Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

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シドニー音楽学校&現代美術館
 今回、シドニーの街歩きをするなかで、美術館や博物館が多いことに気づいた。アートギャラリーも多く、それぞれ興味深い展示が成されている。
 宿泊したホテルの近くにはシドニー音楽学校があり、ここのカフェで、ひとりゆっくりとお茶をした。
 音大の雰囲気はどの土地でも似ている。
 あちこちから楽器や歌声が聴こえてきて、楽器や楽譜を抱えた学生たちが行き来し、こういう場所にたたずんでいると、なんとなく気持ちが落ち着く。
 この音楽学校で目立っていたのは、韓国や中国などのアジア系の学生や生徒が多いこと。
 ジュニアクラスもあるようで、母親に連れられた小学生や中学生くらいの若い生徒がたくさん見受けられた。この学校は、そうしたアジア系の留学生をたくさん受け入れているようだ。
 シドニー音楽学校は、19世紀初頭に総督ラクラン・マックォーリーが流刑囚に建てさせたもので、古いゴシック様式の砦に似た建物。当初は厩舎だったそうだが、1913年に国が買い取り、やがてシドニー音楽学校になった。



 その立派な石造りの建物の右横には新しい建物があり、現在レッスンなどはこの建物がメインに使われているようだ。
 道路から階段を下りてこの建物に入る手前にカフェがあり、私はここで音大時代の自分をなつかしみながら(?)、紅茶をいただいた。



 美術館では、ロックスと呼ばれる歴史的な地区で、緑豊かな通りに面した現代美術館(MCA)がひときわ目立っていた。
 ここは束芋など日本の現代アート作家の展示なども行っており、世界各地の旬の現代作家の作品を展示している。
 ここにはMCAカフェと題した、眺望のいいカフェがあり、大人気だ。
 写真は、現代美術館の外観。



 
| 麗しき旅の記憶 | 21:16 | - | -
辻井伸行 シドニー・リサイタル
 今回、シドニー空港(正式名称はキングスフォード・スミス空港)に着いたとき、まず目に入ったのは、シドニー交響楽団の垂れ幕だった。
「ああ、オーケストラが出迎えてくれる。いよいよ、これから取材が始まるんだワ」と思ったものだ。



 辻井伸行のリサイタルが行われたのは5月22日。シティ・リサイタルホールで19時開演だった。
 プログラムは、前半がJ.S.バッハの「イタリア協奏曲」、モーツァルトのピアノ・ソナタ第17番。後半がベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番「月光」と第23番「熱情」。2016年12月からスタートした日本ツアーの曲目で、ヨーロッパでも演奏し、今回のシドニー公演がこのプログラムの最終公演にあたる。
 20日の夜に聴いた、シドニー交響楽団とのショパンのピアノ協奏曲第2番の演奏も同様だったが、この土地の聴衆は反応が非常にストレート。1曲終わるごとに盛大な拍手が送られ、「ブラボー」の声もかかる。
 しかし、後半のベートーヴェンが終了したときは、ホール全体が地響きでも起こしたかのような怒涛の喝采に包まれた。
 日本では感動のあまり足を踏み鳴らすことはほとんどないが、シドニーの人たちは拍手と同時に靴音を一斉に響かせる。そのすごいこと。
 辻井さんは、そのストレートな感情表現を受けて、アンコールを4曲も演奏した。1曲目は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」の第2楽章。2曲目は、リストの「ラ・カンパネラ」。ここでもうボルテージが最高になり、拍手はより大きくなる。
 そして3曲目が登場。辻井さんは、あたかも自作を演奏するように静かに旋律を奏で始めたが、すぐにオーストラリアの第2国歌とも呼ばれる「ワルツィング・マチルダ」の主題が登場。会場を埋め尽くした聴衆は「ギャーッ」と声を上げ、会場は騒然となった。
 彼は主題を生かしながら、親しみやすい旋律を幾重にも変容させ、即興的に「ワルツィング・マチルダ」を奏でた。
「ああ、私はオーストラリアで演奏を聴いているんだ」
 この瞬間、そんな実感が心の底から湧いてきた。
 こうなると、熱く燃え上がった聴衆の熱気は、冷めることがない。
 辻井さんは、4曲目にショパンの「革命エチュード」をすさまじいアップテンポで弾き、最後はピアノのふたを閉じて、「これでおしまい」という合図を送った。
 なんと熱く深く、印象的なリサイタルだったことか。これまで、辻井さんから海外の聴衆の反応のすごさを何度も聞いていたが、実際に自分が客席に身を置いて味わう臨場感はことばにできないほどの衝撃だった。
 終演後、辻井さんに「すごいわねえ、この雰囲気は。私も興奮して、一緒にブラボーって叫んじゃったワ」というと、「ええっ、本当ですか、うれしいなあ。今日のお客さんたちはものすごく喜んでくれたので、ぼくもそれに応えて4曲も弾いちゃいましたよ」といって笑っていた。
 翌日のインタビューでは、両日のコンサートで感じたこと、アンコールの選び方、シドニーでの演奏で4曲について新たに感じたことなどを聞いた。
 今日の写真は、シティ・リサイタルホールの外観。開演前のステージ。そしてすべての演奏が終わり、鮮やかな花束を受け取った辻井さん。

 
 






| 麗しき旅の記憶 | 22:10 | - | -
シドニー・オペラハウス
 オペラシアター、コンサートホール、ドラマシアターなど4つの劇場をもつシドニー・オペラハウスは、シドニーを代表する建築物である。
 このユニークな形状を備えたオペラハウスは、1956年に国際クラスのデザインコンペを実施し、38歳のデンマークの建築家、ヨーン・ウッツォンが選ばれた。
 しかし、工事の費用の超過と建築工事の難航さで頓挫。
 以後、オーストラリアの建築家グループが引き継ぎ、1973年に完成したという。2007年には世界文化遺産に登録され、いまではシドニーのアイコン的な存在となっている。
 いつも写真で見るオペラハウスは、海の向こう側から撮影されたり、航空写真だったりするため、実際に近くで見ると様相がかなり異なる。
 オペラハウスはサーキュラーキーという交通の拠点から歩いてすぐのところで、手前にはオペラキーと呼ばれるプロムナードがあり、近くにはかなり大きな王立植物園が広がっている。 
 このオペラハウスのなかのコンサートホールで、5月19日と20日に辻井伸行がブラムウェル・トーヴェイ指揮シドニー交響楽団と共演し、ショパンのピアノ協奏曲第2番を演奏した。
 今回は、20日の朝シドニーに着き、その日の夜のコンサートを聴きに行った。
 これは「家庭画報」の辻井伸行の連載記事の取材であり、22日のシドニー交響楽団の特別公演と銘打たれたシティ・リサイタルホールでのリサイタルの両方を聴くことができたため、その様子を原稿に書くことになっている。
 演奏の模様とインタビュー内容などは、「家庭画報」の記事掲載後にブログで詳細を綴りたいと思う。
 今日の写真は、シドニー・オペラハウスの遠景と、コンサートホールの内部の階段(屋根の形状に合わせたデザイン)、開演前のステージ、オペラハウスに続くプロムナード。
 いずれも、一度見ると忘れられない、個性的でユニークなデザインに彩られている。
 季節は秋だったが、とにかく日差しがものすごく強く、ガンガンに陽光が降り注いでくる感じ。ただし、コンサートホールのホワイエは海に面していて、休憩時間にはみんながベランダに出て涼風と夜景を楽しんでいた。














| 麗しき旅の記憶 | 22:28 | - | -
全仏オープン
 今期、好調なスタートを切り、現在のクレーコートシーズンをスキップしているロジャー・フェデラーが、5月28日に開幕する全仏オープンを欠場すると発表した。
 全仏オープンは、昨年に続いて2年続けての欠場。「ツアーでこの先何年もプレーするには、クレーコートシーズンは出場せず、芝とハードコートのシーズンに向けて準備するのが最善と判断した」と説明している。
 昨年のケガから復帰し、全豪オープンとインディアンウェルズ、マイアミと優勝を飾り、往年の強さが戻ったといわれているフェデラー。しかし、彼はクレーコートはからだへの負担が大きいと判断し、すでにウィンブルドンに照準を合わせているようだ。
 今日のニュースを聞き、私の脳裏には2007年のノルウェー出張のときの様子が蘇ってきた。 
 このときは、グリーグの足跡をたどり、ベルゲンからフィヨルドを北上してロフトフースまで足を延ばしたのだが、そこではグリーグの作曲小屋が庭に移築されているホテル・ウレンスヴァングに宿泊した。
 そのときの模様は、単行本「北欧の音の詩人 グリーグを愛す」に詳しく綴ったが、この本には書かなかったことがある。
 実は、ノルウェーにいったのは、5月28日から6月7日。ちょうど全仏オープンの開催時だった。
 ベルゲンにいたときは忘れていたのだが、ロフトフースのホテルでニュースを見ようとテレビをつけたら、なんと、フェデラーの試合の真っ最中だった。
「あらら、どうしよう。これは応援しなくっちゃ。でも、取材に出かけなくてはならないし…」
 ほんの短い時間だったが、ロフトフースでフェデラーを観戦するとは思わなかった。
 私はホテルの部屋の写真を撮ることはほとんどないが、このときはあまりにも窓の外の景色がすばらしいため、少しだけ撮影した。
 こういう景色を見ていると、どこからかグリーグの曲が聴こえてくる感じがする。フィヨルドは、海でも湖でも川でもない不思議な存在。氷河によって削られた谷に海水が流れ込み、氷の爪あとのようなフィヨルドが形成された。波はほとんどなく、鏡のような静かで透明感あふれる水である。
 今日の写真は、ホテルの部屋とテレビに映っているフェデラー、そして眼下に見られるグリーグの作曲小屋。この小屋が見える部屋を用意してくれたホテルのオーナーに、ひたすら感謝である。







 
 
 


| 麗しき旅の記憶 | 17:19 | - | -
スペインの風を感じて
 友人のTさんがスペインに旅をし、私の大好きな食材や料理本をお土産に買ってきてくれた。
 王室御用達のオリーブオイル、サフラン、紅茶。そしてバルセロナのカレンダーとなっている料理カレンダーと料理本。
 いずれも、スペイン好きの私の心をくすぐるものばかりで、最近のストレスフルな生活にひと吹きの涼風を吹き込んでくれる。
 Tさんは、バスク地方のラヴェルの生家を訪れたそうで、うらやましい限りだ。ラヴェルは私の大好きな作曲家だから。
 スペインは、音楽家ゆかりの地や、作品の生まれる基となった場所、作曲家がさまざまなものからインスパイアされたところが多く残されている。
 こういうお土産を眺めていると、そうした場所があれこれ浮かんでくる。しばし、夢を見させてくれるのである。
 とりわけ興味をそそられるのが、料理カレンダー。12カ月、郷土料理のすばらしい写真と、レシピが掲載されている。
 う〜ん、このアイデア、いいなあ。私も料理カレンダーを作りたくなってきたゾ(笑)。
 12人のアーティストを選んで、そのレシピをあてはめ、1年間楽しむというのはいかがだろうか。
 今日の写真は、スペインの風を運んできてくれたお土産の数々。ひとつずつ紐解いていくのが、たまらなく楽しみである。

| 麗しき旅の記憶 | 21:18 | - | -
ヨハン・シュトラウス2世の家
 ウィーンの地下鉄のNESTROY-PLATZ駅の近くに、ヨハン・シュトラウス2世が1863年から1870年まで住んだ家が残されている(2.Praterstrasse54)。
 ここは現在記念館として見学可能で、外観は堂々たる石造りの建物。内部はシュトラウスの使用していた家具や楽器、写真、肖像画、彫刻、楽譜、手紙、資料などが多数展示されていて、興味深い。



 この家では、代表作である「美しく青きドナウ」が作曲されている。
 もっとも興味深いのは、仕事机。シュトラウスは立って作曲することを好んだそうで、机は立ち姿で書けるような高さである。



 楽器ケースには、愛用のヴァイオリンが保管されている。



 作曲家の家というと、近年はメカニズムの発達により非常に現代的に変えられてしまっている家が多く、当時をしのぶことが困難な場合が多いが、このシュトラウスの家は作曲家が生きた時代をほうふつとさせる空気がただよい、どこからか「美しく青きドナウ」の調べが聴こえてきそうな雰囲気。
 この家のすぐ左隣にとても混んでいるレストランがあり、試しに入ってみたら、とてもおいしかった。
 観光客は少なく、地元の人たちが毎日ランチを食べに寄るようなアットホームなお店。ただし、店員さんの数が少なく、結構待ち時間が長かった。
 写真は、シュトラウス一家の写真をはめ込んだプレート。一番上がシュトラウス2世で、両側が弟のエドゥアルトとヨーゼフ。一番下にシュトラウス1世が置かれている。



 これって、父と息子の位置が逆じゃないの? お父さんが下というのは、なんか不思議な気がするけど…。
| 麗しき旅の記憶 | 22:55 | - | -
大分の新鮮な野菜
 今回の大分の出張は、荷物が往復で大きく異なった。
 行きは、キャリーバッグがガラガラで、着替えが入っている程度。ところが、講演が終わったときに、私のブログのファンだという女性が、野菜をたくさんお土産にもってきてくれたのである。
「この間から、ブログに安曇野の野菜がたくさん載っていましたよね。でも、別府にも、美味しくて新鮮な野菜は山ほどあるんですよ。先生、ぜひもって帰ってください。そして、たくさん召し上がってください」
 こういって、プレゼントされた野菜は、とてもキャリーバッグには入らない。講演の主催者側からも、お土産や資料をたくさんいただいたため、それだけですでにいっぱいになってしまったからである。
 担当のMさんが、「トートバッグ、もってきます」といってくれ、丈夫そうなトートバッグをもってきてくれたため、そこに野菜をすべて詰め込み、肩にかついで機内持ち込みにし、東京までもって帰った。
 帰宅してからじっくり野菜を眺めると、確かに新鮮で生き生きとした野菜ばかり。これにプラスして、「ごま田楽みそ」と「酢みそ」が入っていた。
 Yさん、ありがとうございました。ゆっくり味わいながらいただきます。
 本当に、今回は大分の食材のすばらしさに驚かされると同時に、さまざまな物を食べ尽くした感じ。
 出張に行くんだったら、やっぱり食のおいしいところに限るよねえ(笑)。
 今日の写真は、いただいた山盛りの野菜。



 そして、すぐに食卓に上った「菜の花とアンチョビのパスタ」、「サラダほうれんそうとガーネットトマトのサラダ」。すべてがフレッシュで味が濃厚、とりわけ菜の花のほろ苦さが絶品だった。
 


| 麗しき旅の記憶 | 22:37 | - | -
ピアノと室内楽の楽しみ
 昨日は、別府の「しいきアルゲリッチハウス」のサロンで、未来プロジェクト「ピアノと室内楽の楽しみ」の講演を行った。
 これは「クラシック音楽との出会いによる未来創造事業」の一環で、主催は別府アルゲリッチ音楽祭実行委員会が担っている。
 前日の夕方、大分空港に到着し、その夜は担当者との打ち合わせと食事会が行われた。とてもおいしいお料理をいただいたので、また次の機会に舌鼓を打ったお料理に関しては紹介したいと思う。
 私は今回、しいきアルゲリッチハウスを訪れるのをとても楽しみにしていた。大分名産の杉の木を使ったハウスのサロンは、木造りならではのとても温かな響きを備え、150席のアットホームな空間を有し、非常に美しい仕上がりだと聞いていたからである。
 初めて訪れた私は、まず外観の美しさに目を奪われた。北欧の森のなかにたたずむお洒落で粋なデザインをもったホールのような趣で、ハウスの入口の扉は樫の1本の木で作られたドアが設えてある。



 内部に一歩足を踏み入れると、等身大に近いアルゲリッチの写真がサインボードの横に立って出迎えてくれ、ホワイエには色彩の異なる椅子がずらりと並べられている。



 サロンはまさに渋い色合いで統一され、音響を考慮して木を互い違いに組み合わせた壁と、その色と統一感をもたせた椅子が並ぶ。
 すべてにこまやかな神経が息づき、隅々までこだわりの精神が行き届いている。
 そんな贅沢な空間に100名の受講生が集まってくれ、講演は始まった。いろんなDVDとCDをかけながら、ピアノと室内楽に関するさまざまな話をし、れいによってどんどん早口になり、それでも時間内にピタッとすべてを終えることができた。
 ここから質疑応答に入ったのだが、時間がオーバーしているため、忙しい人や時間のない人は帰るだろうなと思ったら、これがおおまちがい。だれも席を立とうとしない。そして次々に質問が飛び出した。
 みなさん、とても集中して講演に耳を傾けてくれ、目を輝かせたり、笑ったり、メモを取ったりと、非常に熱心に聞いてくれた。



 すべてが終了すると、広報の担当者から「面会したいという人がいます」といわれた。東京音大の卒業生で、地元で教職に就いているという男性が会いにきてくれ、さらに私のブログのファンだという女性にも会い、この人とは再会を約束した。
 今回の別府では、2日間にいろんなことがあり、たくさんの人に会い、新しい発見も多かった。
 また、徐々に紹介しま〜す。
 今日の写真は、お世話になったスタッフの方々。最後は全員が総出で、タクシーで空港に向かう私を見送ってくれた。ずっとみんなが手を振ってくれ、なんだかホロリとしてしまった。



 スタッフのみなさん、本当にお世話になりました。すべてにおいて万全の準備をしていただき、無事に講演を終えることができました。本当にありがとう、感謝しています。
 ハウスのサロンは、CDをかけたとき、本当にすばらしい音響で音楽が鳴り響いた。次回は、ここでぜひナマの演奏を聴きたい!
| 麗しき旅の記憶 | 22:20 | - | -
グリューワイン
 ドイツやフランスなどでは、寒い冬になるとワインと香辛料などを温めて作るグリューワインが登場する。
 これはバーやカフェ、レストランなどでも飲むことができるが、町のキオスクのようなところでも気軽に買うことができる。
 以前、極寒のドイツに取材旅行にいったとき、オフタイムにひとりでケーテンまで足を延ばした。
 駅に着いたら、ものすごい寒さでブルブル。これから町を歩くのには、かなりの勇気を要するなと思っていたところ、ふと見ると駅の売店に「gluhwein」の文字が。
 早速、1ユーロで買い求め、からだの奥まで温まった。
 なんとも安く、簡単なあったまり方だ。これで町歩きは寒さ知らずだった。
 家でも作ってみるが、気候が違うのだろうか、ワインや香辛料の違いだろうか、どうもヨーロッパの味にはならない。
 今日の写真は、ケーテンの駅構内の売店。こういうところで、ひとりでグリューワインをあおるというのも、旅の貴重な思い出である。ちょっと、日本では昼間からできないもんね(笑)。


 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:41 | - | -
チフヴィン墓地
 海外出張に行くと、取材の合間を見て、美術館を訪れたり音楽家の墓地に詣でたりするのが楽しみだ。
 サンクト・ペテルブルクで欠かせないのは、チフヴィン墓地である。
 ここはメトロのプローシャチ・アリクサンドラ・ネフスコヴォ駅の近くに位置している。
 メトロの駅前の広場からアレクサンドル・ネフスキー大修道院に向かう道路の両側には、チフヴィン墓地とラザレフ墓地というふたつの大きな墓地があり、チフヴィン墓地の方は、芸術家や文学者が多く眠っている。
 一方、ラザレフ墓地には建築家、科学者などのお墓が多い。
 チフヴィン墓地は豊かな緑に囲まれ、チャイコフスキー、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、そしてドストエフスキーのお墓がすぐに見つかる。
 どのお墓も個性的な彫刻やデザインに彩られ、存在感がある。
 とりわけ、チャイコフスキーのお墓は人気があり、世界中のファンが詣でるためか、献花が絶えない。
 サンクト・ペテルブルクは多くの観光名所があるが、チフヴィン墓地はこの古都きっての巡礼地といわれ、朝から夜まで混雑している。
 また、ロシアを訪ねることがあったら、再訪したい場所である。
 今日の写真は、チャイコフスキーとドストエフスキーのお墓。いろんな人のお墓を探したが、このふたりがダントツの人気を占めていた。




 
| 麗しき旅の記憶 | 22:35 | - | -
ウィーン楽友協会 作曲家の彫像
 ウィーンの楽友協会(ムジークフェライン)には何度か取材にいっているが、そのつど随所に飾られている作曲家の彫像に見とれてしまう。
 それぞれ非常によく創られたもので、作曲家の特徴をリアルに伝えているからである。
 もちろん、ウィーンには公園や広場などに作曲家の像がたくさん置かれているが、これらは主として雨ざらしの状態である。それでも、みな保存状態がよく、音楽ファンや観光客による記念撮影のよき被写体となっている。
 楽友協会の彫像は屋内にあるため、創られた当時のままのよい状態を保っている。
 これらは屋外のものと異なり、目立った感じでもなくさりげなく置かれているため、写真の被写体となることはそう多くない。
 今日の写真は黄金のホールの廊下にあるフランツ・リスト、フーゴー・ヴォルフ、グスタフ・マーラー、そして小ホールのブラームス・ザールにあるヨハネス・ブラームス。
 本当に、作曲家の特徴をよくとらえているでしょう。








 
| 麗しき旅の記憶 | 22:03 | - | -
シュトラウス&ランナーの像
 ウィーンには音楽家の像が数多くあり、それらはいつも人でにぎわい、写真の被写体となっている人気の高い像と、あまり人が訪れない像とに分かれる。
 ブルク劇場の向いに建ち、高い尖塔をもつ市庁舎の公園にあるヨハン・シュトラウス1世とヨーゼフ・ランナーの像は、後者ではないだろうか。
 以前、ウィーン郊外の温泉保養地、バーデンの公園にあるシュトラウスとランナーの像をブログにアップしたことがあるが、こちらは目立つところに建っているためか、多くの人が写真を撮っている。
 一方、市庁舎公園の像は、目立たない場所にひっそりと建っているためか、いつ訪れても人影はない。
 真相は定かではないが、実はこのふたりはあまり仲がよくなかったとか。
 しかし、いずれの像も親しい友人のような表情を備え、当時のウィーンのワルツやポルカなどの舞踏音楽を牽引していた雰囲気をたたえている。
 シュトラウス1世は、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートのアンコールの定番、「ラデツキー行進曲」で知られる。これはイタリアを征服した、ラデツキー将軍の凱旋祝賀会で演奏するために書かれた。
 作曲は1848年3月、ウィーンの動乱のさなかに行われている。
 当時、メッテルニヒの圧政に反抗する学生や労働者を中心とした市民が武器をとって立ち上がり、メッテルニヒを失脚させ、皇帝を退位に追い込んだ事件があったが、そのさなかに書かれた。
 このときシュトラウス1世は政府の側に立ち、軍隊の士気を鼓舞するためにこの行進曲を書いたと伝えられている。
 その後、この作品の政治的な色彩は次第に忘れられ、いまでは国民的に愛されるようになり、吹奏楽のスタンダード・ナンバーとしても愛好されている。
 ランナーはシュトラウス一家に先立ってウィンナ・ワルツの様式を確立したことで知られ、シュトラウス1世が「ワルツの父」、その息子のシュトラウス2世が「ワルツの王」と呼ばれるのに対し、「ワルツの始祖」と称される。
 「シェーンブルンの人びと」「宮廷舞踏会」「ロマンティックな人びと」などの作品を次々に世に送り出した。
 当時は、ランナーもシュトラウス1世も自身の楽団を率い、ワルツやポルカやレントラーなどで人々の人気を得、競い合い、「ワルツ対決」とまでいわれたという。
 そのおかげで、いまなお私たちはすばらしい曲の数々を聴くことができるわけだ。
 今日の写真は、市庁舎公園の裏側の入口付近にひっそりとたたずむ、シュトラウス1世とランナーの像。


 
 

 
 
| 麗しき旅の記憶 | 14:48 | - | -
トーマス・イェプストル
 10月初旬のウィーン出張でインタビューをしたウィーン・フィルのメンバーは、みんな誇りをもってウィーン・フィルのことを熱く語ってくれた。
 これはJALの国際便の機内誌「SKYWARD」12月号に掲載されているが、文字数に限りがあるため、インタビューの内容を詳しく書くことはできなかった。
 そこで、ヤマハのWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」で、彼らの熱弁を紹介したいと思う。
 まず、ホルン奏者のトーマス・イェプストルに登場してもらおう。
 彼はウィーン・フィル特有のウィンナホルンについて語ってくれ、通常のホルンとはどこが違うのか、そしてウィーン・フィルのオーディションをなぜ受けたのか、このオーケストラでの演奏はいかなるものなのか、ということを楽しそうに話した。
 この記事は、12月22日にアップされる予定である。
 インタビューは、私の好きなカフェ・ラントマンで行われた。楽器をひょいと肩にかつぎ、陽気な笑顔で現れた彼は、とてもラフないでたち。ウィーン・フィルのメンバーというよりも、ジャズかポップスの演奏家のよう。
 いや、そうじゃないな。よく見ると、オーランド・ブルームに似ている。
「クルマが混んじゃって、止めるところもないし、遅れちゃってごめん」
 こういって、フランクに話し始めた。
 今日の写真は、インタビュー後のおどけた表情のイェプストル。



 でも、この写真を「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」に使うわけにはいかないから、もう1枚のホルンを抱えたシリアスな表情の方を使おうっと。
 来週アップの記事、ぜひ読んでくださいね。



