Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

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チョン・キョンファ
 1月28日、チョン・キョンファがサントリーホールで行った「J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&無伴奏ヴァイオリン・パルティータ全6曲」のリサイタルは、心の奥に響く圧倒的な存在感を放っていた。
 彼女の真摯に作品と対峙する思いが痛いほど伝わり、磨き抜かれたテクニックに支えられた、一徹な気概が横溢したリサイタルとなった。
 第1番と第2番の間に15分、第2番と第3番の間に20分を休憩をはさみ、約3時間というもの、怖いまでの集中力を維持し、ほとんどからだを動かさない奏法でバッハの内奥へとひたすら迫り、ホールの隅々まで緊迫感のある音色を響かせていった。その演奏は、何日たっても色褪せることない。
 チョン・キョンファはこのバッハを演奏するにあたり、2016年7月6日、インタビューに答えてバッハ観をことばを尽くして話している。インタビュー・アーカイヴ第73回はそのチョン・キョンファの登場だ。

[intoxicate 2016 October]

苦難のときを超え、満を持して全曲録音に挑んだチョン・キョンファのバッハ 

 幼いころから音楽に類まれなる才能を示し、「神童」と称され、特別な教育を受けて実力を伸ばしてきた韓国出身のヴァイオリニスト、チョン・キョンファ。12歳で渡米し、ジュリアード音楽院で名ヴァイオリニストたちに師事し、19歳でエドガー・レヴェントリット国際コンクールに優勝して国際舞台へと躍り出た。以来、怖いまでの集中力に富む、深い表現力に根差した完璧なる演奏は各地で高い評価を得、全身全霊を賭けて演奏する情熱的な姿勢に世界中のファンが魅了された。
 だが、2005年に指のケガに見舞われ、5年間まったくヴァイオリンが弾けない状況に陥る。この間は後進の指導にあたるなど若い音楽家の育成に尽力した。復帰は2011年12月。演奏は洞察力に富み、情感あふれる響きとなり、ヒューマンな音楽へと変貌を遂げた。いまや各地から演奏のオファーが相次いでいる。 
 2013年6月には15年ぶりの来日公演が実現、聴衆に深い感動をもたらした。さらに2015年にも来日し、4年間デュオを組んでいるケヴィン・ケナーとのデュオでベートーヴェンのソナタをじっくりと聴かせた。
 チョン・キョンファといえば、野生動物を思わせるような本能的な演奏をする人、俊敏で情熱的で一気に天に駆け上がっていくようなはげしい演奏をする人、というイメージが定着していた。しかし、インタビューではひとつひとつの質問にことばを選びながら真摯な答えを戻し、静かにゆったりと話す。ただし、時折熱を帯びてくると声高になり、早口になり、口調も音楽と同様テンションが上がっていく。
 そんな彼女が長年の夢であるJ.Sバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとバルティータ」全6曲をリリース(ワーナー)した。
「この作品は私の人生の糧ともいうべき作品。ニューヨーク時代に14歳くらいで弾き始めたけど、本当に理解することが難しかった。特にフーガは大いなるチャレンジだったわね。全体の流れを大切に、ヴィブラートを抑制しながら弾いていく。自分のなかで各々の作品を完全に咀嚼し、音にしていく過程はとても困難だった。でも、長年に渡り、ずっと弾き続け、勉強を続けてきたわけ。今回は勇気を出して、いま演奏するべきだと自分にいい聞かせ、全曲録音に挑戦したというわけ」 
 とりわけ愛しているのが、ソナタ第3番のフーガである。フーガに関しては、当初からさまざまな悩みを抱え、あらゆる奏法をガラミアン教授から学び、自身で内容と解釈と奏法をひたすらきわめていった。ここに聴くフーガは、長年の研鑽と研究の賜物である。
「このバッハは、聴いてくれる人たちへの私からの“ギフト”なの。私が楽器を弾けない時期にバッハに救われ、音楽から贈り物を与えられたことを考え、今度は私が演奏で多くの人に贈り物を届けたいと思ったの」
 彼女は、ヴァイオリンが弾けなかった時期に、頭のなかでバッハの楽譜と対峙したという。楽器に触らず、楽譜の隅々まで読み込み、イメージを広げていく。その作業が、いまは大きな成果と役割を果たしていると語る。
「演奏家は、どうしても楽譜を深く読むことより、先に楽器を手にして弾き始めてしまう。でも、譜面をじっくり読み、頭のなかで音楽を鳴らすこと、想像すること、考えることはとても大切なことなの。楽器が弾けない時期に、私はこの精神を学んだのよ」
 ここに聴く全6曲は、楽譜の読み方を変え、作品のイメージをふくらませ、バッハにひたすら近づいた演奏。ひとつのソナタ、ひとつのパルティータがチョン・キョンファの声となり、語りとなり、歌となって聴き手の心にゆっくりと浸透してくる。
「こうした偉大な作品は、人生とは何か、なぜ私はここにいるのか、どこからきてどこへいくのか、どう生きるべきかという人生の命題を突き付けてくる。それを私は音楽で表現し、聴衆とその精神を分かち合いたいのです」
 まさに彼女の心からの“ギフト”である。

 今回の演奏中、キョンファは風邪のためか咳き込んで止まらなくなってしまった。しばらくステージで咳をしていたが、舞台袖に戻ることも、水を飲むこともせず、やがてその曲を最初から弾き始めた。
 以後、集中力はより高まり、最後まで咳はまったく出ることなく、一気に弾ききった。すさまじいまでの精神力の強さである。
 終演後、楽屋で少しだけ話をし、写真を撮ったが、疲労困憊している表情だったため写真をアップするのはやめにした。
 今日の写真は、インタビューが掲載された雑誌の一部。


 
| インタビュー・アーカイヴ | 21:18 | - | -
シューラ・チェルカスキー
 これまで多くのアーティストにインタビューを行ってきたが、時折ものすごくユニークで、型破りな人に出会う。
 インタビュー中、「これはいったい記事になるのだろうか」と心配するほど、奇人変人ぶりを発揮する人もいる。
 なかでも、シューラ・チェルカスキ―は忘れがたい印象を残している。チェルカスキ―(1909〜1995)はウクライナ出身のユダヤ系アメリカ人ピアニスト。私が会ったのは最晩年だが、いまでもそのインタビューのときの様子は鮮やかに脳裏に蘇ってくる。
 インタビュー・アーカイヴ第72回は、そのチェルカスキ―の登場だ。

[ショパン 1993年4月号]

自由にマイペースで生きることができる人ってうらやましい!

 今年84歳を迎えるチェルカスキ―が、例年通り真冬の日本にやってきた。今回もレパートリーの広いチェルカスキ―らしく、バッハからペリオまで幅広い作品を聴かせてくれた。
 各会場ではアンコールを求める拍手が鳴り止まず、チェルカスキ―は5曲も続けて演奏。それでもまだまだ演奏可能なそぶりを見せるかくしゃくぶり。このエネルギーはいったいどこからくるのかと不思議に思っていたら、なぞはインタビュー中に解けた。彼はひたすらマイペースの姿勢を崩さなかったのである。
 それも“超”のつくマイペース。これはいくらことばで表現しても真の姿は伝わるものではない。
 そこで今回は、いつもと少々趣向を変えて、チェルカスキ―の素顔を忠実に伝えるべく、インタビュー中の様子をそのまま再現してみた。

――先日はすばらしい演奏を聴かせてくださって、ありがとうございました。チェルカスキ―さんは、演奏の前は何か縁起をかつぐというか、おまじないというか、特別にしていることがおありとか…。
チェルカスキ―(以下C) いや、縁起をかつぐというよりもすべて一分の狂いもなく物が並んでいないと気がすまないんだよ。ピアノ、せっけん、プログラムなどすべてがね。それと練習するときにきっちりと時間を計る時計がないと絶対ダメ。これを日本人はきちんと守ってくれるから、100パーセント信頼できる。日本人は私と似ている面が多いので気が合う。ここのホテルでも、日本人がいかに先を見越して行動するかを見ることができて楽しい。朝食のときだって、おつりをすぐに渡してくれるし、こういう点がヨーロッパじゃ遅いからねえ。
 日本人は常に先のことを考えるでしょ。私は、20年前に食事したけど覚えているかとか、妹を覚えているかとか、そういう過去の話はまったく興味がない。過去は振り返らず、いつも先のことを考えていたい。ただ例外は過去に犯した過ちを2度と繰り返したくない、それだけだよ。
 ここまで話がくるのに、実は大変なまわり道をした。私がセットしてあるテープレコーダーを見ては、「あっ、私もこれと同じのをもっているよ」と、突然席を立ってテレコをもちにいってしまったり(そのテレコは私の物とは似ても似つかぬ物だったが)、初めて来日したときの演奏会の様子を聞いたら、案の定、過去の話は興味がないらしく「あのときは帝国ホテルに泊まってね、そのときの朝食が…」と、すぐに音楽から話が逸れてしまう。
――雑誌「ショパン」は、今年創刊10周年を迎えます。それからチェルカスキ―さんの新譜もショパンのピアノ・ソナタ第2番、第3番ということで、ショパンのピアノ・ソナタについてお話を伺いたいのですが…。
C ショパンっていうと、おもしろい話があってね、ひとつはジョークなんだが…。
――(あっ、また見事にかわされた)
C アメリカの田舎の家族が大金を手にしたけど、使い道がわからなくて、毎週水曜日に人を招いて豪華なディナーを開いたんだよね。しばらくしたら、主人の耳にみんなが彼の奥さんをバカにしているという噂が伝わり、彼は妻に余計なことはいわないようにと釘を刺した。
 ところが、その夜のディナーで、「ショパンはお好きですか」と聞かれた奥さんは、「ああ、彼なら2週間前、8番のバスのなかで見かけたわ」と答えてしまう。それを聞いた主人は、テーブルの下で妻の膝を蹴った。そして怒りの目を向けた奥さんに、「バカ、8番のバスはもう走っていないのを知らないのか」といったんだ。
――ああ、またまた話がどんどん逸れていってしまう。この後、チェルカスキ―は今度は本当にあった話、といって真面目な顔をし、彼がマヨルカ島にいったときの話を始めた。 
 それはショパンの直系の家族にあたる人がチェルカスキ―の演奏を聴き、彼のことを有名なピアニストとは知らず、「そう、ショパンはこう弾くべきなのよ」といってくれたので、とてもうれしかったということだった。
 でも、この間も「ちょっと暖房暑くない? 私はこれくらいじゃないとダメなんだけどね。毎朝泳いでいるんで」といいながら、立ったりすわったり。
 さらに、生まれ故郷のオデッサの音楽事情を聞こうとしたら、話はモスクワに飛び、チャイコフスキー国際コンクールまで一気にいってしまった。
――国際コンクールの審査員はなさっていませんが、チャイコフスキー国際コンクールでしたら、引き受けるつもりはありますか?
C あっ、この前優勝したのはだれだっけ? ボリス・ベレゾフスキー? ああ、知っているよ、その人。確か、ロンドンのアルバートホールで演奏したと思う。
――(ハズシ方がプロですよね)
C うん、実にうまかったなあ。だけど、音響がよくなかったのか、ときどきオーケストラの音にもぐっちゃって聴こえなかった。
――チェルカスキ―さんは、演奏する際に、そのときどきのインスピレーションを非常に大切にされるということですが、そのインスピレーションとは作品や演奏する場所、または指揮者との共演などに左右されるものでしょうか。
C 特にインスピレーションはないけど、心を動かされる場所というのはある。私はね、大きな都市か、反対に海辺とか田舎とか、そういう静かなところが好きなんだよ。中間はないね。そうそう、札幌はまだいったことがないなあ。とても大きな都市だと聞いているから、ぜひいってみたいんだが。

 そんなこんなで1時間のインタビューは過ぎ去ってしまった。いったい何を聞いたのか自分でもよくわからないし、中身がまったくなくて読者の方々にはとても申し訳ないと思う。しかし、ひとつだけわかったことは、チェルカスキ―という人は、自分に興味がある話には耳を傾けるが、少しでも興味がない話題は自然に耳を通り過ぎていってしまうことだ。
 だが、それがけっして嫌味であるとか、故意でないことははっきりしている。すべてをユーモアに変えてしまい、周囲を温かい雰囲気に包み込んでしまう。これはもう天賦の才能としかいいようがない。
 とにかくピアノを弾いているときが最高で、他のことはまったくかまわない。住んでいるのもホテルで、楽器と楽譜とごく身のまわりの物だけに囲まれ、ぜいたくは好まないらしい。そしてステージにすべてを賭ける。
 そんなチェルカスキ―は、最後に「オデッサでチャリティ・コンサートをするのが夢だ」といった。これはぜひ実現してほしい。その話題だったら、話を逸らさず、きっとまともに答えてくれるだろうな。
 ああ、自由にマイペースで生きることができる人ってうらやましい!

 今日の写真は、その雑誌の一部。写真撮影のとき、ピアノの前でポーズをとってほしいと頼んだら、ネクタイをしていないことに気づき、わざわざ時間をかけてステージ衣裳に着替えてくれた。う〜ん、こんなことをしてくれる人も初めてだ。



 
| インタビュー・アーカイヴ | 21:10 | - | -
ファジル・サイ
 ファジル・サイは鬼才、奇才、真の天才と称される。彼はモーツァルトの録音で衝撃のデビューを果たし、以来ピアニストとして、作曲家として国際舞台で活躍。
 昨日は紀尾井ホールでオール・モーツァルト・プロによるリサイタルがあり、天上に駆け上っていくような嬉々としたモーツァルトを聴かせ、至福のときを味わわせてくれた。
 今日は、久しぶりにファジルに会い、インタビューを行った。以前は、相手の顔をまともに見られず、目が宙をさまよっているような表情をしていたが、今日のファジルは、まっすぐに私の眼を見て、再会を喜んでくれ、雄弁に語った。このインタビューは、来春の「CDジャーナル」に書く予定である。
 今回は、「インタビュー・アーカイヴ」第71回として、ファジル・サイを取り上げたい。もう16年前のインタビューである。

[FM fan 2000年11月27日〜12月10日 No.25]

久々に元気なピアニストが登場!
「演奏がエキサイティングだって? ぼく自身は繊細な表現も十分にしているつもりなんだよ」 


生命力あふれるワクワクドキドキする演奏

 J.S.バッハ、ストラヴィンスキー、ガーシュウィンの録音でとてつもなく個性的で、聴き手の心を高揚させるエキサイティングなピアノを聴かせてくれたファジル・サイが、ついに10月に来日を果たし、すみだトリフォニーホールでコンサートを行った。
 プログラムは前半が「プレリュードとフーガ イ短調」「イタリア協奏曲」「シャコンヌ」というオール・バッハ。そして後半は、金聖響指揮新日本フィルとの共演によるガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム変奏曲」「ラプソディ・イン・ブルー」という、彼がいまもっとも得意とするプログラム。そのいずれもが生命力あふれるワクワクドキドキする演奏で、何日経過してもその高揚感が失われることはなかった。
 サイはステージに登場したときから目は宙をさまよい、おじぎもそこそこにピアノの前にすわった。そして演奏が開始するやまわりはいっさい目に入らないような超没頭スタイルを披露、聴き手にも極度の集中力を要求するようなピアノを聴かせた。
 ただし、ステージを離れるとすこぶるシャイ。エキサイティングな演奏がうそのように背中を丸めてボソボソと低い声で話す。
「演奏がエキサイティングだって? 確かに世界のさまざまな都市でそういうふうに評価してくれるけど、ぼく自身は繊細な表現も十分にしているつもりなんだよ(笑)。特にモーツァルトの録音ではこのデリケートな表現というものが大切だからね。ぼくが録音した「キラキラ星変奏曲」や「トルコ行進曲」は子どもたちがとても親しみやすいと感じている曲だから、勢いと繊細さなどさまざまな表現を盛り込んで演奏した。子どもは敏感だからね。いい演奏をしないと聴いてくれないし、もちろんモーツァルトは大人にも広く愛されている作曲家。ぼくは自分が子どもだったころにこれらの作品に魅せられた。そのときの気持ちをいつまでも失わないようにしているんだ」
 
ピアノが自分の生涯の友であると確信

 5歳からピアノを始めた。両親は音楽家ではないが、とてもインテリジェンスな家庭環境だったとか。ちなみに父親は小説家である。
「ごく幼いころ、ぼくは耳から覚えた旋律をすぐにリコーダーやピアニカのような楽器で演奏してしまったらしい。それを見て、両親は何か楽器をやらせようと思い立った。トルコではクラシックか民族音楽を学ぶというのがふつうで、ぼくはクラシックを選んだというわけさ。家には本がたくさんあって、ピアノの練習以外はいつも本を読んでいるような子どもだった。それもモーツァルトやベートーヴェンの伝記や偉大な作曲家にまつわる本ばかり。子どもだったぼくは、その作曲家の子ども時代の生き方にとても共鳴した。いつか自分もそんなふうに曲が書きたい、そんなあこがれを抱いていたんだ」
 やがてアンカラ国立音楽院に進んだサイはピアノと作曲を学び、17歳のときに奨学金を得てデュッセルドルフのシューマン音楽院に留学する。
「15歳のころにはもうステージで演奏したんだけど、このころからピアノが自分の生涯の友であると確信していた。ピアノを弾くこと以外、ほかのことは考えられなかった。でも、ドイツではその考えが根底からくつがえされてしまった。19歳のころは孤独感にさいなまれ、楽器を弾くことも音楽を聴くこともまったくできない状態まで落ち込んだ。もう自分でもどうしたらいいかわからない精神状態だったよ」
 このころ就いていた先生はデイヴッド・レヴァイン。その彼はエイズにかかり、やがて亡くなってしまう。
「ショックだったよ。でも、先生と一緒に演奏したストラヴィンスキーの《春の祭典》(ピアノ版)は、一生忘れられない。すばらしい共演だったから。これはぼくを救ってくれた作品でもあるしね」
 実は、ピアノも弾けず音楽もいっさい聴かない日々を送っていたサイは、ある日思い切ってラジオのスイッチを入れる。そのとき流れてきたのが、アンタル・ドラティ指揮デトロイト交響楽団の演奏による《春の祭典》(オーケストラ版)。その演奏に心を動かされたサイは最後まで聴き、すぐに楽譜店にピアノ版のスコアを探しにいく。
「ストラヴィンスキーが実際に書いた4手のスコアを見つけ、それをとことん勉強した。この曲に出合って、ぼくは再び生きる喜びに目覚めたんだ。すぐに先生のところにいって、退院したら一緒に弾こうと話し合った。たった一度しかふたりで演奏できなかったけど、それは貴重な経験としてぼくの心に残った。それから10年間、これをひとりで演奏できないかと考え、企画を温めていたわけなんだ」
 レヴァインの死後、サイはベルリン・アカデミーに移り、ここでピアノを教える仕事に就く。そして25歳のとき、ニューヨークのヤング・コンサート・アーティスト国際オーディションで第1位を獲得。これが録音デビューにつながった。
 日本では12月にリリースされる予定のモーツァルト・アルバムが、ヨーロッパでブレイク、特にフランスでは破格の売り上げを記録している。
「フランスでモーツァルトが評価され、とてもいいスタートが切れた。演奏会も入ってきて、いま年間100回のコンサートをこなしている。とてもキツイけど、この生活を楽しんでいるよ。だってあの落ち込んでいたときから見たら、天国だもの。どんなにハードでもやり遂げなくちゃ。1回1回のコンサートに集中力をもって臨むのは大変だけど、いまは突っ走るよ。でも、一番問題なのは作曲する時間が限られること。もう少ししたら、時間を調整して作曲の時間を確保するようにするつもり。自作だけでコンサートもしたいしね」

