうか。
 昨日は、ウィーン国立歌劇場日本公演2016のR.シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」を聴きに東京文化会館に出かけた。
 今回は「ナクソス島のアリアドネ」のウィーン初演から100年の記念公演にあたる。これは「プロローグ」と「オペラ」という構成で、序幕の部分は18世紀のウィーンの富豪の館が舞台となり、続くオペラの部分はナクソス島に舞台が移る。
 ウィーン国立歌劇場が得意とする演目だけに、今回も歌手陣が非常に充実。コロラトゥーラの第一人者、ダニエラ・ファリーがツェルビネッタを演じ、長大なアリア「偉大なる王女さま」で超絶技巧をたっぷりと披露した。作曲家はのびやかで声量のあるメゾ・ソプラノ、ステファニー・ハウツィールがうたい、アリアドネはR.シュトラウス作品を得意とするソプラノ、グン=プリット・バークミンが陰影に満ちた表情豊かな歌声を聴かせ、バッカスはこの役をうたい込んでいるテノール、ステファン・グールドが担当した。
 なんといっても、ウィーン国立歌劇場管弦楽団(ウィーン・フィル)の演奏がすばらしい。彼らは年間300回を越すオペラやバレエを演奏しているため、歌手の呼吸をよく心得ている。お互いに寄り添い、共鳴し合い、曲のすみずみまで比類なき美しさで表現していく。
 指揮はマレク・ヤノフスキ。ウィーン国立歌劇場では「サロメ」と「ばらの騎士」を演奏しているから、すでにR.シュトラウスの解釈、表現、奏法に関してはオーケストラとの息もピッタリだ。
「プロローグ」が約40分、「オペラ」の部分が約80分。その間に30分の休憩があったが、終演後は、R.シュトラウスの世界から容易に抜け出せない状況に陥った。
 この上なく官能的で、美的で、心の奥にしっとりと響いてくる音楽は、いわゆる大人の世界。日常から離脱し、異次元の世界へと運ばれたひとときとなった。
 この日は初日で、「ナクソス島のアリアドネ」は28日、30日と組まれ、その後はワーグナーの「ワルキューレ」が11月6、9、12日(アダムフィッシャー指揮、東京文化会館)、モーツァルトの「フィガロの結婚」が11月10、13、15日(リッカルド・ムーティ指揮、神奈川県民ホール)と続く。
 今日の写真は、「ナクソス島のアリアドネ」のさまざまなシーン。舞台美術はとてもスタイリッシュ、衣裳は役によって幻想的、キュート、深遠、メルヘンチック、威風堂々と分けられ、キャラクターをリアルに表現していた。
 実は、オーケストラピットに10月初頭ウィーンでインタビューしたばかりのコンサートマスター、フォルクハルト・シュトイデの姿があったが、オケピットまで距離があったため、インタビューのお礼をいうことができなかった。残念…。
「今回のウィーン・フィルの日本公演には参加できなかったけど、もうすぐ歌劇場の公演で日本に行くよ」といっていたのを思い出した。
「オーケストラの響き、すばらしかったですよ、シュトイデさん」

Photo: Kiyonori Hasegawa






 

| クラシックを愛す | 16:53 | - | -
レ・ヴァン・フランセ
 フランスの風を意味する木管アンサンブル、レ・ヴァン・フランセは、聴くたびに新たな発見を促すグループである。
 フルートのエマニュエル・パユ、オーボエのフランソワ・ルルー、クラリネットのポール・メイエ、ホルンのラドヴァン・ヴラトコヴィチ、バソンのジルベール・オダン、そしてピアノのエリック・ル・サージュは、いずれ劣らぬ名手ぞろい。
 今日は、東京オペラシティコンサートホールでコンサートがあり、プログラムはレ・ヴァン・フランセの委嘱によって書かれたジャン・ド・パーク(1948〜)の「復活祭の歌」からスタートした。
 これは2016年8月3日にメイエ、パユ、ル・サージュらの主宰によるサロン・ド・プロヴァンス音楽祭で初演されている。J.S.バッハのカンタータで用いられたルター作による復活祭のコラール「キリストは死の縄目につながれたり」を主題とした変奏曲形式の作品である。
 次いでベートーヴェンの「ピアノと管楽のための五重奏曲」作品16が密度濃いアンサンブルで奏され、しかも各楽器の特質が存分に披露された。とりわけ、ホルンの底力が光った。
 後半は、アルベリク・マニャールの「五重奏曲」作品8が演奏されたが、これはナマで聴く機会に恵まれない珍しい作品。自在な転調と陰影の妙が楽しめる作品で、オーボエがエキゾチックな味わいを醸し出していた。
 最後はプーランクの「六重奏曲」。全員が水を得た魚のように自然で快活で流麗な響きを聴かせ、プーランクの複雑な内面を描き出すように、内省的かつ情感豊かな音楽を聴かせた。
 アンコールは、テュイレの「六重奏曲」より「ガヴォット」。いま、木管楽器は中高生の部活で大人気。今日も楽器を演奏しているであろう若い女性ファンがたくさん会場につめかけ、CDのサイン会は長蛇の列。すごい人気だった。
 実は、レ・ヴァン・フランセの新譜、ベートーヴェンの「管楽器とピアノのための作品集」(ワーナー)と、11月にリリースされるパユのC.P.E.バッハの「フルート協奏曲集」のライナーノーツを担当したのだが、5月にパユが来日したときにこの2つの新譜についてインタビューを行った。
 そのときの様子はブログにも綴ったが、実はおかしな(?)話がある。
 パユは、私の「クラシックはおいしい アーティスト・レシピ」の本に登場しており、以前、彼にレシピを説明し、そのページにサインをもらったことがある。そのときに他のアーティストのレシピを教えてくれというので、いろいろ説明していたところ、こんなことをいい出した。
「ねえ、きみ、ぼくたちが毎夏サロン・ド・プロヴァンス音楽祭を開催しているのは知っているよね。実は、あそこでは食事に苦労していて、南仏だからってみんな期待して参加してくれるんだけど、食事には結構困っている。だから提案なんだけど、きみ、和洋中なんでも作れるんでしょ。一度、シェフとして1週間くらい来てくれないかなあ。10人から15人くらいアーティストがいるけど、朝昼晩と3食作ってほしい。もちろんギャラはちゃんと払うからさ」
「エーッ、冗談でしょう。私、プロのシェフでも料理研究家でもないから無理よ。ただ好きでお料理しているだけなんだから」
「それでいいんだよ。みんな和食の大ファンだし、きみがふだん食べている物を作ってくれれば、それでいいから」
「いやいや、そんな。大人数の3食分なんて、ひとりじゃとてもできないわよ」
「じゃ、助手を連れてくれば。食材は近くにスーパーがあるから大丈夫だよ」
「そんな簡単にはいかないわよ。ごはんを炊くだけで大変じゃない。調味料だって、かついでいかなくちゃならないし。絶対、無理」
「やっぱりダメか。いい考えだと思ったんだけどなあ」
 かなり本気の表情をしていたパユは、ようやくあきらめてくれた。
 だが、家に帰ってから、好奇心旺盛な私は、この提案は貴重なものだと思い直した。
 すべての条件がクリアすれば、すごく面白い体験となる。毎日のレシピを記録し、みんなの感想をエッセイ風に綴り、そこに音楽祭の様子を書き加え、1冊の本が書けるかもしれない。なあんて、妄想がふくらみ始めたのである。
「サロン・ド・プロヴァンス音楽祭 1週間の“迷”シェフ物語」などというタイトルまで浮かんできた(笑)。
 今日は、ステージのパユを眺めながら、また妄想の世界へと入り込んでしまった。
 今日の写真は、レ・ヴァン・フランセのメンバー(プログラムより)


 
 
 
| クラシックを愛す | 23:31 | - | -
ユジャ・ワン
 今日は、サントリーホールにユジャ・ワンのリサイタルを聴きにいった。
 プログラムは事前に発表されていたものから大幅に変更され、前半は、シューマンの「クライスレリアーナ」からスタート。カプースチンの変奏曲作品41へと進み、ショパンのバラード第1番が演奏された。
 後半は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」。いずれも、ユジャ・ワンならではの超絶技巧をものともしない圧巻のテクニックと、ピアノを存分に鳴らし、語らせ、うたう奏法だったが、やはり「ハンマークラヴィーア」がこの夜の白眉だった。
 ところが、リサイタルはこれでは終わらなかった。
 彼女は鳴りやまない拍手に応えて、シューベルトの「糸を紡ぐグレートヒェン」、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番より「トッカータ」、ビゼー(ホロヴィッツ編)の「カルメン」の主題による変奏曲、モーツァルトの「トルコ行進曲」(ヴォロドス、サイ編)、カプースチンのトッカティーナ、ラフマニノフの「悲歌」、グルック(ズガンバーティ編)の「メロディ」と次々にアンコールを演奏。聴衆はやんやの喝采になるから、彼女もやめられない。
 この公演評は「モーストリー・クラシック」に書く予定だが、まさに「ユジャ・ワン劇場」のような趣を呈した。
 彼女はエンターテイナーである。すごいよねえ、アンコールだけでひとつのプログラムのような雰囲気なんだから。
 こういう人は疲れを知らない。聴き手も拍手で盛り上げ、エネルギーをもらい、そしてストレスを発散する。
 いやはや、すごい一夜でした。
 今日の写真は、リサイタルのチラシ。彼女はインタビューでも結構派手な服装をして現れるが、今日のドレスも金のスパンコールがきらきらした、からだにピッタリとフィットした黄金色のドレスだった。

| クラシックを愛す | 23:46 | - | -
オペラ入門の取材
 今日は、女性誌のエディターによる私へのインタビューが行われた。
 タイトルはオペラ入門で、その雑誌の読者がオペラを楽しむためにはいかにしたらいいか、という内容の質問がいくつか出された。
 事前に質問状が送られてきていたので、いろんな角度から答えを用意し、インタビューに応じたわけだが、編集・ライターのYさんと話しながらちょっとした雑談などを交え、さまざまな話をした。
 私がフリーとして独立したころは、一種のオペラブームで、世の中の景気がよかったためか海外のオペラハウスの引っ越し公演が相次ぎ、ずいぶんオペラ入門の記事を書いたものである。
 海外のオペラハウスなどにも取材に出かけ、指揮者や歌手や演出家、また総監督や劇場支配人などにインタビューを行い、特集記事も手がけた。
 しかし、時代は変わり、現在は海外のオペラハウスの来日公演の前に現地に取材にいくというスタイルはなくなった。
 今日の記事は、リニューアル・オープンした日生劇場のNISSEI OPERAの関連ページで、Yさんが私の話をもとに記事を作成してくれる。
 彼女と話をしながら、オペラの記事を数多く書いていたころのことを思い出した。
 思えば、「Hanako」の連載を書いていた10数年間に、どれほどオペラを取り上げただろうか。他にも女性誌やカード誌、新聞など、オペラの記事をずいぶん依頼されたものだった。
 その多くが「オペラを楽しむためには」「何を着ていけばいいか」「どんなことを予習していったらいいか」「どんな作品を選んだらいいか」「敷居が高そうだけど、何か注意することは」「何を基準に選んだらいいか」「演奏者を選ぶ基準は」「作曲家によってどう作品が違うのか」「まずどこから入ったらいいか」という、基本的な内容だった。
 あれからずいぶん時間が経ったけど、オペラは本当に浸透したのだろうか。
 まず、聴いてみる。劇場に足を運んでみる。これが大切なんだけど、その第一歩を踏み出すのが大変なようだ。
 今日のインタビューでも、そのことを力説した。オペラはPAを使わず、ナマの声で勝負する世界。オーケストラの序曲からフィナーレまで、別世界へと運ばれる。そんな至福の時間、なかなかあるものではない。
 Yさん、楽しい記事を期待していますよ〜。
 
| クラシックを愛す | 22:20 | - | -
アレクサンダー・ガヴリリュク
 アレクサンダー・ガヴリリュクの演奏は、ぐんぐん若芽が空に向かって伸びていくような爽快感と躍動感を感じさせる。
 2000年、16歳のときに浜松国際ピアノコンクールで優勝したときは、まだ少年のような表情をしていたが、いまやがっしりした体格の、エネルギーのかたまりのような、ロシアの大地を思わせる風貌の持ち主となった。
 今日はヤマハホールでリサイタルがあり、シューベルトのピアノ・ソナタ第13番、ショパンの幻想曲、夜想曲第8番、ポロネーズ第6番「英雄」が前半に演奏された。弱音の美しさと、柔軟性を備えた幅広い音色が特徴で、とりわけシューベルトが歌謡的な美しい音色を響かせた。
 後半はロシア・プログラム。プロコフィエフのピアノ・ソナタ第3番、ラフマニノフの練習曲集「音の絵」より第1、2、5、7、9番と続け、最後はバラキレフの東洋風幻想曲「イスラメイ」で、圧倒的なテクニック、深い表現力に満ちたダイナミックなピアニズムを披露した。 
「イスラメイ」が終わると嵐のような喝采が巻き起こり、アンコールを5曲もプレゼント。
 シューマンの「子供の情景」より「見知らぬ国の人々について」、フィリペンコの「トッカータ」、シューマンの「トロイメライ」、メンデルスゾーン=リスト=ホロヴィッツの「結婚行進曲と変奏曲」、ラフマニノフの「楽興の時」より第3番と、情感の豊かさを表す曲と超絶技巧を発揮する曲を交互に配置し、プログラムの妙を示した。
 このリサイタルの公演評は、「公明新聞」の8月発売の号に書く予定になっている。
 今日の写真は、プログラム掲載のもの。1984年生まれだから、すでに30歳を超えたことになる。若芽が伸びていくような、という表現はもう古いかな。実力派としての評価が高いわけだから、地にがっしりと足を着けた、という言い方に変えようかな。それにしても、貫禄ついたよねえ(笑)。


 
| クラシックを愛す | 23:38 | - | -
前橋汀子
 ひとつのコンサート・シリーズを長年続けるのは、さまざまな意味で大変である。
 前橋汀子は、「珠玉の名曲にひたる ひと時」という「アフタヌーン・コンサート」と題したシリーズを12年間続けている。
 今日は、サントリーホールで14時からその12回目のリサイタルが行われ、J.S.バッハの「G線上のアリア」からスタート。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」、バッハの「シャコンヌ」が前半のプログラム。
 後半は、クライスラーやドヴォルザーク、シューベルトなどの名旋律を聴かせ、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」でフィナーレを迎えた。
 その後、アンコールを数曲披露し、最後は「タイスの瞑想曲」ですべてのプログラムを閉じた。
 前橋汀子のこのシリーズは、リピーターの聴衆が多く、すでに来年のチケット売り出しのデスクの前は、長蛇の列となっていた。
 彼女の演奏は、ひたむきで品格にあふれ、情感豊かである。サントリーホールを満席にする力があり、男性ファンも多い。
 終演後、ピアノを担当した松本和将、関係者とともに食事会が行われ、私も招待されたため、おいしい中華料理を囲んで団らんのときをもった。
 8人で丸テーブルを囲んで音楽談義に花を咲かせ、前橋汀子もコンサート終了後のホッとした表情を浮かべていた。
 7月10日にはザ・シンフォニーホールで同様のリサイタルが開かれるが、後半の曲目は少し変わる。
 彼女はその後もリサイタルと前橋汀子カルテットの演奏がびっしり入っていて、このカルテットはベートーヴェンの作品が3曲組まれている。
「移動も多いし、このカルテットの演奏は大変なのよ」
 こういいながらも、弦楽四重奏曲の演奏を楽しみにしている様子が伝わってきた。
 今日の写真は、リサイタル終了直後の安堵の表情。
 前半は、美しいグリーンのドレスが着用されたが、グリーン好きの私は、そのエレガントなドレスがバッハの「シャコンヌ」の凛とした演奏にとても合っている感じを抱いた。本当は、その写真を撮りたかったくらいだ。

| クラシックを愛す | 00:03 | - | -
ルノー・カピュソン
 ブルッフのヴァイオリン協奏曲は、ルノー・カピュソンが2015年5月にパリに新しくできたホール、フィルハーモニー・ド・パリで録音した新譜がリリースされている(ワーナー)。このライナーを担当したため、録音にはじっくり耳を傾けていたが、今日はレナード・スラットキン指揮フランス国立リヨン管弦楽団との共演により、ライヴを聴くことができた。
 ブルッフのヴァイオリン協奏曲は、カピュソンの美質が遺憾なく発揮されるコンチェルトである。技巧的なレチタティーヴォ、旋律美、重音奏法などが自然に表現され、極限まで感情を抑制しながらも作品への敬愛の念があふれ、音楽が濃密なものとなっている。
 ルノー・カピュソンは「特別な音」をもっているヴァイオリニストである。流麗で透明感のある情感豊かな美音は、即座にカピュソンの音とわかる強い個性に彩られている。
 2015年6月7日にはNHK交響楽団の定期公演に出演し、ラロの「スペイン交響曲」を演奏した。指揮は、近年注目を浴びているフランスのステファヌ・ドゥネーヴ。この作品は演奏される機会に恵まれているとはいえないが、5楽章構成の聴きごたえのある作品。スペイン色濃厚で、ハバネラやボレロのリズムが随所に顔をのぞかせ、甘美で民族色あふれる旋律が全編を覆っている。
 カピュソンは冒頭からオーケストラと完全に融合する妙技を披露し、躍動するリズム、豊かな歌心を備えた主題などを美しく自然に弾き進めた。その演奏からはスペインの歌が聴こえ、乾いた空気がただよい、聴き手を異国の地へといざなった。
 使用楽器は1737年製グァルネリ・デル・ジェス。50年間アイザック・スターンが使っていた楽器だが、すでに10年ほど使用しているため、カピュソンの音になってきたようだ。
 今日は、まさに楽器の特質を存分に生かした美しく濃密な響きを発揮、ブルッフのロマン的で情熱的な曲想をたっぷりと披露した。
 アンコールは「タイスの瞑想曲」。オーケストラをバックにこの名曲を官能的な音色でじっくりと聴かせた。
 今日のプログラムのメインは、ムソルグスキーの「展覧会の絵」。スラットキンがラヴェル編曲版に少し手を加えた版で演奏し、緊密で劇的で壮大な絵巻物のような演奏を繰り広げた。
 アンコールはオッフェンバックの「ホフマンの舟歌」と、スラットキンの「ツイスト・カンカン」。フランスのオーケストラ特有の色彩感とかろやかなリズムを遺憾なく発揮した。
 ところが、楽屋でカピュソンのにこやかな表情の写真を撮ったのに、スマホがトラブルを起こし、写真に縦線のようなものが入ってしまった。
 もう、大ショック…。明日、修理にいこうと思っているけど、機械というのは突然こういうことになるから、困る。せっかくいい写真が撮れて、ルノーも「うん、いいねえ」といってくれたのに、残念無念。
 というわけで、今日は写真はありません(涙)。
| クラシックを愛す | 23:19 | - | -
イングリット・ヘブラー
 夏になると、思い出すシーンがある。
 1990年7月、ザルツブルクでイングリット・ヘブラーと一緒にランチを食べたときのことが蘇ってくるのである。このときの様子は著書「クラシックはおいしい アーティスト・レシピ」に綴ったが、なぜか、私のなかでは夏とこのランチが結び付いている。
 もうひとつ、「ヘブラーと夏」で思い出すのは、1994年6月に東京で聴いたリサイタル。そのときの演奏会の様子を「ショパン」に書いたのだが、今日はそれを振り返ってみたいと思う(1994年8月号)。

強さと信念のモーツァルト

 ヘブラーのモーツァルトを聴くと、目の前にザルツブルクの風景が浮かんでくる、と以前なにかに書いたことがあるが、今回もやはり最初からこの感覚がおそってきて思いを新たにした。私が聴いた6月8日東京芸術劇場のプログラムは、ピアノ・ソナタ ヘ長調K.332からスタート。これは有名な「トルコ行進曲」の陰に隠れた作品といわれているものの、モーツァルト好きには聴き逃せない味わい深いソナタである。
 ヘブラーはそんな地味でありながらも含蓄の深い旋律を淡々と、しかも気品をもって弾き始めた。第1楽章の明るく素朴な主題はまるでザルツブルクの澄んだ夏空のように、また、緩徐楽章のこまやかな装飾音は真珠の粒がころがるように、そして奔放なフィナーレはザルヅァッハ川の滔々とした流れのように…。
 まだ会場が十分に温まっていないためか、ヘブラーのピアノは鳴りが悪いように聴こえたむきもあるようだが、けっして派手ではない、こうしたモーツァルトの内面を吐露するような作品から始めたところに、私は現在のヘブラーの心境を垣間見る思いがした。
「モーツァルトは、私の心に一番近い」と語るヘブラーは、モーツァルトの街ザルツブルクに住み、モーツァルトと同じ空気を吸い、モーツァルトを肌で感じて生きている。多彩なレパートリーを誇るピアニストが多いなか、ヘブラーはあくまでもモーツァルトにこだわり、モーツァルトをライフワークとし、モーツァルトに生命を賭けている。
 そんなピアニストが弾くモーツァルトが、人の心を打たないわけがない。ヘブラーはとても優雅で真摯で心温まる会話をしてくれる人だが、一本芯の通った強さも感じさせる。その強さはモーツァルトに賭ける信念のようなもので、それがそのまま音楽に現れている。
 ヘブラーは後半に幻想曲K.475とソナタK.457を演奏した。前半より乗って感じられたのは、作品のもつ劇的な要素ばかりではないだろう。彼女は、憂いと不安な表情を見せる旋律では、あたかも泣いているようなうたいまわしを見せ、情熱に駆られるアレグロでは毅然と立ち直って強く前進するような気丈な音楽を聴かせた。
 ああ、こういう微妙な喜怒哀楽の表情こそ、モーツァルトに欠かせないものなのだ。
 そんな感慨に浸っているところに、アンコールのショパンのノクターン第20番が飛び込んできた。いやあ、これは聴き手の気分をまるごと変えてしまうような意表を突く選曲で、ヘブラーの業師ぶりにビックリさせられましたね。ひたすら内省的な響きで勝負するのですから…。
 ただし、こういう曲はもう少し規模の小さなホールでじっくり聴きたいと思ったのは、ぜいたくというものだろうか。
 今回、ヘブラーのピアノから、ひとつのことを長く続けることの大切さを学んだような気がした。ヘブラーは今年デビュー40周年を迎える。みずみずしいモーツァルトを弾いてデビューした彼女は、いま余分なぜい肉をそぎ落したシンプルで清らかなモーツァルトに到達した。ここまでたどりつくのに40年という年月を要したわけだ。
 さて、今後はどんなモーツァルトを聴かせてくれるだろうか。再びあの美しい風景に出合えることを楽しみにしている。

 今日の写真は、その雑誌の一部。ヘブラーはこの6月20日に90歳のお誕生日を迎えた。もう来日公演は無理だろうか。もしも可能なら、またザルツブルクでランチをご一緒したいと密かな願いを抱いている。




| クラシックを愛す | 22:46 | - | -
フジコ・ヘミング
 昨日は、夕方から「たどりつく力 フジコ・ヘミング」(幻冬舎)の本で仕事に携わった人たち8人が集まり、錦糸町で中華料理をいただいた。
 その後、すみだトリフォニーホールに移り、全員でフジコ・ヘミングのリサイタルを聴いた。
 フジコさんは長い日本ツアーで疲れが出たのだろうか、ステージに登場するときに右足を引きずっていた。
 演奏は、いつもながらのピュアでおだやかでゆったりと心に響いてくるもの。
 今回、仕事仲間の人たちは初めてナマの演奏を聴くという人が多く、みんな「心が癒される」「こんなピアノは聴いたことがない」「ストレスや悩みがスーッと消えていく」「気持ちが浄化する」「まるで乙女の音楽のよう」と口々に語っていた。
 終演後、楽屋に顔を出し、フジコさんに今回の本のお礼をいうと、すぐに足のことを話し出した。
 ただし、人がたくさん詰めかけてきたため、個人的な話をすることができず、「またFAXするわね」といったら、わかったという表情でうなずいていた。
 その後、仕事仲間3人で飲み直し、帰宅は深夜。
 いろんな人に会い、さまざまな話をし、長時間にわたったため、かなり疲れたが、心はフジコさんの音楽で満たされていた。
 足の状態が心配なので、今日の夜にでもFAXを送りたいと思う。伝えたいこともたくさんあるし…。
 そんなこんなで、楽屋は大混雑のため、写真を撮ることができなかった。
 仕事仲間のひとりがいった。
「フジコさんって、すごくかわいい」
 人間はいつまでもかわいさを失いたくないものだと、このことばを聞いて思った。

 
| クラシックを愛す | 11:20 | - | -
辻井伸行
 6月7日から19日まで、辻井伸行とオルフェウス室内管弦楽団の全国ツアー(10公演)が行われている。
 今回はオール・ベートーヴェン・プログラムで、AからDまで4つのプログラムが組まれている。
 今日は、「プロメテウスの創造物」序曲からスタートし、ピアノ協奏曲第3番のソリストに辻井伸行が登場。後半は交響曲第7番が演奏された。
 今回のオルフェウスとの共演では、辻井はピアノ協奏曲第3番と第5番「皇帝」をプログラムに載せている。
 私は「皇帝」はこれまでの演奏で聴いたことがあるため、今回は第3番の方を選んだ。
 第3番は、ベートーヴェンの青年期を代表するコンチェルトで、ベートーヴェンのピアノ協奏曲のなかで唯一短調で書かれ、しかも交響曲第5番と同じハ短調が用いられている。
 それゆえ、デモーニッシュな面と、雄渾でたくましい響きと、華麗さと抒情性と幻想性など、多彩な表情に彩られている。
 辻井伸行は、第1楽章からオルフェウスをリードするような姿勢を見せ、ぐんぐんテンポを上げていく。カデンツァでは生き生きとしたリズムを前面に押し出し、歯切れよいテンポで弾き進めていく。
 最後は、一気にオーケストラとともに爽快なクライマックスを築き上げた。
 終演後、楽屋を訪れたら、汗びっしょり。髪がちょっと短くなったためか、髪もいまのエネルギーを表すように爆発していた(笑)。
 いま、私は10月末から11月にかけてヨーロッパ室内管弦楽団と辻井伸行の共演によるモーツァルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」の原稿を書いている。
 そこで、辻井さんに「戴冠式」についてひとことコメントをもらうと…。
「この曲、大好きなんですよ。ヨーロッパ室内管弦楽団と共演できるのは、すっごく楽しみ。特に第2楽章が印象的なんですよねえ」といっていた。
 今日の写真は、汗がほとばしる終演後のNobuくん。いつも元気です!


 
 
| クラシックを愛す | 23:22 | - | -
クラウス・フロリアン・フォークト
 約70分、幻想的で内的エネルギーに満ちた想像性に富む歌声を全身にまとい、別世界で浮遊していた。
 なんという幸せな時間だろうか。
 こういう瞬間を「至福のとき」と表現するのだろう。
 今日は、東京文化会館小ホールに、クラウス・フロリアン・フォークトのうたうシューベルトの「美しき水車屋の娘」を聴きにいった。
 彼は新国立劇場で「ローエングリン」をうたっていたが、今日はリートである。しかも、小ホールというぜいたくな空間でのリート・リサイタル。
 すぐそばでフォークトがうたっていると、臨場感あふれ、こまやかな息遣いまで聴こえ、ともに呼吸をしているような感覚に陥る。
 いつもはオペラの舞台衣裳を身に付けているためわかりにくいが、ノーネクタイの白いシャツに光沢のある上着をはおっている服装だと、分厚い胸から繰り出す呼吸がリアルに伝わってくる。
 先日、オーボエのモーリス・ブルグと若尾圭介のインタビューにおいて、「音楽家に大切なのは呼吸法」という話で盛り上がったが、まさに歌手はこれに尽きる。
 フォークトのブレスは、からだが微動だにしない。完璧なる呼吸法がなされていて、どんなに強いパッセージや長い旋律をうたうときも、ブレスはいつ行っているのだろうと思うほど自然である。
 しかも、ひとり芝居のように歌詞の内容に合わせて抑制された演技を加え、豊かな声量を絶妙にコントロールし、詩と音楽の融合を図る。
 まさに、繊細で精確で完璧なるブレスが必要となる。
 シューベルトの美しい旋律が、フォークトの声にかかると立体感を帯び、創造力を喚起し、ホールの隅々まで水車屋の空気で満たされていく。
 以前の来日時にインタビューしたとき、とてもラフな格好でにこやかな笑みをたたえ、ごく自然な感じで現れたが、今日も終演後は人あたりのいい笑顔を見せた。
 オペラ歌手のうたうリートは、本当に印象深い。彼の高音は非常に強靭で輝かしく張りがあり、小ホールの空気を揺るがすほどだった。
 ピアノは息の合ったヨブスト・シュナイデラート。オペラのコレペティトールやバイロイトのマスタークラスのピアノを担当しているピアニストで、フォークトのオペラティックな歌唱にピタリと寄り添っていた。
 こういう魂が浄化するような歌声を聴いた日は、脳が活性化するためか、いつまでも眠くならない。
 テノールがうたう「美しき水車屋の娘」は、やはり最高である。曲の数々が、いつまでも頭から離れない…。
 今日の写真は、リサイタルのチラシ。やっぱり「白鳥の騎士」の風貌だよねえ(笑)。
 でも、世界的なスター歌手なのに、フォークトはとても気取らないフランクな性格で、終演後に楽屋の出口で長蛇の列となって待っているファンのひとりひとりにサインをしたり握手をしたり話をしたり…。サービス精神旺盛で、それもごく自然にこなしてしまう。それゆえ、またまたファンが増えてしまう。

| クラシックを愛す | 23:37 | - | -
ヤマハ・ガラ・コンサート
 今日は、ヤマハ・ガラ・コンサートを聴きにオーチャードホールに出かけた。
 これはヤマハ音楽振興会創立50周年記念のコンサートにあたり、ヤマハ音楽教室在籍生、同出身アーティストのさまざまなスタイルの演奏が行われた。
 共演は、大友直人指揮東京交響楽団。
 実は、私は「ショパン」の仕事をする前に、ヤマハ関係の記事を書いていた時期があり、このときに北海道から九州まで各地の音楽教室の取材を行っている。
 今日はとてもなつかしい気持ちが湧いてきて、ヤマハの音楽教室が1954年からスタートしたと知り、感慨深かった。
 すでに500万人が音楽教室から巣立ち、現在では海外でも多くの音楽教室が稼働しているという。
 9歳から13歳の音楽教室在籍生のオリジナル作品の演奏に続き、エレクトーンプレイヤーの渡辺睦樹、作曲家の大島ミチルの作品がオーケストラとともに演奏され、最後はピアニストの上原彩子の登場。
 彼女の代名詞とも呼ぶべきチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を堂々たる演奏で聴かせ、2時間半に渡るコンサートの幕を閉じた。
 終演後、レセプションがあり、アーティストや関係者と会って話をし、ようやく4時間におよぶ仕事が終わった。この記事は、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定である。
 上原彩子と会ったら、「ちょっと太っちゃって、ドレスがきつくて大変だった」と、笑っていた。
 今日のドレスは、真紅のウエストラインを絞ったデザイン。チャイコフスキーを演奏するときは、かなり前に体重をかけてガッと踏ん張るため、おなかの部分がきつかったようだ。
 この真紅のドレスは、50周年の記念イヤーを祝す意味合いが含まれているそうだ。
 彼女のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は、何度も異なる指揮者、オーケストラで聴いているが、常にパワー全開、フィナーレまで一気に聴かせる。今日も、ドレスの色と相俟って、熱く激しく燃えたぎるようなピアニズムを披露した。
 やっぱり、このコンチェルトは、彼女の名刺代わりの作品だ。
 
 
| クラシックを愛す | 23:39 | - | -
吉川隆弘
 今日は、九段にあるイタリア文化会館アニェッリホールに吉川隆弘のピアノ・リサイタルを聴きにいった。
 プログラムは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第26番「告別」からスタート。彼は2015年にイプシロン・インターナショナル株式会社を設立し、同社よりベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、第13番「幻想曲風」、第26番「告別」、第31番の録音をリリースしたばかりだが、その「告別」をじっくりと聴かせた。
 次いでリストの「巡礼の年第2年イタリア」より「婚礼」「物思いに沈む人」「ペトラルカのソネット104番」「ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲」を演奏。長年、ミラノに暮らし、イタリアで活動している彼らしく、イタリアの空気をまとったピアニズムが全開した。
 後半は、リストの「巡礼の年第3年」より「エステ荘の糸杉に機Оゲ痢廖屮┘好徳颪了綽供Оゲ痢廖屮┘好徳颪諒水」。これらは視覚的な演奏で、ローマ郊外のエステ荘の風景が浮かんでくるような感覚にとらわれる。
 実は、来週、吉川さんに会う予定が入っているため、そこでまた演奏について、イタリアについて、さらに近況などを聞きたい思っている。
 今日はもう日付が次の日の土曜日になってしまったが、まだ1本原稿が残っているため、仕事をしなくてはならない。
 吉川隆弘の音楽に関しては、また次回詳細をお届けしたいと思う。
 今日の写真は、プログラムの表紙。ヴィッラ・エステの噴水の写真が掲載されている。


 
| クラシックを愛す | 00:00 | - | -
マルタ・アルゲリッチ
 こんなに躍動感あふれ、心が高揚するようなスカルラッティのソナタは、久しぶりに聴いた感じがする。
 今日は、「日本生命presentsアルゲリッチ ベートーヴェンを弾く」のコンサートが東京オペラシティ コンサートホールで行われ、高関健指揮紀尾井シンフォニエッタ東京との共演で、アルゲリッチがベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番を演奏した。
 このコンサートは、第18回別府アルゲリッチ音楽祭の東京公演にあたる。
 前半はモーツァルトのディヴェルティメントやシンフォニーが演奏され、アルゲリッチのコンチェルトは最後に組まれていた。
 後半からは皇后陛下がご臨席になり、アルゲリッチの演奏にじっくりと耳を傾けていらっしゃった。
 ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番は、5曲のコンチェルトのなかでもっとも演奏される機会が少ない。
 この作品はベートーヴェンの最初に書かれたピアノ協奏曲といわれ、ウィーンでの自身の演奏会用に書かれている。まだ20代半ばの若きベートーヴェンの作で、壮大さや豪華さとは一線を画し、おだやかでかろやかである。管弦楽も大編成ではなく、室内管弦楽団の規模を想定して書かれているため、紀尾井シンフォニエッタのスタイルがピッタリである。
 第1楽章は主和音と属和音の交替が特徴で、モーツァルト的な主題が登場する。アルゲリッチは管弦楽の序奏に次いで弱奏で入るところを、深い打鍵で自然にスッと入り、やがてカデンツァのあとの第2主題を豊かにうたわせた。
 第2楽章は、とても美しい変奏曲形式のアダージョ。弦の美しい旋律に、アルゲリッチは装飾的な旋律をゆったりと重ねていく。
 前の楽章からすぐに第3楽章に入り、アルゲリッチの生き生きとしたリズミカルなピアニズムが全開する。
 彼女のピアノは、常に感じることだが、その作品がいま生まれたばかりのようなみずみずしさを放つ。第3楽章のロンドも、生気あふれる音楽が疾走し、オーケストラをリードするように駆け抜けていく。
 そして鳴りやまぬ拍手に応えて登場したアンコールがスカルラッティのソナタ ニ短調 K.141=L.422である。
 もちろん、ベートーヴェンのコンチェルトは深い印象をもたらしたが、私はこのスカルラッティのソナタに、いまのアルゲリッチの心身の充実を見る思いがした。
 彼女のピアノは成熟度を増し、エネルギッシュで軽快。このエネルギーの素は何なのだろうか。インタビューに応じてくれる人ではないため、その秘訣を聞くことはできないが、底知れぬエネルギーと情熱に深い感銘を受けた。
 今日の写真は、プログラムの表紙。


 
| クラシックを愛す | 23:42 | - | -
ペール・ギュント
 グリーグの劇付随音楽「ペール・ギュント」は、全曲演奏される機会はそんなに多くない。
 今日は、東京オペラシティコンサートホールで、ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィルハーモニー交響楽団がこの作品の全曲演奏を行った。
 演奏が進むにつれ、私は2007年にノルウェーを訪れ、「グリーグを愛す」という単行本を書いたことを思い出した。
「ペール・ギュント」は、ノルウェーが世界に誇る文豪イプセンが1867年に発表した同名戯曲の付随音楽として作曲されたもので、1875年に完成を見ている。
 ストーリーは、ノルウェーの古い伝説に基づいており、空想家で喧嘩っ早く、自慢話が得意なペール・ギュントの冒険を描いた物語である。
 この作品は、随所に耳になじみのある美しい音楽がちりばめられていて、「朝」「オーゼの死」「アニトラの踊り」「山の魔王の宮殿にて」などの曲が有名だ。
 なかでも忘れがたほどの強烈な印象を残すのが、「ソルヴェイグの歌」。今日はノルウェー出身のソプラノ、ベリト・ゾルセットがソールヴェイ(ソルヴェイグ)をうたい、透明感あふれる凛とした歌声が舞台を引き締めた。
 彼女の声は、ホールの隅々まで浸透する強さと、自然な高音が美しく、ソルヴェイグの心情を切々とうたい上げた。
 特筆すべきは石丸幹二の語りで、ペール・ギュント、母オーゼ、ソルヴェイグなどの声を使い分け、ひとり芝居を巧みに繰り広げた。
 指揮のプレトニョフは、プログラムのなかでこう綴っている。

――「ペール・ギュント」でイプセンが描いているのはまさに人生そのものです。生きることの意味を問いかけている。若いころ、母の死、その後のこと。だれもがプロジェクターを見るように自分の人生を振り返ることでしょう。そこにグリーグはただ美しいだけではない、非常に深い音楽をつけた。

 音楽を聴くうちに、私の脳裏にはノルウェーのフィヨルドの風景が浮かんできた。音楽は、想像力を喚起する。今日は、19時開演、22時近くの終演だったが、この3時間というもの、ノルウェーの偉大なイプセンとグリーグの芸術の衣を全身にまとうことができた。
 終演後、プレトニョフの満足そうな、ちょっとはにかんだような笑顔が印象に残った。
 今日の写真は、グリーグの本のために撮影したノルウェーの風景。グリーグの像、ベルゲン、ロストフース。






 
  
  
| クラシックを愛す | 23:57 | - | -
モイツァ・エルトマン
 ハンブルク生まれの「新時代のソプラノ」と称されるモイツァ・エルトマンは、透明感のあるリリカルな歌声で人気を博している。
 今日は、東京文化会館にリサイタルを聴きにいった。ピアノはイギリス出身の名伴奏者として知られるマルコム・マルティノーだ。 
 今回の来日では、エルトマンのもっとも得意とするR.シュトラウス、現代作品をメインに据え、その合間にロマン派の作品をちりばめたプログラム。
 エルトマンは、まずR.シュトラウスの「もの言わぬ花」から始め、モーツァルトの「すみれ」、R.シュトラウスの「花束を編みたかった」、シューベルトの「野ばら」、R.シュトラウスの「イヌサフラン」と、色とりどりの花を咲かせていく。
 やがてシューマンの「重苦しい夕べ」、R.シュトラウスの「オフィーリアの3つの歌」、リームの「オフィーリアは歌う」へと進み、空気は一変し、暗く陰うつな雰囲気をただよわせるように変容していく。
 エルトマンの表現力の見事さがここで一気に開花。彼女は歌詞に寄り添う姿勢が印象的で、明快な発音で詩の世界を描き出していく。
 とりわけ親交の厚いヴォルフガング・リーム(1952〜)の「オフィーリアは歌う」では、狂気のあまり叫んだり、つぶやいたり、緊張の極致でうめいたりするなど、ひとり芝居のような凄みを見せた。
 後半は、アリベルト・ライマン(1936〜)の「オレア」よりヘレナで開幕し、やはりR.シュトラウスをメインにさまざまな曲を挟み込んでいくスタイル。特にエルトマンの声質に合っていたのが、シューベルトの「万霊節の連祷」だった。
 彼女はアンコールの最後も、R.シュトラウスの「あすの朝(モルゲン)」で締めくくった。日本語で「アシタ、アサ」と紹介しながら。
 今日の写真は、プログラムの一部。実は、今日のモイツァのステージ衣裳は、渋いモスグリーンの美しいラインのドレス。こういう色が大好きな私は、そのドレスにも見とれてしまった。
 いいなあ、美しい容姿とブロンドにグリーンが映えて…。うっとり(笑)。


 
| クラシックを愛す | 23:57 | - | -
ラヴェルに魅せられて
 ある原稿を書いていたらラヴェルのことが出てきて、そのアーティストがラヴェルに魅了されているとわかり、私とまったく同様だと思った。
 ラヴェルの音楽は、官能的で幻想的で知的でクール。現代的な感覚と機知が感じられ、えもいわれぬ色香がただよっている。 
 生涯独身を貫き、よき友人に囲まれ、その生き方は粋なダンディズムを感じさせる。
 数年前の夏、パリのラヴェルの家を訪ねた。
 パリのエトワール凱旋門から放射状に伸びる12本の大通りのひとつ、カルノ通りとティルシット通りの角地に当たる4番地に残る家で、ラヴェルが1908年から1917年まで住んだアバルトマンである。
 現在は、1階がカフェ・レストランになっており、静かだった往年の面影はないものの、堅牢な建物の壁面のプレートには、ラヴェルがここでバレエ音楽「ダフニスとクロエ」を書いたと記されている。
 この時期、ラヴェルは作曲家としての完成期に入り、管弦楽曲「スペイン狂詩曲」、ピアノ曲「夜のガスパール」「高雅で感傷的なワルツ」、連弾曲「マ・メール・ロワ」などの代表作を次々に生み出した。
 1914年には、彼の室内楽曲のなかでもっとも円熟した作品と称されるピアノ三重奏曲に取りかかる。このトリオは私が深く魅了されている作品で、冒頭の繊細かつ神秘的な旋律がなんともいえない美質を放っている。
 私は、なぜこんなにもラヴェルの曲に心奪われるのだろうか。フランス・バロックの大作曲家であるフランソワ・クープランに敬意を表して書かれた「クープランの墓」も、ジャズのイディオムをふんだんに盛り込んだピアノ協奏曲も、作曲に5年かけた労作であるヴァイオリン・ソナタも、パリ音楽院時代の20歳のときの「亡き王女のためのパヴァーヌ」も、ディアギレフの委嘱による「ラ・ヴァルス」も、ラヴェルの名を世界中に広めた「ボレロ」も、すべて現代的な感覚ただよい、いまなお斬新である。
 ラヴェルがこのパリのアバルトマンに別れを告げ、ランブイエの森の近くのモンフォール・ラモリに望楼荘(ベルヴェデーレ)と題する家を見つけ、移り住んだのは母親の死と弟の結婚がきっかけだった。彼は静かな環境を欲し、作曲に専念するべく小さな愛らしい家に移ったのだが、友人たちはひっきりなしにモンフォール・ラモリを訪れたという。
 作曲家の足跡をたどる旅は、その作品へと一歩近づくことができる。
 ラヴェルのパリの家は、現在は内部に入ることはできないが、彼が歩いたであろう道や街並みを散策することで、心のなかに何かが生まれる。
 それはラヴェルの作品に内包されているさまざまなイディオム、表現、音楽性、詩的感情などに迫ることであり、作曲家の情熱を垣間見ることにつながる。
 ラヴェルの作品は、通り一遍に弾かれると、興ざめしてしまう。いずれも匂い立つような色香が必要であり、リズム表現も特別なものが要求される難しい作品だからだ。
 原稿を書いていたそのアーティストも、「ラヴェルは難しい」と語っている。
 ピアニストの多くが「夜のガスパール」を最高傑作に挙げているが、この曲集もそのストーリー性と絵画的要素、各々の微妙なリズムと音色を的確に表現するのは至難の業である。
 それゆえ、「夜のガスパール」はいろんなピアニストの演奏を聴き比べると、まったく趣の異なる奏法と表現と解釈を味わうことができ、作品の奥深さに改めて驚かされることになる。
 今日の写真は、パリのラヴェルが住んだ家。記念のプレートが掲げられている。


 
| クラシックを愛す | 22:18 | - | -
アンドレア・シェニエ
 昨年インタビューしたウルグアイ出身のソプラノ、マリア・ホセ・シーリが、新国立劇場のジョルダーノ「アンドレア・シェニエ」に出演している。
 今日は初日で、同じくウルグアイのテノール、カルロ・ヴェントレがアンドレア・シェニエをうたい、ジェラールはイタリアのバリトン、ヴィットリオ・ヴィテッリがうたった。
「アンドレア・シェニエ」は、難曲中の難曲といわれ、主役3人の実力派をそろえるのが難しいためか、日本では上演される機会に恵まれているとはいえないオペラだ。 
 今日は主役3人が持ち味を出し切ったが、やはりマリア・ホセ・シーリのマッダレーナが圧巻だった。
 彼女は以前のインタビューで、共演者も指揮者もよく知っている人ばかりだから、「絶対に舞台は成功するわ」と確信に満ちた様子で話していた。
 印象に残ったのは、歌ばかりではなく、演出と舞台美術。「アンドレア・シェニエ」は、フランス革命前夜のパリ郊外の伯爵邸からストーリーが開始され、最後はサン・ラザール監獄の中庭で、永遠の愛を誓い、死を覚悟して断頭台に向かうシェニエとマッダレーナの姿で幕となる。
 パリ生まれのフィリップ・アルローの演出は、斬新な斜めの壁を切り裂くような舞台装置を取り入れ、各幕ごとに世相を象徴する絵画を映し出す。
 色彩は、衣裳も装置も終始、白が基調。これに赤と青がポイント的に用いられ、フランス国旗をイメージさせる。
 今後の上演予定は、17日、20日、23日。演奏される機会がそう多くないオペラゆえ、今回は貴重な上演である。
 今日の写真は、プログラムの表紙。トリコロールカラーが全編を覆っている。
 それにしても、このオペラの代表的なアリア、シェニエが第1幕でうたう「ある日、青空を遥か遠く眺め」は、名曲中の名曲である。これは多くのテノールが、好んでオペラ・アリアの夕べなどで取り上げる曲。まだ、頭のなかでその旋律が鳴っているほどだ。

| クラシックを愛す | 23:48 | - | -
ルノー・カピュソンの楽器
 ヴァイオリニストにインタビューすると、大切な楽器を見せてくれることがある。
 ルノー・カピュソンも、インタビュー後に2005年から使用しているグァルネリ・デル・ジェス「パネット」を拝ませて(?)くれた。
 グァルネリ・デル・ジェスはイタリア・クレモナの弦楽器製作者一族のひとり、バルトロメオ・ジュゼッペ・アントーニオ・グァルネリ(1698年8月21日〜1744年10月7日)の製作した名器で、イエスのグァルネリを意味するデル・ジェスと名付けられている。
 音は深々と情熱的で、さらに男性的で野性的な響きを備え、アントニオ・ストラディバリの楽器と並び称される。
 ルノー・カピュソンがこの楽器に出会ったときのことは、インタビュー・コンテンツ「音楽を語ろうよ」に綴ったが、まさに近くで見る名器は生命を帯びた生き物ようで、何世紀も生き続け、さまざまなヴァイオリニストの手に渡り、人々を感動させる音楽を奏でてきたその歴史と伝統を秘め、ミステリアスな輝きを放っていた。
 カピュソンは、「すばらしい楽器でしょう。ぼくはこのヴァイオリンに出会ってから、自分の音楽が大きな変貌を遂げたと思っているんですよ。楽器が教えてくれることが多く、最初はなかなか楽器に見合う音を自分が出すことができなかったけど、ようやく最近になって楽器がすごく鳴るようになってきたんです。もっともっとデル・ジェスと仲良くなって、秘められた部分を探求し、よりよい音を出せるようにしたいと思っています」
 カピュソンは、こういって楽器をじっくりと見せてくれ、「みんな表ばかり見るけど、裏側も美しいんですよ。ほら、裏も見て」といって、楽器をくるりと回し、裏側も見せてくれた。
 本当に美しい。これぞイエスのグァルネリである。
 私はカピュソンのえもいわれぬ官能的な音色に魅了されているが、その魅惑的な響きは、この貴重な楽器から生まれるわけだ。
 以前、「レッド・ヴァイオリン」という映画があり、数奇な運命をたどるヴァイオリンの話で、その映画のプログラムの解説文を書いたことがある。
 このときも、ヴァイオリンという楽器の神秘的で幻想的なストーリーに心が動かされたものである。
 今日の写真は、デル・ジェスの表と裏。先日、諏訪内晶子のインタビューでも楽器の話に花が咲いたが、やはりヴァイオリニストにとっては、自分にピタリと合う楽器に巡り会えるか否かで、音楽性が大きく変化するようだ。



| クラシックを愛す | 23:17 | - | -
テディ・パパヴラミ&萩原麻未
 今日は、テディ・パパヴラミ&萩原麻未の特別チャリティーコンサートを聴きに、Hakuju Hallに出かけた。
 プログラムは、先日パパヴラミの本の出版記念会で聴いたJ.S.バッハの「シャコンヌ」からスタート。この作品は弦1本で勝負する孤高の音楽である。
 パパヴラミのバッハは、魂の叫びのようだ。彼の生きざまが映し出され、ひとつひとつの音が胸に突き刺さってくる思いがする。
 次いで萩原麻未とのデュオでドビュッシーの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」、ラヴェルの「ツィガーヌ」が演奏された。
 萩原麻未は、以前インタビューで室内楽がもっとも好きだと語っていたが、ヴァイオリンとのアンサンブルは、まさに堂に入ったもの。パパヴラミの渋く深く暗い情熱を秘めた音色に、みずみずしさとエネルギーを加味していった。
 ラヴェルの「ツィガーヌ」は、ハンガリーの民俗舞曲チャールダーシュの流儀で書かれ、本来ロマの音楽である。ゆるやかなラッサンと、急速なフリスカのふたつの部分で構成されている。
 これはヴァイオリンとピアノとの音の掛け合いがとてもユニークで、いつも心が高揚する思いにとらわれる。
 ラヴェル好きの私としては、この曲がプログラムに入っているだけで、ワクワクしてくる。
 たいぶ前のことになるが、私がこの曲が好きだといったら、樫本大進との録音に臨んでいたイタマール・ゴランが、ピアノ・パートだけをガンガン弾いてくれた。アメリカ録音取材のなつかしい思い出である。
 後半は、フォーレの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番」がしっとりと演奏され、最後はサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」で華やかに終幕を迎えた。
 しかし、どんなに華麗な音色を用いた作品でも、超絶技巧を盛り込んだ作品でも、パパヴラミのヴァイオリンは慟哭するような響きを放ち、深く沈静していく。もちろんテクニックは存分に披露し、すべてにおいて緻密な音楽作りだが、その奥に静謐さが宿り、微笑みながらも嗚咽をこらえているような感覚を見せる。
 なんという個性的なヴァイオリンだろうか。
 先日紹介した彼の単行本「ひとりヴァイオリンをめぐるフーガ」(藤原書店)に表現されているように、ひとりのヴァイオリニストの稀有な人生がリアルに映し出された音楽である。
 今日の写真は、その単行本の表紙。この帯の右下には、「章末のQRコードにより、ストーリーに合わせてセレクトされた演奏が聴けます」と記されている。
 時代は変わったもんだ。
 この本の章末のQRコードから、イザイの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番第1楽章「妄執」より、パガニーニの「24のカプリース」第5番より、バルトークの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」第4楽章より、J.S.バッハの「チェンバロのための組曲」BWV822「アリア」よりなどの曲を聴くことができる。
 本から音楽が聴こえてくるようだ。
 これからの音楽に関した本は、こうした最新技術がどんどん用いられるようになるのだろうか。


 
 
 
| クラシックを愛す | 22:36 | - | -
セドリック・ティベルギアン
 原稿がたまってくると、コンサートに出かけることが難しくなってしまう。
 ただし、公演評を書くことが決まっている場合は、なんとしてもいかなくてはならない。
 今日は、ヤマハホールにセドリック・ティベルギアンのリサイタルを聴きにいった。
 先日アリーナ・イブラギモヴァとのデュオ・リサイタルを聴いたばかりだが、ソロ・リサイタルではまったく異なる奏法と音楽性が味わえるため、楽しみである。
 プログラムは、前半がモーツァルトのピアノ・ソナタ第14番とベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」。後半がショパンの「24の前奏曲」。
 モーツァルトは柔軟性に富むかろやかな音色で始まり、力強いユニゾンもたっぷりと聴かせる。
 ティベルギアンは、いまイブラギモヴァとモーツァルトのヴァイオリン・ソナタのシリーズを演奏している最中だから、このピアノ・ソナタも作曲家に自然に寄り添う形となった。
 続くベートーヴェンの「ワルトシュタイン」は、前進するエネルギーに満ちあふれ、荘重さと厳格さを前面に押し出したピアニズム。
 その反面、ペダルをこまかく踏み込み、素朴で親密的な主題を嬉々とした趣で表現していく。
 ティベルギアンはがっしりした体格で、鍵盤に覆いかぶさるようにして演奏するタイプ。その強音は楽器全体を大きく鳴らすもので、とりわけ第3楽章のコーダが絢爛豪華な響きを放った。
 後半のショパンは、打って変わって、弱音の美しさが際立つ。
 彼のピアノは、弱音が美しい。特にマズルカ風の曲や繊細・優美な主題をもつ曲、色彩感豊かな和声に彩られた曲などにその特質が現れていた。
 休憩時間に、ロビーでアリーナに会った。セドリックの演奏を聴きにきていたのだが、明後日にはソウルに演奏にいき、また日本に戻ってきて今度はキアロスクーロ・カルテットの演奏に臨むという。
 日本では、お寿司やお好み焼きを楽しんでいるそうだ。
 今日のセドリック・ティベルギアンの公演評はヤマハのWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」に書く予定で、先日の彼らのデュオは「公明新聞」に書くことになっている。
 今日の写真は、セドリックとアリーナ。彼らは来日するとさまざまな形態の演奏を聴かせてくれるため、多様性が味わえる。セドリックは室内楽が大好きだというから、ぜひトリオを聴いてみたいと思う。






| クラシックを愛す | 23:26 | - | -
アリーナ・イブラギモヴァ&セドリック・ティベルギアン
 昨夜は、王子ホールで行われたアリーナ・イブラギモヴァとセドリック・ティベルギアンのモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会(全5回)の第4回を聴きに行った。
 以前、ふたりに別々にインタビューしたときに語っていたことだが、彼らはこの全5回のプログラムを決めるのに、丸2日を要したそうだ。
 有名な作品ばかりではなく、あまり演奏される機会に恵まれない作品、モーツァルトの幼少期の作品を加え、作曲家の新たな面を浮き彫りにしたいと願ったからだ。
 作品の長さ、調性、関連性、内容、バランスなどを考慮し、まるでパズルを解くような思いでひとつひとつの作品を弾いてはディスカッションし、5回分のプログラムを作っていったという。
 昨夜の第4回は、前半がソナタ第33番、第3番、6つの変奏曲、第27番で、後半が第38番、第8番、第13番、第11番、第34番。
 確かに、ふだんほとんど耳にすることのできない作品が多く、それらに果敢に挑戦するイブラギモヴァとティベルギアンの意欲的な姿勢が音楽全編にみなぎっていた。
 彼らはこれまでラヴェル、ルクー、シマノフスキ、ベートーヴェンなどで共演を重ねているが、このモーツァルトに関しては、「いま、ふたりの気持ちが自然にモーツァルトに向いてきた」ため、チクルスを組むことになったのだという。
 今回、特に印象的だったのは、モーツァルトが7〜9歳のころに書いたソナタ。モーツァルトの音楽を世の中に広めようと、家族が計画した旅行の最中に書かれた作品で、才能の豊かさ、躍動感あふれるリズム、みずみずしい旋律、あふれんばかりの楽想が遺憾なく発揮され、改めて神童モーツァルトのすごさを思い知った。
 モーツァルトはピアノもヴァイオリンも演奏したからか、両楽器の音の対話、微妙な駆け引き、お互いの音の聴き合い、そしてふたつの楽器の融合が実にナチュラルな形で綴られている。
 この日は、通常の19時開演だったが、終演は21時30分を過ぎていた。
 最後の曲は、有名なソナタ第34番。傑作と称される作品で、冒頭からモーツァルトならではのかろやかで明るく晴朗な空気がただよう。
 そのなかに短調の翳りが見え隠れし、えもいわれぬ憂愁の香りが立ちのぼっていく。
 イブラギモヴァとティベルギアンは、今後もまた異なる作品で来日公演が予定されているようだ。詳細が発表され次第、紹介しますね。
 今日の写真は、終演後、ロビーでサイン会に臨むふたり。この日は申し合わせたのか、白を主体に、黒をアクセントに用いた衣裳だった。



 
| クラシックを愛す | 21:38 | - | -
ミシェル・ベロフ
 ミシェル・ベロフのピアノでフランス作品を聴く。こんな心躍るリサイタルが、今夜すみだトリフォニーホールで行われた。
 フォーレのノクターン第1番、第6番から始まり、ラヴェルの「水の戯れ」「亡き王女のためのパヴァーヌ」と続き、ドビュッシーの「2つのアラベスク」「子供の領分」へと進む。これが前半のプログラム。
 透明感のあるクリアな美音がホールの隅々まで浸透していき、円熟の域に達したベロフのピアニズムが心に響いてくる。 
 ベロフは1950年5月9日、フランスのエピナルに生まれた。10代前半で才能を開花させ、1961年にはオリビエ・メシアンとの運命的な出会いをする。このときベロフは、メシアンの前で「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」から数曲を暗譜で演奏し、この偉大なる作曲家を驚嘆させたという。
 今日は、その「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」から第19番「われは眠る、されど心は目覚め」と第20番「愛の教会の眼差し」が最後に演奏された。
 これぞ、ベロフの真骨頂である。後半のプログラムはその前に、フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」が演奏され、この作品ではピアノをあたかもオルガンのように響かせ、ペダルも非常にこまやかに踏み込んでいた。
 ベロフは1967年に第1回オリビエ・メシアン国際コンクールで優勝している。当時17歳のベロフには、確かな道が拓かれていた。次々と録音も発表し、ワールド・ツアーも行うようになった。ところが、1980年代に入って、突如不幸が訪れた。右手の故障である。
 長年ピアノを弾くことができず、苦難の日々を過ごしたが、完全復活を遂げたのは1990年代初頭。フランスの作品や現代作品を得意としたベロフは、持ち前の美音を武器に鋭敏な感性を遺憾なく発揮して古典派の作品など新しいレパートリーを開拓、ベロフ・ファンを驚かせた。
 現在は世界各地で演奏活動を行うとともに、パリ音楽院で後進の指導にもあたり、チョ・ソンジンを指導していることでも知られる。
 今日のベロフは自信にあふれ、恰幅がよくなったためか、堂々としていた。
 ピアノを弾けなかった時期にジュネーヴで会ったことがあるが、そのときの暗い表情はいまだ忘れることができない。
 本当に復活してよかったと思う。今日のフランス作品は、まさに水を得た魚のような自由闊達な演奏。アンコールのドビュッシー「スケッチブック」より、前奏曲集第1集より「沈める寺」も、凛とした美音が全編を支配し、ホールを静謐な空気に包み込んだ。
 今日の写真は、終演後のサイン会でCDにサインするベロフ。ねっ、体格よくなったでしょ(笑)。

| クラシックを愛す | 23:50 | - | -
ルドルフ・ブッフビンダー
 ルドルフ・ブッフビンダーが、すみだトリフォニーホールのリサイタルのために昨日来日し、演奏後の今夜機上の人となった。
 なんとタフな人なのだろう。
 私はこの日のリサイタルをずっと楽しみにしていた。
 ホールから依頼されたチラシ裏の原稿には、こう綴っている。

 ルドルフ・ブッフビンダーは、前回完璧なる美に貫かれたベートーヴェン、シューマン、そしてブラームスのコンチェルトを披露して聴き手の心に強い感銘をもたらした。
「私は完璧主義者なんです。どんな作品を演奏するときもたいていは楽譜を8から10版研究し、徹底的に作曲家の意図したことを追求します。ひとつの音符、休符、フレーズ、強弱、リズムをこまかく研究し、少しでも作曲家の魂に寄り添う演奏をしたいと願っています」
 こう語るブッフビンダーの演奏は、ひとつひとつの音符が生命力に満ちあふれ、いま生まれた音楽のように新鮮な空気を生み出す。加えてその演奏はすこぶる精神性が高く、美しく荘厳な大伽藍のような音世界を築く。そしてその奥に、豊かな歌心と踊り出したいような躍動感が顔をのぞかせている。これがウィーン人の気質というものだろうか…。

 今日のプログラムは、前半がJ.S.バッハの「イギリス組曲」第3番からスタート。これは録音がリリースされたばかりだ(ソニー)。私はこの曲にある深い思い出がある。それゆえ、平常心で聴くことができないほどだ。
 しかし、ブッフビンダーの演奏はとてもシンプルで古典的で、しかも各舞曲が躍動感に富み、私の心に自然にスーッと入ってきた。
 次いでベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」。非常にアップテンポでドラマティックな演奏だ。
 冒頭の8分音符の刻みが美しい弱奏で開始されたときから、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの世界に強い引力で導かれていく。
 コラール風な書法、長大なロンド、随所に現れるスタッカート、トリルによる主題など、すべてがベートーヴェンのピアノ・ソナタの様式の転換期に書かれたことを意味し、ブッフビンダーの楽譜に忠実な奏法がその神髄を表現する。
 彼はひとつの作品に取り組むとき、徹底的に楽譜を検証する。ただし、それが演奏として披露されるときには、堅苦しさや難解さはまったく見せず、淡々と流れるように、あるべき姿で奏でていく。
 後半は、ブッフビンダーが得意とするシューベルトのピアノ・ソナタ第21番。これこそ今夜の白眉で、ほろ苦いまでの悲壮感、心の内を絞り出すような哀感に富み、諦念と情念と暗い熱情が全編を支配していた。
 ブッフビンダーは、いつもアンコールでさまざまな側面を見せてくれる。今日も味わいのまったく異なる3曲が披露された。
 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」第3楽章、J.Sバッハのバルティータ第1番より「ジーグ」、そしてブッフビンダーといえば、シュトラウス2世の「ワルツ作品56 ウィーンの夜会」である。
 最後のアンコールは、「これを聴かないと帰れない」、という聴衆でいっぱい。終演後はスタンディングオベーションとなった。
 今日の写真は、サイン会でCDにサインするブッフビンダー。
 なお、彼は10月にサントリーホール30周年記念公演の一環として行われる、ズービン・メータ指揮ウィーン・フィルのソリストとして来日する予定だ。


 
 
| クラシックを愛す | 23:51 | - | -
アレクサンドル・タロー
 J.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」は、アリアと30の変奏からなる作品だが、最後のアリアが終わると、再び第1変奏が現れるような錯覚に陥る。
 そして、頭のなかでは、次々に変奏が渦巻いていく。
 今日は、トッパンホールにアレクサンドル・タローのリサイタルを聴きにいった。先日、インタビューでも話を聞いた、「ゴルトベルク変奏曲」である。
 タローの演奏は、古楽器を思わせる凛とした音色が特徴で、柔軟性に富むさまざまな響きが自由闊達な奏法のなかに息づき、芯の強い個性的なバッハが顔を出す。
 装飾音も非常に自然で、それほど多用せず、あくまでもバッハのオリジナルを尊重している。
 ペダルがひとつ大きな特徴を表していて、深く踏み込むときと、ごく浅い踏み込み、さらにひんぱんに小刻みに使う場合と、まったく外してしまう場合など、その奏法は、ピアノ好きにはたまらなく興味をそそられるところ。
 今日はもう遅いため、これ以上書くことはできないが、またゆっくりタローに関しては綴りたいと思う。
 今夜はまだまだ仕事が山積みで、半徹夜になりそう(苦笑)。明日は午前中から女性誌の仕事で、サントリーホールに出かけることになっている。嫌だなあ、寝不足の顔でみんなに会わなければならないなんて…。
 でも、仕方がないよね。締め切りはこなさなくてはいけないし、取材も時間が決まっているし。
 あ〜あ、寝不足でも、疲れていても、なんとかビシッとした顔にならないかなあ。まあ、そりゃ、無理ってもんだわね。あきらめるしかないか(笑)。
 
 
 
| クラシックを愛す | 00:00 | - | -
千住真理子×仲道郁代
 長年、ソロを聴き続けてきたアーティストの室内楽を聴くと、新たな発見がいくつもある。
 昨日はヤマハホールに、千住真理子と仲道郁代のデュオを聴きにいった。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ全曲コンサートである。
 前半にヴァイオリン・ソナタ第1番、第2番が演奏され、後半に「F.A.E.のソナタ」より第3楽章スケルツォ、ヴァイオリン・ソナタ第3番が組まれていた。
 千住真理子には、以前、愛器のストラディヴァリウス「デュランティ(1716年製)」に関して話を聞いたことがある。
 彼女は、この楽器を2002年に手に入れることになった。その経緯と、楽器のこれまでの所有者の話、さらに楽器への深い思いなどを聞き、ヴァイオリンのミステリアスな運命に感銘を受けた覚えがある。
「私はデュランティに巡り会い、自分の音楽を一から立て直そうと思ったのです」
 こう語ったことばは忘れられない。
 デュランティとパートナーを組んで14年目。その低音の美しさと深々とした響きは、ブラームスのソナタにとても合っていた。
 彼女の演奏は、あたかも声楽家のように、後半にいくにしたがって音が徐々にのびやかに自由闊達に鳴り響くようになり、まさにデュランティは生き物だと感じた。
 仲道郁代は、後半の演奏が始まる前のふたりのトークで、こう語っている。
「私たち、20代のころにこれらの作品を演奏しなくてよかったわね。長年、さまざまな経験を積んできたからこそ、いまブラームスのヴァイオリン・ソナタに向き合える。それだけすばらしい作品だから」
 これに応え、千住真理子もいう。
「昔、先生にブラームスのソナタはロールスロイスを40キロで走らせるように演奏しなさいといわれたんだけど、当時はその意味がわからなかったの。いまはそのことばをかみしめながら、1音1音に思いを込めて演奏しています」
 この「ロールスロイスを40キロで走らせる」というのは、どういう意味なのか。おそらく、人によって、さまざまな解釈ができるのではないだろうか。
 仲道郁代の演奏は、近年より自由に、より開放的に、より自然体になってきたように思う。彼女の演奏は、デビュー前のコンクール時から聴き続けているが、このブラームスも馥郁たる歌に彩られ、熟成した白ワインを思わせた。
 このコンサートレビューは、ヤマハのWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」に書く予定にしている。
 今日の写真は、終演後のふたり。彼女たちは、チェロの長谷川陽子を加えたトリオでは共演したことがあるが、デュオは今回初めてだったそうだ。


  
| クラシックを愛す | 21:31 | - | -
コンスタンチン・リフシッツ
 ホールを揺るがすような大音響から、ささやくような弱音まで、自由自在なピアニズム。これぞ「ロシア・ピアニズム」である。
 今日は、紀尾井ホールにコンスタンチン・リフシッツのリサイタルを聴きにいった。
 プログラムはオール・ラフマニノフで、「24の前奏曲」。「前奏曲」嬰ハ短調作品3-2「鐘」からスタート。
 モスクワ音楽院を卒業した翌年に作曲され、クレムリン宮殿の鐘の音からインスピレーションを受けたといわれる作品で、冒頭から深々とした鐘の音が響く。それが次第に壮大な音楽へと変容していく。若きラフマニノフのロマンと情熱があふれる音楽で、広く人々に愛されている。
 リフシッツは、最初から深い打鍵と劇的でダイナミックな演奏を聴かせ、前奏曲への扉をゆっくりと開いていく。
 ラフマニノフは敬愛するJ.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」やショパンの「24の前奏曲」にならって、「24の前奏曲」を長短すべての調を使ってまとめたわけだが、3つの時期に分けて作曲が行われたため、体系的な配列にはなっていない。
 より自由に、よりさまざまなスタイルが用いられ、いずれも独創的で詩的で力強さがみなぎっている。
 次いで、前半には「10の前奏曲」作品23が演奏され、後半には「13の前奏曲」作品32が演奏された。
 リフシッツの演奏は、樫本大進とのデュオのときとは別人のよう。ヴァイオリンと合わせるときは、かなり神経をこまかく遣い、弦との融合に配慮し、音量も抑制し、あくまでもヴァイオリンとの対話に徹している。
 ところが、今日のリフシッツは、ロシア・ピアニズムの継承者たる奏法を遺憾なく発揮。ときにピアノの弦が切れるのではないかと心配してしまうような強靭なタッチとダイナミズムを聴かせ、猛烈なスピードで野原を駆け抜けたり、森のなかを疾走したかと思うと、ふと立ち止まり、ひっそりと咲く野の花に目を向ける。
 すべてがピアノと一体化した、見事なまでの構築感に貫かれた音楽で、大進がよく「コンスタンチンは本当の天才だよ」といっていることばが思い出される。
 リフシッツは、曲の終わりはペダルをずっと踏み続け、音の余韻を楽しみながら、そこに次なる音をかぶせるようにして曲を進めていく。
 ひとつの前奏曲がノクターンのようであり、トッカータやエチュードのようでもあり、それぞれのドラマが浮き彫りになって、その余韻に浸っていると、すぐに次なる世界へと運ばれる。
 作品32の第13番「グラーヴェ」では、重厚で深遠な鐘の響きがホール全体に鳴り響き、ロシアの雄大さを描き出した。
 それはまさに、フィナーレならではの大きな絵巻物を繰り広げているようで、非常に視覚的な演奏だった。
 この後に、またもやリフシッツの底力を知る曲が登場した。アンコールにそっと弾き出したショパンの「雨だれ」である。
 甘さや優雅さや流麗さや華やかさとは、まったく無縁の深い悲しみと苦悩が横たわっているような、まるで慟哭するような「雨だれ」。なんと個性的な表現だろうか。ショパンの作曲時の心情が映し出されているよう。
 ああ、リフシッツのショパンをもっと聴きたくなった。
 彼はJ.S.バッハを得意としているが、次回はぜひ、ショパンをしっくりと聴かせてほしい。
 今日の写真は、終演後の楽屋でのリフシッツのユニークな表情。
 人に呼ばれたため、ふと横を向いたときにパチリ。壮絶なる演奏とはまったく逆の、お茶目な顔。
 彼は曲の説明をするときは、比喩やさまざまな本からの引用などを挟み込むタイプで、ジョークも得意。その一面が表れているでしょ(笑)。