 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:39 | - | -
ショパンの最後の家
 クリスマスが近づいてくると、以前この時期にパリを旅したときのことが蘇ってくる。
 いろんな作曲家の足跡を訪ねたが、ヴァンドーム広場のショパン最後の家を訪れたときは、広場にクリスマスツリーが飾られていて、とても美しかったことを思い出す。
 ショパンの最後の家はホテル・リッツの向かい側で、現在では1階が宝石店ショーメになっている建物。ショパンが住んだのはその上の階とされている。
 1849年9月末、体調が悪化したショパンは、パリの町はずれのシャイヨー通りにある小さな2階建ての家から、日当たりがよく秋冬を暖かく過ごせるヴァンドーム広場12番地の家に移ったが、ここで2週間後に息を引き取っている。
 この家からは一歩も出られなかったようだ。
 ヴァンドーム広場は、いまでは高級ホテルや商店が軒を並べ、とてもゴージャスな雰囲気。だが、ショパンはこの広場を散策することはできなかった。
 作曲家の生家や住んだ家、作品を書いた家を訪ねると、その家の様子から作曲家のそのときの状態を垣間見ることができる。
 経済状態や精神状態、交流関係まで想像でき、興味は尽きない。
 ショパンの最後の家の前に立つと、ショパンの心の叫びが聞こえてくるようで、感無量だ。
 今日の写真は、クリスマスツリーが美しいヴァンドーム広場。ショパンが住んだことを記す壁面のプレート。建物全体の様子。






| 麗しき旅の記憶 | 23:27 | - | -
SKYWARD12月号
 10月初旬にウィーンに出張し、JAL国際便の機内誌「SKYWARD」12月号に書いた記事が、ようやくアップした。
 今月いっぱい、JALの座席前のポケットに入れられているはずだ。
 今月、JALの国際便に搭乗する機会があったら、ぜひ見てくださいね。
 これはカラー13ページの巻頭特集で、写真がふんだんに使用されている。私は、ウィーンの歴史、ウィーン・フィルのこと、ウィーン・フィルのコンサートマスターたちのインタビュー、楽友協会と国立歌劇場の責任者、弦楽器工房のマイスターなどのインタビューを綴った。
 9月から10月にかけては、ロサンゼルスのドミンゴのインタビューとこのウィーン出張があり、ウィーンの記事はすでに終了しているが、ドミンゴの記事はまだまだ続いている。
 新聞、一般誌、女性誌、音楽専門誌、WEB、プログラム、新譜のライナーノーツと、かなりの数の原稿を書いてきた。
 こういう記事の場合、もっとも大変なのは、文章の書き分けである。なんといっても、インタビューは1度だけ。それも時間が限られていた。
 その内容をさまざまな形に肉付けし、書く媒体に合わせて練り直し、読者のことを考えて書き方を工夫しなければならない。
 もちろん、文字数も影響してくる。
 短い記事の場合はエッセンス的なものとなり、長い場合はこれまでのドミンゴのインタビューなどを盛り込んで構成していくことになる。
 さて、これも終わりが近づいてきた。
 昨日はリュカ・ドゥバルグのリサイタルに行き、新鮮な気持ちになって帰宅し、その後、「家庭画報」の特集号の原稿の続きを書き上げた。
 毎日、夜中まで仕事をしているため、のどの調子がまだ完全には治らない。きっと少しゆっくりできるまで、この調子が続くのだろう。
 今日の写真は、届いたばかりの「SKYWARD」12月号。表紙はモーツァルトの像、特集の巻頭ページは楽器とベートーヴェンの像とウィーンの風景。
 いろいろと大変だったけど、こうして出来上がってみると、苦労は吹き飛ぶわねえ、不思議なもんだ。




 
 
| 麗しき旅の記憶 | 23:53 | - | -
アントン・ブルックナー
 1994年3月、JTBが企画した「旅のシラブル 伊熊よし子と行く音楽家ゆかりの地」と題するツアーで、アントン・ブルックナーゆかりのオーストリア・リンツにあるサンクト・フローリアン修道院を訪れた。
 ものすごく寒い季節で、リンツの深い森のなかをバスで進むうちに、参加者はみな凍えそうな寒さにブルブル。修道院に着いてからも、極寒のなかでの見学となった。
 ただし、ブルックナーが弾いていたオルガンや、広大な図書館などを見て、とても深い感動が心に押し寄せてきたことを覚えている。
 参加者にいろんなことを説明するなかで、私自身もブルックナーの交響曲がこうした深い森に根差していることを実感した。
 今秋、ウィーンを訪れた際、ブルックナーの最晩年の住居、ベルヴェデーレ宮殿の一角にある家を訪れた。
 ここは、1895年に皇帝フランツ・ヨーゼフ2世が無償貸与した家で、足が弱ってきたブルックナーのために1階の部屋が用意されたという。
 何度も訪れているが、またゆっくり訪れてみると、あの深い森の深遠さと静謐さが蘇り、交響曲を聴きたくなった。ブルックナーはこの家で1896年10月11日に息を引き取っている。
 ブルックナーの遺体は、生前の希望により、サンクト・フローリアン修道院の教会地下納骨所、パイプオルガンの真下に安置されている。
 今日の写真は、ベルヴェデーレ宮殿の家の外観と記念の碑板、ウィーン市立公園の記念像。





| 麗しき旅の記憶 | 22:49 | - | -
ベートーヴェン像
 ウィーンのベートーヴェン広場に堂々たる姿を見せているベートーヴェン像は、非常にリアルな顔立ちをしている。
 実は、私のHPのフロントページには、現在ベートーヴェンの散歩道の像の後ろ姿を使用しているが、最初はこのベートーヴェン広場の像を使おうかと考えていた。
 いつ訪れても、何度見ても、この像は「ウィーンに来た」ことを実感させてくれ、私のベートーヴェン好きに拍車をかける。
 広い道路沿いのゆったりとした広場に置かれた像は格好の被写体で、各国から訪れた観光客がみんな像を背景に写真を撮っている。
 それゆえ、人を入れずに写真を撮るのが非常に困難である。
 ウィーンには作曲家の銅像や胸像が数多く点在しているが、私はいつもこのベートーヴェンに会うことを楽しみにしている。
 ここに来ては、いつも「今日は、こういう仕事で来ました」「いまはこんな気持ちを抱いています」「毎日とてもストレスが多いけど、あなたの顔を見たら勇気が出ました。また頑張ります」などと話しかけている。
 すると、不思議なことに、心がスーッと軽くなる感じがするのである。
 今日の写真は、そんな私の心を癒してくれるベートーヴェン像。小学生のころから、ベートーヴェンが大好きだった。特に「皇帝」の第2楽章が…。


 
| 麗しき旅の記憶 | 23:02 | - | -
ムジークハウス・ドブリンガー
 ウィーンに行くと、必ず寄るお店がある。
 Dorotheergasse10にある楽譜店、ムジークハウス・ドブリンガーである。
 ここは1876年創業の老舗で、ヨーロッパ屈指の品揃えを誇り、海外に送付もしてくれる。
 常に音楽家や留学生、音楽愛好家でにぎわっていて、何時間いても退屈しない。
 通りをはさんで2件あり、ひとつはアンティークと合唱・教会音楽専門。もう一方は、クラシックとCDなどが並ぶ。
 書籍や各種の資料も数多く置いてあり、楽譜に関しては、質問するとお店の人がいろいろ調べてくれたり、商品を探してくれたり、とても親切である。
 毎年、秋になると翌年のカレンダーも発売となり、作曲家や演奏家、音楽にまつわる場所や絵柄のカレンダーが顔をそろえる。
 チェンバロを弾いていた時代には、ここで楽譜を探すのが無上の喜びだった。いまは楽譜を探すことよりも、いろんな書籍や資料を見て、新たな発見をしている。
 今日の写真は、ドブリンガーの店内。各コーナーにきっちり分けられているため、非常に効率よく見て回れる。
 コールマルクトの近くなので、楽譜に興味のある方は、ウィーンを訪れたらぜひ訪ねてみてくださいな。知識欲、全開になりますよ(笑)。







 
| 麗しき旅の記憶 | 23:18 | - | -
ホテルの玄関に馬が
 今回、ウィーンの宿泊先のホテルの玄関に、本物の馬がいたのには驚いた。
 これは剥製で、かなり大きな馬である。
 ホテルの入口を入った正面に飾られていて、近くで見ると本当に大きい。
 以前、ハワイの牧場で馬に乗ったことがあるが、見ているよりも実際に乗った方が高さの実感が湧く。
 ホテルの馬は、エレベーターの隣にあるため、毎日何度となく眺めることができた。とても美しい姿をしていて、惚れ惚れしてしまう。
 ウィーンには、現在も観光馬車がたくさん走っていて、馬を見る機会は多い。
 だが、このホテルの剥製のように引き締まったからだの馬を見ると、本当にその美しさに目が離せなくなってしまう。
 今回は、作曲家の生家や住居をずいぶん回った。そのいずれもが、道路側の門は殺風景だが内部に一歩足を踏み入れると美しい中庭があり、その庭を囲むようにして部屋が作られていた。
 これは、馬車が入りやすくなっているそうで、中庭は馬車が止められる広さを確保しているとのこと。馬が休むところや水を飲むところが作られていて、当時の生活を垣間見ることができた。
 今日の写真は、ホテルの入り口正面に置かれた馬。チェックインで入ってきた人が、みんな「エーッ」という驚きの表情で眺める。
 もちろん、私も最初は「本物かしら」と、恐る恐る近くまで寄ってみた。ハイ、まさに本物でした(笑)。

| 麗しき旅の記憶 | 23:32 | - | -
ドナウタワー
 今回のウィーン滞在中、初日に高台から旧市街を臨む写真を撮ったらいいのではないかという話になり、ドナウタワーに向かった。
 ドナウ公園にある高さ252メートルのタワーで、160メートルと170メートルの高さに回転レストランがあり、150メートルのところに展望台がある。
 ウィーンはニューヨーク、ジュネ―ヴに次いで第3番目の国連都市で、ドナウ川の本流沿いに未来都市のような町が開け、各種の国際機関もここを本拠地としている。
 その町の中心に建っているのが、ドナウタワーである。
 展望台から下を見下ろすと、庭付きの一軒家がずらりと並び、ドナウ川に沿ってテニスコートやサッカーの練習場、サイクリングロード、ウォータースキー用のリフト、ボート乗り場などが点在している。
 そして、はるかかなたにはウィーンの町が見える。
 きっと高所恐怖症の人はダメだと思うが、ぐるりと360度にわたって下の景色が変わっていく。
 この日は、入口付近からずいぶん人が多くてにぎわっているなあと思ったら、上でバンジージャンプをやっていた。
 その写真を見てもらうとわかるのだが、ちょんまげスタイルの若者が、バンジージャンプに挑戦。彼の足首に巻かれている黒い布の後ろが輪になっていて、これをがっちりしたフックに取り付け、一気に吊り下げるのである。
 さすがに「ギャーッ」というものすごい悲鳴を上げるのだが、何度か上下に揺すられ、その吊り下げられ方がうまい人に賞が出るのだとか。
 いやはや、よくやるよねえ。この若者、祖父も挑戦したそうで、アドレナリンが全開になるそうだ。



 ドナウタワーは、こんな利用法もあるのだと初めて知った。
 私たち取材班はレストランには入れなかったが、きっとこの回転式レストランでウィーン市街をゆっくり眺めながら食事をしたら、味も格別かもしれない。
 写真は、ドナウタワーからの眺望。国連都市ゆえ、この一角には学校やその他の施設も完備し、とても住みやすいのだそうだ。夏には川で泳いだり、ボートに乗ったり、日光浴も楽しめるという。ウィーンの別の顔を見た感じ。


 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:41 | - | -
ウィーン・フィルのスケジュール
 ウィーンは音楽の都と称されるが、さまざまな場所にオペラやコンサートの予定を掲載した雑誌や新聞、情報誌が置かれている。
 なかでも、ウィーン楽友協会の「MUSIKFREUNDE」と題された隔月刊の雑誌は、見ごたえがあり、貴重な資料ともなる。
 9月・10月号の表紙は、リッカルド・シャイー。私がウィーンを訪れていたときに亡くなった(10月2日、享年92)サー・ネヴィル・マリナーのインタビューも掲載されている。
 マリナーの訃報が伝わったときには、楽友協会の表玄関に半旗が掲げられ、偉大なる指揮者に追悼の意を表していた。
 実は、10月4日にはマリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズのコンサートが予定されていて、楽友協会では替わりの指揮者を立てず、指揮者なしでのコンサートとなった。
 その日に、楽友協会芸術監督のトーマス・アンギャン氏にマリナーについて聞くと、「とても謙虚で、音楽に対して常に真摯に向き合う人でした。一緒にたくさん話もしましたし、食事もしましたが、いつもすばらしい英国紳士という感じの方でした」と語っていた。
 もう1冊は、楽友協会の2016/2017年のシーズン・プログラム。「黄金のホール」に因んで、黄金色の表紙がゴージャスな感じだ。
 このプログラムを見ると、いまウィーンで愛されている音楽家、または国際舞台で活躍している音楽家が一目でわかり、非常に興味深い。
 こうしたウィーンの出版物は、編集者だった私を大いに刺激し、「日本でも、こんな冊子が作りたいなあ」という気持ちがむくむくと湧いてくる。
 特に「MUSIKFREUNDE」は、巻頭のインタビュー記事や特集ページが充実していて、デザインも粋で美しい。
 ホント、こういう冊子、作りたい。
 いまは活字離れが進み、雑誌も売れ行きがよくないといわれるが、もっているだけでなんだか心がウキウキしてくるようなこういう冊子なら、みんなが手にしたいと思うのではないだろうか。
 ウィーンは、いろんな意味で私の心を刺激する。
 今日の写真はその2冊。いいよねえ、こういうのって、眺めているだけで、どこかから音楽が流れてくる感じ…。


 
| 麗しき旅の記憶 | 23:19 | - | -
ベルヴェデーレ宮殿で朝食を
 今回のウィーン取材は、雨にたたられた。
 私は海外取材にいって傘をさすことはほとんどないのだが、今回は最初から最後まで天候不順。
 初日だけ、ある程度の晴れ間が見えたくらいで、連日雨ばかり。ウィーンは山の天候というのか、お天気が変わりやすく、パッと青空が見えたと喜んでいると、すぐに厚い雲が押し寄せてきて、パラパラと雨が落ちてくる。
 そのなかで、ウィーン市内を一望できるベルヴェデーレ宮殿にいったときは、束の間の晴天に恵まれた。
 ここは、私が20代のころ初めてウィーンを訪れたときに感動した場所。その宮殿や庭園はまったく変わらず、なつかしい思いに駆られるが、現在は訪れる人が多く、以前とは様変わり。
 写真は、宮殿から市内を臨むところ。



 そのなかで、もっとも驚いたのが、宮殿の横にアウトドアのカフェができていたこと。訪れたのは初日の午前中だったが、ここでは観光客らしき人たちが、朝食を楽しんでいた。
 そうか、ホテルで食べずにこういう方法があったのね、と新たな発見をした思い。
 ベルヴェデーレ宮殿の庭園で朝食を摂るなんて、なんと粋なこと。きっとパンとコーヒーだけでも味わいが深く、思い出に残るに違いない。次回は試してみようっと(笑)。
 写真は、そのカフェの様子。特別なメニューがあるわけでも、しゃれた雰囲気がただようわけでもないが、場所が場所だけに、時間が許せば、ぜひお茶の一杯でも飲みたかった。


 
 
 
| 麗しき旅の記憶 | 21:56 | - | -
ウィンナ―・シュニッツェル
 ウィーンを旅すると、みんなが必ず食べるのがウィンナー・シュニッツェルだ。でも、すべてのお店のシュニッツェルがおいしいというわけではない。
 仔牛肉の厚さ、揚げ油の鮮度、衣の内容など、本当にさまざまである。それらが見事にマッチしたときに、美味なるシュニッツェルが生まれる。
 今回、ウィーンのホテルと観光局の担当者のお薦めが一致し、訪れたのがhuth。Schellinggasse5に位置するオーストリア料理のレストランで、通りをはさんで2軒あり、ひとつはバーガーが主体。そしてもうひとつは、シュニッツェルがおいしいレストランである。
 ワインも豊富にそろっていて、ウィンナー・シュニッツェルも付け合わせのポテトサラダもとてもおいしかった。
 実は、最初に訪れたときは、そんなに混んでいるとは知らず、予約をしないでいったところ、どちらのお店も満杯状態。そこで翌日、予約をしてから再訪したという次第である。
 よく、ウィーンのレストランでは、厨房の奥から仔牛肉を肉たたきでドンドンと叩いている音が聞こえてくるが、huthでも、シュニッツェル用にお肉をたたいている音が聞こえていた。
 今回の旅では、その音に特徴があったのがもうひとつのお店。アーティストにインタビューをするため、ウィーン国立歌劇場を訪れたのだが、その待ち合わせ場所がオペラ座のなかのレストランというか、いわゆる社員食堂。オペラ座関係の仕事をしているさまざまな人たち、そして幕間や休憩時間には指揮者、歌手、ウィーン・フィルの人たちも訪れるところである。
 これまで楽屋には入ったことがあるが、食堂は初めてだった。
 とても素朴な作りで、トレーをもって並び、飲み物や食べ物を受け取り、その場で支払いを済ませるスタイル。
 この場所は、私には特別なところに映った。なぜなら、壁一面に歴代の指揮者やオペラ歌手の写真が飾られていたからである。
 ただし、こういうところは仕事でパスを受け取って入れてもらうため、写真を撮ることは控えた。
 もう亡くなってしまった偉大な歌手たちのスナップ写真や舞台衣裳を着けた写真を眺めていると、ここが伝統を受け継ぐオペラの殿堂だということがわかる。
 そのお店の奥からも、お肉をドンドンとたたく音が聞こえてきたため、シュニッツェルの伝統も引き継がれていることを実感した。
 今日の写真は、すべてにバランスがとれた、huthのおいしいウィンナー・シュニッツェル。よくお皿からはみ出た、ものすごく巨大なシュニッツェルがあるが、ここはほどよい大きさだった。もちろん完食です!


 
| 麗しき旅の記憶 | 22:38 | - | -
ウィーンといえばコーヒー(?)
 ウィーン出張から、本日帰国しました!
 今回の取材は、JALの国際便の機内誌「skyward」12月号の第1特集のカラー13ページ。
 主たる内容はウィーン・フィルで、ウィーン楽友協会や国立歌劇場のホール内部、総監督のインタビュー、ウィーン・フィルのメンバーのインタビューに加え、ウィーン・フィルが愛する作曲家ゆかりの家や教会や場所を巡り、さらに郊外まで足を延ばし、周辺の地も撮影した。
 しかし、1日目は曇りで、時折雲の合間から陽が射すこともあったが、ほとんど毎日が雨模様。カメラマンは四苦八苦し、なんとか晴れ間を見て、撮影をした。
 2年前の「家庭画報」のウィーン・フィル特集で会った人にも再会し、また今回もさまざまな音楽関係者に話を聞くことができた。
 やはり連日雨にたたられると、ひとつの仕事が終わるたびに、スタッフ全員がコーヒーを飲みにカフェに入る。
 ウィーンは伝統的なカフェ文化が色濃く残り、よき時代のカフェがそのままの雰囲気で現在に息づいている。
 私はウィーンに行くと、必ずカフェ・ラントマンに出向くが、今回もウィーン・フィルのメンバーのひとりにここで話を聞くことができた。
 これから少しずつウィーンの様子を写真を交えながら紹介していこうと思っているが、雑誌が出る前に紹介することはできないため、かなり先になってしまうと思う。
 でも、コーヒーのことだったら問題ないため、今日の写真はカフェ・ラントマンの外観と私の大好きなメランジュの登場。いわゆるミルクたっぷりのコーヒーで、生クリームがトッピングされているものもある。ウィーンではケーキにも生クリームがたっぷり添えられて出てくるが、甘さが抑えられたクリームで、とてもあっさりしていておいしい。





 ウィーンには何種類ものコーヒーがあり、「ABC OF COFFEE」という冊子には、あらゆるコーヒーの種類が記されている。



 ウィーンはアルプスからの水を使っているため、ミネラルウォーターを頼まなくても大丈夫。コーヒーには必ず水が添えられ、これがすこぶるおいしい水である。
 もちろん、ケーキも毎日いただきました(笑)。また、順次紹介しま〜す。
 仕事はいろいろと大変な面もあったけど、終わってみれば、すべてうまくいき、私の頭のなかでは13ページ分の構成がすでに出来上がっている。
 あとは、週明けに編集担当者とこまかい打ち合わせをし、各々のページ配分を決めていくことになっている。
 これ以外にも、帰国したらわんさか仕事のメールが入っていて、ひとつずつ返事をし、今日は1週間の留守中の仕事をまとめておこなった感じ。
 さすがに、お昼に自宅に戻ってから一気に片付けたため、いまは疲労困憊。連休中に心身を立て直さなくっちゃ。
 
 
 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:13 | - | -
旅の友
 仕事上、旅の多い私は、これまでいろんな種類のスーツケース、キャリーケースを使ってきた。
 最初はデザインに凝ったり、楽しく旅ができる美しいスーツケースを選んでいだか、次第に、実用的で飽きのこない、しかも目立たない物を選ぶようになった。
 空港で投げ飛ばされても壊れず、持ち運びが簡単で、内部も機能的な物がいい。
 いま使っているスーツケースはinnovator、キャリーケースはAILDデザインの物である。
 4輪で、ケース自体はとても軽く、特に大きくはない。でも、内部はとても使いやすく作られている。
 これまでいくつのスーツケースが使えなくなったり、破損したりしただろうか。
 不思議なことに、初めてヨーロッパ旅行にいった20代のころに買ったスーツケースをまだ覚えている。
 オリエント急行(立派な方ではなく、ごくふつうの列車だった)でパリからヴェネツィアまで行ったとき、女ふたり旅だったため、夜中にそのスーツケースを横に置いて、不安そうな顔をした写真が残っている。
 さて、明日の用意はすべて終わった。
 明朝5時起きで、空港に向かわなくてはならない。
 今日の写真は、現在の旅の友、スーツケースとキャリーケース。ロサンゼルスはキャリーだけ、今回のウィーンは大きい方をもっていく。




 
 
| 麗しき旅の記憶 | 20:56 | - | -
帰国しました!
 本日、午後2時に成田に着きました。
 いやあ、今回は肉体的にも精神的にも、とってもハードな出張でした。
 とはいえ、最後までどうなるかと、もめにもめたインタビューも、結果的にはうまくいき、いまはホッと胸をなでおろしている。
 ロサンゼルスは本当に久しぶりだったが、街が様変わり。治安がかなりよくなり、明るい感じで、人も本当に陽気でおおらか。
 人種のるつぼという感じは変わらなかったが、ひとりで街を歩いていても、以前のような危険な様子はまったくなく、あまりの変貌にびっくりするほどだった。
 ただし、油断は禁物。常に、注意を払っている必要がある。
 仕事は、てんやわんやの状態で、最後の最後までインタビュー時間や場所、内容などが二転三転。
 ようやくアーティストが目の前に現れたときは、緊張するよりも安堵感がただよった。
 海外取材は、本当に現地に着いてみなければわからない要素がたくさんある。
 このアーティストに関しての情報は、10月になったら、情報公開が可能になりそうだ。
 というわけで、今回は、取材中のちょっと横にそれた話題をふたつ。
 アメリカの食事は、量がけたたましく多いのは周知の事実だが、今回もどこにいっても何を頼んでも、どっさり出てきて、全部は食べきれなかった。
 今日の写真はその代表例。これはホテルの朝食に頼んだスクランブルエッグ。アスパラガスやほうれんそうが山ほど入っているのだが、大味でちょっぴりぱさぱさしている。
「う〜ん、スクランブルエッグって、バターをたっぷり使ってフワフワに仕上げるのがおいしいのに…。ちょっと厨房に入って、自分で作っちゃおうかしら」
 とまあ、かように思った次第であります。