音の向こうに見えるものから実際の音を

 ストラヴィンスキーは10年間温めてから自分だけの演奏で多重録音をし、その後バッハやガーシュウィンもじっくり練った選曲で録音にこぎつけた。さらに今年はモントルーやパリ、イスタンブールなどのジャズ・フェスティヴァルにも参加、自作やトルコの音楽を自身のバンドで演奏した。
 彼はこのように自国の音楽を世界に広めたいという強い意志ももっている。
「トルコの民族音楽や宗教音楽は、とても美しい旋律とリズムをもっているんだよ。行進曲のような軍隊を思わせる曲が広く知られているけど、実際は祈りの音楽や自然を賛美したもの、民族のルーツを伝えるものなどが多い。特にぼくが気に入っているのはイスラムの音楽で、スーフィというもの。これは多分CDのワールドミュージックのコーナーにいくと売っていると思う。中東やバルカン半島の音楽に近い感じかな。そうしたものをほくは自作に取り入れて、世界の舞台で演奏していきたい。バルトークやロシアの作曲家が自分たちの民謡や舞曲を大切にしたようにね。ぼくは作曲するときはその音符の先に見えるもの、音の向こうに見えるものを想像して実際の音を生み出していく。日本の音楽にもどこか共通しているところがあると思うけど、音で人生を語り、生き方を問い、自分自身を率直に表現したいんだ」
 現在はニューヨークに居を移し、多忙な日々を送るサイだが、そのなかでも時間を見つけて大好きな映画を見るようにしている。ジャンルは問わず、さまざまな映画を見るそうだが、特に印象に残っているのは「シンドラーのリスト」と「パルプフィクション」。
「将来は映画音楽を書いてみたい。これは大きな夢といえるかもしれない。映画はいいよね、さまざまな創造力を与えてくれる。昔からドストエフスキー、トルストイ、そしてドイツの作品など本をたくさん読んでいるけど、いつもそれらに視覚的なイメージを重ね合わせている。そして音楽もそこから湧いてくる。いまはトルコの詩をよく読むんだ。詩というのは、そのことばが完全に理解できるものでないと深いところまで理解できないよね。だから詩はやはり母国語のものに限る。トルコの詩はすばらしいんだ。手放しでほめたたえちゃうよ(笑)」
 いまピアノ協奏曲を作曲中だという。来年はパリでトルコの若手作曲家の作品の世界初演も行う予定。久々登場した元気なピアニストは、さまざまな活動で私たちを驚かせてくれる。

 このインタビューから16年、この間ファジル・サイは世界中のホールや音楽祭や記念行事の場から作曲依頼が入る作曲家に成長。ピアニストとしては、モーツァルトのピアノ・ソナタ全集をリリースした(エイベックス)。恥ずかしそうな笑顔は変わらないが、話すときの視線はすっかり変わった。
 昨夜のモーツァルトの演奏も見事だったが、ファジルの成熟した姿に触れることができ、感慨もひとしおだった。
 今日の写真は、そのときの雑誌の一部と、今日のインタビュー後の1枚。にこやかに話していたのに、写真を撮るといったら急に堅い表情になってしまった。やっぱりシャイな素顔は変わらない(?)





 
| インタビュー・アーカイヴ | 23:27 | - | -
ソル・ガベッタ
 アルゼンチンから国際舞台へと彗星のごとく躍り出たチェリストのソル・ガベッタは、陽気でオープンな性格。演奏も前向きでパワフル、聴き手の心を瞬時にとらえるインパクトの強さを備えている。素顔も明るく、太陽のようだ。
「インタビュー・アーカイヴ」の第70回は、そんなソルの登場。

[弦楽ファン 2007年 Vol.10]

私は人間味あふれる音楽が好き 

 ソル・ガベッタの名前が日本で知られるようになったのは、ある1枚のCDがリリースされてからのことだった。2005年にアリ・ラシアイネン指揮ミュンヘン放送交響楽団と共演して録音した「ロココ風の主題による変奏曲〜ソル・ガベッタ・デビュー」(BMGジャパン)は、みずみずしい音楽性に彩られたポジティブな演奏で、チェロと一体となった若き奏者の音楽は、多くの人々を魅了した。以後、彼女はひんぱんに来日を重ねていく。
「でも、正直いうと、このデビュー・アルバムの録音は、私自身ものすごく入れ込んで集中し、あまりにも感情過多になりすぎたため、終わってから約1年ほどはCDを聴くことができなかったくらいです。どんな結果か、怖かったんです。ようやく1年を過ぎたころに聴いてみて、自分としては納得のいく演奏になっていたので、ホッと胸をなでおろした感じ。録音のきびしさを知らされました」
 つい先ごろ、セカンドアルバムでヴィヴァルディの協奏曲を取り上げたが、今回は自分の演奏を冷静に受け止めることができた。
「バロックの弓を使用しています。奏法も表現法も、作品の時代に合う様式をずいぶん研究しました。今度は、第1テイクのプレイバックをすぐに聴きなおして、いろいろ考えることができました。少しは成長したかしら(笑)。私の場合は、デビューCDが出てからすぐに各地から招待をいただき、海外でも演奏ができるようになりましたが、以前は友人たちからCDを出しても何も変わらないよ、といわれていました。ですから、とてもラッキーだったと思います」
 いまはスケジュールが満杯、世界各地を飛び回る生活だ。本拠地はスイスのバーゼル郊外の緑に囲まれたオルスベルク。ここでは2006年6月から音楽祭を開催している。
「たまたま家を探していて、静かでゆっくりできる環境のところが見つかったんです。ここは隣がチャペルで、演奏する場所もいくつかあったため、気の合う友人たちと小さな音楽祭を始めたの。名前は私の名と村の名を合わせたソルスベルク。私の名前は太陽という意味で、ベルクはドイツ語で山。陽のあたる山という名の音楽祭になりました。最初は週末だけの小さな規模だったのに、今年は一気に大きくなって、12公演も行ったんですよ。好きな人たちと好きな作品を好きな場所で演奏する、これが基本ポリシーです」
 ソルという名前は、母親が命名した。実は、ガベッタ家には自閉症の長女がいて、2番目はヴァイオリニストの兄、その下に双子が生まれたが、生後まもなく亡くなってしまった。母親は深い悲しみに襲われたが、ぜひもうひとり子どもがほしいと願い、今度の子は家に太陽をもたらしてくれると信じた。
「私は家族の願い通り、明るい性格になりました。でも、これは母から受け継いだもの。母はどんな苦境にあっても、絶対にへこたれない強い人で、いつも物事を前向きに考える。私もそうありたいといつも思っています」
 ソルは3歳半でヴァイオリンとピアノを始めた。5歳上の兄がスズキメソードに通っていたため、それについていったのがきっかけだ。その後、4歳半でチェロに転向。以後、この楽器ひと筋となる。
「幼かった私は、兄がヴァイオリンを弾く姿を見てうらやましくてたまらなかったのです。でも、どんな分数楽器でも楽器は大きすぎる。だから聴覚を鍛えるレッスンを主体に行っていたの。1年後に、当時アルゼンチンに初めてハーフサイズのチェロが入ってきて、それにひと目惚れ。実際はものすごく大きくて、私にとってはコントラバスのような存在だったけど、ヴァイオリンやピアノを習っていたので、上達は早かったみたい」
 その後、10歳からイヴァン・モニゲッティのもとに10年間通い、基礎をじっくりと学ぶことになる。
「最初に師事したときは10歳でしたので、本当に基礎的なことから勉強しました。モニゲッティ先生は私のコンサートにも同行し、その地の美術館や博物館に連れていってくれ、文化的な面の勉強も大切だと教えてくれました。私の成長を形成する上で、非常に多くのものを与えてくれた恩人です。そして20歳になったとき、自分の恩師であるダーヴィド・ゲリンガス先生のところにいきなさいと薦めてくれたのです。ゲリンガス先生はとてもきびしいレッスンをすることで知られていますが、私には自分自身のパーソナリティを生かす演奏、音質の大切さを教えてくれます。先生は本当にすばらしい美音の持ち主で、私もいつの日かそんな音色が出せたらと願って、日々練習に励んでいます」

演奏は、大切な生きがい

 ソル・ガベッタは、これまで多くの偉大な指揮者と共演を重ねているが、そうした指揮者の多くが彼女の人間性と音楽性にほれ込み、支援を申し出ている。まず最初に出会ったのは、2004年9月にルツェルン音楽祭でショスタコーヴィチの協奏曲で共演したワレリー・ゲルギエフである。
「マエストロ・ゲルギエフはとてもエネルギッシュ。そのパワーに負けないよう頑張りました。ショスタコーヴィチはロシア音楽の大切な位置を占める作品ですから、リハーサルのときから、いろんなアイディアを与えてもらいました。その後、大きな影響を受けたのはネーメ・ヤルヴィ。彼は経験も知識もとても豊富。ともに演奏するだけで勉強することは山ほどあります。そしてレナード・スラトキンも、初めて共演したときに、きみは北米で演奏したことがあるか、なかったら私が手を貸そうといってくれ、その後、マエストロ・スラトキンは私の北米での演奏の扉を開いてくれたのです」
 明るく人なつこく前向きな彼女は、だれにでも好かれるようだ。
「そんなことはないですよ。私のことを結構うるさいと感じる人もいるみたい。遠慮せずにどんどんしゃべるからかも。でも、いまはせっかくいただいたチャンスを目いっぱい生かすよう、何にでも積極的にチャレンジしていきたい。もちろん、人とうまくやりながらね。私はすごくストレスがたまる方で、ヘルペスになることが多い。これは最近、日本の鍼灸治療が効くとわかったの。これでも、結構周囲に気を遣っているのよ(笑)」
 彼女は日本にくるのが長年の夢だった。いつもマネージャーにどんな仕事でもいいから日本で演奏させて、と頼んでいたとか。
「日本の文化、歴史、人々の仕事に対する熱意、礼儀正しく人を尊重する態度など、全部大好き。夢はかなったけど、この夢はいま始まったばかり。今後はもっと日本を知りたい」
 趣味は新体操。子どものころから飛んだり跳ねたりが好きだったが、腕や指を痛めるからと、中止することになってしまった。
「私たちはからだが資本。いい演奏をするためには、健康が一番。空港とホテルとホールの往復で心身が休まるときがないけど、できる限り自分の時間をもち、精神と肉体を健全な状態に保ちたい。私は人間味あふれる音楽が好きなの。テクニックに頼った、無機的で機械的な演奏はしたくない。そのためには自分を磨かないと。演奏はけっして仕事ではなく、大切な生きがい。生きる意義を問われるもの。生き方すべてが演奏に表れてしまいます。ですから、もっと内面の強さをもつ人間になりたいし、きびしい局面に出合ってもへこたれない人間になりたいの。そうすれば、音楽的な面や奏法で悩みにぶつかったときも、きっと乗り越えられると思うから」

 ソル・ガベッタは、とてもひたむきで向上心に富んだ人だった。このインタビューからかなり年月が経ったが、またインタビューする機会に恵まれたら、もっと彼女の内面に触れたいと思う。明るさと繊細さ、行動的な面と思慮深さ、さまざまなコントラストを併せ持つ人である。
 今日の写真は、その雑誌の一部。


 

 
| インタビュー・アーカイヴ | 21:50 | - | -
シャルル・リシャール=アムラン
 2015年のショパン国際ピアノ・コンクールの第2位入賞と、ソナタ賞を受賞したカナダ出身のシャルル・リシャール=アムランは、成熟した大人の香りを放つ音楽を奏でるピアニストである。
 コンクールのガラ・コンサートで来日したときにも聴いたが、今夜聴いたリサイタルは、まさにピアノ好きをうならせる、情感豊かで味わい深い音楽が横溢していた。
 プログラムはオール・ショパン。ノクターン ロ長調op.62-1、バラード第3番、幻想ポロネーズ、序奏とロンド、4つのマズルカop.33、ピアノ・ソナタ第3番。コンクールで高い評価を受けた作品が多く選ばれていたが、とりわけ鍛え抜かれた奏法、表現、解釈が際立ったのが 序奏とロンドだった。
 この作品をこんなにもじっくりと聴かせる若手ピアニストは稀ではないだろうか。

 そこで「インタビュー・アーカイヴ」第69回は、リシャール=アムランの登場だ。

[ぶらあぼ 2016年5月号]

 2015年のショパン国際ピアノ・コンクールにおいて第2位入賞とソナタ賞(ツィメルマン賞)を受章したシャルル・リシャール=アムランは、弱音の美しい情感豊かな演奏を得意とするピアニストである。彼はカナダのモントリオール出身で、コンクール時は26歳だった。
「ショパンの作品に初めて出合ったのは13歳のときで、《幻想即興曲》でした。それから1年に1曲ずつ学び、徐々に自分のなかでショパンの全体像に近づいていったのです。私はスター性があるわけでもないし、世界中を飛び回る生活も得意ではない。第2位とソナタ賞をいただいたのは、自分としては理想的な結果です。今後はじっくり作品と対峙し、自分のペースを守りながら学びの精神を貫きたい。シンプルな生活が一番ですので…」
 コンクール時には「テディベア」の愛称で親しまれたリシャール=アムラン。無欲で真摯でどっしりとした体躯の愛すべきピアニストだが、演奏は聴き手の心を強烈に引き付ける成熟した美音が特徴。来日公演でも“大人の音楽”を披露し、ピアノ好きをうならせた。
「ショパンはルバートが生命線です。これは時間がゆるやかに巡っていくような感覚で、丸いものを感じます。けっして角ばったものではない。私はルービンシュタイン、リパッティ、ルプーの自然なルバートを感じさせる演奏が好きですね。今後は、自分の存在をこれでもかと見せつけるのではなく、あくまでも音楽の後ろに隠れ、作品時代をじっくりと聴かせるピアニストを目指したい」
 来日プログラムは、もちろんピアノ・ソナタ第3番は欠かせないと考えたが、バランスと調性、つながりを考慮して決めたという。
「コンクールの5カ月前にカナダでショパンのピアノ・ソナタ第3番と《幻想ポロネーズ》の録音をしましたが、まさかこのときはコンクールで入賞できるとは思ってもいませんでした。これまではコンチェルトの仕事も多く、共演したケント・ナガノ、ヤニック・ネゼ=セガンらの指揮者からも助言をいただいています。今後はソロ活動が増えそうで、年間110回のコンサートが入っています」
 リシャール=アムランは、ステージに登場する姿が往年の名ピアニスト、ラザール・ベルマンに似ていると思う。ゆったりと歩を進め、ピアノに向かうと美しい響きを醸し出し、聴き手の心を自然に解き放っていく。彼は大器晩成型のように見える。ピアノ好きの心をとらえる美音、ぜひナマの演奏で体験を!

 今日の写真は、その雑誌の一部。
 リシャール=アムランは、今日のリサイタルのアンコールにショパンの「英雄ポロネーズ」とエネスコの「パヴァーヌ」(組曲第2番op.10より)を演奏した。
 今回の演奏を逃した人は、ぜひ次回こそ、ナマの演奏に触れてほしいと願う。彼の演奏は、きっと30歳、40歳を過ぎてから、より味わいが増すのではないだろうか。





 
| インタビュー・アーカイヴ | 23:19 | - | -
エリソ・ヴィルサラーゼ
 2014年、11年ぶりに来日公演を行ったエリソ・ヴィルサラーゼ。ユーリ・テミルカーノフ率いるサンクトペテルブルク・フィルとの共演、そしてリサイタルとわれわれ聴衆を感動の渦に包み込んだ。
 その来日時、霧島国際音楽祭のコンサートやマスタークラスを控えている彼女に、音楽家としてのポリシーや、指導者としての思いを聞くことができた。
 インタビュー・アーカイヴ第68回は、ヴィルサラーゼの登場。数多くのインタビューのなかでも、とりわけ印象深いひとときとなった。

[音楽の友 2014年4月号]

音楽家であるために必要なこと 

20年間同じ曲を弾いていても、常に作品に新たな息吹を吹き込むという思いが大切。音楽は生き物なのよ。

私のモットーは、常に驚きをもつことなのです。 

 真のピアノ好きに愛されているエリソ・ヴィルサラーゼが、オーケストラとの共演とソロ・リサイタルの両方で1月末から2月にかけて待望の来日を果たし、まさにピアノ・ファンの心を深く魅了する演奏を披露した。
 コンチェルトは自家薬籠中の「チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番」。ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルク・フィルとの共演で、冒頭からこれまで聴いたことのないような新しい光を帯びたチャイコフスキーが登場。フィナーレまで作品の奥に潜む本質に迫る洞察力の深さを示した。
 テミルカーノフは、事前に「今回のエリソのチャイコフスキーは、まったく新しい作品に出合うような衝撃を与えるだろう」と語っているが、まさしく彼女の演奏は、聴き慣れた作品とは思えぬ光輝くような新鮮さを与えてくれた。 
 今回は、まずそのチャイコフスキーの話題から開始。まるで異なった作品のように思えたが、特別な版を使用しているのだろうか。
「いいえ、みんなと同じ版よ。特別なものはまったく使っていないわ。私の演奏が新鮮に聴こえたとしたら、それは私の信念が演奏に反映したからだと思います。聴衆が新鮮さを感じないような演奏をする音楽家は、もうステージから去るべきね。20年間同じ曲を弾いていても、常に作品に新たな息吹を吹き込むという思いが大切。音楽は生き物なのよ。マエストロ・テミルカーノフは、今回もまるで30歳の指揮者のような若々しくみずみずしい音楽を生み出したでしょう。これが音楽家たる姿勢であり、感動を呼ぶことにつながるの」
 ヴィルサラーゼはどんな質問に対しても凛とした口調でことばを尽くし、本音で語る。
「私のモットーは、常に驚きをもつことなんです。驚いたり、好奇心をもったり、感激したりという感情をもつことにより、自分のなかの感性が磨かれ、それが音楽と対峙するときにとても役立つわけです」
 たとえば、といって彼女は京都の清水寺の舞台から見た風景を例に挙げた。
「私はあの舞台から見る美しい光景に、いつも息が止まるような思いを抱きます。でも、毎回同じではありません。より深く見て感じて、自分の感情と向き合うから。自然に勝る芸術はないと思いますが、自然の美しさに近いのが音楽だと思います。ですからもう何度弾いたかわからないチャイコフスキーのコンチェルトも、毎回異なる演奏を心がけています。これまでザンデルリンク、コンドラシン、スヴェトラーノフ、ドラティなど多くの指揮者と共演してきましたが、そのつど違う音楽が生まれます。もちろんこの曲に関してはテミルカーノフとの共演がもっとも多いですね。目指している方向が同じなので、有意義です」

ピアニストはエゴイストなんですよ。でも、それでは教える仕事はできません。


 リサイタルでは「シューマン弾き」と称される彼女の「交響的練習曲」が披露され、ロシア・ピアニズムの伝統を引き継いだ奏法、表現力が遺憾なく発揮された。19世紀から20世紀初頭にかけてのロシアの偉大なピアニストの演奏をほうふつとさせ、アンコールにいたるまで夢のなかにいるような錯覚を覚えた。
「シューマンは8歳のころ《子どものためのアルバム》を弾き始めたのですが、すべての曲が楽しくてたまらなかったわ。以後いろんな曲を弾くようになったけど、シューマンは時間をかけて少しずつ作品に近づいていく作曲家だと思います。急いではダメ。現在はコンピューター社会で、なんでもすぐに調べられ、早く結果が出せるようになり、若いピアニストも早く成功したいと望んでいます。でも、それでは作品の真の意味合いに近づくことはできません。楽譜を深く読み、ひとつひとつの音符、記号をじっくり考え、完全に自分のものにしていかなくては…」
 ヴィルサラーゼはモスクワ音楽院とミュンヘン音楽大学で教鞭を執っているが、最近の生徒はみな時代の変化に振り回されていると嘆く。先生の質も低下しているのが現状だと。
「ピアニストはエゴイストなんですよ。自分が苦労して学んで身につけてきたこと、積み重ねてきたことは他人に譲りたくないものなのです。でも、それでは教える仕事はできません。演奏家と教育者はまるで別物。教えることは責任を伴うし、もっとも大切なのは教えることが好きなこと。いまは先生の質が変化し、残念ながら本気で教えることに命を賭ける人が少なくなっていますね」
 ヴィルサラーゼはトビリシ音楽院教授の祖母アナスターシャ、彼女の親しい友人だったゲンリフ・ネイガウス、そしてヤコフ・ザークから学ぶことができた。そうした人たちの誠意ある教え、音楽と真摯に向き合う姿勢がいまの自分の糧になっているという。
「私は幸運なことに、すばらしい先生に巡り会うことができました。でも、ピアノを本格的に始めたのは8歳で、かなり遅かったですし、祖母は最初のころは身内に教えたがらなかった。そこで私は自分で学ぶ方法を見つけたのです。祖母のお弟子さんが弾く曲を耳からすべて覚えて弾くことができたので、子どものころは楽譜を読むのは大嫌いでした。あるとき祖母が足を怪我して外に出られなくなってしまったため、私は自分で学ばざるをえなくなったのです。そのときに楽譜をしっかり読む訓練をしました」
 このころから「音楽は無限の力をもって聴き手の心の奥に感動を届けることができる」と信じ、作品の本質に迫っていくようになる。
 ヴィルサラーゼの演奏が聴き手の心を強く捉えるのはこうした考えゆえだろう。彼女はひとつひとつの音符、フレーズ、リズムなどに時間をかけて対峙し、その音楽がもつ性格や法則をとことん探求していく。
「焦りは禁物」と何度も口にし、けっして同じ演奏はしない、常に新鮮でありたいという。最後にひとこと、「ひとつのシーズンである曲を取り上げたら、しばらく置いておく。10年後にまたそれを弾くと驚きがあるのよ!」。これがエリソ・ヴィルサラーゼの音楽の神髄ではないだろうか。