 
 
| クラシックを愛す | 23:56 | - | -
ダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン
 今日はダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリンの来日公演が、サントリーホールで幕を開けた(2月9日〜20日サントリーホール、18日ミューザ川崎シンフォニーホール)。
 今回のツアーはブルックナー・チクルスが組まれ、交響曲第1番から第9番までが順番に演奏される。
 今日はまず第1番が演奏されたが、この作品はなかなかナマで聴くことはできず、貴重な機会となった。
 ブルックナーは作品の改訂を施すことが多く、版も複数存在することで知られるが、今日の第1番は若きブルックナーが生み出したリンツ稿が用いられた。
 シュターツカペレ・ベルリンはベルリン国立歌劇場付属のオーケストラで、450年近い歴史を有する伝統に根差したオーケストラ。弦楽器群がとても豊かな響きを備え、管楽器もまろやかで、しかも力強い。
 バレンボイムは1992年からベルリン国立歌劇場の音楽総監督を務め、2000年には終身首席指揮者に任命されている。
 今回のプログラムは、バレンボイムの弾き振りによるモーツァルトのピアノ協奏曲がブルックナーの前に演奏される日が多く、今夜はピアノ協奏曲第27番が組まれていた。
 バレンボイムは、最近ピアノを弾くことが多い。一昨年ベルリンでインタビューしたときにも、「いま、とてもピアノが弾きたいと思っている」と話していた。最近では、同郷のアルゲリッチとも共演しているほどだ。
 今日のピアノの弾き振りも、実に自然で嬉々とした演奏。ピアノと指揮、この両面がたっぷりと披露できる今回のプログラムは、バレンボイム自身がいまの心身の充実を存分に発揮できるものとして、心から楽しんでいるのではないだろうか。
 なお、2月23日の金沢、24日の広島、25日福岡公演は、バレンボイム、ハイティンクがその才能を認めている若き俊英、ダーヴィト・アフカムが指揮を担当することになっている。
  
| クラシックを愛す | 00:00 | - | -
浜松国際ピアノアカデミー 第20回開催記念コンサート
「世界に通用するコンサートピアニスト」の育成を目指し、中村紘子が音楽監督を務め、浜松市が1996年にスタートさせた浜松国際ピアノアカデミー。
 海外から著名な教授を招き、公開レッスンやレクチャーコンサートを行い、受講生が国際コンクールの環境を体験できるようにと、さまざまなカリキュラムが組まれている。
 そのアカデミーが節目の第20回を迎え、この3月11日から20日までアクトシティ浜松で開催される。
 今日は、「アカデミー修了生による饗演」と題したコンサートがサントリーホールで開催され、チョ・ソンジン、上原彩子、河村尚子がモーツァルト、ラフマニノフ、ショパンなどのソロと2台ピアノの演奏を行った。
 それぞれ個性を発揮した演奏だったが、会場がもっとも湧いたのが、最後に3人で演奏されたラフマニノフの「6手のためのワルツとロマンス」。1台のピアノを前に椅子が3つ用意され、一番下を上原彩子、真ん中を河村尚子、一番上をチョ・ソンジンが担当。和気あいあいとした雰囲気の演奏で、ラフマニノフの哀愁と情感にあふれた旋律を6手が見事な融合を見せながら奏でていった。
 今日は、冒頭に中村紘子の挨拶があり、病気でコンサート活動を休止している彼女が、久しぶりに元気な姿を見せた。
 来月のアカデミーには、アイナル・ステーン=ノックレベルグ、ヤン・イラーチェク・フォン・アルニン、ピオトル・パレチニが教授陣として名を連ねている。
 今日の写真はコンサートのプログラム。2月6日の浜松アクトシティで行われたコンサートには、牛田智大とチョ・ソンジンが出演した。




 

 
| クラシックを愛す | 23:39 | - | -
マティアス・ゲルネ
 これが「音楽の力」だろうか。
 先週から仕事上のトラブルが山積みで、心労が重なり、ストレスだらけの辛い日々だったが、今日はリサイタルを聴き、その重く暗い気分が一気に洗い流された気がした。
 バリトン好き、ドイツ・リート好き、シューマン好きの私は、紀尾井ホールで行われた今夜のマティアス・ゲルネのオール・シューマン・プログラムをとても楽しみにしていた。
 前半が歌曲集「女の愛と生涯」と「詩人の恋」。これらを休みなく、一気に聴かせた。後半は「リーダークライス」。
 彼は2009年に初めて日本で「女の愛と生涯」をプログラムに入れた。ピアノはピエール=ロラン・エマールである。
 これは大阪で行われたものだったが、今回は東京で聴くことができた。
 ゲルネのシューマンはいずれの作品も変幻自在な歌唱力、解釈、表現力に富み、完璧なる歌詞の発音がその根底に横たわり、シューマンの美しく情感あふれる旋律に自然な形で詩を乗せていく。
 ひとつひとつの歌が物語を描き出し、シャミッソーとハイネの歌詞が聴き手の心の奥にゆったりと浸透してくるように紡がれる。
 ああ、なんと幸せな時間なのだろうか。
 そして最後にアンコールとして「献呈」がうたわれた。
 これはいつも書いているように、私は最晩年のヘルマン・プライの歌を思い出し、涙がこぼれそうになる曲なのである。
 今日もプライの姿が浮かんできて、つい目を閉じて思い出に浸ってしまった。
 終演後、以前の来日時にインタビューしたときのお礼を述べようと楽屋を訪れると、「やあ、来てくれたんだねえ。ありがとう」といわれ、ガシッとハグされてしまった。いやあ、堂々たる体躯でデ、デカイッ(笑)。
 今日の写真は名コンビのピアニスト、アレクサンダー・シュマルツ(左)と。このふたり、ステージに登場するだけで、まず体格で圧倒してしまう感じ…。演奏は、実に繊細で抒情的なのにね。


 
 
| クラシックを愛す | 22:32 | - | -
第17回ショパン国際ピアノ・コンクール ガラ・コンサート
 今日は、昨年の第17回ショパン国際ピアノ・コンクールの優勝者&入賞者6人によるガラ・コンサートが東京芸術劇場で行われた。
 第1位のチョ・ソンジンはこれまで何度か演奏を聴いたことがあるが、第2位のシャルル・リシャール=アムランは初めて演奏を聴いた。
 彼はソナタ賞を受賞したわけだが、今日はそのピアノ・ソナタ第3番を演奏。これが私の心に深く響く演奏だった。
 今日は22時過ぎまで演奏があったため、家に戻って遅めの夕食をとった。
 明日はリシャール=アムランのインタビューがある。
 明日、ゆっくり彼について書くつもりです。
| クラシックを愛す | 23:54 | - | -
反田恭平
 今日は、雪が降りそうな寒いなか、反田恭平のデビューリサイタルを聴きにサントリーホールに出かけた。
 デビュー演奏会がサントリーホールというのもスゴイことだ。
 彼の演奏は、昨年リリースされたデビューCD「Liszt」(コロムビア)で聴いているため、ナマの演奏を非常に楽しみにしていた。
 以前、一度トリオを聴いているが、リサイタルは初めてである。
 今日はホロヴィッツが愛したニューヨーク・スタインウェイをパートナーに、自由闊達で堂々とした演奏を披露し、会場は最初から熱気に包まれた。
 プログラムは、前半がバッハ/ブゾーニ「シャコンヌ」、モーツァルト「ピアノ・ソナタ第3番」、バラキレフ「東洋風幻想曲 イスラメイ」。
 超絶技巧をものともしないクリアな演奏で、弾き慣れている作品が多いからか、まったく迷いがない。
 後半は得意とするオール・リスト。「超絶技巧練習曲より第8番 狩り」「スペイン狂詩曲」「コンソレーション 慰め 第3番」「メフィスト・ワルツ 第1番 村の居酒屋での踊り」という構成だ。
 反田恭平の演奏は、聴き手の心を瞬時にとらえるのだろうか。すでに多くのファンがいて、新人とは思えぬほど多くの聴衆に支えられている。
 これまで数多くの新人ピアニストの演奏に触れてきたが、彼の場合は何か別の魅力を持ち合わせているようだ。
 それはいったい何なのか。純粋に演奏の魅力なのか。人間性なのか。これまでのバックボーンなのか。
 演奏を聴いて、いろいろ考えさせられた。
 その思いは、アンコールに演奏されたシューマン/リストの「献呈」で一気に疑問が氷解した。
 反田恭平のピアノは、聴き手の心に語りかけてくるのである。ひとつひとつの音を通し、自身の思いのたけを伝える。そこに人々は魅了されるに違いない。
 いま21歳。モスクワ音楽院で、名教師といわれるミハイル・ヴォスクレセンスキーに師事している。 
 ヴォスクレセンスキーには以前インタビューをしたことがあるが、非常に実直で、曲がったことの嫌いな、まっすぐな人だった。
 こういう先生から教えを受けることができる生徒は幸せである。
 反田恭平は、まだスタート台に立ったばかり。これからいかようにも変化し得る可能性を秘めている。
 ぜひ、次回はまた異なるレパートリーを聴いてみたい。
 写真は、今日のプログラム。写真満載の三つ折りのおしゃれなプログラムで、ファンが大喜びしそうなデザインだ。
 こういうプログラムは斬新でいいと思う。楽器もステージ衣裳もこだわりだったが、このプログラムも個性的。人気の秘密の一端を垣間見た思いだワ(笑)。


 
| クラシックを愛す | 23:44 | - | -
服部百音
 新春早々に聴くヴィヴァルディの「四季」は、心がうきうきと高揚する。
 今日は、東京ヴィヴァルディ合奏団の「2016年ニューイヤーコンサート」を聴きに紀尾井ホールに出かけた。
 このコンサートは、後半にヴィヴァルディの「四季」が組まれ、そのソリストを務めるのが服部百音である。
 昨年、彼女にインタビューした折にいろいろこの作品について聞いたが、そのときにはまだ猛練習中だと語っていた。
 あれから3カ月、服部百音は完璧に暗譜し、怒涛の嵐のような「四季」を披露した。
 本人が、もっとも好きなのは「夏」だと語っていたように、今日の「夏」はまさにイタリアの焼けつくような太陽、急に降って来るにわか雨、はげしい雷雨などがリアルに表現され、合奏団のメンバーをぐんぐんリードするような意志の強さを見せた。
 彼女の演奏はフィナーレに向かうにつれ、いつもながらのテンポアップの状態になり、私はどこまで加速するのかと、手に汗握る思いだった。
「やっぱり走っていました?」
 終演後、楽屋に顔を出すと、服部百音は開口一番こう聞いた。
「走っているなんてもんじゃなかったわよ、すごいスピード。聴いているこっちが汗びっしょりになっちゃった」
 こういうと、彼女はケラケラと笑っていた。
 いま16歳。
 この年齢で室内合奏団をリードしながら「四季」を演奏するのは、大変なことである。
 しかし、彼女は初の試みに果敢に挑戦し、はげしく熱く前向きな「四季」を生み出した。
 こういう演奏を聴くと、活力をもらえる。
 もう1月も半ばを過ぎ、毎日締め切りに追われる生活をしていると、あっというまに月日が経ってしまうため焦るばかりだが、今日は若きヴァイオリニストの元気な演奏からエネルギーをもらった感じだ。
 今日の写真は、終演後のほっとした表情の百音ちゃん。いつもお祖母ちゃんが作ってくれるというドレスは、明るい白地にゴールドがアクセント。ステージでは、ライトを浴びてきらきらとドレスが光っていた。


 
 
 
 
| クラシックを愛す | 22:03 | - | -
クリスチャン・ツィメルマン
 クリスチャン・ツィメルマンの今回の日本公演は、2015年11月19日から開始し、2016年1月18日まで続く。
 昨年の12月11日の東京文化会館大ホールでのリサイタルは、体調不良でキャンセルとなったが、実はこのプログラムの原稿を書いたため、主催者の都民劇場の担当者から「幻のプログラムとなってしまいました」といわれた。
 このときは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番とシューベルトのピアノ・ソナタ第21番という組み合わせ。
 そして今夜は、サントリーホールでリサイタルが行われ、まずシューベルトの「7つの軽快な変奏曲」からスタートした。
 ツィメルマンはかろやかにおだやかに、シューベルト13歳の作(真偽のほどは明らかではない)といわれる愛らしい曲想を慈しむように弾き進めた。
 次いで、シューベルトのピアノ・ソナタ第20番が登場。
 ツィメルマンは全編にただよう抒情性と自由闊達な即興性、印象的な和声をていねいに、じっくりと弾き込んでいく。
 後半のシューベルトのピアノ・ソナタ第21番も同様だが、ツィメルマンのモットーである演奏に対する完璧性は、シューベルト最晩年の孤高の世界、幻想的で構築性に富み、繊細さと芯の強さが共存する作品すべてに息づく。
 ひとつひとつの音があるべき形で存在し、1音たりとも気を抜かず、細部まで神経が行き届き、完全主義者ならではの美学を描き出していく。
 とりわけ印象的なのが、弱音の浸透力の強さ。単なる弱い音ではなく、サントリーホールの隅々まで、ピーンと張りつめた空気に乗って弱音が飛翔していく。
 シューベルトの後期のソナタは、ピアニストにとって非常に高い頂に位置する作品である。
 ツィメルマンは、ひとつの作品をステージに乗せるまで、最低10年はかけるとインタビューで語っていた。
 磨きに磨き、練りに練ったシューベルト。その研鑽と鍛錬と研究の成果が、今夜のステージで披露された。
 新年最初に聴いた演奏会だったが、会場ではいろんな人にも会うことができ、有意義なひとときとなった。
 金子三勇士にも久しぶりに会い、近況を聞くことができた。
 いよいよ2016年のシーズンの始まりである。
 
 
| クラシックを愛す | 23:55 | - | -
ベストCD、コンサート・ベストテン
 この時期になると、各誌の年間「コンサート・ベストテン」や「ベストCD&DVD」などの原稿が重なる。
 これを書いていると、「ああ、もう今年も終わりなんだ」と、なんだか気持ちが焦ったり、ちょっと寂しくなったり、「いったい今年は何をしてきたんだろう」と、過ぎた時間の早さに思いを馳せ、何かを残しただろうかと考えたりする。
 今年もいろんなコンサートや録音&録画で演奏を聴いてきたが、年間でもっとも優れた演奏を5とか10とか選び出すというのは、至難の業だ。
 私はノートを見ながらひとつずつコンサートを思い出し、また、CDなどのリストを眺めながら、それぞれの録音を脳裏に蘇らせていく。
 しかし、やはりベストワンというのはすぐに決まる。例年それは同じで、私にとって年間を通じてもっともすばらしい演奏というのは、年末になってからでも鮮明に覚えているからである。
 さあ、また新譜を聴かなくちゃ。来週は音楽専門誌や新聞のCD評の原稿締め切りが待っている。年末入稿ゆえ、各社ともに前倒しのスケジュールだ。
 これから聴こうと思っているのは、ワーナー・クラシックスが有するテルデック、エラートの古楽カタログを復活させた「オリジナーレ」の2枚。
 私はベルギー出身の古楽の大家、フィリップ・ヘレヴェッヘが大好きなのだが、彼が創設したコレギウム・ヴォカーレ・ヘントを指揮したJ.S.バッハ「クリスマス・オラトリオ」と、もう1枚は同じくバッハの「4つのミサ曲、サンクトゥス」が収録されたディスクが今夜の友。
 ヘレヴェッヘは、1947年ヘント(ゲント)生まれ。ピアノと医学と精神医学を学び、ルネサンスから現代にいたる合唱曲を演奏し、バロック時代のピリオド楽器を用いたオーケストラの指揮も行い、古楽の研究にも携わっている。
 心に染み入る伝統的な奏法のなかに、常に新しさを追求する進取の気性に満ち、その演奏はみずみずしくヒューマンな温かさにあふれている。
 今日の写真は、その2枚のジャケット写真。
 夜は長い。これからじっくり聴くとしましょうか。


  
 
| クラシックを愛す | 22:53 | - | -
浜松国際ピアノコンクールの入賞者披露演奏会
 昨夜は、第9回浜松国際ピアノコンクールの入賞者披露演奏会東京公演が東京文化会館小ホールで行われた。
 入賞者6人がソロを演奏したが、私はアレクセイ・メリニコフのシューベルトの「即興曲」作品90の3とスクリャービンの「24の前奏曲」より5曲の演奏がもっとも心に響いた。
 彼は、浜松で聴いたコンチェルトでも感じたが、非常に繊細で情感に富むピアニズムの持ち主である。もう少し自分を前面に押し出す強い気持ち、堂々としたステージマナー、自信あふれる演奏を行うと、より説得力が増すと思う。
「コンクールはスタート台」といわれる。この6人の入賞者たちが、今後いかなる道を歩んでいくのか、興味は尽きない。
 国際コンクールの取材は、「ショパン」の編集に携わっていた80年代半ばから行うようになり、すでに世界各国の国際コンクールを多数取材してきた。
 華々しい優勝を遂げた人でも数年で姿を消してしまう人、コンクールでは苦渋をなめたが、のちに発奮して国際舞台で活躍するようになる人など、本当にさまざまである。
 そして審査発表が行われたときの、各人の複雑な表情もいつまでも脳裏に焼き付いている。
 何度挑戦しても、どうしても自分が納得のいく結果が得られず、精神的に追い詰められてしまった人、優勝の呼び声が高かったのに審査発表で優勝を逃したと知り、崩れ落ちてしまった人、自分の結果に満足できず、審査員が食事をしている場所に飛び込み、抗議をして追い出された人、優勝の栄冠に輝いた直後に交通事故で亡くなってしまった人など、コンクールの取材のひとつひとつが鮮明に思い出される。
 やはり、優勝者の喜びの表情よりも、入賞を逃した人の苦難の表情の方が印象に残る。
 インタビューでも、そうした人がいかに立ち直っていくか話を聞くことがあるが、本当に悲喜こもごも。だが、困難から這い上がって、国際舞台で活躍するようになった人の話は、非常に説得力があり、人生論としても興味深い。
 コンクールには、短期間ながら強烈なドラマがある。さて、浜松の入賞者たちの今後はどうなるだろうか。長い目で見守りたいと思う。
 今日の写真は、コンクールのフリーペーパーに掲載されたもの。授賞式後に入賞者と審査員が勢ぞろいした写真である。

| クラシックを愛す | 23:50 | - | -
辻井伸行&ミュンヘン・フィル
 いま、ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団が日本ツアーを行っている。残すところはあと1日、明日のサントリーホールのみとなった。
 今日は、辻井伸行がソリストを務めるコンサートを聴きにサントリーホールに出かけた。
 プログラムは、前半がベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」で、辻井がソロを演奏する。後半はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」である。
 辻井伸行には、プログラムの記事用に事前に話を聞いているが、彼は「皇帝」を本場ドイツのオーケストラとの共演で演奏できることを非常に幸せに思っていると語っていた。ミュンヘン・フィルとは今回初共演となるが、実は11月4日にミュンヘンで「皇帝」を演奏し、日本に先がけて共演が実現している。
 なにしろ、今回の指揮はゲルギエフだ。辻井は2012年、サンクトペテルブルクの「白夜の星」音楽祭でマエストロと共演し、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏している。
 このときは、ゲルギエフがとても温かく迎えてくれ、オーケストラともいいコミュニケーションがとれ、ロシアの地でロシアの音楽家たちとロシア作品を演奏することに特別な思いを抱いたそうだ。
 今日の「皇帝」は、ひたむきさと熱意が伝わってくる演奏で、終演後ゲルギエフに促されて、アンコールを3曲も弾いた。「皇帝」の第2楽章をピアノ・ソロで、さらにショパンの「革命」エチュードとノクターン第20番である。
 後半になると、オーケストラは底力を発揮。ゲルギエフの熱血指揮に応えるべく、弦も管も打楽器ももてる最高のものを出し尽くす感じ。集中力と緊迫感がハンパではなく、深く熱く濃密な大音響に、ホールの空気がうねる感じだった。
 印象的なのは、第3楽章のスケルツォ。覚えやすい行進曲に続いて悪魔の踊りが登場。ゲルギエフの指揮は片足ずつドンドンと踏み鳴らす強烈なもので、まるでしこを踏んでいるよう。
 それが第4楽章のアダージョ・ラメントーソに入るやいなや、死の予感と深い哀しみと落胆、絶望、慟哭などが入り混じり、最後は消え入るように終焉を迎える。この対比こそ、ゲルギエフの真骨頂である。
「皇帝」と「悲愴」―とても内容の濃い演奏で、いつまでも余韻が残るコンサートとなった。
| クラシックを愛す | 23:35 | - | -
イリヤ・ラシュコフスキー&チョ・ソンジン
 今日もまた、コンサートをふたつ聴きに行くことになってしまった。本当は、長時間になると集中力が落ちるため、できることなら避けたいのだが、重なってしまう場合は仕方がない。
 まず、武蔵野市民文化会館で15時開演のイリヤ・ラシュコフスキーのリサイタルを聴いた。これは昨日インタビューをしたラシュコフスキーのスクリャービンのピアノ・ソナタ全10曲演奏会で、3時間におよぶもの。ライヴ収録しているため、彼の集中力と緊迫感がすさまじく、最初から汗びっしょりの熱演。
 途中2回の休憩をはさみ、スクリャービンを圧巻のピアニズムで聴かせた。
 休憩のときに録音を担当しているビクターのFさんに会ったら、「ラシュコフスキーはまるで修行僧のようですよ」といっていた。それだけ集中しているのだろう。
 それからオペラシティに移動し、ショパン国際ピアノ・コンクール優勝のチョ・ソンジンの「優勝者リサイタル」を聴いた。
 さすがに話題のピアニストとあって、会場は熱気が感じられ、優勝者の演奏に期待する人々の期待に満ちた空気がただよっていた。
 コンクール後のコンサートというのは、実は怖いものである。よくアーティストにインタビューをすると、「優勝後の演奏では、みんなの期待に応えなくてはならない。歴代の優勝者の後に続く身として、もてる最高の演奏を披露しないといけない。コンクール後の方が大変で、常にプレッシャーがかかる」という人がほとんどだ。
 チョ・ソンジンも、それを十分に意識しているに違いない。彼の場合は、まだ未知数の部分が多く、これからいかようにも変化し得るものをもっている。今後は来日が相次ぐが、そのつど変容するに違いない。
 今日の演奏は、コンクール後に数多くの演奏をこなしたからか、少し疲れているという感じを受けた。おそらく相当のプレッシャーを感じているのだろう。今後に期待したい。
 それにしても、コンサートのはしごは本当に身も心も疲弊する。
 でも、オペラシティでは小林愛実や、友人のKさん、仕事関係者にたくさん会うことができ、疲れが吹き飛ぶ感じがした。
 今日の写真は、ラシュコフスキーのプログラムの表紙。それにしても、あのすさまじいまでの音符の多さを誇るスクリャービンのピアノ・ソナタを全10曲通して暗譜で演奏するって、本当にすごい。CDが出来上がるのが楽しみだ。


 
| クラシックを愛す | 23:25 | - | -
モディリアーニ弦楽四重奏団とエリソ・ヴィルサラーゼ
 同じ日にどうしても行きたい昼公演と夜公演があると、大変だ。
 今日は、神奈川県立音楽堂の15時開演のモディリアーニ弦楽四重奏団のコンサートに行き、すみだトリフォニーの19時開演のエリソ・ヴィルサラーゼのリサイタルの両方に出かけることになった。
 モディリアーニ弦楽四重奏団は、公演チラシの原稿とプログラムの原稿を書き、新聞などでも紹介したため、外せないコンサートとなった。
 彼らの演奏は何度も東京やナントで聴いているが、今日も非常にみずみずしく緊迫感あふれる演奏で、心が洗われるような思いを抱いた。
 プログラムは前半がモーツァルトの弦楽四重奏曲第15番とショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第1番。後半がベートーヴェンの弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」。
 いずれも4つの楽器が対等に丁々発止の音楽を奏でる緊密なアンサンブルで、とりわけ「セリオーソ」のドラマティックで熱情的な演奏が胸の奥に深く響いた。
 桜木町から錦糸町に移動し、大好きなヴィルサラーゼの演奏に駆け付けた。
 今夜のプログラムは、モーツァルトのピアノ・ソナタ第13番からスタート。いつもながらのまったく力まない自然体の響きが奏でられ、ヴィルサラーゼを聴く幸せに包まれた。
 続くベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番「熱情」は、圧巻の演奏。すべての音、リズム、フレーズ、強弱、テンポがあるべきところにあるという必然性に満ちたベートーヴェンで、1音たりとも聴き逃せない演奏。ベートーヴェンが人生のドラマを描き出した作品に寄り添い、深く内奥に迫り、洞察力に富み、そのすべてを聴き手へと真摯な形で伝える。
 後半はモーツァルトのピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付」が登場。ヴィルサラーゼは、ステージに現れ、ピアノの前のすわると、さっと弾き出す。ステージに登場したときから、すでに音楽は始まっているようで、自然に音楽が流れ出す。
 そこには気負いも気取りも、構えもない。即座に音楽に集中する。特に印象的なのが、微動だにしない上半身と、手首のしなやかさと、自然なからだの使い方。それらが混然一体となって、ロシア・ピアニズムの伝統を担う、こよなく美しいピアニズムが生まれる。
 ふたつのコンサートを聴き、長い移動もあり、とても疲れたはずなのに、いまだにすばらしい音楽が頭のなかで鳴っている。なんと幸せな時間だろうか。
 実は、今日は結構寝不足気味だった。
 というのは、昨夜、原稿を書いていたら、親しいフリーの編集者のIさんから電話が入り、「いま、お宅の前の沖縄料理店で食事しているんですよ」というではないか。レコード会社に勤めている奥さまのWさんと一緒に、もうデザートタイムだという。
 そこであわててパソコンから離れ、彼らに合流。お茶だけつきあったが、もちろんこれで終わるわけもなく、もう一軒行こうということになり、深夜まで開いているお店を探した。
 最近、Iさんとは仕事で組んでいるためよく話をするが、Wさんとは本当に久しぶりだったため、いろんな話をし、夜更けになってしまった。
 深夜に原稿の続きを書き、今日はコンサートをはしご。こりゃ、疲れないわけないか(笑)。
 でも、親しい友人とのおしゃべりも、すばらしい音楽も、心身を活性化させてくれる。しかも今日は、コンサートで親友のKさんに会い、彼女の友人を紹介してもらったのだが、その男性に「いつもブログ拝見しています。私、伊熊さんのファンなんです」といわれ、びっくりするやら、うれしいやら、恥ずかしいやら。
 いろんなことがあった一日でした。
 
 
 
 
| クラシックを愛す | 23:15 | - | -
マリア・ホセ・シーリ
 昨日は、一日中秒読みのようなスケジュールをこなさなくてはならなかった。
 まず、午前中にヤマハのWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」の連載記事を書いた。今週のテーマは、アレクサンドル・タロー。バッハの「ゴルトベルク変奏曲」をリリースしたばかりで、このライナーノーツを書いたため、新譜に触れながら以前のインタビューを交えて記事を作った。
 午後は、新国立劇場に出向き、前日聴いた「トスカ」のヒロイン、マリア・ホセ・シーリにインタビューを行った。
 とてもフランクで温かい人柄。さすがにオペラ歌手だけあって、はなやかさと美しさと存在感があり、どんな質問に対しても、ことばを尽くして話してくれる。
 インタビューが進むうちに、プライヴェートな話題も飛び出し、若くして子どもが生まれたためキャリアを作っていくのが大変だったといった。
 ウルグアイの牧場を所有し、レストランとスーパーを経営している両親のもとに生まれ、ひとりっ子ゆえ、いろんな楽器を習わせてもらったようだ。しかし、ひょんなことから声のよさを認められ、声楽家を目指すことになる。
 その後はオペラ歌手まっしぐら。現在は世界各地のオペラハウスからひっぱりだこの人気ソプラノとなった。
「最初はピアニストになりかたかったの。いまでもピアノを弾きながら歌の練習をしているのよ」
 さまざまな話題がどんどん出て、有意義な時間を過ごすことができた。
 このインタビューは、「日経新聞」、私のHPのリニューアル後のインタビューコンテンツなどに書き分けをしたいと思っている。
 インタビューの最後に、彼女は「ひとつお願いがあるんだけど」といって、しんみりした表情で話し出した。
 ウルグアイの親しい友人のマリオ・ヴィラルバという人が、彼女が東京で「トスカ」をうたうのなら、ぜひ聴きにいきたいといっていたのだが、つい先ごろ急逝してしまったのだという。
「すぐに国に戻るわけにもいかず、とても大きなショックを受けているの。その彼の名前がたまたまマリオでしょう。トスカがマリオ、マリオと呼びかけるところは、胸が張り裂けそうになる。いま、私はこのトスカの舞台をすべて友人のマリオに捧げたいと思って、気持ちを込めてうたっているのよ。どこかで、このことを書いてもらえないかしら」
 私は「すぐにブログに書きます」と約束した。すると、マリアはとてもうれしそうな表情をし、「ありがとう。本当にうれしいわ。マリオに捧げる舞台のことをみんなに知ってほしかったから」
 マリア・ホセ・シーリの歌声は、先日のオペラ初日のときにも書いたが、すばらしく鍛え抜かれた歌唱で、演技も自然、トスカその人になりきっている。
 インタビューのときには「次にうたう役をいま必死で勉強しているの」と、ヴェルディの「アッティラ」のスコアを大事そうに抱えていた。
 楽譜を見せてもらうと、自分のうたうところは歌詞にマーカーで記しが施してあり、他の役柄のところにやオーケストレーションのところにも注意書きがあった。
 このインタビュー後、すぐに彼女はレッスン室にこもって練習するようだった。
 さて、インタビューが終わるとすぐに自宅の近くの仕事部屋にいき、工務店の人たち、マンションの理事長さんとリフォームの打ち合わせを行った。
 この夜は、フランクフルト放送交響楽団のコンサートがあるため、サントリーホールに出かけなくてはならない。
 一度、自宅に戻り、メールをチェックしたり電話を受けたりし、急いでホールに駆け付けた。コロンビア出身の指揮者、アンドレス・オロスコ=エストラーダは非常に躍動感に満ちた音楽作りをする人で、伝統のあるオーケストラに新風を吹き込む演奏を披露した。
 前半はグリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲から開始。次いでアリス=紗良・オットをソリストに向かえてチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が登場。彼女のインタビューをプログラムに書いたが、アリスはこのコンチェルトをすでに70回も演奏しているという。
 まさに手の内に入った演奏だったが、初めて共演する指揮者とは、何か新しい方向を目指したいという前向きな気持ちが全編にあふれていた。
 後半はベルリオーズの「幻想交響曲」。私はこの第2楽章の「舞踏会」のワルツが大好きなのだが、オロスコ=エストラーダはウィーンで学んでいるためか、舞踊のリズムが非常に自然で、柔軟性に富んでいた。
 コンサートが終わったのは、もう21時半に近いかったが、ここから親しい音楽事務所のОさん、レコード会社のОさんと一緒に飲み会へと繰り出した。
 女3人で2時間ほどおしゃべりをし、自宅に戻ったら、もう翌日になっていた。
 ああ、ずいぶん長い一日だった。
 今日の写真は、ふだん着のマリア・ホセ・シーリ。彼女は来年4月、新国立劇場の「アンドレア・シェニエ」の舞台に立つ予定になっている。それまで超多忙の身で、各地を飛び回るようだ。オペラ歌手は、タフじゃないと務まらないわね。


 
 
 
| クラシックを愛す | 22:13 | - | -
新国立劇場の「トスカ」
 プッチーニの人気オペラ「トスカ」は、これまで内外でさまざまなプロダクションによる演奏を聴いてきたが、今日は新国立劇場に聴きにいった。
 トスカはウルグアイ出身の、いま勢いに乗るソプラノ、マリア・ホセ・シーリ。イタリア・オペラを中心に活躍している。
 カヴァラドッシはスペイン出身のテノールで、カラフ、ラダメス、カヴァラドッシ、ドン・ホセなどの役を各地でうたっているホルヘ・デ・レオン。
 スカルピアは「リゴレット」「ジャンニ・スキッキ」「ファルスタッフ」「シモン・ボッカネグラ」などのタイトルロールを得意としているバリトン、ロベルト・フロンターリ。
「トスカ」はこの3人が歌唱、演技ともに秀逸でないと、最後まで聴き手の心をとらえることが難しいが、今日の3人はそれぞれ才能を思う存分発揮した。
 とりわけトスカ役のマリア・ホセ・シーリの輝かしい歌声と迫真の演技が際立ち、存在感のある「歌姫」を披露した。
 彼女ののびやかで情熱的でクリアな歌声は、トスカという人物を立体的かつ現実的な人間として描き出し、魅力ある女性像を作り上げた。
 マリア・ホセ・シーリは体躯堂々としたタイプで、演技もスケールが大きい。高音もどんなに強音になっても揺らぐことがなく、ドラマティックでしかも自然体だ。
 明日は、このマリア・ホセ・シーリにインタビューをすることになっている。きっと、素顔も魅力的な人に違いない。
 明日の記事をお楽しみに〜。
 今日の写真は、「トスカ」のプログラムの表紙。第1幕の最後の、人々が感謝の祈りを捧げるシーンのこの舞台美術と衣裳が、とても華やかで美しかった。とりわけ第1幕フィナーレの「テ・デウム」は華麗で荘厳で圧巻。
 今日は「トスカ」の初日で、20日、23日、26日、29日と4公演が予定されている。 

| クラシックを愛す | 23:29 | - | -
ダニール・トリフォノフ
 ダニール・トリフォノフの演奏を初めて聴いたときの衝撃にも似た感情は、いまだ忘れることができない。
 2010年のショパン・コンクールで第3位入賞を果たしたが、順位を忘れさせるほどのクオリティの高い、存在感のあるショパンを披露したのである。
 もっとも印象に残っているのは、その透明感あふれる美音と、各々の作品の真意に近づいていくひたむきな姿勢。
 トリフォノフはスリムな体躯でありながら、芯の強い音を放ち、伝統的なロシア・ピアニズムを体現している。
 それはグネーシン音楽院で師事したタチヤーナ・ゼリクマン、現在クリーブランド・インスティテュートで就いているセルゲイ・ババヤンの教えによるものだろうが、打鍵の深さと美しいレガート、楽器を豊かに鳴らし、歌を表現することが基本となっていて、そこに作曲家の顔をのぞかせ、作品の構造の内部へと入り込んでいく。
 トリフォノフの10月29日の東京オペラシティコンサートホールの演奏は、いまや世界の舞台を飛び回っているトリフォノフの面目躍如たるものだった。シューベルトやブラームスなどの作品が組まれていたが、とりわけ後半に登場したラフマニノフのピアノ・ソナタ第1番が出色で、この作曲家をこよなく愛す心情が全編に息づいていた。ファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレスの3人を鮮やかに描き出し、最後のコーダまで一瞬たりとも弛緩することなく、一気に弾き切った。
 その鮮やかなテクニックは、アンコールのシュトラウス(トリフォノフ編):喜歌劇「こうもり」序曲で完全に爆発。10本の指とは思えぬ(?)早業で、会場を沸かせた。まさにエンターテイナーである。
「コンクールはスタート台。その後の活動いかんでその優勝者の人生はいかようにも変わる」とよくいわれる。チャイコフスキー・コンクールの覇者、トリフォノフは、コンクール後もひたすら研鑽を重ね、確実に階段を上っている。
 最近は年間120回もコンサートを行っているというが、そのエネルギーはどこからくるのだろうか。今回はインタビューが延期となり、11月3日に行うことになった。いろんな話が聞けそうだ。
 
 
| クラシックを愛す | 23:43 | - | -
ザ・フィルハーモニクス
 みんなが幸せそうな笑顔で帰路に着く。こういうコンサートはそうあるものではない。
 今日は、東京芸術劇場にザ・フィルハーモニクスを聴きにいった。2007年に活動を開始したウィーン・フィル公認の「リミット無しのアンサンブル」といわれるザ・フィルハーモニクスは、ウィーン・フィルから4名、ベルリン・フィルから1名、ラカトシュが愛するヤーノシュカ兄弟という7人編成。
 いずれも腕に自信のある名手で、7人そろうと超絶技巧もなんのその、クラシックの名曲から民俗音楽、タンゴ、ワルツ、自作まで鼻歌をうたうようにかろやかに、嬉々とした表情で演奏する。
 このコンサートは、「公明新聞」の公演評を書くことになっている。
 今日のプログラムは前回の来日とは多少趣が異なり、チャールダーシュやタンゴなどに加え、サン=サーンスの「白鳥」やリストの「愛の夢」など叙情的な曲が組み込まれ、躍動感あふれる曲とのコントラストが際立っていた。
 各曲の紹介はこのアンサンブルの創始者であり、リーダーでもある第1ヴァイオリンのティボール・コヴァーチが担当。ユーモアたっぷりに司会を進める。
 前回もその妙技に舌を巻く感じだったが、今回もピアノのフランティシェク・ヤーノシュカのロマ風の演奏にすっかり酔いしれてしまった。
 もちろん各人の見せ場もたっぷり披露され、それぞれの個性も存分に発揮された。
 今日は特別にプログラムに組まれていない曲が1曲追加。ボーナス・プログラムとして、ファリャのクライスラー、カウフマン編曲による「三角帽子」より「スパニッシュ・ダンス」が演奏されたが、スペイン好きの私としては、身も心もノリノリで、本当は足踏みをしたいくらいだった。
 終演後は、みんな笑顔で、「楽しかったねえ」とか「聴きにきてよかった」などと話しながらホールをあとにしていた。
 今日の写真は、個性的な7人が表紙のプログラム。以前、インタビューしたときに、「私たちは本当に音楽を楽しんでいて、それをいかに聴いてくれる人に伝えるかをいつも考えている。だから、いったんリハーサルが始まると、だれも止める人がいない。録音でも、収録が終わってからもずっとみんな演奏しているんだよね」と語っていたが、そのひたむきさが完璧なるアンサンブルを生み、聴衆を心から楽しませる演奏を紡ぎ出すのだろう。
 ホント、しばし日常を忘れました…。


 
 
| クラシックを愛す | 23:44 | - | -
アルテミス・カルテット
 7月20日のブログで、アルテミス・カルテットのヴィオラ奏者、フリーデマン・ヴァイグルが急逝したことを書いたが、彼が参加した最後の録音、ブラームスの弦楽四重奏曲第1番と第3番(ワーナー)は、本当に心に残る演奏となっている。 
 第1番はブラームスならではの厳粛さと渋さが共存し、緻密に練り上げられた弦4本の響きが印象的である。特にヴィオラとチェロの重厚な味わいが耳に残る。第3番は打って変わって明朗で自由闊達、親しみやすい旋律に彩られ、ロマンあふれる情緒が全編を貫いている。それらをアルテミス・カルテットはブラームスの神髄に迫る迫力と、巧みな奏法を披露し、ハンガリー的な味わいをも大切に緊密なアンサンブルを聴かせている。
 フリーデマン・ヴァイグルの訃報は、7月7日アルテミス・カルテットのメンバーによって発表された。享年52。常に右側で長い黒髪を揺らしながら凛とした演奏を響かせていたヴァイグルは、病気のため帰らぬ人となった。
 フリーデマン・ヴァイグルは1962年ベルリンに生まれた。指揮者セバスティアンは実兄である。6歳でヴァイオリンを始め、ベルリン・ハンス・アイスラー音楽院でヴィオラを学び、国際コンクール入賞を経て1979年にベーターゼン・カルテットを結成した。その後、ベルリン・ドイツ交響楽団のヴィオラ奏者を務め、2007年にアルテミス・カルテットのメンバーとなる。各地の音楽院で教鞭も執り、後進の指導にも尽力した。
 昨年のインタビューでは、ヴィオラのヴァイグルを評して他のメンバーがこう語っていたことが印象に残っている。
「フリーデマンは全員のエンジン役で、あらゆる方向に向けて視野を広く保ち、常に上を目指していくんだよ」と。
 今回のブラームスでも内声に注意深く耳を傾けると、ヴィオラの知性的で構成力を大切に、ヴァイオリンとチェロの架け橋となるべく巧みなバランスを保つ音色が明確に聴こえてくる。そのヴィオラは、ヴァイグルの渾身の音でもあり、魂の響きでもある。
 とりわけ第3番の第3楽章は、ブラームスがヴィオラを主役に仕立てて作曲した作品。その愛らしい旋律と情感豊かな響きは心に深く刻み込まれる。
 今日の写真は、ブラームスの新譜のジャケット写真の表と裏。いつも右端にいるのがヴァイグルだ。




| クラシックを愛す | 22:07 | - | -
フロントページはベートーヴェン
 ホームページのリニューアルのデザインが着々と進んでいる。当初、10月末にリニューアルが完了する予定だったが、少し遅れ、11月下旬になる予定だ。
 先日、デザイナーからフロントページのデザインを見せてもらい、すばらしい仕上がりに感動してしまった。
 写真は、私が昨年ウィーンで撮ってきたベートーヴェンの立像と、ベートーヴェンの散歩道をデザイン処理で組み合わせてもらったもの。
 実は、このベートーヴェン像のうしろ姿を撮ったものが大人気で、デザイナーはじめ担当者がみな「これがいい」「うしろ姿に注目したところが伊熊さんらしい視点だ」「こんなの、他であまり見たことがない」と即座に決まってしまった。
 この像は散歩道の中間に位置する広場に立っていて、ふつうは真正面から撮る。雑誌や書籍などでは、ほとんどの場合、正面の写真が掲載されている。
 だが、私はベートーヴェンが帽子をもってうしろで手を組み、歩いている姿がとてもリアリティがあると感じ、後方にまわって写真を撮った。
 まさか、それがみんなに受けるとは思いもしなかったが、なるほど、いわれてみると、なかなかおもしろい。
 というわけで、散歩道の細い小川が流れている場所と、ベートーヴェン像がリンクされてフロントページを飾ることになった。
 これがなんとなく哀愁を感じさせるというか、一種の寂寥感がただようというか、なんとも情感豊かなページになっている。
 もう少し時間がかかるけど、楽しみにしてくださいね。
 グリーグの作曲小屋がフロントを飾ってから5年が経過、次はベートーヴェンです。
| クラシックを愛す | 22:27 | - | -
ハイティンク指揮ロンドン交響楽団
 昨日は、ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン交響楽団のコンサートを聴きにサントリーホールに行った。
 ハイティンクは現在86歳だが、かくしゃくたる姿で登場し、ロンドン響とは「特別な何か」で結ばれているといわれるように、その絆の深さを存分に披露した。
 まず、第1曲目は私がこよなく愛すマレイ・ペライアをソリストに迎えたモーツァルトのピアノ協奏曲第24番。ペライアのえもいわれぬ美しく、情感豊かで、たっぷりとうたうピアノが全編にあふれ、ピアノとオーケストラの音の対話が濃密で、モーツァルトのシンプルでかろやかな美質が存分に堪能できた。
 後半は、マーラーの交響曲第4番。こういうプログラムだと、男性ファンが多くホールに詰めかける。この夜も、マーラーを聴きにきたという表情をした男性が、ホールを満たしていた。今回のロンドン響のプログラムは、ブルックナーの交響曲第7番やブラームスの交響曲第1番が組まれている日がある。きっと、こうした日も、シンフォニー好きの男性が駆けつけるのではないだろうか。
 ロンドン交響楽団は、弦楽器が非常に精緻で精確で流麗。管楽器の高度な技巧も際立ち、まさにマーラーの交響曲第4番の交響的歌曲という表現形態にぴったりである。
 今回のソプラノは、アンナ・ルチア・リヒター。ケルン大聖堂少女聖歌隊でうたっていたという経歴の持ち主で、2011年のシューマン・コンクールで優勝を果たしている。
 とても浸透力の強い歌声で、弱音でもホールの隅々までしっとりと響いていく。マーラーの交響曲第4番を得意としているようで、ハイティンクとはこれまでも共演している。
 ハイティンクはこれまでさまざまなオーケストラと来日しているが、礼儀正しく静かに聴いてくれる日本の聴衆と、日本食が大好きだそうだ。そしてプログラムのインタビューのなかで、「マーラーの交響曲第4番は軽くてシンプルで、がなり立てるところが一番少ない作品だと思います」「私ぐらいの歳の指揮者は、ブルックナーに関わり合うことが多くなります。特に気に入っているのが第7番です」と語っている(インタビュー 下田季美子)。
 ペライアの緻密でまろやかで内省的なモーツァルトと、ハイティンクの円熟した実直なタクトによるマーラー。交響曲第4番は非常に長い作品ゆえ、終演は21時をはるかに回っていたが、ほとんどの聴衆が偉大なる指揮者を称え、何度も何度もステージに呼び出していた。
 この日はツアーの初日。今後、30日(ミューザ川崎シンフォニーホール)、10月1日(NHKホール)、3日(京都コンサートホール)、5日(東京文化会館)他が組まれている。
| クラシックを愛す | 22:53 | - | -
アンネ・ソフィー・フォン・オッター
 音楽は、一瞬にしてある曲を聴いたときにタイムスリップさせ、思い出をまざまざまと蘇らせる不思議な力を有している。
 今日は、東京オペラシティコンサートホールにアンネ・ソフィー・フォン・オッターのリサイタルを聴きにいった。
 フォン・オッターは9年ぶりの来日で、今回はスウェーデンのソプラノ、カミラ・ティリングとのデュオが多く組まれた。ピアノはジュリアス・ドレイク。
 このコンサートは19世紀に一世を風靡し、「スウェーデンのナイチンゲール」と讃えられたジェニー・リンド(1820〜1887)に捧げられている。
 プログラムはメンデルスゾーンからグリーグ、マイアベーア、シューベルト、R.シュトラウスまで多種多様な作品が組まれ、デュオとソロが次々に登場した。
 フォン・オッターの歌声を聴くと、私の脳裏にはすぐに1994年春にウィーン国立歌劇場で聴いたクライバー指揮によるR.シュトラウスの「ばらの騎士」が蘇ってくる。それほどあの舞台は印象が強烈だった。
 今日のフォン・オッターは、当時とくらべると表情が柔和になり、歌声も声量の豊かさやストレートな表現力で勝負するというよりも、ひとつひとつの歌詞を大切に、作品にひたすら寄り添うという姿勢が際立っていた。
 フォン・オッターの歌唱は、ひとり芝居を思わせる。
 ピアノの伴奏にかろやかな凛とした声を乗せ、その作品をあたかも芝居を演じているようにうたい込んでいく。その歌からは、季節の移り変わりや美しい自然、愛情や恋、夢や涙や歓びや哀しみが伝わり、心がさまざまな感情で湧き立つ。
 もっとも印象に残ったのは、フォン・オッターがうたったR.シュトラウスの「明日!」。これは、私が大好きな曲で、クリスタ・ルートヴィヒが日本での引退公演の最後にうたった曲である。このときはみんな涙に暮れたものだ。
 今日のアンコールは、オッフェンバックの「ホフマン物語」より「舟歌」、ブラームスの「姉妹」、フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」より「夜には、私は眠りに行きたい」、ベニー・アンダーソン&ビョルン・ウルヴァースのミュージカル「クリスティーナ」より「The Wonders」という多彩な4曲。ソプラノとメゾ・ソプラノのデュオを思いっきり堪能した一夜となった。
| クラシックを愛す | 23:59 | - | -
祈りのとき
 今夏、新譜のライナーを書いた関係で、すっかり親しくなったクラリネット奏者の藤井一男。
 先日も藤井一家と西荻で食事会をしたことを書いたが、その新譜「祈りのとき」(コジマ録音・10月7日発売)が出来上がり、レコード会社から送られてきた。
 このアルバムはクラシックから日本の曲までさまざまな作品が含まれ、いずれも耳にやさしいおだやかな旋律に彩られている。
 藤井一男の長女であるピアニストの藤井裕子とのデュオで、16曲がいろんな色彩を醸し出し、物語を描き、聴き手の心をふんわりと包んでくれる。
 全編が金山徹のオリジナル編曲で、ヤマハ・ミュージック・メディアから楽譜も出版される。聴くだけではなく、ぜひ自分で演奏してみたいと思う人には朗報だ。
 このアルバムに関しては、ヤマハのWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」でも紹介し、来週の木曜日にアップされる予定。
 今日の写真は、新譜のジャケット。あら、演奏家の顔写真じゃないのね、と思ってジャケットの裏面を見たら、そこにおふたりの写真が掲載されていた。まずは、ひと安心(笑)。




 
 
| クラシックを愛す | 21:52 | - | -
NCAC音楽大学の講演
 昨日は、長野市のホクト文化ホールでNCAC音楽大学の講演があり、かなり多くの人が集まってくれた。
 当日、午前中にスタッフの方たちと詳細な打ち合わせをし、CDとDVDの順番やトラックなどを指定し、マイクテストも行い、準備をした。
 ランチには「信州牛弁当」というおいしいお弁当をいただき、いよいよ14時スタート。
 長野の受講生はとても静かに熱心に聞いてくれ、メモを取っている人もいる。なにしろ60分ゆえ、私のいつものマシンガントーク炸裂。自分でもわかっているけど、時間に限りがあるため、どんどん早口になってしまう。
 ショパン・コンクールのこと、長野出身の入賞者、山本貴志のこと、歴代の優勝者のこと、コンクールにまつわるエピソード、私がインタビューした人たちの話などを次から次へと紹介し、合間に音源をかける。
 あっというまに講演は終わり、その後、車座になって20〜30人の人たちから質問を受けたり、コンクール以外のいろんな話もしたり…。
 すべて終わってホールを出ようとしたら、「山本貴志の祖父母です。いつも孫を応援していただいて、ありがとうございます」と、山本貴志のおじいさまとおばあさまにごあいさつをされてしまった。
 今日の講演を聞きにきてくれたのである。おばあさまは、山本貴志にとても似ている。おふたりに、「今後とも、どうぞよろしくお願いします」と深々とおじぎをされ、私も一緒に深いおじきを。
 この講演は、新聞社などが取材にきてくれた。

 さて、長野県でコンクールといえば、10月3日から12日まで、軽井沢大賀ホール他を会場とし、第11回国際オーボエコンクール・軽井沢が開催される。
 第1次予選は10月3日、4日。第2次予選は6日〜8日。本選は10日。
 入賞者&審査委員コンサートが11日に大賀ホールで、12日に東京文化会館小ホールで開催される予定である。
 今回の審査委員長はハンスイェルク・シェレンベルガー、審査員はモーリス・ブルグ、古部賢一、ゴードン・ハント、小畑善昭、アラン・フォーゲル、吉田将が名を連ねている。
 10月10日の夕方には優勝者&入賞者が決まる。秋の気配が濃厚な軽井沢で、ぜひ世界から集まる若きオーボエ奏者の熱演に耳を傾けたいものである。

 今日の写真は、NCAC音楽大学の講演に集まってくれた受講生たち。長野の人たちは、結構シャイな人が多く、「質問はありませんか」といってもなかなか手を上げたり、人前で話したりしたがらないと事前に聞いていたため、講演後にみんなのところに下りていって話をした。すると、みなさんどんどん質問や話が出てくる。
 そうか、やっぱりみんなのなかに入っていく方がいいのね。ひとつ学びました(笑)。
 というわけで、無事に初めての講演が終わった。次回もぜひ、といわれているため、「喜んで」と返事をしたが、今度は長野市芸術館の新ホールができあがってからということになる。どんなホールができるのだろうか。新ホールを訪れるのが楽しみである。


 
 

 
| クラシックを愛す | 20:49 | - | -
JOYCE&TONY
 昔から、カラヤン、ショルティをはじめ、ピアノが得意な指揮者は多い。
 最近では、レヴァイン、チョン・ミョンフン、ノセダが歌手や器楽奏者との共演で、その実力を示している。
 以前、プレヴィンが、マクネアーとジャズやアメリカン・ポップスをうたったアルバムがすばらしく、何度聴いても至福のひとときを過ごすことができたが、それに匹敵するスゴイふたりのアルバムが登場した。
「ジョイス・ディドナート&アントニオ・パッパーノ ライヴ・アット・ウィグモア・ホール」(ワーナー)と題されたライヴ録音で、いま絶好調のメゾ・ソプラノ、ディドナートがマエストロ・パッパーノのピアノに合わせ、天に飛翔していくような躍動感とエネルギーを発揮した、楽しさあふれるアルバムである。
 ディドナートは、今夏2枚の印象的なアルバムをリリースしたばかり。1枚は「ロッシーニ:オペラ・アリア集」で、これは「彼が愛したミューズ/コルブランに寄せた作品集」というサブタイトルが付けられている。そしてもう1枚は、メゾならではのオペラにおける男役(ズボン役)と女役の両方をうたった「ディーヴァ・ディーヴォ」というアルバム。これはヤマハの「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」で紹介したばかりだ。
 そこへ今回のパッパーノとの新譜が登場した。2014年9月にウィグモア・ホールで行われたライヴで、2枚組。1枚目はハイドンやサントリクイド、デ・クルティスらの作品がずらりと詰まっていて、まさにイタリア色満載。
 一方、2枚目は「ヤンキー・ディーヴァ」と自ら称するディドナートが、得意とするアメリカの曲、ジェローム・カーンをはじめとするミュージカルやキャバレー・ソングを嬉々としてうたい上げたもの。パッパーノも英国生まれのアメリカ育ち。絶妙のピアニズムでディドナートの歌に寄り添う。
 こういうアルバムは、ときどき無性に聴きたくなるものだ。イタリアのイラストレーターによるジャケットの絵も実に雰囲気があり、当日のデュオの様子をリアルに伝えている。今日の写真はそのジャケット。このふたりの表情、うまいよね〜。


 
 
 
 
| クラシックを愛す | 22:31 | - | -
NCAC音楽大学
 2016年5月に開館する長野市芸術館の記念行事として、プレ・イヤーの2015年にホクト文化ホール(長野県県民文化会館)小ホールで行われているNCAC音楽大学の「音楽が分かる大人になろう!講座」。
 すでに5月31日(柴田克彦氏)と7月18日(加藤昌則氏)の2回が終わり、9月19日は、私が講師を務める番である。
 その打ち合わせで担当のMさんが上京し、今日は午後から講座の詳細を話し合った。
 Mさんとは、彼女が音楽事務所に勤務していたころからの長いつきあいである。でも、松本に実家がある彼女は数年前に松本に戻り、長野市芸術館がオープンするのをきっかけに、長野に移った。現在は、開館を前にさまざまな仕事を行い、とても忙しそうだ。
 本当に久しぶりに会ったため、お互いの近況報告や、ホールの話、これからのことなどさまざまな話をし、有意義な時間を過ごした。
 今日は、ホールのホームページに掲載するということで、私のビデオメッセージが収録された。れいによって早口になってしまい、いろんなことを話したが、彼女がうまく編集してくれるようだ。
 この講座のタイトルは、「ピアニスト山本貴志とコンクールの覇者たち」〜ベテランから注目の新人まで〜と題されている。山本貴志は長野県出身であり、今年はショパン・コンクールの開催年であることから、彼の話から始めることにした。
 アーティスト・レシピも考えてほしいというオファーがあり、いま山本貴志のレシピを考えている。キーワードは「スープ」。彼の演奏はユニークであったかくて人を引き付ける。いまはワルシャワで再度研鑽を積んでいることから、ポーランドの食材と、長野の食材を使ったスープを考案中だ。
 さて、どんな講座になるだろうか。
 なにしろ60分間である。内容が凝縮し、参加してくれた人が楽しんでくれるものにしなくてはならない。音源選びも慎重にしなくては…。
 
 
| クラシックを愛す | 17:53 | - | -
マーティン・ヘルムヘン
「ヘルムヘンのピアノに恋をした」のは、何年前のことだろうか。おそらく、2004年の初来日のときだったと思う。
 当時、まだマーティン・ヘルムヘンの名前は、日本ではあまり知られていなかった。だが、ヨーロッパでは知性的でリリカルなピアニズムの持ち主として知られ、海外出張などのときに、よく町で演奏会のポスターを目にしたものだ。
 当時から、私は情感豊かでけっして鍵盤をたたかず、かろやかでありながら思慮深い表現に心が奪われていた。
 彼がトッパンホールでコンサートをするようになったのは、2008年から。以来、トリオなどを含め、3度出演。
 今回は、先日書いたように7月31日にヴァイオリニストの日下紗矢子とのデュオを披露し、8月2日にはリサイタルを行った。
 毎回、ヘルムヘンのプログラムはあるひとつのテーマに基づき、練りに練った曲目が並ぶ。今回は、変奏曲がテーマ。
 まず、シューベルトの親友のひとりといわれる「ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲」からスタート。聴き手を「シューベルティアーデ」のサロンへといざなうような親密な空気を生み出した。
 次いでウェーベルンの今日演奏される唯一のピアノ作品が登場。200年以上前の作曲家たちと現代の聴衆との間に位置するウェーベルンが、シューベルトと次なるシューマンの作品をつなぐ役割を果たしている。
 シューマンは幻想曲の様相を呈している「アベック変奏曲」が選ばれ、こうした作品はヘルムヘンの美質が存分に発揮される。主題に基づく変奏が幾重にも変容し、シューマンならではの変奏の妙が濃厚な音色で奏でられた。
 後半は、ベートーヴェンの「ディアベリの主題による33の変奏曲」。これが当日のメインを成す作品で、ベートーヴェン最大の変奏曲であり、変奏技法の集大成ともいうべき1時間近い大作を、ヘルムヘンは一瞬たりとも弛緩することなく、緊迫感と集中力みなぎる演奏で聴かせた。
 この変奏曲は、素朴な主題をさまざまな形に変化させていくベートーヴェンの傑出した才能が堪能できる作品。主題が自由に飛翔し、小宇宙を形成するため、聴き手も天上へと招かれ、音楽に心から酔える。
 私は、またまたヘルムヘンのピアノに深く魅了された。
 彼は来春、クリスティアン・テツラフらとの室内楽の演奏のために日本に戻ってくる予定である。また、詳細が判明したら、すぐに情報を流したいと思う。
 いつも彼のピアノは私の心に深い感銘をもたらし、幸せな気持ちにさせてくれる。次回の室内楽もメンバーが充実しているようで、本当に楽しみだ。
 今日の写真は、終演後のサイン会でのヘルムヘン。大作を弾き終え、汗びっしょりで、額にかかった髪も濡れている。演奏中は暗譜ゆえ、メガネはかけていなかったが、サインをするときはメガネ着用だ。


 
 
| クラシックを愛す | 23:56 | - | -
日下紗矢子&マーティン・ヘルムヘン
 トッパンホールでは、ヴァイオリニストの日下紗矢子の才能に注目し、「日下紗矢子 ヴァイオリンの地平」と題したシリーズを行っている。同ホールにとって、邦人の個人名を冠したシリーズは園田高弘、清水和音に次いで3人目になる。
 今日は、そのシリーズの第2回が行われ、前回のバロックに続いて古典派にスポットが当てられ、モーツァルト、ベートーヴェン、パガニーニ、シューベルトの作品がプログラムに組まれた。注目すべきは共演のピアニストで、マーティン・ヘルムヘンが担当した。
 日下紗矢子は、現在ベルリン・コンツェルトハウス室内管弦楽団と、読売日本交響楽団のふたつのオーケストラのコンサートマスターを務めている。この重責を担いながら、ソリストとしても活発な活動を展開していることになる。
 彼女のヴァイオリンは推進力と躍動感に富み、芯の強い音楽である。オーケストラでの演奏も、ぐいぐいメンバーを引っ張っていく力量が高く評価されているが、今日の演奏も、前に前に進んでいく力強さに満ちていた。
 これにピタリと呼応しているのが、ヘルムヘンのピアノだ。彼のリサイタルは8月2日にトッパンホールで開催される。私が待ちに待っていた演奏会である。
 今日は週末で、まだ仕事が残っている。だが、このデュオはどうしても聴いておかなくちゃ、と思って出かけたが、まさに至福のひとときを過ごすことができた。
 これからも日下紗矢子の歩みに注目したい。彼女の迷いのない、直球型の演奏は、ある種の力を与えてくれるからだ。とりわけ、最後に演奏されたシューベルトの「ロンド」ロ短調が強烈な印象をもたらし、いまだ頭のなかで鳴っている。
 
| クラシックを愛す | 23:31 | - | -
鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパン
 今日は、J.S.バッハの265回目の命日である。
 この日に、第45回サントリー音楽賞を受賞した鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパンの記念コンサートがサントリーホールで開催された。プログラムは「ロ短調ミサ曲」である。
 鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパンが初めて「ロ短調ミサ曲」を演奏したのは、バッハ記念年2000年11月のこと。サントリーホールのバッハシリーズでのことだった。
 その後、さまざまな地で演奏し、東日本大震災後のアメリカツアーでは多くの支援を受け、より深く作品に寄り添うことになる。
 今日の演奏は、歌手陣も充実。ハンナ・モリソン(ソプラノ)、レイチェル・ニコルズ(ソプラノ)、ロビン・ブレイズ(カウンターテナー)、櫻田亮(テノール)、ドミニク・ヴェルナー(バス)というメンバーが底力を発揮した。
 鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏は、ヨーロッパ、アメリカ各地でも完璧なドイツ語の発音、対位法の深い理解、声楽と器楽の絶妙のバランス、こまやかな配慮などが高い評価を得ている。
 これまで数々の賞も受け、各地の音楽祭にも招かれているが、その実力が今日の「ロ短調ミサ曲」では存分に発揮され、圧倒的な存在感を放った。
 鈴木雅明は、プログラムに文章を寄せ、こう記している。
「この慈愛に満ちたバッハの海は、私たちを育み、慰め、励まし、また争いをいさめて平和をもたらす本当に大きな力をもっているので、これからも、ますます多くの方々とともにこの宝を共有できるよう、微力を尽くしたいと思っております」
 彼らの演奏は、作曲家への限りない敬意と愛着と信頼感を感じさせるものだった。19時開演、終演は21時30分を回っていたが、まさにバッハの命日に聴くにふさわしい、心にずっしりと響く演奏だった。
 今日の写真は、2009年1月にライプツィヒを訪れたときに撮った、聖トマス教会の内部と、バッハのお墓。このときはドイツに100年ぶりの寒波が押し寄せたときだったため、旅は極寒の日々だった。今日は真夏にバッハを聴いたわけだが、命日ということで私の脳裏には聖トマス教会が浮かび、そのときの寒さが蘇ってきた。音楽を聴きながら、バッハの史跡を巡り、資料や楽譜などを検証したときのことが思い出された。




 
| クラシックを愛す | 23:26 | - | -
辻井伸行
 辻井伸行は演奏のたびにレパートリーが増え、しかもそれらを完全に自分の音楽とし、聴衆のため息を誘う。
 今日は「プレミアム・リサイタル」と題され、各地の極上の音響空間で聴くシリーズの一環として、紀尾井ホールでリサイタルが行われた。
 プログラムは、彼が愛してやまないショパンとリスト。前半がショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」とピアノ・ソナタ第2番「葬送」。後半がリストの「ハンガリー狂詩曲」第6番とピアノ・ソナタ ロ短調。前回と同様、今回もプログラムの曲目解説の原稿を担当した。
 ふたりの作曲家の作品はデビュー当初から弾き続けているが、今日のプログラムでは、大きなピアノ・ソナタが2曲組まれ、辻井伸行は研鑽の結果を存分に発揮、聴きごたえのあるソナタを披露した。
 彼はこれらの作品に関し、プログラムにこう綴っている。
「ショパンのピアノ・ソナタ第2番は、第3楽章の《葬送行進曲》が有名ですが、作品全体を通して強く心を揺さぶられます。リストの唯一のピアノ・ソナタは、緻密な音楽のドラマが30分間途切れることなく続きます」
 すべてのプログラムが終了した段階で、辻井伸行は大きな声で客席に向かって「楽しんでいだたけましたか」と話かけ、嵐のような喝采を受けた。すると「たくさんの拍手をいただきましたので、アンコールを演奏します」と語り、会場は大爆笑。リストの「愛の夢」、ショパンの「革命」エチュード、ノクターン嬰ハ短調(遺作)などを演奏し、最後は静かに幕を閉じた。
 終演後、楽屋に顔を出すと、辻井伸行は大作を弾き終えて晴れ晴れとした表情をしていた。
 今日の写真は、そんな彼のワンショット。今回のツアーは、7月1日に旭川から始まり、7月26日につくば市でフィナーレを迎える。11公演すべてが完売という快挙で、辻井伸行の底力を示している。


 
| クラシックを愛す | 23:25 | - | -
前橋汀子
 ヴァイオリニストにとって、J.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ」全曲は、重要な作品であり、高い頂を意味する。
 昨日は、神奈川県立音楽堂で、前橋汀子がこの全曲演奏に挑んだ。
 ご本人から「ぜひ聴きにきてほしい」といわれ、久しぶりにこのホールへと足を運んだ。
 前橋汀子は、もちろんこの作品をずっと弾き続けているが、昨日の演奏は冒頭から怖いほどの集中力がみなぎったもので、14時から16時40分まで、一瞬たりとも弛緩することなく大作を弾ききった。
 このホールは、リヒテルの最後の来日公演を聴いた思い出の場所である。「木のホール」といわれるように、響きがとてもまろやかで、しかもひとつひとつの音がクリアに聴こえてくる。
 バッハの無伴奏作品は、弦1本で勝負する孤高の世界。前橋汀子は、各舞曲の要素を前面に押し出し、リズムの変化を楽しみ、ヴァイオリンと一体となってバッハの世界へと聴き手をいざなった。
 終演後、楽屋を訪れると、まだ演奏できそうなほど、エネルギーに満ちた彼女の笑顔が印象的だった。
 すごい作品であり、すごいヴァイオリニストである。2時間半にわたってバッハを聴き続け、その作品の神髄に触れ、まさに魂が浄化する思いにとらわれた。
 今日の写真は、終演後の楽屋での1枚。まだまだエネルギーが有り余っている感じがするでしょ(笑)。


 
| クラシックを愛す | 22:16 | - | -
アンティ・シーララ
 こんなピアノが聴きたかった。そんな思いが演奏の間中ずっと胸の奥にただよい、目を閉じて音楽のなかにどっぷりと浸ることができた。
 昨日は浜離宮朝日ホールで、久しぶりにアンティ・シーララのリサイタルを聴き、心の底から「ああ、いいピアニストになったなあ」と感じた。シーララのピアノは、芯のある音だが、決して鍵盤をたたかず、深々とした響きが心にゆっくり浸透してくる。
 プログラムは前半がシューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」、後半がベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番とスクリャービンのピアノ・ソナタ第10番。
 シューマンの18曲をそれぞれの物語性を浮き彫りに、ときに柔軟性をもつかろやかでやわらかな音色を駆使し、またあるときは生命力を放つエネルギー全開のピアニズムを発揮、さらに曲が内包するユーモアと遊びの精神が随所に顔をのぞかせる。
 この時点で、大きな成長を遂げたシーララの実力を感じ取ることができた。
 以前、インタビューをしたのは2008年初頭のこと。彼は1979年ヘルシンキ生まれ。ウィーン・ベートーヴェン国際コンクール、ロンドン国際ピアノコンクール、ダブリン国際ピアノコンクール、リーズ国際ピアノコンクールのすべてに優勝し、国際舞台に躍り出た俊英だった。
 あれからずいぶん年月が経ったが、シーララは着実に実力派として幅広い活動を展開、2013年よりゲルハルト・オピッツの後任として、ミュンヘン音楽大学の教授に就任している。
 もっとも得意とするのはベートーヴェンで、今回もソナタ第31番で存在感と説得力のある、まさに王道をいく演奏を聴かせ、至福の時間を与えてくれた。
 新譜もベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番、第31番、第32番で、清涼感あふれる音色で洞察力に富むベートーヴェンを聴かせている(キングインターナショナル)。
 明日は、7年ぶりのインタビューを行う予定である。いまや実力派として世界各地で演奏し、教授ともなったシーララ、どんな話を聞かせてくれるだろうか。
 今日の写真は、リサイタルのプログラムの表紙。7年前と、あまり変わらない風貌だ。男性にこういう表現は適さないかもしれないが、ちょっとキュートなんだよね。

| クラシックを愛す | 21:43 | - | -
ヴァレリー・アファナシエフ
 今日もヴァレリー・アファナシエフのリサイタルがあった。今度は紀尾井ホールで、先日新譜がリリースされたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」と、第4番「月光」が前半に組まれていた。
 もちろん録音を聴いているため、テンポや解釈や表現に関してはすでに理解しているつもりだったが、やはりナマで聴くと、アファナシエフの作り出す音楽は聴き手にも緊張感と集中力を要求する。
 彼のベートーヴェンは心の奥の叫びのようで、作曲家の魂を代弁しているかのように強靭な訴えが全編を支配している。
 先日のインタビューでは、彼のベートーヴェンに対する思いのたけを存分に吐露してもらったが、まさに「私のベートーヴェンはこれだ!」という主張の強い音楽だった。
 その強い心の叫びは、後半のショパンのポロネーズ6曲にも現れていた。ショパンが祖国の危機に対して自分が無力だということを嘆きながらピアノに向かった、その痛いほどの思いがアファナシエフの深く強い響きから伝わってきた。
 いつしか、私の脳裏にはワルシャワのワジェンキ公園が浮かんできた。音楽を聴いてある風景が浮かぶということはよくあるが、なぜか今日はワジェンキの広大な自然が目の前に現れた。
 アファナシエフのショパンは、ルバートと音符と音符の間(ま)の取り方が実に個性的で、演奏が終わってもその間が頭のなかにずっと居座る。
 このリサイタルの公演評は、「公明新聞」に書くことになっている。
 今日の写真はワジェンキ公園。いつもショパン・コンクール開催時の10月に訪れるため、もうかなり寒く、ここを散策するとリラックスするというよりは、ショパンの望郷の念を強く感じる。なんとも不思議な気持ちに駆られる場所である。それがアファナシエフの慟哭のような演奏から呼び覚まされたのだろうか…。


| クラシックを愛す | 22:57 | - | -
ヴァレリー・アファナシエフ
 今日は、トッパンホールでヴァレリー・アファナシエフのリサイタルがあった。プログラムは前半がJ.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第1巻より3曲とヴァレンティン・シルヴェストロフの「オーラル・ミュージック」、後半はシルヴェストロフの「サンクトゥス/ベネディクトゥス」とバッハの「平均律クラヴィーア曲集」第2巻より6曲という構成。
 アファナシエフというと、極端に遅いテンポ、個性的な解釈、強靭なタッチなどが特徴といわれているが、今日の演奏は実に自然で躍動感に満ち、全編に音楽する喜びがあふれていた。
 先日インタビューしたときにも感じたことだが、彼はいま真の自由と開放感と前向きな精神に満ちているようで、それはバッハの音楽の外に向かって放たれる自由な意志を伴う演奏にも現れていた。
 以前、アファナシエフの演奏はひたすら内省的で自己の内面と対話するような様相を呈していたが、今夜の演奏はそれらと一線を画していた。
 それが証拠に、なんとサイン会までしたのである。本当に珍しいことだ。それも、ひとりひとりのファンににこやかに対応し、話を聞き、それにていねいに答え、ずっと笑顔を絶やさなかった。
 アファナシエフのなかで何かが大きく変容している。インタビューでも話が止まらず、時間がきても、もっと話したいという表情をしていたし…。
 バッハの「平均律」では、指をまっすぐに手をひらひらさせながら演奏する奏法はまったく変わらず、強靭な打鍵と絶妙の間の取り方が印象に残った。さらにクリアなアーティキュレーション、フレーズのつなげ方、内声の響かせ方、ペダルの使用、プレリュードとフーガの対比、分散和音の流れなどに特有のこだわりが宿っていた。
 もっとも印象的なのは、各曲の最後の音をずっとペダルで伸ばし、すっと足を外して消音したかと思うと、一気に次の曲へと入り込んでいく奏法。これにより、最後の音から次なる作品への音の架け橋が可能になり、聴き手は前の作品の余韻を意識しながら、次なる作品との関連性に気づくことになる。
 今日の写真は、終演後のサイン会でのアファナシエフ。こんな楽しそうな彼の表情は、初めて見たような気がする。
 でも、本来のアファナシエフは、ものすごくシャイな性格だ。それがステージには如実に現れ、アンコールのショパンのマズルカ第47番イ短調作品68-2を弾いた後の照れくさそうな表情に出ていた。おじぎもそこそこに、さっとステージをあとにするのである。
 実は、そんな態度が、私はすごく好きなのである。人間性が強く感じられるから。今日の公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書くことになっている。