 実は、もう1枚の写真はそのときに出会ったキュートな男の子。
 私は以前にも書いたが、犬や猫にずいぶんなつかれる。動物が自然に寄ってくるのである。
 と同様に、子どもにも好かれるようだ。自分でいうのはなんなのですが…。
 今回、ホテルのダイニングで、ひとりで朝食をとっていたら、どこかからの視線を感じた。
 隣のテーブルに若いお父さんに連れられてきた金髪のかわいい男の子が、ごはんも食べないで、じっと私の方を見ているのである。
 困ったなあ。どうあいさつしたものか。
 すると、お父さんが振り返って、「どうもすみません。子どもがじろじろ見ているみたいで。ごめんなさい」といった。
 そこで私は、「ハーイ、ぼくの名前は?」と聞いた。
 グレイソンという名の男の子は、なんと、この日が誕生日なのだという。
 それでは、記念に写真を撮っていいかとお父さんに訪ねると、「どうぞどうぞ、グレイソン、よかったねえ。写真、撮ってくれるんだってよ」
 というわけで、私は席から立ち上がってキュートな彼をパチリ。
 でも、それまでニコニコしていたグレイソンは、写真を撮られるとなったら、急にシャイな表情になってしまった。
 照れ屋さんなのね。
 この日は、まだ取材スタッフがそろっていないため、私はひとりで食事をしていたのだが、こんなかわいい子と出会えたため、なんだか心が温かくなった。
 さて、のんびりしていたのはここまで。この後は、怒涛の取材が始まった。
 また、じっくり報告しま〜す。
 まだ、帰国したばかりで、時差と疲れで頭もからだもボロボロ。とにかく、速く元に戻さなくっちゃ。


| 麗しき旅の記憶 | 21:05 | - | -
バッハの像
 ヤマハのWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」で、J.S.バッハのシリーズを書いていることは先日ブログに綴ったが、今週木曜日アップの記事でひとつの区切りとし、またしばらくしたら再開しようと思っている。
 バッハの足跡をたどる旅は何度か行い、そのつど写真も撮っているが、どうやってもバッハに似ていない像に出会うことがある。
 私が、もっとも似ていないなあと感じたのは、アルンシュタットの広場にある像だ。
 訪れたのは、2009年1月。100年ぶりの寒波がドイツを襲ったときで、まさに極寒の地だった。
 アルンシュタットは、チューリンゲン州最古の都市といわれ、歴史と伝統を誇るところ。バッハが18歳のときに過ごした土地で、初めて独立して仕事に就いた場所として知られる。新教会(1935年にバッハ教会と改称)のオルガニストとして赴任したのである。
 この市庁舎広場にあるバッハ像は、若きバッハの生き生きとした表情が映し出されているものの、私が訪れたときは雪にまみれて顔の表情はわからない。雪のサングラスをしているような感じになっていた。
 もちろん写真で見ているため、その像は知っていたが、やはりバッハだといわれなければわからないほど、似ていない。
 だが、椅子に腰かけて足を前方に伸ばしているそのスタイルは、とてもバッハ像としては珍しく、斬新である。かなり大きな像で、存在感たっぷり。
 バッハ生誕300年を記念して、1985年に建立されたという。
 この広場に面したレストランで、暖をとるためにランチを食べたため、この像はよく覚えている。
 今日の写真は、寒波のなかにたたずむバッハ像。このつま先をみんながなでるため、ピカピカになっていた。なんでも、なでると願いが叶うそうだ。


 
| 麗しき旅の記憶 | 23:01 | - | -
大好きなプチホテル
 旅に出ると、路地裏にひっそりとたたずむプチホテルを探して宿泊する。
 観光客でにぎわうマンモスホテルは設備も充実し、アクセスも便利で、朝食などもビュッフェスタイルで種類が多い。
 だが、ヨーロッパの貴族の館を改装したり、修道院をリノベーションしたり、個人宅を開放したりしているプチホテルは、別世界へといざなわれる特別な場所である。
 私が大好きなパリのプチホテルに、オテル・デ・サン・ペールがある。
 サンジェルマン・デ・プレ大通りから1本入った、とても静かなサン・ペール通りに面していて、気をつけていないと通り過ぎそうな感じの入口である。
 ドアを押して入ると、こぢんまりとしたロビーがあり、その奥のガラス扉を押すと中庭に出る。ここでは朝食を摂ることもできる。
 貴族の邸宅を改装したホテルで、ひとつ部屋ずつすべて内装が異なっている。
 私は最上階のメゾネットになった部屋が好きで、下の部屋から細いらせん階段を上ると、上階にバスルームがある。とても優雅なたたずまいである。
 ここはアルフレート・ブレンデルのパリの定宿だそうで、外の喧騒が嘘のように静かな落ち着いた雰囲気が彼のお気に入りなのかもしれない。
 このホテルは地下鉄の駅が近く、どこにいくのもとても便利。夜遅く帰っても、怖い感じがしない。
 こういう場所にゆっくり滞在すると、歴史の息吹を感じ、パリの奥深さを思い知らされる。ホテルの周辺は美術関係や骨とう品のお店も多く、芸術家が足しげく通ったカフェなども点在している。
 ああ、またオテル・デ・サン・ペールにいきたくなってきた。
 本を抱え、新譜をipodに入れ、旅に出たい。
 締め切りが重なって動きが取れないときに限って、こういう思いが頭のなかをグルグル、ちょっとアブナイ状況かも(笑)。
 今日の写真は、ホテルの外観とガラス扉の奥の中庭。ねっ、いい雰囲気でしょう。


 
| 麗しき旅の記憶 | 22:26 | - | -
ベートーヴェンの家
 ベートーヴェンの曲目解説の原稿を書いていたら、急にハイリゲンシュタットの風景が脳裏に浮かんできた。
「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた家はもちろん現存し、内部も見学可能だが、その他にも引っ越し魔のベートーヴェンは、あちこちに居を移している。
 ハイリゲンシュタットの小さな広場には、ベートーヴェンが住んだ家を記した石造りの地図が掲げられ、これを見るとあちこち転々としていた様子がわかる。
 作曲家の足跡をたどる旅は、その人の人生をたどる旅でもある。
 ベートーヴェンの住んだ家には遺品、直筆楽譜、手紙、楽器、生活用品などが展示され、ベートーヴェンを身近に感じることができるが、補聴器、杖、クスリ箱などはあまりにも生々しく、身につまされる。
 今日の写真は、ハイリゲンシュタットの広場に掲げられた家の位置を記す地図。
 実は、この近くにとてもおいしいレストランがあり、この地図の写真を見ると、レストランの美食までもが思い出される。
 旅の記憶とは、不思議なものだ。次々にいろんなものが浮かんできて、五感を刺激する。
 ただし、この街を訪れると「ハイリゲンシュタットの遺書」の文面が強烈すぎて、そのあとに何を食べても、どこか胸が痛い…。


  
| 麗しき旅の記憶 | 23:16 | - | -
天龍寺、篩月
 今日からまた日常の仕事が始まり、パソコンにくぎ付けの日々が巡ってきた。
 しかし、昨日までの京都の空気はまだ心身の奥にただよっていて、仕事の合間に時折ちらっと顔をのぞかせる。
 今回は、天龍寺の美しい庭をながめに出かけ、境内に位置する篩月(しげつ)に食事にいった。
 天龍寺は世界遺産に認定されているためか、外国人観光客の数がとても多い。精進料理の篩月にも、さまざまな国の人が訪れていた。
 ここは赤い敷物の上に一列になって並んですわり、お盆の上に供された精進料理をいただく。
 日本人も正座を苦手とする人が多く、私もその代表格だが、海外の人もこれには困惑し、みんなあぐらをかいていた。
 でも、低いお盆の上に盛られた食事を食べるのには、あぐらは適していない。
 みんなそれぞれ工夫をして慣れない箸使いで食べていたが、日本の伝統的な精進料理をいただくマナーは、結構大変だと感じているようだった。
 しかし、お料理の味はいずれもすばらしく、ひとつひとつとても印象に残った。
 特に、お豆腐、ごま、だしの使い方が見事で、「これはちょっとまねできないなあ」と脱帽。足のしびれも忘れるほど、ヘルシーで素朴で美味だった。
 こういうお料理をいただいた舌の感覚と記憶は、いつまでも残るものである。
 仕事に追われていても、ふとなめらかなごま豆腐や、滋味豊かななすの田楽などの味が蘇ってくる。結局は、食いしん坊だということなんだけどね(笑)。
 今日の写真は、天龍寺の新緑に包まれたお庭、篩月の風情ある入口、お料理の数々。
 本当は、海外の人たちに精進料理の感想を聞きたかったな。ずらりと並んだ外国人が神妙な顔つきで食べている様子を撮影したかったのだが、さすがにそれだけは遠慮した。






 
| 麗しき旅の記憶 | 23:51 | - | -
モッツァレラチーズ
 私の作っている「アーティストレシピ」は、音楽家のナマの演奏と録音を聴き、インタビューや取材でその人の話を聞き、素顔にも触れて、そのなかから自然に浮かび上がってきたレシピをそのアーティストに捧げているもの。
 ところが、最近、イタリア生まれやイタリア在住の日本人の話を聞くことが多く、仕事の話をするなかで、私の脳裏にはやたらにモッツァレラチーズが浮かんでくるようになった。
 もちろん仕事の話をしているわけだから、モッツァレラの話はまったくしない。
 話が終わってからも、そんな食べ物の話などする暇はない。
 でも、以前イタリアで食べた、本場の水牛の乳から作られたモッツァレラチーズの味はあまりにも鮮明で、刺激的で、いまだ忘れることができないため、その味が一気に蘇ってきたわけである。
 日本でも、最近は本当においしいモッツァレラを購入することができる。これはパスタやピッツァやグラタンにしてもおいしいが、ナマでいただくのが一番だ。
 くせのないシンプルな味わいで、独特の弾力のある歯ごたえが特徴。
 そうだ、上質のモッツァレラチーズを探し、だれかアーティストのレシピに結びつけようっと。
 今日の写真は、ヴェローナで食べたナマのモッツァレラ。仕事のスタッフ数人でいったレストランで頼んだものだが、まさに極上の一品だった。みんなが手を伸ばし、あっというまにたいらげてしまったことを覚えている。
 イタリアに旅をしたら、モッツァレラをお忘れなく。すばらしい記憶が舌に残る、まさに芸術品です!


 
 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:26 | - | -
旅の味覚
 旅に出ると、その土地のおいしい物を探して、舌と心を満足させるのがこの上ない楽しみとなる。
 もちろん、その土地ならではの郷土料理も堪能したいが、他の土地のお料理を捜し歩くのも、また旅の醍醐味である。
 以前、ウィーンで食べたイタリアンが、とてもおいしかった。
 仕事の間のほんの短い時間にさっと食べただけなので、レストランの名前も場所も明確には覚えていない。
 ただし、写真はしっかり撮った。
 私はこういうお料理に出会うと、まず素材が何かを確かめ、ソースや味付け、ハーブなどを念入りに調べ、ひとつずつ味わっていく。
 このときは、なにしろ急いで食事を終わらせて次の取材に飛んでいかなくてはならなかったため、コースは頼めず、パスタとお茶だけで済ませた。
 でも、そのシンプルなパスタがとても印象深い味だったのである。
 イカとルッコラとトマトとにんにくとオリーブオイル。基本の食材はこれだけだと思う。
 パスタのゆで加減、野菜とイカとの相性、そして塩加減など、すべてが絶妙なバランスで仕上げられていた。
 これはアーティスト・レシピに使えるなあと思いつつ、その味を舌に記憶させた。
 こうして、旅の記憶はまたひとつ増えたことになる。
 ウィーンでイタリアン?と思うかもしれないが、ウィーンは結構探すとおいしいお店が路地裏にあったりして、シェフこだわりのお料理が出てくる。
 今日の写真は、急いで撮った1枚。これは、なんといってもイカの鮮度と種類と火の通し方が命。自分なりに工夫し、納得のいく味になったら、アーティスト・レシピに加えたいと思っている。
 さて、だれのレシピにしようかな…。


 
| 麗しき旅の記憶 | 21:51 | - | -
京都逍遥
 最近、いつ行っても、どこに行っても、京都は大混雑だ。
 この連休も、内外から多くの人たちが京都を訪れ、駅から神社、レストラン、カフェまで満杯だった。
 今回は河原町から東山方面を中心に散策し、比較的すいているところを選んで綱渡り状態で回った。
 旅に出るのを急に決めたため、事前にお食事処の予約をしなかったのがまちがい。おいしいところはみんな入れず、予約がないと1時間半待ちといわれ、断念せざるをえなかった。
 それでも、何十年も前に両親に連れられて初めて訪れたときに、壮大なクスノキに魅了された青蓮院を訪ねた。
 ここは何度もきているが、そのつど入口のクスノキにみとれてしまう。
 この数百年の樹齢を誇る大木を目にすると、自分のなかに流れた年月などほんのちっぽけなものに思え、畏敬の念を抱く。
 青蓮院はお庭も大好きだ。
 この素朴で飾り気がない庭園は、実におだやかで心が洗われる。
 清涼な空気と静寂さに包まれ、年末年始の心身の疲れが、一気に吹き飛んでいく感じがした。
 お庭に面した縁側にすわっていると、鳥の鳴き声と池の水が流れる音しかしない。
 ああ、なんて静謐なひとときなのだろう。
 その後、この近くで、町屋を改造したおばんざいを売り物にしているお店を見つけ、ゆっくりと京都の素朴な美味を味わった。
 もちろん、夜はおいしいしゃぶしゃぶもいただき、こちらはちょっと高級なお店だったが、私はおばんざいに目がないため、こういう庶民的な味が印象に残る。
 ほんのひとときだったが、骨休めにはちょうどよかった。また明日から日常に戻り、仕事が待っている。
 今日の写真は、青蓮院のクスノキとお庭。
 それから、おばんざいとぜんざいとわらびもち。このお店のおかみさんがとてもおもしろい人で、すっかり仲良しになった。
「また、京都にきたら絶対寄ってね」と、手をしっかり握られてしまった(笑)。















| 麗しき旅の記憶 | 22:26 | - | -
イスラエルの思い出
 クリスマスになると思い出すのは、何度か旅をしたイスラエルのことである。
 特に、最初に旅をした1986年には、ルービンシュタイン・コンクールの取材の合間を縫って、ひとりでバスに乗り、さまざまな土地を巡った。
 とりわけ印象的だったのが、ベツレヘムとナザレとエルサレム。聖書の世界がそこには存在し、映画のワンシーンに入り込んだような感覚を抱いた。
 バスはいろんなホテルを回って人を集めながら各地を訪ねていく、いわゆるフリーの旅人用のバスである。
 ここで乗り合わせた人とは、一緒にランチを食べ、お互いの国のことを話したり聞いたりし、降りるときにはすっかり仲良くなったものだ。
 ヨハネスブルクから来たユダヤ人の年輩の詩人とエクアドルの兄妹とは意気投合し、いまでも写真を見ると彼らのことがなつかしく思い出される。
 アメリカから来たご夫妻は、私がベツレヘムの降誕(聖誕)教会に足を踏み入れようとした途端、うしろから洋服を引っ張って止めた。
「ちゃんと、入口で聖なる大地に口づけをしてから入るべきだ」
 こう諭され、彼らのまねをした。
 ふたりはユダヤ系で、いままで必死で働いて貯金をし、ようやくイスラエルの地を踏むことができたのだそうだ。
 ヨハネスブルクの詩人の男性は、ガリラヤ湖で私に詩を書いてくれた。一緒に食べたセント・ピーター・フィッシュの味も忘れられない。
 いろんな思い出が走馬灯のように蘇る。
 旅は人を成長させてくれる。このイスラエルの約1カ月の旅は、私の人生観を変えるほど大きなものを与えてくれた。
 今日の写真は、大きな手織りの絨毯を買い、それを必死で持って帰ってきた思い出の品。その上に並べた、ベツレヘムのキャンドルとガリラヤ湖の石。
 もうひとつは、いまでも脳裏に焼き付いているエルサレムのオリーブ山にある最後の晩餐のゲッセマネの園。複製写真を購入し、額に入れて飾ってある。




| 麗しき旅の記憶 | 22:25 | - | -
私の二都物語
 チャールズ・ディケンズの「二都物語」は、私の昔からの愛読書である。内容は悲劇的な恋を描いたものだが、この題名に若いころはとても惹きつけられた。 
 それぞれの人に自分の好きな「二都物語」、いわゆる大好きな都市があると思うが、私がひんぱんに訪れているのは、パリと京都である。
 ちょっと本の内容とはかけ離れてしまったが、ここはふたつの都市ということで、堅いことは抜きといきましょう(笑)。
 しかしながら、こう締め切りが重なり、休みも取れない状況に陥ると、旅に出ることもままならず、想像力を働かせて空想の旅を楽しむしかない。
 そこで、書店を巡り、何かいい本がないかと探すことになる。そんな私に、いまピッタリのパリと京都のカフェ&レストランの本が見つかった。
「アラン・デュカスのおいしいパリ」と「京都カフェ2016」(ともに朝日新聞出版)である。
 パリの天才シェフと称されるアラン・デュカスが、パリのカフェやレストランを食べ歩き、本当に気に入った美食アドレス100を紹介する本で、何より私が感動したのがおしゃれな装丁とスナップ写真のような写真満載なところ。
 私は編集者だったため、こういう本に遭遇するとエディター根性が出て、「ああ、こういう粋な本が作りたい」と思ってしまう。
 もう1冊は、京都の多種多様なカフェがずらりと紹介されているガイド本。「カフェの進化がとまらない」というのがサブタイトルだ。
 この2冊は、疲れたからだと頭をリフレッシュさせてくれ、旅心を刺激し、しばし夢を見させてくれる。
 この本を見ていたら、こういう楽しさと遊び心とかろやかさが感じられるクラシックの本ができないだろうか、と考えてしまった。さらりと読めて、しかも奥が深い。そしていつ、どのページから読んでも、にんまりとしてしまう。
 なんだか、心が温かくなり、気分転換に最適なのである。
 今日の写真は、私の疲弊した心身をしばし癒してくれる2冊。次なる旅には、これを「友」として携えていこうっと。 


 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:14 | - | -
古都たび
 奈良も京都も最近は外国人旅行者が多く、神社仏閣の受付もカフェもレストランも長蛇の列だ。
 それでも奈良は、京都ほどは混んでいない。朝晩も涼しく、畳にお布団を敷いてもらって、エアコンに頼らずぐっくり眠れた。
 写真は、奈良公園の鹿たち。タクシーの運転手さんに聞いた話だが、売っている鹿せんべいだけをやっていると問題ないのだが、自分でもってきたお菓子やパンを与えると、塩分などが入っているため、死にいたり、危険なのだそうだ。



 今回の奈良の宿泊先は、食へのこだわりといまどきの部屋づくりが印象的で、各部屋にひのき風呂がしつらえてある。夕食は奈良風の懐石料理だったが、丸い石の上で焼く牛肉がとても美味だった。



 しかし、お寺はどこにいっても人、人、人。旅行者を外して写真を撮ることができない。内部は撮影禁止ゆえ、ここでも撮れない。
 唯一、東大寺の大仏殿だけは撮影禁止とは書いてないため、みんな大仏を入れて自撮りするのに大騒ぎ。いずこもお祭り騒ぎのようだった。
 そんななかでも、私の大好きな興福寺の阿修羅像、法隆寺の夢殿の半跏思惟像と大宝蔵院の百済観音像(平成10年秋にようやく百済観音堂が完成)をゆっくり見ることができ、非常に有意義な時間を過ごすことができた。この3つの仏さまは、超スリムで八頭身。多分にあこがれがあるのかな(笑)。優美で慈悲深い表情をしているところにも魅了される。
 奈良では、かき氷が欠かせない。吉野葛の葛饅頭もちゃんといただいた。写真は、猿沢池湖畔にある茶屋の入口。広い畳敷きの部屋から池を見ながら冷菓をいただき、心身共に癒された。




 海外からの旅行者は、みんなリュックを背負い、短パンにビーチサンダルだ(あまりの暑さにまいって、日本で購入したに違いない)。うちわや扇子をバタバタさせながら、首に巻いたタオルで汗をぬぐっている。
 それでも、みんな実に楽しそうだ。日本の古都は、真夏でも人気が高いことを思い知った。なにしろ、京都駅は東京駅か新宿駅のラッシュどきのような混雑ぶり。
 今回まいったのが、外国人の旅行者から道や電車の乗り方を訪ねられること。私は昔から人によく道を聞かれる。たくさん人が並んでいる場合も、ピンポイントで私に聞きにくる。なんで〜と思うが、どうやら聞きやすいタイプに見えるらしい。日本ばかりではなく、バチカンやパリでもバスの乗り場などを質問される。なんでだよ〜、私も旅行者なのに〜。
 というわけで、今回も中国人に電車の乗り方を聞かれた。前後にたくさん人がいるのに、である。う〜ん、またか。でも、ここで冷たくすると日本人のイメージが悪くなると困るので、親切に教えてあげたが、そうこうしていると、この人は教えてくれるとばかりに他の中国人がわんさか寄ってくる。
 ヒエーッ、勘弁して。私はガイドさんじゃないし、時間がないのよ〜。
 といっても、法隆寺は全面的に玉砂利が敷いてあり、逃げるのに四苦八苦だ。昔は陸上をやっていたものの、いまはちっとも早く走れん。ガンガン日差しが照り付ける境内で、旅行者から逃げるのも大変だ。
 私の古都たびは、なんともあわただしく、あっというまに過ぎてしまった。
 今日の写真は、人がいない瞬間を撮った法隆寺の回廊。



 今回の奈良の旅で、まず足を運んだのが奈良うちわの老舗、池田含香堂。優雅な天平模様の透かし彫りうちわで、真竹に手漉きの伊予紙を貼って仕上げる。お店には各種の手作りうちわがあり、どれも素敵だったが、黄色と青の鹿が入った絵柄を選んだ。こうした職人による伝統工芸は、さまざまな形で奈良に息づき、それをゆっくり見て回るのも旅の醍醐味だ。

| 麗しき旅の記憶 | 20:41 | - | -
バルサミコ酢とオリーブオイル
 スペインを旅すると、必ずサラダに添えられているのが上質なバルサミコ酢とオリーブオイル。
 ドレッシングの類はなく、ビネガーとオイルで自分の好きな味付けをし、野菜を食べる。
 若いころ、ドレッシング全盛の日本から旅をしたときには、このシンプルで自由な味付けに大きな感銘を受けたものだ。
 以来、私のサラダも、モデナ産のバルサミコ酢とスペインかイタリアのエクストラバージンオリーブオイルをかけることになった。
 5年前、マドリードの空港で軽食をとったとき、このふたつが出てきて、ああ、スペインはどこでも変わらないと、またもや感動。
 しかし、バルサミコ酢とエクストラバージンオリーブオイルというのは、奥が深い。
 私は食材探しが趣味ゆえ、輸入品をたくさん置いているスーパーやデパ地下に行くと、必ずこのふたつを探す。スペインやイタリア産だけではなく、ギリシャ、フランス、ベルギー、デンマーク、ポルトガル、ドイツにいたるまで、さまざまな国の物があり、探していてわくわくし、時間の経つのを忘れる。
 今日の写真は、マドリードの空港のカフェで出てきたバルサミコ酢とオリーブオイル。なんてことはないひと口サイズの物なのに、これがめちゃめちゃおいしい。やっぱりスペインはいいなあと、スペイン贔屓のワタシ(笑)。


 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:33 | - | -
出張準備
 すべての仕事が終了し、さて、出張の準備をしなくちゃというとき、一番最後になるのが化粧品と洗面用具である。
 翌日、まだぎりぎりまで使うからだ。
 女性はだれでもそうだと思うが、携帯用の化粧品の用意はとても面倒である。ふだん使っている瓶やチューブを全部もっていくわけにはいかないし、携帯用の小さな容器に入れ替えるのも面倒。以前は、それでも全部入れ替えていたが、いつのころからか、旅行用の小さな物に変えた。
 私はみんなに驚かれるが、出張にいくときは、海外でも国内でも、荷物を作るのが本当にぎりぎりの時間。まず、仕事を片付けることに集中するため、荷造りはどうしても後回しになってしまう。
 その代わり、荷造りはとても素早い。そしてこれも多くの人に驚かれるが、荷物がとても少ないのが特徴だ。
 洋服などは着回しのできる物を最小限もっていけば大丈夫。
 ただし、もっとも苦手なのが、強い冷房。仕事柄、飛行機はまだしも、ホールのなかはとても寒い。外が暑いからといって薄着をしていくと、コンサートが終わるころにはぞくぞくしてくる。
 というわけで、これからの季節は冷房対策が最重要課題。今日も、準備段階で、ひとつ夏のジャケットを入れた。
 さて、原稿はすべて終わったし、用意もできたし、あとはなんとかなるだろう、国内だからね。
 今日の写真は、いつも私の出張に一緒にいってくれる化粧ポーチ。大は化粧品、小は洗面用具が入っている。
 人の荷物をのぞいたことがないのでわからないけど、みんなどんな物に入れているのかな。だれか、ちょっと見せてくれない(笑)。



| 麗しき旅の記憶 | 22:24 | - | -
宇治探訪
 今回の京都の旅の目的のひとつ、宇治は、昔から大好きな場所である。
 ただし、ここもものすごい混雑で、平等院はどこも人、人、人。
 2012年9月から建立当初の姿に近づけようと大規模な改修工事が行われ、昨春から拝観が再開されたとあって、満員御礼の状態だ。
 その改修工事の様子が映像で流されている部屋があり、細部にいたるまでオリジナルの姿に近づけようと努力する職人さんたちの様子が映され、詳細がよく理解できた。
 写真は、当初の姿を取り戻した色彩感豊かな鳳凰堂。金箔を貼った鳳凰が日の光に輝く。オリジナルの鳳凰は平等院ミュージアム鳳凰館に置かれ、間近に見ると、その圧倒的な存在感に驚くばかり。



 宇治はお茶で有名だが、今回は中村藤吉本店で「挽き茶とお茶席体験」に参加した。これは日に4回行われ、私が参加したのは2席目で、約1時間で終了する。
 まず、お茶の葉を石臼で挽いて抹茶にすることから始まり、その後は茶室に移動して生茶ゼリイ、濃茶、自分で挽いた薄茶をいただく。
 それぞれの作法を教えていただき、いろんな興味深いお話も聞くことができた。
 写真は、石臼で挽き茶を作っているところ。ひとりずつ体験するのだが、結構重かった。もう1枚は奥の茶室に通じるお庭。ぞうりに履き替えてそろそろと移動する。





 体験が終了してからお店でショッピングをし、貴重な時間を過ごすことができた。写真は中村藤吉本店の入口。ここはカフェも併設しているが、すごい行列で、とうとう入ることができなかった。



宇治は駅前の郵便ポストもお茶に因んだユニークな形。


 
| 麗しき旅の記憶 | 23:17 | - | -
gomacro Salon
 連休の最後を利用して、京都を旅した。
 ところが、どこに行っても超満員で、特別拝観の神社仏閣は3時間待ち、ちょっとお茶をしようと思ったら、カフェは名前を書いて45分並ぶ。
 食材を買いに錦小路に行ったら、ここは東京の電車のラッシュ並の混雑で、身動きが取れない。
 そのなかで、なんとかお目当ての寺院やお店に入り、目的を達成することができた。
 最初の日にランチをしたのは、約80年前からごま油を作り続け、伝統の香りと風味、コクを大切に食品添加物、保存料、着色料、化学調味料、化学製品をいっさい使用せずにごまかしのないごま油を製造している山田製油のカフェ。
 ここは地下鉄の烏丸御池のすぐ近くに位置し、gomacro Salon(ゴマクロサロン)と名付けられている。
 店内はさまざまな製品が展示されていて、購入ができるようになっている。





 ランチでいただいたのは、その日の限定10食というスペシャルランチボックス「胡麻手箱」。ごま豆腐やあえ物、揚げ物、煮物、ごまご飯、汁物、デザートにいたるまで、ごまづくし。からだが一気にヘルシーになる感じだ。







 食後は、重くてたまらなくなる一歩手前まで買い物し、それから町歩きに出た。
 今日の写真は、胡麻手箱。ひとつずつお店の人が説明してくれ、感動しきり。なかなか家では作れない物が多かったが、レシピ帳をいただき、挑戦しようと思い立った。
 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:21 | - | -
日田の宿
 先日の日田の講演のときに担当の方が予約してくれたのが、すばらしい旅館だった。
「さつき」という1日限定7部屋の宿で、とりにくい宿だそうだ。折しも日田のひな祭りを見にくる人で旅館やホテルはいっぱい。ようやく確保してくれた。
 古民家を改造した宿で、玄関も廊下も部屋も温泉も、実に古風で味わい深い。