 このインタビューの数日後、あるパーティでヴィルサラーゼに会った。すると、「あらあ、この間はありがとう」といって、強く抱きしめてくれた。
 こちらがお礼をいうべきなのに、逆にいわれてしまった。
 なんと温かく、ヒューマンで、優しく、寛大な人なのだろう。こういう人に指導を受けるピアニストは、とても幸せだ。レッスンはとてもきびしいといわれているが、それこそヴィルサラーゼの身上である。
 今日の写真は、その雑誌の一部。真っ黒な髪のボブスタイルが、彼女の個性を際立たせている。


| インタビュー・アーカイヴ | 21:32 | - | -
アレクサンドル・タロー
 アレクサンドル・タローのインタビューは、そのつど記憶に残るもので、特にラモーやクープランの録音をリリースしたころのことが印象深い。
 そこで「インタビュー・アーカイヴ」の第67回は、タローの登場。ショパンの「ワルツ集」が出たころだった。

[婦人公論 2007年12月22日&2008年1月7日号]

完璧主義者の表現力

 チェロのジャン=ギアン・ケラスのよき音楽仲間であり、録音でも共演しているフランスのピアニスト、アレクサンドル・タローが10月末に来日、緻密で成熟したテクニックと、深い表現力に満ちた演奏を披露し、ピアノ好きをうならせた。
 1968年生まれ。パリ国立高等音楽院を卒業後、ミュンヘン国際コンクールをはじめとする数々のコンクールに入賞し、ソロ、室内楽の両面で活躍するようになる。
 とりわけフランス作品を得意としているが、名前が広く知られるようになったのは2001年にリリースした「ラモー作品集」。18世紀前半にパリで活躍したジャン=フィリップ・ラモーの鍵盤作品を、貴族的でオペラティックな雰囲気をたたえながらも、近代的な奏法、斬新な解釈で演奏、ヨーロッパで「タロー現象」と呼ばれるブームを巻き起こした。
 次いでリリースされ、またもや人々に衝撃を与えたのは、ラモーと同時代にパリで活躍したフランソア・クープランが、クラヴサン(チェンバロ)のために作曲した「クープラン作品集」。この両者の作品を来日公演でも披露、美しく繊細なタピストリーを織り込んでいくような、熟練した職人芸とも思えるピアニズムを聴かせた。
「ルイ王朝時代の楽器は現代のピアノとはまったく響きが異なるため、アプローチを変えなくてはなりませんが、弱音の出しかた、やわらかな音の表現など、学ぶべきことは多い。最初はもちろんどう表現したらいいかわからず、とまどうことも多かったのですが、徐々に作品の奥深さに魅了され、のめりこんでいきました」
 タローの奏法は、完璧なるテクニックが根底に存在し、その上に多彩な色彩と自由に彩られた音色が躍動感をもってちりばめられている。リズム、タッチ、フレーズの作り方が実に個性的で、装飾音がきらびやかに、ナイーブな感覚を伴って舞い踊っている感じである。
 まさに大人の音楽、ピアノを聴き込んだ人たちが、さらなる刺激と感動を求めて聴くピアノである。その成熟度が遺憾なく発揮されたのが、アンコールで演奏されたショパンのワルツだった。これもすでに録音されている。
「子どものころからずっとショパンを愛してきました。ところが数年前、クープランの楽譜と出合い、両者の音楽にさまざまな類似点があることに気づいたのです。ふたりともからだが弱く、生きる希望を作品に託した。大音響の音楽ではなく、気品あふれる繊細な響きで鍵盤をうたわせるような作品を書きました。これらの響きがドビュッシーらのちの世代の音楽家に大きな影響を与えています。私は昔からピアノを人間の声のようにうたわせたいと考えてきましたから、彼らの曲作りの基本精神に共鳴したんです」
 タローの話しかたも、演奏同様の静けさと繊細さと流れるようなある種のリズムを持っている。そして、気難しさも随所に顔をのぞかせる。
 完璧主義者ゆえの苦悩がそこには感じられる。次なる録音はショパンの「24の前奏曲」だそうだが、録音に関しては楽しさは味わったことがないという。
「録音というのはその瞬間の音楽を切り取ったもの。リリースされたらもうやり直しはきかない。もっとああすればよかった、と常に痛みが伴うものなのです。ひとつのレコーディングが終わってリラックスし、幸福な時間が訪れるかと思うと、けっしてそうではない。CDが店頭に並んだとき、それはもう私の手から離れ、すぐに次なるプロジェクトの準備にかからなくてはならないんです」
 そんな彼のほんの少しの幸福な瞬間は、プールで泳ぐとき。いずれの地でも週に3回は泳ぐ。
「無の状態になれるから。音楽以外にこれといった趣味もないので、プールが友だちです(笑)」
 もうひとつ、タローを特徴づけているのは自分のピアノをもたず、友人の楽器から楽器へと渡り歩いて練習していること。
「この方が集中できるんです。弾きたくてたまらなくなるから。愛しい人に会いたい気持ちと同じです」
 
 今回のインタビューでも、この練習するピアノを求めてあちこち渡り歩く話になった。そこには、思いもかけない場所が登場し、とても興味深かった。少し先の「音楽を語ろうよ」で、紹介します。
 今日の写真は、2007年から2008年にかけての雑誌の一部。彼は最初に会ったときからまったく体形が変わらない。聞くところによると、常に57キロをキープしているそうだ。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:19 | - | -
ジョン・エリオット・ガーディナー
「また次は、こんな話をしたい。ぜひ近いうちに」
 こういわれて最初のインタビューを終えることがあるが、その後なかなかそのアーティストに話を聞く機会に恵まれず、続きのインタビューがかなわないことがある。
 イギリスの指揮者、ジョン・エリオット・ガーディナーもそのひとりだ。
 私は彼の細部までピリピリと神経が行き届いた演奏が好きで、聴きながらこちらも緊張感でいっぱいになるのがたまらない。
 癒されるとか、心がおだやかになるという演奏ではけっしてない。
 完璧主義者であり、神経質な面もあり、とても怖い存在だと思っていたのだが、インタビューでは真摯な答えを戻してくれ、そのインタビューはいまなお心に強く焼き付いている。
 インタビュー・アーカイヴ66回目は、そのマエストロ・ガーディナーの登場だ。

[FM fan 1992年11月9日〜22日号 No.24]

いまではベルリオーズやフォーレも演奏しています

 アーリー・ミュージックの旗頭として知られるガーディナーが、手兵イギリス・バロック管弦楽団を母体とした19世紀用の時代楽器オーケストラ“レボリュショネール・エ・ロマンティック"を結成し、ベートーヴェンの全交響曲を演奏するために来日した。
 ガーディナーの集中力のすごさはディスクからも十分にうかがい知ることができるが、彼はコンサートのとき、楽章の合間に退席する人の小さな靴音が止むまでじっとその人を目で追っていたり、インタビュー中に飲み物を届けにきた人の声が止むまで話を中断したりと、かなり神経を張りつめた様子を見せていた。
 しかし、日本のアップルジュースが気に入り、リハーサルやコンサートの終了後にはミネラルウォーターなど見向きもせず、ひたすらアップルジュースのコップを探すというユーモラスな一面ものぞかせていた。

イタリアには小さいころから憧れていた


――ガーディナーさんがモンテヴェルディ合唱団を作られたのは21歳のときですが、この合唱団にモンテヴェルディの名を冠した特別な理由というのは、レパートリーを中心にすること以外に何かあるのでしょうか。
ガーディナー 私はイギリス生まれで、いうなれば北ヨーロッパの人間です。ヨーロッパでは北に住む人ほど南に惹かれるものなんです。特に私はイタリアには小さいころからずっと憧れていて、15歳で指揮を始めたときからイタリア音楽を指揮することに非常な喜びを感じてきました。
――それはゲーテがイタリアに心動かされる心情と同種類のものですか。
ガーディナー すごく近いでしょうね。芸術家の多くがイタリアに魅せられてきましたから。画家のデューラーもそうでしょう。シュッツもヴェネツィアに勉強に行きましたし…。
 私がモンテヴェルディに惹かれる一番の理由は、彼の音楽が非常にイタリア的であることのほかに、人間界のことに深い造詣があると感じるからです。モンテヴェルディの音楽はそれをことばとして伝えることができるものです。それをぜひ自分の合唱団で実践したかった。もちろん、オーケストラも含めてという意味ですが…。
 私がオリジナル楽器の指揮を始めたころは、まだそれらの楽器を十分に演奏できる人がいませんでした。でも、ここ10年くらいで演奏者のテクニックがぐんとアップし、時代もそういう方向に向いてきて、一種のブームが起きた形になったのです。
 いつの時代にも新しいことに挑戦するのは難しいもので、バッハの時代でもバッハは合唱団のレヴェルを上げることや、オーケストラに自分の作品を理解してもらうことにとても苦労したと思うんです。
 私の場合にも、同じことがいえます。合唱団とオーケストラの一体化と完璧性を常に追い求めていますから。
――「ミサ・ソレムニス」が大変な評判になりましたが、まさにその結晶ともいうべき録音だったわけですね。
ガーディナー あの作品は、私がもっとも愛してやまないものなのです。バッハの作品にとても精神性の高いものを感じますが、ベートーヴェンの作品にもバッハとはまた違った精神性の深さを感じ、精神の高揚を覚えます。
 ベートーヴェンは「ミサ・ソレムニス」という作品を通して、神の偉大な存在にくらべ、人間というのはなんと小さなものなのだろうということをいいたかったのだと思います。
 この点がバッハの作品と根本的に異なっているところです。

いつもスコアを抱えて走っている感じ


――最近はレパートリーがかなり広がってきましたよね。近代楽器のオーケストラの指揮もなさっていますし。
ガーディナー 最初はもちろん大好きなモンテヴェルディからスタートし、それからバロックと前古典派のオペラやオラトリオの復活上演などを試みました。
 それから徐々にハイドンやモーツァルトまでレパートリーを拡大していき、いまでは19世紀の作品もかなり演奏しています。
 最近はベルリオーズやフォーレも加わってきましたしね。やりたいことがたくさんありすぎて、時間がとてもたりません。いつもスコアを抱えて走っている感じです。

 多忙を極め、常に神経を緊張させているガーディナーの心のやすらぎは、家族とのだんらんから生まれる。イギリスの南西に父親と叔父さんが残してくれた大きな農場と森があり、そこで家族と過ごす時間が一番のリフレッシュ・タイムだそうだ。
 9、6、3歳の3人の子どもたちは、みな歌が好きで、次にガーディナーがヨーロッパで指揮をする「フィガロの結婚」に出演することが決まったとか。リハーサル前のごく短時間のインタビューだったため、ひとつの話題に集中してじっくり質問できなかったことを悔やんでいたら、マエストロは「次はぜひ、ヘンデル談義でもしましょう」ともうれしい提案をしてくれた。

 今日の写真は、その雑誌の一部。あれからだいぶ年月が経過してしまったが、次にガーディナーに会えるのはいつになるだろうか。ヘンデルは私がこよなく愛す作曲家。ヘンデル談義、待ち遠しいなあ。


 
| インタビュー・アーカイヴ | 21:38 | - | -
クリスチャン・ツィメルマン
 いまは、ワルシャワで第17回ショパン国際ピアノ・コンクールが開催されている真っ最中。今日は、第3次予選が行われている。
 現在、国際舞台で活躍しているピアニストの多くがこのコンクールの優勝者、入賞者だが、インタビュー・アーカイヴの第65回は、1975年の第9回の覇者、クリスチャン・ツィメルマンを取り上げたい。彼は当時18歳、史上最年少優勝者となった。

[SIGNATURE 2008年6月号]

孤高のピアニズム

 1975年にショパン国際ピアノ・コンクールで優勝の栄冠に輝いて以来、30年以上に及ぶ演奏活動において常に第一線で活躍を続けているトップクラスのピアニスト、クリスチャン・ツィメルマンは、自身の楽器を世界各地にもち運んで演奏するこだわりの音楽家。最良の演奏を聴衆に提供するために、楽器の構造から調律などの専門知識も習得し、ホールの音響などすべてに心を配る。そこから生まれ出る音楽は、完璧なる美に貫かれている。

 ツィメルマンのこだわりは、1999年に自身のオーケストラを結成したことにも見てとれる。長年、ショパンのピアノ協奏曲をさまざまなオーケストラと共演してきたが、常に完全な満足が得られず、ついに自分でオーケストラを作ることになった。
「ソロではなくコンチェルトとなると、指揮者やオーケストラとの音の対話が非常に重要。自分の目指す音楽を奏でたいと願うと、どうしても私の音楽を完全に理解してくれるオーケストラとの弾き振り(ピアノ演奏をしながら指揮も担当)が理想的です」
 ショパンは2曲のピアノ協奏曲を残した。それをツィメルマンは理想的な美しさをもって表現したいと考えている。そのためにポーランドの若手演奏家を集めてオーディションを行い、ポーランド祝祭管弦楽団を結成し、各地で演奏して回った。
「自分の音楽を完全に納得のいく形で演奏し、聴いてもらいたいのです。少しでも不満の残ることがあったら、それはステージに乗せるべきではありません。音楽は神聖なもの。演奏家は完璧な準備をして本番に臨むべきです。そうでないと人々の心を真に打つ音楽は生まれない。私は演奏家が前面に出るのではなく、作品のすばらしさ、作曲家の意図したことをピアノで伝えたい。それが私の使命ですから」
 ツィメルマンは1956年ポーランドのシュレジア地方に生まれた。両親は工場で働いていたが、ともに音楽を愛していた。父はいつも仕事が終わると工場の仲間たちを連れて帰宅し、みんなでピアノやさまざまな楽器を演奏していた。
 5歳の誕生日にピアニカのような楽器を与えられたツィメルマンは次第にその仲間に加わり、楽譜を読むことを学び、徐々にアンサンブルの能力を磨いていった。
「毎日音楽漬けでした。シュレジア地方は環境汚染のひどい土地で、窓も開けられないほどでしたが、家にはいつも音楽があった。父の仲間は食事をするのも忘れていろんな楽器を演奏しては楽しんでいた。彼らは音楽家になりたくても、機会もなくお金もなく、なれなかったんです。でも、音楽に対する渇望が渦巻いていた。やがて私はピアノを習うようになり、音楽家になることができましたが、いまでも常に音楽に対する渇望は人一倍強い。この気持ちを生涯忘れてはならないと思っています」
 小学校に入ったとき、ツィメルマンにはひとりの友人ができた。あるとき、その子がツィメルマンを自宅に呼んでくれた。立派な家で、部屋にはすばらしい家具が並んでいた。でも、何かが足りない。
「ねえ、ピアノはどこにあるの?」
 その家にはピアノはなく、楽器もまったくなかった。音楽を演奏する人はひとりもいなかった。
「大きなショックを受けました。当時の私は、音楽を演奏しない人がいるということが信じられなかったのです。音楽がなくても、生きていくことができる。その事実を知り、驚愕しました。それまで信じていた世界が一瞬にして崩れていくのを感じました。私は食べたり寝たりするのと同じくらい演奏するのは自然なことでした。人間には自分と違う生きかたがある、とそのとき知ったのです。そのショックからいまだに回復していない(笑)。これが私のマイルストーンだったのでしょうね」
 ツィメルマンの最高のものを求める姿勢には多くの作曲家も賛同し、作品を献呈、初演の依頼も多い。祖国の偉大な作曲家ヴィトルド・ルトスワフスキ(1913〜1994)とも交流が深く、彼のピアノ協奏曲を1988年のザルツブルク音楽祭で初演。指揮はルトスワフスキが担当し、翌年には録音も行われた。
「作曲家の指揮で新作を初演するのは大変名誉なことですが、だれも聴いたことのない作品を演奏することにはどれほど多くの困難が伴うかということも思い知らされました。ルトスワフスキには多くの質問をしたのですが、演奏するのはきみだよ、とはぐらかされた。私の自由を重んじてくれたのです。でも、テンポなどは絶対に守ってくれと頑ななまでにいわれました。ルトスワフスキの作曲技法は確固たるフォルムに貫かれ、ひとつの完成した世界がある。それを守りながらどこまで自由な解釈をプラスしていいのか、本当に悩みました。彼は指揮をしながら大いなる寛容の精神で私の演奏に耳を傾けてくれた。そして成功に導いてくれたのです」
 ツィメルマンに捧げられたピアノ協奏曲が初演20周年を迎えた今秋、日本で演奏される。磨き抜かれた究極のピアニズムが披露されるに違いない。
 
 ツィメルマンには初来日のころから取材を続けているが、かなり気難しい面と、ジョークを連発する面とが共存し、インタビューでは結構とまどうことも多い。だが、彼は日本をこよなく愛し、とりわけ東京の六本木を好む。ひとりで真夜中にフラフラ歩いていても、だれも気に留めないところが気に入っているとか。日本の秩序を重んじるところ、礼儀正しさ、治安のよさ、知的欲求が強いところも魅力を感じるそうだ。
 今日の写真は、その雑誌の一部。本当に整っている顔をしているよね。近くで見ると、まさに彫刻のようだワ、と思って見とれてしまう。
 以前、インタビューのときに「バーゼルに住んでいるんですよね。テニスのロジャー・フェデラーの家の近くですか」と聞いたら、「ええっ、きみ、フェデラーのファンなの? そうだよ、フェデラーの家はよく知っているよ。本当にファンなの?」と何度も聞かれ、それ以上はいえなかった(笑)。

| インタビュー・アーカイヴ | 21:25 | - | -
アリス=紗良・オット
 アリス=紗良・オットは、世界各地のオーケストラのスケジュールを見ていると、いろんなところにソリストとして出演している人気者だ。
 8月25日、26日にはいま話題のフィンランドの指揮者、ヨーン・ストルゴーズ&NHK交響楽団と共演し、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を演奏する。
 そして11月には、アンドレス・オロスコ=エストラーダ指揮フランクフルト放送交響楽団の日本ツアーのソリストを務め、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏する予定になっている。
 アリスには、デビュー当初からずっとインタビューをし、演奏を聴き続け、すっかり意気投合。毎年、クリスマスカードを送ってくれる。
 インタビュー・アーカイヴの第64回はそのアリス=紗良・オットの登場。やはり初めのころが鮮烈な印象だったので、今回はそのインタビューを選んでみた。

[CDジャーナル 2009年1月号]