 
 
| クラシックを愛す | 23:58 | - | -
前橋汀子
 前橋汀子はエレガントで思慮深く物静かな感じがするのだが、実はエネルギーのかたまりのような人である。
 コンサート活動においても、次々に新たなシリーズを立ち上げ、自身の可能性をひたすら追求していく。
 今日はサントリーホールで「アフタヌーン・コンサートVol.11」と題されたリサイタルが行われ、ピアノの松本和将とともに名曲の数々を表現力豊かに奏でた。
 前半はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番「春」、フランクのヴァイオリン・ソナタという2大ソナタで構成。美しく、聴きやすく、明朗な作品を流れるように紡いでいく。
 後半は皇后陛下御臨席のもと、ショーソンの「詩曲」、サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリツィオーソ」をはじめとするヴァイオリンのさまざまな奏法と表現が楽しめる作品がズラリ。まさに、作品の美しさに心が満たされるひとときとなった。
 今日は満員御礼で、大入り袋をいただいてしまった。
 終演後、楽屋で会うと、「ねえ、今度お茶しましょうよ。お話したいことがたくさんあるし…」といわれたのだが、私はぜひ彼女のポジティブな姿勢を多くの人に伝えたいため、インタビューという形にしたいと申し出た。もちろん、お茶を飲みながら、いろんな話に話題が広がっていくのは大賛成だ。
 7月11日には神奈川県立音楽堂でJ.S.バッハの無伴奏全曲リサイタルが予定されているのだが、こちらもすでに完売だ。
 前橋汀子に会うと、いつも「私も頑張らなくちゃ」という思いにさせられる。彼女の自然体且つたおやかな風情でぐんぐん前に進んでいく姿勢に、インスパイアされるからである。
 今日の写真は、終演後の晴れ晴れとした表情の彼女。ステージ衣裳は、前半はオーソドックスで上品な白、後半は情熱的で躍動感あふれる感じの真紅という、作品に合わせた色合いだった。
 う〜ん、いつ会っても女らしくてステキ。この麗しさ、見習わなくっちゃね(笑)。


 
| クラシックを愛す | 23:06 | - | -
庄司紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ
 今日もまた、ヴァイオリンのリサイタルを聴きにサントリーホールに出かけた。庄司紗矢香とジャンルカ・カシオーリのデュオである。
 彼らはデュオを組んで6年、つい先ごろベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲録音の完結編(第5番《春》、第6番、第10番)をリリースしたばかり(ユニバーサル)。
 ふたりは日本ツアーでもベートーヴェンのソナタを披露し、今回は5月23日から10公演が組まれ、今日がツアー最終日である。
 今日のプログラムは、前半がモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第35番とベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第6番。後半はストラヴィンスキーの「イタリア組曲」とラヴェルのヴァイオリン・ソナタ。
 最終日ともなると、ふたりの息はまさにピッタリ。だが、無理に合わせようとせず、お互いの音楽性を理解した上で、自己を主張しながらも次第に寄り添っていくというデュオである。
 いつも感じることだが、このデュオはけっして激せず、淡々と、流れる水のような不思議な色合いを見せる。庄司紗矢香は繊細で知的でクールな音楽性を備え、それに和すカシオーリのピアノはやわらかく、感情を抑制した趣をただよわせる。
 情熱的で濃厚で丁々発止の対話が行われるというデュオとはまったく異なり、あくまでも静けさがただよい、聴き手の心の奥にしみじみと音楽が染み込んでくるという様相を呈している。
 なお、カシオーリはこの後リサイタルも予定され、12日に紀尾井ホールでショパンやリストからリゲティまで多彩な曲目を組んだ演奏を行う。そちらにもぜひ足を運びたいと思う。
 
| クラシックを愛す | 23:24 | - | -
ルノー・カピュソン
 昨日に引き続き、今日はルノー・カピュソンのリサイタルを聴きにトッパンホールに行った。
 プログラムはモーツァルトのピアノとヴァイオリンのためのソナタ 変ロ長調からスタート。トッパンホールの親密的な空間に、美しく流麗なルノー節が朗々と響いていく。序奏の重音から、こまやかな神経が細部まで張り巡らされた繊細で緻密なモーツァルトが展開されていく。とりわけ第3楽章のガヴォット風のロンドがエレガントな美を放っていた。
 次いで、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第7番が登場。ここではピアノのダヴィッド・カドゥシュとともに丁々発止の音の対話が繰り返される。
 ベートーヴェンのこのソナタは、ピアノが非常に大切な役目を果たし、主題が幾重にも変容され、美しいカンタービレや緊迫感あふれる劇的な音楽が形作られていく。
 ヴァイオリンがそれを鮮やかに装飾し、「運命の調」と呼ばれるハ短調で書かれた音楽ならではの緊張感とエネルギーと推進力を生み出していく。
 後半は、シューベルトの幻想曲ハ長調。こういう作品こそ、カピュソンの類まれなる美音が生きる。かろやかさ、ヴィルトゥオーゾ性、スラヴ色豊かな民族性、豊かなファンタジー、あふれるロマン、変奏主題の妙などをカピュソンは自由闊達にのびやかに奏で、フィナーレではピアノとともに高い頂に一気に登り詰めるような高揚感を示した。
 昨日のインタビューでも語っていたが、かつてアイザック・スターンが使っていた楽器、1737年製グァルネリ・デル・ジェス「パネット」を弾き出してから10年、ようやく自分の思うような音が出せるようになったという。
 まさしく、「自分の音」となった楽器で、輝かしいルノー節をたつぷりと聴かせてくれた。
 
 
| クラシックを愛す | 23:10 | - | -
ばらの騎士
 R.シュトラウスの「ばらの騎士」は、大人のオペラである。音楽は官能的で幻想的で、天上の世界へといざなわれる。
 特に、第3幕の最後のオクタヴィアンとゾフィーの愛の二重唱は、えもいわれぬ美しさで、至福の時間を与えてくれる。
 今日は、新国立劇場で行われているシュテファン・ショルテス指揮、ジョナサン・ミラー演出の2007年6月6日にプレミエを迎えたプロダクションの再演を聴きにいった。
 今回は、元帥夫人にこの役を得意としているドイツのアンネ・シュヴァーネヴィルムスを起用、彼女は年齢を意識し、時代の変化を敏感に感じ取る大人の女性を見事にうたい、演じきった。とりわけラストシーンでは貫禄を見せ、潔い女性を堂々と表現し、歌唱も印象に残った。
 私が大好きな役柄、オクタヴィアンはウィーン出身のステファニー・アタナソフ。小柄でスリムな体躯の持ち主で、17歳という設定にふさわしいみずみずしさ。これにドイツの大柄なユルゲン・リンのオックス男爵と、同じくドイツのアンケ・ブリーゲルのゾフィー役が加わり、4人の主役がそれぞれ役になりきった集中力に満ちた歌声を披露した。
 この「ばらの騎士」は5日間の公演があり、今日は中日。あとは6月2日と4日の2日間の公演が予定されている。
「ばらの騎士」は、上演後、とても幸せな気持ちに満たされるオペラだ。18世紀のウィーンの貴族社会を描いているが、今回の演出は初演から1年後の1912年に設定しているとのこと。ふたつの世界大戦が間近に迫り、貴族社会が崩壊していく予兆を感じさせる時代である。
 元帥夫人は、自身の年齢のみならず、世界全体の時代の変化を肌で感じ取り、静かに舞台を去っていくと演出家は述べている。
 さまざまな意味で内容の深いオペラであるが、それを包み込む圧倒的な美質に貫かれた音楽は、すべてを忘れさせてくれる強烈な力を有している。
 今日の写真は、プログラムの表紙。このシーン、本当に印象的だ。
 ああ、いまでも序曲やワルツやいろんなアリアが脳裏に蘇り、つい口ずさんでしまう。やっぱりR.シュトラウスは偉大だ。

| クラシックを愛す | 22:50 | - | -
マルティン・シュタットフェルト
 久しぶりに、マルティン・シュタットフェルトのリサイタルを聴いた。
 今日は、ミューザ川崎シンフォニーホールに、「グールドの再来、究極のバッハ」と題したシュタットフェルトの演奏を聴きにいった。
 休憩なしのリサイタルで、まずJ.S.バッハの「イタリア協奏曲」が登場。次いで得意とするバッハの「ゴルトベルク変奏曲」が披露された。
 思えば、シュタットフェルトが「ゴルトベルク変奏曲」で鮮烈なデビューを果たしたのが2004年3月(ソニー)。その翌年、2005年8月にシュトゥットガルトで彼が演奏するというので、レコード会社の方たちとインタビューに出かけた。
 そのときも演奏を聴き、インタビューでは生い立ちからデビューにいたるまで、さまざまなことを聞いた。
 彼はバッハの音楽にどっぷりと浸っていて、バッハとは一体感を感じていると語っていた。
 6歳からピアノを始め、9歳の初リサイタルで「イタリア協奏曲」を弾いている。その後、自身が録音した「ゴルトベルク変奏曲」のテープをレコード会社に送り、それが認められてデビューにこぎつけたという逸話の持ち主だ。
 今回は、当初聴いたときの刺激に満ちた胸に突き刺さってくるような演奏ではなく、安定した弾き込んだ音楽となり、10年という年月の経過を強く感じさせた。
 彼のインタビューは、とても内容が濃かったので、ぜひ近いうちに「インタビュー・アーカイヴ」で紹介したいと思う。 
 
| クラシックを愛す | 23:34 | - | -
五嶋龍
 デビュー当初からひとりのアーティストを聴き続けていると、その人の人生の変遷とともに、演奏の変化を聴き取ることができて興味深い。
 今日はサントリーホールに五嶋龍のリサイタルを聴きに行った。
 先日リリースされたばかりの新譜(ユニバーサル)と連動したプログラムで、前半はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」から始まり、後半はフランクのヴァイオリン・ソナタとヴィエニャフスキの創作主題による華麗なる変奏曲」。前半の2曲目にサーリアホの「トカール」が組み込まれているのが新鮮で、この作品を完全に暗譜し、自分の音楽として奏でていた。
 最近の五嶋龍は、音がとてものびやかで自信に満ちている。今日の演奏も実に自然体で、録音を終えているからか、リラックスして演奏している様子がいかにも彼らしく、聴き手も作品自体を存分に楽しむことができた。
 もっといろいろ書きたいことはあるが、実は今日の締め切りが1本残っているため、これからまだ仕事をしなくてはならない。
 というわけで、今日のブログはここでおしまい。
 そうそう、もうひとつ特筆すべきことがあった。五嶋龍と録音でも組んでいるピアニスト、マイケル・ドゥセクの安定した、ヴァイオリニストにピタリと寄り添う味わい深いピアノを聴かせたことが、このリサイタルの成功につながったと感じたのである。
 やはり、ヴァイオリニストにとって、共演するピアニストは本当に大切である。
 
| クラシックを愛す | 23:50 | - | -
宮崎国際音楽祭
 今年の宮崎国際音楽祭は第20回という記念の年を迎え、4月29日から5月17日まで多彩なプログラムが組まれ、充実したフェスティヴァルとなった。
 5月15日には「《饗宴》〜20周年記念ガラ・コンサート」がメイン会場であるアイザックスターンホールで開かれ、広上淳一指揮宮崎国際音楽祭管弦楽団と内外のソリストによる演奏が3時間余りの長時間にわたって行われた。
 記念のガラ・コンサートとあって、ソリスト陣は非常に豪華な顔ぶれ。ヴァイオリンのピンカス・ズーカーマン、ジュリアン・ラクリン、ピアノの横山幸雄、ヴァイオリンの三浦文彰、テノールの福井敬、ヴァイオリンの諏訪内晶子、漆原啓子、漆原朝子、チェロのアマンダ・フォーサイス、ピアノのアンジェラ・チェン、ヴァイオリンのボリス・ベルキン、フルートの高木綾子、ハープの吉野直子、ヴァイオリンの徳永二男、ピアノのリリー・マイスキー、ヴァイオリンのサーシャ・マイスキー、チェロのミッシャ・マイスキーがさまざまな作品を奏でた。
 5月16日には同ホールで、「チャイコフスキー 激情のシンフォニー」と題されたコンサートが行われ、ズーカーマン指揮、同オーケストラによるチャイコフスキーの交響曲第5番ほかが演奏された。
 そして今日、午前中の便で宮崎から羽田に移動し、その足でオペラシティに直行。レイフ・オヴェ・アンスネスがマーラー・チェンバー・オーケストラを弾き振りして行っている「ベートーヴェンへの旅」(ベートーヴェン:ピアノ協奏曲全曲演奏会)の最終日に駆け付けた。
 今日のプログラムは第1番と第5番。このメンバーで録音も行っているアンスネスは、指揮もすっかり板につき、充実したベートーヴェンを披露した。
 というわけで、週末からすばらしい音楽を山ほど聴いたが、からだはもう疲労困憊。また少しずつ宮崎国際音楽祭の様子を綴っていこうと思っている。
 今日の写真は、ガラ・コンサートの楽屋で会ったアーティストたち。みんな祝祭的な雰囲気のコンサートゆえ、明るくのびやかな表情をしていた。
 上から、リハーサル中のズーカーマンとフォーサイス、広上淳一、福井敬、諏訪内晶子、ジュリアン・ラクリン、三浦文彰、吉野直子。













| クラシックを愛す | 22:37 | - | -
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2015
 例年、この時期は「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」で有楽町から東京、大手町、丸の内周辺は大賑わいである。
 今年のテーマは「PASSIONS パシオン 恋と祈りといのちの音楽」。5月2日から4日までの3日間、東京国際フォーラムを中心にコンサートと関連イベントが多数行われている。
 私はプラジャーク弦楽四重奏団、シンフォニア・ヴァルソヴィア、ローザンヌ声楽・器楽アンサンブルをはじめ、さまざまなコンサートを聴いているが、ホール以外でもユニークな人に会った。
 いろんなホールの開演前に聴衆を楽しませたり、一緒に写真に納まったりしているパフォーマー、ムッシュPである。
 この人、きれいにメイクをして、とてもキュートな服装をし、愛想がいい。額縁をもっていて、自分が肖像になっている。
 今日の写真は、その肖像画になっているムッシュP(フィリップ・エマール)。もうひとつ、蝶々を棒の端につけてひらひらと一緒に舞いながら人々を楽しませるパフォーマンスもある。
「ラ・フォル・ジュルネ」は、これまで毎年のようにいろんな人たちと出会ってきたけど、こんなに温かな気持ちになったのは初めて。
 この音楽祭は、いろんな楽しみ方があるのね。

 
| クラシックを愛す | 22:27 | - | -
伊藤恵
 自分の信じた道をひたすら歩み、でき得る限りの努力をし、夢に向かって邁進すれば、必ずいい結果が得られる。
 今日の伊藤恵のピアノ・リサイタルは、その意味合いを教えてくれた。
 伊藤恵はシューマンのピアノ曲全曲録音で知られるが、いつかシューベルトのピアノ・ソナタも演奏・録音したいと願っていた。
 彼女はドイツ留学時代にブレンデルのシューベルトを聴き、その命を削るような演奏に触れて自分はまだまだだと思い、長年シューベルトは自分のなかで封印してきた。
 ようやくそれを解く時期が訪れ、2008年から8年連続演奏会でシューベルトの作品と対峙することになった。今日はその最終回で、ピアノ・ソナタ第19番、第20番、第21番がプログラムに組まれた。
 彼女は先日のインタビューで、シューベルトのこれら晩年のソナタの難しさをことばを尽くして語っている。
 まず、第19番は、ベートーヴェンを敬愛するシューベルトがその思いを乗り越え、自身の語法と音楽性を確立した作品。
 決然とした出だしから、伊藤恵の今回のリサイタルに対する強い意志を読み取ることができる。全編に美しいカンタービレがちりばめられ、情感豊かで起伏に富んだ曲想が特徴。伊藤恵は、転調の妙を際立たせ、変化に満ちた楽想を鮮やかに描き出していく。
 続く第20番は、古典的な構成とスケールの大きさをもつロマンあふれるソナタ。第1楽章からシューベルトならではのロマンティックな旋律が現れ、第2楽章では孤独感や寂寥感が前面に浮き彫りになり、シューベルトの歌曲「冬の旅」へといざなわれるようだ。
 こうした旋律美と様式感は、伊藤恵の得意とするところ。第3楽章の軽妙洒脱なスケルツォ、第4楽章の歌心あふれるロンドへと進むうちに徐々にシューベルトのリートの世界が濃厚になる。
 前半が終了した時点で、ひとことトークが挟み込まれた。
「ようやく高い頂のふたつを登った感じです。ハンス・ライグラフ先生にはいつも、こんなすばらしい作品を演奏できることは何と幸せなことか、シューベルトに感謝するようにといわれました。あとひとつ登りたいと思います」
 そして後半は、最後のピアノ・ソナタ第21番の登場。この作品こそ、伊藤恵がエベレストのような高い山へと登頂する気分を抱いているのではないだろうか。第1楽章の深遠で大胆な主題が徐々に高揚し、幾重にも様相を変えていく転調による主題がゆったりとしたテンポで奏でられると、私は次第に感極まってきた。
 第2楽章のほの暗く内省的な主題、第3楽章のかろやかな動き、そして第4楽章のすべてが昇華していくようなフィナーレへと突入すると、次第に涙腺がゆるんできたのである。
 マズイなあ、これは、と思ったが、伊藤恵の紡ぎ出す見事なまでに作品と一体化した演奏に、もはや涙が止まらなくなってしまった。
 終演後、楽屋であいさつしたときも、まだ目がウルウル状態。
 すると伊藤恵が「シューベルトの力ですよね。シューベルトがそういう思いにさせてくれるのでしょうね」といって、ちょっぴり涙目に…。
 彼女は、すべての演奏が終わったとき、ステージから聴衆に向かって語りかけた。
「みなさんとともにシューベルトのシリーズを無事に終えることができました。一緒にシューベルトの旅をしていただいて、本当にありがとうございました。今日は、みなさんから力をいただき、弾き終えることができました。これから少しお休みをいただき、また新たな方向を目指して進んでいきたいと思います」
 この謙虚さ、誠実で率直で常にまっすぐ前を向いて作曲家と対峙していく。その演奏は、私に強いエネルギーを与えてくれた。
 なお、5月13日には「シューベルト ピアノ作品集6」の録音もリリースされ、そこにはピアノ・ソナタ第18番と第21番が収録されている(フォンテック)。
 今日の写真は、私が目頭を押えて涙をこらえていたため、彼女もちょっと涙目に。それほどすばらしいシューベルトだった。
 恵さん、ありがとう!!


 
| クラシックを愛す | 22:41 | - | -
ウェーベルンの作品
 昨日のチョン・キョンファのリサイタルで、とても印象に残った作品がある。アントン・ウェーベルン(1883〜1945)の「ヴァイオリンとピアノのための4つの小品」である。
 これは、キョンファがインタビューのときに語っていたことだが、200年以上前のベートーヴェンと現代の聴衆を結び付けるために、その中間に位置する作品としてプログラムに入れたという。
 1910年に作曲された作品で、まず、ゆったりとしたテンポの静けさあふれる第1曲で始まる。ヴァイオリンは弱音が主体で、耳をこらさないと聴こえないほどの静謐な響きが全編を支配している。これに瞑想的なピアノが加わる。ここではヴァイオリンは弱音器を用いている。
 第2曲は、急速なテンポで、幅広い強弱変化が特徴。かなり攻撃的な音楽となる。
 第3曲は、再びヴァイオリンが弱音器を用い、やわらかな響きと浮遊感のある高音を奏で、ピアノとの音の融合を目指す。
 第4曲は、ウェーベルンらしい新たな試みに満ちた音楽がヴァイオリンの特殊性あふれる響きと、変化に富んだピアノで奏され、短い曲想のなかで多くのことを雄弁に語る。
 キョンファは、この作品に対し、「各曲には永遠、闘い、諦念、勇気という感情が込められ、それらがベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタにも共通項を見出すことができる」と話していた。
 ウェーベルンの作品を評して、シェーンベルクはこういったという。
「たったひとつの動きだけが描かれた小説、ひと呼吸のなかで表された悦び」。
 わずか数小節だけの作品が、キョンファの研ぎ澄まされた音とケヴィン・ケナーの抑制された音により、不思議な小宇宙を描き出すように響き渡った。
 私は室内楽がとても好きで、特に奏者が類まれなる集中力を発揮し、聴き手も奏者とともに呼吸するような緊迫感に富む瞬間がたまらないのだが、キョンファのウェーベルンは、まさにそうした貴重な数分間を生み出した。
 次回、彼女にインタビューをする機会があったら、ぜひこのウェーベルンの作品に関してより深い話を聞いてみたいと思う。
| クラシックを愛す | 22:40 | - | -
チョン・キョンファ
 1月末にソウルでインタビューしたチョン・キョンファが、この4月に来日公演を行い、今日はサントリーホールで最終公演があった。
 プログラムは、ピアノのケヴィン・ケナーとようやく作り上げることができたというベートーヴェン・プロ。前半がヴァイオリン・ソナタ第5番「春」と第7番で、後半にウェーベルンの「ヴァイオリンとピアノのための4つの小品」を入れ、最後はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」で締めるという構成である。
 取材記事にも、インタビュー記事にも、さまざまなところで綴ったことだが、チョン・キョンファの演奏は、ケガを乗り越えて復活してから大きな変貌を遂げた。以前は野生動物のような俊敏性と挑みかかるような凄みを見せる演奏だったが、現在はよりヒューマンな色合いが濃くなり、ピアニストとの協調性を大切にしている。
 彼女はこのベートーヴェン・プロをケナーと集中的に練習し、日本公演に備えていると語っていた。
 実は、彼らはこのプログラムをまず日本公演で披露し、これから各地で演奏にかけていく。秋にはヨーロッパ公演も控えているという。
 キョンファの演奏は確かに変容し、音色も作品に対する取り組みも、異なっていた。だが、驚異的な集中力と、作品の内奥にひたすら迫っていく奏法に変わりはなく、とりわけ各曲の緩徐楽章が心に染み入る美しさに彩られていた。
 彼女はインタビューのときに、「ヴァイオリンとピアノのデュオは、両楽器が完全にひとつの“声”にならないといい演奏は生まれません」と語っていたが、まさにケナーとの音の融合を目指し、ふたりの思いがひとつになるよう、濃密な音の対話を繰り広げた。
 終演後、楽屋を訪ねると、日本ツアーがようやく終わり、かなり疲労している様子だった。明日日本を発ち、その後ソウルで2公演あるそうだ。それゆえ、まだ彼女は緊張が続いている様子だった。
 今日の写真は、楽屋でひと休みするキョンファ。ただし、外にはサインを求めるファンの長い列ができていた。大変だろうけど、いま再び演奏できることがたまらなくうれしいといっていたから、ひとりずつていねいにサインをしてくれるのではないだろうか。そしてもう1枚は、プログラムの表紙。
 またそんなに時間を置かずに、ぜひ来日してほしいと願う。胸の奥にずっしりとした深い印象をもたらしてくれる演奏だから…。




 
 
| クラシックを愛す | 22:44 | - | -
ヴィットリオ・グリゴーロ
 テノールのリサイタルというのは、会場が熱く燃える。
 今日は、東京オペラシティコンサートホールで、ヴィットリオ・グリゴーロのリサイタルが行われたが、フィナーレに近づくにつれ、ヴィットリオの声も絶好調となり、聴衆もヒートアップ、最後はスタンディングオベーションとなった。
 プログラムは、ベッリーニやロッシーニ、ドニゼッティ、ヴェルディの歌曲やオペラ・アリアが前半に組まれ、ここでは正統的で古典的な歌唱法が披露された。服装は、ピアニストのヴィンチェンツォ・スカレーラとともに燕尾服である。
 後半になると、タキシードに着替え、トスティから始まり、ガスタルドン、レオンカヴァッロ、クルティス、ダンニバーレなどの歌曲が次々にうたわれた。
 ヴィットリオの声は、感情の起伏を明快に表現し、歌詞に寄り添い、オペラ・アリアではその役柄になりきる。
 ひとり芝居のように饒舌で情熱的で、ここに演技力が加わり、聴衆を引き付ける。
 時折、コミカルな表現を見せて笑いを誘うかと思うと、サッカー選手のようにかろやかに走り回って若々しい様相を示す。
 聴き込むほどに、彼のオペラを聴きたくなった。ピアノとの共演でこれだけリアルな演技と歌唱法が全開するのだから、オペラになったらさぞかしインパクトが強いに違いない。
 先日のインタビューで、近いうちにコヴェントガーデンにおいてアントニオ・パッパーノ指揮で「ウェルテル」をうたうといっていたが、それを聴きたい気持ちが募ってきた。
 彼の声は、やはり幼いころからバチカンのシスティーナ礼拝堂合唱団でうたってきたためか、宗教曲の美しさが宿る。アンコールにうたわれたシューベルトの「アヴェ・マリア」にそれが如実に現れていた。
 こういう演奏会は、プログラムが終了し、アンコールになると、より熱気を帯びてくる。
 今日もドニゼッティの「愛の妙薬」から「人知れぬ涙」、プッチーニの「トスカ」から「星は光りぬ」と続いたころ、声が最高潮に達し、会場は嵐のような拍手が巻き起こった。この段階でジャケットを脱ぎ捨て、蝶ネクタイをはずし、白いシャツ姿になって、曲に没入した。
 私の後方からは男性が何人も、「ヴィットーリオ〜、オー・ソレ・ミーオ!!」と叫んでいる。
 彼は耳に手をあて、もう一度スカレーラと相談。最後にカプアの「オー・ソレ・ミオ」をうたってくれた。
 もう、みんな大満足だ。
 ヴィットリオは舞台上に飾ってあった花を1本1本抜いて投げるわ、ひざまづいておじぎをするわ、投げキスをするわ、サッカー選手のようにひざをついてダーッとスライディングするわ、ものすごいサービス精神を発揮。
 この後、サイン会が行われた。何百人、並んだだろうか。いやあ、すごい日でした。
 やはり濃いですなあ。帰宅してからも、歌声がぐるぐる脳を駆け巡っているもの。
 4月10日にも、もう一度リサイタルがある。聴衆を元気にしてくれるテノール、ぜひ聴いてくださいな。心身が活性化しますよ。
 でも、本音をいうと、フランス・オペラのアリアが聴きたかった。新譜のマスネやグノーにすっかり魅了されてしまったので…。
 ロンドンに聴きにいかないと無理かな。いやあ、それもなかなか難しいし、といいながら、世界のオペラハウスのスケジュールを調べるワタシ(笑)。
| クラシックを愛す | 22:24 | - | -
ボロディン弦楽四重奏団withエリーザベト・レオンスカヤ
 レオンスカヤのピアノは先日シューベルトを聴いたばかりだが、今日はボロディン弦楽四重奏団との「リヒテルとともに奏でた音楽家たち」と題したコンサートを東京文化会館小ホールに聴きにいった。
 これは先日と同様に東京・春・音楽祭のコンサートのひとつで、シューベルトの弦楽四重奏曲第12番が初めに演奏された。
 その後はピアノが加わり、シューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調作品44が前半の最後、そして後半はショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲ト短調作品57が組まれた。
 一番驚いたのは、レオンスカヤの奏法の変化。ソロのシューベルトのときとは打って変わって、1音1音が強靭なタッチで確固たる意思をもち、ひとつの音に魂を賭けているようなピアニズムなのである。
 ボロディン弦楽四重奏団との共演が多い彼女は、彼らの弦の響きをしっかり支え、ときにリードし、4本の弦に語りかけ、叫ぶときもあり、静かにさとすような響きを放つときもある。
 シューマンは情熱的で叙情的で優雅でもあり、ピアノと弦楽器が丁々発止の音の対話を繰り広げる作品。彼らの古典的で伝統的な奏法が作品の幻想的な内容を鮮やかに浮き彫りにし、室内楽作品を聴く醍醐味を味わわせてくれた。
 この夜の白眉は、後半のショスタコーヴィチ。作曲家の真意を存分に理解でき、共感を得ることができるレオンスカヤとボロディン弦楽四重奏団ならではの演奏で、全5楽章からなる大作を一瞬たりとも弛緩することなく、緊迫感と集中力を保ち、高度な技巧と表現で聴かせた。
 バッハ風プレリュード、民謡に根差すフーガ、躍動感あふれるスケルツォ、ゆったりとした間奏曲、自由なロンドと曲が進むうちに、あまりにも内的感情の強いアンサンブルゆえ、ロシアの地へと運ばれていくような感覚にとらわれた。5人はショスタコーヴィチの魂の代弁者となっていたからだ。
 作品が内包する悲劇性、風刺、皮肉、対比、暗い情熱などが、作曲された時代の空気とともに蘇ってきたのである。
 とりわけレオンスカヤのピアノが圧倒的な存在感を放っていた。彼女のような奏法によるピアニストは、近年存在しなくなった。やはりリヒテルの時代を受け継ぎ、そのピアニズムを伝承している人である。
 今日の写真は、終演後のサイン会におけるレオンスカヤとボロディン弦楽四重奏団。





 今回の音楽祭は、生誕100年記念の「リヒテルに捧ぐ」というコンサートが多数組まれている。そして東京文化会館小ホールのスロープのところには、「リヒテルin Japan」 と題した記念写真が飾られ(昆田亨氏撮影)、リヒテル本人によるパステル画や直筆の手紙なども展示されている。



 
 
 
| クラシックを愛す | 23:59 | - | -
満開の桜
 今日は「毎日が発見」の辻井伸行の撮影のため、サントリーホールの楽屋に行った。
 インタビュー記事はすでに入稿済みで、あとは写真がそろえばページは完成する。
 カメラマンがセッティングしているときに、私もどこかで写真が撮れるかなと思って自分の場所を探してウロウロ。すると、カメラマンが「伊熊さんが辻井さんと話してくれると、生き生きとした表情が撮れるので、この椅子にすわってください」といわれ、辻井さんと雑談をすることになってしまった。
 撮影が始まり、辻井さんに昨日のリサイタルに関して話しかけると、彼はショパンの「舟歌」のことやベートーヴェンのソナタのことを一生懸命話してくれるため、カメラマンは目いっぱいシャッターを切る。
 最後にピアノの横に立ってもらい、あっというまに撮影は終了。
 気がついたら、私は1枚も写真を撮ることができなかった、残念無念。
 その後、担当の編集の方とお茶をしながらいろいろ打ち合わせをし、サントリーホールから地下鉄の六本木一丁目の駅に向かうと、スペイン坂の満開の桜が迎えてくれた。
 いまは海外からこの桜を見るために観光客がたくさん来日しているそうだが、やはりこれは日本の宝であり、すばらしい光景に心がなごむ。
 辻井伸行は昨日のリサイタル後、2時間ほどプールで泳ぎ、食事をしてから熟睡したとか。今日の夜もリサイタルがあるが、「元気です!」といっていた。
 彼はいま、体力も気力も充実し、「演奏が楽しくて、楽しくて」という。「お客さんの拍手がワーッとくると、すごく喜んでもらえたとわかり、とってもうれしいんです。疲れなんかありません」と笑っていた。
 辻井さんの晴れやかな笑顔に接し、華やかな桜を見て、私も疲れが吹き飛んだ。今日の写真はその桜並木。美しいよねえ。




 帰りに、つい桜の花の乗ったプリンというか、和菓子を買ってしまった。せっかく情緒あふれる日本の美に酔っていたのに、花より団子という構図へとまっしぐら、なんでこうなるの(笑)。


 
| クラシックを愛す | 22:36 | - | -
エリーザベト・レオンスカヤ
 日差しが温かくなり、桜の開花情報が報じられるようになると、「東京・春・音楽祭」の季節到来だ。
 11年目を迎えたこの音楽祭は、上野のコンサートホールや美術館、博物館などを会場とし、今年は3月13日から4月12日まで開催されている。
 昨日は東京文化会館小ホールに、エリーザベト・レオンスカヤのリサイタルを聴きにいった。
 これは音楽祭の今年のテーマのひとつである「スヴャトスラフ・リヒテル生誕100年」の「リヒテルに捧ぐ」の演奏会。レオンスカヤはリヒテルとのデュオでも知られ、4月2日には同ホールでリヒテルとともに演奏したボロディン弦楽四重奏団との共演も組まれている。
 実は、昨年末、「ぶらあぼ」の記事のためにレオンスカヤにメール・インタビューを行った。10項目ほど質問を出したが、彼女はひとつひとつ非常に丁寧にことばを尽くして答えてくれ、内容の充実した原稿を書くことができた。
 今回のリサイタルは、日本ではなんと32年ぶりのソロ・リサイタル。得意とするシューベルトのピアノ・ソナタ第19番、第20番、第21番が組まれ、心に深く響く圧倒的な存在感を示すシューベルトが奏でられた。
 とりわけ印象に残ったのは、からだのどこにも力が入っていない自然体の奏法。手首がやわらかく、打鍵は強靭ながらけっして鍵盤をたたかず、楽器全体を大きく鳴らす。ペダリングも絶妙で、小さなホールゆえ、その足の動きまで細部にわたって見ることができた。
 まさに古きよきロシア・ピアニズムを体現する奏法で、レガートの美しさが際立つ。手首の位置、力の入れ方、フレーズの作り方、速いパッセージの扱い、主題のうたわせ方などを注意深く聴いていたら、晩年のリヒテルの奏法を思い出した。やはりデュオを組んでいると、似てくるのだろうか。
 シューベルトのピアノ・ソナタは長い。この日も、かなり長時間にわたる演奏となったが、彼女は即興曲を2曲もアンコールで演奏してくれた。
 その滋味豊かな調べは、ホールの隅々までしっとりとおだやかに浸透していき、私はしばし席を立てないほど深い感銘にとらわれた。
 レオンスカヤはインタビューで、こう答えている。
「ソナタ第21番は、私にとって特別な存在です。第2楽章は、ブリューノ・モンサンジョンによるリヒテルのドキュメンタリー・フィルムの最後で使用されていて、それを観るたびに特別な感情が湧いてきます。このソナタはリヒテルを象徴する大切な作品でもあります」
 さらに、こう続けている。
「第21番は、シューベルトという人間をいつわりなくありのままに表現しているソナタだと思います。私は今回の3曲のソナタに長い年月をかけて向き合ってきました。これまで積んできた経験と修練が演奏に反映されると思っています」
 このことば通り、レオンスカヤのシューベルトは、いつまでも心に残る強い印象をもたらす濃密な演奏だった。
 今日の写真は、「ぶらあぼ」のインタビューページ。ボロディン弦楽四重奏団との演奏に関しては、室内楽にも力を入れていることと、彼らとの共演も長年にわたるため、大切なパートナーとのこと。
「ボロディン弦楽四重奏団の間の取り方と表現力は、常に核心を衝いています」と述べている。4月2日はシューベルト、シューマン、ショスタコーヴィチが演奏される。


 
 
| クラシックを愛す | 23:22 | - | -
レジス・パスキエ
 ヴァイオリンは名器と呼ばれるものがいくつか存在するが、フランスのヴァイオリニスト、レジス・パスキエが使用している1734年製グァルネリ・デル・ジェス「クレモナ」もそのひとつ。
 今日はトッパンホールにそのパスキエのリサイタルを聴きにいった。
 プログラムの前半はルクレールのヴァイオリン・ソナタ ニ長調とプロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ第1番。
 ルクレールの宮廷舞踊を用いた荘重で気品あふれるゆったりとした3拍子の旋律が、グァルネリ・デル・ジェスで奏されると、あたかも18世紀当時の宮廷にいざなわれるよう。ルクレールはオランダのオラニエ公妃に仕えており、この作品は名チェンパリストとして知られた公妃に献呈されている。
 パスキエの演奏は伝統を重視し、楽譜に忠実で、古典的な色合いが濃厚だ。ここに若いフィリップ・チュウの躍動感あふれるピアノが加わると、音楽が何層かの複雑な重なりを見せ、両楽器の音の対話が肉厚になっていく。
 次いで演奏されたプロコフィエフは、緩・急・緩・急というバロック風の4楽章で構成されている。ここでは両楽器がときに荒々しく叫び、またあるときはおおらかな歌をうたい、とりわけヴァイオリンの重音が印象に残る。
 このソナタはダヴィッド・オイストラフに捧げられ、初演は彼のヴァイオリンとレフ・オボーリンのピアノで行われた。
 この作品になると、パスキエの表現は一変。楽器をはげしく熱く深く鳴らし、その奥にノーブルな趣とパッションが秘められ、ヴァイオリンの多様性が浮き彫りになった。
 後半はラヴェルのヴァイオリン・ソナタとサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタ第1番。こうしたフランス作品こそ、パスキエの真骨頂である。両作品とも、オペラティックであり、シンフォニックでもあり、素材は簡潔で素朴で様式もシンプルだが、内容と構成はふたりの作曲家の傑作とされるだけに、華やかで情熱的でフランス趣味が横溢している。
 パスキエの古きよきフランスの上質な響きにピタリとピアノが寄り添い、そこに自由闊達さも加わり、フィリップ・チュウの演奏はとても印象深いものだった。
 終演後、招聘元のマネージャー、Kさんに会ったら、こんなことをいっていた。
「パスキエがある国際コンクールの審査員をしていたとき、伴奏ピアニストとして参加していたチュウがとてもすばらしく、共演をすることになったんだって」
 ああ、そうなんだ。でも、今日はフィリップは風邪をひいていたようで、時折咳き込んでいた。演奏中はがまんにがまんを重ねていたらしく、終わると一気に咳が…。辛かっただろうなあ。でも、明るい笑顔の人だった。。
 本当に、心に響くヴァイオリンを聴いた一夜となった。
 レジス・パスキエは1958年わずか12歳でパリ国立高等音楽院のヴァイオリン科と室内楽科を一等賞で卒業。その2年後にニューヨークにデビューしている。以来、今日まで世界各地で活発な演奏活動を行い、パリ音楽院の教授も務め、録音も積極的に行っている。
 2012年10月にトッパンホールでリサイタルを行い、「円熟の極み」と称された演奏を披露し、今回は2度目の登場となった。
 今日の写真は、終演後のサイン会におけるパスキエとチュウ。今夜は冬に逆戻りしたような寒い気候だったが、心は温かくなった。パスキエの熟成した上質なワインのような音がからだ全体に沁み渡り、寒さを吹き飛ばしてくれたのである。



 なお、心が温まったのは、予想もしていなかったアンコールのおかげもある。クロード・ボリングの「ヴァイオリンとジャズピアノ・トリオのための組曲よりラグタイム」が奏され、それが実に味わい深く、雄々しくたくましくエネルギッシュで、遊び心に満ちあふれていたからだ。
 もう1枚の写真は、公演チラシ。パスキエは、フランコ・ベルギー楽派の伝統をいまに伝えるパスキエ一族の末裔だそうだ。ヴァイオリニストになるべくしてなったという存在なんですねえ。


| クラシックを愛す | 23:37 | - | -
田中彩子
 コロラトゥーラという声域は、本当に鳥がさえずっているような、およそ人間の声とは思えないような高い声である。
 10代のころから類まれなるコロラトゥーラの才能に注目され、ウィーンに留学して本格的に声楽を学んだソプラノの田中彩子は、そのコロラトゥーラの歌声でいまや欧米で大活躍。
 今日は、紀尾井ホールで「華麗なるコロラトゥーラ」と題したリサイタルが行われた。
 グローテの「ナイチンゲールの歌」から始まった演奏会は、まさに美しい鳥のさえずりのよう。デビューCD「華麗なるコロラトゥーラ」(エイベックス)に収録されているモーツァルトの「夜の女王のアリア」、マイアベーアの「影の歌〜歌劇《ディノラー》より」、ドリーブの「鐘の歌〜歌劇《ラクメ》より」など、得意なアリアが次々にうたわれていく。
 前半は多少緊張気味だった彼女だが、後半は本来ののびやかな歌声が存分に発揮された。
 本当に、この超高音が出せる歌手というのは貴重な存在だ。やわらかく繊細で、清涼感に富む。
 今日は会場に男性ファンが多く訪れていた。CDのサイン会も長蛇の列。デビュー公演の成功は、彼女にとって大きな励みになるのではないだろうか。
 今日ピアノを担当したのは、加藤昌則。実は、先日書いた長野市芸術館のNCAC音楽大学の講師のひとりである。彼の担当は7月。
 初めてお会いしたのだが、同じ講師を務めるということで、話が弾んだ。
「今度ぜひ、一緒に何かやりたいですね」
 こういわれ、私も大賛成。違う日ではなく、同じ日に一緒に何かの講座ができたら、と願っている。
 今日の写真は、終演後の田中彩子と加藤昌則。ぜひ、近いうちにまたリサイタルを計画してほしい。もっと違うレパートリーも聴きたいから。



| クラシックを愛す | 23:11 | - | -
イェフィム・ブロンフマン
 今日もブロンフマンのコンサートの話題。
 いま、エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団が日本ツアーを行っているが、今日はサントリーホールでストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」(1910年原典版)の演奏が行われた。
 前半にはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が組まれ、そのソリストがイェフィム・ブロンフマンだ。
 プログラムの原稿にも綴ったが、ブロンフマンはインタビューで、「チャイコフスキーなどの作品を演奏するときには想像力と美しい音色、このふたつの要素に重点を置きます」と語っている。
 そのことば通り、チャイコフスキ―ではスケールの大きな迫力のあるピアニズムを披露すると同時に、緩徐楽章などはすこぶる幻想的で美しい響きが発揮された。
 ブロンフマンは、先日のリサイタルの記事にも書いたように、弱音の美しさが際立っている。今日もコンチェルトのあと鳴りやまない拍手に応え、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番より第3楽章に続き、ショパンの「12の練習曲集」より作品10ー8を演奏した。その美しさといったらない。
 完璧な脱力ができた状態で、どこにも力が入っていない自然な打鍵を見せ、繊細かつ優美なショパンを奏でた。
 ああ、ため息が出そうだワ(笑)。
 その後、「火の鳥」が演奏され、こうした作品を得意とするサロネンは、色彩感とストーリー性と斬新な書法を浮き彫りにし、オーケストラから生気あふれる響きを導き出した。いつもサロネンの演奏を聴くと、その手腕に深い感動を覚える。
 こうしたすばらしいコンサートが続いているため、原稿がどんどんたまって困ってしまう。いろいろ遅れていて、担当者のみなさま、ごめんなさいと、ここであやまってしまおう。
 明日は、やはりフィルハーモニア管のコンサートがあり、ヒラリー・ハーンのソロでブラームスのヴァイオリン協奏曲が組まれているけど、ここはひとつぐっとがまんしてパソコンにかじりつかなくてはならない。
 土曜日と日曜日の2日間で、なんとか原稿を終わらせなくては…。
 
| クラシックを愛す | 23:56 | - | -
イェフィム・ブロンフマン
 最近は同じ日に聴きにいきたいコンサートが重なり、調整が大変だ。
 昨日は、すみだトリフォニーホールにイェフィム・ブロンフマンのリサイタルを聴きにいった。
 彼には昨年インタビューし、今回のプログラムのことを聞いている。
 今日のプログラムはプロコフィエフの「戦争ソナタ全曲」。ピアノ・ソナタ第6番、第7番が前半で、後半にピアノ・ソナタ第8番が演奏された。
 ブロンフマンはプロコフィエフを昔から愛奏し、この作曲家の作品を広めることに尽力している。
 ロシア作品は、よく腰から弾くといわれるが、まさに堂々たる体躯のブロンフマンは、力を入れなくても深く重力のある音が出る。そのエネルギッシュな奏法で作品の奥に潜む作曲家の真意に肉薄。荒々しさ、強靭さ、生命力、ロマンティシズム、不安定、清冽、静謐、抒情、情熱など、さまざまな表情を幾重にも変化しうる音色で存分に聴かせた。
 プロコフィエフの「戦争ソナタ」は、いずれも重量級の作品ゆえ、聴き手も集中して聴いていると、前半だけで疲労困憊する。だが、ブロンフマンは余裕綽々。後半の第8番は特有の弱音も聴かせ、心に染み入るピアニズムを展開した。
 こうした大作を演奏した直後に、彼はアンコールでプロコフィエフとはまったく趣を異とするスカルラッティのソナタ ハ短調 K11とショパンの「12の練習曲」より第8番ヘ長調 作品10-8を天上の音楽のような弱音を駆使して披露。ヴィルトゥオーソ・ピアニストの底力を示した。
 こんなに素早く奏法も表現も内容もさらりと変えられる、その切り替えの速さに脱帽。ブロンフマンは本当にすごい人だと、しばし席を立つことができなかった。
| クラシックを愛す | 23:31 | - | -
ピョートル・アンデルシェフスキ
 今日は、東京オペラシティコンサートホールにピョートル・アンデルシェフスキのリサイタルを聴きにいった。
 彼は昨年インタビューしたときに、3年も前にプログラムを決めるのは無謀だ、そのときに弾きたい曲がわかるわけがない、と苦々しい顔をして語っていた。
 そして今回もやはり当初の曲目とは変わり、J.S.バッハ「フランス風序曲」「イギリス組曲第3番」が前半、後半はシューマン「精霊の主題による変奏曲」「幻想曲」がプログラムに組まれた。
 アンデルシェフスキは、完璧主義者で知られる。自分が納得いかないと、どんなに周囲が認めても、よしとしない。
 今日のリサイタルも、いずれの作品も完璧に磨き上げられ、表現力が深く、完全に自分の作品となっていた。
 もっとも印象的だったのは、「イギリス組曲第3番」。実は、この作品は私にとって、とても辛い思い出のある曲。聴いているうちにその思い出が鮮やかに蘇り、平常心では聴けない状態に陥った。
 アンデルシェフスキの「イギリス組曲第3番」は、装飾音が特別だ。とりわけ「前奏曲」と「サラバンド」において装飾音が見事なまでに多用され、あたかも自分が作曲したような曲想が展開した。これだけ聴くと、「イギリス組曲第3番」とは思えぬほど音符が増殖され、しかも内声の響きを際立たせるため、まるで新たな曲を聴いているようだ。
 シューマンに関しては、アンデルシェフスキは、プログラムにこう綴っている。
「シューマンは私の心に大変近い存在です。今回は2年間弾きこんできた《幻想曲》を初めて日本で弾くことになりました。私はひとつの作品を繰り返し弾き、時間をかけていろいろな考えや想いといった自分自身をその作品に投入します」
 このことば通り、「幻想曲」にはいまのアンデルシェフスキが投影されていた。彼はバッハに関しても、一家言をもつ。
 そして、プログラムの語りは、こういうことばで閉じられる。
「最終的には、なぜ音楽を演奏するのか、あるいは、なぜ聴衆を前に演奏するのか、という音楽家としての哲学の問題となるのだと思います」
 アンデルシェフスキの演奏は、まさにある意味の「哲学」といえる。彼は各々の作品が内包する深い思考や表現、作曲家の意図を存分に読み取り、自身の感性というフィルターを通して聴衆へと届ける。そこには特有の美学に貫かれた音楽が存在し、完璧なる美に支配された音楽が生命を帯びて描き出される。
 アンデルシェフスキのピアノを聴くと、こういう解釈こそ、この作品にふさわしいと思える。それほど完璧なフォルムで音楽が形成されているからである。
 今日のアンコールは、ベートーヴェンの「6つのバガテル」より3曲(作品126-5、2、3)だった。このベートーヴェンがまた非常に知的で深遠で、ある種の客観性に富み、アンデルシェフスキが自身の演奏をつねにクールに客観視している目を意識させた。
 新譜はバッハの「イギリス組曲第3、1、5番」(ワーナー)。写真はそのジャケット。この作品の新たな扉を開けた彼の次作が待ち遠しい。

| クラシックを愛す | 23:30 | - | -
パトリア日田音楽講座
 昨日は、大分県日田市で「パトリア日田音楽講座」が行われた。私の講座名は「伊熊よし子のティータイム音楽講座 2015年のピアノ・コンクール大予想」と題されている。
 日田市内の文化・芸術の拠点ともなっているホール、パトリア日田は、ガラスをふんだんに取り入れた外観がとても印象的で、内部も非常に凝ったデザインだった。
 天井はこの土地の名産である杉が使われ、床は小鹿田焼に用いられる土がかなり多く含まれた材料で敷かれていた。この床は一見するとタイルのようで、他に類を見ない特殊な材質という感じだった。
 私の講座は午後2時から。午前中に会場入りし、ホールの担当の方々とじっくり打ち合わせをし、椅子やテーブルの配置を決め、CDとDVDの確認を行った。さらにお茶とお菓子が出るため、そのタイミングなども話し合った。
 当初考えていたよりもずっと多くの受講生が集まってくれ、会場は満杯で、みなさんとても熱心に話を聞いてくれた。メモを取る人も多く見受けられ、私の話にうなづく人、身を乗り出して聞いてくれる人、女性同志でにこやかな笑顔を見せながら聞き入ってくれる人、男性同志でジョークに笑ってくれる人、ひとりでじっくり音楽に耳を傾けてくれる人など、さまざまな人たちが参加してくれた。
 すべての講演が終わり、ティータイムには私が各テーブルを回って声をかけ、感想を聞いたり、質問を受けたりした。
 檀上から質疑応答をするよりも、みんなのなかに入っていった方が、親密感が湧くと思ったからだ。
 みなさんそれをすごく喜んでくださり、「また近いうちにぜひ来てください」とか、「クラシックは遠い存在だと思っていたけど、とても身近に感じられるようになった」とか、「難しい話だと思ってきたけど、とてもわかりやすかった」とか、「こんなふうに私たちのところを回って話しかけてくれる講師は初めてだ」とか、いろんなことをいってくれた。
 なかには、「自分が亡くなったときにどんな音楽をかけたらいいか」という質問もあり、大笑いしたが、「ショパンはモーツァルトのレクイエムを希望したんですよ」というと、その男性は「じゃ、私もレクイエムにする」といっていた。その隣の男性は、孫に聴かせる音楽は何がいいかという質問だった。
 また、ある女性からは、「ショパン・コンクールとチャイコフスキー・コンクールはどちらが上か」と聞かれた。
 時間は90分間だったが、ほとんどの人が「もっと話を聞きたい」「もっと長くてもいい」といってくれたので、ホッと胸をなでおろした。「飽きたからもっと短い方がいい」といわれなくて、本当によかったワ(笑)。
 今回も、ティータイムの時間を確保するためにどんどん時間が押してきて、私の悪いクセであるマシンガントークが炸裂。みなさんにその旨を話し、「聞きにくかったらもっとゆっくり、と声をかけてくださいね」というと、どっと笑われてしまった。
 というわけで、和気あいあいとした雰囲気のなか、あっというまに講座は終了。担当者のUさんが運転するレンタカーで福岡空港に直行し、飛行機に飛び乗った。
 前日は日田の町歩きを楽しみ、いろんな新しい発見があった。次回はそれを紹介しま〜す。
 今日の写真は、パトリア日田のシックな色合いの大ホール(やまびこ)と、紅色の小ホール(せせらぎ)。私の講演はスタジオ1で行われたが、いずれの会場も音響がよく、美しい木がふんだんに使われたモダンなデザインだった。
 このホールは、廊下やホワイエ、各会場との間などに設置されている広場などが非常にゆったりとしていて、その広さに驚かされた。
 そうした場所には椅子やテーブル、ソファなどが多く置かれていて、朝から晩まで自由に人々がくつろぎ、本を広げている人、学校の勉強をしている人、話し込んでいる人など、いろんな形で市民が憩いの場所として使用していた。
 また、ぜひ近いうちに講演ができれば、と願っている。




 
| クラシックを愛す | 22:28 | - | -
講演の準備
 パトリア日田の講演の準備をしている。
 今回は、2015年がピアノ・コンクールの当たり年ゆえ、ショパン・コンクール、チャイコフスキー・コンクール、リーズ・コンクール、浜松コンクールなど、国際コンクールの開催について歴史や課題曲、優勝者の顔ぶれ、そのコンクールのもつ影響力などに触れ、コンクール出身者でいま国際舞台で活躍しているピアニストのCDやDVDを使って演奏を紹介しようと思っている。
 講演の時間は90分。しかし、この講座はティータイムを設けていて、お茶とお菓子が出るため、最後の方を多少切り上げてティータイムに移り、私が参加してくれた人たちのなかに入っていろんな質問を受けたり、みんなと話をする形にしたいと考えている。その方が壇上から質疑応答をするよりも、親密的な雰囲気になると思うからだ。
 まず、膨大なCDの棚から適切な音源を探し出し、DVDも用意した。
 いつもこうした講演では、早口が爆発し、マシンガントークになる。時間が押してくればくるほどトークは炸裂。自分ではもっと抑えなくちゃと思うのだが、舌が勝手になめらかになり、聞いている人は唖然とした表情。
 まあ、今回は、ふだん静かでおだやかな町だろうから、人々も物静かでゆったりしているに違いない。あまり強い刺激を与えるとマズイよね(笑)。
 とはいえ、できる限り内容の濃い講演になるよう、ちょっと多めの音源をもっていこうと思う。
 そうそう、昨日の雨ですっかり花が散ってしまった我が家の山茶花だが、ひとつ大きな花をつけていた。この元気な姿に勇気づけられます。


 
 
 
| クラシックを愛す | 21:18 | - | -
牛田智大
 牛田智大は、演奏を聴くたびに大きな成長を示し、若芽がぐんぐん空に向かって伸びていくような勢いを見せている。
 今日は、東京オペラシティコンサートホールでリサイタルがあった。
 最近は、モスクワ音楽院ジュニア・カレッジに在籍。ユーリ・スレサレフ(モスクワ音楽院教授)、ウラディミル・オフチニコフ(モスクワ音楽院付属中央音楽学校校長)の各氏に師事し、ロシア作品を学んでいるため、今日のプログラムにもプロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番「戦争ソナタ」と、ラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番が入っていた。
 身長もだいぶ伸び、すっかり大人っぽくなった牛田智大は、まずモーツァルトのピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付」で、変わらぬ清涼で純粋でまっすぐな音楽を披露。ピアノを弾くことが楽しくてたまらない、といった表情も以前とまったく変わらない。
 次いでプロコフィエフが登場。ロシアの先生たちから学んでいるロシア音楽の神髄を遺憾なく発揮した演奏だったが、この作品はやはり肉厚で深遠で暗い情熱がただよう曲想ゆえ、より分厚く野太く強靭なタッチが必要だと思われる。
 ただし、全編を支配するロシア的な抒情、プロコフィエフならではの個性的な旋律美、斬新な和声やリズム、多分にシニカルでクールな表情、均整のとれた構成などを鋭敏な感性でとらえ、ひたむきに表現している様子に、日々のたゆまぬ研鑽と努力を強く感じさせられた。
 後半は、ベートーヴェン/ラフマニノフの劇付随音楽「アテネの廃墟」よりトルコ行進曲、バガテル「エリーゼのために」に次いでピアノ・ソナタ第14番「月光」が演奏された。
 この「月光」が、現在の牛田智大の心情を存分に表している。みずみずしく、淡々と、特有の美音で紡いでいく「月光」は、聴き手の心にゆったりと染み入ってくる演奏で、ベートーヴェンのあふれんばかりのロマンを描き出していた。
 そして最後はラフマニノフ。これは冒頭から強靭なタッチが飛び出し、最後まで一気に聴かせた。一瞬たりとも弛緩することなく、哀愁を帯びた表情、ラフマニノフ特有の情感、ラブソディックな表現など、フィナーレにいくにつれ、熱気を帯びてくる。
 牛田智大は、ラフマニノフが大好きなのだろう。その作品に対する深い共感が熱演につながっているようだ。
 終演後、楽屋で会った彼は、まだラフマニノフの余韻のなかにいるような、紅潮した表情をしていた。
 モスクワ音楽院の先生たちに師事し、ロシア作品のレパートリーを徐々に広げている彼は、ペダルリングも変わってきた。次回の演奏も楽しみだ。
 今日の写真は、演奏が終わってもなお、音楽のなかに身を置いているような牛田智大。もっともっと成長してほしい、もっともっと前に進んでほしいと切に願うのは、デビュー当初からずっと聴き続け、取材を行っている私の欲なのかもしれない。


 
| クラシックを愛す | 23:02 | - | -
鈴木秀美&小倉貴久子
 今日は、チェロの鈴木秀美とフォルテピアノの小倉貴久子のデュオ・リサイタルを聴きに、銀座のヤマハホールに出かけた。
 プログラムは前半が、ベートーヴェンの「チェロとクラヴィーアのためのソナタ第1番」と同「ヘンデルのオラトリオ“マカベウスのユダ”のテーマによるチェロとクラヴィーアのための12の変奏曲」。後半はメンデルスゾーンの「チェロとクラヴィーアのためのソナタ第2番」とシューマンの「チェロとクラヴィーアのための民謡風の5つの小品」というこだわりの選曲。
 ベートーヴェンがデュオ・ソナタという新ジャンルを作り出したソナタ第1番からスタート。1795年の復元楽器アントン・ヴァルターのフォルテピアノが滋味豊かな音色を奏で、ガット弦のチェロが見事な融合をなす。
 今日はベートーヴェンはヴァルターが用いられ、後半は1845年製のヨハン・バプティスト・シュトライヒャーのフォルテピアノが奏された。
 私は以前チェンバロを弾いていたことから、こうした古雅で馥郁たる響きを備えた時代の楽器を聴くと、自然に心が平穏を取り戻し、作品が作られた時代へ運ばれていく感じにとらわれる。
 このコンサートレビューは、次回のヤマハのWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」に書くことになっている。
 アンコールの最後に演奏されたメンデルスゾーンの「アルバムブラット」ロ短調というごく小さな作品がおだやかさと優雅さと絵画的な色合いを放ち、余韻を残しながら至福の時間を締めくくった。
 
 
| クラシックを愛す | 23:03 | - | -
アレクサンダー・ロマノフスキー
 今日は、ウクライナ出身のアレクサンダー・ロマノフスキーのリサイタルを聴きに紀尾井ホールに出かけた。
 ロマノフスキーは1984年生まれ。17歳のときにイタリアのブゾーニ・コンクールで優勝し、その名が広く知られるようになった。
 現在は欧米各地で活発な演奏活動を展開し、2013年にはモスクワの「若い音楽家のためのクライネフ国際ピアノ・コンクール」の芸術監督に就任した。
 今日のプログラムは、前半がベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番「月光」と、第30番。後半がオール・ショパンで、バラード第2番、第4番とピアノ・ソナタ第2番「葬送」。
 ロマノフスキーの演奏は、いずれも端正な音色で確固たる構成を備え、真摯でまっすぐな音楽である。
 ピアノはその人のありのままを映し出すが、おそらく真面目で一途な人柄なのだろう。それがそのまま演奏に現れていた。この公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定だ。
 今年はショパン国際ピアノ・コンクールの開催年であり、多くのピアニストがショパンをプログラムに入れている。それゆえ、ありとあらゆるショパンを聴くことができる。
 ロマノフスキーのショパンは、音のダイナミズムが広く、繊細かつエネルギッシュ。ルバートもやりすぎず、足りなすぎず、節度ある演奏に徹していた。
 彼はラフマニノフを得意としている。新譜もラフマニノフのピアノ・ソナタ第1番と第2番を演奏したものであり(ユニバーサル)、ジャナンドレア・ノセダ指揮によるNHK交響楽団との共演では、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を演奏した。
 今日の写真はリサイタルのチラシ。この人、横顔が彫刻を思わせる。こういう容貌の持ち主は、けっして羽目を外すことはないんだろうな。舞台に登場したときから貴公子のようで、演奏も実直。
 今日の演奏では、アンコールに演奏されたスクリャービンの「12のエチュード」より第8番がもっとも印象に残った。若くみずみずしい感性が横溢するスクリャービンのピアニスティックで複雑なリズムを多用した作品が、ロマノフスキーの奏法にピタリとマッチしていたからだ。この作品では、ひとつの殻を破り、素顔がのぞいていた。
 こういう演奏が聴きたかったんだよねえ、もっとスクリャービン、弾いてほしかったな。最後に、人間ロマノフスキーが顔を出し、ほっと安堵した思い(笑)。