 私の部屋は川に面したところで、「光」と名付けられていた。障子を開けると、目の前に桜の大木が飛び込んできた。きっと、桜の季節には、この部屋の予約がいっぱいになるに違いない。
 久しぶりに、畳に布団を敷いて寝るのはとても新鮮で、ぐっすり眠れた。
 私がパトリア日田の講演にきていることを担当者が話したため、女将さんが興味をもってくれ、「ぜひ講演に伺いたいのですが、なにしろ旅館を空けることができないものですから」と、残念がってくれた。
 夜、入った温泉は陶器風呂で、からだの芯から温まる感じ。朝食もとてもおいしくて、すばらしいひとときを過ごすことができた。





 ひとつ印象に残ったのが、この地の名水である「ひた粋」と名付けられたミネラルウォーター。清らかでからだにスーッと入っていく。これをたくさん買った帰ろうと思ったのだが、小さなキャリーしかもっていかなかったことと、ペットボトルは機内持ち込みが不可能だ。ああ、残念。上の写真は朝食。その一番奥に置いてあるのが「ひた粋」だ。
 また機会があったら、今度はぜひ預ける荷物の方に入れたいと思う。
 なお、日田は江戸時代から続く町人文化の名残で、おひな祭りが盛んだそうだ。これは朝食の部屋に飾られていたおひなさま。これ以外にも、入口やロビーなど、いろんなところにさまざまなおひなさまが置かれていた。




 
| 麗しき旅の記憶 | 20:39 | - | -
小鹿田焼
 先日、パトリア日田の講演の前日に、国指定重要無形文化財となっている「小鹿田焼(おんたやき)」の里を訪れた。
 日田の市内から車で約30分、深い緑に囲まれた道を分け入っていくと、皿山地区に着く。現在は10軒の窯元が存在し、ひとつずつ離れた場所に民家と窯が作られている。
 その集落の入口には陶芸館があり、ここでは小鹿田焼の歴史、これまでの歩みなどが理解できるようになっていた。古陶も展示され、映像で小鹿田焼ができるまでの工程が紹介され、特徴や技法を知ることができる。
 この映像を見てから各々の窯元を訪ね歩くと、置かれているさまざまな素材や道具からその工程の流れがわかり、偉大な職人芸を垣間見る思いにとらわれた。
 何より、ここは空気が違う。静謐な空間にゆったりとした時の流れ。聞こえてくるのは、風のそよぐ音と木々の揺らぎ、川を流れる水の音、そして時折、唐臼で土を粉砕する「カーン」という音が響いてくる。
 なんというのどかで心が落ち着く空間なのだろうか。
 今回、案内してくれたのは観光協会のKさんと、パトリア日田の館長Kさん。いろんな窯元を案内してくれ、ひとつの窯元で素朴でぬくもりに満ちた作品を購入することができた。
 小鹿田焼は現在でも一子相伝、約300年前と変わらず、脈々と技と心と伝統が受け継がれている。ひとつの窯元では、若い陶工がわざわざ私のブログの写真のために、製作風景を見せてくれた。感謝、感謝…。
 今日の写真は、まず小鹿田焼陶芸館の古陶の展示。



 唐臼による原土の粉砕。



 作業中の様子を見せてくれた若い陶工。



 里にある家には、塀に小鹿田焼が埋め込まれていた。



 選びに選んで購入した湯呑茶碗と小鉢。

| 麗しき旅の記憶 | 21:04 | - | -
ベートーヴェンの家
 昨秋、「家庭画報」の取材でウィーンを訪れた際、ウィーン楽友協会資料室長のオットー・ビーバ氏から、ベートーヴェンの残された家に関して新たな事実をいろいろ聞くことができた。
 というのは、現在ベートーヴェン・ハウスとして公開され、彼が住んだとされている家の多くが、事実とは異なっているというのである。
 ビーバ氏は長年に渡り、偉大な作曲家の足跡を研究し、ベートーヴェンについても当時の番地の表記や史実を分析し、残された手紙や楽譜、資料などから真実を探求し続けているそうだ。
 ただし、長年ベートーヴェンの家として公開され、ウィーンの名所として世界中から観光客が訪れているため、それを覆すのは至難の業で、明確な研究結果を発表することができない限り、否定はできないという。
 この話になった途端、ビーバ氏は一気に雄弁になり、自身の研究について雄弁に語り出した。
 私たち取材班が、「ガイドブックの情報しかもっていない」と嘆き、本当はそうではないといろんな史実を教えてくれた。
 そのひとつに、ビーバ氏が「ここは本当にベートーヴェンが住んだ家」と断言する家があった。まだ公表されていないため、住所は控えるが、その家を訪れると壁面にプレートが掲げられ、ベートーヴェンの住んだ年号が記されていた。
 ただし、現在は一般の人々の住居となっているため内覧はできなかった。こうした事実が明らかになれば、これまでの研究に大きな変化が現れるに違いない。
 ビーバ氏は、こうした事実を発表するための研究に、これからの人生のすべてを賭けると明言した。
 偉大なる作曲家にまつわる研究は世界中でいまなお続けられているが、こうした話を聞くことができ、ベートーヴェンの遺品についても多くのことを教えられ、ビーバ氏のインタビューは本当に実り多きものとなった。
 今日の写真は、そのベートーヴェンが実際に住んだとされているウィーン市内の家の外観。観光客はまったく訪れないひっそりとした通りに面した家で、ビーバ氏の話を思い出し、なんだか謎に包まれた、不思議な感覚にとらわれた。




 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:31 | - | -
キョンファのティーカップ
 ソウルでのチョン・キョンファのインタビューは、現代アートの美術館で行われた。
 インタビュー終了後、取材陣がいろいろかたづけをしているとき、彼女がちょっと席をはずした。
 そして戻ってくると、各人にお土産をプレゼントしてくれた。その場で開けると、各人それぞれ異なるカップが入っていた。
 私のほかにもうひとり、名古屋から参加した新聞記者の男性がインタビューをしたのだが、彼は焼き物に興味があるといって、インタビューのときに韓国の陶器の話をしていた。その彼には、渋い色のコーヒーカップが贈られた。
 私は居合わせた全員が食後にコーヒーを頼んだのに対し、ひとりだけ紅茶を頼んだ。それを注意深く観察していたのだろうか、すばらしいモノトーンのティーカップが入っていた。
 これを見て、みんながチョン・キョンファの慧眼に驚いたものだ。
 これらのカップは美術館のなかにあるショップで売られているもので、すべて現代のデザイナーによる作品。
 私がいただいたティーカップは、ウーロン茶用になかに磁器の茶こしがしつらえてあるタイプと同様のもので、とてもどっしりとしている。
 いつも人にいわれるのだが、私は仕事のときは黒やグレーなどモノトーンの服装をしている。その洋服にも合う色合いのものだった。
 本当に、チョン・キョンファのこまやかで心のこもった、しかも人の趣味を即座に見抜く力に驚いてしまった。
 いまは、毎朝このカップで紅茶を飲むたびに、彼女のことを思い出す。
 今日の写真は、キョンファのティーカップ。モダンでしょう。

| 麗しき旅の記憶 | 21:11 | - | -
韓国の食材
 先日のソウル出張の折、仕事の合間を縫って、一緒にいったKさんとデパ地下巡りをした。
 彼女も私もブランド品にはあまり興味がなく、もっぱら食べ物に気持ちが向いている。それゆえ、デパートでは地下に直行。
 ソウルの食材は見事なまでに種類が多く、各売り場には商品が山積み。日本ではそういうことはあまりないが、ここでは通りかかる人に大声で商品の売り込みをする。その女性たちのエネルギッシュなことといったら、こちらがたじたじになるほど熱心だ。
 そうした営業からかろやかに身をこなしながら、自分の目指す物を探し出し、それをゲットするのは結構スリルがあり、また、おもしろい。
 イートインも多く、それぞれのお店で食べている物を横目でチラリと見たが、ものすごくおいしそうだった。
 肉まんを皮から作っているお店もあり、ビビンバ丼やご飯ものをパックにしてたくさん並べているところもあった。



 キムチや焼き肉はもちろんのこと、カニ、アワビ、海苔など海産物の豊富さにも目を見張った。本当に韓国人は、食べることに大いなる情熱を傾けているようだ。





 聞くところによると、ウィークデイには家庭でほとんど夕食を食べないそうで、みんな仕事の合間に外食をし、また職場に戻るのだという。残業もかなり多いようだ。それでこんなにもイートインが発達しているのかと納得した次第。
 今日の写真は、選びに選んで購入したコチュジャン味噌、ゆず茶、韓国海苔(岩ノリ)、えごまのごま油。これからゆっくり楽しめそうだ。
 ひとつだけ残念だったのは、チャプチェ用の春雨が買えなかったこと。これはかなりかさばり、トランクに入れないとダメな大きさ。1泊用の小さなキャリーバッグしかもっていかなかったため、入らないことと、投げられたら粉々に割れてしまうに違いない。というわけで、あえなく断念。



 Kさんとふたりで、「いくら見ても飽きないねえ」といいながら、隅々まで眺め、いろんな試食もし、大満足のデパ地下巡りだった。
 
| 麗しき旅の記憶 | 15:16 | - | -
「第三の男」ミュージアム
 昔から映画が大好きである。
 学生時代には映研に所属したり、映画好きの友人とよく新作を見に映画館にかけつけたものだ。
 最近はなかなか映画館に足を運ぶ時間がなく、試写会のお誘いも受けるが、やはりコンサートの方が優先されてしまう。
 私のナンバーワンにランクされる映画は、「第三の男」である。もう何度見ただろうか。監督も脚本も俳優も音楽も、すべて大好きである。
 実は、昨秋のウィーン出張で貴重な出会いがあった。
 現地コーディネーターのひとり、Kさんと映画の話をしていたときに、彼女のご主人がウィーンで「第三の男」ミュージアムを主宰していることがわかったのだ。Kさんは、いつものコーディネーターのEさんがこられなくなった時間のピンチヒッターだったのだが、そのおかげでこの事実を知ったのである。
「えーっ、そういうところがあるの。私、ウィーンに何度もきているのに、まったく知らなかったワ。どこどこ、どこにあるの」
 というわけで、Kさんと「第三の男」の話で盛り上がってしまった。
 これは個人コレクションで、映画で用いられた映写機や小道具、アントン・カラスのチター、世界各国の映画ポスターなど、オリジナルグッズが所狭しと展示されているそうだ。
 このときは、もちろんプライヴェートな旅ではなく出張だったため、ミュージアムを訪れることはできなかったが、次回ウィーンを訪れるときは絶対に寄るとKさんに約束した。
 ああ、この話をしているだけで、「ハリー・ライムのテーマ」が聴こえてくるようだ。
 私は以前、映画が撮影された場所を巡り歩いたことがある。それを話したら、Kさんが「そこまで行っているのなら、ぜひミュージアムを入れてくれなくっちゃ」と笑っていた。
 その通りだよね。次は絶対に行きますからね。
 このミュージアムはナッシュマルクトの近くで、住所はPressgasse 25,A-1040 Wien。午後2時から6時まで開館しているようだが、不定期の休館があるそうなので、電話で確認した方がよさそう。Tel +43-1-5864872
 今日の写真は、Kさんがプレゼントしてくれたカタログなどの資料。ウィーンを訪れる機会があったら、ぜひ足を運んでみてくださいね。




 
| 麗しき旅の記憶 | 22:37 | - | -
ベートーヴェン・フリーズ
 10月、ウィーンに出張した際、分離派教会セセッシオンでグスタフ・クリムトが制作した壁画の大作「ベートーヴェン・フリーズ」を見た。
 もちろん、「家庭画報」の新年号では大きく取り上げられている。
 分離派とは、19世紀末、従来の保守的で閉鎖的な芸術協会から離れ、また、皇帝や貴族の庇護を受けずに自由な作品発表の場を求めた芸術家たちの運動を意味し、彼らが築いた建物がこの分離派教会である。
 ウィーンではクリムトを会長として、1897年に発足された。
 セセッシオンは、地下鉄のカールスプラッツ駅の近くに位置し、月桂樹の葉をモチーフにした透かし彫りの屋根が特徴で、これは「黄金のキャベツ」と呼ばれて親しまれている。




 クリムトの壁画は地下に展示されており、部屋の左側の壁から右側に進んでいくスタイルで、ベートーヴェンの「第九」の第4楽章をモチーフとしている。
 この壁画は1902年の分離派展のときに描かれた大作で、展覧会後に撤去されたが、何人かの収集家の手に渡り、戦火を逃れ、1985年のウィーン市による世紀末展を機に再びセセッシオンに設置されることになった。
 実際に見ると、クリムトの特徴である黄金色が随所に用いられ、官能的で幻想的で、かつ不気味な面も見受けられる。この部分は人間の苦悩や欲望、不摂生を描いているそうで、最後は芸術による理想の領域へと到達する。
 ところどころ空白が見られるが、これは休符を意味するという。
 今日の写真は、その壁画。クリムトの類まれなる天才性に触れ、しばらく絵のそばから離れられなかった。
 今年、一番感動した絵である。








 
| 麗しき旅の記憶 | 23:01 | - | -
イタリアの大道芸
 ヨーロッパでは、よく珍しい大道芸を目にする。
 以前、夏のイタリアの音楽祭に行ったとき、非常にユニークな路上パフォーマンスを見た。
 男性が女性を肩にかつぎ、その女性がお人形を上に掲げているものなのだが、どの方向から見ても、仕組みがよくわからない。
 みんな、いろんな角度から眺め、不思議な表情をしてしばらく見ているのだが、やがて首を振りながら立ち去る。
 私も最初はどうなっているのだろうと、前から横から眺めたが、結局よくどうなっているのか、わからずじまいだった。
 ところが、音楽祭の取材をして再びその通りを歩いていったら、彼らは全部崩して、その場で食事をしていた。
 う〜ん、崩された物を見ても、まだよくわからない。
 これが大道芸のおもしろさなのだろうな。
 今日の写真は、そのパフォーマンス。何がどうなっているのか、わかりますか?


| 麗しき旅の記憶 | 21:43 | - | -
アルター・フリードホフ
 10月のボン出張の際、アルター・フリードホフ(旧墓地)を訪ねた。
 ボン中央駅の北方500メートルほどに位置するこの墓地は、深い森に囲まれた美しいところ。著名な芸術家や学者のお墓が多くみられ、現在ではガイドツアーもあるという。
 私がまず探したのはベートーヴェンの母親、マリア・マグダレーナのお墓。ベートーヴェンは16歳だった1787年7月17日、最愛の母を失った。そのお墓は、とても質素でひっそりとした風情でたたずんでいた。
 写真は、マリア・マグタレーナ・ベートーヴェンのお墓。



 この墓地でひときわ目立つのは、ロベルト&クララ・シューマンのお墓。彫刻も華やかで、世界中から訪れる人があとを絶たず、献花も多いようだ。
 写真は、シューマン夫妻のお墓。



 このすぐそばに、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」の原詩で知られる詩人、フリードリヒ・フォン・シラーの夫人、シャルロッテのお墓もあった。こちらはシラーの息子が建てたそうだ。
 写真は、シラー夫人のお墓。



 シューマンのお墓に詣でたとき、お墓の前の花壇といおうか、植え込みのところに名前を書いたプレートが置かれているのに気付いた。
 これは、このお墓をいつもきれいに掃除をし、手入れをしているという人の名前だという。いわゆる管理責任者ということなのだろう。
 ヨーロッパの墓地は、緑豊かでとても美しく、市民の憩いの場となっているようだが、アルター・フリードホフも静けさあふれる心休まる場所だった。
 
| 麗しき旅の記憶 | 21:56 | - | -
松本への旅
 週末、用事があって松本に旅をした。
 ここには学生時代の親友が結婚後に移り住んでいるため、彼女とそのご主人に会うことも楽しみのひとつである。
 土曜日はいろんな用事を済ませ、夕方から彼女たちがお薦めするレストランに出かけた。そして夜中までバーで語り尽くし、夜は温泉に入った。
 今日の日曜日は、町巡り。彼女たちが教えてくれた名店や老舗なども地図で探して訪ね、夕方まで食べまくり、お土産を買いまくり。
 でも、今日はサッカーの松本山雅FCがJ1昇格をしたという祝賀会が松本城の広場であり、大変な人出。
 昨日、お城に行っておいてよかった、と胸をなでおろした。今日はサポーターがものすごい数で、とても歩いてなどいられない状況。
 そこで、お城の近くから抜け出して重要文化財の旧開智学校を訪れたが、ここにも人が大勢見学にきていた。
 2日間だったが、非常に有意義な時間を過ごすことができた。
 仕事に追われている時期に、少しだけこういう日常から離れた時間をもつことができると、気持ちが切り替えられてリラックスできる。
 親しい友人とじっくり話すことができたのも、その大きな理由だ。
 今日の写真は、国宝の松本城と重要文化財の旧開智学校。
 前日まで雪が降っていたため、うっすら雪化粧して、とても美しい。でも、夜はマイナスまで気温が下がり、脳の奥までピリピリする寒さだった。




 
 
| 麗しき旅の記憶 | 23:35 | - | -
順番待ちの番号カード
 旅に出るとさまざまな珍しい物に出合い、日本との違いに驚かされたり、すばらしいデザインに感心したり、その便利さに触発されたり…。
 今回、ボンの駅で出合ったのが、電車の切符を購入する順番待ちの番号カードの機械。
 デザインが斬新で、切符売り場に入ってパッとわかり、しかもおしゃれだ。
 う〜ん、日本の駅や郵便局、銀行、役所などにある物とはかなり違うなあ。
 ボンは古い町だが、こういう新しいデザインをすぐに取り入れるところは、進取の気性に富んでいる。
 かなりゆったりとしたスペースにデンとこの機械が置かれていたため、非常に目立ち、しばし見とれてしまった。
 ドイツは、電車移動が便利だ。今回の出張は、ウィーンからボンまで電車を利用した。結構すいていて、大きなトランクなども自分のそばに置くことができ、安心できる。
 そして、ソーセージとザワークラウトをはさんだパン、ポテトフライ、コーヒーなどを売っていて、これがまたとてもおいしい。旅の移動中に食べるからだろうが、このソーセージを食べただけで、オーストリアからドイツに入ったという感を強くした。
 旅は五感を刺激する。
 これからも少しずつ、珍しい物を紹介していきます
 今日の写真は、番号カードの機械。これ、ホントに目立つよねえ。


 
 
| 麗しき旅の記憶 | 16:34 | - | -
「第九」の家
 ウィーン郊外のバーデンは、緑豊かなしっとりとした雰囲気のある、落ち着いた町である。
 ウィーンの森のばすれに位置する保養地で、周囲はぶどう畑が連なる。
 ベートーヴェンは1807年以来この地をたびたび訪れ、1823年には交響曲第9番「合唱付き」を作曲している。
 ベートーヴェンが滞在した家は町の中心に現存し、見学可能だが、今回訪れたときはちょうど改装工事に入っていて、内部を見ることはできなかった。
 以前バーデンを訪れてからすでに長い年月が過ぎているため、町も公園も著しく変貌。ベートーヴェンの住んだ家もかなり現代風に改装され、入口の位置も変えられていた。
 以前は真冬に訪れたため、人も少なく、町は静けさに包まれてひっそりとしていたが、今回はかなりにぎやかになっていて、観光客のバスも止まっていた。
 バーデンはウィーン南駅から電車で約45分、または国立歌劇場前から路面電車に乗ると約60分ほどでいくことができる。タクシーの場合は30分ほどだ。
 町の中心に大きな公園があり、J.シュトラウスとランナーの像が立っているが、この公園も以前はただ木々と草原が広がっているだけだったが、いまは遊園地のようになり、市民の憩いの場として、また観光客のためのカフェやホテルやカジノまで作られていた。大きな変貌にびっくり…。
 今日の写真は、ベートーヴェンが「第九」や「ミサ・ソレムニス」を書いたラートハウスガッセ10番地の家と、ベートーヴェンが住んだことを示すプレート。残念ながら、工事中の幕が張られているが…。ベートーヴェンは、この2階で作曲していたと伝えられている。
 もう1枚は公園のJ.シュトラウスとランナーの像。






 
 
| 麗しき旅の記憶 | 21:19 | - | -
ベートーヴェンの散歩道で出会った犬たち
 ベートーヴェンが聴覚の異常を感じ、その孤独感と苦悩を癒すためによく訪れたとされるハイリゲンシュタットの「ベートーヴェンの散歩道」。
 現在は近隣の市民の憩いの場として、ワンちゃんたちの散歩コースとして愛されている。
 今回、取材をしているなかで、何人もの犬を連れた人たちに出会った。ワンちゃんもそれぞれとてものんびりと自由に散歩をしている様子だったが、飼い主たちも実にいい表情をしていた。
 やはりこの散歩道は、いつの時代も人の心をなごませてくれるところらしい。
 以前訪れたときよりも舗装が進み、柵なども増えて人工的になったとはいえ、やはりここに一歩足を踏み入れると空気がガラリと変わる。小川のせせらぎが聴こえ、森の匂いがし、湿ったひんやりとした空気がただよい、深呼吸したくなる気分にさせてくれるからだ。
 今回、ウィーンにいる間は晴天に恵まれ、それほど寒くなかった。ハイリゲンシュタットにいったときもいいお天気で、緑が濃く、涼風が気持ちよいほどだった。
 今日の写真は、ワンちゃんを連れた人たち。ねっ、みんないい表情をしているでしょ。






 
| 麗しき旅の記憶 | 22:21 | - | -
ベートーヴェンの彫刻
 今回、ウィーンとボン旅して、さまざまな場所でベートーヴェンのいろんな顔をした彫刻に出会った。
 とてもおもしろかったのが、ボンのベートーヴェン・ハレの広い庭に置かれていたコンクリートの彫刻。1819年にカール・ヨーゼフ・シュティーラーによって描かれた有名な肖像画がもとになっている。
 これは、1986年に彫刻家のクラウス・カンメリッシュが制作したもので、彼はベートーヴェン・ハレの庭に置いてほしいと要望したそうだが、当初はホール側に断られたという。
 そこに日本人が購入申し込みをしたため、ホール側はあわてて最初の3倍の価格を提示して無事に手に入れることができたそうだ。
 この話はホールの責任者が聞かせてくれたものだが、日本人が買おうとしたというのは本当かなあ。でも、それによって彫刻は当初の希望通りここに置かれることになったのだから、めでたしめでたしだよね(笑)。
 このベートーヴェン、コンクリートをいくつもの柱のなかに流し込んで制作した形で、見る角度によって微妙に表情が異なる。近くで見るよりも、ちょっと離れたところで見る方がよくわかる感じ。
 今日の写真は、ホールの前庭の道路側を向いている顔と、裏側のホールよりの方を向いている顔。私はこの裏側の方が芸術的だと思った。表側は肖像画そのものという顔に作られているからだ。
 さて、あなたはどちらのベートーヴェンがお好き?




 
| 麗しき旅の記憶 | 17:24 | - | -
ハイリゲンシュタットの遺書
 以前もベートーヴェンが遺書を書いたハイリゲンシュタットの家を訪れたことがあるが、久しぶりに訪れると、また新たな感慨があった。
 何より資料が充実していて、遺書の全文のコピーが売られていたため、それを手に入れた。いろんな言語に訳され、もちろん日本語も付いている。
 これを読むと、本当に胸が痛くなる。こんなにも苦難の人生を歩み、胸の内を吐露した後、再び生きる勇気を得たことに改めて感じ入る。
 今回の旅で得た大きな収穫は、悩みの克服である。
 人は日々、さまざまなストレスにさらされ、悩みを抱えて生きている。しかし、ベートーヴェンの底知れぬ深い苦悩にくらべれば、私の悩みなどくらべものにならない。そう、こんなことでへこたれてたまるか、という気持ちになったのである。
 ベートーヴェンは音楽を通して世界中の人々に勇気を与えているが、まさにその生きざまに触れ、神髄を感じ、力を与えられた感じがする。
 さて、レイアウトも全ページ出てきたし、集中して仕事をしなくっちゃ。
 今日の写真は、「ハイリゲンシュタットの遺書」のコピー。身につまされます…。


| 麗しき旅の記憶 | 21:16 | - | -
「家庭画報」新年号
 ようやくウィーン&ボンの出張から戻り、いまは体調回復に努めている。
 今回の取材は「家庭画報」の2015年新年号にあたり、12月1日発売の号である。「ベートーヴェン」の特集は第1特集で、カラー全30ページ。それに昨年のウィーン・フィル特集のときと同様にCDが付録に付くため、その解説も書くことになる。
 週明けにラフレイアウトが上がり、その2日後にレイアウトが出来、11月2日にはすべての原稿を入稿しなければならない。
 そのためには体調を万全にし、集中力を保てるようにし、原稿に一心不乱に取り組むことが必要となる。いったいどうなることやら…。ページ数を考えただけで、目がまわりそうになるが、ここまできたらやるっきゃない。
 今回の旅は、本当に多くの発見があった。
 これまでのベートーヴェン観が変わったり、驚きがあったり、こんなにも苦難の人生だったのかと改めて気付かされたり、オリジナルの自筆譜に心躍る思いを抱いたり、手紙の筆致に素顔を垣間見る気持ちにとらわれたり、豊かな自然をこよなく愛す気持ちに共感したり、残された家の隅々に存在を感じたり、あまりにも過酷な人生とその奥に宿る力強い精神につい涙がこぼれそうになったりと、ベートーヴェンとともにあった日々だった。
 実は、ホームページのリニューアルのフロントページ写真を撮ろうと思っていたのだが、やはり大好きなハイリゲンシュタットのベートーヴェンの散歩道と、その一番奥にある像を組み合わせたいという結論にいたった。
 その2枚の写真をいち早く紹介しちゃいま〜す。
 まずは「家庭画報」の原稿を最優先し、その後少しずつ写真とそのときのベートーヴェンの様子を綴っていきたいと思っている。お楽しみに〜。