名門ドイツ・グラモフォンから国際的なデビューを果たす 日本の血を引く超新星ピアニスト

3歳のころから自分の道は自分で決めてきた

 アリス=紗良・オットの演奏には迷いがない。自分の目指す方向を信念をもって見据え、ひたすら前進あるのみという姿勢を崩さない。それがひとつひとつの音に反映され、疾風怒涛のごとく突っ走っていく勢いを感じさせる。それは5歳のときに「将来はピアニストになる」と、自分の将来を決めたということからもうかがえる。
 そして6歳のときにイースターのプレゼントとして贈られた、ショパンのカセットテープのカバーについていたドイツ・グラモフォンの鮮やかな黄色いロゴに魅せられ、「いつか私もこんな録音がしたい」と願った。その願いが19歳で実現。ドイツ・グラモフォンと契約し、リストの「超絶技巧練習曲集」で国際的なCDデビューを果たす。
 現在、20歳。ドイツ人の父親も日本人の母親も優しく心の広い性格で、自由に育ててくれたが、3歳のころから自分の道は自分で決めてきたため、両親を手こずらせることが多かったという。
「私は辰年生まれのしし座で、石頭のじゃじゃ馬娘なんです。子どものころから言い出したら聞かない性格で、反対されればされるほど燃えるタイプ。3歳のときに両親に連れられてコンサートに行き、そのときに聴いたピアノの演奏に感動して自分がやりたいのはこれだ!と確信したんです。それでピアノを習いたいと両親に訴えました」
 家には母親が弾くグランド・ピアノがあったためすぐにでも弾きたかったが、なにしろ3歳。まだほかの選択肢がいくらでもあると考えた両親は反対し、ピアノのまわりに絵本を高く積み上げて柵を作ってしまった。
 だが、それにめげるアリスではない。親の留守中によじのぼって柵を壊し、ピアノを弾くことに成功。やがて両親はその情熱に負け、4歳からピアノを習わせてくれた。
 ミュンヘンに生まれた彼女は、3歳からユニークなイタリアの教育法を取り入れている幼稚園に通っていたが、この入園の際にも負けず魂を発揮した。
「その幼稚園はドイツ語と英語を教えてくれ、子どもの個性を伸ばすことに重点を置いていました。ですから人気が高く、父親が電話したときには満員だと断られたんです」
 父の横に立って聞いていたアリスは、リダイヤルで幼稚園に自分で電話し、園長に掛け合った。「ぜひ入りたいんです」と。3歳の子が自分で電話してきたことに幼稚園側は驚き、入園はすぐに許可された。それを聞いた両親の驚きは如何に…。
「園長先生は私の個性を伸ばすために、みんなが外で遊んでいるときにひとりでことばのカード遊びをさせてくれ、それが成長につながりました。当時から友だちは男の子ばかり。ままごとや人形遊びは苦手。女の子同士でキャーキャー騒ぐのもダメ。昔から一匹狼なんですよ」
 3歳のころ、彼女は自分の言いたいことが相手に明確に伝わらないことに悩んでいた。ことばではうまく表現できない。それがピアノを弾くことにより、自由な自己表現が可能になった。
 5歳で初めてステージで演奏したときには、聴衆の反応が伝わり、拍手を受けて自分と聴衆とのコミュニケーションに熱い感動を得る。この時点で道は決まった。以後、迷いはなし。これまで挫折もなし。壁にぶつかったことは何度もあるが、それを乗り越えることに喜びを見出し、自分に対しての大いなるチャレンジだと言いきかせてきた。これを乗り越えれば、次に進める。だったら歯をくいしばって進もうと。
「12歳のときからザルツブルクのモーツァルテウム音楽大学のカール=ハインツ・ケマリンク先生に師事していますが、門下生はほとんど年上で数も膨大。大きなひとつのファミリーのような感じです。レッスンはすごくきびしいのですが、きびしければきびしいほど私には向いている。ぬるま湯状態だとダメな性格なので」
 ここでもアリスの性格が発揮される。正義感が強く、思ったことはすぐに口に出す彼女は、先生と衝突することもしばしば。そのなかで切磋琢磨し、人間性と音楽性に磨きをかけてきた。学ぶ作品についても、はげしいディスカッションが絶えない。
「13歳のときにショパンのスケルツォ第2番を弾きたいと申し出たのですが、難しいからまだ早いと却下された。でも、どうしてもこの作品が好きで弾きたかったんです。先生は技術的な難しさではなく、作品が内包する情感がまだ理解できないからと私を諭したのですが、粘りに粘って許可してもらいました。でも、練習を始めたら、自分のイメージしているように弾くことができず、何度も何度も悔し涙を流しました」

いつも学ぶという姿勢 一回一回のステージが成長の場

 その後、モーツァルト、ベートーヴェン、リストと作品の幅を広げ、数々のコンクールでも優勝、入賞を果たし、世界各地で演奏活動を展開するようになる。そんなアリスがドイツ・グラモフォンからのCDデビューに選んだ作品は、リストの「超絶技巧練習曲集」。全12曲を初めての録音に選ぶことに周囲は反対したが、これもまた押し通した。
「私は全曲弾くことにより、その作品の全体像が見えると考えています。有名な曲だけ弾くのは意味がない。リストのこの作品は、人間のあらゆる喜怒哀楽の感情が詰まったもの。リストは激しい人生を送った人ですが、すごく幸せだったと思う。人生を楽しんで生きていたと思うからです。そんな豊かな感情を表現したかった。これはエチュードでも、人の心を揺さぶる力がある作品だと思いますから。そんな演奏ができたら最高ですね」
 ある作品を全曲演奏することは、子どものころから実践してきた。J.S.バッハの「2声のインヴェンション」は6歳で、「3声のシンフォニア」は7歳のときに全曲勉強した。リストの「超絶技巧練習曲集」は12歳のときに「マゼッパ」と「鬼火」からスタート、徐々に作品を増やしていき、途中で少し離れ、17歳から18歳で全曲を弾くようになったという。
 今後はリストのピアノ・ソナタ ロ短調やベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番、ショパンのワルツ、シューベルトのピアノ・ソナタへと目が向いている。
 各地てでのコンチェルト演奏の機会も多く、2009年1月には井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢とベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」で共演、約1カ月の日本ツアーを行う。
「オーケストラとの共演は、最初が肝心ですね。リハーサルの最初の10分で指揮者とオーケストラに認めてもらえなかったら、共演はうまくいかないと思います。そのために懸命に準備をします。オーケストラのメンバーは各々がソリストと同じ。キャリアが長い人が多く、こんなチビッ子が“ソリストです”という顔をしていったらけっしてうまくいかない。ですからいつも学ぶという姿勢、挑戦する心、ステージから何かを得るという気持ちをもって臨むようにしています。私は一回一回のステージで成長していくと考えていますので。本番が大切な勉強の場。最初から心してかからないとなりません。でも、一度認めてくれたら、オーケストラの人たちはずっとサポートしてくれる。だから最初が勝負!」
 リストのアルバムの勢いに満ちたダイナミックな演奏と同様、アリスのナマのステージも、エネルギッシュでポジティブ。聴き手にも大きな元気を与えてくれるような演奏だ。
 趣味は絵を描くこと。今回のCDブックレットには、リストを描いたものが掲載されている。
「あとはピザやパンを焼くこと。いまこれにハマっていて」と、このときばかりは無邪気で明るいリラックスした笑顔がはじけた。

 当時インタビューでは、常に母親が付き添い、難しい日本語になるとお母さんが手助けしてくれたが、徐々に日本語にもインタビューにも慣れ、いまでは完全にプロフェツショナルな姿勢で応じる。
 今日の写真は、その雑誌の一部。いまは髪型も表情もまったく違うよねえ。まさに個性派になった感じだが、このころはまだあどけなさが残っている。


| インタビュー・アーカイヴ | 22:06 | - | -
ケマル・ゲキチ
 先日会ったケマル・ゲキチは、1985年のショパン国際ピアノ・コンクールにおいて、当初は高い評価を得たものの、結局入賞を逃した。
 1989年に来日したときには、そのときの模様を熱く語ったことを覚えている。折しも、今年はショパン国際ピアノ・コンクール開催の年。インタビュー・アーカイヴの第63回は、そのゲキチの登場だ。

[FM fan 1989年10月2日〜15日号]

リストの音楽と生き方に共鳴

「本選に残れなかったのは思いもかけぬことでした。そのときすでに本選で演奏するコンチェルトの準備を始めていましたし、まさか落ちるとは思いませんでしたから」
 4年前のショパン国際ピアノ・コンクールを振り返って、ゲキチは一気にこう語った。
 1980年のショパン国際ピアノ・コンクールでは、イーヴォ・ポゴレリチが賞を逃して逆に名をあげてしまったが、1985年の同コンクールでまたもや入賞できなかったピアニストがいま話題である。
 その名は、ケマル・ゲキチ。出身はポゴレリチと同じユーゴスラヴィア。コンクール当時は22歳。下馬評では、「スタニスラフ・ブーニンかケマル・ゲキチのどちらかが優勝する」とさえいわれた。だが、ゲキチの個性的な演奏は審査員に受け入れられず、本選に残ることができなかった。
 しかし、審査員の出した結果とは裏腹に、聴衆と評論家は彼に絶対的な賛辞を送った。
「コンクールの2カ月後にワルシャワ・フィルからの招待状が届き、ぼくが用意していたショパンのピアノ協奏曲第1番を2晩連続で弾かないかというのです。それもコンクールのときと同じホール、指揮者、オーケストラでね」
 こうして彼は再びポーランドを訪れ、センセーショナルな成功を収める。その後、モントリオールでも同様のことが起こり、聴衆が入賞できなかったゲキチのために抗議リサイタルを開いている。
 こんなにも聴衆を興奮させ、熱狂的支持を受けているピアニストなのに、素顔の彼は実に淡々としていて、数々の事件を経験しているとは思えないほどおだやかな話しぶり。
 今回の日本での初レコーディングに関しては、「ぜひリストから録音したい」という彼の強い希望があった。ゲキチは1981年のリスト・コンクールの際、ピアノ・ソナタ ロ短調についての論文を発表している。また、リサイタルのプログラムの6割はリストが占めるほど。
「リストは音楽ばかりではなく、その生き方にも共鳴しています。ぼくも彼のように常に人を愛していたいし(笑)」
 そして収録曲のなかの「フィガロ・ファンタジー」は、ブゾーニ編にさらに手を加えて演奏している。デュナーミクの広さと輝くような音の響き、深く研究した解釈に基づくこれらの曲の数々は、リストのピアノ作品の新しい面を発見させてくれる。だが、今回の来日コンサートではいわくつきのショパンを弾く。それもオール・ショパン・プロ。「これがぼくのショパンだ!」という意気込みが伝わってくるかのようだ。

 先日の食事会のときにも、今年のショパン国際ピアノ・コンクールの話題が出た。私が、「応募者が多くて、第1次予選に出場するまでに何度もいろんな審査を経なければならないのよ」と話すと、「いまの参加者は本当に大変だねえ」と昔をなつかしむような目をした。 
 あれから30年。その間、ショパン国際ピアノ・コンクールは、本当にいろんなドラマを生んできた。さて、今年はどうなるだろうか。
 今日の写真は、ゲキチのインタビューが掲載された雑誌の一部。若々しいよねえ。このころから私はずっと付き合っていることになる。長いつきあいだワ〜と、自分の年も考えたりして(笑)。

| インタビュー・アーカイヴ | 21:03 | - | -
マルティン・シュタットフェルト
 マルティン・シュタットフェルトの記事は何度か書いてきたが、やはり最初にシュトゥットガルトでインタビューをしたときの印象が強いため、その記事を「インタビュー・アーカイヴ」の第62回として再現したい。
 
[音楽の友 2005年11月号]

ドイツ・ピアノ界に誕生した超新星 マルティン・シュタットフェルト

「バッハは極端な面を備えている音楽だと思っている」

 いま、ドイツの若きピアニスト、マルティン・シュタットフェルトのデビューCD「ゴルトベルク変奏曲」が大ヒットを記録、そのウェーブがドイツからヨーロッパ各地へと広がりつつある。
 これはシュタットフェルトが2003年10月に自分でスタジオ録音したものをレコード会社に送り、即座にリリースが決定したもの。以後、バッハの「イタリア協奏曲・シンフォニア」、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番&第24番」など、次々と録音が行われている。
 今夏は音楽祭への出演が相次ぎ、8月27日と28日にはシュトゥットガルト音楽祭に出演、「21世紀のバッハ」と題したコンサートで「平均律クラヴィーア曲集」を演奏した。
 録音でも感じられたが、彼は作品を完全に自分のものとし、確信をもって弾いている。「ゴルトベルク変奏曲」は、最初は静謐で瞑想的な音の世界が広がるが、次第にジェットコースターのようなスピードを味わうことができる。「平均律」も装飾音から和音、ペダルの活用、オクターヴの使用などに確固たる意志が感じられた。
「ぼくのバッハがジェットコースターのよう? いいねそれ、まさにその通りかも(笑)。ぼくはバッハは極端な面を備えている音楽だと思っているから。静と動、瞑想とエネルギーなど、さまざまな面で非常に異なる要素を秘めている。バッハは卓越した鍵盤奏者だったけど、子どもが練習するための作品を書く面も持ち合わせていた。その二面性に無性に惹かれる」
 
「バッハを弾いていると一種のエクスタシーを感じるんだ」

 シュタットフェルトは2002年ライプツィヒで開催されたバッハ・コンクールにおいて、最年少の22歳でドイツ人初の優勝者となった。
「自分の目指す道が評価されてとても光栄に思った。ぼくは6歳からピアノを始めたけど、7歳のときにはもうピアニストになりたいという気持ちを固めていたんだ。すごく練習が好きな子どもで、もちろん外でも遊んだけど、ピアノの前にすわっているのが一番快適だった」
 コブレンツの近くの小さな村で育つ。父親は獣医で、彼は4人兄妹の長男。時間の制限なしにいつでもピアノが弾ける環境だった。
「6歳のころから《平均律》を少しずつ弾き始めた。もうバッハがたまらなく好きで、愛を感じていた。バッハを弾いていると、一種のエクスタシーを感じるんだ。もちろん音楽に対する愛だよ。危険なヤツだと思わないでね(笑)。バッハ・コンクールのときも、聴衆と愛の交換ができたと感じた。ぼくは音楽を通して自分の考えを聴き手に伝えたい。音楽で対話をしたい。それが愛の交換だと思うんだ」
 おだやかで思慮深い話し方だが、趣味はクルマを飛ばすこと。いまはロシア文学に夢中で、片時も本を離さない。ワインにも目がない。
「バッハの偉大なところは、聴く人それぞれが異なった絵を思い描くことができること。ぼくも深い海にもぐっていくような不思議な感覚を味わう。先日、トーマス・クヴァストホフと共演したんだけど、彼のすばらしいバッハに感動した。やはりバッハは偉大だ!」

 シュトゥットガルトでの演奏は、まさに彼のことば通り、バッハへの愛に満ちていた。音楽祭の会場は宮殿内のホールで、音響と雰囲気がすばらしく、強い印象をもたらした。その翌年、2006年3月9日にはすみだトリフォニーホールで「ゴルトベルク変奏曲」1曲を1日だけ弾くために来日。同年の夏にはザルツブルク音楽祭に出演した。
 このインタビューのあと、彼は愛車を飛ばしてアウトバーンを駆け抜け、自宅へと帰っていった。家ではゆっくりワインをたしなむのだそうだ。
 今日の写真は、その雑誌の一部。長身のスリムな体躯の持ち主で、モデルのよう。先日の来日公演のときも、10年経っているのにその雰囲気はまったく変わっていなかった。ちょっと安心(笑)。

| インタビュー・アーカイヴ | 21:12 | - | -
ジャンルカ・カシオーリ
 ピアニストのジャンルカ・カシオーリが現在来日中で、ヴァイオリニストの庄司紗矢香とのデュオを行い(5月23日〜6月9日全国9公演)、自身のリサイタルも予定している(6月12日、紀尾井ホール)。
 そこで、「インタビュー・アーカイヴ」の第61回はカシオーリを取り上げたい。彼に初めてインタビューしたのは1997年、18歳のときだった。ドイツ・グラモフォンから「カシオーリ・デビュー!」「アンコール!!」というアルバムがリリースされた直後のことだった。

[FM fan 1997年11月3日〜16日 No,24]

ベートーヴェンは、人間の喜怒哀楽をもっとも直接的かつ包括的に作品に投影させた最初の作曲家だと思う

 マウリツィオ・ポリーニに続けとばかりに、イタリアから新星が登場した。1994年にミラノで第1回が行われたウンベルト・ミケーリ国際ピアノ・コンクールの覇者、ジャンルカ・カシオーリだ。
 彼はコンクール当時15歳。このコンクールはベートーヴェンと現代作品が2大柱となっており、審査員にはポリーニや作曲家のルチアーノ・ベリオらが顔をそろえ、ピエール・ブーレーズの新曲「ピアノのためのアンシーズ」が課題曲として含まれている。
「ぼくにとっては優勝することよりもポリーニに聴いてもらえる、そのことの方が大事だった。でも、優勝者はドイツ・グラモフォンに録音できると聞いていたので、これも大きな魅力だったことは確か。ただし、ブーレーズの曲はコンクール直前にようやく楽譜が仕上がったため、時間との戦いで大変だったよ」
 それにもかかわらず、この演奏は絶賛された。審査員は絶対音感をもち、初演演奏に優れ、技術的な困難なしに作品をどんな調にも容易に移調し、すぐに演奏できるカシオーリの才能を高く評価したといわれている。
「小さいころから、作曲らしきものをいつもしていたからだよ。ショパンを弾くとショパンのまねをして曲を作り、モーツァルトを勉強するとそれっぽい曲を作って遊んでいたんだ」
 カシオーリは、イタリアンらしく陽気な性格。シリアスな話でも途中からコメディのような様相を呈し、最後は大笑いになってしまう。
「でも、演奏はちゃんとやっているよ。録音もおもしろくて、もっとやってみたいと思ったし、今夏のザルツブルク音楽祭に参加したんだけど、すごく楽しめた。ぼくはピアノを弾くのを仕事と思っていないんだ。喜びというか、生きがいというふうに感じている。だって、大勢の前で弾くのって、すごく楽しいんだもん」
 8歳から自分の意志でピアノを始めたカシオーリは、現在18歳。たった10年でここまできてしまった。音楽を常に楽しみながら。
「ベートーヴェンは昔からぼくのあこがれ。一番心に近い音楽なんだ。ベートーヴェンは人間の喜怒哀楽の感情をもっとも直接的に包括的に作品に投影させた最初の作曲家だと思う。ベートーヴェンを弾いていると、ああ、ピアニストになってよかったって思う。すばらしいピアノ・ソナタをたくさん書いてくれたから。コンチェルトもね。それらをもっと深く勉強したい。20世紀の作品も大好きだから、レパートリーを広げたいし。でも、まだ学生だから、学校の勉強もたくさんあるんだよね。まあ、こっちも楽しみながらやるよ(笑)」

 あれからはや18年。いまや中堅の実力派に成長したカシオーリ。演奏の根幹に流れるものはまったく変わっておらず、顔もあまり変わっていない。
 デュオが終了してから庄司紗矢香とのサイン会では、彼女がさっと素早くサインをするのに対し、「ジャンルカ・カシオーリ」ときちんと書く彼は、とても時間がかかる。それゆえ、サインの列は長いまま。
 この性格の違いが、音楽面での個性の違い、音の対話のぶつかり合いを生み、ユニークなデュオが生まれる。今回は、どんな演奏が披露されるだろうか…。
 今日の写真は、その雑誌の一部。ホント、この顔の表情、いまも変わっていないよねえ。


 
| インタビュー・アーカイヴ | 17:51 | - | -
ルノー・カプソン&ゴーティエ・カプソン
 インタビューはその場の空気が大切である。ほとんどの場合は、シリアスな内容から始め、次第に雰囲気をやわらげていくのが私のやり方。
 でも、最初から爆笑続きのインタビューもあった。
 フランスのヴァイオリニスト、ルノー・カプソンと弟のチェリスト、ゴーティエ・カプソンのふたりにインタビューしたときのことである。現在はカピュソンと表記する場合もある。
 私はルノーの官能的なヴァイオリンが大好きで、来月の来日も非常に楽しみにしている。
 彼は今回、東芝グランドコンサート2015年のソリストとして、トゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団と共演する。コンサートは2月20日から3月2日までで、全国8公演が予定されている。もうひとりのソリスト、ユリアンナ・アヴデーエワと交替でソロを務め、得意とするサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番を演奏する予定だ。
 これを記念し、「インタビュー・アーカイヴ」の第60回は、ルノー・カプソンの登場。ゴーティエとの絶妙のやりとりをできる限り忠実に書いたつもり。かなり長いけど、最後まで読んでくださいね。
 
[弦楽ファン 2007年 WINTER]