 
 
| クラシックを愛す | 22:49 | - | -
アレクサンダー・ガヴリリュク
 ロシアからは次々にすばらしい才能が世に送り出されるが、1984年生まれのアレクサンダー・ガヴリリュクも、そのひとり。
 今日は東京オペラシティコンサートホールにガヴリリュクのリサイタルを聴きにいった。
 彼は1999年第3回ホロヴィッツ記念国際ピアノコンクール、2000年浜松国際ピアノコンクール、2005年ルービンシュタイン国際ピアノコンクールで第1位を獲得している。
 今日のプログラムはまず、モーツァルトの「ロンド ニ長調」から始まり、ブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲」へとつなげた。クリアで芯のある音色がホールを満たし、ブラームスでは長大な作品を持ち前のテクニックと、絵巻物を繰り広げるような鮮やかな表現力で存在感を放った。
 後半がとてもユニークな選曲。リストの「メフィスト・ワルツ」第1番、「コンソレーション」第3番、ワーグナー/リストの「イゾルデの愛の死」、リスト/ホロヴィッツ「ラコッツィ行進曲」、サン=サーン/リスト/ホロヴィッツ「死の舞踏」、そして最後にリストの「タランテラ」が演奏された。
 いずれも超絶技巧がちりばめられた難曲ばかりだが、目の覚めるような技巧を発揮し、しかもけっして鍵盤をたたかず、深々とした打鍵を存分に披露した。
 ガヴリリュクのピアノは、明朗で温かく、躍動感にあふれている。リストをバリバリ弾くと、そのテクニックだけに目が奪われがちだが、彼の演奏はストーリー性があり、創造性に富む。
 目いっぱい楽しませてくれたのに、アンコールが止まらなくなり、5曲も登場。なかでも、ショパンの「ノクターン」第8番が美しく静謐な響きで、強い印象をもたらした。
 この公演評は、次号の「モーストリー・モーツァルト」に書く予定になっている。
 いまどき、ピアニストがリサイタルをするとき、燕尾服を着る人は少ないが、ガヴリリュクはきちんと燕尾服を着て、上半身がまったく揺らがない美しい姿勢でピアノに向かう。演奏もそうだが、まさに王道をいく。
 聴くたびに大きな飛躍を遂げ、成長した演奏を聴かせてくれるガヴリリュク。浜松コンクールのときに、審査員から「20世紀後半最高の16歳」といわれた彼は、いま30歳を過ぎ、安定感が増した。また次回の来日が楽しみである。
 今日の写真は、演奏会のチラシ。前回の来日時より、だいぶ貫禄がついた。


 
| クラシックを愛す | 23:44 | - | -
樫本大進&エリック・ル・サージュ
 樫本大進とエリック・ル・サージュのオール・フランス・プロのリサイタルは、昨年ル・サージュにインタビューしたときから、非常に楽しみにしていた。
 昨日はサントリーホールでふたりのリサイタルが行われたが、松田華音のリサイタルと重なったため、大進&エリックの演奏は今日の東京芸術劇場に聴きにいくことにした。
 こちらの演奏会は、プログラムの原稿も書いている。エリック・ル・サージュがリサイタルをフルコースにたとえて話してくれたため、それを綴った。
 プログラムはフォーレのヴァイオリン・ソナタ第1番からスタート。ふたりは日本では初共演となるが、海外では何度も共演しているため、息はピッタリ。古典的な様式で書かれた軽妙さと優美さに彩られたソナタを、かろやか且つ粋なデュオで聴かせた。
 次いでプーランクのヴァイオリン・ソナタが登場。この夜の白眉で、ヴァイオリンもピアノも自由闊達で雄弁な音の対話を聴かせ、とりわけ第2楽章のガルシア・ロルカの詩の1節「ギターが夢を涙に誘う」が掲げられた間奏曲が印象深かった。
 後半は、フォーレの美質が存分に生かされた「ロマンス」からスタート。最後はフランクのヴァイオリン・ソナタで締めくくられた。
 大進の音楽は聴くごとに高い階段を駆け上がっていくような勢いを見せ、いまや自信あふれる演奏となっているが、デビュー当初から変わらないのは明朗で光輝で生き生きとした音色。その特質がもっとも現れていたのがフランクのソナタの終楽章だった。
 これは明るいロンド・フィナーレ。ヴァイオリンとピアノが丁々発止の対話を繰り広げ、クライマックスを築いていく。大進の迷いのない前進するエネルギーに満ちた奏法によく合う作品である。
 彼は常に作品に合うピアニストと共演している。ベートーヴェンではコンスタンチン・リフシッツと。そして今日のフランス・プロではル・サージュと。
 エリック・ル・サージュのピアノは、柔軟性に富み、ヴァイオリンを引きたてながらも、自身の優雅な音色をしっかり聴かせる術に長けている。いわゆる“大人”の音楽を奏でる人である。
 今日の写真は、終演後のふたり。いい演奏をしたあとは、いい表情をしているよねえ。
 大進は「こんな恰好でいいの?」といい、エリックは日本語で、「さあ、写真で〜す」といっていた。


 
| クラシックを愛す | 23:32 | - | -
松田華音
 新たな才能に触れると、本当にエネルギーが湧く。
 今日は、紀尾井ホールに松田華音のリサイタルを聴きに行った。このリサイタルに関しては、プログラムや新聞の記事などさまざまな原稿を書いたため、演奏がとても待ち遠しかった。
 曲目はデビューCDとほぼ連動していたが、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第2番が新たに組み込まれていて、これがロシアで勉強している彼女ならではの特質を表現していた。
 松田華音のピアノはタッチが非常に力強く、楽器を大きく鳴らす。現在はモスクワ音楽院で勉強しているからか、以前聴いたときよりもなおいっそう演奏の推進力が増した。
 ただし、まだまだ勉強するところは多いと思う。弱音の美しさや表現力の深さが加われば、より説得力が増すに違いない。
 こういう若い才能は、いかようにも変化しうる未知数の部分が魅力で、毎回聴くごとに大きな変貌を見せる。彼女の場合も、次なる演奏が楽しみである。
 今日の写真は、終演後のワンショット。頬が紅潮し、まだ演奏の余韻がただよっている。もっともっと大きくはばたいてね!!



| クラシックを愛す | 23:22 | - | -
取材の重なり
 取材やインタビューなど、重なるときは本当に重なってしまい、1日だけでもずれてくれればいいのに、と思うことがある。
 いま問題なのは、1月末の海外出張と国内でのインタビューが重なりそうなことだ。
 こういうスケジュールの調整はアーティスト次第ゆえ、マネージャーやレコード会社の担当者がさまざまな形で動く。
 私はただ待っているだけなのだが、それでもあちこち連絡をしなければならない。
 本来、月末というのは、各雑誌や新聞の入稿が重なるため、出かけたくないのだが、こればかりは致し方ない。
 どうしてこう重なるのだろうか。
 今日は、もうひとつ、重なる出来事があった。
 昨年インタビューをした東儀秀樹の八ヶ岳高原音楽堂でのコンサート(2月21日)に招待されたのだが、この日は九州の日田で講演をすることになっている。 
 雪のなかで聴く笙や篳篥の音楽はさぞ印象深いものだろうが、今回はかなわぬことになってしまった。
 これも1日か2日、ずれてくれればいいのに…。
 そんなこんなでいろんな人と連絡をとったり、原稿を書いたりしているうちに時間がなくなり、浜離宮朝日ホールで行われるドイツのチェリスト、ダニエル・ミュラー=ショットの無伴奏チェロ・リサイタルに行かれなくなってしまった。ぜひ聴きたかったのに、残念だ。
 まだ年が明けてまもないのに、相変わらずのバタバタ状態。嫌になりますねえ(笑)。
 
 
 
 
 
| クラシックを愛す | 21:02 | - | -
奇跡のピアニスト 辻井伸行 ビートルズの街で弾く至高の旋律
 新年、明けましておめでとうございます。
 2015年になりましたね。今年も楽しいブログを書いていこうと思っています。
 今日は、BS朝日で21時から2時間、「奇跡のピアニスト 辻井伸行 ビートルズの街で弾く至高の旋律」が放映された。
 昨年のブログにも綴ったように、この番組に彼が弾く曲目のことで出演した。
 いつもテレビの場合は、たくさん収録があっても、実際に放映されるのはほんの少しの時間ゆえ、今回も30秒か1分ほどかなと思っていたら、いろんなところにちょっとずつコメントが挟み込まれていた。
 でも、こんなに顔のアップが続き、大きな画面で見ると、なんとも恥ずかしい。顔のアラがすごく目立ち、これでもかと欠点を突き付けられているような感じだ。私のことをよく知っている人は、「こんなもんでしょ」と思うだろうが、私自身は「ああ、こんな顔しているのね、がっかり」というのが正直なところ。
 でも、まあこれが現実か、年はとりたくないものだ(笑)。
 とはいえ、私のことなんかどうでもいいわけで、番組は辻井伸行のすばらしさを伝えるのに十分な内容だった。
 彼はショパンのバラード第4番、ラヴェルの「夜のガスパール」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番という、いずれも難曲で知られる作品を演奏した。
 すべての音を耳で覚え、完全に記憶し、指の感覚でとらえていく。そこまで仕上げる過程の忍耐力、努力、時間との闘いは壮絶なものがある。
 だが、辻井伸行は本番ではそうした努力の痕跡は微塵も感じさせない。集中力を高め、体力を維持しながら、全身全霊を傾けてピアノと対峙する。
 リヴァプールの聴衆も大きな感動を得ていた。
 実は、1月10日に辻井伸行のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のコンサートがサントリーホールで開かれ、その日にインタビューすることになっている。
 これが2015年の最初のインタビューになるはずだ。彼にインタビューで会うのは本当に久しぶり。さて、どんな話が聞けるだろうか。
 今年も、いろんな話題をどんどん紹介していきます。どうぞ1年間、よろしく!!
 
| クラシックを愛す | 23:23 | - | -
voces8
 今日は、オペラシティコンサートホールにvoces8(ヴォーチェス・エイト)のクリスマス・コンサートを聴きにいった。
 彼らの日本ツアーの最終公演で、楽しいクリスマス・ソングから静かなキャロル、ミュージカルナンバー、ジャズ、ポップスまで、実に多彩なプログラム。
 1曲ごとに8人の配置が微妙に変わり、ソロもデュオも合唱もありという、自在な編成。全員が真のエンターテイナーで、鍛え抜かれた声はもちろん、楽器の音を模したり、パーカッションのリズムを声で表現したり。
 クリスマス・ソングでは、そりを走らせている様子を全員で演技するなど、見せ場が多く、会場はなごやかな空気に包まれた。
 先日インタビューしたポール・スミスが司会役を担い、日本語を交えて曲の説明を行うなど、聴衆とのコミュニケーションもバッチリ。
 彼らの歌声は、いずれの曲も高度なレヴェルで、プロフェッショナルに徹した演奏にまさに感動。
 こういう合唱は、ナマで聴くと、心が洗われるよう。
 私はモーツァルトの作品では「アヴェ・ヴェルム・コルプス」がもっとも好きなのだが、前半の最後の方にこれが登場。魂が浄化する思いにとらわれた。
 終演後、楽屋で全員の写真を撮ることに成功。「もっと近くに寄って」「だれか前にきて」「リラックスしてね」と注文を出しながらパチリ。
 みんな、すっごくいい表情をしているでしょう。今日の写真は、自慢できるな(笑)。音楽の楽しさが伝わってくる感じに撮れたから。
 写真の前列左から、テノールのオリヴァー・ヴィンセント、右はカウンターテノールのバーナビー・スミス。
 後列の左からカウンターテノールのクリス・ワードル、ソプラノのエミリー・ディケンズ、ソプラノのアンドレア・ヘインズ、バスのディングル・ヤンデル、バリトンのポール・スミス、テノールのサム・ドレッセル。
 合唱はすばらしい。人間の声の偉大さに改めて目覚める感じだ。
「声は、神が人間に与えた最高の楽器」ということばが脳裏に浮かび、まさに真実だと納得。
 それにしても、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、なんという清らかで敬虔で美しい曲なのだろう。これを聴いている数分は、まさしく天上の世界にいるような至福の時間だった。





 
| クラシックを愛す | 22:33 | - | -
アリーナ・イブラギモヴァ
 昨日は、王子ホールに先日インタビューをしたアリーナ・イブラギモヴァのリサイタルを聴きに行った。
 今回のプログラムは、J.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&バルティータ」全曲。14時からと17時からの2回公演で、全6曲を演奏するという構成である。
 アリーナのバッハは以前にも聴いているが、とてもエネルギッシュで、みずみずしい音が全編を貫く。
 彼女はアダージョやアンダンテの曲は非常にゆったりと大きく弦をうたわせ、バッハの意図したオルガン的な響きや神秘性、荘厳さ、敬虔さなどを醸し出していくが、ブレストやアレグロの曲になると、一転して疾走するような推進力に満ちた音楽に変容する。
 テンポの速い曲になると、即興性を帯び、音色にも大きな変化が生まれ、若々しく生命力を帯びた音楽と化す。
 現在の楽器は、ゲオルク・フォン・オペルから貸与されたアンセルモ・ベローシィオ(1775年製)で、ヴィオラのような深々とした低音が印象的だ。
 先日のブログにも書いたが、2015年と2016年にセドリック・ティベルギアンと組んで、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ・チクルスを行う。バッハとは、また趣の異なる演奏が堪能できるに違いない。
| クラシックを愛す | 22:23 | - | -
ミロシュのリサイタル
 モンテネグロ出身で、現在はロンドン在住のギタリスト、ミロシュの演奏は、いつ聴いても心が癒される。
 今日は浜離宮朝日ホールでリサイタルがあった。
 ソル、グラナドス、ファリャ、ロドリーゴというスペイン作品が次々に演奏され、そのなかにJ.S.バッハの無伴奏バルティータ第2番から「シャコンヌ」が挟み込まれていた。
 これはギターの巨匠、アンドレス・セゴビアが1935年にギター用に編曲したもので、いまではギタリストにとって大切なレパートリーとなっている。
 ミロシュの演奏は静謐で平穏で自然な響きが大きな特徴だが、テクニックは完璧で、自身が納得いくレヴェルまで練習を重ねる努力家。ステージでは、努力の痕跡は微塵も見せず、ひたむきに弦と対峙する。
 長くしなやかな指先から紡ぎ出される音楽は、滔々と流れる清流のようで、心身が浄化していくような思いにとらわれる。
 スペイン好きの私は、今日のプログラムを存分に堪能したが、後半にセルジオ・アサド編曲による「ベサメ・ムーチョ」と「マシュケ・ナダ」が演奏され、ホールの空気がガラリと変わった。
 そして最後に、ドメニコーニの「コユンババ」で幻想絵巻のような世界を繰り広げ、特有の静けさに包まれたリサイタルを締めくくった。
 楽屋に顔を出すと、「一緒に写真を撮ろう」といわれ、「ダメダメ、ブログはアーティストだけなの」といっても聞かず、ツーショットに。
 というわけで、今日の写真はミロシュのところだけ切り抜いたため、ちょっと顔が欠けてしまった。ご了承のほど(笑)。

| クラシックを愛す | 23:12 | - | -
バイエルン放送交響楽団
「奇跡の共演!!」
 マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団、ソリストにピアノのクリスチャン・ツィメルマンを迎えた2014年11月の来日公演は、チラシにこう記されていた。
 昨夜はそのコンサートがサントリーホールで行われ、前半にブラームスのピアノ協奏曲第1番が演奏された。
 冒頭からツィメルマンの鍛え抜かれ、熟考されたピアニズムが全開。第1楽章のオーケストラのシンフォニックな響きとピアノの輝かしい技巧が見事な融合をなし、ドラマティックで壮大な空気がホール全体を満たしていく。
 第2楽章は深々とした情感豊かな楽章。こうした曲想はツィメルマンの独壇場である。彼はときに祈りの音楽のように瞑想的な表情を見せたかと思うと、一転しておだやかな旋律美を浮き彫りにする。この楽章は、宗教的な美しさをたたえた楽章で、中間部の木管楽器の美しさが際立つ。
 第3楽章は重厚でエネルギーあふれる楽章。ピアノがはなやかに主題をうたい上げ、オーケストラが情熱的に音楽を盛り上げる。最後は長大なコーダとなるが、ツィメルマンは椅子から立ち上がるようにして打鍵し、熱演に幕を下ろした。
 当日は男性の聴衆が多く、「ブラヴォー」の嵐。拍手喝采はいつまでも鳴りやまなかった。
 後半はR.シュトラウスが2曲。交響詩「ドン・ファン」と歌劇「ばらの騎士」組曲というこのオーケストラならではの選曲。
「ドン・ファン」は、シュトラウスの管弦楽法が遺憾なく発揮された作品だが、ヤンソンスは濃厚なロマンを全面に押し出し、各々のエピソードを色鮮やかに描き出していった。
 なんといってもこのオーケストラの底力が発揮されたのは、「ばらの騎士」組曲。官能的で幻想的で夢の世界へといざなわれる楽想を、バイエルン放響は各セクションがあくまでも優美に、生き生きと、そして豊かにうたう響きで奏で、オペラをほうふつとさせる美しい世界を描き出した。
 これを聴き、私の脳裏には1994年3月にウィーン国立歌劇場で聴いたクライバー指揮ウィーン・フィルによる「ばらの騎士」の舞台が鮮やかに蘇ってきた。オッター、ロット、ボニー、モルという当時考えられる最高の歌手たちによって繰り広げられた夢の舞台。それが鮮やかな絵巻物のように現れたのである。
 終演後は、いつまでも夢見心地で、いまなお「ばらの騎士」の旋律があたまのなかをぐるぐる駆け回っている。
 これが「音楽の力」なのだろう。ヤンソンスという名匠が引き出すオーケストラ本来の力。それが名演を生み、感動の泉を満たしてくれた。この公演評は、次号の「公明新聞」に書く予定である。

 
| クラシックを愛す | 22:13 | - | -
ナタリー・シュトゥッツマン
 最近は、シューベルトの歌曲集「冬の旅」を女性歌手がうたうことがある。以前は考えられなかったことだが、作品のすばらしさを考えれば、当然うたいたくなる人は多い。
 フランスのコントラルト(アルト)の第一人者であるナタリー・シュトゥッツマンも、長年「冬の旅」を研究し、ステージにかけている。
 昨日はトッパンホールで、長年のパートナーであるピアノのインゲル・ゼーデルグレンとともに「冬の旅」を披露した。
 シュトゥッツマンの歌声は艶やかでなめらかなベルベットのようで、光沢があり、多彩な色彩感に富み、それが幾重にも変容していく。
「冬の旅」はひとりの男性の彷徨の物語だが、24曲のなかにはさまざまな苦悩や孤独、痛みや悲しみ、幻影やモノローグ的な表現、内面との葛藤、死の影や苦い覚醒、心理的な崩壊や分裂などが入り混じり、そうしたミュラーの連作詩に曲をつけたシューベルトの深層心理が浮き彫りになる。
 シュトゥッツマンはそれぞれの曲とじっくり対峙し、ひとり芝居のように演技をしながらゆったりとうたい込んでいく。
 冒頭の「おやすみ」から沈鬱な空気が支配し、それが最後の「辻音楽師」まで集中力が途切れることはなく、作品全体を俯瞰した視野の広い「冬の旅」を聴かせた。
 もっとも印象的だったのは、やはり終曲の「辻音楽師」。絶望的な表情を浮かべながら、約80分におよぶ歌曲の世界を、余韻を残しながら静かに締めくくった。
 非常に印象深い歌曲の夕べで、シュトゥッツマンの心身の充実ぶりを感じ取ることができた。
 今日の写真は終演後のサイン会でのシュトゥッツマン。
 明日の26日には、「フランス歌曲の夜」と題したリサイタルがトッパンホールで開かれることになっている。彼女は2013年に同ホールでマーラー、シューマン、ヴォルフなどの歌曲を披露して大絶賛されたが、きっとフランス歌曲のプログラムでも、聴衆を魅了するに違いない。


  
 
| クラシックを愛す | 23:55 | - | -
ショパン 主要ピアノ曲全集
 毎月、レコード会社からいくつかCDのライナーノーツの依頼が入る。
 9月下旬締め切りの分で、ビクターから「ショパン 主要ピアノ曲全集」のライナーの仕事が入った。これまでリリースされたビクターの音源をひとつのボックスにまとめた形で、ダン・タイ・ソン、エヴァ・ポブウォツカ、ディーナ・ヨッフェというショパン国際ピアノ・コンクールの優勝者&入賞者と、浜松国際ピアノコンクールの覇者イリヤ・ラシュコフスキーの演奏が組み込まれている。
 そのライナーに関し、担当者のFさんから、「全体で7000字まで入ります。ショパンの人生、作品、人間性など、自由にエッセイとして書いてください」といわれた。
 ヒエーッ、7000字。今回は曲目解説は付かないという。
 私はいったい何を書けばいいのかしら…。7000字ねえ。
 もうあちこちでショパンの人生は紹介されているし、作品紹介を書いても堅くなってしまうし、エッセイといわれてもねえ。
 さんざん悩んだ挙句、ショパンの39年の生涯をたどりながら、そこに折々の作品をからめ、エピソードやアーティストのことばなども交えながら綴ることにした。
 そのCDが出来上がり(11月19日発売)、全12枚組という立派なセットが送られてきた。187曲、200トラック収録、全曲デジタル録音という重量級のアルバムである。
 私は編集者だったためか、長い原稿になると、つい小見出しをつけたくなる。このライナーも、「参考までに」と伝え、タイトルを1本、小見出しを10本ほどつけておいた。それがそのまま掲載されている。
 来年は、5年に一度のショパン国際ピアノ・コンクールの開催年にあたる。実は、もう来年の講演がいくつか予定されていて、地方のホールの音楽講座の講師を務めることになっている。そこでは、ショパン国際ピアノ・コンクールの講義をしようかなと思っているため、この全集はそこで大きな役割を担いそうだ。
 ほとんどの講義が90分ほど。ずっと話していると、参加者も飽きてくるだろうし、集中力が続かないだろうから、私は音楽をかけることにしている。できることなら、DVDなどの映像も使いたい。
 来年はきっと、このショパン・ボックスが私と一緒にあちこち旅をすることになるに違いない。
 今日の写真はCDボックスのジャケット。なんといっても187曲ですからねえ、聴きごたえがありそうだ。 


 
| クラシックを愛す | 22:23 | - | -
ジャン=フィリップ・コラール
 フランスのベテラン・ピアニスト、ジャン=フィリップ・コラールが来日中である。
 今日は銀座のヤマハホールでリサイタルがあった。
 プログラムは、前半がショパンのノクターン第13番と第6番からスタート、ショパンのピアノ・ソナタ第2番「葬送」へとつなげた。
 後半はフォーレのノクターン第4番と「舟歌」、ノクターン第6番と続き、ラヴェルのソナティナ、そして最後はラヴェルの「鏡」より「悲しい鳥たち」「道化師の朝の歌」で締めくくられた。
 このプログラムはとても流れが自然で、コラールのクリアで凛とした響きによく合っていた。
 もちろん、いずれの作品も鍛え抜かれたテクニックと長年弾き込まれた熟成した音楽性に彩られたものだったが、実は今夜、私がもっとも感銘を受けたのは、アンコールに演奏されたショパンのノクターン作品9の2だった。
 ノクターンのなかでもっとも人気のある有名なこの作品を、コラールは粋で洒脱でクールかつ男性的な奏法で聴かせたのである。そのノクターンはけっして甘くなく、ある種の客観性をもって奏でられたため、作品の新たな面を発見することができた。
 コラールには、21日にインタビューをする予定である。今日の演奏を聴いて、いろんな質問が頭に湧いてきた。楽しみである。
 今日の会場には、ジャン=マルク・ルイサダの姿があった。久しぶりだったのであいさつにいくと、いつもながらのやわらかい笑顔が戻ってきた。
 なんでも、今日はお忍びで聴きにきたそうで、一番うしろの席にすわっていたが、演奏が終わると「ブラヴォー!」と叫んでいて、結局は目立っていた(笑)。
 

 
| クラシックを愛す | 23:35 | - | -
マレイ・ペライア
 11月13日、サントリーホールでマレイ・ペライア&アカデミー室内管弦楽団(アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ)のコンサートを聴いた。
 プログラムは、まずメンデルスゾーンの「弦楽のための交響曲第7番」で始まり、これは指揮者なしのオーケストラのみの演奏。冒頭から美しく鍛え抜かれたアンサンブルが響きわたり、メンデルスゾーンが13歳のときに作曲したというみずみずしく優雅な楽想がホールを幸せ色で包み込んでいく。
 次いでモーツァルトのピアノ協奏曲第21番がペライアの弾き振りで演奏され、この作品を得意とするペライアの抒情的で濃淡に満ちた美しいピアノの音色がたっぷりと披露された。
 彼の弾き振りはごく自然で、気負いもなければ気取りもない。アカデミー室内管の首席客演指揮者を務めているため、気心の知れた友人だちと音楽を心から楽しんでいるという様子が伝わってくる。
 とりわけ第2楽章の天国的な美しさを放つアンダンテが印象深く、ペライアのえもいわれぬポエティックで穏やかな響きが心にまっすぐに響いてきた。
 それは後半のJ.S.バッハのピアノ協奏曲第7番も同様で、ヴァイオリン協奏曲第1番を編曲したという作品らしく、鍵盤のソロは流麗な旋律を奏でる。
 だが、一方では通奏低音のような役割も果たし、それらをペライアは絶妙に弾き分け、バッハの対位法の扱いも緻密に表現。
 ペライアは指の故障でピアノが弾けない状況のときに、バッハの作品を徹底的に研究したと以前語ってくれたが、まさにここではバッハの作品の内奥に迫り、チェンバロ奏法も研究したというすべての要素が遺憾なく発揮された。
 最後は、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」。これはペライアが指揮を行ったものだが、彼のピアノを弾くときとはうって変った激しくドラマティックな表現と解釈に驚かされた。まさに「驚愕」である。
 ハイドンのこの作品はときおり大音響のパーカッションなどが飛び出して驚かされるが、ペライアの指揮もその箇所は各楽器に明快な指示を与えて強奏が飛び出した。
 ペライアは、いまもっとも充実したときを迎えているようだ。彼の演奏は長年聴き続けているが、こんなにも肩の力が抜けた自然体の演奏と表情を見たのは久しぶりだった。
 私の大好きなピアニストのひとりとして、いつもペライアは上位にランク。巨匠への階段を上り続けているが、けっして派手ではなく、むしろ奥ゆかしくひっそりとして、音楽に対して常にひたむきで真面目。そこがたまらなく好きなんだよね。いつまでも温かいものが胸に残る、そんなコンサートだった。
| クラシックを愛す | 22:20 | - | -
ピエール=ロラン・エマール
 今日は、紀尾井ホールにピエール=ロラン・エマールのリサイタルを聴きにいった。
 プログラムは、録音をリリースしたばかりのJ.S.バッハ「平均律クラヴィーア曲集第1巻」。
 すばらしく心に響く演奏で、録音を聴いたときもそうだったが、心身が浄化する思いにとらわれた。
 終演後、楽屋を訪ねてエマールにその気持ちを伝えると、「バッハのおかげです。バッハがそういう気持ちにさせてくれたんですね」と温かいまなざしでいった。
 これを聞き、より感動が深くなった。
 帰宅後、すぐに「モーストリー・クラシック」の公演評を書き、それからあちこちからきていたメールの返事を送ったら、もうこんな時間になってしまった。
 また時期を見て、エマールの演奏についてはじっくり書きたいと思う。
 あまりにも壮麗で光輝で深遠なバッハに触れ、まさに神の音楽を聴いた感じ。ああ、今夜はいい夢が見られそう(笑)。
| クラシックを愛す | 23:31 | - | -
ジャン=ギアン・ケラス&アレクサンドル・メルニコフ
 またまた月末入稿に追われる日々だが、各誌の新譜紹介の記事を書いていると、そのつどすばらしい録音に出合い、つい時間を忘れて聴きほれてしまう。
 今日は、フランスのチェリスト、ジャン=ギアン・ケラスとロシアのピアにスト、アレクサンドル・メルニコフがコンビを組んだ「ベートーヴェン:チェロとピアノのための作品全集」(キングインターナショナル)を聴き、2枚組のCDをずっと聴き込んでしまった。
 実は、明日はケラスの「バロックからモダンへ辿る道」と題したリサイタルを聴きに王子ホールに出かける予定である。
 その前に聴いたこのベートーヴェン、ケラスのチェロは朗々と旋律をうたい、おおらかで情熱的でえもいわれぬ情趣がただよっている。
 これにメルニコフの自由闊達で、疾風怒濤のごとく突っ走っていくピアノがからむと、丁々発止の音の対話が生まれ、なんともスリリングで刺激的だ。
 メルニコフは、近年ひと皮むけたような、非常に印象に残る濃密な演奏をするピアニストに変貌した。
 もう10年ほど前になるが、「プラハの春音楽祭」の取材にいったとき、ワディム・レービンとのデュオで音楽祭に参加していたメルニコフにインタビューをしたことがある。
 ものすごくシャイで、ほとんど相手の顔も見ないようなタイプで、話をしている間中ずっと下を向いてボソボソしゃべっている。
 こりゃ、困ったなあ。テープに声が入らないんじゃないかと心配したほどだ。
 しかし、いったんピアノに向かうと、一気にその音楽は雄弁になり、まるで彼の心の声のようだった。
 そんなメルニコフが、この録音ではケラスのチェロをリードするような潔さを見せ、ベートーヴェンのピアノ・パートをガンガン気持ちよく、快速のように飛ばしている。
 こういう録音を聴くと、すぐにナマの演奏が聴きたくなる。だれか、ふたりのリサイタルを組んでくれないかなあ。
 さて、明日はケラスの無伴奏チェロの夕べだ。どんな歌を聴かせてくれるだろうか。
 今日の写真はケラスとメルニコフのベートーヴェンのジャケット。ケラスはいつまでも変わらないけど、メルニコフは風貌もすごく変わった。彼にいまインタビューをしたら、きっと以前とはまったく異なり、自信に満ちた答えが戻ってくるんだろうな。



| クラシックを愛す | 23:53 | - | -
グスターボ・ドゥダメル指揮ウィーン・フィル
 今日はサントリーホールにグスターボ・ドゥダメル指揮ウィーン・フィルを聴きにいった。
 プログラムはモーツァルトの協奏交響曲変ホ長調K.364から始まり、ヴァイオリンをライナー・キュッヒル、ヴィオラをハインリヒ・コルというウィーン・フィルのメンバーが務めた。
 次いでこれもウィーン・フィルの第2ヴァイオリンのルネ・シュタールが作曲した「タイム・リサイクリング」の日本初演が行われた。
 後半はドヴォルザークの交響曲第8番で、ウィーン・フィルと完全に同化したドゥダメルのみずみずしく勢いのある指揮を聴くことができた。
 今日はウィーン・フィルハーモニー ウィーク イン ジャパン2014の東京初日公演ゆえ、終演後にブルーローズ(小ホール)で歓迎レセプションが開かれたが、終演が21時半を回っていたため、レセプションも遅い時間から始まった。
 私は今日、ライナーノーツの締め切りを抱えているため、途中でレセプションを抜け出し、帰宅したが、これから原稿の仕上げをしなくてはならない。
 というわけで、今日はコンサートについて書く時間がなくなってしまった。写真は、レセプション会場でのドゥダメル。才能があふれんばかりで、やはりオーラが感じられる。
 いま、もっとも目が離せない、一挙手一投足が気になる指揮者である。

| クラシックを愛す | 23:52 | - | -
インタビューの下調べ
 9月からシーズンが始まり、これから年末まで来日ラッシュが続く。
 インタビューの仕事もかなり先まで入り、それぞれのアーティストの下調べをしっかりしなくてはならない。
 先日、仕事仲間と話しているとき、私のインタビューの仕方について話題となった。
 私は他の人のインタビューを聞くことはできないため、ほかのジャーナリストや評論家がどういうインタビューをしているのかは知ることができない。
 仕事仲間の人たちによると、彼らはインタビューに立ち会う立場の人たちなので、だれがどういうインタビューをするのかはよく知っている。
 私はいつもそのアーティストのプロフィールや仕事内容、これまでの経歴から録音、コンサートなど現在進めているプロジェクトまで、事前に頭に叩き込んでいき、対話をするときはメモをいっさい見ない。
 もちろん、固有名詞や年号などはまちがうといけないため、さっとメモすることがあるが、テレコを置くと、あとは基本的に相手の目を見てずっと話をすることをモットーとしている。
 だが、ほとんどの人はインタビュー項目をきちんと紙に書いてきて、それをひとつずつ読み上げて答えを記入していくのだそうだ。
「えーっ、そうなの」
 私は自分のやり方とあまりにも違うため、驚きの声を上げてしまった。
 そういえば、私はよくアーティストに質問される。
「きみ、メモとらないし、何の資料も見ないけど、大丈夫?」
 もちろん、「大丈夫です!」と明言する。「全部、暗記していますから」と。すると相手は、「おおっ」といって感嘆する。まあ、ちょっとおおげさにいってしまうんだけどね(笑)。
 日本の他のインタビュアーは熱心にメモをしているのに、私はやることをやっていないように見え、きっと心配でたまらないのだろう。
 以前、映画「ピアノ・レッスン」の音楽などで有名なマイケル・ナイマンにも、「きみは、ふつうの日本人と違うねえ」といわれた。
 そうなのかしら。本当に、そんなに日本人らしくないインタビューをしているのだろうか。
 でも、これが私のやり方である。
 インタビューというのは、時間に制限がある。特に海外の音楽家の場合、通訳の訳している時間、カメラマンの撮影時間などを除くと、話をする時間は本当に短い。そのなかで、少しでも多くのことを聞かなくてはならないわけで、私はずっと相手の気をそらさないよう、集中して話す。
 もっとも大切なのは、アーティストにとって、貴重な時間を「損した」「無駄にした」と思われないようにすることだ。
 さて、そのためにはしっかり下調べをして、その予習を本番に生かさなくてはならない。
 これからまた、いろんなアーティストに会う日が続く。こういう時期だからこそ、気を引き締めなくっちゃ。
| クラシックを愛す | 22:25 | - | -
フレディ・ケンプ
 久しぶりにあるアーティストの演奏を聴き、その成長ぶりに驚かされるとともに、非常にうれしい思いがこみ上げてくることがある。
 昨夜聴いたフレディ・ケンプの演奏が、まさにそうだった。
 ケンプは、1998年のチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門で第3位入賞を果たし、聴衆賞も受賞した。
 スケールの大きな華やかさを備えた演奏と甘いマスクで大きな人気を得、一躍「コンクールのヒーロー」と絶賛された。
 ここからが彼の苦難の道となる。どこにいってもコンクール入賞者としての演奏を聴きにくる人ばかりで、「フレディ・ケンプ」その人の名前は二の次。
 当時から何度かインタビューを重ねたが、いつもそのことで悩んでいた。
「いつになったら、自分の名で勝負できるようになるのでしょうか」
 だが、日本の血を引くケンプは完全なるワーカホリックで、年間100回以上のコンサートをこなし、実力を磨いていった。
 いつも会うたびに非常に真面目で、音楽ひと筋。来日公演をとても大切に考え、同じ作品を弾くことを極力避け、新たな面を提示していた。
 そんなケンプに関して、今回プログラムの原稿を書くことになった。これまでのインタビューの内容や演奏を聴いてきたことを交えて綴ったが、久しぶりに演奏を聴くことを楽しみにしていた。
 今回は得意とするベートーヴェンのピアノ・ソナタから第30番作品109を選び、特有の情感あふれる美音でベートーヴェンのロマンを浮き彫りにした。
 シューマンも2曲組まれ、前半の終わりに「幻想小曲集」、後半の最初に「トッカータ」が演奏された。
 まさにシューマンはケンプのけっして鍵盤をたたかない、絶妙のペダリングを使用する美しい響きによく似合っていた。
 そして最後はムソルグスキーの「展覧会の絵」が演奏されたが、これまで聴いてきたこの曲とは一線を画し、美しい絵巻物を繰り広げるような表現だった。
 この公演評は、10月掲載の「公明新聞」に書く予定になっている。
 確かな成長と、大きな自信と安定感、さらに表現力の深さを増したフレディ・ケンプの演奏。次回の来日には、ぜひまた話を聞いてみたいと気持ちが湧いてきた。
 国際コンクール入賞後、自分の道を着実に歩み続け、中堅の実力派となるアーティストはけっして多くはない。フレディ・ケンプは、そうしたなかで苦難の時代を経て「自分の道」を見つけた。さらに聴き続けていきたいと思うピアニストである。
 もっとも印象に残ったのは、アンコールの最後に弾かれたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」の第2楽章。この緩徐楽章は、アダージョ・カンタービレと表記されている。ケンプは内声部の美しさを際立たせながら、おだやかに息の長いフレーズをゆったりとうたわせ、豊かな詩情をたたえた旋律を静けさをもって弾き進めた。これを聴くことにより、彼の「いま」の充実ぶりがより深く理解できた。今後が楽しみだ。
| クラシックを愛す | 22:43 | - | -
ピアノ三昧
 今日は、若手ピアニストの演奏を堪能する日となった。
 まず、午後は原宿に出来た新しいスタジオで松田華音のコンベンションが開かれたため、そこで彼女の演奏を初めて聴くことができた。
 曲は、ショパンのバラード第1番、スクリャービンのワルツ作品38、ラフマニノフの「音の絵」より「赤ずきんちゃんと狼」、パッヘルベル理「カノン」という4曲で、新譜「松田華音デビュー!(仮)」(ユニバーサル)に収録されている作品である。
 最初のショパンから、まさにロシア・ピアニズムを身に付けていることが明確に伝わる演奏だった。
 先日も書いたが、彼女は6歳からロシアで勉強している。12年間に学んだ奏法は、力強く楽器を大きく鳴らし、旋律を豊かにうたわせるもので、説得力がある。
 新譜のライナーノーツを書く準備がこれで整った感じがした。書きたいことが次々に脳裏に浮かんできたからである。
 よく、アーティストは「ことばで音楽を伝えるよりも、演奏で伝える方がずっと楽に自然にできる」というが、まさに松田華音も先日インタビューで話していたときとは打って変わって、自分のいいたいことを音楽で伝えた。
 そして夜はオーチャードホールに「辻井伸行 ラヴェルを弾く」を聴きにいった。
 マルク・ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢との共演予定だったが、ミンコフスキが急病のためパスカル・ロフェに変更された。
 辻井伸行は「ソナチネ」「亡き王女のためのパヴァーヌ」「水の戯れ」を演奏し、ピアノ協奏曲ト長調でオーケストラと共演。ラヴェルのきらめくような美しい響きと特有の浮遊感をたっぷり堪能させてくれた。
 いつも辻井伸行の演奏を聴いた後に感じることだが、胸の奥が熱くなり、やがてほんのりとした温かさに変わり、それがずっと続く。不思議なピアニズムである。
 今日の写真は、コンベンションで演奏を終えたときの松田華音。華奢なのに、音の深さと強靭さは格別。インタビューのときにロシアの教育は最初にからだを作ることといっていたが、完全に脱力ができ、自然な奏法だった。

| クラシックを愛す | 22:50 | - | -
公演評
 今日は、HAKUJU HALLにジョン・リルのリサイタルを聴きにいった。
 この公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書くことになっている。
 プログラムはベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、シューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」、プロコフィエフの「トッカータ」、ショパンの「バラード第4番」、ブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」という構成。
 冒頭のベートーヴェンから、批評を書くのにとても難しい演奏だということが判明。ことばを駆使して演奏を表現しなければならないのだが、的確なことばが見つからないのである。
 演奏が進むにつれ、その思いは徐々に増幅していき、どういう文章を書いたらいいのだろう、と考え出したら、演奏を楽しめなくなってしまった。
 ここがもっとも難しいところである。公演評を書くということは、短い文章でその演奏を聴いていない人に率直に伝えなくてはならないわけで、音楽をことばで表現する難しさを常に感じる。
 語彙や表現能力、比喩の使い方など、あらゆる面で自分のもてる最高のものを発揮せねばならない。
 今日は、友人のKさんと一緒に聴いたのだが、彼女にも「どうやって書くの」と聞かれた。うーん、悩み多きだ。
 まあ、少し時間を置き、じっくり考えることにしよう。
 
| クラシックを愛す | 23:14 | - | -
新譜紹介
 毎月、月末から翌月の初旬にかけ、新譜の紹介記事を雑誌や新聞に書いている。
 新譜は各社から数多く送られてくるため、それを月ごと、ジャンルごと、アーティストごとに整理しなければならないのだが、私の整理能力ではなかなか追いつかない。
 それゆえ、いつも「あれっ、あの新譜どこだっけ」「さっきここに置いておいたのに、なんでなくなるの」「ああ、あのアーティストの録音、もう一度聴きたいのに、どっかにいっちゃった」と、パニック状態に陥る。
 これを何年も経験して、整理の大切さを実感しているはずなのに、送られてくる音源の数が私のキャパシティを完全に超えているため、いっこうに改善しない。
 先日、ネットでいいCDケースを見つけ、早速いくつか購入。ところが、届いたらその段ボール箱がやたらに大きく、今度はそれを置く場所がない。いまは原稿締め切りが重なっているため、整理する時間もない。
 というわけで、またもや私の整理術は暗礁に乗り上げ、段ボールに囲まれることになった。
 なんで、いつもこうなるのだろう。
 いまの時期を過ぎれば、きっと整理する時間が確保できる、と安易に自分を納得させ、段ボールには目をつぶることにした。
 さて、いつになったらきっちりCDが整頓されるのだろうか。きっと、ずっとこうやってブツブツいっているような気がする。お掃除ロボットのような整理ロボット、だれか開発してくれないかなあ(笑)。

 
| クラシックを愛す | 23:24 | - | -
ホジャイノフのリサイタル
 ニコライ・ホジャイノフは、プログラムに非常に凝るアーティストである。インタビューでも、常にプログラムは熟考すると答えている。
 今日のリサイタルは、シューマンの「アラベスク」からスタート。次いでシューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」につなげ、前半の最後はリストの「メフィスト・ワルツ第1番「村の居酒屋での踊り」という構成。
 ホジャイノフは以前から抒情的で繊細で緻密な演奏をするピアニストだったが、それが聴くたびにより大きな特徴となり、今夜もシューマンではロマンあふれる詩的な表現が際立っていた。
 しかし、後半のショパンの「子守歌」とピアノ・ソナタ第3番になると、演奏がやや慎重になり、弱音の美しさを前面に出そうとするあまり、音楽全体がおとなしくなってしまった。
 ここがショパンの難しいところである。2010年のショパン・コンクールのときも、ホジャイノフは本選のコンチェルトになったときに、それまでのみずみずしい鮮烈さを備えた演奏から一転し、おとなしい演奏になってしまったからだ。
 コンクールというのは、とかく派手で音量が大きく、ダイナミックな演奏をする方が目立つ。エレンガントでポエティックで深い思考に根差した演奏というのは、影が薄くなってしまうのである。
 ホジャイノフは、小さなサロンで聴くと、味わい深くていい演奏になるピアニストだと思う。彼の繊細なタッチ、こまやかなリズム、作品の内奥にひたすら迫る洞察力の深さは、現代の広いホールではなかなか本来の美質が発揮できない。
 こういうリサイタルを聴くと、本当にいろんなことを考えさせられる。若手ピアニストが国際舞台で活発な活動を展開するためには何が必要なのか、いかにしたら真の実力が評価されるのか、世に出るためにはコンクール以外の手段はあるのか、海外のアーティストのために日本ができることは何か…。
 そして、いま自分ができることは何か、と考える。
 そうしたことに思いを馳せながら、ホジャイノフの6曲にもおよぶアンコールを聴いた。
 ビゼーの「カルメン」より抜粋、シューマンのリスト編曲による「献呈」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」第1番と第5番、ヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ「こうもり」より、山田耕筰の「赤とんぼ」というのが、アンコールの曲目。
 ホジャイノフはさまざまな語学に興味をもっていて、日本語にも興味津々。今日のアンコールは、シンプルな日本語で曲目を紹介してから演奏した。
 この公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書くことになっている。少ない文字数でどう表現したらいいか、じっくり考えなければ…。
| クラシックを愛す | 00:10 | - | -
渡辺克也
 昨日は、渋谷区文化総合センター大和田さくらホールに、渡辺克也のオーボエ・リサイタルを聴きにいった。
 先日インタビューしたときにも今回のプログラムに関して詳しく話してくれたが、今回はつい先ごろリリースされた「Romance」(キングインターナショナル)の発売を記念して、CDに収録された作品が組まれている。
 まず、パラディールの「演奏会用独奏曲」がゆったりしたテンポでおだやかに奏され、オーボエの抒情的な音色がホールを満たしていく。
 次いでルフェーヴルの「2つの小品」が演奏され、「アンダンテ」「アレグロ」と題された2曲がテクニック的、表現力ともにコントラストを見せ、この時点ですでに、渡辺克也の職人芸とでもいうべき緻密にコントロールされた音楽に魅了される。
 これら2曲はあまり演奏される機会に恵まれない珍しい作品。渡辺克也はトークも交え、そのなかで曲に出合ったいきさつなどを述べていく。
 前半の最後は、ヒンデミットのオーボエ・ソナタ。この作品になり、一気にテンションが上がり、演奏家魂が込められたとでもいおうか、オーボエの多種多様な響きが横溢し、作品の内奥へと聴き手をいざなった。
 後半は、ようやく録音に着手したと語っていたシューマンの「3つのロマンス」からスタート。まさに長年演奏し続けてきた手の内に入った演奏で、あふれんばかりのエネルギーと情熱と濃密な感情表現がほとばしり、心が高揚する思いにとらわれた。
 ここで、彼は「体力をかなり使ったので、少しだけお休みして、ピアノの小林有沙さんに1曲弾いていただきます」とあいさつ。彼女がリストの「愛の夢」を演奏した。
 実は、小林有沙は2013年12月にシューマンとリストを収録したデビューCDをリリースしているのだが、そのライナーノーツを私が担当している。ナマの演奏を聴くのは初めてで、今回は1曲だったが、ぜひリサイタルを聴きたいと思った。
 そしてプログラムの最後は、プレヴィーユのソナチネ。これもふだんあまり耳にすることができない作品だが、非常に美しい旋律に彩られたエレガントでお洒落な感じがする曲で、フランスの薫り高きエスプリを放っていた。
 終演後、楽屋で小林有沙の両親と妹のヴァイオリニスト、小林美樹に会い、しばし立ち話。お父上から「ヴェンゲーロフの本、読ませていただきました」といわれ、うれしいやら照れくさいやら…。
 今日の写真は、サイン会での渡辺克也と、楽屋での小林有沙。さくらホールは初めて訪れたが、渋谷駅から近く、ホールは室内楽に向いていて聴きやすく、オーボエの響きがごく間近に聴こえる。
 オーボエという楽器は、緊迫感に満ちた音色が特徴だと彼が語っていた通り、リサイタルの最初から最後まで耳を研ぎ澄まして聴き入った。
 私はこういう職人芸が好きで、奏者とともに呼吸をしているような感覚になり、集中力をもって聴くことに喜びを感じる。帰路に着くときには、シューマンの「ロマンス」の主題がずっと脳裏を駆け巡っていた。



| クラシックを愛す | 22:02 | - | -
リパッティとデュ・プレ
 最近は往年の名盤と称されるディスクが、とてもリーズナブルな価格で再発売され、しかもリマスターにより音質は抜群によくなり、とても聴きやすくなった。
「クラシック・マスターズ」と題されたワーナーの廉価盤シリーズは、1枚が1400円、2枚組でも2300円(いずれも+税)という価格だ。
 今回リリースされたなかでは、ディヌ・リパッティが病気を押してステージに立った「ブザンソン音楽祭における最後のリサイタル」と、ジャクリーヌ・デュ・プレの代名詞ともいえる「エルガー:チェロ協奏曲」が特別な存在感を放っている。
 リパッティは、不死の病、リンパ肉芽腫症(白血病に似た症状)に侵され、33歳という若さで亡くなった不世出のピアニストである。この最後のリサイタルは、医師の反対を押してステージに立ったが、すでにステージへの階段を上るのも苦労するような状態だったとか。
 しかし、演奏は完璧な構成力と表現力を備え、情感に富み、圧倒的な美を放ち、聴き手の心を揺さぶる。J.S.バッハのパルティ―タ第1番からスタート、自然な舞曲のリズムが胸にまっすぐに響いてくる。なんとかろやかで優美なバッハだろうか。
 次いでモーツァルトのピアノ・ソナタ第8番。母の死に遭遇したモーツァルトの深い悲しみを、リパッティは天上の歌のようにうたいあげていく。
 続いてシューベルトの即興曲が2曲演奏されるのだが、もうこのあたりで、あまりにも美しく異次元の世界へと運ばれる演奏に、涙腺がゆるみ、平常心では聴けない。ウルウルウル…。
 そして極め付きは、最後のショパンの「13のワルツ集」だ。肉体と精神のバランスを失いかけたような鬼気迫る演奏で、綱渡り的な怖さを感じさせるが、演奏はゆるぎないテクニックと絶妙のルパートが全編を覆い、命を懸けてピアノと対峙している様子がひしひしと伝わる。
 残念なことに、最後に予定されていた曲は力尽きて演奏できなかったそうだが、ここにはリパッティの完全燃焼した演奏が詰まっている。何度聴いても、涙がこぼれる、そんな貴重な音の記録である。
 一方、エルガーのチェロ協奏曲は、デュ・プレのために書かれたような曲だといわれている。これを演奏するチェリストは、常にデュ・プレとくらべられるわけだから、大変なプレッシャーと闘うことになる。
 まさにここには命を削るような、もだえ苦しむような、全身全霊を懸けたデュ・プレの演奏が収録されている。1965年8月の録音で、共演はジョン・バルビローリ指揮ロンドン交響楽団。デュ・プレはこの録音で世界的な名声を獲得したが、やがて不死の病である多発性硬化症を患い、1973年に引退した。現役時代は短かったが、彼女の残した功績は人類の遺産ともいうべきもので、カップリングのディーリアスのチェロ協奏曲(マルコム・サージェント指揮ロイヤル・フィル)とともに輝かしい光を放っている。
 エルガーのチェロ協奏曲は、冒頭からはげしく深く重い。デュ・プレは血を流さんばかりにチェロをはげしく情熱的に鳴らし、ときに幻影の世界へと聴き手をいざなう。
 今日の写真はそのジャケット写真。時空を超えたこうした名演奏は、「音楽の世界遺産」とも呼べるものではないだろうか。世界遺産にそうした分野があるといいのだが…。


 
 
  
| クラシックを愛す | 22:59 | - | -
朴葵姫(ぱくきゅひ)
 今年はワールドカップの開催により、ブラジルに世界の目が向けられている。
 南米にはもともと個性的な作曲家が数多く存在するが、今年のブラジル・イヤーに因み、ギタリストの朴葵姫が「Saudade―ブラジルギター作品集―」(コロムビア)と題したアルバムを完成させた(9月17日発売)。
 今日はそのアルバムに関することなどを聞くため、朴葵姫にインタビューを行った。
 彼女は1985年韓国生まれ。3歳のときに横浜でギターを始め、2004年東京音楽大学に入学。2006年9月からはウィーン国立音楽大学でアルヴァロ・ピエッリに師事して研鑽を積んでいるが、この先生はウルグアイ出身で、ブラジル作品もレッスンでひんばんに取り上げるため、長年こうした作品に親しんできたという。
 Saudadeサウダーヂとは「郷愁」と訳されるが、もっと深い意味合いが含まれ、音楽を表現するときにはさまざまな感情や内的要素が必要となる。
 今日のインタビューは、まずこのサウダーヂに関していろいろ意見交換することから始まった。
 彼女は今回ものすごく多くの候補曲のなかから、CD1枚に収録する曲を選ぶのに大変な時間をかけたという。
 アルバムはジスモンチ、ヴィラ=ロボスからカルロス・ジョビンまで多岐にわたり、全編にサウダーヂの空気が色濃く流れている。
 このインタビューは、「CDジャーナル」の9月20日発売号に掲載される予定。愛器ダニエル・フリードリッシュを手に入れた秘話から、コンクールに落選したときの失意と優勝したときの喜び、手が小さくて苦労していること、今後の方向性まで、ことばを尽くして話してくれた。どうぞ、雑誌をお楽しみに!!
 インタビューを終え、彼女は本当に努力家だと感じ入った。すべてを正直に、飾らずに話してくれる姿勢にも好感がもてた。その率直さ、自然な感覚がすべて音楽に映し出されていると思う。
 CD発売記念コンサートも予定され、10月1日に浜離宮朝日ホールで開催されることになっている。
 今日の写真はインタビュー後の朴葵姫。前髪を切ったためか、以前の写真とは少し雰囲気が異なり、柔らかい印象になった。彼女の抱えている楽器が、名器の誉れ高いフリードリッシュのギターですゾ。


 

 
 
 
| クラシックを愛す | 22:56 | - | -
辻井伸行
 辻井伸行の快進撃が続いている。最近はドイツでも毎年のようにコンサートを行い、日本でのコンサートも快調だ。
 今日は、「プレミアム・リサイタル」と題された各地で開催されている全10公演の中日にあたり、紀尾井ホールでリサイタルが行われた。
 プログラムは前半がラヴェルの「ソナチネ」と「夜のガスパール」。後半がショパンの「バラード第4番」とピアノ・ソナタ第3番という重量級の内容である。
 このプログラムの原稿を書いたため、選曲はすでに知っていたのだが、実際の演奏を聴き、大きな成長を遂げた音楽作りに強い感銘を受けた。
 辻井伸行に関してはこのブログでも何度か紹介し、そのつど演奏の変貌を綴ってきたが、今日も非常に説得力のある演奏で、終演後の楽屋を訪ねたときにもついその旨を口にしてしまった。
 とりわけ印象的だったのは、「夜のガスパール」。これはさまざまなピアニストが難曲だといい、しかもフランスのピアノ作品の最高峰に位置するという人が多い。
 辻井伸行は、「水の精(オンディーヌ)」を真珠の粒がころがるような美しくかろやかな音で始め、次第に流麗な響きを駆使して水の精の心情を鮮やかに映し出した。
 次いで「絞首台」は、不気味な表現で弾き進め、変ロ音の鐘の音を淡々と鳴らし続けた。
 最後の超絶技巧を要する「スカルボ」は、地の精であるスカルボが怪しげにころがりまわっている様子を一気に疾走するようなスピードで聴かせ、最後は突然消えてしまうスカルボを減衰する音で視覚的に表現した。
 実は、辻井伸行の次なる新譜のライナーを書く予定になっている。今日、その音源が届き、これからじっくり耳を傾けようと思っている。
 たゆまぬ努力の結果をこうして聴くと、また新たなる彼の進化と深化に触れる思いがする。いつも辻井伸行の音楽を聴くと、勇気を与えられる。「私も頑張らなくちゃ」という気持ちにさせられるのである。
 人間はつい怠け心が顔を出し、楽な方に流れがちだが、辻井伸行は音楽を通して、そんな私の背中を押してくれる稀有な存在なのである。
 今日の写真は、演奏後のリラックスした表情の辻井伸行。彼はトークもユーモアがあり、「今日は台風のため交通事情が心配なので、アンコールは1曲だけにします」と話して会場の笑いを誘い、ラヴェルの「水の戯れ」を演奏した。


 
| クラシックを愛す | 22:39 | - | -
イザベル・ファウスト&アレクサンドル・メルニコフ
 2012年2月17日のブログに書いて以来、2年数か月ぶりにイザベル・ファウストとアレクサンドル・メルニコフのデュオを王子ホールに聴きにいった。
 今日はブラームス・ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会で、第1番から第3番の前に、ディートリヒ/ブラームス/シューマンが合作したF.A.E.ソナタが置かれた。
 これは1853年に完成を見た作品で、友人同志が冗談まじりに書いたものだったようだ。第1楽章はディートリヒ、第2楽章はシューマン、第3楽章はブラームス、第4楽章はシューマンの作曲による。
 ファウストとメルニコフは、以前にも増して息が合い、自由闊達で自然体で生き生きとした演奏を披露。プログラムが進むにつれ、とりわけメルニコフの成長ぶりが強く感じられた。
 彼のピアノはもうかなり前から聴いているが、年々主張が強く、存在感を増し、雄弁になっていく。
 今日のブラームスも、ファウストのヴァイオリンにピッタリと寄り添いながらも、はげしく強く情熱的に楽器を鳴らし、自分の音楽を奏でていた。
 彼の名は、実力の割には広く知られていない。ソリストとしての活動も多く、ショスタコーヴィチなどでも評価が定まっているものの、日本ではまだ知名度がそれほど高くない。
 以前、インタビューしたときにも非常にシャイで、人を押しのけて前に出ることが苦手という感じを受けた。うつむきながらポツポツと暗い表情で話すため、声が非常に聞きとりにくかったことを覚えている。
 しかし、いったんピアノに向かうと、内に秘めた情熱が一気にあふれ出て、とどまるところを知らないという様子だ。
 ファウストのヴァイオリンは古楽奏法も取り入れた、非常に素直で清涼さをみなぎらせた、おだやかさが際立つ。ブラームスの旋律の多様さと深みのある美しさを前面に押し出していく奏法。
 一方、メルニコフのピアノはブラームスの複雑な感情表現を余すところなく表出していく方法で、ときにソロを演奏しているような独創性を見せる。
 こうしてふたりの共演を定期的に聴いていると、デュオがより濃密になり、コミュニケーションの強さが実感できる。
 今日の写真は、プログラムの表紙。お互いに、いいパートナーを見つけたよねえ。ヴァイオリニストは自分に合うピアニストを探すのに苦労している人が多いけど、ファウストはメルニコフと録音でも共演しているし、今後もきっと長く組んでいくに違いないと思わせるほどの相性の良さだった。


 
| クラシックを愛す | 23:05 | - | -
アリス=紗良・オット&フランチェスコ・トリスターノ 
 昨日は、アリス=紗良・オット&フランチェスコ・トリスターノのピアノ・デュオ・リサイタルを聴きにすみだトリフォニーホールに出かけた。
 ふたりは4年前に出会い、すぐに意気投合。ついにピアノ・デュオを行うまでになった。
 2013年9月にはベルリンで「スキャンダル」(ユニバーサル)と題したCDを録音。そのレコーディングが終わった後の来日時、フランチェスコにインタビューをしたが、アリスはこの録音のなかに収録されているフランチェスコの新作「ア・ソフト・シェル・グルーヴ」の楽譜を見た途端、絶句し、「ええーっ、弾けな〜い!」と絶叫したとか。
 でも、そこは根性のある(?)アリスのこと、譜面をピアノの下にバーッと散らばして、必死に練習したという。
 その曲は、昨日の後半の第1曲目に登場。フランチェスコのいつもの特徴が色濃く表れた曲想で、グルーヴ感あり、ミニマリズムの側面あり、繊細でささやくような旋律が出てきたかと思うと、突然テクノのようなリズムが巻き起こる。本人いわく、「毎回、演奏するごとに変容していく曲」だそうだ。
 コンサートの前半は、フランチェスコの編曲によるラヴェルの「ボレロ」。彼が原曲の小太鼓によって刻まれるリズムを担当し、アリスが旋律を奏でる。フランチェスコはこの「ボレロ」を2台ピアノのために編曲することを以前から夢見ていたようで、ようやく実現した。
 演奏は、冒頭から息の合ったところを見せ、ふたりの静と動のバランスが瞬時に交替していくところが刺激的だった。
 続いてはドビュッシー(ラヴェル編)の「3つのノクターンより」。彼らは微妙な光を表現するように幾重にも陰影を変化させ、アリスのスタインウェイ、フランチェスコのヤマハCFXの音色の違いが前面に現れた。
 前半の最後は、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」。これはまさに若さあふれるエネルギッシュな演奏で、ワルツの旋回がみずみずしい響きで奏され、踊る人々が見えるような視覚的な演奏となった。
 そして後半はフランチェスコの新作に次いで、いよいよこの夜のメイン、ストラヴィンスキーの「春の祭典」が登場。原始的で宗教色が強く、革新性に満ちたこの曲を、ふたりは体当たりで演奏。
「こんなハードなプログラム、若くなくちゃ弾けないよね」
 友人に会ったとき、彼がいったひとこと。まさしくその通り。
 アリスもフランチェスコもデビュー当初からよく話を聞き、演奏も聴き続けているが、本当にいい演奏のパートナーを見つけたものだと思う。
 性格はかなり異なり、演奏もまったく違うものをもっているが、ふたりがともに演奏すると個性の違いが際立ってぶつかりあい、刺激的なデュオが生まれる。各地でのツアーを予定しているそうだから、もっともっとデュオが濃密になっていくに違いない。
 それにしても、ピアニストはいつもひとりで演奏しなければならないから孤独だ、とよくいうけど、アリスとフランチェスコは幸せだ。こんなにすばらしいパートナーを得ることができたのだから…。
 ふたりともすらりとしたモデル体型で、才能と人気と美貌に恵まれている、性格もいいし。う〜ん、神はちょっといろんなものを与えすぎじゃない(笑)。
 今日の写真はプログラムの表紙。ねっ、スタイリッシュでしょ。


 
| クラシックを愛す | 22:19 | - | -
ザ・フィルハーモニクス
 自然にからだが動き出し、手拍子足拍子を伴い、足先でリズムを刻む。心は天空に飛翔してゆき、目元がゆるみ、昂揚感に満たされる。
 今日は、東京芸術劇場にザ・フィルハーモニクスのコンサートを聴きにいった。
 ザ・フィルハーモニクスはウィーン・フィルのメンバーを中心に結成されたアンサンブルで、ウィーンの空気をただよわせながらハンガリー、ボヘミアの作品からピアソラまで嬉々とした表情で演奏する。
 メンバーは、ヴァイオリンのティボール・コヴァーチ、ローマン・ヤーノシュカ、ヴィオラのティロ・フェヒナー、チェロのシュテファン・コンツ、コントラバスのエーデン・ラーツ、クラリネットのダニエル・オッテンザマー、ピアノのフランティシェク・ヤーノシュカの7人。全員が超のつく名手で、しかもジャンルを超えてクラシックからロマ音楽、ジャズまで躍動感あふれる溌溂とした演奏で聴かせる。
 笑っちゃうほどうまく、舌を巻くほど超絶技巧を楽々と演奏。お互いに顔を見ながら、アイコンタクトを取りながら、笑みを浮かべて弾きまくる。
 土の香りのする民族色豊かな作品もあれば、スタイリッシュでロマン的な音楽も登場。すべてが一級の演奏で、テンポの揺らしやリズムを追い込んでいくところ、主題を各楽器に手渡していくところなど、変幻自在。
 入念なリハーサルに基づいた演奏なのだが、あらゆるところに即興性が顔をのぞかせ、聴き手の心をあおっていく。
 コヴァーチのトークも交え、メンバー紹介も行われ、ライヴハウスで聴いているような雰囲気をただよわせていた。
 ピアソラの「オブヴィリオン」では、粋なタンゴのリズムが7人の絶妙なアンサンブルでこれまで聴いたこの曲とはまったく別の新鮮な感覚を生み出し、ブルッフの「コル・ニドライ」では、チェロのコンツが心の歌を奏でた。さらにショウの「スイング・タイム」では、クラリネットのオッテンザマーが小気味よいノリを見せ、一気にエンターテイナーの様相を深め、やんやの喝采を浴びた。
 ザ・フィルハーモニクスは「魅惑のダンス〜私のお気に入り」と「オブヴィリオン〜美しきロスマリン」の2枚のCDがリリースされたばかり(ユニバーサル)。凄腕の超絶技巧が存分に楽しめ、心身が浮き立つ感じになるが、まさに今日のナマ演奏は、彼らの人間性も浮き彫りになり、「ぶったまげたー」というのが正直な感想(笑)。
 日本人は礼儀正しく静かに聴いていて、大騒ぎすることはけっしてないけど、これは海外では会場がどんでもなく熱くなるんだろうな、と思った。
 でも、アンコールが終わったとき、私はつい嵐のような拍手につられ、「ブラヴォー!」と叫んでしまった。
 いやあ、心底楽しませていただきました。これが音楽の力ですねえ。彼らの約半数は恰幅がよく、圧倒されるほどの存在感だったが、音楽はそれ以上の迫力だった。
 帰宅してからも、まだ7人の音が耳の奥で鳴っている。
 今日の写真は、新譜のジャケット。こんな個性的なメンバーです!!