 
 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:39 | - | -
ウィーン&ボン出張の日程
 先日も書いたことだが、ウィーン&ボン出張の日程に関し、詳細が決まった。
 10月17日に出発し、24日に帰国することになった。当初より取材が一日短くなり、8日間という日程である。
 すでに出張のお知らせをした雑誌や新聞、マネージメント、レコード会社、ホール関係の担当者に原稿を出発前に入稿することを約束しているため、その入稿をひとつずつこなしている。
 ただし、あまりにもデスクワークが多すぎ、パソコンに縛り付けられているため、腰痛がまたぶり返してしまった。
 いろんな人から教えてもらった腰痛改善体操をしているけど、いっこうによくならない。きっと原稿を書くのをやめれば、治るんだろうな。
 でも、そういうわけにはいかないため、だましだまし続けている。本当に困ったものだ。
 そんな折、ロジャー・フェデラーが上海マスターズ大会で初優勝を飾った。フランスのジル・シモンと決勝で対戦し、7-6、7-6というタイブレークを2度制して、マスターズ1000大会のゴールデン・マスターズ達成まであとふたつと迫った。残りはモンテカルロとローマだけである。
 昨日は準決勝で中国での連勝を続けているセルビアの世界No.1、ノバク・ジョコビッチを破り、彼の連勝を28で止めた。
 昨日の試合があまりにも緊迫したものだったため、今日のフェデラーは序盤からなんだか集中力を欠いた感じで、ミスが多かった。またもやハラハラドキドキしたが、なんとか1セットを取り、2セット目も切り抜けた。
 試合後、大声を上げて腕を突き上げた姿を見て、ようやく上海で勝利することの安堵感と、ストレスからの開放感を強く感じさせた。
 というのは、この大会のオフィシャルスポンサーはローレックス。フェデラーとスポンサー契約を結んでいる企業だから、なんとしても優勝したかったに違いない。
 さて、また仕事に戻った。
 今日は来年2月から3月にかけて来日し、すみだトリフォニーホールでプロコフィエフの「戦争ソナタ」3曲を演奏するイェフィム・ブロンフマンのホール用の原稿を書き、同様に音楽事務所用のエサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニー管弦楽団と共演してチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏する原稿を仕上げた。
 次いで、11月に来日するダン・タイ・ソンのプログラムの原稿を書き、松田華音の来年1月のCD発売記念デビュー・リサイタルのチラシの原稿を書いた。
 やはり、これだけ原稿に集中していると、腰にきますねえ。フェデラーの試合を見ているときだけは痛みを忘れるけど、すぐにまた最悪の状態に戻る。
 まだまだ出発前にやらなくてはならない仕事がたまっているのに、体調が悪いとスローペースになっていかんなあ。
 さて、もう今日はこの辺で店じまいとしますか(笑)。
| 麗しき旅の記憶 | 22:27 | - | -
ウィーン&ボン出張
 いよいよ10月に入り、今年も残すところ3カ月となった。今月は女性誌の取材で、ウィーンとボンに出張することになっている。いまわかっている段階では、17日出発、25日帰国の予定だ。
 出張が入ると、留守中の原稿をその前に入稿していく必要があり、スケジュールがすべて前倒しとなる。
 一応、月末入稿のCD評などは帰国してから新譜を聴いて書くことになるため、それらは除外できる。
 あとは、連載と単発の原稿をどうやりくりするかである。
 まあ、いつものことだから、気負わず焦らず、自分なりのペースでやっていくしかない。なあんて、のんきなことをいっているのもいまのうちで、10日過ぎあたりからねじり鉢巻きになりそう。
 そういえば、トランクが壊れてしまったから、新しい物を買わなくてはならない。きっと向こうはもう寒いだろうから、風邪薬やのど飴もいつもの物をそろえなくちゃ。取材の下調べも十分にしなくてはならないし、やることは目白押しだ。
 16日までにすべてを終わらせようと思っているが、考えてみればそんなに猶予はなく、あっというまにきてしまうのではなだろうか。
 仕事机の前にメモを貼ってひとつずつこなしていく、といういつもの私なりの方法をとらなくっちゃ…。さあ、急げ、急げ、と自分にハッパをかけて(笑)。
 
 
 
| 麗しき旅の記憶 | 23:06 | - | -
犬好き
 いまはペットを飼うことはできないが、昔、実家には複数の犬や猫がいて、彼らとは仲のいい友だちだった。
 子どものころからペットと暮らしてきたためか、犬や猫が自然になついてくれる。
 以前イタリアにいったとき、かわいい犬が近づいてきて、私に親しげに話しかけてきた。もちろん、実際に話すわけではないが、なぜか話しかけてきた感じがするのである。
 その飼い主に許可をもらって写真を撮ろうとしたら、最初は横を向いたりキョロキョロしていたのだが、一瞬こっちを向いたため、即座にパチリ。
 このワンちゃん、すごくかわいくて、名残惜しかった。
 こういう出会いは、一瞬のもの。でも、写真を撮っておくと、そのときの様子がまざまざと蘇る。
 このときは夏の音楽祭の取材だったが、ワンちゃんの顔を見ただけで、そのときに聴いた音楽までもが脳裏に浮かぶ。
 人間の記憶とは、不思議なものである。
 ワンちゃんの写真から音楽が聴こえてきて、そのときの猛暑が思い出され、おいしかったモッツァレラチーズが浮かんでくる。さらに、インタビューしたアーティストの話がなつかしく思い出される。
 今日の写真は、その一瞬のワンちゃんの表情。かわいいよねえ、連れて帰りたくなっちゃった(笑)。
 

 
| 麗しき旅の記憶 | 22:54 | - | -
ルービンシュタイン国際ピアノ・コンクール
 明日から、イスラエルでルービンシュタイン国際ピアノ・コンクールがスタートする。
 私は以前もブログに綴ったが、何度かコンクール取材にいった。
 今年はチョ・ソンジン、ニコライ・ホジャイノフら、実力派が多数エントリーしている。
 このコンクールは課題曲が多く、かなり難関だといわれる。予選はイスラエル・フィルの本拠地であるテル・アヴィヴのマン劇場で行われ、本選だけ聖地エルサレムに移る。
 私はこれまで4回イスラエルを訪れ、そのつど強烈な印象を受け、たくさんの思い出ができた。ここで出会った人たちのことも、鮮明な記憶となって脳裏に刻まれている。
 イスラエルは大好きな地で、もう一度訪れたいと願っているが、いまのところその予定はない。
 さて、今年のコンクールの結果はどうなるだろうか。配信を見続けていきたいと思う。
 今日の写真は、数年前に宿泊先のブリュッセルのホテルの壁面で見つけたルービンシュタインの直筆。このホテルに泊まったようで、朝食をとったレストランの壁にかかっているのを偶然目にし、感動した。




 
 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:05 | - | -
ショパンの家の窓から
 これまで、数多くの作曲家の家を訪れた。
 ショパンの生家、ジェラゾヴァ・ヴォーラの家にも何度かいっているが、いつもショパン・コンクールの時期ゆえ、ワルシャワは「黄金の秋」と呼ばれる黄葉の時期にあたる。
 もちろん、ワルシャワから車で30〜40分ほどの郊外であるジェラゾヴァ・ヴォーラ村も黄葉の真っただ中。不思議なことに紅葉は見当たらず、ほとんどの樹木が黄色に染まっていて、その美しさといったらない。
 私はいつも作曲家の目線に合わせ、部屋のなかから外に向けて写真を撮る。すると、えもいわれぬ美しい景観が、あたかも額縁に入った絵のように写真に刻印される。
 ショパンの生家は、近年新しいビルが入口に出来、造園も手が加えられ、以前の古色蒼然とした雰囲気は一変した。
 でも、生家からながめる外の景色は昔のまま。ここにくると、いつも限りない静寂と、平穏な空気と、緑豊かな環境に心癒され、去りがたくなる。
 ショパンの音楽がどこからともなく聴こえてくる、そんな思いを抱く。
 今日の写真は、生家のサロンから撮った外の景色。マズルカが聴こえてくるような感じがしませんか。

| 麗しき旅の記憶 | 21:49 | - | -
ファイト・バッハの家


 寒くなると、いつも思い出すのが、2009年1月にJ.S.バッハの取材で訪れたドイツのことだ。
 このときは100年ぶりの寒波到来で、マイナス27度を経験し、とんでもない寒さにこごえたものだった。ほとんどの取材が屋外で、建物の内部に入る場合も、教会や城や宮殿ゆえ、暖房はいっさいない。
 顔までスカーフで覆い、目だけ出している状態。それでもガタガタ震えっぱなし。ようやくランチでレストランに入ったときは、顔から湯気が出て、まつ毛が水分でくっつきそう。冷凍庫に保存してあったお肉が解凍されていくような気分を味わった。
 このときは、バッハゆかりの地をたくさん回った。アイゼナハ、エアフルト、アルンシュタット、ワイマール、ケーテン、ハレ、ライプツィヒなど。なかでも印象的だったのが、ヴェヒマールである。
 ヴェヒマールは中部ドイツ、チューリンゲン地方のゴータ近郊に位置し、バッハ一族の源流ともいうべき、白パン職人のヴィトゥス(ファイト)・バッハがハンガリーから移住して住み着いた場所である。
 ファイト・バッハは1577年ころに没したと伝えられているが、音楽を愛好し、パンを作るかたわらツィトリンゲン(ツィターの一種)を演奏し、楽器をパン工房に持ち込んで粉をひく合間に演奏していたという。ここから音楽家系バッハ一族が育まれていくことになる。
 そのパン工房を訪ねたのだが、昔の姿そのままに保存され、まるで16世紀にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。
 とりわけ興味深かったのが、説明をしてくれた男性の衣裳。当時のパン職人の格好をしていて、「遠くまでよくきてくれた」とばかり、熱心に説明してくれた。そして工房のあちこちには楽器が展示してあるのだが、それをゆっくり見せてくれた。
 このときばかりは極寒の外部の空気を忘れ、しばしバッハの祖先に思いを馳せたものだ。
 今日の写真はそのガイドを務めてくれた男性(上)と、パン工房の内部。
 ロケバスに乗って訪れたため、交通手段は定かではないが、おそらく個人ではこられない場所であり、二度と訪れることはないだろうと考えると、とても貴重な場所に思えた。他の都市はバッハ自身に関係のある土地だが、ここヴェヒマールは、その祖先の住んだ土地ゆえ、そんなに訪れる人もないようで、ガイドの男性はとても別れを惜しんでくれた。いまでもその表情を鮮明に覚えている。
 旅とは、こうした人との出会いが心に刻まれるもので、その記憶はいつまでたっても色褪せることがない。




 
| 麗しき旅の記憶 | 22:34 | - | -
ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサート
 新年、明けましておめでとうございます。
 たったいま、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートのライヴ中継が終わった。
 昨年取材したさまざまなことが思い出され、バレンボイムの指揮も、ウィーン・フィルの演奏も、例年よりも身近に感じることができた。
 ウィーン・フィルの取材は、昨年さまざまな人のインタビューなどを紹介してきたが、最後に登場するのはこの人、ウィーン・フィルの楽団長である第1ヴァイオリンのクレメンス・ヘルスベルク。今年最初のブログの登場人物である。
 ヘルスベルクは1980年にウィーン・フィルに入団し、1997年に楽団長に就任。メンバーから信頼され、何度も全員の選挙により楽団長に選ばれている。
 この役目は大変な重責で、仕事は山ほど。インタビューに訪れたときも、ウィーン・フィルのツアーから戻ったばかりで、執務室のデスクの上は、書類がうず高く積まれていた。
「ちょっと留守にすると、やらなくてはならないことがたまってしまって大変なんです。もちろん私はヴァイオリニストですから、演奏が第一ですが、楽団長としての仕事はいくら時間があっても足りないくらいですよ」
 完璧なる民主性を貫くウィーン・フィルは、各人がそれぞれオーケストラの仕事を行い、自分の演奏と生活に責任をもっているという。
「休む暇もない生活ですが、演奏を始めた途端、天にも昇る気持ちになり、音楽に身も心も委ねることができます。ウィーン・フィルのメンバーは、おそらくほとんどの人がそうだと思いますが、演奏することを仕事だとは考えていないと思います。すばらしい作品を演奏することができる、その幸せをかみしめ、喜びを抱いて演奏しているのです。ですから、どんなに疲れていても、嫌なことがあっても、演奏を始めたらスーッと忘れてしまう。偉大な作曲家の作品のなかに入り、音楽と一体となり、みんながひとつの家族のようになるのです」
 今日のニューイヤー・コンサートも、まさにヨハン・シュトラウス・ファミリーの曲、生誕150年のリヒャルト・シュトラウスの曲と一体化し、みんなが喜びをもって演奏していることが伝わってきた。
 先日、バレンボイムのところでも書いたが、今日のニューイヤー・コンサートのライヴCDは1月22日にソニーからリリースされる。そのライナーノーツにバレンボイムにインタビューしたときのことを綴った。
 今日の写真はインタビュー時のヘルスベルクさん。リヒャルト・シュトラウスのスケッチ画(もちろんオリジナル)の前に立ってもらった。
 さて、2014年はホームページを少しだけリニューアルしたいと思う。ブログを初めてから3年、本当に多くの人から「いつも読んでいるよ」といわれ、そのつどうれしさをかみしめている。
 今年はもうちょっとグレードアップする予定。もっともっと楽しく読んでもらえるよう、頑張りま〜す。
 それでは、今年もどうぞよろしくお願いいたします。



 
| 麗しき旅の記憶 | 22:24 | - | -
トーマス・アンギャン
 世界の数あるコンサートホールのなかで、音響のよさで知られるビッグ3は、ウィーンの楽友協会(ウィーン・ムジークフェライン)、ボストンのシンフォニーホール、アムステルダム・コンセルトヘボウといわれる。
 先日のウィーンの取材で、楽友協会の芸術監督を務めるトーマス・アンギャンにインタビューをすることができた。
 しかし、彼は超多忙な人で、約束の時間になってもなかなかつかまらず、写真撮影も困難を極め、インタビューもごく短時間となった。
 そのなかで、もっとも印象的だったのが、楽友協会の音響の秘密である。
「大ホールは、床下も天井裏も大きな空間となっています。ふつうは何か部屋を作ったり、物を置いたりするものですが、このホールはまったく何もない。大きな空洞となっていて、ホール全体があたかもコントラバスのように響くのです」
 アンギャンさんは、ウィーン大学で法律を学んだが、クラシック音楽が好きで、ウィーン・コンサート協会に勤務した後、1988年にウィーン楽友協会の事務総長に就任し、やがて芸術監督のポストに就いた。
「楽友協会には大ホールのほか、室内楽用や多目的用の小さなホールもいくつか有し、全部合わせると年間840のコンサートが開かれているんですよ。約80万人のお客さまが聴きにいらしています。私はその数をもっと増やしたいと思っていますし、特に若い聴衆に向けたプロジェクトも充実させたいと考えています」
 アンギャンさんは、「ウィーン・フィルのコンサートは、ほとんど聴いています」と語り、「ウィーン・フィルを聴くと、至福のときが過ごせますから」と表情を和ませた。
 ウィーン楽友協会の大ホールは、「黄金のホール」と称される。もうすぐここで2014年の幕開けとなるウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートが開催される。きっと現在は、バレンボイムとともに集中的なリハーサルが行われているに違いない。
 アンギャンさんが説明してくれた、ホール全体がコントラバスのような形状をもち、上下の空気の振動で音がすばらしく響くという音をぜひ堪能したい。
 今日の写真はインタビュー中のアンギャンさん。バックはモンテヴェルディを描いた絵で、「オリジナルなんですよ」と誇らしげに語った。


 
| 麗しき旅の記憶 | 22:06 | - | -
ドミニク・マイヤー
 インタビューで出会う人のなかに、「この人が上司だったらいいのになあ」と思う人が稀にいる。
 先日のウィーン・フィルの取材で会った、ウィーン国立歌劇場の総裁、ドミニク・マイヤーがその人だった。
 彼はフランス人だが、ドイツ語を学び、語学に堪能。パリ・オペラ座、ローザンヌ歌劇場、シャンゼリゼ劇場の総監督を歴任した後、2010年にウィーン国立歌劇場の総裁に就任した。
 その総裁の打診があったのは、演奏旅行でパリを訪れていたウィーン・フィルからだそうで、ちょうどそのころに人生の転機になるようなことをしたいと考えている最中だったとか。
「自分が何か新しいことをしたいと考えていたちょうどそのとき、ウィーン・フィル側からこのポストのお話をいただき、最初はあまりにもタイミングが合うことに驚きを隠せませんでした。でも、きっと神がそう仕向けてくれたのだと思い、熟慮した結果、お引き受けすることにしたのです」
 マイヤーさんは、とてもおだやかな語り口の人だが、その仕事の手腕はすばらしく、いわゆる凄腕。総裁に就任するやいなや、ウィーン・フィルをはじめ、ウィーン国立歌劇場のさまざまな分野で働く人々の給与と待遇を徹底的に洗い直し、条件を向上することに務めたという。
 いまでは、ここで仕事をする人たちの待遇は格段によくなり、みんながより熱心に仕事に取り組む姿勢を見せているという。
 加えて、定期会員の数も増やし、チケットはほぼ完売。
「それもこれも、ウィーン・フィルのおかげですよ。彼らの演奏なくしては、ウィーン国立歌劇場はありえません。どんな作品にもすばやく対応し、全員が喜びをもって演奏する。こんなすばらしいオーケストラと仕事ができ、私も日々喜びを味わっています。あのときに決断してよかったとつくづく思います。まだまだこれから改善すべきことはたくさんあります。ウィーンを訪れる世界中の人たちに、ぜひウィーン国立歌劇場に足を運んでもらいたい。そのために、委嘱作品も考え、新たな試みも考慮しています」
 柔和な表情で話すマイヤーさんだが、仕事熱心で完璧主義で、しかも理想主義者のように見えた。ああ、こんな人が私の若いころにいてくれたら、ぜひ上司になってほしかったなあと、現実離れした考えをもってしまった。フランス人特有のウイットとユーモアとエスプリも持ち合わせているし。う〜ん、理想の上司だワー。
 今日の写真は、インタビュー後のドミニク・マイヤー。相手の目をきちんと見ながら話すその姿勢も好感がもてた。うん、理想的だ(笑)。


 
| 麗しき旅の記憶 | 22:14 | - | -
オットー・ビーバ博士
 ウィーン・フィルの取材では、ウィーン楽友協会資料室長のオットー・ビーバ博士にお会いした。
 ビーバ博士は日本でも名の知られた著名な方で、1973年からこの資料室に勤務し、1979年に資料室長に就任した。
 この資料室は所蔵している音楽家のオリジナル楽譜や書籍、手紙、資料などの数の多さと質の高さで世界でも指折りの場所で、アルヒーフ閲覧室には歴代の著名な音楽家をはじめ、ウィーン・フィルのメンバー、ウィーンを訪れた音楽家が次々に訪れ、勉強をしていくという。
 その閲覧室は図書館か大学の研究室のようで、静謐な空気をただよわせ、音楽家たちの学びの様子をリアルに伝えていた。
 今回の取材では、自分の写真を撮るということはほとんどなかったが、この閲覧室だけは特別で、もう二度と入れることはないだろうと思ったため、部屋にすわっているところを編集の方に撮ってもらった。
 ビーバ博士は、ジュリーニやアーノンクールがここでどんな研究をしていたかを話してくれ、さまざまな作曲家のオリジナル楽譜も見せてくれた。
 さらにベートーヴェンの愛用品であった補聴器と薬を飲むときのスプーン、散歩をするときに使っていた杖も見せてもらった。こういう物を実際に間近に見ると、ベートーヴェンがすぐそこにいるような感じにとらわれる。杖はブドウの木が使われ、持ち手のところが象牙をできていた。
 補聴器やスプーンは、ながめていると、胸が痛くなるほどだった。
 ビーバ博士と一緒に仕事をしているのがイングリッド・フックス博士で、彼女はずっとブラームスの研究をメインに据えているそうだ。そして現在は、クララ・シューマンの直系の子孫から購入したシューマンの楽譜の研究にすべての時間を費やしているという。
 この楽譜は「家庭画報」にも掲載されたが、私たちが取材に訪れたちょうど1週間前に資料室の所蔵になったもので、これから世界に向けての記者会見の準備に入ると語っていた。
 このビーバ博士の部屋は、窓からカール教会が見え、部屋にはモーツァルトのオリジナルの肖像画が飾られ、棚にはさまざまな作曲家の貴重な資料が収められ、そこにいるだけでウィーンの伝統と歴史を強く感じた。
「この仕事部屋は、すばらしい環境ですね」と私がいうと、ビーバ博士は「ですから、私は毎日たくさんの作曲家に見張られているんですよ。しっかり仕事をしているかどうかをね」と笑った。
 実は、先ごろウィーン・フィルの来日公演の折り、サントリーホールの入口でビーバ博士とフックス博士にばったり出会った。
 ふたりはすぐにインタビューのお礼を口にしたため、私のほうがあわててお礼を返す形となってしまった。
 今日の写真はビーバ博士とフックス博士。それからベートーヴェンの杖と、最初は建築技師をしていたヨーゼフ・シュトラウスが建物の模型を作っていたときの物と、モーツァルトの遺品。上部にモーツァルトの髪が束ねられている。
 ビーバ博士はいろいろな物を次から次へと見せてくれ、そのつど詳細な説明をしてくれた。そのひとつひとつから音楽が聴こえてくるようだった。








 
| 麗しき旅の記憶 | 23:12 | - | -
アイーダ・トランペット
 今回のアレーナ・ディ・ヴェローナにおけるヴェルディの「アイーダ」で、もっとも印象に残ったのは歌手たちのすばらしき歌声以外では、第2幕に登場するアイーダ・トランペットの響きだった。
 これは凱旋行進の場で奏される輝かしい調べで、日本ではサッカーの応援歌として非常に有名な曲。スタジアムでいつもサポーターがうたっているあの有名な調べである。
 このトランペットのテーマが夕暮れの空に向かって高らかに響き渡り、将軍ラダメスが闘いに勝って凱旋行進を繰り広げる。
 通常はホールやオペラハウスでの演奏ゆえ、多分にこのテーマが響きすぎることがあり、ここだけ少し音響的に異なった感じを受けるのだが、やはり野外オペラで聴くと、ヴェルディの印象的な旋律が天空に向かって飛翔していくようで、まさに祝祭的で晴れ晴れしい音楽に聴こえた。
 今回の演出では、広い舞台の左右上方に各6本ずつアイーダ・トランペットが配置され、交互に主題をうたい上げる。最後には12本がともに行進曲を響かせ、アレーナを埋め尽くした2万2000人以上の聴衆のひとりひとりの心に深く浸透するすばらしく感動的な音楽を奏でた。
 アイーダ・トランペットとは、1〜3個のヴァルヴを有する細長いトランペットで、変ロ調または変イ調のものがある。「アイーダ」で用いられてから、この名で呼ばれるようになった。
 今日の写真は、取材で楽屋や舞台裏を担当者に案内してもらったときに写したもの。大道具が並べられ、さまざまな舞台装置が出番を待っていた。そして、まだ観客の入らないアレーナは、夏の光を浴びて静かにたたずんでいたが、パンと手をたたくと、その音は石段の最後部まで響き渡っていった。
 実は、今回24年ぶりにアレーナを訪れたわけだが、初めてここに足を踏み入れたときとはずいぶん異なる印象を受けた。初めて訪れたときは、異次元ののような世界に大きな衝撃を受け、その広大さと保存のよさと音響のすばらしさに唖然としたが、今回はそのときよりも少し小さく思えたのである。
 よく、同じ場所を再度訪れると印象が違うことがあるが、まさに私のアレーナ体験もそれと同様、ただ驚くというよりも、もっと冷静にこまかいところまでじっくりと見ることができた。
 そして「アイーダ」も集中して鑑賞することができた。以前もキャストへのインタビューを行ったが、今回も5人にインタビューをすることができた。
 次回はそれを紹介します。お楽しみに。





| 麗しき旅の記憶 | 22:18 | - | -
ヴェローナの「アイーダ」
 1989年8月、北イタリアのヴェローナで開催されている野外音楽祭、アレーナ・ディ・ヴェローナの取材にいった。
 このときの様子は以前にも書いたが、今年はその音楽祭が始まって100周年にあたり、ヴェルディ生誕200年ということもあり、9月に東京ドームにこの音楽祭がまるごとやってくることになった。
 そこで急きょ、現地取材に出かけることになった。
 8月8日出発、12日帰国。つまり現地滞在はたった2日という強硬スケジュールである。
 海外出張は、いつもこんな感じで、スケジュールがあまりにもタイトゆえ、時差ボケのまま過ごし、時差ボケのまま帰ってくる感じだ。
 一度はあの2万人以上収容のアレーナでの音楽祭にいったことがあるため、だいたいの感じはわかっているが、とにかく日中は35度くらいの猛暑、そして夜9時から始まるオペラとなると21度くらいまで下がる。というわけで、服装が大変で、3パターンくらい必要となる。
 でも、なんといってもヴェローナにいるのは2日だけだから、着まわしのできるものを小さなキャリーバックに詰め込まなくてはならない。
 これが結構至難の技で、今日はあれこれ考えながらパッキングしていたら、すごく時間がかかってしまった。
 私はみんなにいつも荷物が少ないと驚かれ、パッキングもほとんど前日に短時間で済ますことが多い。でも、今回はちょっと悩みながらの作業となった。
 出かける前には、まだまだ仕事が山積みで、取材の下調べもしなくてはならないし、ああ、時間よ、止まってくれ〜という気分。
 ヴェローナでは、「リゴレット」と「アイーダ」を観ることになっている。さて、またいろいろ下調べをしなくっちゃ。
| 麗しき旅の記憶 | 22:56 | - | -
スペイン大好き
 先日の単行本にも、スペインをこよなく愛すことを長々と綴ったが、いつ訪れてもこの国は私を温かく迎えてくれる。
 ふだん、時間が許す限り、スペイン・サッカー、リーガ・エスバニョーラをテレビ観戦し、すばらしいチームワークと絶妙のパスに心が躍る思いを抱いている。
 2010年のW杯では、これまで無敵艦隊といわれているにもかかわらず優勝に手が届かず、常に涙にくれていたスペイン代表が、すばらしいパスサッカーを見せ、決勝ではオランダを1対0で下し、悲願の初優勝を遂げた。
 このときは、燃えましたなあ(笑)。いま思い出しても、熱いものがこみあげてくる。
 2010年暮れ、スペインに何度目かの旅をした。
 このときはどの町にいっても、W杯優勝の余韻が感じられた。町のあちこちにスペイン代表の優勝時の写真が飾られていたからだ。
 それを見ながら、ニヤニヤしている私は、いったい何なのでしょうね。
 でも、最近はなかなか時間がなく、サッカー観戦ができない。ああ、残念。
 私は特にリーガ・エスパニョーラのだれかを応援しているわけではなく、チームの戦いかたに惚れている。どんな国の出身者でも、リーガに入ると野性的な走りに変わる。それもたまらない魅力。
 監督が交代したときに、どんな変化がチームに現れるかを見るのもおもしろい。
 でも、以前からいっていることだが、サッカーはキーパーが一番興味深い。テレビでは、ボールをもった人しか映してくれないから、キーパーはゴールのときしか見られない。
 ナマのサッカー観戦にいくと、私はいつもキーパーをウォッチ。それゆえ目は両端に向けられるから大変だ。
 最近は、スタジアムにもいっていないなあ。寂しい限りだ。
 そういえば、フェルナンド・トーレスもしばらく見ていない。絶不調から抜け出せたのかしら。
 今日の写真は、2010年12月にグラナダで撮ったもの。この写真の前で、私はしばしニヤついておりました。





| 麗しき旅の記憶 | 22:05 | - | -
旅行読売のインタビュー
 2年前の今日、私たちは自然災害の恐ろしさを知った。そしていま、自分に何ができるのか、何をすべきかを考えさせられた。
 あれからずっと、それを考えている。そして、自分にできることをひとつひとつやっていくしかないと思っている。