恋愛と同じようなもの スムーズにいくとつまらない
追求してどんどん味が出てくるほうが面白い


アルゲリッチはヴァイオリニストを大空へはばたかせてくれる



 ゴーティエはいう。
「ぼくたちがマルタ・アルゲリッチに初めて会ったのは2000年のこと。スイスのルガーノ音楽祭に呼ばれたのが最初なんだ。こんなにすばらしい偉大なピアニストと共演できるなんて、まるで夢のようだった。彼女の演奏は情熱的でスリリング。ものすごく仕事熱心な人なので、ぼくも集中力をもって取り組まないといけないと、全神経を集中させたよ」
 これに続けてルノーが語る。
「ぼくはスティーヴン・コヴァセヴィチ、フランク・ブラレイをはじめとする多くのピアニストと組んで演奏しているけど、アルゲリッチのピアノはまさにヴァイオリニストを大空へとはばたかせてくれると感じた。ぼくは共演者を限定せずに、レパートリーによっていろんなピアニストと組みたいほうだから録音でもさまざまな人と共演しているんだけど、アルゲリッチは本当に偉大だと思った。いろんなピアニストと組むと、いろんな色彩が生まれる。それを楽しみ、ぼくの音楽がそのつど変化していくのを楽しんでいる」
 ルノーとゴーティエは、5歳違い。ルノーの5歳上に姉のオードがいて、彼女は長年ピアノを勉強していたが、現在は音楽家ではなく他の仕事に就いている。ただし、新譜の「インヴェンションズ〜ヴァイオリンとチェロのデュオ・アルバム」では最後の1曲、クライスラーの「ウィーン風小行進曲」でピアノを担当している。ゴーティエがいう。
「両親は音楽家ではないけど大の音楽好きで、家にはいつも音楽が流れていて、僕は4歳半でチェロを始めた。ルノーが弾いていたからヴァイオリンは大嫌いだったし(笑)、ピアノはお姉ちゃんにとられた。それで小さなチェロに出合ったんだけど、これに一目ぼれ。まさしく自分の楽器だと思ったわけ。9歳から10歳くらいのころかな、漠然とだけどチェリストになりたいと感じていたよ」
 彼とは異なり、ルノーは7歳のときに自分はヴァイオリニストになると自覚した。
「5歳のころにヴァイオリンのCDを買ってもらって、それがオーギュスタン・デュメイの録音だった。その数日後に、両親がデュメイのリサイタルを聴きに連れて行ってくれたんだ。ナマのヴァイオリンの音色を聴いて、その美しさにショックを受けたね。ぼくもあんなふうにヴァイオリンを弾きたい、と夢見るようになった。デュメイの音に恋をしたんだ。それから実際に彼からいろいろアドヴァイスをもらうようになったんだけど、ぼくはすごくちっちゃくて、デュメイは190センチくらいあるから、いつも上を向いて話を聞いていて首が痛かったなあ」

グァルネリ・デル・ジェス1737とマッテオ・ゴフリラー1701

ヴァイオリンという楽器は不思議なもので、向こうから語りかけてくる




 ルノーは1年前までデュメイが以前使っていた1721年製ストラディヴァリウスを弾いていたが、現在はスイス銀行から貸与された1737年製グァルネリ・デル・ジェスを使っている。これは50年間、アイザック・スターンが弾いていた楽器だ。
「楽器はその前に弾いていた人の音がするといわれるため、スターンの音がしますかとよく聞かれるけど、それはなんともいえない。確かに長年スターンとの強い絆があった楽器だからその音を覚えているかもしれないけど、ぼくが弾いているとぼくの音になってくるから…。でも、スターンの魂が宿っていると感じることはあるよ。なんだかミステリアスな感覚だよね」
 実は、この楽器を貸与されるときに、ユーディ・メニューインが弾いていた楽器もあった。だが、それは選ばなかった。
「ヴァイオリンというのは不思議なもので、向こうから語りかけてくる。メニューインの楽器を弾いたときに、この楽器はぼくに語りかけてはくれなかった。恋愛と同じようなもので、相性なんだろうね。スターンの楽器は語りかけてくれ、すぐに呼応できた。楽器との出合いはタイミングもあると思う。このグァルネリは男性的で野性的で、奥深い音色が持ち味。5年前に出合っていたら、選ばなかったかもしれない。自分の成長がちょうどこの楽器に合っていたのだと思う」
 レナード・バーンスタインはスターンのために「セレナード」を作曲して献呈し、スターンはこの楽器で初演を行った。ルノーはこの楽器を手にした瞬間から、「セレナード」をいつか弾きたいと願うようになった。
 一方、ゴーティエの楽器はマッテオ・ゴフリラー1701年製。2000年に貸与され、6年間弾き込んでいる。
「ぼくはゴフリラーとモンタニャーナのチェロの響きが好きなんだ。ストラディヴァリのチェロは華やかで輝かしい音色がすばらしいけど、ぼくは渋くて野性味あふれ、しかも繊細さと情熱を併せ持つ音色の楽器が好みなんだよね。ここでいう野性味というのは、出てくる音を表現するだけではなく、楽器そのものが本来もっている性格を意味している。それをぼくがどのように引き出し、響かせるか。そこが問題なんだ。ゴフリラーは結構気難しい楽器で、なかなか思うような音が出ない。仲良くなるために四苦八苦するし、いまでもまだお互いに深く知り合うための発展途上の段階。でも、恋愛でもそうでしょ。あまりスムーズにいくとつまらない。追求していくとどんどん味が出てくるほうが面白いよね」

探求心旺盛な兄と直球型の弟




 このふたり、顔も似ていなければ、性格もまったく異なる。もちろん音楽性も違う。質問をするとすぐにゴーティエが話し出すため、ルノーは常に受けに回る。それゆえフラストレーションがたまるらしく、突然叫び出す。
「お前、少し黙れよ。ひとりでしゃべりまくってさ。いまはぼくが質問されているんだから」
 するとゴーティエは神妙な顔を見せる。
「うんうん、わかったよ。それじゃ兄貴、いっぱい話すといいよ」
 そこで、ルノーが趣味の話を始める。
「ぼくは旅から旅の生活なので、時間があるときは自然のなかをウォーキングするようにしているんだ。詩を読んだりするのも好きだよ」
「なに、気取ってんだよ。ぼくは古いジャズが好きなんだ、スキーもね。ルノーはすごく子どもっぽいんだよ。気分がすぐれないとすぐに機嫌が悪くなるし、いつも夢見るようなフワフワした顔しているしさ」
「そんないい加減な人間みたいにいうなよ。なんだよ、自分こそ短気なくせに」
 またまたことばのバトルが始まる。演奏と同様、その対話はあるリズムに支えられ、躍動感に満ち、真剣さとコミカルな味わいが混在している。ただし、ルノーは弟を反応が早く直感型の人間で、非常に多くのものを自分にもたらしてくれるといい、ゴーティエも兄の探求心旺盛でいつも新しい分野に興味をもつ姿勢を高く評価している。
 彼らは現代の作曲家とのコラボレーションにも積極的に取り組み、エリック・タンギー、ティエリー・エスカイヒ、カロル・ベッファのヴァイオリンとチェロのための新作を大いなる喜びをもって演奏している。次世代に残したいと。
 欧米の音楽祭から引っ張りだこの人気者のカプソン兄弟。ふだんはそれぞれ別の活動を行い、ときどきデュオを行う。流麗で輝かしい音色のルノー、パワフルで熱いパッションを感じさせるゴーティエの響き。フランスから世界の舞台に飛び出した実力派のふたりに、いま世界が注目している。

 今日の写真はその雑誌の一部。記事を読むとあまり「爆笑」という感じがしないかもしれないけど、実際はずっとおなかを抱えて笑っていたほど。ふたりのバトルがすごくユニークで、いま思い出してもおかしさがこみあげてくる。
 その後、ゴーティエにインタビューで会ったとき、「今回はひとりのインタビューだわ」といったら、「やったね」とVサインを出していた。つい先ごろ、ルノーに電話インタビューをしたときも同じことをいったら、「ああ、よかった」と笑っていた。ホント、このふたり、おかしい!


| インタビュー・アーカイヴ | 18:49 | - | -
ワレリー・ゲルギエフ
 いま、10月に来日するワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団のプログラム原稿を書いている。
 ソリストとして参加する、ピアニストのネルソン・フレイレの原稿である。フレイレは私の大好きなピアニスト。今回は録音も行っているブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏する予定だ。
 その原稿を入稿したら、以前ゲルギエフにインタビューしたことを思い出した。オペラの本番前の、超がつく時間のないインタビューで、冷や汗をかいたことを覚えている。
 インタビュー・アーカイヴ第59回は、そのゲルギエフの登場だ。

[ATES 2008年5月号]

世界にロシア魂を! 止まらないマエストロの夢。

「どんなリスクも、いい音楽を生み出すためだったら喜んで背負います。リスクのない人生など考えられないから。これまで数多くの困難に遭遇してきましたが、いつもはるか先にある自分の夢に向かって走り続け、困難を克服し、夢を実現に導いてきました」
 かつてのロシア帝国の首都、サンクトペテルブルクを代表するオペラとバレエの劇場、マリインスキー劇場の芸術監督ワレリー・ゲルギエフは、低音の迫力に満ちた声で語る。彼が劇場を任されたのは1988年、35歳のとき。ロシアがまだ経済的に大変な時期で、演目もロシア作品が中心。予算を必要とする他国の作品を演奏することすらできなかった。オーケストラも歌手もダンサーも、みな意気消沈。そんな彼らに向かい、ゲルギエフは胸の内を明かす。
「資金調達は任せてくれ。みんなは音楽に集中して、練習で成果を出してほしい。困難な時代だからこそ人々は芸術を求めている。必死でいいものを作り出せば、いまに世界がマリインスキー劇場を招いてくれるようになる。そのときにロシア魂を示そうじゃないか」
 ゲルギエフは政府に掛け合って予算を確保し、徐々に演目の幅を広げていく。やがてヨーロッパ各地、アメリカ、日本公演を実現。いまや世界各地のオペラハウス、コンサートホールのなかで、もっとも海外公演の多い劇場となった。
 そして昨年、新コンサートホールをオープンさせ、現在新たなオペラハウスも建設中だ。
「いま、世界的にクラシック離れが加速しています。それを止めるために、若者や子どもたちに年に1回は劇場に足を運んでもらえるような楽しいプログラムを考慮中です。常に時代に合った新しい試みをしていかなければ、伝統的なクラシック音楽は生き残れない。人類の偉大な財産を次世代に受け継ぐため、また新しいリスクを背負います」
 睡眠時間を削り、融資を求めて飛び回るマエストロの姿に、劇場に携わる全員が惜しみない拍手を送る。そして自らの芸術を磨く。サンクトペテルブルクを文化、芸術の発信地にしたいと願うゲルギエフの夢には、プーチン大統領も賛同。近いうちに、古都は大変貌を遂げるに違いない。

 以前、このときの様子をブログに綴ったが、とてつもなくタフなマエストロに、居合わせた全員が脱帽。まさにエネルギーの塊だった。
 今日の写真はその雑誌の一部。写真撮影にも非常に協力的だったが、なにしろ分刻みのスケジュール。すべて終わったときは、全員で床にへたりこみそうになった。いい思い出だけど(笑)。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:36 | - | -
ダヴィド・ゲリンガス
 リトアニア出身のチェリスト、ダヴィド・ゲリンガスは1946年ヴィリニュス生まれ。モスクワ音楽院でロストロポーヴィチに学び、1970年のチャイコフスキー国際コンクールで優勝に輝いている。以後、各地で活発な演奏活動を展開し、指揮者としても活躍。後進の指導も積極的に行い、ベルリン・フィルにはゲリンガスの教え子が多数いるという。
 インタビュー・アーカイヴの第58回はそのダヴィド・ゲリンガス。現在はドイツ国籍で、ヴィリニュスのリトアニア室内管弦楽団の常任客演指揮者を務め、2006年4月からは九州交響楽団の首席客演指揮者も務めている。

[弦楽ファン 2006年 第6号]

ロストロポーヴィチ! 彼はまさに新しい領域へと私を導いてくれた

 チェリスト、指揮者、名教授として知られるダヴィド・ゲリンガスは、古典から現代作品まで幅広いレパートリーをもつ。作品の初演にも積極的に取り組み、6月の東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会では、クリスチャン・ヤルヴィの指揮により、ヤルヴィの同郷エストニアの作曲家、エルッキ=スヴェン・トゥール(1959〜)の「チェロ協奏曲〜電子チェロと管弦楽のための協奏曲」の日本初演を行った。

オーケストラはチェリストの音を聴こえなくしてやろうと大きな音でガンガン演奏する(笑)

「チェロ協奏曲〜電子チェロと管弦楽のための協奏曲」が完成したのは1997年。同年3月、スイスのローザンヌでゲリンガスのチェロ独奏で初演が行われている。独奏パートでは以前から愛用しているヤマハのサイレント・チェロが用いられている。
「最初にサイレント・チェロに出合ったときは、隣人といい関係を築くために大いに利用したものです。なにしろサイレントですから(笑)。コンサート終了後、真夜中にホテルで練習するときにも最適。私は新しいことを学ぶ、新しい領域に踏み込むことが大好きで、これはアンプにつなげば音量も自在。ギターのような音も出せる。新しい音楽を作るパートナーとして欠かせなくなったんです」
 トゥールの作品はリズミカルでノリがいい。難解ではなく、チェロの超絶技巧も楽しめる。
「彼は建築家なんですよ。ですからフォルムに対して明確なイメージがあり、コンセプトが決まっている。ここは弾きにくいからこうしてほしいといっても、それを変えることはないですね。作曲家はふたつのタイプがあり、自分の作品はこう演奏してほしいと主張する場合と、最初から演奏家と創造的なプロセスを分かち合うタイプと。トゥールの場合はよくその性格を知っていますから、練習で完璧に内容を把握するように努めました」
 サイレント・チェロにはひとつ興味深いエピソードがある。以前、モスクワ音楽院大ホールでコンサートを行ったときだ。このとき、少しだけ音量を大きくする試みをした。
「ロシアのオーケストラは音量がすごい。これに対抗するため、リハーサルのときにチェロの音量を増やしてみた。するとステージマネージャーが飛んできてオーケストラの音が聴こえないって叫ぶんです。オーケストラというのは、いつもチェリストの音を聴こえなくしてやろうと大きな音でガンガン演奏する。世界中のチェリストはそれにいつも耐えているんです。私はみんなを代表して、ちょっとリベンジをしてみたわけです(笑)」

自分ができないと思ったことをやっていくのが人生なんだ


 ゲリンガスは一見するととても真面目で、演奏と同様に真摯で前向きで自己にきびしい性格だと思われがちだが、実は大のジョーク好き。話の随所に冗談がちりばめられる。
「でも、レッスンはきびしいですよ。いま私のクラスには多くの優秀な生徒がいますが、彼らにいつももっとうまくなりたいのなら練習しなさい、何かを達成したいのならまず練習することと教えています。私は6歳のときからずっと練習練習の日々でした。練習は義務ではなく、必要なものなのです」
 趙静もゲリンガスのクラスで磨きをかけ、昨年ミュンヘンARD国際コンクールのチェロ部門で優勝の栄冠に輝いた。彼女もいつもいっている。「ゲリンガス先生は少し練習を怠ると、すぐに見破るから怖い」と。
「幼いころ母によくいわれたものです。壁にぶつかったり乗り越えられない壁があると感じたら、その先を見なさいと。壁はいつか必ず超えられる。限界は超えるためにあるのだと。そのために練習を一生懸命すればいいのよと」。
 ゲリンガスは子どものころ、練習してもできない箇所があったり、悩みがあるときにはいつも母親に「だって、できないんだもん」と訴えた。すると、前述のことばが返ってきたのだという。
 そして彼女は、スペインの建築家、エデュアルド・チリダのことばを教えてくれた。
「自分ができないと思ったことをやっていくのが人生なんだ」
 母親は何事も最後まであきらめてはいけないという姿勢も植えつけてくれた。できないことにぶつかったら、まずそれにとことん取り組んで終わらせるよう努力する。すると、その先のプロセスが見えてくるといった。
「いま、私のなかにこの教えが生きています。音楽家は常に新しい作品と出合い、それを学び、自分のものとし、自己を発展させていかなければならない。歩みを止めたらおしまいです。学ぶことは生涯続く。終わりのない道程です。恩師のロストロポーヴィチからもこの姿勢を学びました。彼はピアノも弾くし、指揮もする。本当に多才な人で、私にとっては音楽の上で父のような存在です。学生時代からいつもロストロポーヴィチのようになりたいと願っていました。彼は現存する多くの作曲家と友人のような交流をもっていましたが、それを引き継がせてくれました」
 ロストロポーヴィチの話になると、表情が締まる。母親の話のときは柔和な表情だったが、まるで異なる顔がそこには浮かび上がる。
「ロストロポーヴィチに教えられなければ、現代作品への道を歩むことはなかったと思います。彼はまさに新しい領域へと私を導いてくれた。指揮も同様です。私は昔から指揮者やオーケストラ作品への興味を抱いていたのですが、実際に始めたのはロストロポーヴィチの影響が大きいのです」
 
バッハの無伴奏チェロ組曲は私の毎日の糧

 今春から九州交響楽団の首席客演指揮者としてタクトを振っているが、他にもリトアニア室内管弦楽団の常任客演指揮者も務める。
「指揮をしていると、新しい作品に出合えるチャンスが増える。でも、チェロの比重は減りませんよ。バッハの《無伴奏チェロ組曲》は毎日必ず弾いていますし…」
 この作品は10歳のときに弾き始めた。当時のソ連では楽譜を手に入れることも困難を極めたため、自分の楽譜をもつことができ、しかもあこがれのバッハを演奏することができ、喜びでいっぱいだった。第1番から練習をした。
「この作品は私の毎日の糧”です。すべてのチェリストにとってのバイブルともいえます。バッハの作品は尽きることのない泉のようで、いつもその純粋性に心打たれます」
 ゲリンガスは練習に疲れると夫人とともに映画や芝居を見に出かけるという。長男は役者であり、ポップスの作曲家であり、脚本や演出も手がけるマルチな仕事をしている。
「息子が芝居への道を拓いてくれました。彼が作曲したCDで70万枚売れたものがあるんですよ。私の録音は一生かかっても、全部でこの数には到底及ばないのに(笑)。息子には最初チェロを教えたんですが、一家にチェリストはひとりでいいと止めてしまった。でも、先日チェリストの役を演じるんで、20年ぶりにチェロを引っ張り出して半年間弾いていた。なんだかうれしかったですね」
 チェリストは飛行機でも楽器のために一席用意しなくてはならない。いつも楽器ケースはシートにゆったりともたれかかれるように置く。すると客席乗務員にこういわれる。
「あら、お隣の席には女性がいるみたい」
 ゲリンガスは得意満面で答える。
「そうなんですよ。このケースには、実は愛人が入っているんです」
 1761年製のガダニーニのチェロは、1978年からずっとゲリンガスとともにある。購入するときはお金がなく、ロストロポーヴィチに「先生、ぼくのために買ってください」と頼み込んだが、彼はひとこといい放った。
「きみ、人生にはふたつ自分の力で手に入れなくてはならないものがある。妻とチェロだ」
 ゲリンガスがガダニーニを自分の力で手に入れたことはいうまでもない。

 今日の写真はその雑誌の一部。サイレント・チェロを弾いているところだ。


 
 
| インタビュー・アーカイヴ | 22:13 | - | -
ロリン・マゼール
「鬼才」と称された指揮者、ロリン・マゼールが7月14日、肺炎およびその合併症により亡くなった。享年84。
 マエストロ・マゼールには何度かインタビューを行い、演奏も聴き続けてきた。記憶力がハンパではなく、私が撮ったウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのときの写真を希望されたことから、会えなくなってしまった。そのいきさつは、2012年12月11日のブログに綴った。ご興味のある方は、そちらをクリックしてくださいな。
 今日はマゼールを偲んで、もう一度「インタビュー・アーカイヴ」第57回で以前とは別の雑誌の記事を紹介したいと思う。一部、記事が重複している部分もあるけど、そこは飛ばしてね。
 マゼールはいつ会ってもエネルギッシュで、雄弁で、前向きな姿勢を崩さない人だった。

[BS fan 1993年6月号]