 
 
| クラシックを愛す | 23:58 | - | -
アルド・チッコリーニ
 最後のアンコールが終わると、会場を埋め尽くした聴衆は一斉に立ち上がり、スタンディングオベーションで演奏を称えた。
 今夜は、東京芸術劇場でアルド・チッコリーニのピアノ・リサイタルが行われた。ここ何年か、来日のたびに年齢を超えたエネルギッシュな演奏を聴かせ、そのつど聴き手を驚愕させ、深い感動を与えてくれるが、今日もまた新しい作品を披露して新たな面を見せた。
 チッコリーニは1925年8月15日ナポリ生まれ。のちにパリに移り、フランス国籍を取得している。
 杖を片手に、ステージにゆっくりと歩みを進めてきたチッコリーニだが、ピアノに向かうと一気に全身からパワーがあふれ出る。まずは、ブラームスの「4つのバラード」作品10から。不穏な空気や深い哀しみの表情が見え隠れする作品を、チッコリーニは詩を語るように淡々と、ブラームスの初期の作品ならではのみずみずしい手法を浮き彫りにしながら紡いでいく。
 2曲目はグリーグのピアノ・ソナタホ短調。この作品になって、にわかにチッコリーニのピアノが活力に満ち、グリーグの民族色豊かな主題が生き生きとうたわれ、北欧特有の自然が目の前に広がるような視覚的な演奏になった。
 後半はボロディンの「小組曲」とカステルヌオーヴォ=テデスコの「ピエディグロッタ1924ナポリ狂詩曲」という、興味深いプログラム。
 ボロディンの作品は7曲のマズルカやセレナードなどからなり、それぞれがチッコリーニの腕にかかると、淡い色彩を放つ花束のような風情をもち、とりわけ最後の「夜想曲」が幻想的な美を発していた。
 カステルヌオーヴォ=テデスコの「ナポリ狂詩曲」は、ナポリに古くから伝わる歌を題材に作られた5曲からなる作品で、歌謡性とリズムが際立つ。ナポリ出身のチッコリーニは、子どものころからこの歌に親しんでいたのだろうか。かなり難度の高い各曲の特性を生かしつつ、全編に豊かな歌心を示し、強靭なタッチで締めくくった。
 鳴り止まぬ拍手に応えて、アンコールは3曲。
 スカルラッティのソナタ ホ長調K380を愛らしく躍動感をもって、楽しそうに演奏。次いでドビュッシーの「ミンストレル〜前奏曲集第1巻」は、絵画を思わせる多彩な色を編み出し、ここでもう会場はやんやの喝采に包まれた。
 チッコリーニは「じゃ、もう1曲」というように指を1本立て、ファリャの「火祭りの踊り〜恋は魔術師」をいきなり弾き出した。
 エネルギーはまだまだ十分に残っているよ、といわんばかりの自由闊達な演奏で、スペインの湧き上がるような情熱と土の香り、民族的なリズムを遺憾なく発揮。ここで、聴衆は一斉に立ち上がった。
 チッコリーニは「バイバイ」と手を振りながらステージをゆっくりとあとにし、私は全身が音楽に包まれる幸せを感じながら帰路に着いた。
 今日の写真はチッコリーニのプログラムの表紙。同時代に生きていてよかった、としみじみ感じた一夜だった。

| クラシックを愛す | 23:19 | - | -
牛田智大
 若手音楽家の演奏は、聴くたびに大きな変容を見せる。
 今日は牛田智大がシュテファン・ヴラダー指揮ウィーン・カンマー・オーケストラと共演して、ショパンのピアノ協奏曲第2番を演奏するコンサートを聴きに東京オペラシティ コンサートホールに出かけた。
 これまで、彼のリサイタルはずっと聴き続けてきたが、コンチェルトを聴いたことはなかったため、非常に楽しみにしていた。
 今夜のコンサート・プログラムにも原稿を寄せたが、牛田智大はこのコンチェルトで、2012年のショパン国際ピアノコンクール ㏌ ASIAで優勝を果たしている。
 さらに同年2月のサントリーホールにおける広上淳一指揮、新日本フィルとの共演でも演奏し、このときにようやく「作品が自分のものになった」と感じたという。
 冒頭から特有の繊細な美音が鳴り響き、ほの暗い表情の第1楽章にみずみずしさを放っていく。ウィーン・カンマー・オーケストラは室内オケの編成ゆえ、そうメンバーが多くはないが、結構ダイナミズムの幅が広く、ときおりピアノの音にかぶってしまう。
 牛田智大が大好きだという第2楽章は、ピアノのモノローグのような抒情的な表現が特徴で、彼は弱音を生かしながらゆったりとしたテンポで弾き進めた。この楽章は、ショパン国際ピアノ・コンクールで何度も耳にしているが、ルバートのあり方、主題のうたわせ方、オーケストラとの音の融合など、非常に難しい楽章である。ここでは、ヴラダーの指揮が際立ち、自身がピアニストであるため、ピアノの美しい主題を前面に押し出すよう、オーケストラの響きを極力抑制し、弦のトレモロも静謐に響かせた。
 第3楽章はピアノとオーケストラが自由闊達な音の対話を行い、活気に満ちたフィナーレへと突入していった。
 終演後、楽屋に牛田くんを訪ねると、いつもながらのにこやかな笑顔でちょっぴり安堵の表情を浮かべていた。
 こうした貴重な経験を積むことにより、若手アーティストは大きな成長を遂げる。彼は今回の全国ツアーで、6回このコンチェルトを演奏する。きっとすべてが終了したとき、ショパンのピアノ協奏曲第2番に対する解釈、表現などに多様な変化が表れているのではなだろうか。
 次回、また話を聞くチャンスがあったら、ぜひそれを聞きたいと思う。
 今日の写真は、まだ演奏の余韻が表情に残っているような牛田くん。本当は、ヴラダーと一緒の写真を撮りたかったが、指揮者は後半の演奏があるため、並んでもらうのは無理だった。残念…。


 
| クラシックを愛す | 22:50 | - | -
感性の違い
 仕事で日々多くのコンサートに耳を傾けているが、ときおりどうしても自分の感性に響かない演奏に出合うことがある。
 その演奏家の表現する世界に自然に入っていくことができず、演奏に共感できず、直感的な心の働きが鈍る。
 こういうときは、演奏を聴き続けることがとてもつらいため、前半でさっさと会場を後にすることにしている。もしかしたら、後半は演奏が大きな変化を見せ、様変わりするかもしれないが、そういうケースは稀だ。
 よく、同業者との会話のなかで、この感性の違いを感じることがある。ある人はその演奏がとても気に入り、解釈も表現力もテクニックもすばらしいと称賛する。だが、私はまったくそういう気持ちになれないという場合だ。
 もちろん、その逆のケースもある。
 人間は、ひとりひとり感受性が異なり、とりわけ音楽はその人の心に響くか響かないかが如実に現れる分野である。
 だからこそ、おもしろいのかもしれない。
 この仕事をしてきてもう何年になるだろうか。ナマの演奏も録音も、こんなにたくさん聴き続けているのに、いっこうに興味が薄れることがない。もっともっといい演奏が聴きたい、その思いが増すばかりだ。
 だからこそ、クラシックをもっと多くの人に聴いてほしいという気持ちか募り、仕事に情熱を傾けたくなる。
 先日、ある雑誌の編集者で、長年一緒に仕事をしてきた女性が退社することになり、お別れのメールが送られてきた。
 そこに「溌剌と、情熱をもってお仕事をされている伊熊さまのお姿は、私の憧れです!」と書いてあった。
 まあ、なんとすばらしい表現。何度も読み返して感動してしまった。このことばが、私の感性にいたく響いたのである。
 Hさん、ありがとう。機会があったら、また仕事でご一緒したいですね。
 よく、アーティストにインタビューすると、この感性の違いが話題となる。そして必ず彼らは、「感性を磨き続けなければならない」と口にする。「感性を磨く」とは、どういうことか。私は「感動する心を養う」ことだと思っている。最近、インタビューした人のなかで、ヴィルサラーゼがこれに関して雄弁に語った。
 彼女は「常に好奇心をもつこと」「毎回、新鮮さをもって演奏すること」が大切だといった。このことばを自分の仕事にあてはめ、Hさんがいってくれたことばも鑑み、「感性を磨く」ことの大切さを考えたいと思う。
 感動的な演奏に出合う場合はその余韻にひたすら浸り、酔っていたいという気持ちが強く、他のことはあまり考えられない。だが、自分の気持ちにまったく届かない演奏に出合うと、どうしてだろうと自問自答する。
 これが音楽の奥深さであり、不思議なところであり、尽きぬ魅力なのだろう。
 
 
 
 
 
| クラシックを愛す | 22:28 | - | -
マティアス・ゲルネ 白鳥の歌
 今夜は、マティアス・ゲルネのシューベルトの最終日。「白鳥の歌」の前にベートーヴェンの「遥かなる恋人に寄す」が置かれ、ベートーヴェンの歌曲が大好きな私は、切れ目なくうたわれる6曲にベートーヴェンの深いロマンを感じ取り、至福の時間を過ごすことができた。
 次いで、いよいよ「白鳥の歌」が登場。レルシュタープの7曲に、ゲルネはクリストフ・エッシェンバッハのピアノとの共演で2010〜2011年に録音したときと同様、第5曲「すみか」と第6曲「遠い地で」の間にレルシュタープの「秋」を加え、8曲として演奏。
 ここで休憩を入れ、後半はハイネの6曲をうたった。
 実は、この曲集の最後に置かれているザイドルの詩による「鳩の便り」は、シューベルト生誕200年の1997年、サントリーホールでヘルマン・プライが全6回のリーダーアーベントでうたったときに、途中で止まってしまった曲である。プライは一度ステージから去り、再度うたうという印象的なシーンを生み、この事実はさまざまな歌手に大きな影響を与えた。
 プライはのちにザイドルの詩がレルシュタープやハイネとあまりにも異なるため、続けてうたうことができなかったと釈明したようだが、以後、多くの歌手が「影法師」でプログラムを終え、「鳩の便り」はアンコールとしてうたうようになった。
 今日のゲルネも、「影法師」をモノオペラのように演技力たっぷりにうたい、プログラムを終えた。そして鳴りやまぬ拍手に応えて、毎日忠実にいとしい人に愛の便りを届けてくるという、愛の使者を慈しむ「鳩の便り」をやわらかな歌声でおだやかに聴かせ、全プログラムの幕を閉じた。
 本当に充実した3日間だった。
 帰宅したら、「モーストリー・クラシック」の編集長から次号のシューベルト特集の原稿依頼が入り、何か関連性を感じてしまった。
 今後は、ゲルネの原稿をじっくり仕上げなくてはならない。なんといっても、れいの彼のホームページのことがあるしね(笑)。
| クラシックを愛す | 23:33 | - | -
マティアス・ゲルネ 冬の旅
 シューベルトの「冬の旅」は、これまでさまざまな歌手のリサイタルで演奏を聴いてきた。
 しかし、今夜聴いたマティアス・ゲルネの「冬の旅」は、この作品の奥に潜む主人公の傷ついた孤独な心を痛々しいまでに浮き彫りにしていた。
 ゲルネの歌は昨日と同様、多種多様な声を変幻自在に操り、歌詞の内容を深く掘り下げていく歌唱法。ひとつひとつの曲が聴き手の心の奥深く浸透してくる。
 ゲルネはゆったりとしたテンポをとることが多く、約75分の作品を90分かけてじっくりとうたい上げた。
 ゲルネが巻ごとに信頼を寄せているピアニストと組んで録音しているシューベルト・エディション(キングインターナショナル)は、すでに第8集まで進んでいるが、「冬の旅」はまだリリースされていない。おそらく今秋には日本でも聴くことができそうだ。
 明日は、いよいよシューベルト3大歌曲連続演奏会の最終日。ベートーヴェンの「遥かなる恋人に寄す」とシューベルトの「白鳥の歌」が組まれている。これもまた、深遠なリートの世界が広がりそうだ。
 
| クラシックを愛す | 22:49 | - | -
マティアス・ゲルネ 美しき水車小屋の娘
 これほど心に響くシューベルトの「美しき水車小屋の娘」を聴いたことはなかった。
 今夜は、紀尾井ホールでマティアス・ゲルネのシューベルト3大歌曲集連続演奏会の初日が行われ、「美しき水車小屋の娘」がうたわれた。
 冒頭の「さすらい」から、すでにゲルネのやわらかく温かく朗々と響く歌声は全開。ピアノのアレクサンダー・シュマルツがピタリと寄り添い、両者が一体となってヴィルヘルム・ミュラーの詩の世界を情感豊かに描き出していく。
 ゲルネは、ひとつひとつの歌詞を大切に、じっくりとていねいに掘り下げ、シューベルトのシンプルで清涼で自然を連想させる旋律を鮮やかに表現していく。
 ときにはげしく、迫力ある低音を響かせ、大きな目で聴衆に訴えかけるような歌唱を示し、またあるときは主人公の心の内を吐露するように感情をむき出しにし、さらに複雑な感情を内省的な歌声でささやくように表す。
 20曲を一瞬たりとも弛緩せず、彼は驚異的な集中力をもってうたい切り、そのあまりのすばらしさに私は席を立てないほどの感動に浸り、いまだ夢のなかにいるようだ。
 終演後、サイン会が行われている合間を縫って、先日のインタビューのお礼をいうと、大きな目をより見開いてにこやかな笑みを見せてくれた。
 彼はインタビューでは、「美しき水車小屋」について多くを語った。3大歌曲集のなかでは、もっとも遅く学んだ作品だそうだ。
 明日も、明後日も聴きに出かける。きっと、3日間、ずっと夢の世界にいるような気分に満たされるに違いない。
 今日の写真はサイン会の様子。手前がピアノのシュマルツ、奥がゲルネ。ドイツ・リートは男性ファンが多いようで、今日も結構男性が多かった。それとも、ゲルネだからだろうか…。

| クラシックを愛す | 22:36 | - | -
エフゲニー・キーシン
 昨夜は、エフゲニー・キーシンのリサイタルを聴きにサントリーホールに出かけた。
 前半はシューベルトのピアノ・ソナタ第17番、後半がスクリャービンのピアノ・ソナタ第2番「幻想ソナタ」と「12の練習曲」より7曲。
 まさに「巨匠」の風格を感じさせる演奏だった。
 非常に楽譜に忠実で、ロシア・ピアニズムの継承者であるべく楽器を豊かに鳴らし、レガートは美しく、歌心にあふれている。
 あまりにすばらしく、私は初来日のときのキーシンに思いを馳せてしまった。長年聴き続けてきて、こんなにも成熟したピアニストになったことに、しばしことばを失ったからだ。
 こういう感慨深い演奏を聴くと、それを的確なことばで表現することが非常に難しく、ことばを並べることさえ無意味に思える。 
 その余韻に浸っていたいため、しばらくことばを控えたいと思う。
 加えて、新しいパソコンとの奮闘が続いているため、長くは書けない。
 明日からは、いよいよ「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」が始まる。新たな才能との出会いも楽しみだ。
| クラシックを愛す | 23:16 | - | -
アリーナ・イブラギモヴァ
今日は、トッパンホールにアリーナ・イブラギモヴァのリサイタルを聴きにいった。
プログラムはイザイの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」全曲で、非常にエネルギッシュかつ情熱的で、底力を感じさせる演奏だった。
イブラギモヴァはロシア生まれ。1996年に家族とともにイギリスに転居している。メニューイン音楽学校出身で、2002年にソロ活動を開始した。
現在は指揮や弾き振りをするなど、幅広く活躍。古典から現代作品までレパートリーは広く、今回は満を持してのイザイの無伴奏ソナタ全曲演奏となった。
帰宅してすぐにブログを書こうと思ったら、パソコンがトラブリ、あれこれ試してみたが、ついに新しいパソコンを買わないと無理、という状況に陥った。
というわけで、今日はこれでおしまいです。
明日、すぐに新しいパソコンがくる手はずになったが、Windowsのバージョンが8.1になるため、それを習得しなければならない。ああ、大変だワー。

| クラシックを愛す | 23:11 | - | -
モイツァ・エルトマン&グザヴィエ・ドゥ・メストレ
 今日は、王子ホールにモイツァ・エルトマン&グザヴィエ・ドゥ・メストレのデュオ・リサイタルを聴きにいった。
 エルトマンは透明感あふれる美しい高音をもち、モーツァルトを得意とするソプラノ、メストレはウィーン・フィルのソロ・ハーピストを務めた後、ソリストとして活躍しているハーピスト。
 プログラムはシューマンの「献呈」から始まり、シューマン、モーツァルト、メンデルスゾーンの歌曲が数曲ずつうたわれ、休憩後はR.シュトラウスの歌曲が7曲じっくりと演奏された。その後、ベッリーニ、プッチーニのアリアがうたわれたが、その合間にハープのソロもはさみこまれた。
 メストレは前半にモーツァルトのピアノ・ソナタ第15番、後半にフォーレの即興曲第3番を演奏。ふだんピアノで聴き慣れた作品に新たな風を吹き込み、ハープの音色の多様さと、幅広い表現をたっぷりと披露した。
 エルトマンの歌声は、美しく自然で柔軟性に富み、輝かしく祝祭的な響きに彩られている。得意のモーツァルトでは、「すみれ」がとても彼女の声質に合っていて、作品の可憐さとひっそりと咲く花の風情が実に自然に描かれていた。ゲーテの詩をじっくりとうたい込むエルトマンは、いずれの作品でも歌詞を非常に大切にするを歌唱法に徹していた。
 今日のプログラムでは、次々に人気の高い作品が登場。メンデルスゾーンの「歌の翼に」、R.シュトラウスの「あすの朝」「セレナード」、プッチーニの「私のいとしいお父さん」などがエルトマンの鍛え抜かれた声でうたわれると、名曲のすばらしさが倍増した。
 メストレは、ディアナ・ダムラウとも同様に歌曲のリサイタルを数多く行っている。ハープが声の伴奏すると、えもいわれぬエレガントさがただよい、古典的な味わいを醸し出す。しかも美男美女のデュオだ。
 今日は、仕事仲間がみんなこうつぶやいていた。
「どうして神はこんなに二物も三物もひとりに与えるわけ。ズルイ」
 そう、本当にすばらしい演奏で、ため息が出るほど美しいデュオだったため、容姿の美しさ、才能、人気、スター性など、すべてに恵まれたふたりに、「ズルイ」ということばが出てしまったわけだ。
 実は、来週グザヴィエ・ドゥ・メストレのインタビューが入っている。私が彼に初めて話を聞いたのは、ウィーン・フィルに入団したばかりのころ。あれからメストレはソリストとして成功し、いまやオーケストラとの共演も多い。
 美男に、成功の秘密をじっくり聞くことにしましょうか。
 今日の写真は、プログラムの表紙。エルトマンはラフな格好をしているけど、ステージでは超がつく素敵なドレスを着ていた。そのドレス、スタイルがよくないと絶対に着られないというデザイン。またまたみんなの「ズルイ」という声が聞えそう(笑)。


| クラシックを愛す | 23:26 | - | -
イアン・ボストリッジ
 昨日は、トッパンホールにイアン・ボストリッジのリート・リサイタルを聴きにいった。
 ボストリッジは来日公演のたびに新たなレパートリーを披露し、聴き手を驚きと発見へと導く名人だ。
 前半はマーラーの「若き日の歌」より2曲、「子どもの魔法の角笛」より3曲、「さすらう若人の歌」。後半はブリテンの「ジョン・ダンの神聖なソネット」、「民謡編曲《イギリスの歌》」より3曲というプログラム。
 ボストリッジは長身痩躯、テノール歌手とは思えぬ風貌の持ち主で、ステージでも非常に大きな動きを見せる。マーラーでは特有の透明感あふれる高音と分厚い中音域、心情を吐露するような低音が遺憾なく発揮され、特に「子どもの魔法の角笛」の「死んだ鼓手」の表現が常軌を逸したすごさだった。
 ボストリッジは戦闘に駆り出され、敵の弾が命中し、死を覚悟する鼓手の無念の思いを赤裸々に、また慟哭するようなはげしい声で表現し、ピアノのジュリアス・ドレイクとともにホールを埋め尽くした聴衆を唖然とさせた。
 彼の歌声は、感情の起伏がはげしく、音のダイナミズムも恐ろしく幅が広い。聴き手に向かってうたうというよりは、自分自身と対峙しながら作品の内奥へとひたすら迫っていく歌唱法だ。
 まるでひとり芝居を見ているようで、一挙手一投足に目が離せなくなる。歌詞のひとつひとつのことばが、舞台役者の台詞のように明晰で明瞭。手の動きやからだの使い方も、シェークスピアを演じる役者を連想させる。
 ボストリッジは、自国のベンジャミン・ブリテンの作品をこよなく愛す。ブリテンはテノール歌手のピーター・ピアーズを生涯の友とし、彼のために数多くの作品を書いているが、「ジョン・ダンの神聖なソネット」もそのひとつ。
 前半のマーラーの作品も戦争と死をテーマとしたものだったが、ブリテンのこの曲も同様のテーマがその底に横たわっている。
 ボストリッジは英語の歌詞になったこのブリテンの作品で、より感情表現がはげしくなり、狂気、嫉妬、嗚咽、呪い、絶望などをからだ全体で現し、病気や戦争や死をときに絞り出すような歌唱法で聴かせた。
 聴き手にも大変な集中力を要求するボストリッジの歌声。1曲終わるごとに、なんだかからだ中の力が奪われていくようで、まさに作品の奥深い部分へと引っ張り込まれる思いにとらわれた。
 この夜、アンコールはシューベルトの歌曲で、これを聴いた途端、安堵感が押し寄せてきた。とりわけ最後にうたわれた「ます」は、ピアノと一体となった生き生きとした演奏で、自由と開放感がみなぎっていた。
 実は、この「ます」には個人的な思い出がある。
 私は音大の4年生のときに母校の高校の教育実習にいったのだが、1年生のクラスの課題曲は「夏の思い出」、2年生のクラスが「ます」だった。
 初見で「ます」のピアノ伴奏を行わなくてはならず、歌の指導どころではない。ピアノ・パートはとても難しいのである。
 あとで担当の先生に「ピアノに集中せず、もっと歌唱指導に力を入れるように」と注意されてしまった。やれやれ…。
 というわけで、「ます」を聴くと、私の耳は歌よりもピアノに引き付けられる。この夜のドレイクのピアノは流麗で躍動感にあふれ、ますの動きがごく自然に連想される見事さ。そりゃ、こういう人には難しくもなんともないよね。
 この日、私がもうひとつ注目したのが、ふたりが着ていた舞台衣装の黒のスーツ。体型は異なるからサイズはまったく違うが、同じ仕立てのスーツだ。
 ボストリッジの着こなしはいつもながらすばらしく、仕事のできるエリートビジネスマン風。白いワイシャツにノーネクタイで、からだをどんなに動かしても、そのスーツはピタリと彼の動きにマッチ。特に後ろ姿が美しい。
 かたやドレイクは、ピアノを演奏するときにひとつボタンで仕立てられたそのボタンをけっしてはずすことなく、楽々と演奏している。
 さすがセヴィル・ロウ(ロンドン中心部メイフェアの通りの名、背広の語源)の国のスーツである。歌手とピアニストがそろいのスーツを着ているというのは、あまり見たことがないが、彼らはステージでの美学を示し、スタイリッシュなたたずまいで演奏の質とともに印象深い一夜を構成した。 
 終演後、隣の席の音楽評論家、Tさんにその話をすると、「よくそんなこまかいところまで見ているねえ。私なんかだれが何を着ていたかなんて、まったく覚えていないよ。さすがだねえ」と感心されてしまった。
 でも、スーツはプラスアルファで、もちろん歌をちゃんと聴いていたんですよ(笑)。
 
 
| クラシックを愛す | 22:56 | - | -
庄司紗矢香&メナヘム・プレスラー
 なんと感動的な一夜だったことだろう。
 今夜は、サントリーホールに庄司紗矢香とメナヘム・プレスラーのデュオ・リサイタルを聴きにいった。
 私はアーティストがステージに登場したときからその音楽は始まっていると思うが、今日もふたりが姿を現したときから、すでにすばらしいコンサートになることが予測できた。
 庄司紗矢香はウエストのうしろ側にバラがついた美しいサーモンピンクのドレスをまとい、ゆったりとした足取りのプレスラーとにこやかに登場。
 プログラムは、モーツァルトの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ変ロ長調K.454」からスタート。プレスラーの音量はけっして大きくないため、庄司紗矢香も音を抑制し、静けさに満ちたおだやかなモーツァルトとなった。
 次いでシューベルトの「ヴァイオリンとピアノのための二重奏曲イ長調作品162」が演奏され、幻想的でかろやかで歌心あふれる作風をふたりは相手の音に注意深く耳を傾けながら、二重奏を楽しんでいるように演奏。とりわけ第4楽章のピアノとヴァイオリンの音の対話が密度濃く、テンポの速い部分の呼吸がピタリと合っていた。
 後半は、シューベルトの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番ニ長調作品137-1」。今日はふたりの音をひとつもらさず聴こうとする熱心な聴衆がホールを埋め尽くしたためか、このシューベルトも歌謡的な主題を耳を研ぎ澄まして聴いている感じで、奏者と聴衆の間に一体感が生まれた。
 最後は、ブラームスの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番ト長調《雨の歌》」。この作品では、庄司紗矢香もプレスラーも自由闊達な演奏となり、哀愁や憧憬に満ちた旋律をのびやかにうたい上げ、ブラームスの傑作をこの上なく美しく、情感豊かに奏でた。
 その余韻が残るなか、アンコールが始まった。
 最初はドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」。ふたりは1曲終わると手を取り合い、寄り添って舞台袖へと歩みを進めるのだが、このアンコールが終わったとき、プレスラーが庄司のドレスの裾を踏んでしまい、ふたりでおっとっと。ここでホール中が笑いに包まれた。
 でも、それが一変して涙に変わったのは、プレスラーがアンコールにショパンの「ノクターン第20番嬰ハ短調」を弾き始めてから。あまりの美しさ、静謐で陰影に富み、表情豊かで心にじわじわと沁み込んでくるピアノに、ホール全体が涙に暮れたような雰囲気に包まれた。
 私も、もうダメだ、こりゃ、あかん、涙腺がゆるんでたまらん、と思って、ハンカチをごそごそ探した。
 すると、ふたりはブラームスの「愛のワルツ作品39-15」をかろやかに弾き始めた。
 うん、これでひと息つけるゾ。なんて素敵なデュオなんだろう。
 そう思ってホッとしていたら、庄司紗矢香がまた目でプレスラーに合図を送り、彼がピアノを弾き始めた。
 ショパンの「マズルカ作品17-4」である。ああっ、ダメだ〜。今度こそ、ハンカチ、ハンカチ…。
 こうして感動的な一夜は幕を閉じた。
 帰路に着く間もずっとプレスラーのショパンが頭から離れず、いまだ余韻に浸っている。
 明日の午後は、いよいよ待ちに待ったプレスラーのインタビューだ。さて、どんな話が出るだろうか。まず、会った途端、今日感銘を受けたことを口走りそうだ。
 あまりにも深い感動を受けたため、今夜は脳が覚醒し、眠れそうもない。
 
| クラシックを愛す | 23:16 | - | -
コンサート続き
 近ごろ仕事仲間が集まると、「来日公演が多いよねえ」「聴きたいコンサートが重なって大変」「最近はオフシーズンがなくなったみたい」という話になる。
 本当に、今春は来日アーティストが多く、しかも同じ日に聴きたいコンサートがいくつも重なるため、聴き逃してしまう場合もある。
 昨日は東京・春・音楽祭「マキシミリアン・ホルヌング&河村尚子」のデュオ・リサイタルを聴くために東京文化会館小ホールに行き、みずみずしく勢いのあるふたりの演奏を聴き、全身に活力が湧いてくる感じを受けた。
 今日は東京オペラシティ コンサートホールで、レイフ・オヴェ・アンスネスの「ベートーヴェンの旅」と題したリサイタルを聴いた。
 昨日も書いたが、アンスネスは体調を崩していながらもなんとか来日を果たし、ひたむきで誠実な演奏を披露したが、やはりからだの芯に力が入らないという演奏になってしまった。
 初来日からずっと聴き続けている私は、最初のベートーヴェンのピアノ・ソナタ第11番を聴いた時点で、胸が痛くなった。
 いつもと何かが違う。
 真摯で思慮深く、作曲家の真意に沿う演奏だが、アンスネス本来の演奏ではない。その思いは最後のピアノ・ソナタ第23番「熱情」まで続き、やはり体調が万全でないと、ピアノはそれを正直に物語ってしまうことがわかった。
 本人が一番悔しい思いをしているに違いない。
 昨日インタビューのなかで、アンスネスは結婚して家庭をもち、子どもたちがいることにより、何が一番変わったかと聞いたところ、こんな答えが戻ってきた。
「演奏がうまくいかないときでも、落ち込まずに前向きに考えられるようになりました。これで終わりではない、また頑張ろうという気持ちがもてるようになったのです。家族がいることで視野が広がり、失敗などを突き詰めて考えるより、可能性を考えるようになりました」 
 きっと今日のアンスネスは、そのことば通り、前向きに考えようとしているのではないだろうか。
 アーティストも生身の人間である。いいときもあれば悪いときもある。長年アンスネスの演奏を聴いてきて、私もさまざまなことを学んだ。
 彼はそれでもアンコールを3曲も弾いた。
 ベートーヴェンの「7つのバガテル」より第1番、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第22番より第2楽章、そしてシューベルトの「楽興の時」第6番。
 この最後のシューベルトがすこぶる美しく、主題がいつまでも頭に残った。
 次回はぜひ、以前のような生気にあふれ、北欧の涼風をただよわせるような清涼な演奏を思う存分発揮してほしいと願う。
| クラシックを愛す | 22:48 | - | -
マキシミリアン・ホルヌング
 今日は、武蔵野市民文化会館小ホールで行われた、マキシミリアン・ホルヌングのチェロ・リサイタルを聴きにいった。
 プログラムはJ.S.バッハの「無伴奏チェロ組曲」の第4番と第1番を前半と後半の頭にもってきて、前半の終わりにスイスの作曲家、ディーター・アマンが1994年に作曲した「チェロのための作品」を置き、後半の最後にカサドの「無伴奏チェロ組曲」を演奏して終幕するというスタイル。
 ホルヌングは最初はちょっと堅くなっていた感じだったが、声楽家のように徐々に本領発揮となり、音楽が自由さを増し、音量も豊かになっていった。
 なんといっても勢いがある。ただし、若さでガンガン押しまくる演奏ではなく、バッハでは舞曲のリズムを大切に、のびやかな音色を存分に披露した。
 特に、無伴奏の第1番が雄弁な歌を聴かせた。テンポはメッチャ速く、ここだけは若さあふれ、エネルギーが余っている感じ。
 続くアマンの「チェロのための作品」は、チェロのあらゆる奏法を駆使した音楽で、弦をはじいたり、たたいたり、引っ張ったりしていろんな音を出す作風。でも、こういうコンテンポラリー作品もホルヌングは実に楽しそうに演奏し、最後まで弛緩することなく集中力がずっと続き、好感がもてた。
 もっとも印象的だったのは、最後に演奏されたカサドの「無伴奏チェロ組曲」。この作品はとても難易度が高いことで知られるが、3楽章ともスペイン的な主題や民族舞曲のリズムを明快かつ表情豊かに奏で、スペイン好きの私はカタルーニャの風景が脳裏に浮かんでくる思いにとらわれた。
 彼のチェロは「中音域」のうたわせかたが非常に個性的。たっぷりと語り、うたい、心を吐露するように弦を響かせる。
 テクニックはとても優れ、楽器と一体となり、昨日インタビューで語っていた「ひと目ぼれ」のテクラーのチェロとの相性のよさを存分に示した。
 ただし、バッハに関していうと、まだこれからいかようにも変化しうる未知なる部分を多く残している感じがした。次にこれらの作品を聴くときには、より進化した演奏を聴くことができるに違いない。
 今日はちょっと肌寒かったが、満開の桜があちこちで見られた。まさにホルヌングの春爛漫の演奏とあいまって、草木が芽吹いて花が咲く、という感覚を抱いた。
 今日の写真は、終演後、CDのサイン会でにこやかにサインをするホルヌング。

| クラシックを愛す | 21:00 | - | -
マルリス・ペーターゼン
 いまは「東京・春・音楽祭」の真っただ中である。
 ここ数年、毎年プログラムのエッセイを書いているため、何度か音楽祭のコンサートに足を運んでいる。
 今日は、ドイツのソプラノ、マルリス・ペーターゼンのリサイタルを聴きに東京文化会館小ホールに出かけた(ピアノはイェンドリック・シュプリンガー)。
 プログラムがすばらしく、生誕150年のR.シュトラウスとシューマンを組み合わせたもので、現代作品を得意とするペーターゼンならではの、1990年に作曲されたヴォルフガング・リームの「赤」が挟み込まれていた。
 R.シュトラウスの「献呈」からスタートしたリサイタルは、シューマンの「女の愛と生涯」へと続き、R.シュトラウスの「おとめの花」で前半を閉じた。
 ペーターゼンの声は、クラシカル・コロラトゥーラといわれている。ヨーロッパのオペラハウスからはひっぱりだこで、リートにも意欲を注いでいる。
 確かに高い声で、その高音域は張りのあるクリアな歌声。しかもとても強靭なのどをもっているようだ。高音を張り上げる箇所など、ごく自然に楽々とうたい、けっしてぶれない。表現力もとても豊かで、ひとり芝居をしているよう。
 後半はR.シュトラウスの「オフィーリアの歌」から開始。徐々に狂っていくオフィーリアをあたかもオペラの舞台のような演技力でうたいきった。
 ここでリームの「赤」が登場。18世紀ドイツ・ロマン派の女性詩人カロリーネ・フォン・ギュンダーローデの詩による連作歌曲で、愛のせつなさや少年の悲しみ、戦乱の夕闇など、深い表現力が要求される曲を一瞬たりとも飽きさせずに、強い集中力をもって聴かせた。
 リームの曲では楽譜立てが使用されていたが、終わるとさっと楽譜立てを奥に運び、「さあ、最後の曲よ。じっくり聴いてね」とばかり、気分を変えてR.シュトラウスの「ツェチーリエ」をはなやかにうたい始めた。
 ペーターゼンの名前はまだわが国ではあまり知られていないが、かなりの実力者。著名な指揮者との共演や音楽祭にも招かれ、レパートリーも幅広い。
 かなり長身で大柄。R.シュトラウスの歌唱法はオクタヴィアンにピッタリだが、なにしろ声域は高いため、役柄には合わない。だが、今度はオペラをぜひ聴いてみたいと思わせた。
 今日は久しぶりに本格的なR.シュトラウスのリートを聴き、作品のすばらしさに改めて感銘を受けた。
 アンコールは3曲。R.シュトラウスの「万霊節」とシューマンの「献呈」と、即興で作ったという「さくら」。この即興にピタリとピアノが寄り添い、「お見事」のひとこと。
 最初のR.シュトラウス「献呈」と、最後のシューマン「献呈」を聴くことができ、もともと両曲が大好きな私は、その旋律が頭を離れなくなった。
 写真は「東京・春・音楽祭」10周年のプログラムの表紙。この音楽祭のメーンカラーは、季節そのもののさくら色です!


 
| クラシックを愛す | 23:30 | - | -
アンドラーシュ・シフ
 いつもアンドラーシュ・シフのリサイタルにいくと、アンコールの多さに驚く。
 考え抜かれた盛りだくさんのメイン・プログラムだけでも、もう十分に彼の演奏のクウォリティの高さにどっぷりと浸ることができるのだが、その後、5曲も6曲もアンコールが続く。
 この集中力、体力、気力はどこからくるのだろうか。もちろん演奏することが楽しくてたまらないという感じは伝わってくるのだが、シフの場合、けっして派手なパフォーマンスはしないし、実直でひたむきで、作品の内奥にひたすら肉薄していくピアニズムである。それゆえ、エネルギーがあふれているという感じはまったくないが、アンコールの最後まで演奏の質は変わらない。なんともいえない、不思議な力がみなぎっている。
 今回の来日では、東京公演が3回あり、それぞれまったく異なるプログラムが組まれた。
 今日は、メンデルスゾーンとシューマンという同時代に活躍したふたりの作曲家の作品に焦点を当て、前半はメンデルスゾーンの「厳格な変奏曲 ニ短調」とシューマンのピアノ・ソナタ第1番、後半はメンデルスゾーンの「幻想曲 スコットランド・ソナタ」とシューマンの「交響的練習曲」が演奏された。
 いずれもシフ特有の柔軟性に富んだ美しい響きが全編を覆い、メンデルスゾーンのあふれんばかりのロマンと憧憬、ファンタジーが香り高く奏され、またシューマンでは大曲ふたつを一瞬たりとも弛緩することなく、内なる情熱と感情のはげしさ、独創性などを前面に押し出し、フィナーレまで表情豊かな美音で弾き進めた。
 心の奥に音がひたひたと沁み込んでくる、というのはこういう演奏をいうのだろう。
 シフのピアノは、演奏後、何時間たっても余韻が残る。すばらしい音楽を聴いた、有意義な時間を過ごすことができた、生きていてよかったと思えるのである。
 アンコールのメンデルスゾーン「無言歌集」より「甘い思い出」、「紡ぎ歌」、シューマン「アラベスク」「幻想曲」より第3楽章なども、シフならではのやわらかく情感あふれる美しい音色が満載。だが、淡々としたなかにも凛々しく、一本芯の通った精神性の高い奏法が顔をのぞかせ、それが聴き手の心に強い感動をもたらす。
 今日の公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定になっている。いま感じている素直な気持ちを綴りたいと思う。
| クラシックを愛す | 23:54 | - | -
ピーター・ウィスペルウェイ
 チェロ好きの私は、来日アーティストの演奏のなかでも、特にチェロのリサイタルは欠かさない。
 なかでも、ピーター・ウィスペルウェイの演奏には目がない。古楽器と現代楽器の両方を演奏する彼は、2012年に3度目の「J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)」をリリースし(キングインターナショナル)、ここでは1710年のバロック・チェロと18世紀のピッコロ・チェロを用いてすばらしい演奏を披露している。
 今日のリサイタルは、オール・ベートーヴェン・プログラム(紀尾井ホール)。ピアニストのパオロ・ジャコメッティと組み、チェロ・ソナタ第2番、第5番、第3番を演奏し、その間に初期の作品であるモーツァルト「魔笛」の“娘か女か”の主題による12の変奏曲、同じく「魔笛」の“恋を知る男たちは”の主題による7つの変奏曲をはさみこむというユニークな選曲だ。
 ウィスペルウェイの演奏を聴くと、いつもなんと楽々と弾いてしまうのだろうと思う。超絶技巧も難解な箇所も、彼の完成度の高いテクニックにかかると、すべてが自然で流麗な歌となる。それゆえ、技巧的なことを考えずに、作品本来の姿を楽しむことができる。
 今夜は、若きベートーヴェンが書いた、あまり演奏される機会に恵まれない変奏曲を2曲も聴くことができ、しかもウィスペルウェイとジャコメッティの見事な音の融合で堪能することができて、とても有意義だった。
 とりわけふたりの音楽が一体化していたのが、チェロ・ソナタ第3番。これはベートーヴェンの5曲のチェロ・ソナタのなかで傑作といわれるばかりではなく、古今のチェロ・ソナタにおいても傑作の誉れ高い作品。緻密な構成、明るく輝かしい旋律、高度な技巧、力強くはげしい情熱、さらに精神性の高さと親しみやすさも備えている。
 ウィスペルウェイは、すべての作品を完全暗譜。ゆえに、演奏は変幻自在で自由闊達、ピアニストとの音の対話も即興性に富む。
 今夜は、ベートーヴェンの作品のよさを存分に堪能し、チェロの響きにどっぷりと浸った一夜となった。やっぱり、チェロっていいなあ…。
 
| クラシックを愛す | 23:18 | - | -
マリア・ジョアン・ピリス
 ああ、もっとドビュッシーが聴きたい。ピリスの「ピアノのために」の演奏を聴き、こう切に願った。
 7日の夜、サントリーホールで16年ぶりというマリア・ジョアン・ピリスのソロ・リサイタルが開かれた。
 プログラムはシューベルトの「4つの即興曲」作品90とシューベルトのピアノ・ソナタ第21番の間に、ドビュッシーの「ピアノのために」をはさむという選曲。
 ピリスのシューベルトは、すでに両曲ともレコーディングがなされ、世界中で高い評価を得ている。
 冒頭の即興曲が鳴り響いた途端、スッとピリスの音の世界へと導かれた。はげしくたたきつけられるような和音は、凛とした立体的な音となり、湧き上がるような強靭で劇的な旋律は、強い主張をもった響きとなる。それらを大きく包み込むように素朴で色彩感に富む音色が全編を支配し、シューベルトの歌謡性が美しく表現されていく。
 ピリスの演奏は打鍵が深く、芯の強さに支えられているが、けっして力で押す演奏ではない。確固たる構成と全体を俯瞰する目が備わり、即興曲をこよなく香り高い歌として奏でていく。
 ピアノ・ソナタ第21番にもそれは如実に現れ、長大なソナタを一瞬たりとも弛緩することなく、幻想的で瞑想的で変幻自在なストーリーを淡々と紡ぐように弾き進める。
 ピリスは、シューベルトが短い人生の最後に深い悲しみの奥に微笑みを潜ませているように描いた作品を、あくまでも自然に弾きながら、聴き手にその感情の複雑さを知らしめる。
 なんと難しい作品だろうか。以前、ピリスはインタビューで「シューベルトの作品に近づくには、ありのままの自分と向き合わなければなりません」と語っていた。
 今回プログラムに彼女のインタビューの様子を綴ったが、いつもピリスは「シューベルトは難しい」と口にする。自然に表現することをあまりにも意識しすぎると、かえって作為的な演奏になってしまうため、それを抑えることが重要になるからだそうだ。
「人間は、自然にふるまったり、自然に生きようとすることがもっとも難しいと思うのよ」
 ピリスは真顔でこういう。
 確かに、気負わず気どらず、ありのままの自分を表現するのは、どんな仕事でも難しいと思う。
 いつもピリスの演奏を聴くと、私は自分の生き方を考えさせられる。ピリスのように真摯で自由で無垢な気持ちで生きられたらいいな、とあこがれの気持ちすら抱く。
 今回聴いたドビュッシーは、そんな私に新たなピリスの魅力を植え付けてくれた。あいまいさのかけらも見せず、明快な自己主張が存在し、しかも全体はこよなくエレガントで浮遊感もある。荘重さと多彩な色彩感に満ち、ドビュッシーの新たな魅力を放ったこの作品を聴き、今後ドビュッシーとのつきあいがより深まってくれることを願わずにはいられなかった。
 終演後、楽屋にあいさつにいくと、いつもながらの温かい笑顔でふんわりと抱きしめてくれた。
「ドビュッシーが素敵でした」というと、「あら、そう。よかったワ」といって、またにっこり。
 今日の写真は、楽屋でのワンショット。人が多くてごったがえしていたため、正面から撮れなかった。 
 ピリスのピアノを聴くと、心が浄化する思いにとらわれる。この夜も、えもいわれぬ幸福感に包まれた。これが音楽のもつ力だと実感!!


 
 
 

| クラシックを愛す | 22:00 | - | -
エマニュエル・パユ
 昨年11月にインタビューしたフルートのエマニュエル・パユが、ベルリン・バロック・ゾリステンのソリストとして来日、26日にサントリーホールで名人芸をたっぷりと披露した。
 インタビューのときにも語っていたが、新しく手に入れたヘインズのフルートがすばらしく、とりわけバロック音楽に向いているのだという。
 今回のプログラムは、C.Ph.E.バッハ、テレマン、J.S.バッハ。パユはテレマンのフルート協奏曲やバッハのブランデンブルク協奏曲第5番、管弦楽組曲第2番などに参加し、ゾリステンをリードしながら馨しく凛々しい音色、超絶技巧をものともしないテクニックを存分に発揮、至福のときをもたらした。
 終演後、楽屋を訪れ、インタビューのお礼を述べると、「とってもいい思い出になったよ」とうれしいことばを聞かせてくれた。
 楽屋では、ビールをおいしそうに飲みほし、「いやあ、のどがカラカラだよ」と笑っていた。
 その後、CDのサイン会を行ったが、ざっと200人以上は並んでいたんじゃないかな。すごい人気だ。
 パユが吹くと、フルートという楽器が生き物のように生命力を帯びた歌をうたいあげる。まさに天才的な奏者で、ベルリン・バロック・ゾリステンのメンバーも拍手を送るほどだった。
 パユは以前、私の「アーティスト・レシピ」の本にサインしてくれるとき、さつま汁の説明を求めた。そして内容がわかると大笑い。大変なイケメンで、演奏もすごいのに、素顔はすっごく気さくで飾らない。このギャップに最初は驚かされたが、いまは樫本大進と大の仲良しというのが理解できる。大進も超がつく感じのいい人で、努力家で、明るく、リーダーシップに富む。ふたりは共通項が多いから気が合うのだろう。
 今日の写真は、楽屋でビールをおいしそうに飲みほした後のパユ。この直後、サイン会に飛んでいきましたよ。

| クラシックを愛す | 22:55 | - | -
ニューヨーク・フィル
 今日は、サントリーホールでアラン・ギルバート指揮ニューヨーク・フィルのコンサートが行われた。
 これはソニー・ミュージック・ファンデーション30周年記念公演「10代のためのプレミアム・コンサート」の第1回で、会場は小学生から10代の若い聴衆とその保護者たちでにぎわっていた。
 プログラムはブリテン「青少年のための管弦楽入門〜ヘンリー・パーセルの主題による変奏曲とフーガ」に続き、福島とニューヨークの子どもによる「ペリー・ヤング・コンポーザーズ」作品の「ミュージック・フォー・フクシマ」の日本初演が行われた。
 福島の子どもたちが作曲した作品にニューヨークの子どもたちが応えるという形で曲作りが行われたもので、前半は小曽根真が司会を務め、ブリテンの作品の紹介はアラン・ギルバートが日本語でナレーションを行った。前半は若手指揮者、ジョシュア・ワイラースタインがタクトを振った。
 後半はアメリカのオーケストラらしいプログラムで、ニューヨーク・フィルゆかりのバーンスタイン「ウエスト・サイド・ストーリー」より「シンフォニック・ダンス」と、小曽根真をソリストに迎えたガーシュイン「ラプソディ・イン・ブルー」。
 最後はジャズのアンコールも飛び出し、ニューヨーク・フィルが柔軟性のあるところを見せた。
 会場の子どもたちも、みな楽しそうに拍手喝采。バーンスタインがニューヨーク・フィルとともに若い聴衆に向けて行っていた「ヤング・ピープルズ・コンサート」をほうふつとさせ、その意志を着実にオーケストラが引き継いでいることを示した。
 今日のコンサートに関する記事は、「日経新聞」の今月最終木曜日の夕刊に書くことになっている。
 明日もニューヨーク・フィルのコンサートは行われ、その翌日にはソリストのひとりとして来日している、ピアニストのイェフィム・ブロンフマンのインタビューが予定されている。
 ブロンフマンに会うのは、本当に久しぶりだ。その準備をしっかりしていかなくちゃ。
 
| クラシックを愛す | 23:01 | - | -
萩原麻未
 一昨日、雪のなかを銀座まで萩原麻未のインタビューに出かけた。
 彼女会うのは、久しぶり。これは彩の国さいたま芸術劇場音楽ホールのピアノ・リサイタル(6月22日)に先駆けて行われたもので、劇場の冊子にインタビュー記事として掲載される。
 今回のプログラムはフォーレの夜想曲第1番、第2番からスタート。ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」と「喜びの島」へと続き、後半はラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」で開始、最後はラヴェルの「ラ・ヴァルス」で幕を閉じるという、フランス作品で構成されている。
 このプログラムについていろんなことを聞き、近況や今後のスケジュールなどとともに、いまもっとも興味を抱いていることなどにも触れた。
 今回のリサイタルは、この劇場の「ピアノ・エトワール・シリーズ」のひとつで、若手ピアニストのなかでもひときわ輝く新鋭ピアニストが登場するもの。萩原麻未も、それを考慮してじっくりとプログラムを選んだようだ。
 彼女に会うと、いつものんびりマイペースの話し方に私もつられそうになるが、口数がそう多いほうではないため、自然に私がどんどんことばをつないで質問の答えを促すようになってしまう。
 そのうちに彼女特有のユーモアが顔をのぞかせ、場が一気にのどかな空気に満たされる。
 萩原麻未は以前から室内楽が好きで、いまも内外の多くのアーティストと共演を重ねている。インタビューでも、ソロ作品の話をしているうちに、その作曲家の室内楽作品からインスパイアされたという話に移ってしまい、次第に合わせものの話に…。
「あっ、リサイタルの話でしたよね」
 そういって、ソロ作品の話題に戻り、また気がつくと室内楽の話に移行していく。
「ねえ、またリサイタルの話に戻っていい?」
 私がこう方向転換をして、そのつどふたりで笑ってしまう。
 その意味では、このリサイタルは、彼女のソロを聴く貴重な機会となる。
 今日の写真はインタビュー後の1枚。カメラマンが照明のセットをしていたところにちゃっかりおじゃまし、私も撮ってしまいました。やっぱり、プロのライティングは違いますなあ(笑)。美しく撮れているでしょう。


| クラシックを愛す | 21:47 | - | -
ヴィルサラーゼのリサイタル
 今日は、すみだトリフォニーホールで、エリソ・ヴィルサラーゼのリサイタルが行われた。
 あまりにもすばらしく、まだ感動の余韻に浸っているため、ことばにならない。
 それほど印象的なリサイタルだった。
 また、明日、じっくり感想を書きますね。
| クラシックを愛す | 23:54 | - | -
サンクトペテルブルク・フィル
 なんと心に響くチャイコフスキーだろう。こんなピアノ協奏曲第1番を聴いてしまったら、他の演奏は聴けなくなってしまう。
 それほど、昨夜聴いたユーリ・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルク・フィルの前半で演奏されたエリソ・ヴィルサラーゼのピアノは印象深かった。
 冒頭の特徴ある主題から、打鍵の深さが違う。ロシアの大地を思わせる響きで、けっして鍵盤をたたくことなく、分厚く野太い音があふれ出る。
 ああ、チャイコフスキーとは、こういう音楽なんだ。そう思わせるピアノだ。長大な第1楽章は、ロシア民謡からとった主題が幾重にも変容していき、木管とピアノとの対話が実に雄弁に展開されていく。
 ヴィルサラーゼのピアノは、ダイナミックでドラマティックだが、細部まで神経が張り巡らされた緻密さが際立ち、すべての音がクリアゆえ、音楽が明晰で主題の展開や各々のリズムが明確に聴きとれる。テミルカーノフは、オーケストラを豊かに鳴らすが、その音にピアノが消されることはまったくない。
 第2楽章のフルートやオーボエとピアノとの音の美しい対話は、まさにチャイコフスキーのメロディメーカーとしての本領発揮だが、それをヴィルサラーゼはロシアの空気をただよわせるように演奏。私の脳裏には、チャイコフスキーが愛した広大な自然が浮かんできた。
 指揮者、オーケストラ、ピアニストの3者が紡ぎ出す、絵巻物のような音世界。それをからだ全体で受け取ることができ、至福のときを過ごすことができた。
 第3楽章になると、ヴィルサラーゼのピアノはロシア舞曲のはげしさや荒々しさを表現、テミルカーノフは静と動のコントラストを絶妙なタクトで表現し、オーケストラとピアノの融合を図っていく。
 このオーケストラは、テミルカーノフが芸術監督と首席指揮者を務めてから25年になるが、非常に柔軟性に富み、けっしてパワーで押すことなく、情感に満ちた音楽を奏でる。
 チャイコフスキーが終わると、ヴィルサラーゼの「別格」を思わせる演奏に、しばし席が立てないような放心状態に陥った。カデンツァもすばらしく、いままで聴いたこのコンチェルトとは異なった作品を聴いたような、新たな作品に出会ったような感覚を抱いた。
 後半はラフマニノフの交響曲第2番。さまざまな相反する要素が含まれたこの作品を、テミルカーノフはすべての面を有機的に結び付け、オーケストラからもてる最大限のよさを引き出し、説得力のある演奏を展開した。
 終演後、テミルカーノフの75歳を祝してパーティが開かれた。アーティストも何人か参加したため、いろんな人に会うことができた。みんな演奏に心底酔いしれたとのことで、私も感動を思いっきりことばにし、会話が弾んだ。
 今日の写真は、テミルカーノフのスピーチの様子、ジャパン・アーツの元会長の中藤さんをはさんでテミルカーノフとヴィルサラーゼ。実は、この写真、中藤さんに「ねえねえ、私は久しぶりに彼女に会ったので、ぜひ写真を一緒に撮ってもらいたいんだよ」とオファーされたもの。そこで私は「マエストロと3人一緒がいいんじゃないですか」と提案し、こういう形になった。
 それから小山実稚恵、仲道郁代とお嬢さんの真琴さん、庄司紗矢香。もうひとり高関健とも話したが、その最中にマジックが始まってしまったため、写真を撮り損ねてしまった。
 それから、バースディケーキ。これがフルーツいっぱいで甘すぎず、生クリームも軽い感じで、ものすごくおいしかった。
 マエストロ、おめでとうございます。これからも、ずっとすばらしい演奏を聴かせてくださいね。この感動は、本当に忘れがたいものですから。











| クラシックを愛す | 23:52 | - | -
クリスティアン・ゲルハーヘル シューマン第2夜
 もう、ことばがない。この深い感動を表す的確なことばがみつからないのである。
 今日は、クリスティアン・ゲルハーヘルの「シューマン歌曲集の夕べ」第2夜を聴きに王子ホールに出かけた。
 プログラムは前半が「6つの歌曲」作品107全曲と「詩人の恋」作品48全曲。後半が「ゲーテの《ヴィルヘルム・マイスター》による歌曲集作品98aより4曲、「メランコリー」作品74-6《スペインの歌遊び》作品74より、「哀れなペーター」作品53-3《ロマンスとバラード第3集》作品53より、「心の奥深くに痛みを抱えつつ」作品138-2《スペインの恋の歌》作品138より、「悲劇」作品64-3 《ロマンスとバラード第4集》作品64より、「隠者」作品83-3という構成。
 昨日インタビューしてシューマンの歌曲集に対する考えを聞いたからか、ひとつひとつの作品がより深く心に響き、作曲家の魂に寄り添う歌声に、別世界へと運ばれるような感覚を抱いた。
 とりわけ印象的だったのが、「詩人の恋」。これは音大のときにレッスンで学んだからか、16曲がそれぞれとてもなつかしく、心のなかでともにうたってしまった。
 今夜のプログラムは、高音を駆使した部分が多く、ゲルハーヘルのあたかもテノールを思わせるようなのびやかで抒情的な高音が存分に堪能できた。あまりナマを聴く機会のない作品も多数登場し、シューマンの歌曲の奥深さを知らしめた。
 いまでも「詩人の恋」の「美しき5月」や「あれはフルートとヴァイオリン」「光あふれる夏の朝」「夢の中で泣いた」「毎夜きみを夢に見る」などの旋律が脳裏をよぎり、主題が口からこぼれ出る。
 ゲルハーヘルのすばらしい3日間は終わってしまったが、彼の歌声を聴きながら、「今年はいい年になる」という予感がした。
 この熱い感動は、しばらく消えそうもない。私はシューマンが大好きなのだが、こんなに多くの歌曲をじっくり聴いたことはない。これから録音を探して、シューマンの歌曲をもっと研究したいという気持ちが湧いてきた。
 それもこれも、ゲルハーヘルのおかげである。クリスティアン、ありがとう!!
| クラシックを愛す | 23:58 | - | -
ヴィルフリート・ラムザイアー=ゴルバッハ
 先日のウィーン・フィルの取材で、その人間性にいたく惹かれた人がいる。ウィーン・フィルの弦楽器群の修復を一手に引き受けている、ヴィルフリート・ラムザイアー=ゴルバッハさんである。
 彼は前任者のオトマール・ラングさんの後任として、2002年に製作工房を引き継ぎ、複数の職人を抱えて仕事を行っている。
 インタビューでは、いかにも職人らしく謙虚でおだやかな語り口をもって、どんな質問にも誠意を見せて答えてくれ、ウィーン・フィルのメンバーが全幅の信頼を寄せていることがよくわかった。
 ラムザイアー=ゴルバッハさんは、「自分の存在は知ってもらわなくていいんですよ」と何度もいった。「私の修復した楽器で、いい演奏をしてもらえたら、それでいいんです」ともいった。
 仕事が山積みなのに、工房の隅々まで見せてくれ、いろんな説明をしながらあらゆる楽器の詳細までていねいに教えてくれた。
 そんなひとつひとつの態度がとても自然で、自分の仕事に誇りをもっていることがわかり、非常に頼りになる存在だということがひしひしと伝わってきた。
 工房は、ウィーンの楽友協会の一角に位置するため、ホールの奥の廊下からすぐにここにくることができる。それゆえ、ウィーン・フィルのメンバーは、何かあると、すぐに楽器を抱えて工房に飛び込んでくるそうだ。
 こうした修復の達人の存在が、あのすばらしい音楽を生み出すひとつの大きな要素になっているのだろう。でも、ご本人はあくまでも、前には出たがらない。
 彼が楽器をいかに大切に思っているのかは、ヴァイオリンなどを手に取るときの様子でわかった。慈しむように、愛でるように、大切に扱い、その楽器を見る目は、あたかも命が宿ったものに向けるような温かなまなざしだったからだ。
 私は工房を出るとき、胸のなかがとても温かくなっていることに気づいた。ラムザイアー=ゴルバッハさんは、会っただけでそんな気持ちにさせてくれる人だった。
 きっとウィーン・フィルのメンバーも、楽器の修復はもちろん、彼がいつも工房にいてくれるというだけで、安心して演奏に集中できるのではないだろうか。
 今日の写真は、インタビュー後のラムザイアー=ゴルバッハさんのちょっとはにかんだ表情。「本当は、目立ちたくないんだけど…」と、シャイな笑顔を見せている。


 
 
| クラシックを愛す | 22:38 | - | -
ラファウ・ブレハッチ
 なんと心に響く演奏だろう。もっと他の曲が聴きたい、アンコールももっと演奏してほしい、ずっとずっとこの会場にすわっていたい。
 そんな思いを抱かせる演奏には、なかなか出会えるものではない。 
 14日の土曜日、東京オペラシティでラファウ・ブレハッチのリサイタルを聴いたが、その演奏のすばらしかったことといったらない。すでに今年は、11月の末までの分で「コンサート・ベストテン」の原稿は締め切られたが、もしも12月の分まで入ったら、ブレハッチは上位に食い込むことまちがいなしだ。
 プログラムは前半がモーツァルトのピアノ・ソナタ第9番、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第7番。ブレハッチはいかにも楽しそうに、躍動感とかろやかさとエレガントな表情を伴ったモーツァルトを奏で、愉悦のときを与えてくれた。
 ベートーヴェンの初期のソナタもロマンにあふれ、作曲家の心境著しい楽想が香り高く紡がれていった。
 後半はオール・ショパン。夜想曲第10番、ポロネーズ第3番「軍隊」と第4番、3つのマズルカ作品63、スケルツォ第3番という構成だ。
 ああ、なんという自然さ。あるべき音がそこにあり、シンプルで柔軟性に富み、リズムやフレージングのひとつひとつがこれ以上考えられないほどのナチュラルな表情をもって奏されていく。
 アンコールもショパンが次々に登場。私の脳裏には、ショパン・コンクールのときのブレハッチが浮かんできた。
 ブレハッチは、演奏を聴くたびに大いなる進化と深化を遂げている。しかも、努力の痕跡は微塵も見せず、快活に前向きな姿勢で、音楽を心から楽しみながら演奏していることが伝わる。
 彼はどこまで成長するのだろうか。ショパン・コンクール優勝から8年、聴くたびに新たな感動が湧き、ピアノを聴く喜びを感じる。
 今日の写真は、終演後のにこやかな表情。私はショパン・コンクールからずっと聴き続けているのに、彼がザルツブルク音楽祭にデビューしたときに聴きにいってインタビューをしたため、その印象が強いようだ。
「やあ、こんにちは。ザルツブルクに聴きにきてくれたんだよね」
 また、こういわれてしまった。まあ、いいんだけどさ。
 いずれにしても、年末にこんなすばらしい演奏に出会え、至福のときを味わうことができ、なんとも心が温かくなった。
 というわけで、あれから毎朝ショパンの「ポロネーズ集」(ユニバーサル)を聴いている。でも、私は彼のベートーヴェンのピアノ・ソナタ第2番の録音もたまらなく好き。天に駆け上がっていくようなこのベートーヴェン、これまで聴いたことがないベートーヴェンだからだ。
 以前、ブレハッチにそのことを伝えたら、すぐに旋律を口ずさみ、「いい曲だよねえ」とにんまり。この笑顔も自然で温かくて、たまんないワ(笑)。
 彼は「自分が自然体でいられること」にこだわる。けっして無理はしない。そして、ピアニストとして、ゆっくり歩んでいきたいという。いまの世の中の速い流れにまどわされたくないからと。そうそう、それが一番の強みだ。
 ブレハッチを聴くと、彼の演奏から生き方を感じ取り、それが自分のなかの時間の流れをリセットすることにつながる。せかせかしたり、いらいらしたり、自分のなかにたまりまくっている嫌な感情が、スーッと洗い流されていくのである。ブレハッチのピアノには、そんな力がある。だから、私はコントロールが効かなくなると、ブレハッチを聴く。
 ラファウ、ありがとう。あなたは、ショパン・コンクールのときから常に私に大きな喜びと癒しと元気を与えてくれる。その人生哲学、いつまでも守り続けてね。


 
 

 
 
| クラシックを愛す | 16:07 | - | -
ユンディ・リ
 今日は、東京芸術劇場にユンディ・リのリサイタルを聴きにいった。
 前回の来日が中止となったため、今日は会場が超満員。みんなが話しているのを聞くともなく聞いていたら、新幹線で駆け付けた人が多かった。
 今回の公演は今日と、明日12日の東京オペラシティコンサートホールだけだから、熱心なファンが地方から聴きに訪れたのだろう。終演後に、ツアーコンダクターらしき人が、旗をもって何人かのお客さまを誘導している姿も見受けられた。そうか、コンサートを聴くツアーも組まれたわけだ。
 いつもながら、ユンディ・リの人気の高さには驚かされる。
 実は、私はてっきり女性ファンでホールが埋め尽くされているのかと思ったら、結構男性も多かった。私の隣では、若い男性がふたり、ピアニストの名前を挙げながら、これも聴いた、あれも聴いたと、自慢話をしていた。
 今日のプログラムは前半がショパンのノクターン第1番、第2番、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番「熱情」。後半がベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、同第14番「月光」。
 ユンディはすでに「悲愴」「月光」「熱情」のCDをリリースしているが(ユニバーサル)、最近は特にベートーヴェンに目が向いているようだ。
 実は、明後日インタビューをする予定が入っている。彼の今後のことについて聞こうと思っているのだが、やはりベートーヴェンの話題は欠かせない。さらに来年は大きなヨーロッパ・ツアーも組まれているそうだ。
 日本全国ツアーも大規模なものが組まれるようで、11月6日、10日のサントリーホールはすでに予定されており、詳細は2014年4月下旬に発表になるようだ。
 さて、久しぶりにユンディの演奏も聴いたし、これでインタビューの準備もできる。特有の美音は健在、これに力強さも加わった。
 2012年秋には四川音楽院ピアノ学部の副学部長および教授に学部最年少で就任したという。その話も聞かなくちゃ…。
 明後日、詳細を報告しま〜す。
 
 
| クラシックを愛す | 22:28 | - | -
ライナー・キュッヒルの自宅
 9月末から10月初旬にかけての「家庭画報」の取材で、ウィーン・フィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒルの自宅を訪れた。
 彼の仕事場であるウィーン国立歌劇場やムジークフェラインから徒歩15分から20分くらいに位置する建物で、いわゆる日本のマンション形式のお宅。ただし、非常に広く、すべての部屋のドアが開けられ、とても開放的。
 撮影や取材がすべて終わってから、キュッヒルさんの練習室を拝見したら、楽譜や書籍や資料が整然と整理され、すべての物がとても使いやすく置かれていることに気づいた。
「これ、写真に撮らせていただいていいですか」と彼に聞くと、「ええ、どうぞ。自由に何でもご覧になって、撮影してください」とのこと。
 キュッヒルさんは毎日ものすごく忙しく、一日のスケジュールを聞くと、いつ休んでいるのだろうと思うほどびっしり予定が詰まっている。
 それでも、涼しい顔で「演奏しているときは、仕事をしているという感覚はありません。好きな音楽を演奏していれば幸せですし、疲れもありませんよ。演奏することは私の喜びであり、生きる力となります。一日中でもヴァイオリンを弾いていたい」と、本音を明かしてくれた。
 だからこそ、ウィーン・フィルの音楽はあんなにすばらしいんだろうな、と納得。
 今日の写真はキュッヒル邸の3枚。リビングの壁には、キュッヒルさんとこれまで共演した偉大な指揮者たちとの写真がところせましと飾られている。いろんな人が撮ってくれ、プレゼントしてくれるのだそうだ。
 次は、音楽家のパロディー。いろんな音楽家がひとつの船に乗っている。それぞれすごく似ていて、特徴を見事にとらえている。私がつい笑ったら、「ねっ、おかしいでしょう。これ、うまいですよね」と、キュッヒルさんも一緒にニヤリ。
 最後は、仕事部屋の本棚。この反対側にも大きな楽譜の整理棚があり、ひと目で楽譜が捜し出せるように整頓されている。う〜ん、見習いたいもんだ(笑)。






| クラシックを愛す | 22:30 | - | -
ミカラ・ペトリ
 今日から12月。いよいよ残すところあと1カ月となってしまった。
 例年はこの時期になると来日公演も減って「第9」一色となり、私は各社の年末進行とにらめっことなるのだが、今年はまだまだ来日アーティストのコンサートが多く、これが年末まで続きそうだ。
 昨日はフィリアホールに、8年ぶりの来日となる、「リコーダーの女王」と称されるデンマーク出身のミカラ・ペトリの演奏を聴きにいった。
 実は、11月の2週にわたってヤマハのWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」にぺトリのインタビュー記事を掲載した。
 かなり前のインタビューだが、彼女の音楽性と人間性が伝われば、と思って書いた次第である。
 ペトリの演奏は、「リコーダーからこんな音が出るのか」と、衝撃を受けるようなすばらしさ。録音でもその超絶技巧と、自然な歌心に満ちたおだやかな音色は十分に伝わってくるが、やはりナマで聴くとからだ全体に音が沁み入り、ことばでは到底表現できないほどの感動が得られる。
 ペトリは何本も楽器を変えながら、さまざまな音色と表現力を駆使していろんな曲を次々に吹いていくのだが、それはときに鳥のさえずりに似て、またあるときは鳥の合唱のような複雑さも見せる。人工的な色合いがまったくなく、自然界の音のようにそのリコーダーは多種多様な音を紡いでいく。
 今回のプログラムは、前半がJ.S.バッハ、ヴィヴァルディ、タルティーニ。後半が各地の民謡からピアソラまで多彩。とりわけペトリ自身が書いた「デンマーク民謡《マッズ・ドス》による変奏曲」が北欧の風を伝えるようで、印象深かった。
 今回も夫君であるギタリストのラース・ハンニバルとのデュオで、ごく自然な息遣いとアイコンタクトが、素朴で親密的な空気を生み出していた。
 今日の写真は終演後、楽屋で撮った1枚。
 ふたりの雰囲気、いい味を醸し出しているでしょう。音楽もすばらしかったけど、ふたりのおっとりとした、飾らぬ感じに心が癒される思いがした。


 
| クラシックを愛す | 22:35 | - | -
トリノ王立歌劇場 トスカ
 今日は2010年の初来日公演で大成功を博した、トリノ王立歌劇場の再来日公演を聴きに東京文化会館に出かけた。
 演目はプッチーニの「トスカ」。指揮は2007年に音楽監督に就任し、この歌劇場の実力を世界へと知らしめたジャナンドレア・ノセダ。彼は就任以来さまざまな改革を施し、いまやトリノ王立歌劇場はイタリアを代表する実力と人気を誇る歌劇場へと飛躍を遂げた。
 今日のキャストは豊かな声量と広い音域を誇るイタリアのソプラノ、ノルマ・ファンティーニ(トスカ)、世界中のオペラハウスから引っ張りだこのアルゼンチン出身のテノール、マルセロ・アルバレス(カヴァラドッシ)、眼光鋭く存在感のあるスカルピアでこの役の新たな魅力を披露するグルジア出身のバリトン、ラド・アタネリ(スカルピア)。
 主役の3人がそれぞれ底力を発揮し、ファンティーニはのびやかでみずみずしく情熱的なトスカを生み出し、アルバレスは以前より多少重くなった声と抜群の演技力で悲劇的なカヴァラドッシを熱演し、アタネリはスマートで自信に満ちた新たなスカルピア像を作り出した。
 もっとも印象的だったのは、オーケストラのすばらしさ。冒頭から歌手の伴奏ではなく、オーケストラの響きに耳を奪われる見事なまでのアンサンブルを聴かせ、最後まで集中力が途切れなかった。
 これはひとえにノセダの力量によるところが大きい。彼は才能のある楽員が定年を迎えると、再度オーディションを行って再雇用するという方式を取り入れたそうだ。これは若手楽員のやる気を喚起することにもつながり、功を奏しているという。
 その成果は存分に今日の演奏に現れていた。プッチーニの旋律美がオーケストラの充実した演奏で遺憾なく発揮されたからだ。
 さらにジャン・ルイ・グリンダの演出が際立っていた。古典的な手法のなかに映像を盛り込むという現代的なワザを駆使し、オープニングとエンディングにトスカが身投げする映像をスローモーションで流して映画的な感覚をもたらした。
 やはり、オペラは指揮者が大きなウエイトを占める。ノセダは歌手のオーディションも積極的に行い、合唱にも力を入れている。それらすべてが今日の「トスカ」の上質な演奏につながっている。
 実は、休憩時間にイタリアのテレビのインタビューを受けた。どんなところが印象に残ったか、歌手はだれがよかったか、全体の印象をなどという質問をされたのだが、思ったように答えられず、ごく短いコメントになってしまった。
 ああ、なんたること、残念無念。もっと英語の語彙を増やさなくっちゃ。でも、テレビカメラがごく近くに寄ってきて、イタリア人のアナウンサーにマイクを突き付けられると、焦っちゃうものなんだよね。
 次にこういう機会があったら、今度はもっと頑張って答えようっと(笑)。せっかくいいオペラを観て、いいたいことはたくさんあるのに、反省しきり…。
| クラシックを愛す | 00:01 | - | -
イリヤ・ラシュコフスキーのリサイタル
 今日は14時からヤマハホールで行われた、イリヤ・ラシュコフスキーのリサイタルを聴きにいった。
 まず、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番「熱情」からスタート。このホールはすべての音が非常にクリアに聴こえてくるため、ラシュコフスキーのけっして鍵盤を叩かないやわらかな奏法でも、強音が胸に迫りくる感じだ。特に第3楽章における減7和音の強音の連打音が迫力十分、疾走するようなフィナーレを形成していた。
 次いでブラームスの「3つの間奏曲」が登場。「熱情」とはまったく趣を異とする雰囲気を生み出し、ブラームス特有の滋味あふれる世界へと聴き手をいざなった。こういう作品における透明感に満ちた響きは、ラシュコフスキーの大きな特質である。
 後半は、新譜にも収録したショパンの「エチュード作品10」の12曲が演奏され、弾き込んだ作品に対する自信をうかがわせた。
 そして先日インタビューでも語っていた、これから取り組んでいくというスクリャービンが3曲演奏された。「左手のための2つの小品より第1番」「8つの練習曲より第5番」「炎に向かって」。
 スクリャービンの音楽は、響きの美学とも呼ばれる音楽で、いずれの作品も特有の神秘的で瞑想的で法悦の世界を暗示するような作風が印象深い。ラシュコフスキーは、これからピアノ・ソナタ全曲をレパートリーにしたいと語っていたが、今日の演奏はその前哨戦とも受け取れる。
 構成も主題も演奏効果も作曲年代も異なる3曲を、スクリャービンの美質を前面に押し出しながら、作曲家の多面性を示唆した。
 終演後、CDのサイン会が行われ、それが終了してからラシュコフスキーを囲んで懇親会が行われた。
 今日は、第8回浜松国際ピアノコンクール優勝記念の日本ツアーの最終日。ラシュコフスキーのトークによれば、また来年も来日公演が予定されているそうだ。
 きっと、さらに大きくなって戻ってくるに違いない。
 今日の写真は懇親会でのイリヤ。彼はすごく人あたりがよく、にこやかで感じがいいナイスガイなんだけど、笑うとクシャッと表情が崩れる。そこがまた親しみやすくていいんだよね。