 さて、今日は「旅行読売」のインタビューを受けた。1カ月半ほど先の号の「旅の記憶」という見開き2ページのカラーページである。
 編集長のKさんと編集部主任のNさんのおふたりにインタビューされ、これまでさまざまな土地を旅し、作曲家ゆかりの場所や作品が生まれたところなどを中心に歩いている話をした。
 話しているうちに次第に話があちこちに飛んでいき、食べ物や人々の気質、その土地でのエピソードなどの話に花が咲いた。
 こうした記事をまとめるのは、さぞ大変に違いない。Kさん、すみません、よろしくお願いいたします。
 楽しくおしゃべりさせていただいたので、話題があちこちに広がってしまい、収拾がつかなくなってしまいました(笑)。
 本来は「ラ・フォル・ジュルネ」のナントでの様子や、私の単行本のことを話さなくてはならないのに、どうも逸れっ放しでしたね。
 今日は最新号をいただいた。特集は「東京さんぽ」。東京駅を中心に周辺地域のことがたくさん載っている。ゆっくり読ませていただくことにする。
 写真はその表紙。
 実は、先日、次号の「モーストリー・クラシック」の特集記事「世界のホール」のアムステルダム・コンセルトヘボウの原稿を書いたばかり。東京駅はアムステルダム駅を参考にしている旨を綴ったので、この表紙を見たらすぐにアムステルダム駅を連想してしまった。
 インタビューで旅の話をたくさんしたため、心がすっかりヨーロッパに飛んでいったようだ。このアムステルダムという土地は、20代だった私が初めてヨーロッパに降り立ったところ。その意味でもとても印象深い。
 もうひとつ忘れられないのは、ヨーロッパで初めてコンサートを聴いたのも、このホールでのロイヤル・コンセルトヘボウの演奏だった。ゴッホ美術館の横を歩きながら、指揮者のまねをしている写真が残っている。
「旅行読売」の表紙を見ただけで、私の心ははるかかなたにタイムスリップ。旅とは、ホント不思議なものですね。 


 


 
| 麗しき旅の記憶 | 22:42 | - | -
マウリッツハイス美術館展
 週末から神戸市立博物館で開催されている、マウリッツハイス美術館展を見に行ってきた。
 東京で開催されているときは時間がなくて見られなかったため、神戸まで足を延ばした。
 フェルメールやレンブラント、ヴァン・アイク、ルーベンス、ブリューゲル、ハルスらの作品が数多く日本にやってきたが、一番のお目当てはやはりフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」だ。
 会場はかなり混んでいたが、「真珠の耳飾りの少女」の絵の前は人、人、人。30分ほど並んでようやく絵の前に行かれるほどの混雑ぶりだった。
 実際に近くで見ると全体の色のトーンが抑えられ、目の輝きが印象的で、唇や肌のしっとりとした感じがとてもみずみずしく、いま描かれたような新鮮な空気をたたえていた。
 フェルメールの絵は各地の美術館でもうかなりの数の絵を見ているが、この絵は初めて。以前、マウリッツハイス美術館に行こうと計画したが、実行することができなかった。それゆえ、こうしてさまざまな絵に対面することができたのは、大いなる喜びである。
 今日は京都に寄り、紅葉を愛で、京料理を堪能し、お寺を回り、おいしいお土産を買い、心豊かな気持ちになって帰路に着いた。
 神戸でも京都でも、腹八分を超えてたくさん食べてしまったため、なんだかからだが重い。また明日から仕事漬けだから、食べたものはため込むのではなく、エネルギーに変えなくちゃね(笑)。
 しかし、どの土地も猛烈な冷え込みだった。冬の旅はとにかく寒い。でも、久しぶりにゆったりしたので、心のなかはあったかい。
 今日の写真は神戸市立博物館のマウリッツハイス美術館展の看板と、京都二年坂の紅葉。



 
| 麗しき旅の記憶 | 21:38 | - | -
モンマルトルのブドウ畑
 フランスのワインといえば、ボルドーやブルゴーニュが有名だが、モンマルトルの丘の上に小さなブドウ畑がある。ここはガメイ種とピノ・ノワール種が植えられていて、毎年10月には酒の神バッカスに捧げる収穫祭が行われている。
 夏に訪れたときはまだ青々とした葉が大きく茂り、ブドウの実はそんなに大きくは見えなかったが、このブドウ畑で採れるワインはほんの少しゆえ、「幻のワイン」と呼ばれている。
 場所は、有名なシャンソン酒場「ラパン・アジル」の真ん前。本当に小さな畑で、いったいどのくらいの収穫量があるのだろうかと思いをめぐらせてしまった。
 このあたりは、ユトリロ、サティ、ベルリオーズ、ピカソ、アポリネールらがたまり場としていたところ。その時代の面影がいまも色濃く残っている。
 実は、以前デンマークのバリトン歌手、ボー・スコウフスにインタビューしたとき、ワインの話題になり、彼がこんなことをいい出した。
「モンマルトルにブドウ畑があるの、知ってる? 僕の友人があそこのひと区画を所有していてね、毎年ワインができると1本だけ分けてくれるんだよ。本当に数えるほどしか生産できないから、この1本も貴重品。だから毎年すごく楽しみにしているんだよ」
 そのときにスコウフスは自分もそのひと区画を買いたいと申し出たそうだが、まったく空きはなく、あったとしても審査がきびしく、新たに入ることはできないのだそうだ。
「だからこそ、貴重なワインなんだよね。飲むときは、ほんの少しずつチビチビと味わいながら飲むんだよ」
 スコウフスは「ドン・ジョヴァンニ」のタイトルロールを当たり役としている大柄な人。その彼が「チビチビ飲む」と物まねをしながら話すから、つい大笑いしてしまった。
 なんでも、ここのワインは18区の区役所の酒倉で仕込まれるのだそうだ。そして翌年の春に競売にかけられるという。
 ワイン好きのフランス人は、いったいどのくらいの値段をつけるのだろうか。
 今日の写真はそのブドウ畑。ねっ、本当に小さいでしょう。
 でも、「幻のワイン」、ひとなめでいいから味わってみたいものだワ(笑)。


| 麗しき旅の記憶 | 21:58 | - | -
アガサ・クリスティ
 昔からアガサ・クリスティの大ファンである。彼女の文章の簡潔さ、小説の創造性、一気に読ませる術に心酔している。
 もう10年以上前になるが、イスタンブールを旅したとき、アガサが「オリエント急行殺人事件」を執筆したホテルを訪れた。
 オリエント急行の終着駅として、多くの賓客を迎えるために1892年に建設されたイスタンブール初の西洋風ホテル、ペラバレスである。
 彼女はこの411号室であの名作を生み出した。
 ペラバレスは、タキシム・イスティクラル通りの中央に位置し、オスマントルコ帝国時代にはこのあたりは外国人居住区だったという。実際に訪れてみると、古色蒼然とした建物だが、とても風情があり、歴史を感じさせた。
 コンシェルジュに「アガサ・クリスティの部屋が見られますか」と聞くと、一般公開はしていないという。でも、日本から来たこと、アガサのファンであること、私も少しばかり物を書いていることを話すと、若い男性に合図し、部屋を見せてくれることになった。
 当時、初めてのエレベーターだったという旧式のエレベーターに乗って案内された部屋は、アガサの時代そのままの姿で私を迎えてくれた。
 ほどよい広さの部屋で、シンプルで居心地がよさそう。特に大き目のデスクが印象的だった。ここで彼女は執筆したわけだ。
 なんと感動的なひとときだっただろう。
 あまり長居はできないため、ていねいにお礼をいって下に降りると、先ほどのコンシェルジュが「どうだった?」と笑顔で迎えてくれた。
 私は何か記念になるグッズのような物がないかと訊ねた。
 するとしばらく考え込んでいた彼は、オフィスに入ってデスクまわりをあれこれ探していたが、ようやく小さなキーホルダーを持って現れた。
「これ、アニバーサリーのときに作った物だけど、かなり前の物でね。もうひとつしか残っていないんだよ。よかったら持っていく?」
 私は声にならないほど感激し、思わず彼の手を握って「ありがとうございます。大切にします」と叫んでしまった。
 そして彼から、しばらくするとこのホテルは大々的な改装工事に入り、アガサの部屋もアガサ・ルームとなって博物館のように公開される予定だと聞いた。現在のレストランもアガサ・レストランとなり、往年のはなやかさを取り戻すことになるという。
 そのことば通り、ペラバレスは長い期間リニューアルのために休館となり、2010年9月に新装オープンとなった。
 私が訪れたときの古めかしいペラバレスはアガサ時代をいまに伝えているようで感慨深かったが、いまはきっと華麗な姿に変貌して世界中から訪れる観光客に夢を与えているに違いない。
 ここはグレタ・ガルボやピエール・ロティ、アーネスト・ヘミングウェイも宿泊したそうだ。
 今日の写真はその貴重な記念品であるキーホルダー。表にはペラバレスの文字が、そして裏にはアガサ・クリスティの名が刻まれている。
 これをながめるたびに、「ああ、もっといい文章が書けたらなあ」と願いを込めてしまう。大切な私のお守りである。
 実は、20代のころに女ふたりでパリのリヨン駅からヴェネツィアまでオリエント急行に乗る旅をしたことがある。テレビでよく紹介されている華麗な列車ではなくかなり素朴な車体だったが、それでも胸がドキドキしたものだ。
 このときは大失敗をし、イタリア国境近くで口のうまい車掌にまんまとだまされ、両替が必要だからとお金をいくらかとられてしまった。いまとなってはなつかしい想い出だか…。
 その続き。
 お金を持って行ったまま、ちっともその人が戻ってこないので不思議に思って探しに行くと、なんと交替になった彼は線路の向こう側で「サンキュー」といってニコニコしながら手を振っていた。私たちは初めて「してやられた」と気付いたのである。おバカな話はこれでおしまい。



| 麗しき旅の記憶 | 21:50 | - | -
モスグリーン好き
 物ごころついたころからずっと、一番好きな色はモスグリーンである。学生時代には、複数の色の物があると、「これは、よっちゃんね」といって、友だちがグリーン系の物を必ず私にとっておいてくれた。
 それはいまでも変わらず、パソコンからマウス、洋服、ピアス、携帯のストラップ、文房具からごみ箱まで(笑)、ほとんどがグリーン系。
 夏の素足の時期になると、ペディキュア用のモスグリーンのマニキュアを探すのだが、どこのお店にもあるのは原色の派手なグリーンか、ぼんやりしたような黄緑色に近い色だけ。とうしてもステキな色が見つからない。
 以前、フランス製のモスグリーンのいい色合いの物を見つけてずっと使っていたけど、そろそろ底が見えてきてしまった。
 そこで、今回パリでコスメショップを見つけては探しまくり。
 そして、とうとう見つけました。ルーヴルの近くのおしゃれなショップで。それもほんの1本だけ。あとのグリーンはやっぱりギンギラの色だった。
 さて、今年の夏はこのペディキュアでいこう!! パリの色じゃー。
 今日の写真は左が以前の物、右が新加入の物。いい色でしょう(ひとりでにんまり)。


 
| 麗しき旅の記憶 | 22:55 | - | -
シャ・ノワール
 パリの旅でモンマルトルを訪れないことはない。ここはいつも変わらぬ素朴さと、芸術的雰囲気と、ボヘミアンな空気で旅人を温かく迎え入れてくれる。
 今回はエリック・サティのことを調べていたため、サティの家やモンマルトル博物館を訪れた。
 その博物館の入口に、真っ黒な猫がいた。サティはこの地でシャ・ノワール(黒猫)という文学酒場といおうか、音楽喫茶というべきか、キャバレーの一種でピアノを弾いて生計を立てていた。
 なんという偶然だろうか。黒猫が迎えてくれるとは…。
 しかし、この日はあいにくの雨模様。黒猫は呼んでも葉っぱの陰から出ようとしない。
「クロちゃん、おいで。ほらほら、日本から会いにきたよ。きみはサティを知っているかい」
 こう呼んでみたけど、じっとこちらを見ているだけで、そのうちにあきれてプイッと行ってしまった。
 やっぱりフランス語で話しかけないと、ダメなのかしらん。
 今回の旅は作曲家に関するところをいろいろ巡り、それぞれの場所でインスピレーションが湧いた。これを本に生かそうと思う。
 モンマルトル博物館のグッズ売り場には、存在感のある黒猫を描いたマグカップを売っていた。今日の写真は気まぐれなシャ・ノワールと、そのマグカップ。 これだけでも、サティの音楽を連想させるに十分でしょ(笑)。 



 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:53 | - | -
パリから東京へ
 今回の旅もまた、飛行機のトラブルに巻き込まれた。以前のスペインの旅では、10日間ロストパゲージでサバイバルな日々だったが、今回は帰国便が機材の不具合で飛ばなくなり、1泊空港の近くのホテルに泊まるはめに。
 あーあ、どうしてこんなことに、と考え出すと気が滅入るので、こういうときは腹をくくるしかない。
 しかし、仕事の取材や調べ物に関しては、内容の濃い旅になったため、最後のアクシデントは目をつぶるしかないかも。
 というわけで、2日かかって帰国したような気分。
 ところが、日本に着いてハッと気がついた。1日前だから余裕だと思っていた原稿締め切りが、実は明日の午前中。すぐにとりかからないとまにあわない。
 時差にもめげず、気温差にもめげず、まして飛行機のトラブルにもめげず、すぐに仕事モードに入らなくてはならない。
 あーあ、やっぱり、なんでこうなるのという感じだ。
 ともかく嫌なことは忘れて集中、集中っと。

 さて、原稿がひと段落したため、久しぶりのブログだ。何の話題にしようかなと考えていたら、あまりに暑い東京から頭のなかがビューンっと湿度の低いパリへ戻り、アイスクリームが浮かんできた。
 私はサン・ルイ島が大好きなのだが、ここはおいしいアイスクリームのお店が多いことで有名だ。
 この時期のパリは、地元っ子はみんなバカンスでいなくなり、どこを歩いても世界中の観光客であふれている。それもハンパではない多さ。2階建てのシティラマの観光バスやセーヌ川を走るバトームーシュも人、人、人。美術館もカフェもレストランも、すべて人で埋め尽くされている。
 でも、きっとサン・ルイ島だったら観光名所はないし、ゆったりと散策ができるのではないだろうか、と思ったのがおおまちがい。メインストリートは観光客でごったがえしていた。
 それでもようやくサロン・ド・テの席を確保し、おいしい紅茶とアイスクリームに舌鼓を打つことができた。やれやれ…。
 今日の写真はその紅茶とアイスクリーム。これ、白いほうはココナッツ味なの。メッチャ、おいしかった。
 それにしても、あの静かな気品に満ちたサン・ルイ島はどこに行ってしまったのだろうか。今回は夏のパリの喧騒のなかに巻き込まれた感じがする。
 さて、明日からまた日常が戻ってくる。旅の記憶を大切に、仕事に励まなくては…。

| 麗しき旅の記憶 | 23:57 | - | -
旅の必需品
 旅の必需品はいくつかあるが、ノイズキャンセリングは私にとって必要不可欠なものである。
 飛行機の騒音を防いでくれるし、i-podで音楽を聴くこともできる。
 以前、宿泊したホテルの廊下の音や隣室の音がすごくうるさかったとき、このノイズキャンセリングに救いを求めたら、ゆっくり休むことができた。健康の面でも、これがないと体調を崩してしまう。
 昔は耳せんをいろいろ買い求め、さまざまなところで試してみたが、耳せんはやはり完全には騒音を防いでくれない。
 大きな音がしても気にせずに眠れる人はいいかもしれないが、私は音に敏感なため、やたらに気になってしまう。
 時差にも気温差にも決して強くないし、乗り物も本当は好きではない。飛行機も電車もクルマも、みんな苦手だ。
「それにしては、海外によくいくよね」とか「出張が多いのに、どうして慣れないの」などといわれるけど、クラシックの仕事をしている以上、出かけることはどうしても多くなる。
 そこで、長旅の最中、なんとか快適に過ごす工夫を凝らすわけだ。
 一番の救世主は、やはりいい音楽。ふだんからいろいろ録音しておいて、ゆっくり聴いていく。本を読むのも好きだけど、飛行機のなかで読むと、眼精疲労が一気に増すから困る。
 さて、明日は早朝から出かけなくちゃ。有意義な旅になるよう、願うばかりだ。写真もいっぱい撮ってこようっと。
今日の写真は私の旅の友、ノイズキャンセリング。忘れないようにしなくちゃ。

| 麗しき旅の記憶 | 20:51 | - | -
アンドレ・ルコント
 昨日プラッソンのブログを書いていたら、ある人の思い出が蘇ってきた。
 日本で初めてフランス菓子の専門店、六本木の「ルコント」を開いたフランス人パティシエのアンドレ・ルコントさんだ。
 1998年の6月にトゥールーズに取材に行った折、取材班は2つに別れて現地入りすることになった。マルセイユ経由と、カルカッソンヌ経由である。私はカルカッソンヌを選んだ。
 カルカッソンヌはヨーロッパ最大の城塞をもつ町として世界遺産に登録されている。シテと呼ばれるコンタル城を中心にした城壁内は、全長約3キロの城壁で囲まれ、52もの塔が建っている。
 実は、宿泊先がこのシテのなかに位置するホテルで、内部はまるで中世の騎士物語をそのまま描き出したかのよう。部屋も、ひとりでは怖いくらいに広く、中庭を見ながら入浴できる広々としたバスルームがついている。
 だが、レストランはない。夕食は城から出たところでいただき、城に戻ってカフェバーで夜中まで飲んだ。
 これが大失敗。私はゆっくりあのぜいたくなバスルームで庭をながめながらひとときを過ごしたかったのに、部屋に戻ったのは真夜中。まったく外は見えなかった。やっぱり、こういうぜいたくには縁がないのね(笑)。
 そして翌朝、城のすぐそばの指定されたレストランに朝食を食べに行った。数人で日本語で会話していると、すぐ横のテーブルで食事をしていた年配の恰幅のいい4人組の男性たちが話かけてきた。
「きみたち、日本から来たの? 仕事かい、それとも観光」
 取材だと答えると、そのなかのひとりがこういった。
「私たちはフランス人だけど、世界各地にちらばってそれぞれ異なる分野で忙しく仕事をしている。それで1年に1回こうして集まってフランス各地を旅しているんだよ」
 そのなかに、見覚えのある顔をした人がいた。
「えっ、私を知っているって。うれしいねえ。私は日本で店を開いているアンドレ・ルコントだよ。六本木の店にきたことがあるのかい。じゃ、今度店にきてくれたら、いくらでもケーキを食べていいよ(笑)」
 それから私たちはトゥールーズのオーケストラの取材にきたこと、2班に分かれ、カルカッソンヌを選んだことなどを話し、彼らはそれぞれの仕事の話をしてくれた。
 ところがその1年後、1999年にルコントさんの訃報を知った。残念なことに、私はあのあと六本木のお店にケーキを買いに行くことはなかった。後悔先に立たず、とはこのことだ。もう一度、あのおだやかな笑顔に会いたかったのに。
 旅とは、不思議なものである。トゥールーズの前にカルカッソンヌに寄ったおかげで、シテのホテルに泊まったおかげで、朝食の時間がルコントさんたちと重なったおかげで、すばらしい出会いに恵まれた。
「ルコント」は支店がいくつかあるため、いつもその前を通ると必ずおいしいケーキを買うことにしている。それは食べることが目的ではなく、ルコントさんの笑顔を思い出したいからである。 
 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:54 | - | -
お店探訪
 旅に出ると、とかく野菜や果物不足になる。
 そこで私はいつも町を散策しながら八百屋さんや果物屋さんを見つけ、新鮮な野菜や果物をいくつか購入し、ホテルに持ち帰ることにしている。
 いつも感じるのは、海外のこれらお店はディスプレイがとてもおしゃれで、美しい。品物を無造作に入れてある木箱なども、絵になる感じ。
 こういうお店を見て回るだけでも、旅の楽しさが倍増。そして食材などもついつい買い過ぎて、トランクの重量が増し、あとで泣くことに…。
 今日の写真はフィレンツェの果物屋さんと、グラナダの香辛料のお店と同じくグラナダのサフラン専門店。サフランは日本ではとっても高価だから、このさいたくさん買っていこうかな、などと思ったら、もういけません。両手にいっぱい買ってしまう。すでに頭のなかはパエリャのレシピで満杯だ(笑)。
 うーん、どれもステキな並べかた。こういうのって、ずっとながめていても決して飽きないんだけど、どうしてかなあ。
 これ見ていたら、また旅に出かけたくなってきた。締め切りに追われていると、現実逃避したくなるのだろうか。いかん、いかん、真面目に仕事しなくちゃ(笑)。





| 麗しき旅の記憶 | 23:11 | - | -
キュリー夫妻
 旅に出ると、音楽以外の思いもよらぬ新たな分野に出合い、視野が少しだけ広がる思いがする。
 2010年のショパン国際ピアノ・コンクールの取材でワルシャワに出かけたときは、この地の出身者である物理学者で化学者のマリ・キュリー(旧名マリヤ・スクウォドフスカ)と、フランス人の夫である物理学者ピエール・キュリーの博物館に足を運んだ。
 このノーベル賞学者の夫妻の博物館は、「キュリー夫人博物館」と名付けられ、彼女の生家が改装されたもの。旧市街からバルバカンを抜け、まっすぐ北に進むとフレタ通り16番地にその家が見えてくる。
 建物は3階建の堅牢な作りで、入口に看板が掲げられ、階段を上っていくと夫妻の大きな写真が出迎えてくれる。
 内部はかなり広く、ポロニウムやラジウムといった放射性元素の発見にいたる研究資料やさまざまな業績がジャンル別に展示され、実際にキュリー夫人が使っていた実験道具の数々も見ることができる。
 夫妻の生い立ちや出会い、その後の人生にいたるまで詳細に紹介され、二人の真摯な生きかたがとてもよく理解できた。
 写真も非常に多く、名前だけは知っていた偉大な学者がなんだか身近に感じられるような思いにとらわれた。
 今日の写真は博物館の入口の看板と、キュリー夫妻の大きな写真。博物館は世界各地から訪れた人々で満員状態で、並んで待ってから入館した。
 小学生や中学生の団体もいて、授業の一環だろうか、みんな興味深そうに見学していた。やはりショパンと同様、キュリー夫人はポーランドが世界に誇る偉大な人物なのだと実感した。





| 麗しき旅の記憶 | 22:32 | - | -
ケーテン
 J.S.バッハゆかりの地ケーテンは、アイゼナハやライプツィヒ、ワイマール、ドレスデンなどにくらべ、現在ではあまり注目されない町になってしまった。
 しかし、バッハはここで「ブランデンブルク協奏曲」「平均律クラヴィーア曲集第1巻」をはじめとする数多くの協奏曲や室内楽曲、器楽曲を書いている。
 ルター派のワイマールとは異なり、同じプロテスタントでもカルヴァン派を国教とし、ケーテン公レオポルトは器楽曲を非常に愛したといわれる。それゆえ、バッハはこの地で代表作となる器楽曲をいくつも生み出した。
 ケーテンはワイマールの北東約100キロ、ヘンデルの生地ハレの北方約30キロに位置する。
 2009年、バッハの取材に訪れたさい、ライプツィヒで約半日ほど自由時間があった。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスでマチネーのコンサートを聴いた後、私はぜひケーテンを訪れたいと思い、取材班と別れてひとりでケーテンに出かけた。
 このときは100年に一度という猛烈な寒波がドイツを襲い、ただ歩いているだけでもからだが凍りそうだったが、勇気を出してライプツィヒ駅に向かった。ここから電車に乗ったが、日曜日だったため直行はなく、ハレで乗り換えが必要だといわれた。
 ハレに着くと、さすがにガタガタ震えが止まらず、待ち時間を利用して熱いコーヒーとホットドッグを買い、旅人に交じって食べた。
 ようやく着いたケーテンは、夏は音楽祭などでにぎわうそうだが、道路にも歩いている人はほとんど見当たらず、閑散としている。案内板を頼りに2時間ほど散策するうちに、道に迷ってしまった。
 道を聞こうにも人がいないし、お店は日曜日だからみんな閉まっている。はて、どうしたものかと思案に暮れていると、はるか向こうから自転車に乗った男性がやってきた。走っていって駅に戻る道を聞くと、かなりの距離があるという。でも、タクシーも見当たらないし、バスも走っていないから歩くしかない。延々とまた凍った道を歩き、やっとの思いで駅にたどり着いた。
 バッハが宮廷楽長として活躍していた時代、1717年から1723年ころはきっと輝かしく栄えた町だったのだろうが、いまは観光客もあまり訪れないようだ。
 まあ、もっともこんな真冬の寒波が押し寄せている時期にここにくる人などいないことはわかっていたが、町の空気をほんの一瞬でも吸い、あちこち歩きまわっただけで、私は少しだけケーテンを知ることができた。
 道に迷ったときはとても心細く、果たしてライプツィヒに戻れるだろうかと思ったが、いま思い出すと行ってよかったと思う。
 旅は、苦労するほど印象が深くなる。私にとって、ケーテンは極寒のイメージだが、いつの日か夏の音楽シーズンに訪れたいと願う町でもある。
 今日の写真は、ひとっこひとり見当たらないケーテンの風景。考えてみれば、よくひとりでフラフラ歩いたよなあ(笑)。





| 麗しき旅の記憶 | 21:40 | - | -
アルハンブラの手鏡
 昨年の年末年始のスペインの旅から、はや1年がたった。
 10日間のロストパゲージはキツかったが、いまではいい思い出だけが記憶として脳裏に刻まれている。
 そのなかで、もっとも印象深いのはアルハンブラ宮殿の変わらぬ荘厳で静謐な美しさ。ここは、いつ訪れても心が解放され、新たな発見がある。
 以前はその日に窓口に行けばすぐにチケットが入手できたのに、いまや世界中の観光客が多数訪れるため、事前に入場券を手に入れないと入れなくなった。
 それもまだ真っ暗な明け方から売り場の行列に並び、チケットを購入する形。グラナダはスペインの南に位置しているとはいえ、朝早いととてつもなく寒い。世界各地から訪れた観光客は、コーヒーやパンを持参して並んでいる。
 ようやく自分の番になると、窓口の番号が呼ばれ、そこに行ってチケットを購入する。
 さらに内部に入ってからもまた行列。昔はガラガラにすいていたのになあ。本当に人が多くなった。
 このときは獅子宮にあるライオンの庭の12頭のライオンが修復のために撤去され、その修理方法がことこまかに紹介されたビデオが流されていた。
 非常に興味深かったのは、世界中のカメラマンがさまざまなアングルと方法でこれらのライオンを撮影した写真が展示されていたこと。見る人によってこの被写体はこうも変わるのかと、印象深かった。
 ショップでは、ひとつ小さな丸い手鏡を買った。これは裏に獅子宮のパヴィリオンの柱廊の模様が描かれていて、とてもエキゾチック。手のひらに乗るサイズで、いつもハンドバックに入れている。
 これを取り出すたびに、心は大好きなグラナダへと飛んで行く。何か嫌なことがあると、必ずこれを手に持つ。すると、不思議に気分が落ち着き、おだやかな気持ちになる。
 こんな小さなお土産だが、ミステリアスな魅力を放っている。目を閉じると、あのアルハンブラ宮殿を包み込む空気のなかに自分がいるよう。なんとも不思議な鏡である。
 今日の写真はその直径7.5センチのちっちゃな手鏡の裏面。イスラムのアラベスク模様が美しいでしょう。