「このオーケストラで聴くドイツ音楽だったら文句はないでしょう」

 カラヤン亡きあと、ベルリン・フィルの音楽監督候補の最右翼といわれたマゼールが、その地位をアバドにさらわれるや「もう2度とベルリン・フィルの指揮台には立たない」と爆弾発言をしてからはや3年半。ウィーン国立歌劇場の総監督を辞すときも、フランス国立管弦楽団の音楽監督をやめるときも、常に物議を醸してきたマゼールだが、1988年からは故郷のピッツバーグに戻り、同交響楽団の音楽監督に就任して、このオーケストラをより向上させることに力を注いできた。そして今年、いよいよドイツ・オーケストラ界のもう一方の雄、バイエルン放送交響楽団の首席指揮者に就任することになった。
 バイエルン放送交響楽団は1949年に創設され、リヒャルト・シュトラウスの指揮によって幕開けした歴史と伝統を誇るオーケストラ。ドイツ音楽をレパートリーの中心に据え、重厚で豊かな響きをもつドイツ音楽の王道をいく演奏を聴かせる。
 マゼールが今年から5回(1年から1年半おきにわが国で定期的に行う)にわたって行うコンサート・シリーズの第1回目に、彼はこのオーケストラを選んだ。
「バイエルン放響はドイツのエリート・オーケストラです。私のディレクションによるシリーズの第1回には、ぜひともドイツ音楽をもってきたかった。それも水準の高い演奏をね。このオーケストラで聴くドイツ音楽だったら文句ないでしょう。磨き抜かれた響きと、からだのなかに染み込んでいるドイツの伝統が音となって出てきますから」
 マゼールは今回スポンサーとの話し合いのなかから、プログラムのテーマを決めた。これはスポンサーのシンボルキャラクターであるスワン(白鳥)である。「ローエングリン」の主人公である騎士ローエングリンは、白鳥の曳く小舟に乗って登場する白鳥の騎士であり、シベリウスの交響曲第5番は、湖をわたっていく白鳥を見て曲想を得たというシベリウス自身の記録が残されている。そしてブラームスの交響曲第2番は別名「田園」と呼ばれているように、風光明媚な湖のほとりで自然を満喫しながら書かれた牧歌的な曲である。
「それらの作品の底に流れる優雅さ、気品などの表情をテーマとして取り上げたわけです。白鳥は美や音楽の象徴ですし、第1回のテーマにピッタリだと思ったんでね」
 彼はひとつのテーマに基づいてプログラムを作るのが好きなようだ。以前来日したときは、自然をテーマに全プログラムを組んだ。
「本当は演奏家というのは、その場所、時間、その場の空気などから霊感を得て演奏するのが一番いいんだけど、現在はなかなかそうはいかない。インドの伝統音楽などはいまでもその方法を忠実に守っているけど…。昔はアンコールを100曲くらい書いた紙を聴衆に配って、ところでみなさんはどんな曲が聴きたいのかな”と声をかけ、2時間くらいアンコールをしたなんていうことがあったらしいけど、こういうのいいよね、理想だな」
 マゼールはこのように録音よりもナマの演奏会で燃える指揮者だ。瞬間瞬間の表情が著しく変わり、音楽は異様なまでの高揚感を見せ、ありったけの情熱をステージにぶつける。他に類を見ないほどの記憶力のよさ(どんな曲でも全暗譜)と、緻密な解釈、オーケストラをタクト1本で自在に操る偉大な才能を持ち合わせているから、さぞクールな素顔の持ち主かと思うと、あにはからんや、非常にフランクで饒舌である。
 彼はシベリウスが昔から得意で、最近録音でも積極的に取り上げている。
「第5番は前作がプツッという感じで終わっているのに対し、十分に準備されてフィナーレへの道が開かれていたから成功作となったのではないだろうか。私はこの曲ではのどかで抒情的な味わいを出したいと思っている」
 ワーグナーとブラームスという、両ドイツ音楽の厚みのある和音と、北欧の涼やかな調べは、マゼールのぐんぐん高みへ上り詰めていくような指揮ぶりで渾然一体となり、聴き手の精神をいやか上にも高揚させていくに違いない。

 このときのコンサートの様子を、別稿で書いた。

マゼールの魔術に興奮の坩堝と化した感動の一夜

 4月5日のバイエルン放響のコンサートは、3曲のアンコールが終わってもまだ拍手が鳴りやまず、会場は興奮の坩堝と化した。
 マゼールは1曲目のワーグナーでは神秘的な美しさを弦と木管から引き出して、このオーケストラのアンサンブルの見事さを示し、シベリウスではオーケストラの機能美を充分に発揮させた。ヴィオラやチェロのピッツィカートは鋭く、金管もはげしく咆哮する。しかし、それがけっして強い響きではなく、あくまでもやわらかな、森の奥から聴こえてくるような深さをもっているのはさすがドイツの名門オーケストラだ。
 それはブラームスで全開し、マゼールは自然賛歌の美しい旋律を、オーケストラの名人芸を充分に考慮しながら一幅の絵画のように鮮やかに描き出した。
 聴き終わった後に、熱い感動が心に残る、マゼールのタクトの魔術にかかった一夜となった。

 今日の写真はその雑誌の一部。ぜひ、もう一度会って話を聞きたかったが、かなわぬこととなってしまった。彼の両親は非常に長命だから、自分も長生きすると語っていたことが忘れられない。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:26 | - | -
ラン・ラン
 ラン・ランは、いまやクラシックのピアニストという枠を超え、完全なエンターテイナーとしての地位を確立している。
 4月27日にサントリーホールで行われたリサイタルも、いまのラン・ランの輝かしいキャリアを象徴する形となり、すべての演奏がユニークな表現、解釈に彩られていた。
 それがホールを埋め尽くした聴衆の心をとらえ、最後は歓声と嵐のような拍手に包まれ、ラン・ランもそれに応えて両手を広げてステージの全方向の聴衆に向かってそれぞれの場所であいさつ、カリスマ性を発揮していた。
 今回の来日公演のプログラムは、前半がモーツァルトのピアノ・ソナタ第5番、第4番、第8番。後半がショパンのバラード全4曲。
 いずれもラン・ランの強烈な個性が発揮された演奏で、とりわけ印象的なのがルパートの多用と、自在なテンポ。ふつうはこうした演奏を長時間聴かされると、作品ではなく奏者が前面に出るため疲れてしまうが、そこはテクニック完璧なラン・ランのこと。非常に自由闊達、嬉々とした演奏となり、一瞬たりとも演奏が揺るがない。あたかも自身が作曲した曲のように楽しそうに楽器を鳴らし、ピアノと遊んでいるよう。
 最初の1音が響いたときから「ラン・ラン劇場開幕!!」という感を強くした。
 この公演評は、次号の「モーストリー・クラシック」に書く予定だ。
 というわけで、「インタビュー・アーカイヴ」第56回は、ラン・ランの登場。何度もインタビューを行っているが、今回は大きな飛翔を遂げたころの彼の素顔を紹介してみたい。

[男の隠れ家 2008年2月号]

これからは技巧に頼らず、表現力と音楽性を深めたい

W杯の前夜祭コンサートから映画のサントラ、中国の国家行事まで多彩な活動をエネルギッシュにこなしているラン・ラン。
世界に目を向けたアジア期待の星は、新譜のベートーヴェンのコンチェルトでもワールドワイドに高い評価を受けている。


 中国出身の若手ピアニスト、ラン・ランは、来日ごとに演奏、風貌が著しく変貌していく。1995年に仙台で開かれた第2回若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクールで優勝した。当時は、髪は刈り上げ、中国服が似合う朴訥なタイプだったが、徐々に洗練され、現在では自信に満ちた、国際舞台で活躍するピアニストとしての風格をただよわせるようになった。
 演奏も急速に成熟度を増し、新譜のクリストフ・エッシェンバッハ指揮パリ管弦楽団とのベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、第4番では、精神性の高い作品の内奥に迫る内省的な演奏を披露している。
「マエストロ・エッシェンバッハは第2の父ともいうべき大切な存在。ぼくの演奏が新聞で酷評されたときも、彼だけは励まし、勇気づけてくれた。常に、音楽家としてどうあるべきかを教えてくれます」
 数年前までラン・ランの演奏は音のダイナミズムが広く、楽器を豊かに鳴らすエネルギッシュなものだった。スケールが大きく、超絶技巧をものともせず、おおらかさが特徴だった。だが、最近は情感豊かで、繊細さや緻密さなどを重視する奏法に変わりつつある。
「それを教えてくれたのがエッシェンバッハです。技巧に頼らず、表現力と音楽性を深めていくことが大切だと。それを習得するのはとても時間がかかります。ベートーヴェンの第4番は作曲家の苦悩や孤独、心の痛みなどが込められた濃厚な味わいの協奏曲。そこに到達するまでは大変な努力を強いられます。でも、いまはこうした深い洞察力を要する曲が大好きです」
 ラン・ランに会った人は、みなそのエネルギーに圧倒され、おおらかな笑顔に引き込まれ、よく通る声で早口でまくしたてる話術に刺激を受け、大陸的なキャラクターにその音楽を重ねるようになる。現在、25歳。欧米とアジアを飛び回って多忙な演奏のスケジュールをこなし、中国では8本のCMに出演、国家的な行事にも参加し、北京オリンピックでも演奏する。
「前回のW杯では開会式のコンサートで演奏することができたし、先日はアメリカで荒川静香さんのスケーティングに合わせてリストの『愛の夢』を弾いた。映画のサントラにも参加しているし、環境問題の活動も行っている。こうしたことがすべて演奏を肉厚なものにしてくれる。いろんなことに挑戦したいんだ」
 前向きな精神と才気あふれる演奏が指揮者たちを引き付け、ダニエル・バレンボイムやワレリー・ゲルギエフ、ヴォルフガング・サバリッシュらとの共演が目白押し。2008年は小澤征爾と初共演の予定もある。
「もっとも勉強になるのは実践の舞台です。特に偉大な指揮者から学ぶことは多く、一度で何十回もの学校のレッスンに匹敵する。密度が濃く刺激的で、自分が一歩前に進めたと実感することができるんです」
 いま中国ではラン・ランにあこがれ、ピアノを習う子どもが急増中。第2のラン・ラン登場も時間の問題だ。

 このときから現在まで、さらに高いステップへと駆け上がり、ラン・ランはいまやひとつの“ブランド”となっている感じだ。いま、彼は中国の数か所に自身の名を冠した学校を創設し、若手ピアニストの育成に尽力している。その熱意たるやすごいものがあり、最近のインタビューではこの学校のことになると、話が止まらなくなる。
 今日の写真は2008年の雑誌の一部。おしゃれになったよねえ。昔を知っている私としては、驚きっぱなし。いつも会うたびにそのことを口にし、ラン・ランに「また、それだあ」と苦笑されている。


 
| インタビュー・アーカイヴ | 22:31 | - | -
ゾルタン・コチシュ
 ハンガリーが世界に誇るハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団が、音楽監督のゾルタン・コチシュとともに6月に来日し、各地でコンサートを行うことになった。指揮は、桂冠指揮者を務める小林研一郎も振ることになっている。
 コチシュといえば、ピアニストとして活躍していた時代を記憶している人も多いのではないだろうか。そのコチシュにあこがれていたのが、ハンガリーの血を引くピアニストで、バルトーク国際コンクールで優勝した金子三勇士である。
 今回の来日公演では、その金子三勇士がコチシュの指揮のもと、リストのピアノ協奏曲を演奏することになり、大きな話題を集めている。
 インタビュー・アーカイヴの第55回は、ゾルタン・コチシュの登場。彼のことをもっと知ってもらいたいと思い、来日前に紹介することにした。もうかなり前のインタビューだが、ぜご一読を。

[ムジカノーヴァ 2003年10月号]

ピアニスト、指揮者、編曲家… いつも一番したいことをしてきました

指揮で得たピアノのうたわせ方 

 ハンガリーのピアニスト、ゾルタン・コチシュが同郷のアンドラーシュ・シフ、デジェー・ラーンキとともに「ハンガリーの若手三羽烏」と呼ばれ、次代を担うピアニストとして注目されてからすでに30余年が経過した。この間、シフはJ.S.バッハやシューベルトの演奏で国際的な評価を得、ラーンキはアイドル的な人気から脱皮、近年はベートーヴェンやラヴェルなどに意欲を燃やしている。
 一方、ピアノのみならず作曲も勉強したコチシュは、最近ではオーケストラのために編曲し、自ら指揮も行い、ピアニスト、編曲家、指揮者と多彩な活動を展開している。
「私は子どものころからピアノだけではなく、さまざまな分野に興味をもっていたんです。8歳のころはベートーヴェンの交響曲全部を暗譜し、タクトを振るまねをしていたくらいですからね。ものすごく好奇心が旺盛な子どもだったんですよ。それが大人になり、まずはピアニストとして世に出た。そう、多くの仲間がいましたよ。でも、私は人と同じ道をいくのではなく、わが道を常に模索していた。ピアノを弾いていると、いつもオーケストラの音が耳の奥で鳴っていたものです。ちょっと人と違うでしょう(笑)。それが高じてオーケストラの創設にかかわってしまった。いまではオーケストラ抜きの生活は考えられません」
 1983年、コチシュはイヴァン・フィッシャーとともにブダペスト祝祭管弦楽団を創立し、87年からは定期的に指揮台に立つ。さらに97年にはハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任した。
「昔から指揮者になるのは夢でした。でも、正式に指揮を勉強したことはないんです。実践と経験で学んできたというべきでしょうね。私は指揮者のもっとも大切な面は、聴衆の目には見えないところで行われることだと思っています。リハーサルなんですよ。リハーサルで楽員ひとりひとりの気持ちをつかみ、彼らの能力を最大限発揮できるようリードすることができれば、本番は任せられます」
 ピアニストとして、指揮者として順風満帆に進んでいるように見えるコチシュにも、辛い時期はあった。
 伝統あるブダペスト国立フィルの音楽監督に就任したさい、よりよい方向を目指してメンバーチェンジを行ったときである。長年オーケストラに在籍していた楽員にやめてもらい、新しい実力のある楽員に入れ替える。当然、楽員側との衝突が起こった。
「最終的には演奏の質を向上させたいという私の願いが聞き入れられたわけですが、やはりかなり困難を伴いました。2000年10月に新メンバーで初のコンサートを行い、それが大成功を収めたときは、本当にうれしかったですね。このオーケストラのためにもっと力を尽くさなくては、と思いを新たにしました」
 今年6月、ハンガリー国立フィルとの来日公演ではドビュッシー、バルトークなどの作品を指揮、モーツァルトのピアノ協奏曲第27番では弾き振りを披露した。
 そこには演奏することが楽しくてたまらない、といったはつらつとした表情のコチシュがいた。以前は、多分にストイックな面をステージで見せ、音楽も内面に向かっていく印象が強かったが、現在の彼はオーケストラとともに音楽を心から楽しみ、演奏が開放感に満たされている。
「それはオペラを経験してきたからでしょうね。私はリヒテルとシューベルトの作品で共演したことがあるんですが、リヒテルも最初は劇場で仕事をしていた。オペラを肌で感じ、オーケストラの響きを耳に浸透させ、それらをピアノに投影させたんです。旋律を豊かにうたわせることを心がけた。私もオーケストラを指揮することにより、ピアノをうたわせる方法を学びました。
 リヒテルの影響は共演したときではなく、もっとあとになって徐々に現れてきました。不思議でしょう。リストのコンチェルトを弾いているときに、ふと感じたりするんですよ。ひとつのフレーズをうたわせたいと思うときにね」

 
大切なのは「様式」

 コチシュは多くの作品の世界初演も行っている。それはピアニストとしてばかりではなく、オーケストラの指揮においても。さらに彼の好奇心、前向きな視線は次なる地平線に注がれている。
 ピアノ作品などをオーケストラ用に編曲することである。これまで多くの作品の編曲を手がけてきたが、完成したばかりの作品はバルトークの《20のハンガリー民謡》。原曲は歌曲で、1929年の作。バルトークが器楽化を考えなかった15曲を含み、今回全曲オーケストラ用に編曲した。
「きっとバルトークは忙しすぎたのでしょう。私も時間がたりない生活を送っているのですが、この編曲にはかなり時間をかけました。こうした新しい試みを行うと、オーケストラの楽員が新鮮な感覚を抱き、熱心に練習をしてくれるのです。今回、日本で行った演奏会形式によるバルトークの歌劇《青ひげ公の城》のような作品も、今後多くオーケストラで取り上げていきたいと考えています。色彩感のある響きを出すこと、旋律を人間の声のようにうたわせること、各々の楽器の音を聴き合うこと、作品の様式を把握することにつながるからです。
 私はこの様式ということをもっとも大切に考えています。各作品の様式を踏まえた演奏をすることができなければ、音楽はつまらないもの、意味合いの希薄なものになってしまいます。様式のない演奏を聴かされるほど退屈なものはないでしょう。作曲家はそれぞれの作品に様式を盛り込んでいる。それを楽譜から読み取り、その作曲家特有の意図を見出さなければ演奏する価値はなくなってしまいます」
 様式ということばをコチシュは何度も使った。それはそれぞれの作曲家らしさ、個性を意味し、作品がもつ特有の世界を演奏で描き出すこと。それをつかみ取るには、とにかくいろんな音楽を聴くことが大切だと力説する。
「クラシックばかりではなく、ジャズやロックやあらゆる音楽に興味をもつことが大切だと思います。ピアノを学ぶ学生はとかくピアノ音楽だけにしばられがち。それでは視野は広がらないし、楽しみも限定されてしまう。もっと世界を広げなくては。
 私はブダペストの家に、膨大なレコードコレクションをもっていますが、暇さえあればいろんな人の録音を聴いています。人間、学ぼうと思えば何からでも学べます。好奇心をもって、本当に好きなことをする。そこから力が湧いてくるんですよ。
 ピアノの練習、それも結構。一日何時間も楽器に向かうのはピアニストの宿命です。でも、疲れたら本当に自分がしたいことは何かを考えてみてください。私はいつも自分がいま一番したいことをしてきました。そのためには努力を惜しまない。だって、好きなことなんですから。好きなことなら努力するでしょう」
 コチシュの表情は自信に満ちていた。好きなことを存分にしている人の顔だ。さて、自分はいったい何がしたいのか、一度立ち止まって考えてみましょうか。

 あれからずいぶんときが経った。コチシュの音楽はどんな変貌を遂げているだろうか。
 今日の写真はその雑誌の一部。久しぶりに聴く、ピアニストから指揮者への道を歩んだヴラダー(先日ブログに書いています)とコチシュ。ふたりとも、とても楽しみだ。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:15 | - | -
ピーター・ウィスペルウェイ
 昨日のウィスペルウェイの演奏の余韻に浸っているなか、今日は「インタビュー・アーカイヴ」の第54回として、彼のインタビューを振り返りたい。

 
[音楽の友 2008年4月号]

 2月3日の日曜日、東京は朝から雪が深々と降る寒い日だったが、紀尾井ホールで行われたピーター・ウィスペルウェイのJ.S.バッハの「無伴奏チェロ組曲」全曲演奏会は、冒頭から静かなる熱気に包まれた。
「この作品は力強く、地に足が着いた精神の落ち着きが見られる一方、生の躍動感がみなぎっています。舞曲を深く理解し、遊び心や歌心などさまざまな要素をバランスよく演奏に盛り込んでいかなければなりません。長年弾いていると解釈、表現は変化してきますが、各々の要素をどう混ぜ合わせるか、どんなカクテルを作り上げるかが重要になります」
 ウィスペルウェイは長年フランス製の楽器を使用していたが、数年前イギリスで発見された「奇跡のチェロ」と称されるジョヴァンニ・バティスタ・グァダニーニの1760年のチェロを手に入れた。
「以前はバロック・チェロで演奏し、アンナ・ビルスマ、ウィリアム・プリースに師事して基礎をみっちり学びました。でも、あるときイタリアの楽器を無性に弾きたくなった。その衝動が抑えられず、オークションでグァダニーニを手に入れたわけです。ええ、もちろんものすごく高い買い物でしたよ。同じ週に家も買ったんです。クレイジーでしょ(笑)。あとの支払いも考えずにね。今回はこのモダン・チェロでバッハを弾きました。弦や弓の材質はバロック・チェロと異なりますので、最初は奏法を会得するのに苦労しましたが、基本スタイルは同じです」
 1月31日には録音で高い評価を得ているドヴォルザークのチェロ協奏曲を披露したが、流麗で深々とした演奏は、作曲家の生地ネラホゼヴェスの緑豊かな景観を連想させた。
「このコンチェルトは出だしから気合いを入れ、思い入れたっぷりに演奏する傾向が見られますが、これはシンプルに演奏することが大切だと思います。作曲家は多くのメッセージを作品に込めました。演奏はその語りを雄弁に物語らせなくてはならない。でも、技巧を見せつけたり、表現過多になるのは避けなければ。それは大いなる知性が宿っているからです。高らかに旋律をうたい上げるときにも、ある種の抑制した知性が必要となる。オーケストラとの対話も非常に重要ですね。特に第2楽章はリリシズムがあふれていますから」
 師のビルスマもプリースも、どんな作品を演奏するときも創造的な芸術形態をもつことが大切だと教えてくれた。それを座右の銘としている。
「グァダニーニを手にしてから、すべての作品を一から学び直しています。それが私の好奇心を満たしてくれるからです。そして常に新しい方向、新しい道、新しい自分を探しています。見慣れた楽譜でも何か発見はないか、新鮮な驚きはないか、という目をもって探求しています」
 その好奇心は見知らぬ街の探索にも表れる。ウィスペルウェイはホテルで地図をもらい、新宿から下北沢、飯田橋、千駄ヶ谷と7時間ウォーキング。いろんな発見があったと目を輝かせる。スリムな体型は、きっとこの長時間の散歩の成果かも…。