 
| クラシックを愛す | 22:32 | - | -
再びバーミンガム市交響楽団
 先日のアンドリス・ネルソンス指揮バーミンガム市交響楽団の演奏があまりにもすばらしかったため、今日もまた東京芸術劇場に聴きにいった。
 前回のソリスト、エレーヌ・グリモーのブラームスもまだ心に強烈な印象が残っているが、今日のソリスト、ヒラリー・ハーンのシベリウスのヴァイオリン協奏曲も作品の魂に寄り添う演奏で、彼女がいま心身ともに充実した時期を迎えていることが伝わってきた。
 ヒラリー・ハーンは以前インタビューをしたとき、「私はひとつのステージで、必ずバッハを弾かないと気がすまないくらいバッハが好きなの」と語っていたが、今日もアンコールにJ.S.バッハの「無伴奏パルティータ」第2番から「サラバンド」を演奏した。
 このバッハのなんと美しく敬虔で高雅だったことか。やはり本当に心から愛する作品を演奏すると、奏者の強い思いがまっすぐに聴き手に迫ってくる。
 今日のプログラムは、ワーグナーの歌劇「ローエングリン」から第1幕への前奏曲からスタート。そしてシベリウスへと続き、後半はチャイコフスキーの交響曲第5番だった。
 冒頭のワーグナーから、指揮者とオーケストラとの一体感が見事で、細部まで神経の行き届いた非常に精緻な音楽が紡ぎ出された。
 チャイコフスキーの第5番はこれまで何度もいろんなオーケストラで聴いてきたが、まったく新しい作品を聴くような新鮮さが全編に宿り、ネルソンスのひとつのドラマを描き出していくような表現力豊かな音作りが際立っていた。
 アンコールは日本語が話せる楽員が説明し、会場の笑いを誘った。エルガーの「朝のうた」が登場し、これもまた流麗で幻想的な演奏。
 こういう演奏に触れると、寒さも忘れ、疲れも吹き飛び、からだの奥からエネルギーがふつふつと湧いてくるのを感じる。なんという強いエネルギーなのだろうか。これが音楽のもつ力なのだろう。
 さて、ネルソンスはボストン交響楽団に移ることが決まったし、バーミンガム市交響楽団の次期音楽監督はだれになるのだろうか。このオーケストラは先見の明があるから、きっとまたみんなをあっといわせる指揮者の名を発表するに違いない。早く知りたいなあ(笑)。
| クラシックを愛す | 00:05 | - | -
海老彰子
 今日は午前中、海老彰子にインタビューするため横浜みなとみらい大ホールに出かけた。ところが、朝早く三鷹駅で人身事故があり、電車が不通になってしまった。
 あせってあれこれ調べ、早めに家を出て、ようやく待ち合わせの時間にまにあうことができた。
 海老さんは横浜市招待国際ピアノ演奏会の企画委員長を務めているため、11月16日、17日のコンサートを前に大忙し。その前にインタビューをすることになった次第だ。
 以前からよく存じ上げているため、いろんな話題が出て楽しくお話をすることができたが、特にサンソン・フランソワ夫人、アルゲリッチのお母さんからは、若手演奏家を支援する精神を学んだという。
 それが浜松国際ピアノコンクールの審査委員長や、この横浜での企画委員長という重責を担うことにつながっているのだろう。
 もっとも興味深かったのは、ヴァイオリニストの佐藤陽子が声楽家としても活動していたときにマリア・カラスのレッスンを受けにいき、そのピアノ伴奏を担当して一緒にカラスのレッスンを受けたときの話。
 彼女はもうフランス在住39年になるという。その間のさまざまな人との交流の話は、いくら聞いても尽きることがない。時間が許せば、もっともっといろんなことを聞きたいと思った。
 今日の記事はヤマハのWEB「ピアニスト・ラウンジ」に書くことになっている。
 実は昨年、浜松国際ピアノコンクールのオブザーバー就任を依頼されたのだが、単行本の校正の時期と重なってしまい、直前にキャンセルした苦い思い出がある。最初にそれを詫び、先日イリヤ・ラシュコフスキーのインタビューをしたことを話し、彼のピアノに関しても話を聞いた。
 海老さんは、ラシュコフスキーの才能を非常に高く評価していて、その後もできる限りコンサートで聴くようにしているそうだ。
 コンクール後もずっと聴き続けてくれ、応援してくれる。これがラシュコフスキーにとっては、非常にうれしいことであり、励ましになると本人が語っていたが、海老さんのこの姿勢に私もとても感銘を受けた。
 海老さんの精神が伝わるようないい記事が書けるよう、最大限の努力をしたいと思う。
 今日の写真は、インタビュー後、紅葉をバックに撮った1枚。海老さんの温かなまなざしが感じられるでしょ、私もあったかな気分になりました(笑)。
 でも、帰りもまだ電車の遅延があり、ふだんの倍くらいの時間を要して、ようやく家に着いた。以前の家は横浜方面に近かったけど、いまは、いやあ、遠くなりましたなあ。電車に何時間乗っていたんだろう…。


 
| クラシックを愛す | 23:15 | - | -
ルドルフ・ブッフビンダー&ウィーン・フィル
 ルドルフ・ブッフビンダーとウィーン・フィル。この組み合わせでベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」を聴く。
 こんなぜいたくな一夜があるだろうか。
 今夜は、ブッフビンダーがウィーン・フィルを弾き振りし、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と第5番をサントリーホールで披露した。
 かろやかで明るい第1番が始まった途端、ウィーン・フィルのえもいわれぬまろやかな弦の音色と独特の管楽器の響きが胸に迫ってきて、この上ない幸せな気分に満たされた。
 ブッフビンダーのピアノは、若きベートーヴェンのみずみずしい曲想を存分に伝え、第2楽章のクラリネットとの音の対話はとても濃密だった。
 もちろん「皇帝」はブッフビンダーの美質が全開。特に、私の大好きな第2楽章「アダージョ」では、おだやかな旋律を木管と弦とピアノが見事な融合を見せながら静けさをもって美しく奏で、至福のときを与えてくれた。
 ブッフビンダーとウィーン・フィルは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲録音を行っている(ソニー)。これらは2011年5月にウィーンのムジークフェラインで行われたライヴ。それゆえ、両者の息はぴったり。今夜の演奏も、格調高く優雅で、しかも作品の内奥にひたすら迫っていく熱い演奏。
 弾き振りをしているブッフビンダーが、ときおり椅子からからだを浮かし、エネルギッシュに指揮する姿が印象的だった。
 終演後も熱き演奏の余韻がずっと心に残り、いまなおベートーヴェンが頭のなかで鳴っている。
 きっと、明日も、またその次の日も、感動の泉は枯れることがないだろう。現在のところ、私の「今年のコンサート・ベストテン」の一番上にランクイン。それほどすばらしいベートーヴェンだった。
 今日の写真は、その全曲録音のCDジャケット。私が何度も繰り返し聴いている愛聴盤だ。

| クラシックを愛す | 23:39 | - | -
内田光子のリサイタル
 今日は、久しぶりにコンサートに出かけた。サントリーホールで行われた内田光子のリサイタルである。
 J.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集第2巻」より第1番と第14番で幕開け。クリアで明確な意志をもったバッハが紡ぎ出され、3声のフーガが織りなす複雑な響きがホール全体にゆきわたっていく。
 今回のプログラムはバッハ、シューマン、そしてシェーンベルクということで、バッハのあとにはシェーンベルクの「6つの小さなピアノ曲」が奏され、マーラーへの弔辞の意味合いが含まれる作品が“響きの美学“とでもいうような音の粒で綴られた。
 次いでシューマンの「森の情景」が登場。ここから後半はすべてシューマン。ピアノ・ソナタ第2番、「暁の歌」というプログラムで、今年5月から6月にかけて録音された曲目である。
 内田光子は近年シューマンの探求に時間を費やしていて、今日のプログラムはその真意を表現する形となった。
 とりわけ最後に演奏された「暁の歌」が印象深かった。シューマンの晩年の作品特有の暗闇のなかに光を見出そうとする孤独感と、憧憬と、狂気と、平穏さなどが混然一体となった曲想が、静けさのなかで淡々と奏でられていくさまは、まさにプログラムの最後をしめくくるにふさわしいものだった。
 内田光子は数年後からベートーヴェン・チクルスを予定しているそうで、今日はアンコールにベートーヴェンの「月光」の第1楽章が演奏された。予告の意味合いがあるのだろうか。
 静謐でおだやかで美しい響きが最後を飾り、本当に久しぶりにコンサートを聴いて心身が癒され、満ち足りた気分を味わった。
 さて、明日は女性誌の特集ページの校正をすべて送らなければならない。朝からまた気合いを入れなくっちゃ(笑)。
| クラシックを愛す | 23:08 | - | -
ネマニャ・ラドゥロヴィチ
 昨日はネマニャ・ラドゥロヴィチの「無伴奏ヴァイオリン・リサイタル」を聴きに、第一生命ホールに出かけた。
 実は、以前もブログで紹介したが、このリサイタルのためのインタビューを行って記事を書き、プログラムの曲目解説も担当した。
 彼はいまもっとも弾きたいのは、J.S.バッハとイザイの無伴奏作品だと語り、今回のプログラムもこの両作曲家の作品で組み立てられた。
 ネマニャはいつもステージに駆け足で颯爽と登場してくる。
 この日もスリムなからだを黒のモダンなデザインのえんび服をもじった衣裳に包み、いつもながらの集中力に富んだ演奏を披露。最後まで超絶技巧をものともしない、緊迫感あふれる演奏で聴き手の心に強い印象をもたらした。
 奏法がしっかりしていること、表現力が多彩なこと、演奏姿勢が魅力的なことなど、ネマニャの魅力は幅広い。ほぼ毎年のように来日しているが、いつもホールは満員だ。
 この日も、終演後のCDのサイン会には100人以上の列が続いた。
 私が初めてネマニャの演奏を聴いたのは、もう6年くらい前だろうか。彼はリサイタル前日に28歳のお誕生日を迎え、「ショックだ」といっていたとか。そんなことをいっていたら、これから毎年ショックが続くのにね(笑)。
 ネマニャの演奏は、ヴァイオリンの可能性をひたすら追求していく探究心と、作曲家の魂に寄り添うようその作品の奥に入り込み、新たな魅力を生み出そうとする創造性に富む。
 長年聴き続けていると、その演奏は徐々に変容していくことに気づく。もっと若いころは、テクニックを前面に押し出してバリバリ弾いていたが、いまはそれに加え、表現力の深さが増した。そして何より、自信に満ちている。これが一番の変化かもしれない。
 また、すぐにでも来日してほしいと願う。
 今日の写真は彼のヴァイオリンとケース。ファンからの贈り物だろうか、かわいい動物のぬいぐるみがついていた。
 もう1枚は着替えたあとのラフな格好のネマニャ。いつも同じことをいっているのだが、また「髪がボワーンとしてまとまらなくて…」。
 ちなみに、演奏中はきちっと結わえていますよ。



| クラシックを愛す | 22:45 | - | -
ラドゥ・ルプー
 昨夜は、オペラシティにラドゥ・ルプーのリサイタルを聴きにいった。
 プログラムは前半シューマンの「子供の情景」と「色とりどりの小品」。後半がシューベルトのピアノ・ソナタ第20番だった。
 昨年はオール・シューベルト・プロを聴いて深い感動を得たが、今年もまた心の奥深く響いてくるすばらしい演奏をたっぷりと味わった。
 ルプーの音は柔軟性に富み、やわらかく、おだやかで、しかも深遠で思索的。冒頭の音が響いた途端、私の胸には昨年の感動が蘇り、頭を垂れてひたすら聴き入った。
 ルプーのシューマンは物語性に満ち、詩的でエレガントで淡々としている。美しい声によって語られる朗読を聴いているようだ。
 ひとつひとつの音がからだのすみずみまで潤してくれ、魂が浄化していくような感覚にとらわれる。
 実は、今回の来日に際し、KAJIMOTOのホームページに「アイ・ラヴ・ルプー」の記事を寄せたが、そのとき担当の方に「ぜひ楽屋にきてください、ご紹介しますから」といわれた。
 ルプーは近年録音も行わないし、インタビューもけっして受けない。コンサートが、唯一の表現手段である。私も、これまでインタビューで会ったこともなければ、間近で話をしたこともない。
 きっととても気難しい人なんだろうな、と勝手に思っていた。
 ところが、終演後に楽屋で会ったルプーは、とてもやさしいまなざしのあったかい感じのする人だった。
 マネージメントの方が紹介してくれ、ほんの少し立ち話をしただけだが、ふんわりと大きなぬくもりに包まれる感じを受けた。
「ほらほら、伊熊さん、並んで」
 KAJIMOTOの方が、ツーショットを撮ってくれた。これは生涯の宝だ。
「ルプーさん、またすぐに来日してくださいね」
 こういうと、ルプーは困ったような顔をしてマネージャーを見、マネージャーは、「うんうん、その通り」というような表情をしていた。 
 この夜は、まさに「神の音楽」を聴いたような気分になった。現世から離脱し、別の世界へと運ばれる気持ちになったからだ。その感動はいつまでも心に残り、時間が過ぎてもけっして消えることはない。
 この日、楽屋でちょうど来日しているマレイ・ペライアに会った。早速あいさつを交わし、「来週のリサイタルにいきます」というと、「ああ、ありがとう」といっていつものおだやかな笑みを返してくれた。
 ルプーとペライアはデュオを組んで録音を行っている。ふたりの音の質はとても似ていて、どちらが弾いているのか判断しかねるくらいだ。
 今回のルプーの公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定になっている。そのときもまだ、演奏の鮮烈な印象が残っているに違いない。
| クラシックを愛す | 23:31 | - | -
プラシド・ドミンゴ
 10月15日、日本スペイン交流400周年にあたり、スペインを代表する文化交流大使として来日したプラシド・ドミンゴのコンサートを聴きにいった。
 実は、9月末のウィーン、ベルリン出張直前にプログラムの原稿依頼を受けたが、とてもまにあいそうもなく、「10月6日に帰国するから、そのあとでいいですか」と聞いたら、「申し訳ありません、こんなに急なお願いで。実は10月7日が校了なんです」といわれ、そりゃ、あかん。何がなんでも出かける前に入稿せねば、ということになった。
 そのコンサートのために、オーチャードホールに出かけた。
 2011年、ドミンゴは震災直後の日本を訪れてコンサートを開き、日本人を元気づけようとすばらしい歌声を聴かせてくれた。プログラムには、そのときの様子を綴った。
 今回は前半がメモリアルイヤーのワーグナーとヴェルディの作品を組み、後半はサルスエラからオペレッタ、ミュージカルまで多彩なプログラミング。
 2011年にも来日したアルゼンチン生まれのソプラノ、ヴァージニア・トーラとのデュオ、クラシック・スパニッシュ・ダンサーのヌリア・ポマレスの舞踊も交え、おなじみのユージン・コーンの指揮により、エンターテイナーに徹したステージを披露した。
 ドミンゴは以前もそうだったが、後半になるとのってきて、アンコールもたくさんうたう。今回もさまざまなジャンルの曲をうたい、19時開演のコンサートがすべて終了したのは22時10分前だった。
 そして2011年に会場が涙に包まれた「故郷」を再び最後にうたい、長いコンサートは幕を閉じた。
 本当に彼は疲れを知らない。そして誠心誠意、聴き手の心に届く歌をうたってくれる。この夜は声の調子がとてもよく、のびやかで声量も十分。声がとても健康的で、輝かしい響きを保ち、表現力の深さが際立っていた。
 ドミンゴの歌声はインパクトが強く、いまもその印象が深く心に残っている。まだまだ、ずっとうたい続けてほしいと願うばかりだ。
 今日の写真はプログラムの表紙と、私の記事のページ。この表紙の写真、かなり渋いよね〜(笑)。



 
| クラシックを愛す | 00:08 | - | -
CDの付録
 今日は、雑誌のCDの付録について打ち合わせるため、出版社に出かけた。
 レコード会社の担当者は、私が以前からよく知っている人で、打ち合わせもスムーズに運んだ。
 ただし、この仕事は時間との勝負で、スケジュールが非常にタイトなため、全員が超スピードで仕事をしなくてはならない。
 元の音源を受け取って、一度すべて聴いてみて選曲の確認をすることになり、帰宅後急いで聴いてみた。
 すると、夜になってレコード会社の担当者から電話が入り、プレスがまにあわないため、より進行を早めないといけないことが判明。そうか、もっと急いで聴き込まなくちゃ。
 ようやく全曲通して聴いてみて、今度は雑誌の担当者に事情を連絡した。
 CDの付録というのは、読者にはとても喜んでもらえるのだが、それにはいろんな人がかかわり、しかも全員が急ピッチで仕事を遂行しなくてはならない。要は、いい物を作るためには内容と質を落とすことなく、時間だけとにらめっこして最大限の努力をすることを要求されるわけだ。
 出張から戻った途端にいろんなことがたまっていて、またもや落ち着かない日々となっているが、こうして新たなCDの企画に携われることはとてもうれしい。集中力を高めて頑張らなくっちゃ。
 
 
 
 
 
 
| クラシックを愛す | 21:38 | - | -
アンドレアス・シュタイアー
 以前、まだチェンバロを弾いていたころ、特に愛していた作曲家がフランスのルイ・クープラン(1626〜1661)とドイツのヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616〜1667)だった。
 ルイ・クープランは、大クープランと呼ばれるフランソア・クープランの叔父にあたり、偉大な音楽一家、クープラン一族の基礎を確立した人物だ。作曲家として、クラヴサン奏者として活躍し、いくつかの舞曲をまとめて組曲になったクラヴサン曲を多く残している。
 私が魅せられたのもこの組曲で、ゆったりしたテンポ、フーガの採用、創意と工夫に満ちた主題に彩られた作品は、とりこになるほどだった。
 一方、フローベルガーは、作曲家としてオルガニストとして活躍。ローマに留学して、初期イタリア・バロックの大作曲家として知られるジローラモ・フレスコヴァルディに学んでいる。ウィーンに戻ってからは宮廷オルガニストとしての地位にあった。
 その音楽は、大胆な和声や幻想的な曲想が印象的で、「トッカータ」はJ.S.バッハに影響を与えたといわれている。
 そんなふたりの作曲家をすばらしいテクニックと表現力、音楽性で表現し、1枚のCDを作り上げたのが、1955年ゲッティンゲン生まれのチェンバロ奏者、アンドレアス・シュタイアーである。
 彼の演奏はこれまでナマもずいぶん聴いてきたが、常にその率直で自然で、流れるような美しさをもつ響きに魅了されてきた。
 シュタイアーが今回録音したアルバムは、「憂鬱をやり過ごすために―ドイツ、フランス・バロックの鍵盤作品集」(キングインターナショナル)と題されている。メランコリア(憂鬱)というテーマをもとに選曲されたプログラムで、シュタイアーの綴ったライナーノーツによれば、死者を悼む、墓を意味する「トンボー」と、嘆きを意味する「プラント」が取り入れられ、さらに静寂、空虚、孤独を象徴する瞑想的な空気を伴うという。
 そうした考えにより、このCDのジャケットの表紙にはジョルジョーネの2枚のポートレートが用いられている。さらに内部にはアルブレヒト・デューラーの謎めいた銅版画「メランコリア」など複数の絵が登場し、いずれも瞑想的な空気を編み出している。
 もちろん、演奏はさまざまな表情が幾重にも変容していく見事さで、シュタイアーの底力が発揮されている。
 こうしたひとつひとつのディテールにとことん凝ったアルバムは、芸術品といえるのではないだろうか。
 もちろん、チェンバロの音色はメランコリックなだけではなく、あるときは光彩を放ち、またあるときは疾走する指の動きに心が高揚する。
 もう何度聴いただろうか。このアルバムは、私の宝物のひとつである。
 今日の写真はそのジャケットと、シュタイアーの顔写真。なお、今回の使用楽器は、17世紀末にフランスで製造されたクラヴサン「Anonyme Collesse」で、2000年から2004年にロラン・スマニャックによって修復されたもの。スマニャックは2500時間以上の時間をかけて修復したという。
 すばらしい響きは、スマニャックの尽力によるところも大きい。





 
| クラシックを愛す | 22:48 | - | -
ニコライ・ホジャイノフ
 昨夜は、浜離宮朝日ホールにニコライ・ホジャイノフのリサイタルを聴きにいった。
 プログラムはデビュー・アルバム「マイ・フェイヴァリッツ」(ビクター)にも登場している、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番からスタート。ホジャイノフはベートーヴェンの後期のソナタに魅せられ、弾かずにはいられないと語っているが、このソナタもすでに自身のレパートリーの中心をなす作品となっている。
 以前、武蔵野市民文化会館で聴いたときよりもなおいっそう自信に満ちた響きで、各楽章の特質を明確に浮き彫りにしていた。
 次いでラヴェルの「夜のガスパール」。これは今年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」でアブデル=ラーマン・エル=バシャがラヴェルのほぼ全曲演奏を行ったが、そのときに「ラヴェルの作品のなかでもっとも難しい作品。と同時に、フランスのピアノ作品のなかでももっとも難しい作品」と評していたもの。「オンディーヌ」「絞首台」「スカルボ」という3曲で構成され、それぞれ複雑なリズムと主題と和音と内容と技巧が盛り込まれている。
 ホジャイノフは優れたテクニックの持ち主で、難度の高い作品を得意とするが、「夜のガスパール」はそれでもなおこれは非常に難しい作品だということを示唆していた。
 ラヴェルのピアノ作品は、特有のエスプリ、ユーモア、ウイットなどが潜んでいる。それを表現するのは、至難の業である。私はラヴェルが大好きなため、さまざまなピアニストでこの作品を聴いている。そして、いつもその斬新で複雑で繊細で詩的であり、また悪魔的でもある内容の表現の難しさに、ピアニストの挑戦心と苦労と複雑な心境を思い知らされる。
 後半は、ショパンの晩年の美しい作品「舟歌」と「子守唄」が選ばれていた。これら2曲もまた、深い表現力と思考と洞察力を要する。ホジャイノフはこれらをクリアな響きで主題をくっきりと際立たせ、ゆったりとしたリズムを楽しむように情感豊かに奏でた。
 最後はリストのピアノ・ソナタ ロ短調。昨年のインタビュー時に、ロ短調ソナタをレパートリーに入れると明言していたため、楽しみにしたが、これはいまのホジャイノフの心身の充実を表している演奏となった。
 彼はアンコールでもそのテクニックの見事さを遺憾なく発揮していたが、これはやはりモスクワ音楽院のヴォスクレセンスキー教授の教えだろうか、楽器を大きく豊かにうたうように鳴らす。
 ロシア・ピアニズムの伝統は、ロシアのピアニストたちによると、恩師から弟子へと着実に継承されているとのことだが、まさにそれを実感した。
 このリサイタルの公演評は次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定である。
 ホジャイノフは、これからたった2日間で新譜の録音を行い、この日聴いた作品を中心にレコーディングする。その成果にも期待したい。
 今日の写真はリサイタル後、サイン会を行うホジャイノフ。女性ファンが圧倒的に多く、みな写真を撮るのに夢中になっていた。

| クラシックを愛す | 22:07 | - | -
ミロシュ
 今日は、ミロシュのギターを聴きに王子ホールに出かけた。
 プログラムは、前半がJ.S.バッハの「パルティータ ハ短調 BWV997」、グラナドスの「スペイン舞曲集」より第2曲「オリエンタル」、バリオスの「森に夢見る」という、私が大好きな作品ばかり。
 ミロシュはトークを交え、曲の説明をして演奏に移るという方法をとっていたが、グラナドスはアリシア・デ・ラローチャの演奏をよく聴いていたとか。
 いずれの作品もミロシュの個性である弱音の美しさが際立ち、全編に静謐な空気がただよう。こうしたギターをアットホームなホールで聴くと、まさに親密的な響きに全身が満たされ、至福のときを過ごすことができる。
 後半は新譜「ミロシュ〜ラテンの哀愁」(ユニバーサル)に因み、南米の音楽が次々に登場。なかでも、アルゼンチンのホルヘ・カルドーゾの「ミロンガ」が民族色豊かな色彩で紡がれ、心に深く響いてきた。
 ギターは、こうして指の見える会場で聴くと、感動が新たになる。そのフィンガリングの妙が味わえたのは、アンコールで演奏されたタレガの「アルハンブラの思い出」。これは主旋律とトレモロを同時に演奏せねばならず、親指のメロディと他の指によるトレモロが鮮やかな動きを見せる。
 今日は、そのフィンガリングをたっぷり味わうことができ、さらにグラナダ好きの私は、ミロシュのギターでアルハンブラの散策をしている気分に満たされた。
 なんという至福のひとときだろうか。
 音楽は、イマジネーションを喚起し、旅心を刺激する。ミロシュの演奏で、私はまたたまらなくグラナダに旅をしたくなった。
 来週は、ミロシュのインタビューが組まれている。「あなたのギターは私の旅心に火をつけた」といってみようかな(笑)。
 今日の写真は終演後の楽屋でのミロシュ。実は、私のブログはいつのまにか市民権を得ていて、レコード会社の方たちが「伊熊さんのブログ用の写真撮らなくちゃ。ほらほら、ミロシュ、そこにすわって」といってくれ、ミロシュも「ハイハイ、ブログね」とポーズをとってくれた。
 今日はレコード会社のKさんに「私、いつも伊熊さんのブログで情報を得ているのよ」といわれた。おおっ、これは責任重大、もっと広くアンテナを張り巡らさなくては…。
 レコード会社の方からよく電話がかかってきて、いろんなアーティストのことを聞かれるが、彼らは自社のアーティストのことで手いっぱいで、他社のことまで調べきれないのだろう。
 でも、そのためにはもっといろんなことを調べて書かなくてはいけないのかな。お気楽にやっているから続くので、まあ、なんとかこのくらいで許してくださいな(笑)。

| クラシックを愛す | 23:39 | - | -
チョ・ソンジンの成長
 昨夜は、すばらしい才能の成長過程を目の当たりにすることができ、ある種の深い感動を覚えた。
 韓国出身の19歳になったばかりのピアニスト、チョ・ソンジンについては以前もその自然体の演奏と、人柄のよさを綴ってきたが、久しぶりに浜離宮朝日ホールで聴くリサイタルは、彼の才能が飛躍的に伸びたことを示すに十分なものだった。
 前半はシューベルトのピアノ・ソナタ第13番からスタート。大きな特質である美しい音が最大限生かされた演奏で、シューベルトらしい歌謡的な主題を歌曲のようにのびやかに、また、自然な奏法で進めていく。
 チョ・ソンジンの演奏は、以前からからだの使いかたの実に自然なことに驚きを覚えていたが、なおいっそう力が抜け、弱音の美しさが際立つようになった。
 次いでプロコフィエフのピアノ・ソナタ第2番が演奏され、これは昨秋からパリ高等音楽院でミシェル・ベロフに師事して研鑽を積んでいる成果が如実に現れるものとなった。
 チョ・ソンジンは、この変化に富む、非常に前衛的で幻想的であるソナタを、完全に自分の音楽として自信をもって奏でたからである。
 ベロフは、この若き才能に大きな自信を植え付けたようだ。
 チョ・ソンジンは2009年11月、浜松国際ピアノ・コンクールにおいて15歳で最年少優勝を遂げ、2011年6月にはチャイコフスキー国際コンクールで第3位入賞を果たしている。
 だが、この入賞直後にパリ留学を決意していることから、自分に何が足りないのか、何を勉強したらいいのかをじっくり考えたに違いない。
 そしていま、彼の音楽は大きく変貌し、それが後半に演奏されたショパンのピアノ・ソナタ第2番「葬送」にリアルに現れていた。
 各々の楽章に変化をもたせ、強弱、リズム、フレーズ、ルパート、テンポ、主題のうたわせかたなど、すべての面において非常に個性的なショパンを聴かせたからである。
 これを聴き、私は次回の2015年のショパン国際ピアノ・コンクールに出場し、優勝を目指すのではないかという思いを強くした。
 説得力があり、存在感があり、そのなかで透明感に満ちた美音を遺憾なく発揮していくチョ・ソンジンのショパン。これはおそらく審査員の心も聴衆の心もとらえるのではないだろうか。
 そしてプログラムの最後には、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」を披露したが、これこそパリで勉強しているチョ・ソンジンのすべてを物語っていた。ラヴェルの渦巻くようなワルツのなかから湧き上がるきらめき、ファンタジー、彫刻を思わせるような立体的な響きを超絶技巧をものともしない自然なテクニックでかろやかに、しかも奥深い響きで最後まで一気に聴かせたからだ。
 チョ・ソンジンの演奏は、底力がある。からだはそんなに大きくなく、以前よりもスリムになったが、ピアノを豊かに鳴らすスケールの大きさと、けっしてたたきつけずにおなかに響くような強音は圧巻だ。
 次回また聴くときは、よりいっそう成熟したピアニズムが堪能できるのではないだろうか。
 昨夜は、会場を訪れた同業者が、みんな口をそろえて絶賛していた。すばらしき若き才能は、その場に居合わせた全員の心をとらえたようだ。
 
 
 
| クラシックを愛す | 21:51 | - | -
練木繁夫
 今日は、ヤマハ銀座店の裏にあるピアノサロンに、ピアニストの練木繁夫のインタビューにいった。
 長年、アメリカを中心に各地で幅広い活動を行っている彼は、30年間にわたってチェロのヤーノシュ・シュタルケルと共演したことで知られる。
 私は以前も書いたが、シュタルケルの音楽性と人間性の両面に魅せられているため、その話で盛り上がってしまった。
 もちろん音楽の話を中心に聞いたのだが、ふだんのシュタルケルの様子や素顔をいろいろ聞くことができ、とても有意義だった。
 練木繁夫はソロ活動も多く、近年はヴァイオリンの漆原啓子とのデュオも活発に行っている。
 彼はとてもフランクで話しやすく、ひとつの質問に対してさまざまな考えを聞かせてくれるため、インタビューは2時間近くに及んだ。
 この記事はヤマハのWEB「ピアニスト・ラウンジ」に書く予定になっている。
 練木繁夫は、演奏も非常に緻密で緊迫感に富み、楽譜の深い読みを感じさせてくれるものだが、ベートーヴェンの楽譜に書かれた強弱記号の話題になった途端、すっくと立ってピアノのところにいき、「ほら、いまのところはこう書かれているけど、実際に弾いてみるとこうでしょう」と、その箇所の違いをこまかく弾き分けて聴かせてくれた。
 ああ、まるでレッスンを受けているようだわ、と一瞬錯覚を覚えてしまったほどだ。
 話題は、オール・ショパンで組み立てた先日のリサイタルから、ベートーヴェンのソナタの話、J.S.バッハが常に自身の根幹にあること、今後はシューベルトの後期のソナタを弾いていきたいことなど多岐にわたった。
 もっとも興味深かったのは、自分で自分を「悪い性格の人間」だと評したこと。音楽を聴く限り、とてもそうは思えませんよ。これはきっと、シュタルケルのちょっと自虐的なユーモア精神がうつったんじゃないかな(笑)。
 このインタビューでは、最後にWEBの読者のために色紙にメッセージを書いてもらうのが恒例なのだが、なんと彼は「インタビューがとても楽しかった」と書いてくれた。
 こういうのは初めてである。お礼をいわれたり、「すごく楽しかった」といわれることはあるものの、それはある程度の社交辞令だと思っている。
 でも、練木繁夫は文字にして残してくれた。ああ、なんという幸せ。この仕事をしてきてよかったと思える瞬間だ。
 ただし、まだ原稿を書いたわけではない。浮かれていないで、彼が納得する、内容のあるいい原稿を書かなくては…。
 今日の写真は、ピアノを演奏している様子を撮影中の1枚。その感動的なメッセージを書いているところ。そして、最後に笑顔の1枚をいただきました。
 練木さん、頑張って、いい原稿書きますからね!!





 
| クラシックを愛す | 22:27 | - | -
ユーリ・バシュメット&モスクワ・ソロイスツ合奏団
 昨日は、ユーリ・バシュメット指揮モスクワ・ソロイスツ合奏団のコンサートがあり、オペラシティに出かけた。
 このコンサートはバシュメットの60歳記念公演と銘打たれ、彼の60歳のお誕生日である1月24日にはモスクワでパースティ・コンサートが華々しく開催され、その流れで日本公演も祝祭的な雰囲気に包まれた。
 まず、バシュメットが親しく交流していたアルフレッド・シュニトケの「室内オーケストラのためのトリオ・ソナタ(バシュメット編)」からスタート。静けさと激情、新ウィーン楽派の流れと前衛的な音楽などのコントラストを際立たせた演奏となった。
 モスクワ・ソロイスツは、以前聴いたときよりも響きの深遠さが増し、濃密なアンサンブルが際立っていた。
 この作品の冒頭には、ベルク生誕100周年と関連した「ハッピー・パースデイ」に基づくリズムが現れ、この日の始まりにピッタリだった。
 次いで、シューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」(クルーグ&バラショフ編)のオーケストラ伴奏版が登場。タクトをヴィオラに持ち替えたバシュメットが、シューベルトの歌謡的な旋律を味わい深く聴かせた。
 この夜は、皇太子殿下がご臨席のコンサートとなった。殿下はヴィオラを演奏なさるから、バシュメットの演奏と作品は、より身近に感じられたのだろうか。盛んな拍手を送られていた。
 後半は、樫本大進がソリストとして加わり、モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調」が演奏された。大進の演奏はデビュー当時から大きな変貌を遂げた。
 ベルリン・フィルでの日々の演奏が、こんなにもひとりのヴァイオリニストの精神性、音楽性、表現力、そしてテクニックに影響するものだと、感慨を新たにした。 
 大進の輝かしくおおらかで天空に舞い上がっていくような音色と、バシュメットのほの暗い情熱、内省的で思慮深く、ときに沈静していくような音色が融合すると、モーツァルトがこの作品に求めたものが深く理解できる。名手たちによる名演を聴く喜びはここにあり、という演奏だった。
 この夜は、終演後に深夜までバシュメットのバースデイ・パーティが行われた。
 もっとも興味深かったのは、音楽事務所が用意した還暦用の赤い衣裳を彼が喜んで身につけたとき。あまりに似合うため、居合わせた全員が大爆笑となった。
 今日の写真は、バシュメットと大進がスピーチをするところ。バシュメットが赤い衣裳をはおったところ。そして、すばらしいデザインのバースデイケーキ。実は、ヴィオラの裏側に、熱燗に目のないバシュメットのために、徳利とおちょこが潜んでいる。これにも大笑いしてしまった。
 こんな粋な配慮に、バシュメットは終始ごきげんだった。



 



 
| クラシックを愛す | 23:26 | - | -
リーズ・ドゥ・ラ・サール
 今日は、フランスの若手ピアニスト、リーズ・ドゥ・ラ・サールのリサイタルを聴きに紀尾井ホールに出かけた。
 前半はラヴェルの「鏡」とドビュッシーの「前奏曲集より」というフランス作品でスタート。
 響きがとてもクリアで、ペダルのこまやかな使用が功を奏し、あいまいな音がまったくない。打鍵も深く、リズムも明確で、ときおり強靭さが際立つ。
 ホールが小さすぎると思えるほどの音量も披露し、とりわけ高音のカーンという鋭いタッチが印象に残った。
 彼女のピアノは、もやもやした響きや淡い色を前面に押し出すピアニズムとは一線を画し、確固たる信念に貫かれたフランス作品を打ち出していた。
 後半は、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」から10の小品。彼女はこの作品を得意としていて、録音も行っているが、まさにロシア作品が向いているという奏法。ドラマを浮き彫りにし、音量豊かに物語を強靭なテクニックと鍛え抜かれたリズム表現で鮮やかに生み出していく。
 しかし、25歳というのが信じられないほど、古典的なピアニズムが随所に顔をのぞかせている。
 今日は、男性ファンが圧倒的に多く、CD発売のデスクの前には男性がずらり。終演後はサイン会があるということで、そこでも男性陣が長蛇の列になるのだろう。
 この公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定になっている。
 フランスはピアニストが多く生まれる国である。しかも、個性派が際立つ。最近は男性ピアニストが多いが、リーズがそのなかに大きな花を咲かせるのはまちがいない。
 こういうピアニストは、長く聴き続けていくことに価値がある。また、次回を楽しみにしたい。
| クラシックを愛す | 23:08 | - | -
エリック・ル・サージュ
 今日は、紀尾井ホールにエリック・ル・サージュのリサイタルを聴きにいった。
 以前、このブログでも紹介したが、紀尾井ホールでの初めてのリサイタルである。
 ドビュッシー、ベートーヴェン、シューマンというプログラムだったが、やはりル・サージュのシューマンは味わい深かった。
 彼はインタビューでも語っているように、シューマンは自分の心にもっとも近い作曲家だという。
 今日は「幻想曲」を披露したが、幻想的で情熱的でソナタを思わせる作品を全体を俯瞰する目を保ちながら細部まで神経を張り巡らし、シューマンの詩的でロマン主義的な楽想をゆったりと奏でた。
 長い間、コンサートにいくことができなかったが、最近は少しずつ足を運ぶことができるようになった。
 こうしてゆっくりとピアノを聴く時間をもつと、本当に心身に栄養を与えられる気がする。
 私はひとつひとつのコンサートの余韻を楽しみたいほうなので、連日ホールに通うことはあまりしないが、ここ2日間は続けてピアノを聴いた。
 それをじっくりと反芻したいと思う。


 
| クラシックを愛す | 22:47 | - | -
ウィーン交響楽団
 今日は、サントリーホールに大野和士指揮ウィーン交響楽団のコンサートを聴きにいった。
 前半のプログラムは、インゴルフ・ヴンダーをソリストに迎えたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
 ヴンダーのピアノはずっと聴き続けているが、今回は改めてこの第4番のコンチェルトの難しさを知った思いがする。
 ピアニストの多くが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲のなかで、もっとも難しいのがこの第4番だと語る。技術的な難度の高さではなく、表現力の問題である。
 国際コンクールでもよくこの作品は取り上げられるが、なかなか高得点をとるのは難しい。
 ヴンダーは以前のインタビューで、「ベートーヴェンのピアノ協奏曲はずっと弾き続けていますが、本当に自分のものにするのには長い年月がかかると思います。人生経験を積まないと、表現の深さは出ませんし、人の心に感動を呼び起こす演奏をするにはとてつもない時間と努力と研鑽が必要になります」といっていた。
 確かに、いつも聴いているショパンのコンチェルトのときとは異なった演奏で、表現力に苦労している様子が見てとれた。
 やはり第4番のコンチェルトは、若いピアニストにとって、高い頂を意味するのだろう。だが、ヴンダーは底力のある人である。きっと次回このコンチェルトを演奏するときは、より磨き抜かれたベートーヴェンを聴かせてくれるに違いない。
 こうして何度も同じピアニストで同じ作品を聴き続けること、これも大きな喜びであるから。
 一方、大野和士は音楽が実にのびやかで情感豊かで、自由闊達な響きをオーケストラから引き出していた。
 彼の評価は年々うなぎのぼりだが、少し前とは表現が変化し、より柔軟性を帯びたような気がする。
 今日の演目はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。この作品はさまざまな指揮者とオーケストラで聴いているが、今日のコンビは古典的な解釈に斬新性をプラスした演奏を遺憾なく発揮し、聴き慣れた作品に新たな光をあてていた。
 そして、アンコールにはシュトラウスのワルツをたっぷり聴かせ、ホールをウィーンの空気で満たしてくれた。
 ヴンダーもウィーン出身。まさにウィーンの香りただよう一夜を堪能した。 
| クラシックを愛す | 23:00 | - | -
ユッセン兄弟
 今日は、フィリアホールにユッセン兄弟のリサイタルを聴きにいった。
 これはウィークデーコンサートシリーズの一環で、「らん・らん・ランチにいい音楽」と題された11時半からのコンサート。
 会場はほぼ満員で、最近はこうした昼のコンサートが盛んだといわれていることが、よくわかった。
 プログラムはオール・シューベルト。
 まず、アルトゥールが即興曲集作品90の第2番、第3番、第4番を演奏し、次いでルーカスが即興曲集作品142の第2番と第3番をを演奏した。
 そしてふたりで幻想曲ヘ短調作品103を演奏し、約1時間のプログラムが終了した。
 シューベルトの新譜のライナーノーツを書くためにこれらの作品をじっくり聴いていたため、演奏はよくわかっていたが、やはり実際にナマの演奏を聴くと、新たな発見がいくつかあった。
 彼らは恩師のピリスから、これらの作品をこまかく教えられている。それらを忠実に守りながら、そこに楽譜から自身の感性で読み取ったものをプラスし、自分なりの即興曲に仕上げていた。
 アルトゥールはおだやかで、ときに静けさが宿るような音楽を得意とし、ルーカスは力強くスケールの大きな音楽を作りたいと願っているようだ。
 個性の異なるふたりの演奏は、それぞれ今後どのような道を歩んでいくのだろうかと、近い将来のありかたが非常に気になった。
 以前も書いたことだが、彼らはお互いにライバルとは思わず、非常にいい関係を築いているようだが、その関係を生かしながら個性の違うピアニストに成長していってほしいと願う。
 マネージャーのMさんと話していたら、来年も来日する予定だという。ぜひ、今度はコンチェルトを聴いてみたい。
 ふたりがそれぞれ異なるコンチェルトを弾く夕べなんて、魅力的ではないだろうか。
 今日の写真は終演後のふたりの表情。CDのサイン会も終え、リラックスしている。手前が弟のアルトゥール、うしろが兄のルーカス。
 まだナマの演奏に触れていない人は、ぜひ来年こそは聴いてみてくださいな。みずみずしい演奏で心がほんのり温かくなりますから。


 
| クラシックを愛す | 23:33 | - | -
「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2013」のアンバサダーを終えて
 この連休で、「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2013」のミュージック・アンバサダーの仕事がすべて終わった。
 公式本の依頼が入ったのが、昨年の5月末。それから約1年間に渡り、さまざまな仕事に携わってきた。
 新たな仕事の分野にも挑戦し、さまざまな人との出会いも経験し、自分がどこまでできるか試されることもあり、挑戦の日々だった。
 5月3日には、最後の仕事となる「ラ・フォル・ジュルネ」の会場での講演があり、フランスとスペインの音楽について1時間話した。
 その後、新星堂のブースに移り、単行本のサイン会を行った。
 サイン会では、多くの人がいろんなことを話してくれた。
「いまの講演を聴いてきたばかりです」
「NHKラジオのないとエッセー、4晩に渡って聴きましたよ」
「いつもいろんな新聞や雑誌で、演奏評やインタビュー記事を拝見しています」
「ヴェンゲーロフの本も買って読みました」
「次はどういう本を書かれる予定ですか」
「アンサンブル・アンテルコンタンポランの永野さんのお話が出て、とても興味深かったです」
 こうした読者との直接の触れ合いは、とても貴重な時間であり、大いなる楽しみでもある。
 みなさん、とてもにこやかに、楽しそうな表情で話してくれたからである。
 本当はもっと時間があったら、ゆっくりいろんな感想を聞きたいと思ったほどだ。
 この後はいくつかコンサートを聴いたのだが、一気に疲れが押し寄せてきて、最後のコンサートまでは参加できなかった。
 アンバサダーがこれほど重責とは思わなかった。
 1年間、さまざまな責務をこなし、すべてが終了した時点で精神的にはしっかりしなくちゃと思っていたのだが、からだは正直に反応し、虚脱状態になってしまった。
 今日も一日中、なんだかフワフワした感じで、どうも締まらない。
 やはり人間は、定期的に休息が必要だと痛感した次第だ。
 それでも、連休中はパソコンに向かえなかったためたまっている原稿があり、なんとかそれを書き上げて入稿し、その後はボーッ。
 しばらくはこの状態が続きそうだ。
 今日の写真は、5月3日のサイン会で新星堂のボードに飾られた私のサイン。その他はアーティストがズラリ。
 キャーッ、こんなところに一緒に並んでいいのかしら。
 ついついミーハーになって、パチリと1枚記念撮影。多分、こんなこと、一生に一度でしょうね(笑)。


 

 
| クラシックを愛す | 22:21 | - | -
牛田智大セカンドアルバム録音
 今日は、6月19日にリリースされる牛田智大のセカンドアルバム「セレナーデ〜リスト&ショパン名曲集」(ユニバーサル)の録音を聴きにHakuju Hallにいった。
 今回は彼がいま一番弾きたいといっているリストとショパンという同時代の作曲家ふたりの作品でプログラムが組まれ、盛りだくさんの内容。
「それぞれ曲の内容が深く、表現力も必要で、大変なんです」
 こういっていた牛田くんだったが、私にはとてもリラックスして演奏しているように見えた。
「ええっ、リラックスしているように見えますか。うーん、本当のところは、ムニャムニャ」 
 と、ことばを濁していた。
 リストの「パガニーニ大練習曲第6番:主題と変奏」や「リスト/サン=サーンス:死の舞踏」、ショパンの「バラード第3番」や「前奏曲第15番《雨だれ》」など、本当にさまざまな要素を必要とする作品がずらりと並んでいる。
 4時間ほど演奏を聴き、少しコメントを取り、まだ仕事が残っているため、録音会場をあとにした。
 思えば、1年4カ月前、初めてこのホールで牛田くんに会い、演奏を聴き、取材開始となった。
 今回、改めて演奏を聴き、一気に階段を駆け上がったような成長ぶりに胸が熱くなる思いがした。
 新譜ができあがるのがひたすら待ち遠しい。
 今日の写真は、差し入れのお菓子をもっているところ、録音の合間に好物のお漬物(メロンと青トマトという珍しい物を見つけた)をつまんでいるところ、そしてピアノの前で脱力しているところ。
 本当は、アーティストはみんなこうして疲れをほぐして脱力などをしているんだけど、なかなかこうした写真は撮れない。これって貴重でしょ(笑)。








  
| クラシックを愛す | 22:57 | - | -
ピリス&メネセス デュオ・リサイタル
 今日は、すみだトリフォニーホールにマリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)とアントニオ・メネセス(チェロ)のデュオ・リサイタルを聴きにいった。
 プログラムは、「ベートーヴェンのピアノとチェロのためのソナタ第2番ト短調」からスタート。ベートーヴェンの若い時代の作品の特徴である、のびやかな主題とシンプルな曲想が印象的で、メネセスのゆったりとした深い響きにピリスの凛としたクリアで推進力に富むピアノが和し、全2楽章を一気に聴かせた。
 次いでピリスのソロによるシューベルトの「3つのピアノ曲D.946」。この3曲のなんと心に染みいることか。
 疾走する急速なテンポの第1番、メランコリックでアンニュイな表情の第2番、快活で切羽詰まったような雰囲気を醸し出す第3番と、ピリスはそれぞれの曲想を深く掘り下げ、繊細で陰影に富む創造性豊かな音楽を作り上げた。
 後半は、まずメネセスのソロでJ.S.バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」がしっとりと歌い上げられ、最後にベートーヴェンの「ピアノとチェロのためのソナタ第3番イ長調」が絶妙のコンビネーションで紡がれた。
 まさに名手同士のデュオの醍醐味で、先日リリースされたふたりの「ウィグモア・ホール・リサイタル」(ユニバーサル)の新譜を思い起こさせた。
 終演後、楽屋でピリスに会い、インタビューの依頼をしたが、明日は札幌公演があり、翌日お昼過ぎに東京に戻ってくるため、そのときにできるかどうかが判明することになった。そしてその翌日には帰国するそうだ。
 やはり、今回はスケジュール的に無理かもしれない。でも、一応いつでも飛び出せるように、スタンバイしていようっと。
 今日の写真は、終演後のサイン会のピリスとメネセス。リサイタルはテレビが入っていたため、結構ふたりとも神経を遣っていたそうだが、すべて終わってからはリラックスしてサインに応じていた。
 さて、明後日はどうなるかな、運を天に任せるしかないな(笑)。



 
 
| クラシックを愛す | 23:48 | - | -
LFJクラシックアンバサダーの仕事
 今年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(LFJ)」のクラシックアンバサダーを仰せつかり、公式本を書いたり、ナントに出張したりと、さまざまなことをこなしているが、これが結構いろんな種類の仕事で、新たな人との出会いも多い。
 テレビやラジオ出演では、ふだん接することのない分野の人々に初めて会うことも多く、また、新聞や雑誌のインタビューでは、思ってもいないことを聞かれたりする。
 それゆえ、常に緊張感を伴う。もっとも、いい意味の緊張感だが…。
 自分がインタビュアーのときは、どんなに偉大なアーティストに会っても、ほとんどアガッたり、緊張して頭が真っ白になることはないのだが、インタビューを受けるとなると、違った意味の集中力が必要になる。
 これからも、まだまだこの仕事は多くの予定が入っている。
 花粉症はなんとか漢方薬が効いて、だいぶ沈静化した。あとは、5月の連休のLFJまで、体力と気力と集中力を切らさないようにしなければならない。
 今日は、「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」のホームページに、私の公式本の紹介ページがオープンした。とってもうれしい。
 さて、5月まで、なんとか突っ走らなくては…。
 
| クラシックを愛す | 22:13 | - | -
金子勝子先生
 今日は、雪がちらつく寒い日となった。でも、こういう日は花粉はあまり飛ばないのかな。でも、外出時のマスクは欠かせない。
 午後から牛田智大の単行本のために、彼が小学校1年から師事していた金子勝子先生にインタビューをするべく、扶桑社のOさんとともにご自宅に伺った。
 先生はとても熱心にことばを尽くしてあらゆる面から牛田くんのことを話してくださり、あっというまに2時間が経過した。
 実は、先生のマンションは建て替えのために壊されてしまうそうで、すぐ隣に新しく建設されるマンションに入居するまで1年半というもの、他のところに移らなくてはならないとか。
 そこで、先生のお写真とともに、牛田くんが一生懸命レッスンを受けたお部屋の写真を撮らせていただいた。この部屋もなくなってしまうわけだから。
 さて、来週もう一度だけ牛田智大のインタビューがあり、それで取材は最後となる。あとはひたすら書くことに専念しなければならない。
 いまは頭のなかで何にスポットをあてようか、どういう展開にしようか、どこをふくらませようかと、いろんなことがグルグル。
 まあ、先生にお話を聞くことができたわけだから、それを随所に盛り込みながら、自然に流れるようにしていこう。
 あとは時間だけだ。さて、これがもっとも難しい問題。自分の生活の基本を執筆中心にし、あとはすべて犠牲にしていかなくてはならないからだ。
「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」のアンバサダーの仕事も次々に入ってくるし、他の原稿もあるし…。
 なにはともあれ、花粉症を早く治し、体調をもとに戻さなくては。
 ああ、マスクとおさらばするのはいつのことになるやら…。



| クラシックを愛す | 22:29 | - | -
ロッテルダム・フィルハーモニー
 今日は、友人のKさんとサントリーホールにヤニック・ネゼ=セガン指揮ロッテルダム・フィルハーモニーのコンサートを聴きにいった。
 出張から戻って、初めてのコンサートである。
 プログラムは前半がヤン・リシエツキのピアノによるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。後半がラフマニノフの交響曲第2番。
 だが、ネゼ=セガンが体調を崩し、前半のコンチェルトは指揮者なしの演奏となった。リシエツキにプログラム用のインタビューをしたとき、マエストロとの共演を非常に楽しみにしていること、ふたりで曲目を決めたことなどを聞いていたため、その密度濃い音の対話を期待していたが、リハーサルでみっちり音楽を作り上げていたのだろう、指揮者が不在でもオーケストラとピアノとの雄弁な対話を聴くことができた。
 リシエツキは以前も書いたが、1995年ポーランド人の両親のもと、カナダに生まれた。飛び級をするほどの知性の持ち主で、ピアノも非常に知的で構成力に富み、なにより音の美しさが際立つ。
 決して鍵盤をたたかず、繊細で情感豊かでやわらかく歌う音色で、ベートーヴェンの美しい音楽を嬉々とした表情で紡いでいく。
 突然、指揮者なしの本番となったが、リシエツキは落ち着いて弾き降りをこなし、オーケストラとの相性のよさを示した。
 後半はネゼ=セガンが登場し、ロシア的な力強さとほの暗い空気がただよう旋律を高らかに歌い上げ、息が長くスケールの大きな起伏に富んだ作品の内奥に迫るべく、全身全霊を傾けて指揮に没頭。体調の悪さはみじんも感じさせなかったが、楽章の合間に水を口に含む様子が痛々しかった。
 なんでも、今朝突然体調が悪化し、吐き気を催したそうだ。疲れで胃腸がやられたのだろうか。
 今日は1月31日から始まったロッテルダム・フィルハーモニーの日本ツアーの最終日。もうひとりのソリスト、庄司紗矢香のコンサートは聴くことができなかったが、このオーケストラとネゼ=セガンのピタリと合った呼吸は存分に堪能することができ、今後の両者の活躍が楽しみとなった。
 しかし、まだ私の体調は本来の調子に戻らない。もう少しゆっくり睡眠をとることが必要なのかもしれない。
 連休明けにはまたスケジュールがびっしり入っている。なんとか明日までにはもとに戻さなくては…。
 Kさんが心配して、おいしいチョコでくるんだミニパームクーヘンをくださった。帰宅してから紅茶を入れ、スイーツをいただき、演奏を反芻した。
 Kさん、ごちそうさま。なんとか元気を取り戻します。
| クラシックを愛す | 22:52 | - | -
ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」取材
 19回目を迎えた今年の「ラ・フォル・ジュルネ」のテーマは、L'heure exquise(至福の時)。1850年から現在までのフランスとスペインの音楽を壮大なパノラマとして描き出すもので、ビゼーからブーレーズまで多彩な作曲家の作品が取り上げられ、とりわけ1870年代から1940年代までのフランス音楽史の黄金期といわれる時代の作品にスポットがあてられていた。
「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」でも同様だが、ナントも朝9時からコンサートがスタート、並行して複数の大中小のホールでコンサートが行われ、最終公演が開演するのは23時というものもあり、まさに一日中多数のコンサートが行われている。
 ホワイエでは無料コンサートも開かれ、連日何万人もの聴衆が会場に訪れ、押すな押すなの満員状態。
 私はコンサートを選び、会場に足を運び、いくつもはしごをして取材をし、その合間を縫ってインタビュー行い、たくさんのアーティストに会う。
 このインタビューはヤマハのWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」「婦人公論」「日経新聞」などに順次書いていこうと思う。
 また、記事掲載日が決まり次第、発表しま〜す。
「ラ・フォル・ジュルネ」はひとつのコンサートが45分から長くても60分ほどの時間枠ゆえ、次々に会場を移り、異なる演奏を聴いていくことが可能なのだが、さすがに夕方近くになると集中力が落ちてくる。
 クレール・デセールとエマニュエル・ストロッサーのピアノ・デュオによるフォーレ、ラヴェル、ビゼーを聴いて大人のピアノに酔いしれ、ジャン=ジャック・カントロフ指揮シンフォニア・ヴァルソヴィアのファリャを聴いてスペインへと心が飛翔し、モディリアニ弦楽四重奏団のサン=サーンスで音楽からさわやかなエネルギーをもらう。
 ミシェル・コルボ指揮ローザンヌ合唱団のフォーレとデュリュフレを聴いて、ぜひ今回のインタビューではデュリュフレについて質問しようと決め、フェイサル・カルイ指揮ラムルー管弦楽団のかろやかで躍動感あふれる演奏に触れ、マエストロの指揮姿に「ダンシングコンダクター(踊る指揮者)」と命名した。
 私がその官能的な音色に惚れているルノー・カプソンのヴァイオリン、実力派のピアニスト、ニコラ・アンゲリッシュ、モディリアニ弦楽四重奏団のアンサンブルによるショーソンは、もっとも印象に残った演奏のひとつといっても過言ではない。
 スペインのギタリスト、フアン・マニュエル・カニサレスのロドリーゴの「アランフェス協奏曲」は、フラメンコギターとクラシックギターが見事な融合をなしていたし、ポリス・ベレゾフスキーをはじめとする多くのアーティストによるサン=サーンスの「動物の謝肉祭」は、その場でイラストレーターが絵を描いていくというライヴならではの手法がとられていた。
 こうした音楽性と表現力と集中力に富んだ上質なコンサートが次々に行われるため、息をつく暇もないほど。
 また少しずつ詳細を書いていこうと思う。
 今日の写真は会場のシテ・デ・コングレ、町のなかに立っていた「ラ・フォル・ジュルネ」の看板、そして記念のラヴェルが貼られた白ワイン。








 

 
| クラシックを愛す | 23:32 | - | -
牛田智大リサイタル
 若いアーティストは、演奏を聴くたびに一気に上達し、階段を駆け上がっていくような勢いを感じさせる。
 今日のオペラシティ(アフタヌーン・コンサート・シリーズ)での牛田智大のリサイタルも、以前聴いた演奏とは異なり、大きな飛躍を感じさせた。
 プログラムは牛田くんの得意とする作品や録音した作品が選ばれていたが、何度か同じ作品を聴いている私は、テクニックと表現力が増したことに大きな感動を得た。
 とりわけすばらしかったのは、サン=サーンス/リストの「死の舞踏」と、リストの「ハンガリー狂詩曲第12番」。いずれも楽譜の読みが深く、細部まで神経が張り巡らされた演奏だった。
 この年齢でこうした作品の奥深さを表現するのは容易ではないと思うが、牛田くんはたゆみない努力と練習により、作品の内奥に迫るピアニズムを披露、大喝采を浴びた。
 彼はからだが少し大きくなったためか、ピアノの響きが断然深く大きくなり、打鍵の強さに変化が生じた。
 明日はインタビューをすることになっている。
 また近況をゆっくり聞こう。
| クラシックを愛す | 22:38 | - | -
走りつづけた1年
 仕事で走りつづけた2012年が今日で終わる。
 今年の冒頭は、お正月返上でいわゆる断捨離に取り組んだ。いまはやりの片づけ術の実践である。
 私の仕事はあらゆるところから資料が送られてくるため、日々それらがたまり、いつのまにか整理しきれない状況に陥る。
 こうなると、大切な資料がどこにあるのかわからなくなるため、いつもこれらと格闘している自分にほとほと嫌気がさしていた。
 そんな私の前に断捨離の本が現れ、一気に読破し、実行に移したというわけだ。断捨離はダラダラやっていてはダメ、余分なことを考えずに心を鬼にして捨てることに徹することと書いてあったため、それを素直に受け止めて行動に移した。
 その結果、3日間でゴミ袋の山ができ、部屋が多少なりともきれいになった。その後、資料の整理に移り、少しだけだが何がどこにあるのかわかりやすくなった。
 本には、「断捨離をすると、心が軽くなり、ストレスが軽減され、人生が好転する人が多い」と記されていた。
 これが実は本当だったんですよ。
 今年は前半から大きな仕事が次々と舞い込み、忙しいのに変わりはないのだが、自分が本当に書きたいものが書けるようになった。
 1年を振り返ると、いつもの年とはかなり精神的に異なり、なんでも前向きに対処することができたように思う。
 これは絶対に断捨離のおかげだと、私は信じて疑わない(笑)。
 余分な物を捨てる、これはことばでいうのは簡単だけど、実際にしてみると結構大変なことである。思い出の品やいつか使うだろうと思う物、まだ使えるのにもったいないと未練が残る物、一応とっておこうと思う物などにすっぱり別れを告げるのはとても勇気のいることだ。
 でも、本にはそれらはもう十分に人生で役立ってくれたわけだから、「ありがとう」といって別れを決意することが大切と書いてあった。
 これでとても気が楽になった。
 本当に必要な物というのは案外少ないものである。でも、なんとなく捨てられないということが往々にしてある。
 この1年でまたまたいろんな物が増えてしまった。また断捨離をしなくちゃ、と思っている。人生のぜい肉を落とすために(笑)。
 今年1年、ブログを読んでくださったみなさま、本当にありがとうございました。また、来年もどうぞ寄ってくださいね。それでは、どうぞよいお年をお迎えください。心からの感謝を込めて…。
| クラシックを愛す | 16:49 | - | -
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンのアンバサダー
 昨日は「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」の打ち合わせで、PR会社のかた、東京国際フォーラムのかたと表参道でランチをご一緒し、午後は単行本のプロモーションの一環で女性誌の編集のかたと打ち合わせをした。
 そして今日の午前中は、「国際音楽祭NIPPON」のプログラムの原稿の打ち合わせのために、音楽事務所に出かけた。
 これで今年の出かける仕事はすべて完了だ。
 ようやくアーティストレシピに集中できるゾ。というわけで、渋谷で買い物をし、帰宅後に時間のかかるレシピに挑戦。
 あとは6つを残すのみとなった。本当は年内にお料理と写真撮影を全部終わらせたかったのだが、どうも少しこぼれてしまいそう。
 まあ、お正月もまったくお休みをとることはできないから、もう腰を据えてやるっきゃない。仕事、仕事のお正月になるのは覚悟の上だから…。
 実は、れいの単行本は「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2013」の公式本となっていて、その関係で音楽祭のアンバサダーを仰せつかった。
 ナントとパリ出張はもとより、来年2月12日に東京国際フォーラムで行われる記者会見にも出席し、アーティスティック・ディレクターのルネ・マルタン氏と同席して檀上でトークを行うことになった。
 さて、どうなることやら…。
 このアンバサダーで思い出したが、私の大好きなテニスのロジャー・フェデラーが世界トップのシャンパンメゾン、モエ・エ・シャンドンの「ブランド・アンバサダー」に就任した。
「私たちのブランドの価値観―エレガンス、寛大であること、壮大さ、成功への祝福―を体現するアンバサダーとして彼ほどふさわしい人はいない」
 モエ・エ・シャンドンのステファン・バスキエラ社長兼CEOはこう語っている。
 今後はさまざまな広告キャンペーンにフェデラーが登場することになりそうだ。
 うーん、アンバサダーとはそういう役割なのね。まったく業種も立場も役割も異なるが、雑誌に紹介されていたフェデラーの記事はすごくためになった。
 さて、まったく異なる音楽祭のアンバサダーだが、これからいろんなことをすることになりそうだ。初めてのことも多いため、気を引き締めていかなくてはならない。
 来年の前半は、「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」関係のことでまたたくまに時間が過ぎていくに違いない。
 その前に、レシピ本を仕上げなくちゃ。さて、リストのチェックに戻ろうっと。
| クラシックを愛す | 22:07 | - | -
シマノフスキ 前奏曲
 今日はサントリーホールにクリスチャン・ツィメルマンのリサイタルを聴きにいった。
 実は、今回楽しみにしていた作品がある。ツィメルマンの祖国であるポーランドの作曲家、カロル・シマノフスキの「3つの前奏曲(9つの前奏曲作品1より)」だ。
 実は、明後日アップされるヤマハのWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」に書いているのだが、ツィメルマンは以前からこのシマノフスキの作品をリサイタルで演奏することを強く希望していた。
 近年になってようやくそれが実現の運びとなり、今後さまざまな機会にシマノフスキを弾いていきたいと語っていた。
 今日のリサイタルは、生誕150年のドビュッシー「版画」「前奏曲集第1集より」6曲が前半、後半にこのシマノフスキとブラームスのピアノ・ソナタ第2番が組まれた。
 シマノフスキが17歳のときに書いたといわれる初期を代表する前奏曲は、非常にロマンティックでショパンの影響が感じられ、しかもすこぶる流麗で民族色も豊か。ツィメルマンのクリアな音色と流れるような奏法がその美質を際立て、9曲全部を聴きたい欲求に駆られた。
 短調の曲が多く、全編にほの暗い情念を秘め、ときおりひらめきと輝きに富む旋律が顔をのぞかせる。
 ツィメルマンは、きっと今後も来日ごとにシマノフスキをプログラムに入れていくに違いない。ツィメルマンを敬愛しているブレハッチもシマノフスキを演奏したいと語っていたから、彼も機会があればプログラムに加えるのではないだろうか。
 あまり演奏される機会に恵まれない祖国の作曲家を世に紹介することに意義を見出しているツィメルマン。また次回を楽しみにしたい。
 
| クラシックを愛す | 22:50 | - | -
ピエール=ロラン・エマール
 今日は、トッパンホールにピエール=ロラン・エマールの《ル・プロジェ エマール》のプログラム兇鯆阿に行った。
 昨年11月に開催されたプロジェクトに続く第2弾で、今年はドビュッシーの前奏曲集が2日に分けて演奏され、21日はドビュッシーの前奏曲集第1巻にクルターク、シューマンが加わり、今日は同第2巻とアイヴスの「ピアノ・ソナタ第2番《マサチューセッツ州コンコード1840―60年》が演奏された。
 エマールのドビュッシーは、輪郭の非常に明確な奏法で、響きが幾重にも変容していく美しさが特徴。今日はペダルを踏む足がよく見えたため、絶妙のペダリングに目が奪われた。
 エマールはこの前奏曲集を得意としている。各々の曲が命を与えられたように生き生きと語り、歌い、情感豊かな響きを紡いでいく。全編に創意と知性が息づいているが、けっして作曲者の意図からは離れず、楽譜に忠実に内奥に迫る姿勢を崩さない。
 それは後半のアイヴスでも同様の解釈を見せ、4つの作品からなる連作をそれぞれの個性を重んじ、リズム表現に工夫を凝らし、楽器を豊かに鳴らして大きなコラージュのような味わいに仕上げた。
 この公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定である。
 実は、今夜は珍しい出会いがあった。20年以上前にヨーロッパの旅でご一緒した人に会場で会ったからだ。彼女は「伊熊さん、私を覚えていらっしゃるでしょうか」と話しかけてくれた。
 ずいぶん前のことなのに、自分でも驚いたが、私は彼女の顔を覚えていた。人間の記憶とは不思議なものだ。Oさんは、「ブログを読んでいます」といってくれた。
 こういう出会いは、本当に貴重だ。一気に何年間の空白が埋まる感じがする。
 エマールが引き合わせてくれたこの久々の出会い、名刺交換をして別れた。彼女は私がマツーエフのことをブログに書いたのをきっかけに、先日の彼のコンサートを聴きにいったとか。
 まさにこれこそが私の願いだ。ひとりでも多くの人に音楽を聴いてほしいと思っていろんな記事を書いているから。
 今夜は、コンサートの帰り道、ほんわか心が温かくなった気がした。
 
 
| クラシックを愛す | 22:49 | - | -
レオ・ヌッチ
 近ごろ、これだけ会場が湧いたコンサートはないのではないだろうか。
 今日は東京オペラシティにイタリアの名バリトン、レオ・ヌッチのデビュー45周年記念リサイタルを聴きに行った。2013年はヴェルディ生誕200年のメモリアルイヤーだが、この公演はプレイヤー企画として行われたもの。
 ヴェルディのオペラ・アリアはもちろんのこと、珍しい歌曲も加わり、さらにトスティも何曲か入ったプログラム。
 レオ・ヌッチはオープニングからすでに声が全開。ひとつひとつの役柄、曲の内容に合わせ、短い序奏の間にストンとその役になりきる。そして張りのあるドラマティックな低音を朗々と響かせ、こまやかな表現力で聴き手を酔わせていく。
 今回のバックを務めているのは、イタリアン・チェンバー・オペラ・クィンテット。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ハープという組み合わせで、本公演は昨年パルマで大成功を収めた記念リサイタルの再現となっている。
 1曲終わるごとに「ブラボー」の嵐だったが、曲が進むにつれて声の出がどんどん加速し、表現が鬼気迫るものになり、ひとり芝居のような様相を呈し、最後は「レオ・ヌッチ劇場」という感じ。
 アンコールを求める拍手喝采はいつまでも止まず、「ありがとうございます」と日本語であいさつし、「リゴレット?」とみんなに聞くと、大歓声のなか、またもやストンと役に入り、自家薬籠中の「リゴレット」の「悪魔め、鬼め」を歌い出した。各地で何百回も歌っているというこのアリアのなんとすばらしいことか。「リゴレット」はレオ・ヌッチ以外には歌えないのではないだろうかと思ってしまう。
 その後、何曲かアンコールに応え、「忘れな草」が登場すると、もうみんな拍手と叫び声が止まらない。するとヌッチは「オー・ソレ・ミオ」を笑顔で歌い始めた。そして「オー・ソレ・ミオ」の箇所を一緒に歌え歌えと聴衆に合図。みんな大声を張り上げて一緒に和し、会場は興奮のるつぼと化した。
 ヌッチは今年4月に70歳になった。しかし、声はまったく衰えず、成熟度と洞察力が増し、聴き手を圧倒的な感動へといざなう。
 今日は、日ごろの疲労がたまりにたまってコンサートに行くのもおっくうな感じだったが、ヌッチのすばらしい歌声に疲れが吹き飛び、帰り道はずっと「忘れな草」を口ずさみながら家まで元気にたどり着いた。
 やはり音楽は偉大である。疲労困憊していた私は、音楽に救われたのである。 今日、会場で知り合いの編集者に会ったのだが、「伊熊さん、ちっとも疲れているように見えないよ。なんか、すごく生き生きとしている」といわれた。あらら、不思議…。
 これが音楽の持つ力だと実感。というわけで、私は以前にも増してレオ・ヌッチが大好きになってしまった。またすぐに来日してほしいなあ。 
 