 
 
| 麗しき旅の記憶 | 21:07 | - | -
ポヴォンスキ墓地
 東京の木々が黄色に色づくこの季節になると、ワルシャワの「黄金の秋」と呼ばれる美しい光景を思い出す。
 ワルシャワでは10月になると町中の木々が一斉に黄葉し、折しもショパン・コンクール開催中は1年でもっとも美しい時期となる。
 私はショパン・コンクールの取材に行くと、いつも旧市街の先にある広大な墓地、ポヴォンスキ墓地を訪れる。ここは1790年創設の歴史ある墓苑で、ポーランドの王族、偉人、著名人などが埋葬されている由緒あるところ。ボヴォンスコフスカ通り14番地に位置している。
 10月といえどもワルシャワはとても寒く、奥ゆかしさと静寂に包まれた墓地はひんやりとした空気がただよい、足元から冷え込んでくる。
 ここはとてつもなく広い墓地で、入口の案内板の番号をいくら見ても、すぐに目指すお墓は見つからない。それでも、なんとか記憶を頼りに今回はショパンの両親、ショパンの先生のヴォイチェフ・ジヴニーとユゼフ・エルスネル、ショパン・コンクールの創設者イェジ・ジュラブレフ、「乙女の祈り」の作曲者、テクラ・バダジェフスカのお墓を見つけ、花を捧げた。
 これだけのお墓を探して歩くだけで1時間半以上もかかり、もうからだは冷えっぱなし。ガタガタと震えながら献花をしたが、とても有意義な時間を過ごすことができた。
 今日の写真はショパンの両親のお墓。木漏れ日を受け、なんともいえない美しさを醸し出していた。丸い形の小さな輪になった2つの花が、私が捧げたもの。集中力と緊張感を要するコンクールの合間の、ほんのひととき静けさに包まれた落ち着いた時間だった。もう1枚は墓地の風景。ねっ、これ見ただけできれいだけど、しんしんと冷えてくるのがわかるでしょう。



| 麗しき旅の記憶 | 15:39 | - | -
メンヒスベルクの美味なるランチ
 旅の楽しみのひとつに、その土地で味わう食事がある。
 ザルツブルクに行くと、いつも必ず足を伸ばすのがメンヒスベルクの丘の上にあるレストランM32。ここは丘の上に位置する近代美術館と同じ建物内にあり、広いテラス席からはザルツブルクのすばらしい街並みとホーエンザルツブルク城塞が一望できる。
 夏の音楽祭に出かける際は、ぜひ立ち寄ってほしいレストランである。
 パスタやザリガニ料理、肉料理などさまざまなメニューが用意されているが、なかでもお勧めはクラブ・サンドイッチ。パンも自然なおいしさで、すべての具が日本人の舌に合うシンプルながら深い味わい。
 テラス席で風に吹かれながら頬張るクラブサンドは、ピクニックに行っているようなリラックスした気分と、おしゃれなレストランの雰囲気と、美術館の近くならではの知的な空気がプラスされ、印象に残る味となる。
 メンヒスベルクは、ゲトライデガッセから徒歩5分ほどのところにあるエレベーターで一気に上ることができる。近代美術館は2004年10月にオープンした白亜の美術館。夏は観光客が多く、美術館を訪れた人は必ずといっていいほどこのレストランに立ち寄るため、予約したほうが安心。もちろん、お茶だけでもオーケーだ。
 今日の写真はM32のテラス席。眼下に広がる景色がすばらしい!! ここは、何時間でもボーっとすわっていたくなるんだよね(笑)








| 麗しき旅の記憶 | 23:21 | - | -
動物好き
 子どものころから動物が大好きで、実家では常に4、5匹の犬や猫を飼っていた。ウチでは父親や子どもたちがみんな動物好きなため、すぐに捨て猫を家に連れ帰ったりするのだが、あとの面倒を見るのはもっぱら母親の役目。母は特に動物好きではないため、いつもブーブー文句をいっていた。
 いま私はペットは飼えないため、とても寂しい。というわけで、海外に行くとその土地の犬や猫を見つけては写真を撮っている。
 アテネでは国立考古学博物館から出てくると外にカフェがあり、歩き疲れたためそこでちょっとお茶をしていた。すると、動物好きだということがわかるのか、とってもキュートな子猫が寄ってきた。「ワーッ、かわいい」といってなでていたら、もう1匹すごい形相の大きな猫がのっしのっしとやってきた。
「何やってんだお前、かわいがってもらってんのか」
 その猫は確かにこういう表情をしていた。
 どこから見ても、とてつもなくかわいくない。一緒にいるだけで、なんだか不愉快になりそうな猫だ。
 早々に席を立ち、かわいい子猫にさよならをして立ち去ろうとしたら、そのコワモテの猫に思いっきりにらまれた。ああ、コワッ(笑)。
 イスタンブールでも、アヤ・ソフィア聖堂から出てきたところの大きな石の階段にみんなが思い思いにすわって日光浴をしていたため、私もひょいとすわったら、途端に茶色のきれいな毛並みをした猫が擦り寄ってきた。
 この猫は私の隣にくるや、ゴロゴロとのどを鳴らしながら私にからだを預けるようにし、陽を浴びてなんとも気持ちよさそうな顔をして眠ってしまった。
 放っておいて席を立つわけにもいかず、しばし一緒にうとうとしていたものだ。なんというのどかなひとときだろうか。旅の思い出とは、こんなちょっとしたことが印象に残る。
 今日の1枚目の写真はその茶色の猫。なでているのは私の手。偶然、私が着ているのは茶色の皮のコート。いいコンビネーションでしょ(笑)。
 ザルツブルクでは、音楽祭の合間にお土産屋さんをのぞいていたら、そのお店の前に店番をしているちっちゃなワンちゃんがいた。
 この犬は世界各地の観光客や音楽祭の聴衆、地元の人たちがぞろぞろ通ることなどいっこうにおかまいなしで、じっと動かずお店を守っている。なかなか賢く、なでられてもじゃれつくこともせず、こんなにかわいいのに、実にクール。自分はアイドルではなく、店番をしているのだという誇りを持っているようだった。ついおかしくて、パチリ。今日の2枚目の写真はそのザルツブルクの店番ワンちゃん。
 また、各地でいろんな動物に会いたいな。





| 麗しき旅の記憶 | 22:05 | - | -
カフェ・テリメナ
 ショパン国際ピアノ・コンクールの取材に行くたびに、必ず寄るカフェがある。
 ショパンの心臓が収められている聖十字架教会や、学生だったショパンが日曜ミサでオルガンを弾いていたヴィジトキ教会などが建っているクラクフ郊外通りと、コジャ通りの角に位置しているカフェ・テリメナだ。
 ここは表がアクセサリーのショーウィンドーになっているため見逃してしまいがちだが、建物の左側にまわると、入口がある。
 当時の名はブジェジンスカ。ここは革命運動家や文化人が集うところで、ショパンも友人たちと議論を闘わしたという。
 現在は静かなカフェで、内部はほの暗く、骨董品のようなテーブルといすが置かれている。ショパンはココアが大好物だったと記録に残されているが、ここでもココアを飲んだのだろうか。
 私も、いつもココアを頼む。ここで飲むと、素朴なココアがとてもおいしく感じられるから不思議だ。
 ショパンはこのころ同じ音楽院の声楽科の生徒、コンスタンツィヤ・グワトコフスカに初恋の思いを抱いていた。彼女への思慕が、ピアノ協奏曲第2番の第2楽章として結実したことは有名である。
 そんなショパンの思いを想像しながらココアを飲むと、なおいっそうこの味は印象深いものとなる。
 旅の記憶のなかで、「味覚」が占める割合はかなり大きい。私はワルシャワというと、ココアを思い出す。
 さて、おいしいココアでひと息入れて、次の原稿に移るとしましょうか。
 今日の写真はそのテリメナ。ショパン時代そのままの外観だ。

| 麗しき旅の記憶 | 22:01 | - | -
アルハンブラバス
 最近は、すっかりペーパードライバーになってしまった私。もともと車庫入れは苦手、縦列駐車もダメ。スピード狂だからしょっちゅうつかまっていて、以前会社のクルマを運転していたときは、社長が警察まで呼ばれたものだ。
 いまは我が家の駐車場はガーデニングの場となり、四季の花々が咲いている。
 自分が運転をしなくなると、運転のうまい人がやたらにうらやましくなる。といっても、海外の話。
 この冬、スペインのグラナダで乗った小型バスのドライバーは、それは見事な運転ぷりだった。グラナダは狭い道路が入り組んでいて、アルハンブラ宮殿の周辺やアルバイシン地区にはアルハンブラバスと呼ばれる小型バスがひんぱんに走っている。このバスは迷路のようなところを猛スピードで飛ばしていくのだが、決してどこにもぶつからない。本当に狭い道では通行人が壁に張り付いてパスをよけたり、さっとあいているところに隠れたりするのだが、それをちゃんと見越してすばらしいハンドルさばきでぐんぐん走っていく。
 何度かいろんな路線に乗ったのだが、それぞれのドライバーの陽気なこと。あるところで犬の散歩をしている年配の男性がいると、運転席の窓を開けて「やあ、元気。ワンコロも元気してる?」などと話しかけ、カフェの入り口に向かって「今夜、何時までやってるんだい?」と叫ぶ。
 かと思うと、乗客のチケット(先払いのカード)を刻印しながら同時におつりを出したり、紙幣を数えたり、団体客の人数をカウントしたり。この間、走りを止めることなく、スピードを出して運転続行中。なんという器用さ。
 アルバイシン地区の夜景が美しいサクロモンテの丘にさしかかると、道はなおいっそう狭くなり、夜景を見るためにバスは満員。立っている人も多いのだが、みんなが「キャーっ」と叫び声を上げるほど右に左にぐらぐら車体を揺らして坂道をのぼり、名人芸を発揮する。
 この間、ドライバーは鼻歌を歌い、またまた知り合いを見かけて「今日も満員でさー」などと声をかけている。いや、すばらしいラテン気質。
 以前、ベネツィアのゴンドリエーレはきびしい試験があり、運河の迷路をあの長いゴンドラを自由自在に動かしていかないとパスしないと聞いたが、アルハンブラバスのドライバーもきっと試験があるんだろうな。女性のドライバーもいて、彼女も降りるときに「また乗ってねー」と明るく声をかけてくれた。
 私は一度にひとつのことしかできないから、運転となったらそれだけに集中。とても歌なんか歌えないし、あの狭い道はあちこちにぶつけそう。まあ、一度で試験に落ちるだろうな(笑)。
 今日の写真はそのアルハンブラバス。向こうからやってくると、すごくかわいいんだよね、これが。


 
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:36 | - | -
アルンシュタットのお土産
 2009年1月上旬から中旬にかけて、J.S.バッハゆかりの地をいくつか訪れた。折しもヨーロッパは100年ぶりの寒波到来で、連日冷凍庫のような寒さ。日中でも零下14度ほど。もっとも気温が下がったのはエアフルトの夜半。零下28度というこれまで体験したことのない極寒で、心身が凍った。
 このときに取材で旅した地は、まずアイゼナハ、次いでヴェヒマール、アルンシュタット、エアフルト、ワイマール、ケーテン、そしてライプツィヒ。初めて旧東ドイツを訪れたのは統合前の1986年だったが、当時とくらべるといずれの地も様相が一変。建物から町の様子、人々の表情まで、すべてが大きな変貌を遂げていた。
 特に印象深かったのは、22年半ぶりに再訪したアイゼナハ。フラウエン広場にあるバッハ・ハウスの充実は目を見張るものがあり、ありとあらゆる資料がそろっていた。
 周囲の家々も様変わり。なんという変わりようだろう。私はとまどい、どこかにあの時代の面影を見出そうとしたが、無駄だった。アイゼナハは新しい都市のように異なった表情を見せ、暗さや恐ろしさは微塵も感じることがなかった。
 ただ、バッハの音楽は変わらぬ姿でそこに存在していた。バッハ・ハウスで聴いた永遠不滅の音楽――その事実に直面し、自分のなかに流れた月日だけを深く感じ入ることになった。
 ここは自己の内面との対話を促し、バッハの偉大さを再確認させてくれる町。ここから大きな町へと飛翔していったバッハにひとり思いを馳せた。
 各地でそれぞれ現地の音楽家による室内楽の演奏を聴いたり、バッハゆかりの教会でオルガンの響きに胸打たれたりしたが、なにしろ教会は足元から深々と冷えてくる。
 東京から取材にきたということで、各地のオルガニストはここぞとばかり腕を奮ってバッハの作品を弾いてくれるのだが、こちらは長時間堅い椅子にすわってブルブル震えっぱなし。演奏後はこれまたていねいにオルガンの横に連れて行ってくれ、構造や奏法を説明してくれるのだが、ここでもガタガタ、歯の根が合わない。トイレにも行きたくなるが、ひたすらがまん。そのうちに私の頭のなかでは、「バッハ=凍りそう」という図式ができあがった。
 このバッハの取材はひたすら外を歩くことが多く、内部に入るのは教会やお城。唯一、暖を取るのはカフェに入ったり、食事をするときだけ。
 そのなかで、うれしいことがあった。
 アルンシュタットでランチをいただいたときのこと。案内してくれた観光局の女性に「はい、あなたの席はここね」といわれて座ると、目の前に大人の掌サイズほどのバッハ像がこちらを向いている。あとの席にはなく、お花が活けられているだけ。
「すみません、このバッハの置物、どこかに売っていますか。すごく素敵なので帰りに買っていきたいんですけど」
 私のことばを聞いたその女性は、「ちょっと待っててね」といって奥に消えた。前菜が運ばれてくるころに彼女は戻ってきて、こう耳打ちした。
「これは売り物ではないの。このお店の飾り物。だけど、あなたが気に入ったと話したら、オーナーが特別にプレゼントしてくれるんですって。でも、ひとつしかないから、そっとね。食事が終わって席を立つときに、お店の人がさりげなくナプキンに包んで渡すから、ほかの人には見せないようにすぐにバックに入れてほしいんですって」
 ウワーッ、どうしよう。以前、ヴェローナでも似たようなことがありブログにも書いたが、私ってよほど物欲しげな顔をしているか、欲張りな表情に見えるのだろうか。
 というわけで、食事中もなんだか気もそぞろ。目の前のバッハがじっと私を見ている。何を食べたのかまったくわからなかった。なんて、小心な…。だって、一緒に行った人たちに秘密を持つのってイヤだものね。
 でも、結局はナプキンに包まれたバッハが私のハンドバックに滑り込んできて、一件落着。お店のオーナーまでお見送りに出てきて、ウインク。まいりましたね。大声でお礼をいいたくてもいえないし。
 今日の写真はそのバッハの置物。なかなか渋い顔をしているでしょ。これを見るたびに、私のからだはいろんな意味で凍りつきます(笑)。

| 麗しき旅の記憶 | 22:36 | - | -
ファン・エイク兄弟「ヘントの祭壇画」
 数年前の真冬、ベルギーのブリュッセルの北西55キロほどに位置するヘント(ゲント)に1枚の祭壇画を見に行った。
 ファン・エイク兄弟が描いた、フランドル絵画の最高傑作と称されるシント・バーフ大聖堂の祭壇画である。
 この冬はとてつもない寒さで、ブリュッセルから電車でヘントに向かう途中、窓の外に見える木々は樹氷の状態で、大聖堂のなかも凍るような寒さだった。頭の芯から足先までバリンバリンの感じ。次第に寒さも感じないほどに凍りついてしまった。
 そのなかで対峙した祭壇画は、生涯忘れられないだろうと思う印象深さ。観音開きになっていて、下段中央に「子羊の礼拝(神秘の子羊)」が描かれている。この子羊はキリストを表しているそうで、こちらをじっと見ている目が胸に鋭く突き刺さってくる。なんというリアルな表情だろうか。絵や写真では何度も目にしていたが、実際に見る子羊の表情は、しばらくその場を動けなくなるほどに強烈な光を放っていた。
 上段には聖母マリア、キリスト、アダムとイヴ、聖ヨハネが描かれ、裏側には「受胎告知」や預言者たちの絵が見られる。
 音声ガイドに従って1枚ずつ絵をたどっていくと、24枚の絵に描かれた登場人物248人が存在感をもって迫ってくる。
 極寒の大聖堂のなかで対面した、ファン・エイク兄弟による1432年完成の巨大な作品。自ら犠牲となる子羊の神秘的で荘厳な表情。金色の後光も美しく、とりまく天使たちの祈りの表情もやすらぎに満ちたものだった。その頭上には真っ白な鳩が描かれ、これは精霊を意味しているという。
 帰りに、大聖堂の出入り口にあるショップでミニチュアの祭壇画を購入した。これがとてもよくできていて、細部までていねいに描かれている。もちろん扉を閉じたときに見える外側の絵も忠実に再現されている。
 私はフランドル音楽も大好きで、以前チェンバロを弾いていたときにはずいぶん楽譜を集めたものだが、この祭壇画を見て、改めてフランドルの芸術の伝統と歴史の奥深さを思い知らされた。
 今日の写真はそのミニチュアの祭壇画。20数枚のパネルが見事なまでの調和を保ち、すべてが凛々しい表情を放っている。

| 麗しき旅の記憶 | 22:14 | - | -
フェデリコ・ガルシア・ロルカ
 年末年始のスペインの旅の目的のひとつに、フェデリコ・ガルシア・ロルカの生家を訪ねることが入っていた。
 昔からガルシア・ロルカの詩が大好きで、どこか死の匂いがただようシンプルで率直な詩に無性に惹きつけられている。
 ガルシア・ロルカの生家は現在記念館として一般公開されているが、グラナダから行くのにひと苦労。バスがあると書いてあったが、それはほとんど通っていないにも等しく、グラナダ駅の近くのバス停にあった時間表は判読不能なほどの古さ。ちょうど駅の前に、ポツリと1台止まっていたタクシーに乗った。
 生家は、グラナダから西へ約14キロほどのフエンテ・バケーロスという小さな村にある。ガルシア・ロルカは1898年6月5日、この村の富裕な農家に生まれた。彼は文学のみならず、音楽、美術にも造詣が深く、劇作家でもあった。この家にはそんな彼の天才性を示すさまざまな資料が展示されていた。
 あまり訪れる人がいないのか、生家には年配の男性がひとり記念館の案内役をしていたが、この人はとても親切で、あらゆる物に関して実にていねいに説明してくれた。
 この村はいまではかなり住宅も建ち、商店もにぎわっていた。だが、電車もバスもないため、多くの人が来ないようだ。こんなにも偉大なガルシア・ロルカの生家がそのまま残っているのに、非常に残念だ。因みに、グラナダ空港も彼の名前がつけられている。
 建物は1階が食堂と居間と寝室。2階が展示場になっていた。パティオをはさんだもうひとつの建物の2階では、ガルシア・ロルカの映像を見ることができる。案内の男性が「ほら、動いているフェデリコだよ。貴重な映像でしょう」と誇らしいげに見せてくれたのが印象的だった。
 彼はさまざまな芸術家との交流があり、画家のサルバドール・ダリ、作曲家のマニュエル・デ・ファリャ、ギタリストのレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサ、映画監督のルイス・ブニュエルらとの親交が知られている。
 ここからグラナダに戻る途中、彼が右翼のファシストによって銃殺される(1936年8月19日)直前まで住んでいたサン・ビセンテ農園(現在はガルシア・ロルカ公園)の一角にあるガルシア・ロルカ記念館に寄った。
 代表作が書かれたこの家は立派な建物で、こちらは世界各地からの多くの観光客でごったがえしていた。
 時間が区切られ、何人か集まると案内の人が説明してまわる。仕事部屋や居間などが当時のままの姿で保存され、いまにもガルシア・ロルカがひょっこり姿を現しそうな雰囲気をたたえていた。
 彼は実に多才な人で、人形劇の背景画なども描いていた。本人が弾いていたピアノもあった。家を訪れ、さまざまな物に触れ、よりガルシア・ロルカが好きになった。もっともっと詩が読みたい。彼が朗読しているCDも入手した。ただし、スペイン語なので、ニュアンスしかわからない。ああ、残念(笑)。
 今日の写真はフエンテ・バケーロスで手に入れたポスター。額に入れて、仕事部屋に飾ってある。それにしても、濃い顔だ…。




| 麗しき旅の記憶 | 23:25 | - | -
ロベルト・バッジョ
「イタリア・サッカー界の至宝」「ファンタジスタ(夢のような芸術的名手)」と称されるロベルト・バッジョは、私にサッカーの扉を開いてくれた。サッカーの魅力を知るきっかけを作ってくれたのだ。
 彼の名を知ったのは1990年のワールドカップ、イタリア大会。若々しく野生動物を思わせる動きは、サッカーをまったく知らなかった私の目をテレビに釘付けにした。オフサイドやアディショナルタイムの意味も知らず、UEFAカップやスクデッド(セリエA優勝の代名詞)などということばも理解できなかったが、その後少しずつサッカーを勉強し、多くのことを学んでいった。現在では、スペイン・リーグをはじめ各地の試合を楽しむようになっている。
 ワールドカップの決勝前夜祭として、ルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスの「3大テノール」のコンサートが行われるようになったのは、1990年のこのイタリア大会から。「世紀の競演」といわれたこのコンサートの模様は世界中にテレビ放映され、ふだんクラシックをあまり聴かない人々をも感動の渦に巻き込んだ。
 3人は大のサッカー好き。パヴァロッティはユベントス、ドミンゴはレアル・マドリード、カレーラスはバルセロナのサポーターを自認している。そのカレーラスが白血病に倒れ、奇蹟の復活を遂げたことから、かつてライバルといわれた3人が同じステージに立つことが可能になった。
 以後、ワールドカップ開催ごとに各地でコンサートを行った。その初めてのイタリア大会のときに、私はバッジョを知り、そしてサッカーを知ったのである。
 4年後のアメリカ大会からは、毎回「3大テノール」の取材に出かけることになった。とりわけ印象が強かったのが、1998年のフランス大会。もちろん3人のコンサートの取材とインタビューが目的だったが、このときは幸運なことに私がサッカー好きだということを知り、「3大テノール」の事務局のかたがチケットを手配してくれた。なんと、準決勝のフランス、クロアチア戦である。
 チケットが確保できたとわかり、私は仲間とともにリハーサルを抜け出してサン・ドニのスタジアムまでタクシーを飛ばした。だが、タクシーが止まったのはAのゲイト前。私の席はXのゲイト。もう外まで大歓声がとどろいているなかを必死で走り、ようやく着いたらきびしいセキュリティが待っていた。
「お願い、もう始まっているんだから早く入れてよ」 
 叫びながら、ようやく席に着いたときの驚きといったら。とてつもなく広いスタジアムなのに、隅々まではっきり見える。ジダン、プティ、デシャン、デサイー、アンリ、トレゼゲ、テュラム、バルデスらの姿がはっきり確認できる。クロアチアにはシューケルがいた。
 スタジアム内はものすごい歓声と熱気で、隣の人の声も聞えないほど。ラッパは鳴らす、太鼓はたたく、まわりはみんな目がすでにイッている感じで殺気すら感じる。「これがワールドカップなんだ」と背筋がゾクゾクした。
 ハーフタイムのときに、隣のすさまじい叫び声をあげていた家族と話したら、彼らはアルゼンチン人。4年間家族が一丸となって働き、お金を貯め、ワールドカップに駆けつけるとか。家もなければ定職もなし。それでいいのだそうだ。
「次はお宅の国に行くからね!」
 そうか、次は日韓共催だったっけ。
 試合終了後、フランス人は舞い上がり、大声で徒党を組んで祝杯をあげ、クロアチアからバスで駆けつけたサポーターたちはバスの横にすわりこんでみんなが泣きじゃくっている。それを見た私はもらい泣きしそうになった。
 優勝後のパリはもっとすごかった。シャンゼリゼ通りを裸で行進し、「次期首相はジダンだ!」という合唱が聴こえた。
 そして新聞にはこんな見出しが大きく載っていた。「フランスは移民で勝利をつかんだ」。当時、フランスは移民問題で大きく揺れていた時期だった。
 バッジョが導いてくれたサッカーという楽しみ。彼のナマの試合は、東京でも観戦し、アーティスティックな足技にため息をつくほどだったが、できることなら最後のブレシアの引退試合を見たかった。 
 その後、ナイジェリアのオコチャのファンとなり、いまはコートジボワールのドログバとスペインのトーレスを応援している。彼らはトーレスが今年1月にチェルシーに移籍したため、たまたま同じピッチに立つことになった。このツートップが見られるなんて、昨年までは思いもしなかった。なんてラッキー、チェルシーだけ見ればいいんだもんね(笑)。
 私がバッジョというゲイトをくぐりサッカー場に入ったように、だれかの演奏に魅せられたら、ぜひコンサートホールに足を運んでほしい。サッカーが私の人生を豊かにしてくれたように、クラシック音楽もまた人生の楽しみを倍増させてくれると思う。