 昨日のリサイタルでも「奇跡のチェロ」グァダニーニを使用。自然で気品にあふれ、しかも情熱的な響きをたっぷりと聴かせた。
 今日の写真はインタビューの雑誌の一部。彼はシリアスな表情で音楽論を語っているかと思うと、突然とんでもないジョークで笑わせる。昨日はCDのサイン会に多くの人が列を作っていたのだか、ひとりの女性がおそらく演奏に感動したと告げたのだろう。突然、大声で「ワオーッ」と叫び出した。その女性も、まわりの人もあっけにとられてウィスペルウェイを見つめるばかり。
 そう、そうなんですよ。この人はそういうユニークな人なんです。みなさん、ビックリしないでくださいね。感情表現がストレートな人なのです。だから音楽も実に率直で、聴き手の胸にストレートに迫ってきますよね。この感情表現のすばらしさ、ユニークさ、私はすごく気に入っていて、大好きなんですよ。サプライズがあっておもしろいもの(笑)。



| インタビュー・アーカイヴ | 20:08 | - | -
レイフ・オヴェ・アンスネス
 ノルウェー出身のピアニスト、レイフ・オヴェ・アンスネスとは、初来日以来のおつきあいになる。
 当初は欧米の人気に日本が追い付かず、コンサートも空席が目立ち、地味なピアニストと見られていた。
 そのころの悩んでいたアンスネスの姿もよく知っている私は、しかしながら彼の真の実力を信じ、自分の耳も信じ、ひたすら応援し続けた。
 いまや真の巨匠の道を着実に歩むようになり、近年は風格すらただようようになった。もちろん、演奏は自信に満ちたものとなっている。
 そんなアンスネスが4月に来日することになり、兵庫県立芸術文化センターから「初来日以来、これまでのアンスネスの歩みを綴ってください」との依頼が入った。
 そこで、「インタビュー・アーカイヴ」第53回はアンスネスの登場。これまで何度もインタビューをしてさまざまな話を聞いているが、まずは初来日のときの記事を紹介したいと思う。

[FM fan 1993年8月30日〜9月12日 No.19]

ノルウェー人は一度親しくなったら、生涯の友になる

 スウェーデンのペーテル・ヤブロンスキー、フィンランドのオリ・ムストネンとともに北欧の若手3羽烏ともいうべきノルウェーのピアニスト、レイフ・オヴェ・アンスネスが初来日した。
 今回はベルゲン・フィルとの共演で得意のグリーグのピアノ協奏曲を披露したが、グリーグの生誕150年にあたる今年は、各地でこの作品を演奏して大きな反響を呼んでいる。

――昨年2月、ベルリン・フィルの定期演奏会へのデビューでグリーグのピアノ協奏曲を演奏し、大喝采を受けましたね。そしてこの来日直前の6月15日にはベルゲン国際フェスティヴァルのグランド・ガラ・コンサートでも同曲を演奏したばかりとか。
アンスネス ええ、もう今年はグリーグ漬けです(笑)。このフェスティヴァルではいつも最終日にグリーグの協奏曲が演奏されることになっていますが、自分がそこで弾くことができるなんて、まるで夢のようでした。
 ノルウェーではいつもグリーグが演奏されていると思われがちですが、一部の作品をのぞいてはほとんど演奏されません。学校でもあまり教えてくれませんし。ノルウェーでは、この生誕150年祭でようやくグリーグが日の目を見た感じです。今年はどこにいっても彼の音楽ばかりかかっていますから。いまではグリーグはポップス歌手なみの人気を誇っています。
 ピアノ協奏曲は以前からさまざまなオーケストラと共演していますが、ベルリン・フィルとの共演は特別なものでした。室内楽的な、とても親密的な演奏ができました。ベルリン・フィルの人たちはリハーサルの最中もお互いにいろいろなことを話し合いながら音楽を作っていくんですね。この協奏曲には多分に室内楽的な要素があると以前から感じていましたので、それが確認できてとてもうれしかった。
――アンスネスさんは、ヒンデミットにも非常に関心をもっていらっしゃるようですが。
アンスネス ぼくはたった1度コンクールを受けたことがあるのですが、そのときにヒンデミットの「ルードゥス・トナリス」が課題曲のなかにあったのです。それ以後、この作曲家に魅せられています。彼が生きた時代、特に1900年から1920年ころですが、マーラーやR.シュトラウス以後、シェーンベルクやベルクが台頭してくるまでの時代の音楽に強く惹かれています。
 ぼくはなんでもきちんと決めて行うタチなので、今後のレパートリーに関しても、1995年までこまかく決めていますが、そのなかにもこの時代の作品を入れています。
――計画的で慎重なタイプなんですね。話し方もシャイな感じですし。
アンスネス スカンジナヴィア人の特質なんでしょうね。でも、ノルウェー人は大きなことはいいませんし地味ですが、一度親しくなったら生涯の友になるといわれているんですよ。
 グリーグの作品もけっして派手ではないけど、心に訴えかけるものをもっているでしょう。きれいな空気と広いスペースを感じさせる。そんな情景が浮かぶ演奏を目指しているんです。

 当時、アンスネスは口数は少なく、上目遣いに相手を見るようなシャイな性格だった。このとき、印象的だったのが、宿泊先のティールームでインタビューをしたのだが、そこにおいしそうなケーキが並んでいた。それを食べたいのだが、ひとりで注文するのは恥ずかしいといって、「一緒に食べてくれない」といわれた。もちろん、そこに居合わせた全員がケーキを注文。アンスネスは大喜びでケーキを食べていた。
 かなり年月が経過し、私がその話を思い出してすると、彼は「えーっ、きみ、とんでもないことを覚えているんだね。恥ずかしいから忘れてよ」といって、顔を真っ赤にしていた。なつかしい思い出である。
 今日の写真はその雑誌の一部。いまとはずいぶん顔の印象が違うでしょ。これでも、一生懸命「笑顔でね」と頼んだんですよ。
 実は、北欧3羽烏のヤブロンスキーとムストネンとアンスネスを称して、私は「藪蒸庵」と勝手におそば屋さんのような名前で呼んでいた。ヤブ・ムス・アンですよ、おわかりでしょう(笑)。

| インタビュー・アーカイヴ | 19:57 | - | -
フランツ・ウェルザー=メスト
 先日のウィーンとベルリン出張では、いくつかオペラを観たり、コンサートに行くことができた。
 10月2日には、ウィーン国立歌劇場でプッチーニの歌劇「西部の娘」のゲネプロを観た。指揮はフランツ・ウェルザー=メスト、演奏はウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団。主役のミニーはニーナ・シュテンメ、そしてジョンソンをうたったのが、ヨナス・カウフマンである。
 この指揮を見ながら、以前ウェルザー=メストにインタビューしたことが思い出された。
 インタビュー・アーカイヴの第52回はそのウェルザー=メストの登場。これは1992年のインタビューで、当時ウェルザー=メストはロンドン・フィルの音楽監督を務めていた。1990年にこのポジションに大抜擢され、一躍世界のひのき舞台に躍り出た若手指揮者として、大きな注目を集めていた時代だ。

[FMレコパル 1992年3月20日〜4月12日号]
 
期待の新鋭が聴かせる、エネルギーに満ちたブルックナー

 1990年秋、イギリスの名門オーケストラ、ロンドン・フィルの音楽監督に弱冠30歳で任命されて話題を呼んだオーストリア出身のウェルザー=メストが同オーケストラとともに初来日を果たした。
 来日記念盤としてリリースされたブルックナーの交響曲第7番は、従来のブルックナーとはガラッと解釈の異なる独特の現代的な演奏。
 ブルックナー晩年の傑作であるこの第7番は、どちらかというと他の交響曲よりは明るい作風をもっているが、敬愛するワーグナーの訃報を耳にしてその悲しみのなかで書かれた第2楽章などは、特に最後のホルンの響きに追悼の意味合いが含まれていて、聴き手は寂寥とした気持ちにさせられるのがふつうである。
 だが、ウェルザー=メストの演奏は単なる寂しさや悲しさの表現ではなく、その悲しみの淵から一歩出て新しいものを見出そうとするかのようなエネルギーに満ちている。全体に音楽が停滞せず、常にフットワーク軽く前進していく感じなのだ。
 ブルックナーを聴くときに抱くあの宗教的な雰囲気や、重々しい音の重なりなどはあまり聴こえてこない。深い祈りが日常化されて、ごく自然の行為となっているかのようにさらりと流れてくる。

より前衛的で革新的なブルックナーの音楽

 ウェルザー=メストはブルックナーと同じリンツの出身。彼は幼いころからここでブルックナーの音楽に親しんできた。
「最初にブルックナーの音楽と出会ったのは、ぼくが教会の聖歌隊でうたっていた8歳のころでした。交響曲ではなく宗教曲でしたが、なんて退屈な音楽なんだろうと思いましたよ(笑)。それが10歳になったときに学生オーケストラの演奏する交響曲第7番を初めて聴いて、その美しい響きにすっかり魅せられてしまったのです」
 以後、ブルックナーのとりことなってしまった彼は、いままで第2番を除くすべての交響曲を指揮している。初めてプロの指揮者として振ったのは第5番で、このときは24歳だった。それ以来、何度もブルックナーを振ってきたが、もっとも好きな交響曲は第6番だそうだ。
 ブルックナーの作品は初演当時からさまざまな人の手が加えられ、改訂や削除が行われている。それゆえ楽譜もいくつかの種類があり、今回ウェルザー=メストはノバーク版を使用。この楽譜は作曲者のオリジナルにもっとも忠実だと彼はいう。
 ブルックナーはとても人がよく、シャイなタイプだったため、きっとまわりの人々の意見を素直に受け入れてしまったのではないかというのがウェルザー=メストの考え。だからブルックナーの最初の手書き楽譜にさまざまな手が加えられ、いくつもの版が生まれてしまった。
 ウェルザー=メストはこうした理由により、以前からブルックナーのオリジナルの楽譜を調べている。
「ブルックナーの音楽は、一般に思われているよりはもっと前衛的で革新的なものだと思います。交響曲第4番の最初の楽譜を読むと、とても革新的な音楽がそこにあるのを感じます。それを当時の人は理解できなかったから、いろいろ批評して改訂してしまったのでしょう」
 だからウェルザー=メストの演奏は、こんなにもモダンな感覚がするのだろうか。第7番はワーグナーへの思いを別にすれば、ブルックナー特有の宗教色はより濃厚に記されている作品。最終楽章に、それはオルガン的な響きとなって現れる。ここでウェルザー=メストは、スピード感あふれるスケールの大きなフィナーレを展開。切々と訴えるというよりは、むしろ自らがブルックナーの楽譜から読みとった革新的な断面を音に託し、聴き手の耳を新たに開かせようとするような、そんな音楽作りをしている。
 革新的な音楽というものは、常にその時代には認められないものである。ブルックナーの作品は1世紀余りを経たいま、同郷の若手指揮者によって新たな生命が吹き込まれている。

親しい仲間と室内楽でヴィオラを弾くのが楽しみ

 研究心旺盛なウェルザー=メストは、ロンドン・フィルをなんとかベルリン・フィルやウィーン・フィルに近づけたいと日夜努力している。音楽監督に任命されたときは、ドイツのことわざにあるように「靴を履きまちがえたんじゃないかと思った」そうだが、いまやレパートリーの拡大からオーケストラの経済問題にまで真剣に取り組んでいる。
 今回の来日公演ではクラウス・テンシュテットが倒れ、急きょその分まで指揮するという大役をこなしたが、その体力作りは大好きなマラソンで培っている。
「東京に着いた初日に、皇居のまわりを6マイル走ったんですよ」
 こう豪語する彼は、来年あたり時間がとれたらロンドン・マラソンに参加したいと力強い抱負を語ってくれた。

 今日の写真は、その雑誌の一部。先日指揮していたウェルザー=メストは、まったく体型が変わっていなかった。これもマラソンのおかげ(?)。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:05 | - | -
アンネ=ゾフィー・ムター
 先日、アンネ=ゾフィー・ムターのリサイタルを聴きにいったことは書いたが、いつ聴いても彼女の演奏は上質でエレガントで心に深く響いてくる。
 インタビュー・アーカイヴ第51回は、そのムターの登場。素顔もとても魅力的で、女が女に惚れてしまうとは、このことという感じ。
 ステージでは、肩ひもなしのマーメイドスタイルのドレスがトレードマークだが、インタビューに現れた彼女は仕立てのよいパンツスーツでピシっと決め、仕事ができるキャリアウーマンといった雰囲気をもっていた。
 うーん、これにも惚れてしまいそう(笑)。

[FM fan 1999年7月12日〜7月25日 No.16]

カラヤンから学んだことはけっして妥協しないこと、常に一歩上のレヴェルをめざすこと
 
 

ベートーヴェンとの対峙

 昨年1年間、ピアノのランバート・オーキスと組んでベートーヴェンのソナタ10曲の全曲演奏会を世界50都市で開いたムターが、今回の来日では古典派から現代作品にいたるまで幅広いプログラムを披露した。
 彼女はベートーヴェンとじっくり対峙したことにより、この作曲家の音楽性から人間性までより深く魅せられ、また自身の今後の方向性までつかめるようになったという。
「ベートーヴェンのソナタ全曲を演奏するというプロジェクトは、自然に生まれたものなんです。1988年にオーキスと私はまず《スプリング・ソナタ》を弾きました。その後もいくつか弾く機会があり、ふたりの間で徐々にベートーヴェンへの気持ちが固まってきたわけです。ハイドンの影響から抜け出して成熟していくベートーヴェンの作曲家しての歩みを順に追っていきたい、そう考えました。
 書かれた順番に演奏していく、これは作曲家を知る上でとても大切なことなんですよ。《スプリング・ソナタ》の前に書かれた作品23のソナタというのはあまり演奏される機会のない短調の曲ですが、このふたつを並べて弾くことにより、暗さから明るさに移行する、暗い冬があるからこそ花が一斉に咲く春が待ち遠しい、そういう気持ちが理解できるのです。
 暗さから明るさに移るというのは、ベートーヴェンの生涯のテーマでもあったわけですし、作品23はベートーヴェンが迷っている時期に書かれたもので、これからいったいどのような方向に進めばいいのか模索中でした。自分の基礎となるバロックに戻るのか、それとも新しい方向性を見出したほうがいいのか。《スプリング・ソナタ》のスケルツォで、ベートーヴェンは初めてヴァイオリンのほうに最初にテーマを与えています。その意味でもこれは全曲のなかで鍵を握る存在ではないでしょうか」
 リサイタルではオーキスがピアノのふたを全開にしている。ムターは音量で勝負するヴァイオリニストではなく、繊細で気品あふれる情感豊かな音を持ち味としているが、その弱音までもが実に明確に美しく響いてくる。
「オーキスは一時期、現代作品を多く演奏していました。私ももちろん現代作品は大好きです。ただし、彼はその後フォルテピアノを弾き、私もベートーヴェンのソナタでこのフォルテピアノと合わせてみたことがあります。
 でも、私の楽器はバロックのスタイルではないので、音楽がかみあわなかった。ただし、フォルテピアノのすぐに反応する音、はっきりとした響き、フレージングなどからは非常に多くのことを学びました。
 いま、私は現代のピアノでふつうのタッチで演奏されても、けっして自分の音量を上げることなく自由に響かせることができる、遠くに浸透していく音で。何でも勉強が大切ですね」

「カラヤンはユーモアがあるほうではなかったので…」

 ベートーヴェンがひと段落した現在、ムターの目はより大きなプロジェクトへと向けられている。それは、「ヴァイオリンの歴史100年を振り返って」と題されたシリーズ。来年から世界各地で演奏していくという。
「いまとりかかっているのはヴィヴァルディの《四季》。これはのちの作曲家に大きな影響を与えた作品。ここから発して、ペンデレツキやウェーベルンの20世紀の作品まで網羅しようと考えています。
《四季》は弾き振りをしているんですが、実は先日若いオーケストラと演奏したとき、ある晩とてもいいコンサートができたんです。それで翌日みんなに向かって“さあ、みなさん、また練習しましょう”といったら、全員にイヤーな顔をされてしまいました。
 彼らは昨日あんなにいい演奏ができたのに、また練習って顔をしている。それで私はザルツブルクでのカラヤンとの思い出話を彼らにしました」
 ムターはカラヤンの秘蔵っ子として知られる。13歳でデビューしたときからカラヤンと数多く共演し、キャリアを積み上げてきた。ところが、カラヤンの素顔はほとんど知らないのだという。演奏中の彼しか知らないと。
「不思議でしょう。みなさん、私がカラヤンのすべてを知っているように思われるようですが、本当は指揮をしているカラヤンしか知らないんですよ。13年も一緒に演奏していたのにね。それもすごくきびしくて、何度もリハーサルを繰り返すカラヤンしか覚えていないんです。
 知り合ってまもないころ、いい演奏ができたのに翌日また最初からリハーサルといわれた。昨日よかったから次のレヴェルにいけるはずだって。カラヤンはユーモアがあるほうではなかったので(笑)、単刀直入にそれを要求する。カラヤンはひとつのレヴェルに到達したら、また最大限の努力をして次なる到達点に向かう、そういう人でした。それが人生の目的でもあった。
 カラヤンから学んだことはけっして妥協しないこと、常に一歩上のレヴェルを目指すこと。これが彼の人生哲学だったのではないでしょうか。そして、いつも現状に立ち止まらず先を見ていた人です。21世紀にまで自分の音楽を残そうとさまざまなメディアを駆使していた。
 彼はけっして難しい音楽を残そうとしたのではなく、名曲を聴きやすく、しかも質を落とさずに幅広い層に伝えた。その姿勢を引き継ぎたいですね」

「平和のために自分ができることなら何でも」 

 ムターはいま若い演奏家の手助けをしたり、チャリティコンサートを積極的な行ったり、カール・フレッシュ・コンクールの再開に向けて努力したり、さまざまな活動を行っている。
「12歳から14歳までスイスの学校でアイダ・シュトゥッキに就いて学んだんですが、彼女は音楽家として人間としてどのように自分を伸ばしたらいいかを教えてくれました。作曲家にまつわる多くの文献を読むことの大切さも先生から教えられたことで、私はそれにより作品に深く入っていくことができた。そして、自分が何をしたらいいか、自分自身で考えるようになりました」
 ムターは戦争に心を痛め、子どもたちの教育に真剣に取り組み、平和のために自分ができることなら何でもすると明言する。ヨーロッパの社交界では、みな彼女の肩ひもなしのドレスをまねするほどの美しい舞台姿を誇るムターは、音楽も内面も一本芯の通った力強さを備えている人でもある。

 ムターは2011年の東日本大震災に深く心を痛め、復興支援プロジェクトの活動に尽力している。それはインタビュー時も現在も変わらない彼女の一貫した姿勢である。
 今日の写真は雑誌の一部。美しく凛とした表情も、まったく変わらない。

| インタビュー・アーカイヴ | 20:24 | - | -
ヤーノシュ・シュタルケル
 ハンガリー出身で、長年アメリカで演奏と教育の両面で活躍した名チェリスト、ヤーノシュ・シュタルケルが4月28日インディアナの自宅で亡くなった。享年88。
 シュタルケルには何度かインタビューを行ったが、一見コワモテなのに、いつも心が温まる思いを抱かせてくれる人だった。
 私が音大時代、弦楽器奏法の授業でチェロを希望したのに、クラスで4人しかチェロを希望した人がいなかったため、全員がヴァイオリンに回されてすごく残念な思いをしたと話したら、すぐにこういった。
「じゃ、私が教えてあげるよ。すぐにインディアナにおいで」
「ええっ、冗談でしょう。そういうレベルの話ではなくて…」
 あとはもう、ふたりで大声で笑い合った。いまとなっては、なつかしい思い出だ。つい涙が出てしまうくらい、なつかしい…。
 インタビュー・アーカイヴの第50回はそのシュタルケルの登場。初めてインタビューしたときの記事で、強い印象となって残っている。