 
| クラシックを愛す | 23:22 | - | -
ワレリー・ゲルギエフ&ナタリー・デセイ
 昨夜は、サントリーホールで行われたワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団の来日公演を聴きに行った。
 演目は、ドニゼッティの歌劇「ランメルモールのルチア」のコンサート形式。ルチアをナタリー・デセイが歌うことで、ホールは満席。開演前から熱気がただよっていた。
 クラシックの音楽家は、「完璧主義者」と呼ばれる人が多い。そのなかで、ゲルギエフとデセイは抜きん出た存在。演奏の冒頭から最後の音が終わるまで、ピーンと張り詰めた緊迫感がただよい、並々ならぬ集中力が支配し、ひとつひとつの音が磨きに磨かれ、一瞬たりとも弛緩しない。
 ゲルギエフはオーケストラの細部までこまやかに目を配り、バランス感覚を大切に、歌手と合唱との融合を図っていく。
 コンサート形式だから舞台装置もなく、演技も行われないわけだが、だからこそ歌に集中でき、聴き手も次第に神経が研ぎ澄まされていく。
 デセイの表現力は身震いするほどで、鬼気迫る歌唱に圧倒された。彼女のコロラトゥーラの超絶技巧は、やはり「狂乱の場」で全面的に開花。正気を失いながら歓びと苦悩と恐怖の間をさまようルチアを、ひとり舞台のように歌い上げ、ときに叫び声を上げ、また泣き崩れ、嗚咽のなかから夢見るような表情を見せ、迫真の演技力と表現力で歌いきった。
 これが完璧主義者の歌なのだろう。ゲルギエフが高く評価するのも納得だ。両者の音楽に賭ける一途な思いがこの舞台に結集し、まさに心に残る名演を生み出した。
 2010年9月にサンクトペテルブルクで行われたゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団、デセイ主役のライヴ録音がリリース(キングインターナショナル)されているが、やはりここでも緊張感がみなぎっている様子が音から伝わってくる。
 ナタリー・デセイは来日ごとにすばらしい感銘を与えてくれるが、今回もまた彼女の完璧に磨き上げられた「ルチア」に胸が熱くなった。
| クラシックを愛す | 22:44 | - | -
ラドゥ・ルプー
 何年に一度か、感動の涙が胸を満たすという演奏に出合うことがある。
 昨夜のラドゥ・ルプーのピアノ・リサイタルがまさにそれだった。以前にも書いたが、ルプーは2010年に来日したものの、京都公演の後、体調を崩して急きょ帰国せざるをえなくなった。
 それゆえ、多くのファンがすぐにでも来日してくれるのを首を長くして待っていた。
 私も長年待ち続けたひとりである。
 この日のプログラムはオール・シューベルト。まず、「16のドイツ舞曲」から始まった。シンプルで素朴で、ときに即興的な色合いを見せるこの作品をルプーはゆったりとしたテンポで訥々と表現。いずれの曲もリズムを微妙に変化させ、ピュアな舞曲らしさを前面に押し出した。
 次いで登場したのは、私が愛してやまない即興曲集作品142。4曲とも、ルプーならではのリリカルな演奏で、次第に胸がいっぱいになり、涙がこぼれそうになった。
 この夜は、多くのアーティストが会場に姿を見せていた。小菅優に会ったので、「すばらしいわね、もう泣きたくなっちゃった」といったら、彼女もまったく同感だといっていた。
 後半はピアノ・ソナタ第21番。このシューベルト最後のソナタは、ロマン豊かな深い詩情に彩られた作品で、さまざまな素材が自由にかろやかに、また深みを伴って展開されていく。ルプーの真骨頂ともいうべき演奏で、しっとりとしたリリシズムが全編にただよい、一瞬たりとも弛緩することなく、デリカシーとエレガンスに富む奏法がシューベルトの歌心を美しく表現していた。
 このソナタは55分ほどかかる大作。ルプーの上半身はその間、微動だにしない。美しい姿勢を保ちながら、しなやかな腕と手と指のコントロールで、生き生きとした音楽を紡ぎ出していく。ただし、その奥には、シューベルトの晩年の作とひとりじっくりと対峙するルプー特有の静謐で孤独な世界が存在していた。ステージで演奏しているという感じではなく、孤高の世界でモノローグを表出している雰囲気に満ちていたからだ。
 なんとすばらしい時間だろうか。至福のときはあっというまに過ぎていってしまうが、心に深く刻まれた感銘は、褪せることはない。
 帰路に着く途中、音がずっと頭のなかで鳴っていて、私はなんだかどこを歩いてどう帰ったのかわからないほどボーッとしていた。
 すばらしい演奏は、聴き手を異次元の世界へと運んでくれる。私はまだその世界にずっといるような感覚から抜け出せない。
 
| クラシックを愛す | 14:33 | - | -
ダン・タイ・ソン
 昨夜は、すみだトリフォニーホールで行われているダン・タイ・ソンの「ロシア・ピアニズムの継承者たち 第7回 ベートーヴェン/ピアノ協奏曲全曲演奏会」の第1夜を聴きに出かけた。
 プログラムは第1番、第2番、第3番。2日目が第4番、第5番「皇帝」となっている。
 ダン・タイ・ソンはベートーヴェンのピアノ協奏曲を各地で何度も演奏しているが、全曲演奏は初めての挑戦。以前それについてインタビューしたところ、目を輝かせて雄弁に語ってくれた。
「昔はからだが細く、大きな作品を弾くことに苦労しましたが、いまは体重が増え、ピアノに向かう姿勢も改良され、ロシア作品やベートーヴェンを弾くことが可能になりました」
 彼はモスクワ音楽院でウラディーミル・ナタンソンに師事し、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの基礎をじっくりと伝授されている。ナタンソンは生前、「私の夢は、きみがベートーヴェンだけのプログラムで演奏会を開けるようになることなんだよ」といっていたという。
「ですから今回、ピアノ協奏曲全曲演奏のオファーをいただいたとき、とても驚き、次第にそれが喜びに変わり、ナタンソン先生へのオマージュになると思ったのです。私にとって、このベートーヴェンは、特別な意味を持っています」
 そのことば通り、第1番から第3番まで、ダン・タイ・ソンは特有の静けさとおだやかさを感じさせる美音を遺憾なく発揮し、作品全体を俯瞰する目を備え、ときにロマン豊かに、またあるときは陰りや苦悩をにじませ、躍動感と清涼感をちりばめ、作曲家に敬意を表す演奏を展開した。
 特に各曲の緩除楽章が印象的で、目の前に美しい自然が広がるような、えもいわれぬ美しい情景を描き出した。
「ベートーヴェンの緩除楽章は天上の音楽です。まるでコラールのように感じられます。ここでは音色の変化、ペダリングの工夫、フレーズのとらえかた、主題の歌わせかたなど、さまざまな面に繊細な神経を張り巡らさねばなりません」
 だが、ダン・タイ・ソンのベートーヴェンは、全体の構成は確固たるものがあり、全体が一本芯の通った表現で有機的に結びついていた。
「これらの作品は、マラソンのようです。決して短距離走ではないですね。ベートーヴェンの作品は体力、気力、意識がしっかりしていないと、最後まで聴衆の心を引き付けながら進むことはできません。決して寄り道せずに、目的に向かって一心に進むべき作品だと思います」
 彼はナタンソンの後、ウラディーミル・バシュキーロフに師事してロシア・ピアニズムの真髄を学んだ。それがいま大きな成果を示している。
「バシュキーロフ先生からは、からだ作りも教えてもらいました。ベートーヴェンのピアノ協奏曲を5曲演奏するためには、体幹がしっかりしていないと弾けません。いまはそれができましたので、安定した姿勢で弾くことができます」
 ダン・タイ・ソンの演奏は、聴くたびに成熟度が増し、磨き抜かれた音色が心に沁み入り、感動が新たになる。
 彼は常に挑戦したいと語っているが、さて、次はどんな挑戦を見せてくれるのだろうか。心が浄化するような昨日のベートーヴェンは、いまなお胸の奥で静かな歌を歌い続けている。 
| クラシックを愛す | 14:57 | - | -
マウリツィオ・ポリーニ
 昨夜は、サントリーホールで行われている「マウリツィオ・ポリーニ ポリーニ・パースホペクティヴ2012」のリサイタルを聴きに行った。
 今回のプロジェクトは、10月23日から11月14日まで全6公演が組まれ、ベートーヴェンと現代の作品を組み合わせて演奏するもの。作曲家たちに新作を委嘱し、ベートーヴェンのピアノ・ソナタと一緒にプログラムに組むというコンセプトに基づいている。
 ベートーヴェンのピアノ・ソナタは第21番から第32番までが選ばれ、各日に何曲か順番に沿って演奏される。
 作曲家は、イタリアのジャコモ・マンゾーニ(1932〜)、ドイツのカールハインツ・シュトックハウゼン(1928〜2007)、ドイツのヘルムート・ラッヘルマン(1935〜)、イタリアのサルヴァトーレ・シャリーノ(1947〜)の作品が組まれている。
 昨夜は、前半がシュトックハウゼンの「ピアノ曲察(1954)と「ピアノ曲宗(1954/61)。ポリーニは音色をこまやかに変化させながら、ペダル用法も微妙に変容させ、すべての音に色彩感を持たせ、点描画のような音の世界を描き出していった。
 次いでベートーヴェンの第24番「テレーゼ」、第25番が情感豊かに明快なタッチで演奏され、後半への期待へとつなげた。
 後半はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第26番「告別」から開始。ルドルフ大公との別離が作品の背景にあるとされるこの作品を、ポリーニは力強い主題の提示、おだやかな表情、かろやかで生き生きとしたテンポと楽章によって明確な表現変化を示し、一気に弾ききった。
 最後のピアノ・ソナタ第27番は、ポリーニならではのロマン主義的様式の探求が隅々まで感じられ、濃厚な色彩を紡ぎ出す演奏となった。
 鳴りやまぬ拍手に応え、アンコールは「6つのバガテル」から2曲。
 帰路に着く途中、私はポリーニの初来日公演(1974年)を聴いたときの、胸の高まりが止まらなかったことを思い出していた。
 あれから長年ポリーニを聴き続けているが、彼の演奏の基本姿勢はまったく変わらない。ただし、「コンピューターのように精確」といわれた演奏は徐々に人間味豊かなピアニズムへと変貌し、今回はよりヒューマンな演奏に感じられた。
 この公演評は次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定になっている。
 ずっと家にこもって書く作業に追われていたため、昨夜は本当に久しぶりのコンサートだった。それがポリーニで、しかも彼の得意とするベートーヴェン。やはりナマの音楽に勝るものはない、と実感。その感動はいまなお続いている。
 
| クラシックを愛す | 22:44 | - | -
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ
 最近、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏や全曲録音を行うピアニストが増えている。
 ベートーヴェンは生涯に32曲のピアノ・ソナタを残した。これらはピアニストにとってJ.S.バッハの作品と同様バイブルと呼ばれるもので、多くのピアニストが演奏家生命を賭けてリサイタルやレコーディングに臨む。ピアニストにとってベートーヴェンに取り組む時期はかなり異なるものの、ライフワークとなることには相違ない。それほどこれらのソナタは奥が深い。
 ベートーヴェンの活躍した18世紀末から19世紀前半は、ピアノという楽器が表現能力を大きく変遷させていった時期である。ベートーヴェンは生涯にまったく種類の違い楽器を少なくとも5台は使い分けたといわれるが、それが作品に如実に現れ、最晩年のソナタには超低音が登場する。これなど楽器の発達抜きには考えられない。
 ベートーヴェンの作品を演奏するとき、こうした時代の流れも念頭に置いて考えなければならない。初期の作品にはまだチェンバロやクラヴィコード的なかろやかなタッチを必要とするフレーズが顔をのぞかせているからだ。
 毎月、ベートーヴェンの新録音がいくつかリリースされるごとに、この作曲家の偉大さを改めて知る思いにとらわれる。それぞれの演奏が非常に異なった解釈、表現、奏法を備え、個性的な演奏となっているからである。
 こうした多彩な解釈と表現が可能だからこそ、バイブルとして愛され続けているんでしょうね。
 さて、また新譜を聴き、月末のCD評を書く音源を選ぶとしましょうか。
| クラシックを愛す | 22:04 | - | -
アンドレイ・ニコルスキー
 先日、あるピアニストとの話のなかでエリーザベト王妃国際コンクールのことが話題となり、急にアンドレイ・ニコルスキーのことを思い出してしまった。
 私がニコルスキーの演奏を初めて聴いたのは、1987年にブリュッセルで行われた第25回エリーザベト・コンクールのときのこと。このとき彼は最初から本命視されていたが、本選で圧倒的な迫力に富むラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏し、優勝を勝ち取った。
 当時、27歳。決して早すぎる栄冠ではなかった。24歳のときに旧ソ連からドイツに亡命し、苦労したのちに手にした優勝だった。一夜明けた翌朝のインタビューでは、こんなことばを残している。
「いままでどんなに働きかけてもだれも振り向いてくれなかったのに、第1位になった途端、世界中からコンサートの依頼やレコーディングの電話がじゃんじゃんかかってくる。ぼく自身はちっとも変わっていないのに、この反応の変化にはびっくり。人生って不思議なものだよね。ここでいい気になったらおしまいだと、いまは自分を落ち着かせるのに精いっぱいなんだ」
 ニコルスキーは複雑な表情を隠さなかった。彼はコンクールで演奏した各々の曲目の自己評価をこまかく語ってくれたが、それによるともっとも納得いく演奏ができたのは本選のコンチェルトで、もう一度弾き直したいほどだというのは、同じく本選で弾いたショパンの「舟歌」だった。
 ニコルスキーは大変な汗かきである。それがステージ衣裳にも表れ、タキシードや燕尾服などは大嫌い。できる限り涼しく演奏しやすいものということで、コンクールでも黒のワイシャツというかドレスシャツ1枚といういでたちで現れた。これは賛否両論の的となったが、本人は涼しい顔。
 このようになにごともマイペースで、性格的には一途で妥協を知らない。真っ正直に自分の意見をいい、おせじや立ち回りがうまくないため、周囲の人々と常に争いが絶えなかった。
 ピアニストは体力が一番とばかりにからだを鍛え、ジム通いや泳ぎを欠かさない。それがそのまま演奏に反映され、弱音も決してヤワではなく、音楽が一本筋の通った強さを見せていた。
 だからだろうか、この人の演奏は初めは平常心で聴いていても、徐々にその強靭さに引きつけられていき、最後はその熱気にからだじゅうが満たされていることに気づく。
 そんなニコルスキーの突然の訃報が入ったのは、1995年2月3日。ベルギーに住んでいた彼が交通事故で亡くなったというニュースが飛び込んできた。
 この日、ニコルスキーは仕事の打ち合わせで秘書の家に立ち寄り、深夜になって山道をクルマで走っていたときに、急に目の前に小さな動物が現れ、それをよけるためにハンドルを切りそこねて崖下に転落。即死だったそうだ。享年35。1時間以上経過しても自宅に戻らない彼を心配し、家族が捜索願いを出して事故が判明した。
 このときの最新情報としては、ロシアで指揮の勉強をしていて、近々サンクト・ペテルブルクで指揮者デビューをすることになっていたとか。その矢先の事故だった。
 個性的なマスクをした寡黙なタイプの彼は、日本での人気は決して高くなかったが、こういう人は40歳すぎて真の実力で勝負に出たときに評価が定まるのではないだろうか、とひそかに思っていただけに残念でたまらない。
 いまでも、あのコンクール時の熱い演奏は胸の奥に確固とした形でいすわっている。
| クラシックを愛す | 22:35 | - | -
ニコライ・ホジャイノフ
 今日は、CDのプロモーションのために来日をしているニコライ・ホジャイノフのインタビューに出かけた。これは「日経新聞」などに書くつもりである。
 以前、デビューCD「マイ・フェイヴァリッツ」がリリースされる前に彼と話したときは、直後にダブリン国際ピアノ・コンクールとシドニー国際コンクールに参加するといっていたが、ダブリンで見事優勝を成し遂げ、シドニーでも第2位入賞を果たした。
 その話題から入ると、ダブリンの話は審査委員長のオコーナーと話したことなど、ほんの少しだったが、シドニーのほうは宿泊先から練習場の話、開会式からコンクール終了まで、実にさまざまな試練に遭遇したそうで、それに私が興味を示したためか、この話が延々と続いた。
 ホジャイノフは、もともとあまりインタビューが得意ではない。話す表情もクールだ。
 ところが自分が気に入る話題になると、笑顔を絶やさず、ジョークも飛び出し、一気に雄弁になる。
 このギャップが本当におもしろい。顔の表情がガラリと変わるのである。
 彼は幼いころから自分の目指す方向というものをしっかり把握し、それに向かってひたすら努力し、自己の可能性を追求してきた。
 話を聞いていると、あまりにも小さいときから思慮深く、大人顔負けの理性を備え、本なども年齢を超えたものを読んでいることに驚く。
 CDに収録しているような、ベートーヴェンやシューベルトの晩年の作品に無性に惹きつけられるそうで、それは人生の奥深さを知らされるからだという。その話題も得意なようで、舌はなめらかになる。
 来週の15日にはまたもう1本インタビューを行う予定になっているため(ヤマハのWEB「ピアニストラウンジ」)、今回と内容が重ならないようにしなくてはならない。
 そのインタビューが終わってすぐ、以前書いたようにヤマハホールでのイヴェントが始まる。公開インタビュアーを務めるため、しっかり準備をしなくては。
 今日の写真はインタビュー後のひとこま。話がはずんでいたときは笑っていたけど、写真を撮るとなると、やっぱりクールよね(笑)。


 
| クラシックを愛す | 23:53 | - | -
アルトゥーロ・トスカニーニ
 アルトゥーロ・トスカニーニが残した映像で彼の指揮法を見ていると、現在の指揮者のルーツのような振りかたをしていることに気づく。
 タクトのこまかい運び、左手の使いかた、からだ全体でのリズムの刻みかた、微妙な顔の表情でオーケストラに自分の意図しているところを伝えるなど、そのすべての動きが指揮の原点のように思えるのだ。
 若手指揮者にトスカニーニをどう思うかと尋ねると、みんな一様に「すばらしい指揮者だと思う。大先輩として尊敬している」という答えが戻ってくるが、しかしそれに続けて必ず「でも、まねはしたくない」と付け加える。それだけ彼らにとって気になる存在だということなのだろう。
 トスカニーニの指揮はCDで聴いてもそのエネルギーの爆発に驚かされるが、それを映像で見ると疲れを知らないパワフルな指揮姿に「一体この収録は何歳のときなのだろう」と疑問を抱いてしまうほどだ。
 トスカニーニは大変長生きした人で、1867年イタリアのパルマで生まれ、1957年ニューヨークで没している。90歳を目前にして亡くなったわけだ。亡くなる3年前まで超人的な活動を続けた彼だが、コンサートのみならず多くの録音を残している。
 彼が自らのオーケストラ、NBC交響楽団を指揮しての1948年から1952年までの貴重な映像では、得意のヴェルディのオペラ「アイーダ」から、名演と名高いレスピーギの「ローマの松」まで多彩なレパートリーを披露。コンサートの風景を映し出した映像はともすれば単調になりがちだが、トスカニーニの場合はモノクロの映画を見ているような感覚が味わえる。威厳に満ちた風貌のトスカニーニが、楽譜に忠実に正攻法で演奏する。ただこれだけなのだが…。
 彼はニコリともしないし、踊るような楽しい指揮姿を見せるわけでもない。楽章の合間にほとばしる汗を拭き、ただひたすら指揮に没頭する。ベートーヴェンの第9やオペラの合唱部分ではのってきて一緒に歌っている。
 しかし、これとても楽しそうに歌っているわけではない。かみつかんばかりの表情だ。最近ではオーケストラと仲間意識を持って協調を図りながら指揮する人が多くなった。トスカニーニの絶対君主的な統率力が妙になつかしい。
| クラシックを愛す | 22:47 | - | -
新譜、新譜、新譜…
 毎月、この時期になると各社から一斉に新譜が送られてくる。再発もあり、輸入盤もある。
 どれから聴こうか、なんて悠長なことはいっていられない。とにかく時間の許す限り、片っぱしから聴いていく。
 そしてこれとこれは音楽専門誌の新譜評に、こっちは新聞のNEW DISKのコーナーに、これは女性誌のエッセイに、そしてこれはWEBの記事用にと、それぞれ選んでいく。
 以前は出張に出かけるときも、電車のなかでも聴くようにしていたが、どうしても集中できないため、家でじっくり聴くことに絞った。
 ただし、これは時間との勝負だ。自宅では原稿を書くことがどうしても優先されるため、新譜を聴く時間は限られる。いかに時間をひねり出すか。これがいつもこの時期、私に課せられた大きな問題となる。
 でも、今月は聴きたいものが多い。こういうときは大変だけど、心は燃える。さて、次はどれを聴こうかと、気持ちははやるばかり。
 新人ピアニストの意欲的な録音も多いし、ベテラン指揮者のオペラやオーケストラ作品も聴き逃せない。
 そうこうしているうちに、リマスタリングされた往年の巨匠たちの名盤がドーンと届いた。これまたじっくり聴き込んで書かなくては。
 さて、1日の時間は24時間しかない。それをどう配分するか。これが毎月巡ってくる私の定番となりつつある問題。
 ああだこうだいっていないで、まずは聴きますか(笑)。すばらしい演奏が目の前にあるのだから。
 それに加え、いよいよクラシック・シーズンの幕開けだ。秋は来日アーティストが多く、数々のコンベンションやイベントも目白押し。さてと、本当に気を引き締めてかからないと、この時期を乗り越えることはできないゾ。
 
 
 
| クラシックを愛す | 22:40 | - | -
ラドゥ・ルプー
 今月発売の「音楽の友」に、「いまイチオシのピアニスト」を何人かの評論家やジャーナリストが書くというページが登場する。
 私は、ラドゥ・ルプーを選んだ。長年、彼の演奏を聴いていないため、切望しているからだ。ヨーロッパのコンサートの絶賛された批評を読むたびに、静かな歓喜とでもいおうか、人々の深い感動が伝わってくる。
 現在は録音も放送収録もいっさいやめ、コンサートだけにしぼっているというから、ホールに足を運ぶ以外、演奏に接する機会はない。
 2010年には9年ぶりの日本ツアーが予定されていたが、初日公演直後に急病で帰国してしまい、非常に残念な思いをした。
 そのルプーが11月に来日し、8日と13日に東京オペラシティコンサートホールでシューベルトをメインにしたリサイタルを開く。いまから胸がドキドキするような思いだ。
 ルプーの演奏では、1994年に来日したときのことがいまだ忘れられない。すばらしく心に響く演奏だったからである。
 聴衆をまったく意識しないでピアノを弾くということははたして可能なのだろうか。やたらに客席ばかり意識して演奏する人には首をひねるが、ルプーのように楽器に向かうと何も目に入らないという人も、およそ人間ワザとは思えず不思議な感覚を抱く。
 演奏家はよく、演奏が始まると別世界に入ってしまうから他のことは見えないというけど、ルプーほどの没頭型も珍しい。
 ラドゥ・ルプーは1945年ルーマニア生まれ。「千人にひとりのリリシスト」と呼ばれ、情緒豊かで繊細なその演奏は、シューベルトやブラームスなどで真価を発揮してきた。彼は音楽以外では決して自己主張をしない。インタビューはもってのほか、音楽観を語ることには意義を見出さない。だから、常に素顔は謎に包まれている。
 相当の気難し屋のようだが、演奏はこのうえないロマンにあふれている。7度目の来日にあたる1994年の11月の日本公演では、ドイツ音楽のほかバルトークをじっくりと聴かせた。これがとてもロマンティックで、土の匂いのする民族的なバルトークではなく、リリックで香り豊かな舞曲に仕上がっていた。
 これほど美しい響きを生み出すルプーはいったいどんな性格の持ち主なのだろうか。インタビューできないとなると、なお興味がそそられる。
 彼はアンコールでもシューベルトやベートーヴェンの小品をかろやかに弾き、曲のなかで音楽に対する気持ちを明確に表現していた。9年ぶりに録音したシューベルトのピアノ・ソナタでも作曲家の歌心をあくまでも清らかに再現していたが、演奏を聴く限りこんなロマンティストはいないのではないかと思ってしまう。
 彼の場合は録音よりもナマのほうが数段響きが強い。決して打鍵は強くないのだが、響きが遠くまで静かに浸透する。それは絶妙のペダリングに秘密がありそうだ。このへんのこと、本当は質問して聞きたいんだけどな。
 取材は無理だから、演奏だけでがまんしなければならない。きっと11月の来日公演も、また私の心をとりこにしてくれるに違いない。
 今日の写真はその演奏会のチラシ。以前は、修行僧か哲学者のような風貌だと思ったが、今回もそれに拍車がかかっているのではないだろうか。

| クラシックを愛す | 22:57 | - | -
クリムト 接吻
 先日、出版社の単行本の担当のかたと打ち合わせをした。
 彼女は、つい先ごろウィーン出張から戻ったばかり。そのお土産に、クリムトの代表作「接吻」の絵が描かれた紅茶缶をいただいた。
 なんでも、空き時間にベルヴェデーレ宮殿でこのクリムトの絵を見たとか。ウワーっ、うらやましい。私もぜひ見たいのに…。
 今年はクリムトの生誕150年のメモリアルイヤー。ウィーンでは、10の博物館・美術館で特別展覧会が開催されている。
 ふだんはなかなか見られないクリムトの作品。ウィーンに行くなら今年ですよね、絶対。
 でも、行かれるわけはないし。いただいた紅茶の缶をながめて、がまんするっきゃないな。
 でも、この缶、本当に素敵。「DEMMERS TEEHAUS」と書いてある。紅茶を飲んでから仕事机の上に置いて、ステーショナリーを入れるのにピッタリだ。毎日ながめられるし。
 クリムトの生きた時代、ウィーンではマーラーをはじめとする音楽家や建築家、画家、文学者たちが個性的な作品を発表し、文化・芸術が百花繚乱のときを迎えていた。この絵をながめていると、その馨しい香りがただよってくる感じがする。
 Oさん、ありがとう。しばし、夢見心地の時間を過ごすことができました。というわけで、紅茶を早速いただきまーす。

| クラシックを愛す | 21:48 | - | -
ジネット・ヌヴー
 最近は歴史的な名演でも、非常に安い価格で販売され、手に入れやすくなっている。
 今日は、フランスの天才女流ヴァイオリニストのジネット・ヌヴーの名盤とされるブラームスとシベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いた。EMIからリリースされた999円の限定盤で、最新マスター音源使用というディスク。録音はブラームスが1945年、シベリウスが1946年である。
 ジネット・ヌヴーは1919年パリ生まれ。幼いころから非凡な才能を発揮し、7歳でブルッフのコンチェルトを弾いてデビューした。
 11歳でパリ音楽院に入学し、その後カール・フレッシュに師事。15歳のときにワルシャワで開かれたヴィエニャフスキ国際コンクールで優勝。このときの第2位は27歳のダヴィド・オイストラフだったというから、その才能には計り知れないものがある。
 以後、ピアニストの兄ジャンとともに世界中をツアーして回り、録音もいくつか残している。
 そんな彼女は1949年10月、5度目のアメリカ公演に行く途中、搭乗した飛行機がアゾレス諸島の山に激突し、兄とともに帰らぬ人となった。
 30歳の短い生涯のなかで、ヌヴーの残した録音はいくつかあるが、なかでもこのブラームスとシベリウスのコンチェルトは永遠不滅の魅力をたたえている。
 もえたぎるような情熱、深々と歌う詩情あふれる旋律、陰影に富んだ濃厚な表現、凛とした音色、突進するようなはげしいリズム、何もかも類まれなる才能を示している。
 もちろん音質は現在のクリアなものとは異なるが、音楽の奥にヌヴーの熱きパッションが潜み、はるかなるときを超えて聴き手に作品のすばらしさを訴えかけてくる。
 以前、庄司紗矢香がこのLPをパリで見つけ、「私の宝物」だといっていたのを思い出す。
 彼女はヌヴーに関してこう語っていた。
「LPで聴くと、ヌヴーのいろんなことを超越した精神性の高さが音の向こうに見えるのです。音楽は日常から解放されて高いところへと連れていってくれるものだと思いますが、ヌヴーの演奏はまさしくそれです。私もいつもそうした高みに自分も上り、聴いてくださるかたもそうした場所にいくことができる演奏をしたいと願っています」
 庄司紗矢香のことば通り、ヌヴーのブラームスとシベリウスは別世界へと運んでくれる。彼女がもっと長く生きてくれたら、20世紀のヴァイオリンの世界が大きく変わっていたかもしれない。
 でも、彼女はこんなにもすばらしい録音を残してくれた。このことに感謝すべきだと思う。
 今日の写真はそのCDのジャケット。何度も繰り返して聴きたい、名盤である。

| クラシックを愛す | 22:35 | - | -
牛田智大
 今日は、東京オペラシティコンサートホールに牛田智大のデビュー・リサイタルを聴きにいった。
 この演奏会用プログラムの原稿も書いたため、早めに出かけ、関係者とさまざまな話をした。
 それによると、まだ12歳ゆえ演奏は1時間と限られ、終演後のCDのサイン会もできないそうだ。
 プログラムはデビューCDに収録された作品に加え、グラナドスの「アンダルーサ」、プーランクの「愛の小径」、中国作品の汪立三の組曲「東山魁夷画意」より第4曲「涛声」が加えられた。
 牛田智大はトークを交え、曲の解説なども話し、とても落ち着いたステージマナーで演奏に臨んだ。
 いずれの曲もみずみずしく生命力あふれる演奏で、情感の豊かさが印象に残った。コンクールなどで慣れているとはいえ、ホールを埋め尽くした聴衆の心を即座につかむ術はとても12歳とは思えない。ステージでの存在感というのも、大きな才能のひとつなのだろう。
 アンコールでは、東海テレビ・フジテレビ系全国ネット昼ドラ「ぼくの夏休み」のメインテーマ、10月から国立新美術館で開催される「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝」展の公式テーマ曲「遥かなる時をこえて」(作曲/牛田智大)を演奏。そして最後にショパンの「小犬のワルツ」が披露されたが、フィナーレではキメのポーズも出て、笑いと喝采に包まれた。
 今日の写真は終演後の楽屋でのひとこま。いつも笑顔がキュート。今週は、また取材で会う予定になっている。話を聞くのも楽しみだ。
 彼は特に作曲家や作品の話題になると、一気に口調がなめらかになる。さて、そこをじっくり聞こうかな。



 
| クラシックを愛す | 23:24 | - | -
打ち合わせ
 今日は女性誌の特集の打ち合わせのために六本木に行き、担当の編集のかたとPR会社のかたとランチをご一緒した。
 話題はヨーロッパの夏の音楽祭やアーティストに関すること、作曲家のメモリアルイヤーまでさまざまなことが登場、有意義な時間を過ごすことができた。
 編集のかたには初めてお会いしたのだが、彼女は私が「ぴあ」に長年連載をしていたころから記事を読んでくださっていたそうで、感動してしまった。
 そして、「現在もいろんなところで記事を読んでいます」といっていただき、感謝するとともに責任も感じた。
 原稿を書くということは、自分の知らないところで記事がひとり歩きしていることを意味する。
 よく、初対面の人に名刺を出してあいさつすると、「いつも記事を読んでいますから、初めてお会いする気がしません」といわれるが、私はその人とは本当に初めて会うわけで、不思議な感覚を抱く。
 これからも気を引き締めて仕事をしないといけないな、と今日はつくづく感じた。
 最近は人に会うと、必ずといっていいほど「ブログ、毎日楽しみにしていますよ」「朝一番、まず読むのが習慣になっています」などといわれる。
 うーん、これもプレッシャーじゃ。だって、そんなに毎日みんなが喜んでくれることが書けるわけではないし、話題性のあることばかり起きるとは限らないし。
 でも、話題を探すことも楽しみのひとつと考えなくちゃね。なんたって、ネアカだもーん(笑)。
 
 
 
 
 
| クラシックを愛す | 22:56 | - | -
ルドルフ・ブッフビンダー
 昨夜は、台風のなか、ブッフビンダーのコンチェルトを聴きにすみだトリフォニーホールに行った。
 プログラムはブラームスのピアノ協奏曲2曲だが、彼の希望で前半が第2番、後半が第1番という順番だった。
 ルディさまはインタビューでも語っていたが、各地でこの2曲をひと晩で演奏するスタイルをとっていて、必ず第2番を先に演奏するそうだ。
 それは第2番は非常にデリケートで、第1番は劇的で重厚な作品ゆえ、この順番が適しているからだそうだ。
 まさに、聴き手もこの順番で聴くのが実に自然だった。ルディさまはリサイタルのときとはまた異なった深々とした重厚な打鍵と、絶妙のペダリングを駆使し、スケールの大きなブラームスを生み出した。緩除楽章では繊細さと詩的な雰囲気と、ときにブラームスの歌曲にも通じる静謐な甘美さとでもいおうか、心に響く温かさを醸し出していた。
 しかし、どんなに弱音になっても、オーケストラの響きに決して埋没することがない。芯の強い強靭な個性に裏付けられた音質は、まったく揺るがないのである。浸透力の強い音がビシーっと響いてくる。
 彼は「私は完璧主義者でね」と語っていた。その完璧さを追求し、ブラームスの作品ならではの深遠さと雄々しさ、北国の空気を思わせるほの暗い響きがひとつひとつの磨き抜かれた音色から発せられ、かの地に運ばれていくような感覚を抱いた。
 この公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定である。
 コンサートが終了して会場を出た途端、猛烈な風雨に見舞われ、友人のKさんと私は傘がまったく役に立たない状況。駅まで必死で歩くうちに全身びしょぬれ。靴のなかまで雨が入り込み、Kさんはメガネまでぬれてしまった。
 深遠なブラームスのあとの暴風雨。からだはびしょびしょだったが、家にたどり着くまで、私の心のなかはブッフビンダーの伝統的な奏法による、完璧に鍛え上げられた奏法が渦巻き、微動だにしない美しい姿勢も脳裏に焼きつき、ほんわか幸せな気分だった。
 でも、さすがに帰路に着く間にもっともっとぬれて、家の玄関に入った途端、全身から水がしたたり落ちた。でも、家に着いた5分後から猛烈な風が吹き、その前になんとか無事にたどり着いただけラッキーだったかも…。いろいろな意味で、この夜のブラームスは忘れられない思い出となりそうだ。
 
| クラシックを愛す | 23:28 | - | -
ルドルフ・ブッフビンダー
 今日は、すみだトリフォニーホールにルドルフ・ブッフビンダーのリサイタルを聴きに行った。
 前半はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」と同第23番。後半はシューマンの「交響的練習曲」。 
 冒頭から、ブッフビンダーならではの正統的で自然で、「あるベきところに音がある」という、まさに本物の音楽が披露された。
 チェコに生まれ、1歳でウィーンに移り、いまや伝統的なウィーンのスタイルを継承する実力派ピアニストとして国際的に高い評価を得ているブッフビンダー。芯が揺るがぬ圧倒的なピアニズムは、聴き込むほどに胸の奥にじわじわと感動が押し寄せてくるもの。
 2010年4月の来日公演も、洞察力の深さと説得力の強い演奏にひれ伏したい気持ちになったが、今回も演奏の記憶はずっと脳裏から消えないと思う。
 このコンサート評は次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定になっている。もちろん、19日のコンチェルトも含めて…。
 彼は以前もベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア」の後に場の空気を一変するような、J.シュトラウス2世の「ウィーンの夜会」をアンコールで演奏し、緊迫感をやわらげてホール全体をなごませたが、今回のアンコールも絶品だった。
 シューベルトの「即興曲」D.899第2番と、J.シュトラウス/グリュンフェルトの「こうもり」などのワルツの主題による演奏会パラフレーズを演奏。聴衆の心をウィーンの温かな雰囲気に包み込んだ。
 なんと粋で真摯でユーモアあふれる精神の持ち主なのだろう。
 月曜日にはインタビューを行う予定。実は、彼に会うのは初めてである。素顔はどんな人だろうか。きっと、その日もまだ演奏の感動が心に残っているはず。その勢いでインタビューに突っ走ろうかな(笑)。
| クラシックを愛す | 23:55 | - | -
ローエングリン
 今日は新国立劇場にワーグナーの「ローエングリン」を聴きにいった。先日インタビューしたクラウス・フロリアン・フォークトがタイトルロールを歌っているからだ。
 まず、シンプルでありながら、光を駆使した舞台装置の美しさに目を見張った。舞台後方に何十個もの四角状のオブジェが設置され、その内部に設置された照明機材が光り、シーンによって、アリアによって幾重にも色合いを変化させていく。あたかも主人公たちの内面を映し出していくように、こまやかに表情を変えていくのである。
 衣裳も非常に独創的で、近代的でありながら、オペラの内容に即したものだった。
 今回の出演者はみな歌唱力、表現力、演技力が見事で、アリアもアンサンブルも緊張感がみなぎり、一瞬たりとも弛緩するところがなく集中力をもって聴くことができたため、あっというまに時間が過ぎていった。
 ただし、40分の休憩を2回はさみ、約5時間という長丁場だった。
 もちろん、フォークトのローエングリンは圧巻。録音で聴く歌声よりも、ナマのほうがよりかろやかで柔軟性に満ちた高音が際立つ。音程の確かさと歌詞の発音の明瞭さが冒頭から強烈な印象で迫ってきた。
 さらに音の浸透力の強さが大きな武器で、どんなにオーケストラが強音で鳴っていても、重唱で他の歌手たちが一緒に歌っていても、フォークトの音だけが確固たる響きと主張をもって聴こえてくるのである。その声は決して大音量ではなく、威圧的でもなく、完璧にコントロールされた自然な美しさ。だが、いつまでも心の奥に歌声が残る、強烈な個性に裏付けられている。
 オペラ歌手には一種のオーラが必要だと思うが、フォークトが舞台に存在しているだけで、そこだけが輝かしい光を発しているように思える。もちろん照明の工夫、白っぽい衣裳も関係しているが、まさに神から遣わされたローエングリンならではの聖なるオーラが放たれていた。
 彼はインタビューで「チームプレイが好き」と語っていたが、終演後のステージ上のあいさつに出てきたとき、真っ先にプロンプターのところに走っていって握手をしていた。私の席からプロンプターの手だけが見え、にんまりと笑ってしまった。
 こんなに心が高揚するワーグナー作品を聴いたのは、実に久しぶりのことである。以前、ヘルマン・プライをはじめとする名歌手たちが総出演した、バイエルン国立歌劇場の来日公演「マイスタージンガー」以来かもしれない。
 フォークトを聴く、それは新しいワーグナー体験をすること。まだナマの歌声を聴いていない人は、ぜひこの稀有なヘルデン・テノールを聴いてほしい。きっとワーグナーの偉大さが理解でき、より多くの作品を聴きたいと願う気持ちが湧いてくると思うから。
 ちなみに、まだ「ローエングリン」は13日と16日の公演が残っている。フォークトは、「毎回、歌うたびに異なる感情が湧き、歌いかたが変わる。それがオペラの醍醐味だと思う」といっていた。あと2回、どんなローエングリンが披露されるだろうか…。
| クラシックを愛す | 23:05 | - | -
パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団
 昨夜は、サントリーホールにパーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団のコンサートを聴きに行った。
 ヤルヴィは2004年からドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団の芸術監督を務め、パリ管弦楽団の音楽監督としては2期目に入り、2006年からはフランクフルト放送交響楽団の音楽監督も務めている。
 その他、客演指揮者としての活動も多く、超多忙な指揮者である。
 しかし、いつ聴いても、どんなオーケストラとの演奏でも、エネルギー全開、そのオーケストラの特質を存分に生かした響きを導き出す。
 昨夜のプログラムは、前半がピアノのアリス=紗良・オットをソリスト迎えたリストのピアノ協奏曲第1番。後半がマーラーの交響曲第5番だった。
 このマーラーがすさまじいまでの迫力で、マーラーが作品に託した新機軸をドラマティックに情感豊かにパワフルに表現、第1楽章から最終楽章まで一瞬たりとも弛緩せずに、緊迫感あふれる演奏を聴かせた。
 とりわけ金管楽器群が炸裂。ときに咆哮し、またあるときは慟哭し、嬉々とした表情も見せ、弦楽器との濃密な対話を繰り広げていく。
 しかし、有名な第4楽章の「アダージェット」では、ハープと弦楽が天上の美しさを披露し、ゆったりとしたテンポの透明感に満ちた歌謡的主題を存分に堪能させてくれた。
 フィナーレのはなやかなクライマックスはホール全体を熱くし、弦楽器群はうねりのような音楽を発し、管楽器は野性的な音色をとどろかせた。
 そして最後の音が終わるやいなや、「ブラボー」の叫び声と嵐のような喝采が起こり、拍手はいつまでもやまなかった。
 ヤルヴィはいま乗りに乗っている指揮者。2013年は、パリ管弦楽団、ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団との来日が予定されている。また新たな一面を見せてくれるに違いない。
 こういう演奏を聴くと、妙にのどの渇きを覚える。聴きながら興奮するからだろうか。いつもはあまりビールを飲まない私なのに、帰宅してからすぐに生ビールを飲んでしまった。パーヴォの熱気が乗り移ったかな(笑)。
 
 
| クラシックを愛す | 21:48 | - | -
単行本の打ち合わせ
 先日以来、頭がいっぱいになっている単行本の打ち合わせに出版社に行ってきた。
 編集担当のかたとプロデュースをしてくれたかたと、3人で具体的な内容、進めかたをじっくりと話し合い、最終的に今年12月出版、原稿締め切りは10月末ということに決まった。
 その前に私は調べたいことがあるので、パリに行こうと思っている。それに関しても、いまは雑誌とのタイアップが計画されているため、それ次第ではその取材で自分が調べたいところ、まわりたいところの企画を出す必要がある。
 ただし、これはまだ時間がかかりそうだ。相手次第の要素が多いから。
 こういう場合は、まず自分ができるところから始めるのが一番だ。
 この日の打ち合わせで感じたことだが、いろんな話が次から次へと出てくるなかで、最後はふたりとも「伊熊さんが一番好きな形で、自由に書いてくれればいい」「あなたがもっとも書きやすい方法で、肩の力を抜いて、読みやすい本を書いてくれればいいんだから」と、すべてを任せてくれたのが印象に残った。
 でも、すべてを任されるというのはすごくうれしい反面、大きな責任を伴う。はてさて、どうしたものかと悩みつつ、私のいつもの性格が顔を出し、「エーイッ、ここまできたら、もうやるっきゃない」と開き直ってきた。
 これから5カ月、休み返上、夏休みもどこかに飛んでいき、ついでに暑さも忘れ、ひたすら集中しよう。
 なあんて考えている矢先、ローランギャロスのフェデラーが今日は2回戦だ。さて、応援しなくちゃ。やっぱり、まだ集中度、低いなあ(笑)。
 
 
 
| クラシックを愛す | 22:34 | - | -
チャイコフスキー国際コンクール優勝者ガラ・コンサート
 昨日はサントリーホールに「第14回チャイコフスキー国際コンクール優勝者ガラ・コンサート」を聴きにいった。
 23日に行われたリサイタルに続く、コンチェルトの夕べで、まずヴァイオリンのセルゲイ・ドガージンがモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番を流麗な響きで聴かせた。
 次いで、チェロのナレク・アフナジャリャンがドヴォルザークのチェロ協奏曲を深々とした味わいで披露。
 後半はピアノのダニール・トリフォノフがショパンのピアノ協奏曲第1番を自信をみなぎらせて演奏した。
 昨年もコンクール直後にこのガラ・コンサートは行われたが、特にアフナジャリャンとトリフォノフの成長が際立った。ふたりとも昨年よりも格別に表現力が増し、作品の内奥に迫り、自身の歌を奏でていたからである。
 この公演評は次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定になっている。
 会場でまたもや親しい友人のKさんに会い、話に花が咲いた。彼女は、私の「美味なるダイアリー」の「レタスと山芋のシンプル・サラダ」を気に入ってくれ、ほとんど毎日作っているとか。なんでも、おいしいかつお節を求めて日本橋まで出かけたという。すごいことだ。ここまで気に入ってくれるとは…。今後は、もっと気を引き締めてこのブログを書かないといかんな(笑)。
 彼女は、ご自宅の近くのおしゃれなフランス菓子店のおいしいオレンジケーキをもってきてくれた。「おいしいサラダおしえてくれたから、お土産ね」といって。ウワーッ、余計にレシピ、頑張らなくちゃ。
 Kさんは、いつもとってもおいしい物をもってきてくれる。このケーキも、自然でおだやかな味の逸品。ごちそうさまでした!!
 さて、いよいよゴールデンウィークに突入。世間はお休みだけど、私は原稿がたまっているし、「ラ・フォル・ジュルネ」のインタビューやコンサートに行く予定になっているし、まったくお休みなし。
 まあ、電話もメールもこないから静かだけどね。と思ったら、「音楽の友」の編集長から電話がかかってきて、明日の朝一番で急きょウィーン少年合唱団のインタビューをすることになった。それも次の日の午前中までに原稿をアップしなければならないんだって。ヒエーッ、どうしてこうなるの?
 やっぱり、私にはゴールデンウィークの休暇は縁がないのね。ムムム。
| クラシックを愛す | 22:35 | - | -
ニコライ・ホジャイノフ
 今春、2010年のショパン国際ピアノ・コンクールの入賞者やファイナリストが次々に来日している。
 今日は、コンクールのファイナリストのひとり、1992年ロシア生まれのニコライ・ホジャイノフのリサイタルを聴きに、武蔵野市民文化会館にいった。
 彼は予選では若々しいエネルギーに満ちあふれたピアノを披露したが、本選のコンチェルトで経験不足が顔を出してしまい、残念ながら入賞を逃した。
 だが、クリアで迷いのない生き生きとした音色は特筆すべきで、ふわふわとした金髪の巻き毛に色白の肌が印象深く、会場では人気も高かった。
 今日は、前半がベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番、ラフマニノフの練習曲集「音の絵」作品33より第6曲、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番というハードなプログラム。後半はショパンの「ボレロ」ハ長調、バラード第2番に続いてシューベルトの「さすらい人幻想曲」と、重量級の作品が組まれた。
 ショパン・コンクールから1年半、先日のヴンダーでも感じたことだが、若きピアニストは一気に階段を駆け上がるように実力を伸ばしていく。
 ホジャイノフも、コンクール時には緊張感が痛いほど伝わってきたが、今回はゆとりすら感じさせ、いずれの作品も楽しそうに弾いているのが印象的だった。
 しかし、なんといっても手の内に入っているのはショパンの「ボレロ」。水を得た魚のように自由に、開放感をもって奏で、まるでひとつひとつのリズムが天空に飛翔していくようなかろやかさを発していた。
 アンコールもまたすさまじい。ほんのちょっと短い曲を弾くのは好みではないようで、まず、リストの「メフィスト・ワルツ」第1番を超絶技巧をものともしないテクニックで演奏。鳴りやまぬ拍手に応えて、次はドビュッシーの「前奏曲集」より「花火」を音の色彩感を重視して華やかに展開。さらにリスト作ブゾーニ編による「フィガロ・ファンタジー」をドラマティックにダイナミックに、疾走するようなスピードで弾き進め、やんやの喝采を受けた。
 ひとつ、今日は大きな発見があった。コンクールのときは会場が大きくステージまである一定の距離があるため、ペダルまでよく見えなかったが、武蔵野市民文化会館の小ホールはステージまで非常に近いため、ペダリングがよく観察できた。彼のペダリングはとても自然で理にかなっており、踏み込みも適切で、ペダルから足を放すときが絶妙。音は決して濁らず、豊かな音色の変化をもたらす。
 来週はホジャイノフのインタビューが決まっている。その前に、彼は日本でレコーディングを行う予定(ビクター)。インタビューでは、その録音が終わったばかりのホットな感想が聞けそうだ。
 今日の写真はリサイタルのプログラムの表紙。すました表情をしているけど、演奏が終わって拍手に応えるときは、はにかんだような笑顔を見せ、それがとても愛らしい。インタビュー後には、ぜひいい表情の写真を撮りたい。もちろん、インタビューの内容が重要だけどね(笑)。


 
| クラシックを愛す | 00:10 | - | -
インゴルフ・ヴンダー
 若い才能が一気に空に駆け上がっていく様子はこれまで何度も目にしてきたが、2010年のショパン国際ピアノ・コンクール第2位に輝いたウィーン出身のインゴルフ・ヴンダーもそんなひとり。
 今日は紀尾井ホールで行われた彼の初リサイタルを聴きにいった。
 前半はモーツァルトのピアノ・ソナタ第13番、リストの超絶技巧練習曲より「夕べの調べ」、「死のチャルダーシュ」という、いまヴンダーがもっとも弾きたい作品が組まれ、後半はショパンのピアノ・ソナタ第3番と「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」という代名詞的な作品が並んだ。
 ショパン・コンクールからはや1年半が経過。ガラ・コンサートで来日したころはまだ多忙ぶりに「自分を見失いそうだ」と語っていたが、今日の演奏を聴く限り、すっかり落ち着きを取り戻したようで、本来のヴンダーらしい安定したピアニズムが印象に残った。
 彼はコンクール時からずっと燕尾服を着用。現在では若手ピアニストはコンチェルトでも結構ラフな服装を好む。だが、ヴンダーは演奏も往年の名手を思わせるような古典的な奏法で、伝統にのっとったピアノを奏でる。
 こういう人は燕尾服がピッタリ。いまの若手ピアニストで、こんなにも燕尾服を自然な形で着こなせる人はいないのではないだろうか。若いころからずっと燕尾服を着ているピアニストといえば、ポリーニとツィメルマンだ。インゴルフ、演奏も彼らに続けー!!
 この公演評は次号の「公明新聞」に書くことになっている。
 ウィーン出身者らしく、モーツァルトはとても華麗で躍動感に満ち、リズムがからだの奥に入り込んでいる感じだった。そしてリストは超絶技巧を得意とするヴンダーの独壇場。しかも終始、情感豊かに旋律を響かせた。
 ショパンになると、もうこれらは着慣れた上着を身につけたような自然体の演奏。コンクール時よりも数段成熟し、ヴィルトゥオーソ的でもあり、ピアノ好きをうならせるほどの創造性に富んでいた。
 そしてアンコールがまた実に創意工夫に満ちたものだった。まず、ホロヴィッツの「風変りな踊り」、次いでスクリャービンの「エチュード 作品8-12」、最後にモシュコフスキーの「火花」。いずれも自身の心の歌をうたうように、また、ディナーのあとのデザートを聴衆にプレゼントするように、本人が楽しみながら演奏。胸が幸せ色でいっぱいになった。
 終演後、私の大好きな友人のKさんに会った。彼女は「あなたはまだ若いからそうは思わないでしょうけど、私はこういう演奏を聴くと、ああ、生きていてよかったと思うのよ」と感動的なことばを聞かせてくれた。
 明日は、「音楽の友」のためのヴンダーのインタビューが行われる。インタビューが終わったら、Kさんのことばをヴンダーにぜひ伝えたい。どんな顔をするだろうか…。
| クラシックを愛す | 23:12 | - | -
ポール・ルイス
 今夜は、2011年4月から2年越しで行われているポール・ルイスのシューベルト・チクルスの第4回を王子ホールに聴きにいった。
 プログラムは、シューベルトが友人たちとともに開いていた、シューベルティアーデと呼ばれていた仲間の集いで演奏されていた作品が主で、「16のドイツ舞曲と2つのエコセーズ」作品33からスタート。
 多種多様な舞曲が登場する作品を、ルイスは親密的な響きで弾き始めた。やがてその音楽は素朴さ、明朗さ、はつらつとした表情、憂愁を帯びた雰囲気、無言歌風の様相などさまざまな表現に姿を変え、ほとんどが1分たらずのドイツ舞曲16曲、エコセーズ2曲を歌曲を奏でるように演奏していった。
 続く「アレグレット」ハ短調は、あまり演奏する機会に恵まれない作品。ルイスはこうした作品をリサイタルのなかに組み込み、シューベルトの小品の意義を問い正すように細部まで神経を張り巡らし、柔和な旋律をていねいに表現した。
 前半の最後は「さすらい人幻想曲」の約3カ月後に書かれたピアノ・ソナタ第14番。ルイスは柔和なコラール風の旋律や3連音のリズムを際立たせたが、とりわけ印象的だったのは終楽章の変形ロンド形式の力強い奏法。
 ルイスのシリーズは第1回からずっと聴き続けているが、回を重ねるごとに主張が強くアグレッシブになり、迫力が増してきた。
 それは後半の35分以上も続く大作、ピアノ・ソナタ第16番で強く感じるところとなった。このソナタは主題や変奏、リズム変化、構成などにシューベルトの新たな面が打ち出されている。
 ここでは美しい緩除楽章がルイスの心の歌のように奏でられ、ひときわインパクトが強かった。本当に彼のシューベルトは徐々に説得力を増し、自分の音楽に迷いがないという姿勢を示している。
 次回は2013年2月2日、最終回である。最後のピアノ・ソナタ第19番、第20番、第21番の3曲が予定されている。きっとシリーズを締めくくる、ポール・ルイスの全身全霊を傾けた、入魂のピアニズムが披露されるに違いない。
| クラシックを愛す | 22:50 | - | -
ネマニャ・ラドゥロヴィチ
 コンサートに行くと、ホールの入口で今後の演奏会のチラシの入った袋が配られている。これはその日の楽器の種類や演目に関連したものが選ばれて入っていることが多く、人々は演奏が始まる前にこれらのチラシに目を通す。
「さて、次はどんなコンサートに行こうか」
「ああ、このアーティストが来日するのか」
「半年後にこの人が演奏する。すぐにチケットの手配をしなくちゃ」
 聴衆は、それぞれの好みでじっくり見るチラシというものが決まってくるようだ。パッパと飛ばしてしまうチラシもたくさんある。周りの反応を見ていると、いつもいろんなことを考えさせられる。
 実は、私の仕事のなかに、このチラシの裏の推薦文を書くというものがある。そのアーティストをずっと聴き続け、演奏のすばらしさを熟知し、キャラクターもよく知っているという人のチラシがほとんどで、音楽事務所から演奏会のかなり前に依頼が入る。
 これは責任を伴う仕事で、チラシの原稿を読んだ人が、そのアーティストのコンサートに行きたいという気持ちになってくれなければ意味がない。かといって、やたらにほめることは避けたい。そんな文章はしらけるだけだから。
 大体、原稿は600字から800字程度。その短いなかで、そのアーティストの演奏の魅力、今回のプログラムの聴きどころ、初めてその人の演奏を聴きに行く人のために人間性にも触れなくてはならない。
 いつも原稿を書く前に録音を聴き直したり、以前のインタビュー時のことを思い出したり、実際に聴いた演奏を反芻したりしながら、自分のなかに文章が湧いてくるのを待つ。そして出だしが決まると、一気に書き進める。
 今日は、11月に来日するセルビア出身の若き個性派ヴァイオリニスト、ネマニャ・ラドゥロヴィチのチラシが出来上がり、音楽事務所から送付されてきた。
 今回は、「ときに悪魔的に、あるときは天使のように、ネマニャの弦は変幻自在に表情を変え、聴き手の心を酔わせる」というタイトルにしてみた。
 プログラムはJ.S.バッハとイザイの無伴奏ヴァイオリン作品のみで構成され、彼は大好きなふたりの作曲家のソロ作品で勝負する。1985年生まれのネマニャ、これからいかようにも音楽が変容する、限りない可能性を秘めた人である。
 これが届いてチラシ裏をながめていたら、他の音楽事務所から同じく11月にリサイタルを行うピアニスト、アリス=紗良・オットのチラシ原稿の依頼が入ってきた。
 さて、今度はアリスに集中して内容を詰め、なんとかいい文章が書けるようにしなくては…。
 今日の写真はネマニャのチラシの表。以前、彼のヘアスタイルに関するエピソードにはちょっと触れたけど、やっぱり迫力ある髪型だよねえ(笑)。

| クラシックを愛す | 22:36 | - | -
マーティン・ヘルムヘン、ヴェロニカ・エーベルレ、石坂団十郎
 今日はトッパンホールで行われたマーティン・ヘルムヘン(ピアノ)、ヴェロニカ・エーベルレ(ヴァイオリン)、石坂団十郎(チェロ)のトリオの演奏会を聴きに行った。
 ヘルムヘンは初来日のときからずっと聴き続けているピアニストで、柔軟性を備えた音の美しさと情感豊かな表現に魅了されている。
 彼は2001年のクララ・ハスキル国際コンクールの優勝者。このコンクールの歴代の優勝者は大音響とは無縁で、しかもテクニック優先ではなく、作品の内奥にひたすら迫っていくタイプが多い。そして叙情的な演奏を得意とし、音が美しく、派手なパフォーマンスを苦手とし、滋味豊かな音楽を聴かせる。クリストフ・エッシェンバッハ、リチャード・グード、ミシェル・ダルベルト、ティル・フェルナー、河村尚子ら、みなある種の共通点がある。
 ヘルムヘンの今夜の演奏も、まさにしなやかでかろやかでリリカルなピアニズムが前面に現れたものだった。プログラムはハイドンのピアノ三重奏曲ハ長調Hob.XV-27からスタート。これはピアノが主体となった作品。ヘルムヘンは健康的で明朗なハイドンを聴かせ、エーベルレは若々しい熱気をみなぎらせ、石坂団十郎はどっしりと構えて通奏低音の役割に徹した。
 続くブラームスのピアノ三重奏曲第3番は、若きブラームスのみずみずしい息吹が感じられる作品。3人は終始エネルギッシュに、ブラームスならではの寂寥感をスパイス的に用いながら、ドラマティックに旋律を歌わせていく。
 そして後半は、シューベルトの40分余りの長大なピアノ三重奏曲第1番。最晩年に書かれた大作で、4楽章構成。各々の楽器に多種多様な表現を課し、技巧的にも難しく、精神性の高い音楽となっている。
 しかし、こうした作品こそ、このドイツ出身の若きトリオの実力の見せどころである。彼らは長い作品を一瞬たりとも弛緩せず、緊迫感あふれる演奏を行い、しかもシューベルトの歌心を存分に表現した。
 よく、ピアニストに話を聞くと、室内楽を演奏するのは本当に楽しいという。ピアニストはふだんひとりで演奏することが多く、ツアーでもひとり。孤独な職業だといわれる。それが音楽的にも人間的にも合う仲間を得て室内楽を演奏すると、一気に精神が解放されるのだそうだ。
 今日も、弦楽器ふたりはもちろんのこと、ヘルムヘンがいつものピアノ・リサイタルのときとは別人のように心が高揚している感じだった。演奏も躍動感ある明快な響きが印象的で、いかに彼がアンサンブルを楽しんでいるかが伝わってきた。
 私も室内楽をこよなく愛す。若き実力派のトリオは、あたかも桜が美しい花を精一杯咲かせて見上げる人に幸せを与えてくれるのと同様、春の宵をロマン豊かな演奏で美しく彩り、聴き手の心をほんのりした温かさで包み込んだ。
 今日の写真はコンサートのチラシ。次はこのホールでぜひベートーヴェンを聴きたい。

| クラシックを愛す | 23:38 | - | -
久元祐子
 3月16日から4月8日まで、「東京・春・音楽祭」が上野で開催されている。これは「春が訪れ、桜が開いて、音楽が始まる、上野の森に」というキャッチのつけられた音楽祭で、東京文化会館、上野学園石橋メモリアルホール、旧東京音楽学校奏楽堂、国立科学博物館、東京国立博物館、東京都美術館、国立西洋美術館、上野の森美術館、水上音楽堂を会場としている。
 昨年はプレイエルの楽器について原稿を書き、今年はエラールに関しての原稿がプログラムに掲載されたため、今日は国立科学博物館の日本館講堂で行われた久元祐子のピアノによるミュージアム・コンサート「名器エラールで聴くピアノ名曲選」を聴きにいった。
 上野駅に着くと、行楽客や観光客、音楽祭のお客さんなどでおおにぎわい。演奏会場も満杯の聴衆で、14時開演という時間帯にもかかわらず、幅広い客層の人々が集まっている。
 久元祐子の演奏は、1845年製のエラールの楽器のよさを存分に生かした奏法で、会場のノスタルジックな雰囲気とピタリとマッチ。現代のピアノとは音響も音質も異なり、残響は少なく、ペダリングも難しそうだ。
 しかし、こうした古い時代の楽器を自らも所有し、長年さまざまな楽器を弾き込んでいる彼女は、あたかもショパンやリストやシューマンの時代を蘇らせるように、自然なタッチで演奏。前半はベートーヴェンからスタートし、やがてリストやショパンへと移り、トークをまじえて作品をわかりやすく紹介、ときにユーモアやウイットを交え、聴き手の心をなごませた。
 今日の日中は珍しく温かい日差しが降り注ぎ、上野の森も春の香りに包まれた。こんな日に、伝統を感じさせる古雅なピアノの響きに触れ、とても幸せな気分に包まれた。
 終演後に久元さんに会ったら、彼女はプレイエルやベーゼンドルファーの歴史的な名器をもっていると語っていた。また、その貴重な響きをまた聴きに出かけたいと強く感じた。なぜなら今日の演奏は、作品が生まれた時代へと私の心を飛翔させてくれたからである。このエラールはダンパーも響板もすべての部品がオリジナルで、その時代の音そのものを保持しているそうだ。コレクターのかたが大切に保存しているのだろう。
 今日の写真はそのエラールと、終演後の久元祐子。彼女は今日のエラールを「宝石のような輝き」と語っていたが、まさにその通り。
 この音楽祭は4月もまだいくつか聴きに出かけ、そのレポートは5月発売の「音楽の友」に書く予定になっている。またすばらしい音楽との出合いがあるのでは、と胸が高鳴る思い。



| クラシックを愛す | 23:28 | - | -
グリーグのピアノ・ソナタ
 先日、デニス・マツーエフのインタビューの様子を綴ったが、そのときにレパートリーの話になり、彼が話したことでとても印象に残ったことがある。
 というのは、マツーエフはあまり知られていない作品や、いい作品なのになぜか埋もれてしまっているものに光を当てることに意義を見出しているそうだ。
 日本にくる前にニューヨークのカーネギー・ホールで弾いてきたのが、グリーグのピアノ・ソナタで、実はこの曲が大好きなんだという。
「ぼくは12歳のときにグリーグのピアノ・ソナタと出合い、弾き始めたんだけど、すばらしい作品だと思う。でも、このソナタはあまりステージで取り上げられない。なぜなんだろう。不思議だよねえ、こんなに美しくて多種多様なものが込められている曲なのに…」
 こういってマツーエフはいかにこの作品がすばらしいかを力説した。そしてこう付け加えた。
「この前、ユーチューブでグリーグ自身が1902年に演奏している映像を見つけ、大発見したとひとりで大騒ぎしてしまった。かなりヴィルトゥオーゾなスタイルで弾いていて、とても感動的だったし、演奏する際にすごく役立つ。より一層、このソナタが好きになったよ」
 
 ここで、以前書いた単行本「グリーグを愛す」のピアノ・ソナタ ホ短調 作品7の項を記してみたい。

 グリーグはピアノ・ソナタを1曲しか残していない。これはピアノ協奏曲と同様、20代の若いころの作品である。1865年に初稿が書き上げられ、1887年に改訂稿が完成した。
 1862年にライプツィヒでの留学を終えてコペンハーゲンに戻ったグリーグは、そこで情熱的なノルウェーの青年作曲家ノールロークに出会う。彼の影響からノルウェーの国民主義を目指すようになったグリーグは、翌年と翌々年にコペンハーゲンの北部の田園地帯ルンステッドに滞在し、やがて1865年になってこの土地でピアノ・ソナタを書き上げる。作曲は一気に進められたようで、詳しい日付は不明だが、季節は6月後半、作曲に要した期間はわずか11日間という記録が残されている。
 第1楽章 ソナタ形式とはいうものの、かなり自由な扱いを見せる。ホ短調で提示される第1主題はすぐにト長調の第2主題に変わり、力強い展開部へと発展していく。再現部では両主題とも前と同じ調で現れ、やがて第1主題に基づく力強いコーダで締めくくられる。
 第2楽章 おだやかで美しい歌謡的な楽章。グリーグらしさが満ちあふれているような美しいハ長調の主題が奏でられ、副主題が登場した後に分散和音がffで演奏され、やがて静かに曲は閉じられる。
 第3楽章 第1楽章の最初の主題がこのメヌエットに登場する。トリオはホ長調に変わり、最後に再びホ短調のメヌエットが再現される。
 第4楽章 短い序奏の後、リズミカルな第1主題が提示され、これがハ長調の第2主題に転じる。コーダはプレストのテンポで力強いフィナーレとなる。