 今日の写真は1998年のW杯のチケット。私の宝物としてバッジョの伝記にはさんである。
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:55 | - | -
初めてのイスラエル出張
 イスラエルには何度か出張している。もっとも長く、ひとりで1カ月近く滞在したのは1986年4月のことで、第5回アルトゥール・ルービンシュタイン国際ピアノ・コンクールの取材だった。このときのことはいまでも鮮明な記憶となって脳裏に焼きついている。
 その記憶をたどってみたい。

遠い国

「そんな危険なところにひとりで行くなんて、テロやハイジャックに遭ったらどうするの。頼むからやめてちょうだい」
 取材が決まったときの母のことばである。まわりはみんな、イスラエルに行くというだけで、まず絶句し、次に必死に止め、最後はあきれた、という表情をした。
 それほど当時はイスラエルという国は恐れられ、情報が不足し、かつ遠い国だと思われていた。実際、私自身もどれほどの知識があっただろうか。
 準備を進めていくうちに、漠然とではあるが、アウトラインがつかめてきた。まず、非常に治安がいいこと、チップのいらない国であること、ほとんどの人が自国語以外に英語を話せること、そして地中海地方独特の風光明媚なところで、温暖な気候であること、音楽が盛んであること等々。
「流れ弾にあたらないでね」「戦争に巻き込まれないように」「飛行機、落ちないように祈っているよ」
 数々のことばに送られ、まるで戦地に出向く兵士のように私は日本をあとにした。

歴史の重み

 乗り換えを経て、30数時間ののちにようやく着いたテルアヴィヴはまさに真夏、35度であった。肌寒い東京からきた身では、すぐに対応できない。ただし、もっと困難な状況が待っていた。
 当時のテルアヴィヴの空港は、現在の立派な空港とは大違い。飛行機を降りるとすぐに前面の道路が見えるような小ささだった。そこにはタクシーもバスもまったく見えない。乗客はみな迎えのクルマがきて、いなくなってしまった。
 空港の職員にタクシーはいないのかと聞くと、「今日は安息日なんだよ。でも、大丈夫。いまに宗派の違うドライバーがくると思うから、ゆっくり待ってて」
 こういって、私の夕方着の飛行機がこの日の最後なのか、次の便まで時間があるのか、その人もどこかにいってしまった。
 私は待合室の前でトランクに腰かけ、ひとり待つしかなかった。まだ携帯のない時代である。どこにも連絡はできず、右も左もわからず、待つこと1時間以上。
 ようやく道路の向こうのほうからこちらに向かってくるタクシーが見えたときは、「おお、神よ」という感じだった。こうしてようやく市内に入ることができたのである。 
 テルアヴィヴ市内は、抜けるような青空と乾いた空気がただよい、地中海ブルーと呼ばれる深い藍色をたたえた海がどこまでも続き、風にそよぐオリーブ畑とオレンジの並木が連なり、まるでリゾート地そのものの風景だった。
 しかし、街のあちこちにいまにも朽ち果てそうに建っている何百年とも何千年とも知れぬ建物を見るとき、その悠久たる歴史の重みを感ぜずにはいられない。やはり聖地なのだ。

親切な人々

 イスラエルの人は、道で会ったりホテルで見かけたりすると、「シャローム」と必ず笑顔で声をかけてくれる。初めはこちらもへんに警戒し、構えていたが、慣れてくるとかえってあいさつをしないと物足りない気分になってくるから不思議だ。
 ある日、こんなことがあった。安息日になってしまい、銀行をはじめ新聞もなく、もちろん郵便局もしまっていた。
 私は次の日はもうエルサレムに移るため、友人や家族にあてたはがきの束を抱えて途方に暮れていた。
 するとスッと手がのびてホテルの男性が、そのはがきを自分のポケットにしまいこんだ。私は一瞬あせったが、まかせておけという彼のことばを信じた。
 翌朝早くホテルを出ようとすると、昨日の男性が走ってきて「あなたはいつもこれを欲しがっているから」と郵便局の領収書を渡してくれたのである。(仕事のため、常にあちこちでレシートや領収書をもらっていたので)
 私はこのかゆいところに手の届くようなサービス、気配りに感謝するのも忘れ、ただ呆然と立っていた。
 こんなにもオープンで親切な国が他にあるだろうか。こんなことが一度や二度ではなかった。

意見をはっきり

 毎回、国際コンクールというものは、審査が非常に大変かつ困難を極めるものであるが、このときも本選が行われた日の結果が判明したのは、なんと夜中の1時すぎだった。
 ほとんどの聴衆がそれまで帰らずに、みんな自分の意見を語りあいながらじっと待っている。こちらの人は自分の考えをはっきりと持ち、会場で意見を聞くと「自分はこの人の演奏がいいと思ったのに第1次予選で落ちてしまった。審査には納得がいかない」とか、実に明快な答えが戻ってくる。自分の応援した人が次の段階に進めないとブーブー文句をいい、審査員にまるで食ってかかるような態度を見せ、真剣そのものである。
 このときはアメリカ勢が9人という大部隊を送り込んだが、結局みんな敗れてしまい、たったひとり出場した日本人も第2次予選には進めなかった。
 コンクールには常にドラマがある。本選に進んだ6人の演奏を聴いたり、インタビューをしているうちに、こちらまで一喜一憂してくる。みな屈託がなく、真面目で、明るく、のびのびとしている。
 この国際コンクールの初取材が、以後各地での取材の始まりとなった。

もう一度この地へ

 旅は、多くの人との出会いをもたらす。ほんの限られた日数のなかで、未知の国のたくさんの人と出会った。
 ヘブライ語がまるでわからず、ハッタリ英語だけで勝負する私に手を貸してくれたイラースご夫妻、「3年後もぜひいらっしゃい」といってくれたコンクールのディレクター、ビストリツキー氏、ドイツからコンクールに参加した自国の若者の応援に駆けつけた熱心なふたりの女性、ヨハネスブルクのユダヤ系の詩人で、ナザレとベツレヘムをくまなく案内してくれた人、エクアドルから旅行にきて、民芸品の人形をプレゼントしてくれた兄妹、大喧嘩の末、心が通い合ったパリのカメラマン、日本語を習っているというアニー、深夜にもかかわらず一生懸命スタジオで演奏を聴かせてくれたポップなピアニスト、トマー、風邪をひいてコンクールの最中に咳こんで困っていた私にそっとキャンディを手渡してくれたイスラエルの人たち、そしてなにより、滞在中に私の誕生日を知って、深夜に紀元前の建物のある海辺で「ぼくたちはお金がないから、きみのバースディに歌をプレゼントするよ」といい、みんなで美しい民謡を合唱してくれた人たち。その歌声を聴きながら、私はあふれる涙を抑えきれず、みんなに見えないように顔をずっと海のほうに向けていたっけ。
 シャローム(さようなら)イスラエル、トダラバ(ありがとう)イスラエル、もう一度この地を踏みたい。
 こうして私は一度でイスラエルに魅了され、以後何度もこの地に出かけていくことになる。ただし、最初に会った人たちには、なぜかその後一度も会うことができない。

 今日の写真はピカソが描いたルービンシュタインの絵を用いた、1989年の第6回コンクールのポスター。私の仕事部屋の壁面を飾っている。ただし、このときは第5回とは治安が著しく変化し、どこに行くのもセキュリティが必要だった。



| 麗しき旅の記憶 | 23:51 | - | -
アッシジの聖フランチェスコ
 オリヴィエ・メシアンの唯一のオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」の日本初演を聴いたのは、1986年3月12日のことだった。
 これは小澤征爾指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏によるもので、目白の東京カテドラル教会で行われた。
 その本番前に、メシアンに話を聞くことができた。
 この20世紀を代表する偉大な作曲家・オルガン奏者で、ブーレーズ、シュトックハウゼン、クセナキスら、数多くの弟子を持つフランス音楽界の重鎮であるメシアン(1908〜1992)は、本番前の着替えもそこそこに、優しい笑顔でインタビューに応じてくれた。
「マエストロ・オザワはイギリス初演もしてくれましたから、全面的に信頼しています。それにしても、オーケストラも歌手も合唱も、みなすばらしい準備をしてくれました。リハーサルではびっくりしましたよ。何カ月も前から周到に勉強されたんでしょうね。その成果を今夜これから聴くことができるわけですから、もう心は高鳴るばかり。この教会の響きも音響的に満足しています。反響が大きすぎることもなく、音も鮮明ですね」
 それからメシアンの話は自身の子ども時代へと移った。
「私の家系には、音楽家というのはひとりもいません。私は小さいときからピアノを弾きたくて弾きたくて仕方がなく、先生にも就かず、まったくひとりで学び始めたのです。本当の独学ですよ。ですから生まれつき才能を持っている子どもとか、自分で本当に音楽を習いたい子どもというものは、自然にそういう方向に向かっていくものだと私は思います」
 この子ども時代の話になった途端、メシアンは巨匠ならではのどっしりとした威厳に満ちた表情から柔和な顔になり、昔をなつかしむような目に変わった。
「ただし、すべての子どもに平等のチャンスを与えるということは、非常に大切なことだと思います。音楽というものは、とても純粋なもので、純粋な子どもの心を打つものが必ずあると私は確信しているからです。ですから、子どもたちに平等に音楽を与えることによって、必ずしもプロではなくても、立派なアマチュアが育っていくことを切に希望しています」
 メシアンはもうこちらが本番前だからと気をもんでいるにもかかわらず、ゆったりと話を進めた。
「プロの音楽家になるためには、対位法や和声がきちんとわかっていて初めてプロといえるわけですし、正統な勉強をしてこそプロといえるのです。私もここまでくるのに、本当に紆余曲折がありました。でも、いまこうして自分の作品がすばらしい音楽家たちによって演奏されるのを聴くと、子どものころから好きな道をずっとあきらめずに追及してきてよかったと感じています。なんでも続けることが大事ですからね」
 メシアンは、「アッシジの聖フランチェスコ」を1975年から1983年まで8年間かけて作曲したと語った。そして「本当は全部聴いてほしいんだけど、とても長くてねえ」と笑みを浮かべながらいった。
 このオペラは全3幕8景からなり、全幕上演すると6時間近くかかる。このときはオラトリオ形式の部分上演という形で行われた。
 敬虔なクリスチャンで小鳥の歌をこよなく愛するメシアンが、小鳥に説法したという伝説を持つ聖フランチェスコを題材に取り上げ、自ら脚本を書いたメシアン作品の集大成ともいうべき作品。
 演奏は非常に心に響くもので、私はこれを聴きながらアッシジに行きたいという思いに駆られていた。
 それからかなりのちになり、ついにアッシジのサン・フランチェスコ教会を訪れ、ジョットの「小鳥に説教する聖フランチェスコ」のフレスコ画と対面した。この教会は下堂、上堂と分かれ、非常に広く、何時間あっても見つくせない奥深い魅力をたたえていた。
 昔からジョットが大好きな私は、フレスコ画の前でメシアンの音楽を連想し、聖フランチェスコの比類ない荘重さにただ見入っていた。
 帰りに、教会近くの小さな工房でこの絵が描かれた板絵を発見、すぐに購入して大切に持ち帰った。今日の写真はその板絵。これをながめるたびに、アッシジの美しい町とジョットの胸が痛くなるほどの感動的な絵とメシアンの握手したときの手のぬくもりが思い出される。


 
| 麗しき旅の記憶 | 23:57 | - | -
フランシスコ・デ・ゴヤ
 1枚の壁画を見に行くという旅をすることがある。私はジョットとフラ・アンジェリコが好きなのだが、これらの壁画は当然のことながらそこに行かなければ見られないわけで、そのフレスコ画は強い引力を持って旅へと誘う。
 今冬のトラブル続きのスペインの旅では、マドリードの「ゴヤのパンテオン」に出かけた。
 ゴヤの自由自在な天井画と壁画が見られるサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂で、「5月3日」の銃殺が行われたプリンシペ・ピオの丘近くに位置している。
 礼拝堂は地下鉄のプリンシペ・ピオ駅から徒歩7分ほどのところにあり、ふたつある聖堂の南側がゴヤのパンテオン(霊廟)で、あまり人が訪れないのか、非常にゆっくりと屈指の名画「パドヴァの聖アントニウスの奇蹟」を中心とする全14場面の連作を見ることができた。
 ゴヤはこの大作を一気呵成に約4カ月という短期間で仕上げたという。外界とは遮断された静謐な場所で見上げるようにして鑑賞した天井画と壁画は、聖アントニウスや天使などがいま描かれたような生き生きとしたタッチ、鮮やかな色彩で存在し、時間を忘れるほどの感動をもたらした。
 こういう絵を見ていると、私はいつもどこからか美しく清涼な音楽が聴こえてくるような錯覚を覚える。このときは、アントニオ・ソレールのチェンバロ作品が浮かんできた。日常から離脱し、天上の世界へと心が飛翔するからだろうか。
 堂内には祭壇下にゴヤの墓が置かれていた。ただし、骨相学研究のため首を盗まれてしまい、首のないゴヤの墓となっているそうだ。
 この礼拝堂の前の道路をはさんだ公園には、礼拝堂をじっと見据えるゴヤの像が建てられていて、自身の墓を見守っている。
 近くに寄って顔の表情を見ると、ゴヤは墓に詣でる人たちを眺めているように思えた。
 もう1か所、サン・フランシスコ・エル・グランデ聖堂に足を伸ばし、小祭壇のひとつを飾る「アラゴン王アルフォンソ5世の前で説教するシエナの聖ベルナルディーノ」を見に行った。
 実は、この聖堂のなかはとても広くうす暗く、その絵はすぐには見つからなかった。聖堂内部を拝観していたとき、案内をしている男性が近寄ってきて、「ゴヤに会いたいかい?」と耳打ちした。
 私は「ええ、もちろん!」と答えると、その男性は「着いておいで」と合図し、ある祭壇の前に案内してくれた。そして脇のスイッチを押してこの祭壇画を照らし出したのである。
 そこには岩の上に立つ聖人ベルナルディーノを頂点とした、ピラミッドの構図の絵が輝かしく荘重さをもって描かれていた。そして男性が指差した。
「ほら、ゴヤがいるよ」
 もちろんこの絵は写真などで見て知っていたが、大きな画面の右端にアラゴン王の従者に扮したゴヤ自身がこちらを向いて立っている様子は、まさにリアリティあふれるもので、絵のなかでそこだけ異なった光を放っているように感じられた。これが画家の存在感の強さだろうか。
 今回のゴヤの絵は、やはり現地に行かなければ会えないもので、問題の多い旅だっただけに非常に印象が強かった。
 また、1枚の絵に会いに行く旅をしたい。

 今日の写真は上がサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂、中が聖堂前のゴヤの像、下がサン・フランシスコ・エル・グランデ聖堂。





| 麗しき旅の記憶 | 22:42 | - | -
アイゼナハ
 J.S.バッハの生誕地、旧東ドイツのアイゼナハを最初に訪れたのは、1986年の秋だった。前年に生誕300年祭を迎え、この年は世界各国でバッハを記念して音楽祭やコンサート、さまざまなイヴェントが盛大に行われた。ただし、翌年はまたもとの静けさに戻り、生誕地はひっそりとしていた。
 バッハハウスも現在のように整備された大規模な記念館のようなスタイルではなく、ガランとした感じ。案内の人がひとり、手持無沙汰の様子ですわっていた。
 もっとも印象的だったのは、バッハの生家があったとされるルター通り35番地。ここは磨滅した石畳に沿って、いまにも崩れ落ちそうな建物が並んでいる地域。生家は現存せず違った建物が建っていたが、バッハ時代の面影を色濃く残していた。
 あたりは人っ子ひとりいない。不気味なほどの静けさが支配し、自分の靴音だけが響く。家々は窓もドアもきっちりと閉められ、外部の人間を拒否しているようにさえ思える。当時は、道を聞いても、地図を広げて場所を聞いても、目を伏せてわからないという表情をする人ばかりだった。
 食事をする場所やお茶を飲むところもなく、唯一、駅の近くに小さな食堂がポツンとあるだけだった。
 ところが2009年1月、22年半ぶりに訪れたアイゼナハは、大きな変貌を遂げていた。バッハハウスの充実は目を見張るものがあり、テクノロジーを駆使し、バッハのあらゆる資料が見られるようになっていた。
 周囲の家々は淡いクリーム色やピンク、オフホワイトに塗られた壁を持つ居心地のよさそうなものに変わり、人々はショッピングやレストランでの食事を楽しんでいる。みな親切で、明るい笑顔で旅人を迎えてくれた。
 なんという変わりようだろう。私はとまどい、呆然とし、どこかにあの時代の面影を見出そうとしたが、無駄だった。すべてが新しい国のように、新しい都市のように異なった表情を見せ、暗さや怖さは微塵も感じることがなかった。
 アイゼナハは、まったく新しい顔で大きく両手を広げて笑みを見せながら迎えてくれたのである。写真はモダンになったバッハハウス周辺。
 アイゼナハは、確かに驚異的な変貌を遂げた。だが、バッハの音楽は変わらぬ姿でそこに存在しているように感じられた。永遠不滅の音楽。その事実に直面し、ただ、自分のなかに流れた年月だけを深く感じ入ることになった。
 ここは自己の内面と対話を促す町。そしてバッハの偉大さを再認識させてくれる町。ここからより大きな町へと飛翔していったバッハに思いを馳せているうちに、なぜか無性に「イギリス組曲」の第3番が聴きたくなった。

| 麗しき旅の記憶 | 23:10 | - | -
アレーナ・ディ・ヴェローナ
 今年は欧米各地のオペラハウスの引っ越し公演が多く組まれているが、空前のオペラ・ブームといわれた1989年も、世界各地から7つものオペラが来日。20年ぶりのボリショイや門外不出のバイロイト、スケールの大きなイベント・オペラまで多種多様な舞台が展開された。なかでも印象に残っているのは、「アレーナ・ディ・ヴェローナ」のヴェルディの歌劇「アイーダ」である。
 これに先駆け、真夏のアレーナ・ディ・ヴェローナ音楽祭に取材に出かけたのだが、2万5000人〜3万人収容のアレーナは、まさに壮大なスケールを誇る会場だった。
「アイーダ」が初めてここで上演されたのは1913年8月10日。おりしもこの年はヴェルディ生誕100年祭が催されることになっており、各分野の著名人が企画を出し合ったが、妙案は生まれてこなかった。
ちょうどそのころ、ヴェローナ出身でアメリカで成功を収めたテノール歌手ジョヴァンニ・ゼナテッロが帰国。彼は夕日に赤く染まるアレーナを見て「ここでグランド・オペラをやろう!」と提案する。紀元前1世紀に作られ、それまでは格闘競技や騎馬戦、ゴルドーニの人形劇などに使われていたアレーナは、この年以来その機能を劇場に変えた。
現在ではオペラ・ファン憧れの地となり、毎年7月から8月にはイタリア・オペラを中心としたオペラ・フェスティヴァルが華々しく開催されている。
 アレーナの広さは長径153メートル、幅128メートル、高さ30,5メートルだが、舞台の上で手をポンとたたくと、階段の一番上でもその音が聴こえるほど、すばらしい音響を備えている。
 イタリアの夏は日が長い。オペラが始まるまで世界各地から訪れた人々は、交通の遮断されたアレーナの周りのカフェやレストランでワインを飲んだり食事をしながら、場外アナウンス「アタンシオーネ、アタンシオーネ」という呼びかけをゆっくりと待っている。
 このときは「アイーダ」ももちろん鑑賞したが、私の胸に強い印象をもたらしたのは、雨で最後まで上演できなかったヴェルディの「ナブッコ」である。
これが上演された日は朝から曇り空で、いまにも雨が落ちてきそうだった。この時期のイタリアは天候が不安定。雨がひとしずくでも落ちてくると、オーケストラ・ピットのメンバーは一目散に舞台裏に逃げ込む。楽器が濡れると大変だからだ。そして雨が完全に止むまで、聴衆は何時間でも待ち続ける。いままでの最高記録は、夜中の12時に再開して、明けがたの4時半に終演を迎えたとか。
 この夜も案の定第1幕の途中で雨になり、何時間たっても止まなかった。アナウンスがしゃれていて、「皇帝ネロも雨には勝てなかった」などといって、しびれをきらした聴衆の心をやわらげていた。
 とうとう夜中になったとき、ステージに1台のオルガンが運ばれてきた。それに合唱団が続く。彼らはびしょぬれになりながら歌い出した。
「ナブッコ」の第3幕で歌われる、鎖につながれたヘブライ人たちの有名な望郷の合唱「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」である。これはイタリアの第2国歌とも呼ばれる大切な曲である。
 聴衆は最初は静かに耳を傾けていたが、次第にみんな一緒に歌い出し、涙を流している人もいる。曲が終わるやいなやみんな立ち上がり、拍手と歓声はいつまでも止まない。
合唱団はもう一度歌い始めた。今度はアレーナ中がそれに和し、大合唱となった。そして終演。チケットの払い戻しを求める人はだれもいなかった。
 翌日、アレーナ総裁のフランチェスコ・エルナーニ氏に会った私は、「もうアレーナのことは一生忘れません。思い出にここの模型のような物があるといいんですが、どこかに売っていますか」と聞いたところ、総裁は「ちょっと待って」と奥の部屋に消え、重そうな灰皿を抱えて現れた。
「これ、私が就任したときにもらった物だけど、タバコは吸わないし、私は毎日本物を見ているわけだから、東京に持って帰っていいよ。土産用に売っている物ではないから、大事にしてくれたまえよ」
 私は「キャーっ」と叫んだ。でも、余程物欲しげな顔をしていたか、感極まった表情をしていたのだろうか。と、一瞬考えたが、ありがたくいただくことにした(なんという物欲 笑)。いまは仕事部屋でタバコの灰ではなく、ステーショナリーグッズを入れて大切に使っている。あの雨のなかで聴いた合唱を思い出しながら…。


 
| 麗しき旅の記憶 | 18:58 | - | -
グラナダの昼と夜
 今日は「婦人公論」の担当のKさんと銀座でランチをご一緒した。あまりにおいしく、ていねいに作られたトスカーナ料理だったため、つい舌もなめらかになり、年末年始の旅の失敗談を話してしまった。
 2010年12月末から2011年1月初頭にかけ、10日間ほど南スペインに旅をした。パリ経由でマドリード、グラナダと移動したのだが、ロストバゲージに遭ってしまい、10日間まったく荷物がない状態に陥った。
 旅にリスクはつきものだが、さまざまなところで対処が遅く、イライラは募るばかり。現地に着いたら年末年始でお店はあまり開いていないため、日常使う物も十分に買えない。とてもサバイバルな日々となった。
 しかし、ここで得たこともある。どんなに待たされても、ひたすらがまんしなくてはならないため、忍耐力が養われた。次々にアクシデントが起きるため、すぐに対処しないと、だれも助けてはくれないから決断力と積極性が必要となる。さらに、最低限のお金で最大利用価値のある物を購入しなくてはならないから、無駄遣いをしなくなる。
 もっとも大きな収穫は、一瞬一瞬の時間を有効に使うようになったこと。余分なことに膨大な時間を要したため、残りの時間を大切に考え、少しでも有意義な時間を過ごそうと自分をイライラから解放させるよう心がけた。
 グラナダは昔から大好きな町で、初めて訪れたときから不思議なことに自分の家に帰ったような感覚を抱いた。他の土地ではいつも異邦人という感じがぬぐえないのに、ここだけは違った。自分にスペインの血が混じっているような思いを抱いてしまうのである。
 もともと私は小さいことはあまり気にせず、なんとかなるさという考え。よくアーティストにインタビューすると、「きみは日本人じゃないね。ラテンじゃないの」といわれるし、友だちも「性格は確かにラテンよね」という。20代のころは夏は海焼け、冬は雪焼けで年中真っ黒だった。髪もストレートで肩よりかなり長くしていた。そのころ女ふたりでベルギーのブルージュを旅していたら、現地の人に「スパニッシュか」と聞かれ、「やったーっ」と飛び上がって喜んだことを覚えている(単純だね)。
 というわけで、今回もまたまたお里帰り(アホか)。グラナダは世界各地の観光客でにぎわっていたが、私はひたすら静けさと自然を求めてそぞろ歩きを楽しんだ。ファリャの家、アルハンブラ宮殿の中庭、緑豊かな森、アルバイシン等々。写真はグラナダを一望する場所からとった昼と夜の風景。ボーっとながめているだけで幸せ…。



| 麗しき旅の記憶 | 23:40 | - | -
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