 私もこのピアノ・ソナタは大好きである。ぜひ、一度聴いてほしい。本当にマツーエフがいうように、なぜ演奏される機会に恵まれないのか不思議だ。
| クラシックを愛す | 22:41 | - | -
ヤクブ・フルシャ&プラハ・フィル
 今日は大震災から1年。各地でさまざまなコンサートが行われ、音楽の力で人々を勇気づけようと、多くの演奏家が力を尽くした。
 私が聴いたのは1981年チェコ生まれの指揮者、ヤクブ・フルシャが音楽監督を務めるプラハ・フィルハーモニー管弦楽団のコンサート。フルシャはいま大きな注目を集めている指揮者で、昨年のグラモフォン誌において「巨匠となる可能性の高い10人の若手指揮者」のひとりに選ばれた逸材だ。
 2010年には「プラハの春」音楽祭の65周年記念のオープニングの指揮を任され、スメタナの「わが祖国」を振って国際的な注目を集めた。
 今日は、まず冒頭に被災地に対する思いを込めたフルシャのメッセージが語られ、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の第2楽章が奏された。そして演奏後にはしばらく黙祷の時間が設けられた。
 プログラムはドヴォルザークの「セレナード」から開始、次いで三浦文彰のソロによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が登場した。三浦文彰はウィーン留学からかなり時間が経過したためか、演奏は自信に満ちたもので、彼の特徴である流麗な美音と芯の強さを感じさせる前向きな演奏にはなおいっそう磨きがかかり、説得力が増した。
 後半はドヴォルザークの交響曲第8番。このオーケストラは正団員が50名で、95パーセントがチェコ人。室内楽的な響きを特徴としている。
 演奏は、まさにひとつひとつの楽器の音が明確に聴こえてくる緻密さと密度濃いアンサンブルが印象的で、弦はまろやかではつらつとし、管は深々とした味わいを醸し出し、音楽全体が健康的で斬新で明快だ。
 フルシャの指揮はエネルギッシュで躍動感にあふれ、しかも正統的で簡潔でリーダーシップに富む。若き巨匠の道をまっしぐらに進んでいる勢いを感じさせ、この人には何かあるという未知なる可能性も示唆した。
 終演後、三浦文彰に話を聞くと、マエストロとは最初にプラハで共演し、今回のツアーでは福岡公演に次いで今日が2度目とのこと。「すばらしい指揮者です」と目を輝かせていた。
 今日のコンサートは最初のメッセージや「新世界より」がプラスされたため3時間におよび、その間フルシャの集中力は一瞬たりとも途切れることがなかった。そして三浦文彰の演奏を讃え、包容している姿がとても温かい感じで、こちらの心もほんのりと温かくなった。
 ただし、演奏があまりにもすばらしかったため、ブログ用の写真を撮るのをすっかり忘れて楽屋を出てしまった。失敗失敗。できることだったら、三浦文彰とマエストロの並んだ姿を撮りたかったのに、ああ残念。私って、本当に器用じゃないよね。ひとつのことに集中すると、あとのことはどこかにいってしまうんだから(笑)。こういうことは、しょっちゅうある。ホント、器用じゃないワ。
| クラシックを愛す | 22:39 | - | -
樫本大進&コンスタンチン・リフシッツ
 昨夜は、樫本大進とコンスタンチン・リフシッツのベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲チクルスの第2回をサントリーホールに聴きにいった。
 このシリーズに関しては、大進に何度かインタビューを行い、作品に対する思い、リフシッツとの共演について、またプログラムの組み立てかたなどを聞き、さまざまなところで記事を展開してきた。
 昨夜は前半に第2番と第6番を、後半に第7番と第8番をもってきた。
 よく、「地位が人を作る」というが、まさにこのリサイタルでそのことばを実感した。大進の演奏はデビュー当初から聴き続け、人間的な成長とともに演奏が大きな変貌を遂げたと感じていたが、昨夜の演奏は、ベルリン・フィルのコンサートマスターとして日々緊張と責任と多大なる集中力のなかで演奏している成果が存分に発揮されたものだった。
 以前にくらべ、音楽全体に余裕が生まれ、音色が自由自在に変化し、ベートーヴェンの作品に対する洞察力が増し、自信がみなぎっていた。
 ここにリフシッツの真に天才的な自由闊達なピアノが加わると、えもいわれぬ味わい深いベートーヴェンが生まれる。
 大進はいつもおごらず、和を大切に、主張すべきところはきちんと主張するが、相手を気遣い、その一方でリーダーシップを発揮する。
 彼は、ベルリン・フィルのコンサートマスターに内定した段階では、口では気にしていない、なるようになるといっていたが、この時期はかなりストレスがたまっていたと思う。
 それがコンサートマスターに正式に就任してからは、もちろん重責だが、リラックスした表情を見せるようになった。
 こんなにも偉大な地位に就いたことが人間を変え、演奏を変えたことに驚いた。必死で弾いている感じはまったくなく、盟友とのデュオを心から楽しみ、ベートーヴェンに身も心も捧げていたため、私たち聴き手も作品のすばらしさに酔うことができた。
 次回は2013年1、2月の予定。またひとまわり大きくなった樫本大進に会えるに違いない。
なお、リフシッツは3月15日に紀尾井ホールでJ.S.バッハの「フーガの技法」でリサイタルを行う。これはバッハの絶筆となった未完の大作。どんな楽器で演奏されるべきか、どのような順序で配列すべきか、またどのような形にしたかったのかなど、謎の多い作品である。
 彼はすでに録音もリリースしているが、この大作にリフシッツがどう挑むのか、ナマを聴くのが非常に楽しみ。バッハを深く愛している彼ならではの宇宙が形成されるのではないだろうか。
| クラシックを愛す | 22:14 | - | -
南西ドイツ放送交響楽団バーデン=バーデン&フライブルク
 毎年この時期になると、「東芝グランドコンサート」の日本ツアーが開催される。2012年のオーケストラは、1946年に設立された南西ドイツ放送交響楽団バーデン=バーデン&フライブルクで、指揮は2011年9月に首席指揮者に就任した、1971年フランス生まれのフランソワ=グザヴィエ・ロト。
 毎年このプログラムの原稿にかかわっているため、今夜は前半が萩原麻未のソロによるラヴェルのピアノ協奏曲、後半はマーラーの交響曲第5番というプログラムを聴きに出かけた。
 萩原麻未は、2010年11月のジュネーヴ国際コンクールのピアノ部門で優勝したときに、このラヴェルを演奏した。このコンチェルトはその意味で彼女の記念碑的な作品である。すでに各地で数多く弾いているだけあって、今夜の演奏も完全に手の内に入った演奏。彼女はインタビューのときに「第2楽章の中間部のイングリッシュホルンとピアノのやりとりの部分がすごく好き」といっていたが、まさに美しい音の対話を聴くことができた。
 そして、アンコールに登場したサン=サーンスの「トッカータ」が、萩原麻未の未来への大きな可能性を示唆していた。 
 後半のマーラーは、このオーケストラと早くも親密な関係を築いていることを示したマエストロ・ロトの本領発揮となった。
 ドイツ南西部に位置しているからか、このオーケストラの響きはとてもクリアで明るい。ロトの音楽作りは余分なことをせずに、真っ向勝負の正統的な指揮。両者は長い作品であるマーラーの交響曲第5番を一瞬たりとも飽きさせず、最後まで聴き手の心をひきつけ、終演後には大喝采に包まれた。
 マーラーの交響曲は聴き終わると心にずっしりと重く深い感情が残る場合が多いが、今夜の演奏は爽快感と充足感と作品の新たな面の発見をもたらしてくれた。
 ロトとオーケストラの生み出す音楽は、作品がいま生まれたばかりのような新鮮さを醸し出し、前向きで明快で音楽する喜びにあふれていたからだ。
 このオーケストラはいい指揮者を得たと思う。今後の歩みに大きな期待をもたせてくれる。ロトの世代のフランスの指揮者は各地で活躍しているが、みな新たな視点でオーケストラと対峙している。
 今日の演奏を聴いて、最近の指揮者の動向に目が離せなくなってきた。今年は各地のオーケストラがすばらしい指揮者と次々に来日する。集中して聴かなくっちゃね。
 今日の写真はコンサートでお会いした友人のKさんからいただいた手作りのバレンタインチョコレート。ご家族で作ったそうだ。素敵な箱に入っていて、とてもキュート。食べるのがもったいないくらいで、ずっとながめていたい(笑)。Kさん、ごちそうさま。「ありがとう」とご家族に伝えてくださいね。またまた、音と味のハーモニーに心が癒された。
実は、Kさんは萩原麻未の大切な恩師的存在。彼女にも同じチョコがプレゼントされたそうだから、私はピアニストと同じチョコをいただいたことになる。
 だからかな、味わっていると、ラヴェルの旋律が浮かんできたゾ(笑)。


 
 
| クラシックを愛す | 23:45 | - | -
イザベル・ファウスト&アレクサンドル・メルニコフ
 今日は、ヴァイオリンのイザベル・ファウストとピアノのアレクサンドル・メルニコフのデュオを聴きに王子ホールに行った。
 これは今日から明後日まで行われるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会の一環で、今日は初日。プログラムは前半が第1番と第2番と第3番。後半が第9番「クロイツェル」だ。
 ベートーヴェンの初期の作品は、名手によって演奏されると、作品のすばらしさが浮き彫りになる。ファウストの気負いのない自然体の演奏、透明感のある美しい音色、ピリオド奏法を随所に感じさせる響きが秀逸。一方、メルニコフは真珠の粒がころがるような美しい音を聴かせたかと思うと、一気にドラマティックな表現を見せ、そのピアニズムは変幻自在。
 ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは、よくピアノ・ソナタにヴァイオリンが加わっているような作品だといわれるが、まさにメルニコフのピアノはベートーヴェンの意図するところを存分に汲み取り、作曲家の魂に近づいていく。
 私は室内楽が大好きなので、今夜は至福のひとときを過ごすことができた。
 とりわけ後半の「クロイツェル」は、装飾音の工夫や即興的な要素が随所に盛り込まれ、ふたりの個性的な「クロイツェル」に心が高揚する思いにとらわれた。
 イザベル・ファウストの実力は折り紙つきだが、ようやく日本でも彼女の真の実力が評価されるようになってきた。うれしい限りだ。
 メルニコフはヴァディム・レーピンと共演していたころから知っているが、いまや音楽が成熟し、自信がみなぎり、説得力が増した。彼はインタビューをすると、とてもシャイで真面目で、どちらかというと内省的な性格の人だが、ピアノに向かうと内に秘めた音楽に対する情熱が一気に爆発。もっともっと聴きたいと思わせるピアニストである。
 うーん、やはり息の合った音楽家同士の室内楽は最高ですなあ(笑)。ファウストはメルニコフにほれ込んで、他のピアニストは考えられず、ずっと彼とコンビを組みたいといっているそうだが、とてもよくわかる。
 また、すぐにでも他の作品を聴いてみたい!!
 
| クラシックを愛す | 00:03 | - | -
宮田大&三浦一馬
 今日は王子ホールで13時半から行われた「銀座ぶらっとコンサート」の宮田大の「大ism VOL2」を聴きに行った。
 今回のゲストはバンドネオンの三浦一馬。若いふたりが奏でるチェロとバンドネオンのデュオはとても珍しい組み合わせだが、不思議に音色がマッチし、ピアソラをはじめとする曲では息の合った二重奏を聴かせた。
 宮田大が「チェロとバンドネオンはヴィブラートをかけるところとか、人間の声を思わせる音色がよく似ていて、とても合うことがわかった」と演奏の合間のトークで語っていたが、本当に音の質が合っていた。
 彼らはいま上り坂を一気に駆け上がっている勢いに満ちたアーティスト。こういうみずみずしい才能に触れると、なんだか元気が湧いてくる。
 もちろん、チェロのソロでJ.S.バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番よりプレリュード」、バンドネオンのソロではガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」なども組み込まれ、実力を存分に堪能することができた。
 なかでも、宮田大がヨーロッパでよく演奏しているという日本の作品、黛敏郎の「文楽」が印象深かった。
 これは文楽(人形浄瑠璃)における大夫(浄瑠璃語り)と太棹(大型の三味線)の演奏をチェロ1本に置き換えた作品。さまざまな奏法が盛り込まれ、まさに文楽を見ているような思いを抱かせる。
 こうした作品はナマで聴く機会が少ない。今日は宮田大の演奏の新たな面を知り、作品のすばらしさも味わうことができた。
 写真はそんな若き逸材、ふたりの終演後の笑顔。このコンサートは銀座の午後のひとときとあって満員。お茶のサービスなどもあり、聴衆はみなリラックスした雰囲気に包まれていた。
 CDのサイン会も盛況。やはり音楽というのはこういうふうにゆったりとくつろいで楽しむものなのだろうな。私のように、このあとまたバタスタと仕事に走っていく人はだれもいない。やれやれ、せわしいのって、本当にイヤですねえ(笑)。



 
| クラシックを愛す | 23:56 | - | -
辻井伸行
 今日はサントリーホールに辻井伸行のリサイタルを聴きに行った。
 これは昨年の12月から今年の3月にかけて全国で行われている日本ツアーの一環で、東京公演は昨日と今日のサントリーホール2回。すべて30分で完売したそうで、地方公演もほとんど完売というすごさ。
 今回のプログラムはモーツァルトとベートーヴェン。今夜はまずモーツァルトの「きらきら星変奏曲」がピュアな音色と粒のそろった柔らかいタッチで奏され、聴き手を一気に辻井伸行の世界へといざなう。
 次いでモーツァルトのピアノ・ソナタ第10番がかろやかに愛らしく、多彩な響きを駆使して紡がれ、辻井伸行のいまの心身の充実を示した。
 後半はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」と第21番「ワルトシュタイン」。いずれも集中力に満ちたすばらしい演奏で、表現力が増し、これまでで最高の存在感を放っていた。
 彼は、まさに本番のステージで成長していくタイプ。デビュー当初から聴き続けているが、そのつど大きな飛躍を遂げている。
 モーツァルトとベートーヴェンという、ピアニストのすべてがあらわになってしまう作品で勝負に出たその気合いも見事だが、アンコールに映画音楽などの自作を何曲も演奏して聴衆の緊張感をほぐし、リラックスした雰囲気にもっていく手法にも脱帽した。
 アンコールのときにステージから一生懸命みんなに語りかける様子はとても好感がもて、ホール全体が温かい雰囲気に包まれた。
 先ごろ、辻井伸行の「カーネギーホール・デビューLIVE」のDVD(エイベックス)がリリースされたばかり。CDは昨年末にすでに発売されている。
 それを辻井伸行はトークのなかで自ら「ホールで売っています」と宣伝。聴衆の笑いを誘った。
 このコンサート・レポートは次号の「音楽の友」に書く予定になっている。辻井伸行は無限の可能性を秘めている。また次回の演奏が楽しみになる、そんな聴き手を心待ちにさせてくれるピアニストである。
| クラシックを愛す | 23:47 | - | -
アレクセイ・ヴォロディン
 今夜は、すばらしいピアニストの演奏に酔いしれた。まさに心が浮き立ち、高揚し、最後は「ブラボー!」と叫んでしまったほどだ。
 ロシア出身のアレクセイ・ヴォロディンは、1977年サンクトペテルブルク生まれ。グネーシン音楽大学でタチアナ・ゼリクマンに、モスクワ音楽院でエリソ・ヴィルサラーゼに師事した、まさにロシア・ピアニズムの継承者。
 ヴォロディンの演奏を高く評価しているのは指揮者のワレリー・ゲルギエフで、両者は何度も共演を重ねている。
 以前も演奏を聴き、今回の来日チラシの裏には推薦文なども書いたが、今回の演奏は見違えるような成長ぶりを見せ、すでに大家の風格を示していた。
 彼の演奏は非常に手首がしなやかで、完璧なる脱力ができていて、からだのどこにも余分な力が入っていない。それゆえ、とてつもない速さのパッセージも可能で、音楽が推進力に富んでいる。
 プログラムはシューベルトの即興曲集作品90からスタート。弱音が美しく、詩的で幻想的な美を紡ぎ出した。
 次いでベートーヴェンの「悲愴」ソナタ。これを聴いて、私の脳裏にはエミール・ギレリスやラザール・ベルマンの演奏が浮かんできた。「悲愴」そのものの演奏ではなく、彼らのような構成力とタッチ、音色が存在していたからである。
 後半はラフマニノフの「楽興の時」とストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3楽章」というロシア作品。これこそ、ヴォロディンの本領発揮。前半とは奏法、ペダリング、打鍵、ダイナミズムの幅をがらりと変え、まったく別人が弾いているような違いを見せた。
 目を閉じて聴いていると、若きピアニストではなく、古き時代のヴィルトゥオーソが演奏しているよう。一気に時代が遡った錯覚に陥った。
 アンコールも5曲演奏されたが、とりわけ興味深かったのはカプースチンの「コンサート練習曲」第7番。リズム表現が最高におもしろく、ジャジーな空気を醸し出し、聴衆はからだを動かしたり、頭でリズムをとったり。みんなすごく楽しそうだった。
 今日の公演評は次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定になっている。
 こういう才能に出会うと、いつもロシアの音楽の底力と、奥深さを痛感する。ピアノ好きには絶対聴いてほしい人である。人生が豊かになる、そんな稀有なピアニストだから。
 今日の写真は演奏会のチラシ。ひとつ残念だったのは、インタビューを申し込まなかったこと。次回の来日時にはぜひ、話を聞いてみたい。


 
| クラシックを愛す | 00:11 | - | -
アルカント・カルテット
 今日はトッパンホールで15時から行われたアルカント・カルテットのコンサートを聴きに出かけた。
 2002年夏より本格的な活動を開始したこのカルテットは、創立当初からヨーロッパで「衝撃のカルテット」「神業ともいえる精度と高いスピリット」と評され、いまやコンサートのオファーが何年も先まで詰まっている。
 アルカント・カルテットとは、「歌う弓」を意味する彼らの造語。メンバーは第1ヴァイオリンのアンティエ・ヴァイトハース、第2ヴァイオリンのダニエル・ゼペック、ヴィオラのタベア・ツィンマーマン、チェロのジャン=ギアン・ケラスといういずれ劣らぬ実力の持ち主。
 以前インタビューしたときはとても仲がいい4人という印象で、ふだんはそれぞれソリストとして、室内楽奏者として活動を行っているため、カルテットの活動で集まると、近況報告で夜中まで話が絶えないといっていた。
 現在は、2カ月に1週間ほど時間をとって活動。「心のすべてを捧げる演奏を目指している」と語っていた。
 今日のプログラムは、前半がバルトークの最後の弦楽四重奏曲である第6番と、あまりナマで演奏される機会に恵まれないハイドンの弦楽四重奏曲ロ短調作品64-2。そして後半は今年生誕150年を迎えたドビュッシーの弦楽四重奏曲ト短調作品10という、時代も構成も内容も表現も異なる3作品が組まれた。
 バルトークは彼らの得意とする作品。「メスト(悲しげに)」と記された旋律を全4楽章にわたって深く深く掘り下げていく。4人の演奏は、他の人の音に注意深く耳を傾けながらも自己を明確に主張し、ときに音をぶつけ合い、あるときは呼応し、はげしく強くバルトークの魂を表現していくスタイル。
 続くハイドンはガラリと表現を変化させ、自由で健康的で明朗。お互いのアイコンタクトもやわらかなものに変わっていた。
 休憩後のドビュッシーは、アラベスクのようにさまざまな旋法や色彩やリズムが多様性を織りなす作品。彼らは調性や主題が変化する第1楽章、ピッチカートを多用した第2楽章、弱音器を用いた静謐な第3楽章、光り輝く第4楽章とめまぐるしく変貌する曲想を楽しむように、のびやかな音を響かせながら演奏。まさに息の合った、「精度の高いスピリット」を披露した。
 これは次号の公明新聞の公演評に書くことになっている。
 ソリストが集まって定期的にカルテットを組むケースは結構見られるが、アルカント・カルテットはなかでも傑出した存在。室内楽のなかでもとりわけ弦楽四重奏曲のジャンルが大好きな私は、彼らのシリアスななかに音楽を心から楽しんでいる精神を見出し、その楽しさを演奏から存分に受け取ることができた。今日はすごく寒かったが、演奏を聴いた後は胸のなかがほんわか温かくなった気がし、笑顔で帰宅することができた。これだから、弦楽四重奏曲はやめられない。作曲家が心血を注いで書いた作品が多く、弦4本が宇宙的な広がりを持つ世界を表現する。ホント、からだ全体が温かくなった感じ(笑)。
 アルカントの4人、またすぐにでも来日してほしいな。
| クラシックを愛す | 22:51 | - | -
仕事始め
 三箇日も過ぎ、いよいよ今日は仕事始め。最初の原稿締め切りの日である。
 まず最初はヤマハの「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」。今回は、ダニエル・ハーディングが指揮台に登場したヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場のニューイヤー・コンサートのライヴ(2011年1月1日 DVD コロムビア)を紹介することにした。
 これは2007年に大野和士がタクトを振ったことでも知られる人気のニューイヤー・コンサート。フェニーチェ歌劇場は以前内部を見学したことがあるが、このときは公演がなく、演奏を聴くことはできなかった。
 このライヴはイタリア国歌から始まり、次いでドヴォルザークの「新世界」が演奏され、やがてオペラ・アリアが次々に登場してくる。歌手はソプラノのデジレー・ランカトーレ、テノールのアントニオ・ポーリ、バス=バリトンのルカ・ピサローニ。いずれもハーディングと同世代の若々しい歌声で、最後は「椿姫」の「乾杯の歌」で華々しいフィナーレを迎えるという、まさにイタリア色満載のコンサート。
 このオペラハウスは2度の火災に見舞われているが、そのつどまさに劇場の名前通り「不死鳥」のように蘇り、現在の絢爛豪華で壮麗な姿を取り戻している。
 このライヴ、私の大好きな「ナブッコ」の「行け、思いよ、黄金の翼に乗って」が歌われている。これはイタリアの第2国歌とも呼ばれる人気曲。以前ブログにも綴ったが、この曲はとても思い出深い。これを聴いて、ぜひフェニーチェ歌劇場のニューイヤー・コンサートに出かけたくなった。
 ハーディングはいつ聴いても演奏がみずみずしく、躍動感にあふれ、オーケストラと一体化している。彼は2013年のミラノ・スカラ座の来日公演で指揮をすることに決まっている。大の親日家で、来日を多く重ねているが、今月の27日には新日本フィルの定期演奏会でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(ピアノはラルス・フォークト)、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を指揮することになっている。
 こちらも楽しみだ。ハーディングは常に聴き手の心を高揚させてくれる指揮者だからだ。今日の写真はDVDのジャケット。


 
| クラシックを愛す | 22:50 | - | -
ポール・ルイス
 イギリスのピアニスト、ポール・ルイスが世界で展開している2年越しのシューベルト・チクルス全5回。
 日本では王子ホールで開催されているが、今日はその第3回目。前半が「4つの即興曲Op.142」。後半が「楽興の時」と「さすらい人幻想曲」という人気の高い作品が組まれた。
 ポール・ルイスのこのチクルスは第1回から聴き続けているが、回を重ねるごとに底力が発揮され、今夜はいずれの作品も自信にあふれ、クリアで迷いのない音にいっそう磨きがかかり、最後の「さすらい人幻想曲」では気合い十分。あまりの迫力に聴衆はあぜんとして静まりかえり、そのエネルギーが聴き手に乗り移ってくるようだった。
 ルイスはアルフレッド・ブレンデルの弟子として知られるが、その奏法も解釈も師とはまったく異なる。ただし、楽譜の内奥へとひたすら迫る姿勢は同じだ。
 ひとりのピアニストをずっと聴き続けていると、その人の演奏の変遷を味わうことができて興味深い。
 次回は2012年4月12日。第4回はシューベルティアーデの雰囲気を伝える作品が組まれ、「16のドイツ舞曲と2つのエコセーズ」「ピアノ・ソナタ第14番」「アレグレット ハ短調」「ピアノ・ソナタ第16番」の予定。
 全5回が終了したとき、きっとルイスのシューベルトの全体を俯瞰した気持ちが湧き、感慨深い思いにとらわれるに違いない。イギリスから世界へ飛翔するポール・ルイス。応援したいピアニストだ。
 
 
| クラシックを愛す | 22:50 | - | -
音大での講義
 今日の午後は、洗足学園音楽大学の「音楽ジャーナリズムと音楽プロデュース」の講義に出かけた。
 今回の内容はリスト・イヤーとマーラー・イヤー、ウィーン・フィルとベルリン・フィルの来日、海外からのオペラハウスの引越し公演、チャイコフスキー国際コンクールの結果、今年登場した若い才能など盛りだくさん。
 90分の講義のなかでこれらをさまざまな角度から話し、学生たちの今後の方向なども踏まえ、現在国際シーンでどんなことが起きているかをジャーナリスティックに伝えていく。
 使用するのはCDとDVDをいくつか。しかし、いつも感じることだが、時間内でいろんな音源を紹介したいため、つい駆け足状態になる。こういうとき、私はものすごく早口になり、一気にまくしたてるため、あとで「本当に早口ですよねえ」といわれてしまう。それでも時間が足りない。
 講義が終わって教室の外に出たら、校門周辺の木々に巻かれた無数の小さな電球がブルーの光を放ち、クリスマスのイルミネーションが年末が近いことを告げていた。
 ああ、今年もあとわずか。溝の口駅まで歩く道すがら、今年1年のことが走馬灯のように浮かんできた。きっと、1年間のクラシック界を振り返る内容の話をしたからだろう。でも、震災以後はキャンセルが続いていたものの、ようやく来日アーティストが増え、まだまだすばらしいコンサートが続く。
 明日は王子ホールにポール・ルイスのシューベルト・チクルスVol.3を聴きに行き、明後日はトッパンホールでクリスティアン・ゲルハーヘル(テノール)、ゲラルド・フーバー(ピアノ)による「没後100年記念のマーラーを歌う」を聴く予定。私はゲルハーヘルの声が大好きで、ナマを聴くのをずっと楽しみにしていた。どんなマーラーが聴けるだろうか…。
| クラシックを愛す | 21:57 | - | -
ベルリン・フィル
 昨日はベルリン・フィル・デーだった。
 まず、午前11時からホテルオークラ東京で記者会見があり、ベルリン・フィルの首席指揮者兼芸術監督のサイモン・ラトル、首席チェリストでメディア担当のオラフ・マニンガー、来日公演で細川俊夫作曲のホルン協奏曲「開花の時」のソリストを務める首席ホルン奏者のシュテファン・ドールの3人が出席した。
 ラトルは冒頭、日本の震災に対し、「日本とは長年いい関係を築いてきた。今こそ私たちが支えるとき。共通言語である音楽が両者をつないでくれると思う。3日間のサントリーホールでの公演は小さな一歩でも、意義深いこと」とあいさつ。それから他に先駆けて3D映像によるラフマニノフの「交響的舞曲)&マーラー「巨人」のリリースに関し、「最初にみんなで見たときは本当に驚いた。クラシック音楽における新たな旅立ちの始まりだと思う。これはいじりまわしたものではなく、正真正銘のナマの演奏。限りない可能性を感じる」と語った。
 マニンガーも今後はさまざまな最新メディアを駆使して、ベルリン・フィルの日常を発信していくと熱く語り、ベルリン・フィルの全世界のユーザーの5パーセントから10パーセントを日本人が占めていると発表した。
 ドールは、細川作品を「ベルリンと日本をつなぐ意義深い作品」といい、「旅する作品」という感じがすると語った。
 ラトルは今回の来日プログラムで取り上げるマーラーの交響曲第9番、ブルックナーの交響曲第9番に関して指揮するたびに新たな発見のある作品だといい、ベルリン・フィルも演奏するたびに質が一気に向上していくと灌漑深げに語った。そして「指揮者の悪いところはしゃべりすぎることなんだよね」といいながら、作品論、演奏論から今後のオーケストラのレパートリーまで滔々と語り、記者会見は当初の予定時間を大幅にオーバーした。
 そして夜は初日の演奏会、マーラーの交響曲第9番を聴きに出かけた。
 これは死を予感したマーラーが、その心の動きを作品に投影させたものであり、最後の完成された交響曲で、まさに「死の音楽」である。ラトル、ベルリン・フィルは冒頭からすさまじいまでの集中力に富んだ演奏を展開、第1楽章の「永遠に」のモチーフ、第2楽章のレントラーのおだやかさとグロテスクな性格との対比、第3楽章のシニカルなユーモラスを映し出す「死の舞踏」まで、一瞬たりとも聴き手の耳を逸らさない濃密な演奏を繰り広げた。そして終楽章の「アダージョ」。瞑想的で神秘的で幻想的な曲想をオーケストラ全体が朗々と奏でていくが、その奥にはマーラーの痛切な心の叫びが宿っている。
 95分におよぶ演奏は静かに消え入るような音で終わりを告げ、最後の音が天上のかなたへと高く飛翔していった後、長い沈黙がホール全体を包み込み、ようやく拍手が沸き起こった。
 この夜のコンサートマスターは樫本大進が務めた。彼が偉大なベルリン・フィルをリードしていく雄姿を間近にし、デビュー当初からずっと大進の演奏を聴き続けてきた私はとても誇りに思い、晴れがましい気分になった。
 大進はひたすら練習あるのみの生活で、いつもベルリンではリハーサルを終えていったん家に戻り、夕食後に再びフィルハーモニーに戻って深夜までひとりで練習するという。その努力の成果がこの夜のソロの部分に表れていた。
 ラトルはオーケストラがステージから去った後にもう一度鳴りやまない拍手に応えて登場したが、そのときに大進を呼んで包容を交わした。ああ、なんてすばらしい瞬間なのだろう。ダイシン、頑張れ。もっともっと大きくなって!!
今日の写真は記者会見の3人。左からドール、ラトル、マニンガーの各氏。

| クラシックを愛す | 23:26 | - | -
内田光子
 内田光子のリサイタルは長年聴き続けているが、昨夜のシューベルトの最後の3曲のピアノ・ソナタは、聴き手にも集中力と緊張感を抱かせる、ピーンと張り詰めた空気のなかで演奏された印象深いものとなった。
 シューベルトは死の2カ月前にD958、D959、D960のソナタを書いている。それぞれ異なった内容と奏法と様式を備え、尊敬するベートーヴェンに対する意識が強く感じられ、演奏時間約30分、約45分、約55分と長大なソナタである。
 内田光子は、先日の「シューベルトを語る」のなかで各作品に関してこう話していた。
「D958のハ短調は、地上の苦しみのなかには業がたくさんあることを音楽で表現していると思うわ。この作品には救われたいという欲望、渇望、地獄の祈りなどが次々に現れるから」
「D959のイ長調は明るく、生きていることのすばらしさが表現されていると感じるわね。ただし、第2楽章は狂気の世界よ。このソナタはコラールのような箇所や鐘がガンガン鳴るところなどさまざまな面が描写され、人生のすばらしさとおそろしさを表現していると思う」
「D960の変ロ長調は、すでに達観している感じね。おそろしさや苦しみから逃れ、そこには救いが見られるわね。悲劇のドラマの余韻がただよっているもの」
 まさにこのことば通り、演奏はシューベルトの死生観を色濃く映し出すものだったが、ときおりのぞく生への狂おしいまでの渇望、幻想的で夢見るような旋律を内田光子は特有の美しい弱音でゆったりと紡ぎ、シューベルトの歌謡性を描き出していった。
 シューベルトは長年病気に苦しんでいたが、自分が2カ月足らずで世を去るとは思っていなかったようで、死の直前になってから対位法の勉強を始めている。
 内田光子もトークでその点に注目していた。
「シューベルトは、死ぬ1年前から対位法のクラスに通い始めていたの。自分に足りないところを学ぼうとしていたんでしょうね。なんて純粋な人なんでしょう。病気が判明し、悩み、死と手をつないでいた人生だったけど、最後まで創作意欲を失わなかった。私はこれら最後のソナタは、生涯ずっと弾き続けていきたいと思っている」
 この夜の演奏では、とりわけ緩徐楽章の美しさと清らかさが際立っていた。しっとりとしたリリシズムが、いまでも心の奥に温かな光を灯している。
 
| クラシックを愛す | 23:06 | - | -
マレイ・ペライア
 昨夜はすばらしいペライアのリサイタルを聴き、一昼夜経たいまでもその演奏は心の奥に深い記憶と感動を伴って刻み込まれている。
 今回のプログラムは彼が指を故障していた時期に「バッハの音楽によって救われた」と語る、J.S.バッハの「フランス組曲」第5番から始まった。ペライアの演奏はバッハ時代の楽器の響きを特に意識することなく、現代のピアノの特質を生かす奏法。しかし、ペダルの使用は極力控え、音のダイナミズムも抑制し、かろやかさと繊細さを際立たせ、ひとつひとつの舞曲のリズムを鮮やかに弾き分けていく。
 次いでベートーヴェンのピアノ・ソナタ第27番の登場。先日聴いたチッコリーニのベートーヴェンのときもそうだったが、ペライアのベートーヴェンもとりわけ第2楽章のロマンあふれる旋律の表現が美しく、つい涙腺がゆるむ。
 ベートーヴェンの作品の緩徐楽章というのは、なぜこんなにも人の心を打つのだろうか。名手による演奏は、涙なくしては聴けない。ペライアは映画「不滅の恋」のサウンドトラックを担当し、なかでもベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章がえもいわれぬほど美しい。これはベートーヴェンの弟子が「不滅の恋人」の謎を解明するために馬車に揺られていく冒頭のシーンのバックに流されるのだが、もう最初から目はウルウル状態だ。
 リサイタルの前半の最後は、録音でも大評判のブラームスの「4つのピアノ小品Op.119」。これと後半の最初に置かれたシューマンの「子供の情景」がいまのペライアの心身の充実を物語っていた。何かをプラスしたり、何かをマイナスする必要がまったくないほどの完璧なる演奏を披露したからだ。あるべき音がそこにある、という美しいフォルムで作品が紡がれていった。
 そして最後は彼が大好きなショパンの作品を3曲。「24の前奏曲」第8番、マズルカ第21番、スケルツォ第3番を続けて演奏。アンコールでもショパンを何曲か演奏し、深い感動をもたらして幕を閉じた。
 先週ペライアにインタビューをしたとき、彼はこのブラームスとシューマンについて熱く語った。ウィーンのムジークフェラインの図書館でブラームスの貴重な資料を見て新たな発見があったこと、シューマンのテンポ設定についてなど、ふだんは決して雄弁ではない彼がこうした話題ではひざを乗り出して話す姿が印象的だった。
 このインタビューは今月24日の「日経新聞」夕刊に掲載される予定である。さらにヤマハWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」にも書こうと思っている。
 ペライアは、演奏のみならずステージマナーにもその実直な人柄が現れている。現役のピアニストのなかで、私がもっとも好きなピアニストである。
 今日の写真はインタビュー時のもの。来日した直後だったが、時差も気にせず誠実に対応してくれた。またまた惚れ直してしまったみたい(笑)。


 
 
 
| クラシックを愛す | 22:50 | - | -
アルド・チッコリーニ
 今夜すみだトリフォニーホールで聴いたアルド・チッコリーニのリサイタルは、決して忘れることはないだろう。私の心に強い印象として刻まれ、大きな財産を得た感じがしたからである。
 チッコリーニはゆっくりとステージに現れ、ピアノに向かうとすぐにクレメンティのピアノ・ソナタ ト短調を弾き始めた。カンタービレな主題、劇的な表現、自由な再現部、悲しみを込めた情熱など、さまざまな表情をクリアな音で弾き進めていく。
 なんとみずみずしい音楽だろうか。時折のぞく力強さは中期のベートーヴェンを思わせ、クレメンティのソナタのなかでも傑作と称されることがよく理解できる。
 次いで登場したのはベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番。この冒頭の美しさといったらない。チッコリーニはゆったりしたテンポをとり、第1楽章の柔和で清らかな主題を天上の美しさで奏でる。ああ、マ、マ、マズイ。胸が熱くなってきて涙腺がゆるんできた。涙がこぼれそうだ、どうしよう…。
 曲が進むにつれ、ソプラノが夢見るような歌を歌い上げるように主旋律を朗々と歌わせ、和声の動きやレガートの美しさを際立たせ、特有のアーティキュレーションで曲に躍動感を与えていく。これまで聴いたどのベートーヴェンとも異なる特有の滋味豊かなソナタである。
 後半はオール・リスト。まずオペラの編曲版が2曲。ヴェルディの「アイーダ」による「神前の踊りと終幕の二重唱」と、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「イゾルデの愛と死」。ピアノは1台でオーケストラ、とよくいわれるが、まさにこの2曲でチッコリーニはリストが曲に託したオーケストラと歌手と合唱のすべての役割を鮮やかに表現しきった。
 最後は「詩的で宗教的な調べ」より「眠りから覚めた御子への賛歌」「パレストリーナによるミゼレーレ」「祈り」。チッコリーニはこれらの作品でピアノを聴く真の喜びを与えてくれた。
 鳴り止まない拍手に応えて、アンコールは3曲。リストの「メフィスト・ポルカ」、エルガーの「愛のあいさつ」、グラナドスの「スペイン舞曲集」より第5曲「アンダルーサ(祈り)」。曲想のまったく異なる作品をこまやかなニュアンスを駆使して弾き分け、とりわけ「愛のあいさつ」ではまたもや目がウルウルになりそうなほどの美しさを披露し、会場はシーンと静まり返った。そして曲が終わると一斉に立ち上がった聴衆の前で、時計を見るようなしぐさをし、あと1曲ね、という感じでグラナドスを弾き始めた。ああ、もうノックアウトだ。スペイン好きの私に最後にこんなプレゼントを贈ってくれるとは…。
 なんて幸せなひとときなのだろう、こんなすばらしい演奏を聴くことができるなんて、本当にこの仕事をしてきてよかった、と思わせてくれた。この公演評は次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定である。
 チッコリーニは1925年8月15日ナポリ生まれ。のちにパリに移り、フランス国籍を取得している。
 彼はインタビューは受けないと思っていたが、今日会場で会った「モーストリー・クラシック」のYさんによると、今回インタビューできたそうで、「私は年齢による体力の衰えを感じたことはない」と明言したという。
 すばらしい!! ああ、少しでもあやかりたいものだ(笑)。来年も来日が決まっているそうだから、今度こそインタビューを申し込もう。
 チッコリーニは演奏を通して人生を考えさせてくれた。生きる意味や年齢を重ねることの大切さ、自分が目指すことや夢の実現へのひたむきな姿勢を音楽で示してくれた。
 演奏を聴いて泣きたくなる、生きる喜びを感じる、自分の人生を見直すということはそうそうあることではない。チッコリーニはそんな思いを抱かせてくれる希有なピアニストである。
 おそらくこの深い感動は、何日たっても胸の奥にいすわり続けるに違いない。
| クラシックを愛す | 23:18 | - | -
優れたピアニストとは?の鼎談
 いま発売されている「モーストリー・クラシック」12月号は、ピアニストの特集である。音楽評論家、音楽ジャーナリスト46人が投票した「最新格付け! 世界の名ピアニスト」では、ウラディーミル・ホロビッツが第1位に選出された。第2位はアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、第3位はスヴャトスラフ・リヒテル。現役ピアニストの分野では、マルタ・アルゲリッチがダントツ第1位。第2位はマウリツィオ・ポリーニ、第3位はクリスティアン・ツィメルマンだった。
 その結果を踏まえ、「優れたピアニスト」とは? という鼎談に参加した。出席者は仕事仲間である音楽評論家の青澤唯夫さんと、音楽ジャーナリストの片桐卓也さん。
 ページは7ページに渡るものになったが、実は当初1時間と思われていたのが、延々と話が続き、2時間以上も話し込んでしまった。記事をまとめてくださったオヤマダアツシさんはさぞ苦労なさったことだろう。3人でいいたい放題、いろんなところに脱線して本当にごめんなさいね。3人を代表してオヤマダさんにあやまってしまおう(笑)。
 このときは、いろんなピアニストの話題が出ると同時に、それぞれが自分の好きなピアニスト、演奏などについて語り、さらにいまのピアノの世界についても話がはずみ、まだまだ話たりない感じだった。
 日本では、こうしたランキングを掲載すると、読者が増えるそうだ。以前は指揮者ランキングを行ったから、次は弦楽器かしら…。
 希望としては、将来を担う若手音楽家のランキングもやってほしい。これこそ、ありとあらゆる方向に人選が広がっておもしろいと思うけど。でも、収集がつかなくなるかもしれないな。あまり来日していない人や、実力はあるけど、まだひのき舞台に登場してこない人、録音のない人などがいて、混戦模様になるかも。でも、それこそ読者にとっては貴重な情報源になると思うけどな。
 編集長、ぜひ未来の巨匠たちの特集をやりましょうよ。
 
| クラシックを愛す | 18:49 | - | -
エフゲニー・キーシン
 たったいま、エフゲニー・キーシンの40歳のバースデー・コンサートとパーティから戻った。
 10月10日はキーシンのお誕生日。この記念すべきコンサートにピアノのマルタ・アルゲリッチとチェロのアレクサンドル・クニャーゼフが参加して室内楽が演奏される予定だったが、アルゲリッチが体調不良のために来日中止となり、クニャーゼフとのデュオとキーシンのソロ・リサイタルに変更になった。
 思えば、25年前に初めて来日し、15歳の誕生日を迎えたのも日本公演のときだった。そのときにショパンのピアノ・ソナタ第3番を演奏したのだが、今回の変更になったプログラムでも同曲を演奏した。
 私はソナタを聴きながら25年前の演奏を思い出し、あまりにも演奏本来の質、奥に宿るものが変わっていないことに驚きを覚えた。あのころ、すでにキーシンの演奏は確固たる方向性を持ち、自分の演奏というものが確立していたわけだ。
 さらに弱音の美しさが際立ち、内省的になり、これによりスケールの大きさも加わった。この公演評は東京新聞に書くことになっている。
 クニャーゼフとのデュオでは、キーシンは室内楽を心から楽しんでいる様子が伝わってきた。以前はソロに集中していたが、アルゲリッチやマイスキーらとともに音楽祭で演奏を重ねるうちに、キーシンは室内楽を多く演奏するようになってきた。
 すべてのプログラムが終了後、ジャパン・アーツ会長の中藤氏が大きな花束をキーシンに渡すと、そのうしろから私服に着替えたクニャーゼフが現れ、ピアノで「ハッピー・バースデー」を弾き出した。これに和し、サントリーホールには聴衆の大きな合唱が響き渡った。
 キーシンは花束を抱えながらうれしそうな笑顔を見せ、聴衆に向かってちょっとはにかみながらおじぎを繰り返していた。
 彼のこういう真摯な態度と純粋な性格はまったく変わっていない。
 パーティの席であいさつに行ったとき、「私はあなたの演奏が25年前と本質がまったく変わっていないと思いました。これはいい意味ですけど」というと、キーシンからは「ありがとう。長く聴き続けてくれた人からそういうことばを聴くと、本当に心が温まります」という答えが戻ったきた。
 今日の写真はスポンサーから提供された法被を着て、鏡開きをしているところ。キーシンの左隣がクニャーゼフ。
 もう1枚はこの鏡開きで使われた記念の升。ヒノキの芳香がする。
 最後はピアノの形をしたとても素敵なパースデーケーキ。女性のパティシエがあいさつに見えた。拍手! とってもおいしかったです。(ライトが消されたので、ちょっとボケボケ。キーシンはケーキが四角で大きいためローソクが一度に消せず、何度も苦笑しながら挑戦していた)
 ジェーニャ、お誕生日おめでとう!! ますます演奏に磨きをかけて、真の巨匠になってね。









| クラシックを愛す | 00:50 | - | -
ピアノ三昧の幸福な日
 昨日は、13時半からサントリーホールで清水和音のデビュー30周年記念公演の「ラフマニノフ ピアノ協奏曲全曲」演奏会があり、それを聴きに行った。高関健指揮東京交響楽団との共演で、ピアノ協奏曲第1番、第2番、第4番、パガニーニの主題による狂詩曲、ピアノ協奏曲第3番が演奏され、清水和音特有の繊細さとこまやかさを前面に表した美しいラフマニノフを聴くことができた。
 彼は決して鍵盤をたたかず、力まかせのラフマニノフで勝負しようとはしない。あくまでも自身の特質を生かしたピアニズムに終始し、ロシア人の演奏する演奏とはまた異なった味わいを醸し出す、こだわりのラフマニノフを披露した。
 清水は以前インタビュー記事のところでも書いたが、今回は演奏される機会の少ないピアノ協奏曲第4番に特に注目してほしいと語っていた。
 その第4番は、ラフマニノフがニューヨークに居を移してから作曲された円熟期の作品。若いころとはまったく異なる作風を持ち、ピアノとオーケストラとの対話が見事な一体感を見せる。それを清水和音は指揮者とオーケストラとの音のコミュニケーションを重視し、生き生きと表現した。
 休憩時間に金子三勇士に会ったため、「すばらしい演奏じゃない」といったところ、東京音大で清水和音に師事している彼は、「すごいですよねえ。ここしばらくぼくはレッスンがなかったんですが、電話で何度か先生とお話したんです。そのときに、大変だけど頑張って練習しているゾーっていっていました(笑)」。金子三勇士は師匠の演奏に感動したためか、いつもよりも興奮気味だった。いい演奏は、やはり人の心を高揚させるものなのだ。
 この公演評は、「東京新聞」に掲載されることになっている。
 その後、河村尚子の「NHK音楽祭2011 関連イベント トップアーティストからのメッセージ」(18時開演 上野学園石橋メモリアルホール)を聴くために急いで会場に向かった。
 彼女がリハーサルをしている最中にようやく到着し、ここから私もマイクテストなどに加わった。このコンサートは先日書いたNHK−FM「サンデークラシックワイド」の番組で放送され、私は後半の河村尚子の対談相手を務めることになっていた。
 彼女はシューマンやバッハやベートーヴェンを演奏し、トークもこなし、2時間にわたってさまざまな魅力を存分に発揮した。
 1日たったいまでも、シューマンの「フモレスケ」の美しい演奏が頭のなかで繰り返し響いている。
 昨日はふたりのピアニストの長年積み重ねてきた成果を存分に聴き取ることができ、ピアノ好きの私はとても幸せな時間を過ごすことができた。
 今日の写真はFM放送のトークのときにテーブルを彩っていたお花を、帰りにおすそわけしてもらったもの。蘭もバラもカーネーションもすごく大きく、ゴージャス。花があると食卓が華やかになり、食事もおいしさを増す。なんだか、色とりどりの花々から色彩感あふれるピアノの響きが聴こえてきそう…。

| クラシックを愛す | 14:05 | - | -
クラシックを広めるために
 今日は、新たな連載記事の打ち合わせにすみだトリフォニーホールに行った。今秋から、新日本フィルハーモニー交響楽団のプログラムのページをひとつ担当することになったからである。
 そのときに担当のかたたちとさまざまな話をするなかで、「コアなクラシックファンはもちろんのこと、もっと新たなクラシックファンがオーケストラの演奏会に足を運んでくれるためにはどうしたらいいか」という話題がもっとも長く話し合われた。これは選曲の問題、時間の長さ、作品の知名度、演奏者、開催される日の曜日など、あらゆる要素が関係してくる。
 新日本フィルは2011年から2012年のシーズンにかけて「トリフォニー・シリーズ」「サントリーホール・シリーズ」とともに、「新・クラシックへの扉」と題した全8回の公演を予定し、これらは金曜日と土曜日の午後2時開演の名曲コンサートとなっている。
 この名曲コンサートが、私の記事のメインとなりそうだ。まだこれからいろいろと担当者と知恵を出し合い、内容を詰めていく必要がある。原稿の文字数にも限りがあるため、短いなかで興味を持って読んでもらえるよう最大限の工夫を凝らさなければならない。
 だが、こうした新たな仕事は心がわくわくする感じにとらわれる。よしっ、ひとりでも多くの人にホールに足を運んでもらえるよう、頑張るぞ!!
 そして今日は、午後になったらもうひとつクラシックを広めるために書いた原稿のリアクションがあった。以前、「週刊新潮」の「掲示板」に書いた記事の返事が読者から届いたと、編集部のかたがそれを送ってくださったのである。
 封書と手紙が何通が入っていて、それらは愛知県、岐阜県、埼玉県、神奈川県と多岐に渡っている。内容もとてもていねいに書かれていて、ぜひひとりひとりに返事を出さなくてはと思った。
 それぞれの手紙にはその人がなぜクラシックを好きになったか、どんな音楽人生を送ってきたか、いま何を求めているか、今後はこんなことをしてほしいということがたくさん記されていて、とても心温まる思いになった。
 私は独立以来ずっと「クラシックを広めたい」と願って仕事をしているが、今日はふたつのことでその思いを新たにした。こういう日は、大好きなベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章が無性に聴きたくなる。さて、だれの演奏にしようかな…。
 
| クラシックを愛す | 22:05 | - | -
マーティン・ヘルムヘン&クリスティアン・テツラフ
 海外のアーティストの来日中止が相次ぐなか、この時期に日本に来てくれる音楽家には本当に深い感謝の念を捧げたいと思う。
 みんな異口同音に「もちろん怖い気持ちもあるけど、こういうときだからこそ、音楽で日本の人たちを勇気づけたいと思っている。自分に何ができるかを考えたとき、いまは日本に行くべきだと思った」と語っている。
 最近聴いたのは、1982年ベルリン生まれのピアニスト、マーティン・ヘルムヘンと1966年ハンブルク生まれのヴァイオリニスト、クリスティアン・テツラフのふたりのドイツ人のリサイタル。
 ヘルムヘンは2008年に来日して情感あふれるすばらしい演奏を披露、その清々しく心が洗われるようなピアニズムは、いまだ強い印象となって胸の奥に残っている。
 今回はベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」をメインに据えたプログラムだったが、静謐で響きの余韻を残すような特有のピアノはいっそう磨きがかかり、あふれんばかりのみずみずしさが全編を覆っていた。
 ヨーロッパではライジングスターとして各地の音楽祭から引っ張りだこ。室内楽でも実力者たちと共演を重ねている。
 ああ、この叙情的なピアノ、ずっと聴いていたいと思ってしまう。そんな私のこよなく愛するピアニストである。
 もうひとり、クリスティアン・テツラフも、すばらしいプログラムを組んだ。今回はJ.S.バッハの無伴奏作品が登場したが、私が聴いた日は前半がヴァイオリン・ソナタ第2番とパルティータ第2番、後半がヴァイオリン・ソナタ第3番とパルティータ第3番。
 冒頭からすさまじいまでの集中力を発揮し、曲の内奥へとひたすら迫っていくはげしい演奏を聴かせたが、とりわけ「シャコンヌ」では音楽が天高く舞い上がっていくような高揚感を見せ、のびやかな音色がホール全体に響きわたり、バッハの音楽の神髄を知らしめた。
 この時期に来日してくれるアーティストは、いつにも増して音楽がはげしく深く、強靭な精神性がその演奏を劇的なものにしている。聴き終わると、しばらく席を立てなくなるほどの感動が襲ってきて、ぼうぜんとしてしまうほどだ。
 これが「音楽の力」だろうか。
 彼らの勇気と決断と実行力、そしてなにより心のこもった演奏に「ありがとう」と何度も何度もいいたい。
 
| クラシックを愛す | 22:19 | - | -
フェリシティ・ロット
 イギリスの名ソプラノ、デイム・フェリシティ・ロットもこの時期に来日してくれた。
 彼女は1994年にカルロス・クライバー指揮ウィーン国立歌劇場の来日公演でR.シュトラウス「ばらの騎士」の元帥夫人を歌い、2009年にはN響定期に出演したが、今回は初リサイタルとなった。
 フェリシティ・ロットといえば、私は1994年にウィーンでこの「ばらの騎士」を聴いたときのことを思い出す。考えてみれば、あれからすでに17年の歳月が経過した。そのときの記事を再現したい。

 本当にクライバーが振るのだろうか。また直前になって急きょキャンセルするんじゃないだろうな。3月21日、ウィーン国立歌劇場のオーケストラ・ピットにクライバーが姿を現すまで、この不安はずっと脳裏をかすめ続けていた。
 クライバーがウィーンでR.シュトラウスの「ばらの騎士」を振るというニュースはもうずいぶん前から伝えられていたが、自分の目指す音楽が完璧に表現できないと容赦なくキャンセルする彼のこと、今回も直前までその出演が危ぶまれていた。
 しかし、同じキャストで今秋日本公演が6公演組まれていることもあり、ウィーンでの3公演はたぶん大丈夫だろうというのが大方の予想だった。
 不安を抱えながら現地入りしてみると、なんと立ち見券を確保するのに徹夜で並んでいる人が大勢いる状態。かたやクライバーが投宿しているインペリアル・ホテルには日本のファンが山ほど宿泊し、クライバーのためならいくら払ってもかまわないと決死の構え。ブラックマーケットでは最高2万円のチケットが10万円だ、いや20万円だと大フィーバー。
 歌劇場の前はテレビ中継車がデンと居座り、23日のみの撮影と思いきや、もしもの場合を考えて全日程撮影の準備をしている。
 さて、18日の初日には確かにクライバーが登場し、無事に振り終えたものの、例のおじぎをしてから振り向きざまにタクトを下ろしたためウィーン・フィルの出足がそろわず、クライバーは完全にアガリ、それが歌手陣にも伝染して総アガリ状態になったとか。
 新聞は「クライバーは失敗か!」と書き立て、そのニュースは世界中から駆けつけたクライバー・ファンを不安に陥れた。
 ところが、クライバーもウィーン・フィルも名誉挽回とばかりに発奮し、私が聴いた21日は超の付くすばらしい出来。クライバー特有の踊るような指揮にも拍車がかかり、ウィーン・フィルも負けじと底力を発揮。こんなにも緊張感に満ちた精緻なウィーン・フィルの響きを聴いたのは、正直いって初めてだった。
 歌手はといえば、オクタヴィアン役のアンネ=ゾフィー・フォン・オッターが若々しく凛々しい美男ぶりを見せ、まさに17歳という役どころがピッタリ。銀のばらを届けに行ったときにゾフィー(バーバラ・ボニー)がひと目惚れする気持ちがよく伝わってきた。
 ボニーも可憐で美しかったが、これまでのゾフィーに知的さと意志の強さを加え、独特のゾフィー像を生み出した。
 クライバーが見出したという侯爵夫人役のフェリシティ・ロットも輝きに満ちた自然な歌声で盛んな拍手を浴びていたが、彼女は演技力抜群で、若い愛人を年相応の恋人に譲る微妙な女心をさりげなく表現し、大喝采を浴びた。
 そこにオックス男爵役のクルト・モルが名演技と張りのある低音で切り込んでくるから、もうこれ以上のキャストは考えられない。
 クライバーは絶対にダブル・キャストは組まないから彼女たちは大変だが、それだけに息の合った最高の歌が堪能できるというもの。
 まさにこの日は心が高揚し、頭のなかにはあの有名なワルツが繰り返し登場して、なかなか寝付けなかった。

 そんな思い出がフェリシティ・ロットのリサイタルの間中蘇っては消え、また再び現れ、上質で気品あふれる歌声を全身に浴びながら、私は17年という年月の流れを深く感じ入った。
 ロットの今回のプログラムは長年愛してきたシューマンとプーランク、そして英語の歌の数々。特筆すべきはオッフェンバックやメサジェのオペレッタで、ひとり芝居ようにかろやかな演技を加え、気高く美しく、ウイットとユーモアに富んだ歌唱を披露した。
 そして、アンコールの最後に感動的なシーンが待っていた。ロットは今回の大震災に対して短いメッセージを語った後、「よい明日が来ますように」と聴衆に語りかけ、R.シュトラウスの「明日」を歌ったのである。
 この歌のなんと心に深く響いたことか。とりわけグレアム・ジョンソンのピアノが味わい深く、これまでこんなにも胸の奥に浸透してくる美しい「明日」の前奏を耳にしたことはなかった。もうこれだけで、みなハンカチを出したり、目頭を押さえたり…。

 フェリシティ、あなたのすばらしい歌声は健在でした。しばし現実を忘れ、夢の世界へと旅をしました。本当に感謝しています。


| クラシックを愛す | 00:09 | - | -
ギドン・クレーメル・トリオ
 先日のドミンゴに続き、今日もまた胸の奥があまりにも強い感動で痛くなるほどのコンサートを聴くことができた。
 ヴァイオリンのギドン・クレーメルと、リトアニア出身でクレメラータ・バルティカのメンバーとしても活躍しているチェロのギードゥレ・ディルバナウスカイテと、当初決まっていたピアノのカティア・ブニアティシヴィリに変わって急きょ来日を決意したヴァレリー・アファナシエフというメンバーによるトリオの夕べである。
 彼らは震災直後より福島原発の深刻な状況から、何度も「来日を断念せざるを得ないかもしれない」と日本側に伝えてきたそうだが、最終的にはこういうときこそこれまで培ってきた日本の人々との友情を大切に考え、人々を支えたい、手を貸したい、力になりたいと考え、来日を決意したという。
 そんな思いがステージでは静かに熱く燃える音楽となり、J.S.バッハの「シャコンヌ」も、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番も、ショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番も、心に突き刺さってくるほどの強靭な音楽として奏でられた。
 クレーメルの慟哭し、嗚咽し、心の叫びを吐露するようなヴァイオリンに硬質でクールで精神性の高いアファナシエフの完璧なるピアノが寄り添い、このふたりの鬼才に若々しく真摯なディルバナウスカイテのチェロが和すと、えもいわれぬ味わい深いトリオが生まれる。
 彼らはプログラムに日本の人々へのメッセージを寄せたが、ステージではことばは用いず、音楽だけで深い思いを伝えた。
 海外では、日本の深刻な状況が日々報道され、衝撃的な映像も流されているという。各国の政府が渡航自粛勧告をしており、家族や周囲の人々も心配のあまり日本に行って演奏することに強い反対をしているという。
 そんな状況のなか、来日を決意してくれた彼らには、感謝の気持ちでいっぱいだ。音楽は幾多のことばよりも雄弁に気持ちを伝えてくれた。
 ギドン、ギードゥレ、そしてヴァレリー、あなたたちの心豊かな優しい気持ち、熱き友情は決して忘れません!!
 
 
| クラシックを愛す | 23:38 | - | -
ヴィルデ・フラング
 昨夜はノルウェー王国大使館で、ノルウェー出身の若手ヴァイオリニスト、ヴィルデ・フラングの初来日プレミア・イベントが行われた。
 これに先立ち、彼女にインタビュー(次号の「intoxicate」に掲載予定)。新譜のシベリウスのヴァイオリン協奏曲(EMI)に関することや恩師のコリア・ブラッハー、アナ・チュマチェンコ、サポートしてくれるアンネ=ゾフィー・ムターや内田光子についてなど、さまざまな質問に実にていねいにじっくりと答えてくれ、その誠意ある態度にすっかり魅せられてしまった。
 イベントではインタビュアーも務めたが、ここでもフラングは会場である美しいホールに集まった人々を魅了するトークを行った。バルトークの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(全曲)」の演奏も行い、のびやかで自然で、作品の内奥にひたすら迫る姿勢を見せ、実力を存分に発揮した。
 ノルウェー大使館の地下にあるホールは、とても思い出深いところ。2007年にグリーグの本を出したとき、大使館のみなさんが盛大な出版記念パーティを開いてくれた場所で、木造りの温かな雰囲気のホールである。
 このホールに響くフラングの弦の音は、ノルウェーの雄大な自然を思い起こすものだった。もちろんJ.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」以来の傑作といわれるバルトークの作品であり、困難な技巧がちりばめられている。自由で多彩な変奏的手法も奏者にとっては表現が大変だが、フラングはそれを喜怒哀楽を表出する雄弁な語りのように響かせ、聴き手の心の奥深く浸透させた。
 彼女の演奏はスケールが大きく、ひとつひとつのフレーズがとても説得力がある。構成力も堅固だが、そのなかに自由な精神がみなぎるため、堅苦しくならない。とりわけ印象的だったのは、シャコンヌのテンポ。あたかも踊り出しそうな雰囲気で、これがノルウェーの民族舞踊を思い起こさせ、感慨深かった。
「バッハの無伴奏作品は大きな聖堂を造り上げていく感じ。でも、バルトークのこの作品は、自分の聖堂を造っていくように思えるの」
 フラングは会場からの曲に関する質問に対して、こう答えた。
 長身で色白で、キュートな目をしたヴィルデ・フラング。作為的なものがまったくない、自然な演奏とキャラクターは、ノルウェー人ならではの美質。きっとじわじわと人気が上がるに違いない。



 
 
 
| クラシックを愛す | 12:11 | - | -
諸戸詩乃
 昨夜は、諸戸詩乃のデビュー・リサイタルを聴きに行った。
 1993年生まれの彼女は10歳からウィーンで勉強し、2009年に「モーツァルト:ピアノ・ソナタ集」(カメラータ)でCDデビューを果たしている。
 実は、第2弾となる「シューベルト:即興曲集作品90&楽興の時作品94」のライナーノーツを書き、素直でピュアな演奏に心惹かれていたため、ぜひナマの演奏が聴きたいと思い、リサイタルに足を運んだ。
彼女に寄せる期待は、2月24日の「日経新聞」夕刊の「世界に羽ばたく10代の実力派たち」と題した記事で、ピアノの小林愛実、ヴァイオリンの三浦文彰とともに綴った。
 リサイタルのプログラムはモーツァルトのピアノ・ソナタ第12番から始まり、シューベルトのピアノ・ソナタ第13番と「即興曲作品90」をはさみ、リストの「巡礼の年第3年」の第2曲「エステ荘の糸杉に寄せて−哀歌Ι」、第4曲「エステ荘の噴水」で幕を閉じるという趣向。
 背筋をピンと伸ばした美しい姿勢でピアノと対峙し、クリアな響きを特徴とする演奏は、清涼でひたむきでみずみずしい。これから幾重にも変貌していく大きな可能性を秘めたピアニズムである。
 とりわけCDにも収録したシューベルトの「即興曲」が弾き込まれた演奏で自信を感じさせ、シューベルトの歌心を素直にとらえた演奏だった。ピアノはベーゼンドルファーで、シューベルトのピアノ・ソナタの緩徐楽章の幻想的なアンダンテが、そのニュアンス豊かな音色をよく生かしていた。
 この日のアンコールはシューベルトの「楽興の時」第1番。彼女が師事した著名なピアニストで教育者でもあるハンス・ライグラフが2月12日にスウェーデンで亡くなったことに対し、追悼の意味を込めて、ライグラフが大好きだったというこの作品が演奏された。
 若いアーティストの演奏は、何年か聴き続けていくことに意義がある。諸戸詩乃の演奏も、数年後には大きく変化するに違いない。それを楽しみにしたい。
 今日の写真は、終演後の楽屋で撮ったもの。美しい白いドレスに身を包んだ彼女は、リサイタルを終えて晴れやかな表情を見せていた。
 ライグラフ先生について聞くと、一瞬表情を曇らせながら、こんな答えを戻してくれた。
「とても誠実で、本当にすばらしいかたでした」


 
| クラシックを愛す | 11:28 | - | -
ロバート・レヴィン
 アメリカ出身のロバート・レヴィンは、いくつもの顔を持つ音楽家である。モダンピアノのみならず、チェンバロやクラヴィコード、フォルテピアノなどのピリオド楽器とオルガンを演奏し、編曲者、音楽学者、さらにモーツァルト関連文献の著者でもある。
 そんな多彩な肩書を持つ人は、さぞ堅い話をするのではないかと思われるが、実はモーツァルトのように陽気でオープンでジョーク好き。
 雑誌「ムジカノーヴァ」の2011年1月号にインタビューが掲載されたが、そのときは時間がたりないほど雄弁にさまざまなことを語ってくれた。
 もっとも印象的だったのが、「モーツァルトの作品を演奏するときには、左手が非常に大切だ」という話。ピアノ・ソナタもピアノ協奏曲もキャラクターが瞬時に変化していくが、それは左手の変化に表れていることが多いという。この話になったとき、レヴィンは膝を乗り出し、手の表情も加え、あたかも自分がモーツァルトになったように生き生きと語り出した。
 彼のマスタークラスやあらゆる講習会は世界各地で多く行われているが、生徒が押し寄せ、弟子入りを望む人も後を絶たない。現在はハーバード大学人文学部教授を務めながら、精力的に各地を回っている。
 よく、留学するときにその土地ではなく、いい先生がいる学校を選ぶというが、ロバート・レヴィンのような先生に師事したら、きっとレッスンも楽しくて仕方がないという感じになるのではないだろうか。
 もうひとつ、印象に残った言葉が「レッスンには、その生徒が一番好きな作品を持ってきてもらう」と語ったこと。好きな作品であれば、生き生きと演奏できるから。その演奏を聴きながら、よりよい面を引き出していくのだそうだ。
 レヴィン自身の演奏は、「もしも、モーツァルトであれば、こう弾いたであろう」と評されている。
 彼のモーツァルト好きは、幼いころに「モーツァルト狂いだった」という父親がいつもレコードを聴かせてくれたことが大きく影響しているという。やはり子ども時代の環境は大切なのだと実感。それがその人の将来を決めることになるのだから、親の役割は本当に大きい。
 レヴィンは「私は音楽を愛し、生徒を愛し、ピアノを愛しているんですよ」とにこやかな笑顔を見せた。うーん、こういう言葉をサラリと口にすることができるのが、この人の強み。偉大な演奏家で学者なのに、話は実にシンプルで自然で端的。そう、これこそモーツァルトの音楽にもっとも必要な要素。レヴィンに会った後は、なんだか心がとてもかろやかになった。




 
| クラシックを愛す | 23:06 | - | -
ルネ・パーペ
 昨夕はトッパンホールにルネ・パーペのリート・リサイタルを聴きに行った。
 パーペはドレスデン出身のバス歌手。欧米のオペラハウスから引っ張りだこの人気と実力を誇り、いまやバスとして不動の地位を築いている。
 その彼が同じくドレスデン出身のピアニスト、カミロ・ラディケと組んでリートを歌うという。始まる前から期待は募るばかり。
 ステージに登場したパーペの、なんと立派なことか。燕尾服というのはこういう体格の人がもっとも似合うと思わせる威風堂々たる体躯。肩幅が広く、胸板が厚く、足が長く、姿勢がいい。歩幅は広く、カッツカッツと自信に満ちた表情で中央まで進む。まるで舞踏会に現れた王族のような雰囲気。
 前半はシューベルトの「音楽に寄す」「夕映えの中で」「ミューズの子」などから始める。艶やかでのびのあるダイナミックな低音で歌われるシューベルトは、いつも聴いているやわらかで抒情的な歌とは一線を画す重量感あふれるもの。
 特に印象的だったのは「野ばら」。初々しくさわやかな野ばらではなく、荒野に咲く野ばらで、雨にも風にも負けずにすっくと咲いている野生の花。パーペの歌を聴き、この作品の奥深さを思い知らされた。
 次いで登場したのはシューマンの「詩人の恋」。これまで何度この作品を聴いてきただろうか。だが、これもまた新たな発見があった。
 パーペはハイネの詩の奥に潜む物語を浮き彫りにし、音楽との融合を極め尽くし、あたかもひとり芝居のように16曲の異なった音の世界を作り上げていった。
 後半はヴォルフの「ミケランジェロの3つの詩」とムソルグスキーの「死の歌と踊り」。いずれもバスのための重要な作品。声の調子が上がってきたパーペは、さらに表情豊かに、作曲家の意図した思いに近づくよう集中力を高め、鬼気迫るような歌唱を聴かせた。ひとり芝居がひとりオペラに変貌したようで、別世界にいざなわれる思いを抱いた。
 オペラでは、グルネマンツやザラストロ、マルケ王などの役で圧倒的な存在感を示しているルネ・パーペ。その彼のリート・リサイタルは、聴き慣れた作品に新たな光を当てるものだった。1日たってもその深い感動は胸の奥にずっといすわっている。
 今夜はアンドラーシュ・シフのベートーヴェンを聴きに行く。ピアノ・ソナタ第30番、第31番、第32番という重量級のプログラムだ。またもや、新たな発見に心が高揚しそうだ。
この2つの公演は、次号のモーストリー・クラシックのコンサート評を書くことになっている。
 
 
| クラシックを愛す | 15:03 | - | -
ドヴォルザーク
 ドヴォルザークの生地ネラホセヴェスは、プラハの北北西30キロほどに位置する小さな村。スメタナの連作交響詩「わが祖国」の「モルダウ」で有名なモルダウ川(チェコ語ではヴルタヴァ川)がボヘミア盆地を北上してエルベ川に合流する、少し手前にひっそりとたたずんでいる。
 もうかなり前になるが、「プラハの春音楽祭」の取材に行った折、ぜひこの地を訪ねたいと思い、足を伸ばした。
 ドヴォルザークの生家は、リニューアルは施されているものの、当時と変わらぬ素朴な風情をたたえ、入口前にはどっしりとした体格の像が立っていた。ここはあたり一面がうっそうとした緑に覆われ、時折聴こえるのは鳥の鳴き声と樹木が風にそよぐ音だけ。空気はどこか高原を思わせる清涼さに満ち、時の流れが止まったかのよう。耳をすますと、遠くから教会の鐘の音が響いてくる。そのほかはほとんど人も見当たらず、静謐な空気がただよう。
 ドヴォルザークは鉄道を愛し、いつも作曲に行き詰ると汽車をながめに行き、ストレスから解放されたそうだが、この生家の前に古い線路の跡が残っていて、そのルーツを垣間見る思いがした。
 実は、昨年の11月にNHK BSのテレビ番組「名曲探偵アマデウス」のドヴォルザークの「スラブ舞曲」の回に出演し、ドヴォルザークについてコメントすることになった。放映は今年1月で、24日の放送と25日の再放送は済んでしまったが、27日のBShi(00:00〜00:44 26日深夜)と30日のBS2(18:00〜18:44)はまだ見られる。
 私の出番はほんのわずかだが、ここにとても貴重なドヴォルザークの人形が出演している。というのは、ネラホセヴェスを散策していたときに小さな古い小屋でタバコを売っている年配の男性がいて、そのタバコの脇にドヴォルザークの粘土で作られたような小さなお人形が置いてあった。
「これ、欲しいんだけど」と私がいうと、そのおじさんは「売り物じゃねえ」とひとこと。「それよりタバコ買って行きな。手巻きだぜ」。「でも、私はこのお人形が気に入ったの。日本からやってきて、もうここには2度とこられないかもしれないから、これ売ってください」。「ダメだ、ダメだといってるだろう。これは売るための物じゃねえんだ。ワシはタバコを売っているんだよ」。「すごく気に入ったの。値段つけて、自由に決めてよ」。
 こんな押し問答を繰り返しているうちに、おじさんはついに根負け。「持ってけ、ドロボー」的な言葉を叫び、むんずと人形をつかんで私の手に押しつけた。「それじゃ、そこにあるタバコ全部ちょうだい」。
 私は10箱ほどのタバコを全部買い、もういくらだったか忘れたが、無事にドヴォルザークをゲット。おじさんはお金を受け取るやいなや、手早く店じまいを始めた。
 という、いわくつきの人形が今回の番組にチラッと出演。スタッフがうまく登場させてくれ、実直そうな表情の顔がアップされたという次第だ。
 今回の写真はそのドヴォルザークのお人形。これ、本当にいい表情しているでしょう。私が各地から買ってきたさまざまなグッズを飾っている飾り棚のなかでも、ひときわ存在感のある顔をしている。
| クラシックを愛す | 14:10 | - | -
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