[FM fan 1991年8月19日〜9月1日号 No.18]

「コダーイによって建てられた」プールで健康維持 

 今春10回目の来日を果たしたシュタルケルのリサイタルをカザルスホールで聴いた。そのバッハもベートーヴェンも、そしてフランクも非常に滋味豊かで、心に切々と訴えてくるものがあった。
 最近リリースされたドヴォルザークの「チェロ協奏曲 ロ短調」も同様に、虚飾を排し、音楽の本筋に迫る熟成した美しさが感じられた。
 そこでシュタルケルに開口一番「10年前はもっとブリリアントな演奏をしていらしたのに、今回は非常に淡々とした音楽作りだと思いました。これは演奏家自身意識して変化がなされていくものでしょうか」という質問をぶつけてみた。
 すると彼はこれに関して延々と話をしてくれた。ここにはその一部しか紹介できないのが残念だが、彼の気持ちをできるだけ忠実にお伝えしたい。

テクニックより音の美しさ

「私はもう60年近くチェロを弾いています。昔はよく『あなたの演奏はきらびやかだ』とか『派手な弾きかただ』とかいわれました。でも、そのころはチェリストがそんなにいなかったのです。ですから、聴衆は私の演奏を聴いてそのテクニックに驚嘆し、実際の音楽を聴いていなかったのかもしれません。私があまりに上手にチェロを弾くので、そのことばかりに気をとられていたんじゃないかな(笑)。私は身振りもけっして派手ではありませんし、最近の人のようにステージ衣裳にも凝りませんからね。人は年月を経るにつれて、その演奏が徐々に変わってくるのは事実です。若いときはとにかく“完璧”に弾こうと考えます。それがだんだんに変化し、作品の動機と動機をどのようにつなぐか、全体をどのように構成していくかに関心を抱くようになるのです」
―シュタルケルさんもまったくそのような過程を歩まれたのでしょうか。
「そうです。ただし、現在の私はその方向からまた少し変化し、音の美しさとコントラストに大変興味を抱いています。私はチェロで音楽を作るときに“歌”を基本に置いています。ソプラノからバスまで、あらゆる高低の声。そしてオーケストラの各楽器の響きを念頭に置いているのです」
―インディアナ大学の生徒を教えるときももそのような話をされるのですか。
「上級クラスの生徒にはね。最初は技術をキチッと身につけ、その上で音楽を作っていかなくてはなりません。それが完璧にできた状態のときにこういう話をします。いい換えれば、ことばを習って初めて詩を書けるようになるわけですから。ただし、それぞれの生徒は私のまねをしても仕方ありません。その人個人の詩を書かないとね」
―多くの楽器をおもちですが、いま一番気に入っている楽器はどれでしょう。
「マッテオ・ゴッフリレルというヴェネツィアで作られた1705年製の楽器です。チェロとのつきあいは結婚みたいなもので、うまくいかないときもありますが、今回の結婚は相性もよく、もう25年も続いています(笑)」
―楽器を選ぶ一番のポイントは。
「それは、自分のいいたいことに楽器がどれくらい反応を返してくれるか、ということに尽きると思います。以前、ストラディヴァリの大変すばらしい楽器を使っていましたが、ストラディヴァリの場合はその音に自分を適応させていかなくてはなりませんでした。でも、いまの楽器は私の音に合わせてくれるのです。私の音楽に…」
―以前は年間120回以上コンサートをしていらしたんじゃないですか。
「そう、確かに。でも、最近は極力数を減らしています。もう私は半分引退してしているようなものですから(笑)」

コダーイが人生を変えた

―とんでもない! 指揮者には60歳を超えてから「私はこれからだ」という人がいますよ。
「それは指揮者だからでしょ。チェリストはこんなよれよれになってまで、弾いていられませんよ(といいながら、シュタルケルは指を揺らしながらよれよれした格好をして笑わせた)。私はハイフェッツと同じ考えで、自分の音楽に満足できなくなったら、演奏することをバッサリやめようと思っています。自分の演奏に感動できなくなったら、弾いていても意味がないのです。教えることはまた別問題ですが」
―ハンガリー時代、8歳のときにすでにチェロを教えていたということですが。
「6歳の少女に、6年間にわたって1週間に一度の割でレッスンを続けました。彼女はもちろんすばらしい演奏家になりましたよ。でも、私はそのころは先生ではなく単なるコーチだったと思います。技術を教えるコーチと音楽を教える先生とはまったく意味合いが違いますから。小さいころから人に教えることで非常に多くのことを学びました」
―コダーイの無伴奏チェロ・ソナタに出合ったのもそのころですか。
「15歳のときに初めて聴きました。これが私の人生観を変えたといっても過言ではありません。コダーイはとても変わった人で、大変無口な人でした。作曲科の先生をしていましたが、作品をもってきた生徒には、首を振って『ダメだ』というか、あるいは10分ながめて『やりなおし』というだけでした。私の演奏会にもきてくれましたが、『第1楽章は速すぎる、第2楽章はまあまあ、第3楽章はヴァリエーションを離して弾かないように。それでは、おやすみ』と、これだけいってさっさと帰ってしまいましたよ(笑)」

 シュタルケルの自宅にはプールがあり、健康維持のために毎日泳いでいるそうだが、なんとこのプールには「これはコダーイによって建てられた」というプレートがかかっているそうだ。レコードの売り上げやコンサートの収入を意味しているとか。さしあたって居間はドヴォルザークかなあ、といって笑うシュタルケルは、怖い顔(?)に似合わずとてもユーモラスな温かい人間性の持ち主だった。
 引退するなどといわず、風格豊かな音色をいつまでも聴かせてほしいものだ。

 このインタビューから、もう22年も経過してしまった。だが、シュタルケルの演奏と語り口はいまなお脳裏にしっかりと刻み込まれている。それほど個性の強い人だった。今日の写真はその雑誌の一部。懐中時計をもっていたことを鮮明に覚えている。


| インタビュー・アーカイヴ | 22:17 | - | -
東京クヮルテット
 1969年に結成され、幾度かのメンバーチェンジを行いながら44年(現メンバーでの活動も10年超)の長きにわたって国際舞台で活躍を続けてきた東京クヮルテットが、今年7月その活動に幕を下ろすことになった。
 彼らには何度かインタビューを行ってきたが、いつも率直な語りに感動を覚えたものだ。演奏も飾らず気負わず自然体。作品の内奥にひたすら迫っていく真摯な姿勢に貫かれ、聴くたびに新たな感動を覚えた。
 活動に終止符を打つにあたり、複数のCDが次々にリリースされている。それらを聴くたびに、芳醇な音色、緊密なアンサンブル、解釈の深さ、レパートリーの多彩さにこのクヮルテットの底力を感じる。
 インタビュー・アーカイヴの第49回は、その東京クヮルテットの登場。結成25周年を迎えた1995年のインタビューで、彼らは1993年から世界各地のホールでベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲演奏を行っているときだった。

[アサヒグラフ 1995年2月24日号]

緊張感に満ちた一糸乱れぬアンサンブル

 わが国が世界に誇る弦楽四重奏団、東京クヮルテットが結成25周年を迎えた。この間、2度のメンバーチェンジを経て、現在は第1ヴァイオリンがカナダ出身のピーター・ウンジャン、第2ヴァイオリンが池田菊衛、ヴィオラが磯村和英、チェロが原田禎夫の4人からなる。磯村と原田が創立メンバーで、1974年に池田が加わり、1981年にウンジャンが参加した。
「ピーターが入ってきた段階で、ぼくらは会話をすべて英語に変えました。そのほうがお互いはっきり物をいえるので。練習中だれかの音が気に入らないと、遠慮なくノー・グッドっていいます。日本語の微妙なニュアンスだとかえって相手が傷つくから」
 ただし、これはお互いを尊敬し、信頼しあっているからこそできること。ここまでくるのに25年という長い歳月がかかった。
 東京クヮルテットは桐朋学園で学び、ニューヨークのジュリアード音楽院に留学した日本人の演奏家4人によって1969年にニューヨークで結成された。結成後まもなく数々の国際コンクールで優勝し、またたくまに世界的な注目を集めるようになる。
 この時点で日本に帰れば仕事には不自由しないし、それなりの生活も保証される。しかし、彼らは世界のステージで演奏したいと願い、日本への絆をなかば断ち切った。
「アメリカでやっていくのは正直いってきつい。日本に戻れば日本語で気楽に会話できるし、精神的にもラク。でも、ぼくらは歯をくいしばっても欧米で演奏していくほうを選んだんです」
 そんな彼らの間に不協和音が生じ、メンバー交代が2度行われた。そのつど音に微妙な変化が生まれ、音楽的にも一からやり直さなくてはいけないことになった。
 だが、彼らは屈しなかった。第1ヴァイオリンが交代すると、ふつうはクヮルテットの音楽そのものが変わるといわれる。だから慎重にヴァイオリニストを探し、最終的に自分たちと同質の音を持ち合わせているウンジャンに決めた。
「東京クヮルテットといえばジュリアード音楽院が生んだスター的存在。まさかぼくに声がかかるなんて思いもしませんでした。だから決まったときはキッチンを跳ね回って喜んだものだよ」
 こう語るウンジャンはジョーク好きで陽気な性格。音色も明るく、音楽的にも前向きで冒険心豊か。彼が加わったことでクヮルテットに新風が吹き込まれた。
 みんなが長い間弾き込んでいたものの、全曲演奏を行っていなかったベートーヴェンの弦楽四重奏曲をやろうよ、と声をかけたのも彼だった。
「ベートーヴェンのこれらの作品は、高い頂のようなもの。その山を制覇するためにはとてつもないエネルギーと完璧な技巧、深い音楽性が要求される。それに対してぼくらは慎重になっていたんです。でも、ウンジャンがポンとみんなの背中を押してくれた。それで一気にやる気になったんです」
 1994年から95年のシーズンにはニューヨークのカーネギー・ホールとエイブリー・フィッシャー・ホールでベートーヴェンのシリーズを行い、パリ、ブリュッセル、アムステルダム、ウィーンでも演奏することになっている。
 昨年はミラノ・スカラ座の歴史上初めてこの弦楽四重奏曲を連続演奏し、大センセーションを巻き起こした。
「最終日が印象的でした。すべてを演奏し終わったとき、会場は物音ひとつしない静けさに包まれ、だれも拍手をせずにじっと音楽の余韻に身を浸していました。そしてあちこちで目をぬぐう姿が見られた。ぼくら4人も涙が止まらず、音楽をやってきて本当によかった、とこのとき強く思いました」
 1月の日本公演でも、上質で研ぎ澄まされたアンサンブルを聴かせてくれた。ベートーヴェンはもちろんだが、ドビュッシーが残した唯一の弦楽四重奏曲は、抽象的な響きや幻想的な色彩感に彩られている。それを4人は各フレーズの微妙なニュアンスを弦で幾重にも変化させながら、夢幻的に演奏。第3楽章は官能的な美しさが際立っていた。
 ベートーヴェンの大きな作品を演奏し、録音も終えた彼らの次なる目標は現代作品。20世紀の作品に積極的に取り組み、委嘱も行っていく予定だ。
 いまはとてもチームワークがよく、音楽に没頭できるからこそ、こうした夢も生まれるという。
 クヮルテットは常に一緒に行動しなくてはならない。それが長い期間続くと、やはり息苦しくなってくる。
 だから最近はツアーに出るとホテルを変えたり、食事を別々にするなどの工夫を凝らしている。だれかがひとりになりたいときは、放っておくそうだ。
「みんな目標が同じだから、いざというときは気持ちがピタッと合う。いい演奏をしたい、とただそれだけを考える。音楽以外のことはギャラも2の次だし、教えることも極力抑えています。自分たちの音楽を磨く、それが一番大切…」
 そんな4人は日本にきてもゆっくりせず、公演が終わると翌日アメリカに帰国。音楽ひと筋の潔い時間配分は、ステージでの緊張感に満ちた一糸乱れぬアンサンブルに通じるものがある。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。東京クヮルテットの2013年最後の日本ツアーは、5月15日から21日まで東京ほか全6公演が行われる。これは聴き逃せませんね。

| インタビュー・アーカイヴ | 20:51 | - | -
マリア・ジョアン・ピリス
 いま、私の大好きなマリア・ジョアン・ピリスが来日している。3月7日、ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン交響楽団の東京公演初日のコンサートに出かけ、ピリスのソロによるベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番を聴いた。
 若きベートーヴェンの足跡が色濃く投影されているコンチェルト、ピリスは凛としたシャープな音色、作品全体を俯瞰する視野の広さ、細部まで神経を張り巡らせたこまやかさ、オーケストラとの雄弁な対話など、コントラストの効いた演奏を披露し、成熟したピアニズムを遺憾なく発揮した。
 この来日プログラムに原稿を寄せ、私は「真摯で純粋で温かい、マリア・ジョアン・ピリスの音の世界」というタイトルで文を綴った。
「インタビュー・アーカイヴ」第48回はそのピリスの登場。何度もインタビューをしているが、今回は19年前にインタビューした記事を再現したい。

[レコパル 1994年11月号]

大切にしているのはショパンと自分との気持ちの一体化 

 現代屈指のモーツァルト弾きといわれるピリスが、久しぶりにショパンを録音した。
 ショパンのピアノ協奏曲第2番は作曲者の19歳のときの作品。全体がえもいわれぬみずみずしさに満ち、ショパンの青春の息吹が伝わってくる協奏曲である。特に第2楽章はそのころ淡い気持ちを抱いていた初恋の相手コンスタンツィアへの思いが込められ、美しい緩徐楽章となっている。
 これはともすれば哀愁を前面に押し出して感情過多に演奏してしまいがちだが、そこはシャープな音楽を得意とするピリスのこと、感情におぼれず淡々と、あくまでも主題の美しさを際立たせるように弾き進めていく。
「ショパンは子どものころからずっと弾き続けてきた大好きな作曲家なんです。私は体重がないからブラームスのソロ作品を弾くとすごく大変で、パワーばかり要求される曲というのも近寄りがたいんだけど、ショパンはどんな曲でもスッと入ることができる。演奏に必要とされるテクニックがごく自然で、どんなピアニストでも適応することができるから」
 そんなピリスもショパンの作品のなかでポロネーズの1曲と、練習曲のなかの2曲だけはどうしても難しくて弾けないという。これは技巧的な難しさではなく、手になじまないという意味らしいが…。
「ショパンを弾くときに大切にしているのは、ショパンと自分との気持ちの一体化。これはどんな作曲家にもいえますが、ショパンに関してはピアニストの気持ちを先行させて弾くのは危険なのです。ショパンの想いを楽譜から読み取り、自分の気持ちとじっくり対話させる。ふたつのパーソナリティーが一体化したときに完璧な一瞬が訪れます。そこに行き着くのが目標であり、一生の仕事と考えています」
 ピリスは毎日3時間しか練習しない。あとは家事などをしながら頭のなかで音楽を考えている。頭のなかでその曲と対話しているから、ピアノに向かうのはごく短時間でいいという。
 彼女の集中力というのは驚異的で、それは「音楽は別世界」と何度も口にしたことばからもうかがえる。これは私生活でどんなことが起きようと、いったん演奏が始まれば完全に音楽のなかに入ってしまうことを意味している。それが無理なくできるそうだ。
 だが、ピリスも人間である。今回の日本公演ではそれが如実に現れた。
 実はこの来日中にピリスは最愛の母を失った。その訃報を聞いた夜、彼女は黒のドレスでここ数年パートナーを務めているフランス人ヴァイオリニスト、オーギュスタン・デュメイとのステージに現れた。心持ち目線が下向きで、いつものやわらかな笑顔は見られなかったが、演奏はかえって集中しなくちゃという必死な気持ちを感じさせるものだった。
 そんななか一番心に残ったのは、彼女を懸命にサポートするデュメイの大きな心だった。彼はピリスの音楽をいつもの演奏に戻そうと、全身全霊を傾け、弦で呼びかけていた。
「よく家事と仕事の両立は大変でしょうと聞かれますが、それよりも私は音楽家であり続ける姿勢を保つことのほうが大変だと思います。音楽家は人とは違うんだということをいわれ続ける。そうするとふつうは自分を見失ってしまうものなんです。ふつうの感覚というものがいつのまにか失われていくのに、当人はまったく気がつかない。それでは人々を感動させられる演奏ができるはずがありません。人々から隔絶されているわけですから」
 ピリスと話していると、いつもこの人はお金や名声にとらわれず真摯な姿勢をもって音楽に向かっているんだなという感を抱く。
 彼女は一時期病気でピアノが弾けない時期があった。だが、苦難のときを乗り越えてピアノはいっそう味わい深いものになった。
 若いころからスター扱いされ経済的にも恵まれると、人は平常心を失ってしまう。ピリスはそれを十分に知っていて、地に足の着いた人生を歩もうと努力している。それがそのままピアノに表れているため、私たちはその音楽から彼女の一途で純粋な生きかたを感じ取ることができ、感動を覚える。
 今年はショパンのノクターン全曲録音を予定しているそうだ。「あなた、ショパン好き? だったら期待しててね」と、こちらに聞いてくる彼女。ピリスとは、あくまでも聴き手の気持ちを重視し、両者のコミュニケーションを大切にする演奏家だ。

 今日の写真はその雑誌の一部。このころからずっとインタビューを続け、いまではもっと本音を話してくれるようになった。
 また再会するのを首を長くして待っている。


 
| インタビュー・アーカイヴ | 22:38 | - | -
モディリアーニ弦楽四重奏団
 先日、ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」で、久しぶりにモディリアーニ弦楽四重奏団の演奏を聴いた。彼らの演奏はいつ聴いても音色がみずみずしく、作品がいま生まれたような新鮮さに彩られている。
 今回の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」にも彼らは参加、フランス作品をたっぷり披露する予定だ。
 そこで「インタビュー・アーカイヴ」第47回はモディリアーニ弦楽四重奏団の登場。彼らの魅了の一端を垣間見てほしい。

[intoxicate 2010年9月号]

4人ではなくひとりで奏でているように…

 学生時代の友人4人が集まって結成したモディリアーニ弦楽四重奏団は、国際コンクールを次々に制覇。世界各地からオファーがひっきりなしに入る人気の高いカルテットに成長。結成6年を迎え、新録の「メンデルスゾーンの弦楽四重奏曲選集」は欧米で話題沸騰中だ。
「作品13はメンデルスゾーンが18歳で書き、ベートーヴェンへのオマージュの意味が含まれている。いまのぼくたちが自然に入っていける若さあふれる作品。一方、作品80は姉のファニーの死を悼んで書かれた悲劇性が込められ、メンデルスゾーンの個性と人格が込められている。これに僕たちはありったけの表現と技巧と音楽性を込めて録音した。メンデルスゾーンは作品の真の意味や偉大さがなかなか評価されにくいけどこの録音からそれを受け取ってほしい。新しい発見があると思うから」
 4人が互いを評すると、第1ヴァイオリンのフィリップ・ベルナールは信頼でき、話のおもしろい人。第2ヴァイオリンのロイック・リオは予想できないことを行うサプライズ人間。ヴィオラのローラン・マルフェングは自他ともに認めるいいヤツ。チェロのフランソワ・キエフェルは知性派で、エレガンスの持ち主だそうだ。
「カルテットの演奏は家を建てるようなもの。チェロが土台となり、ヴィオラと第2ヴァイオリンが壁を作り、第1ヴァイオリンが屋根の役目。でも4人ではなく、ひとりで音楽を奏でているような密度の濃さと一体感が必要。僕たちは昔のカルテットのように、第1ヴァイオリンが中心となってあとの3人が伴奏的な役割を果たすのではなく、あくまでも民主的。喧嘩してもすぐ仲直り」
 その一体感が功を奏し、フランスのラジオ番組「音盤批評トリビューン」の名前を隠して録音を聴きくらべる放送で、最終的にアルバン・ベルク四重奏団とハイドンの弦楽四重奏曲「日の出」で絶対盤として引き分けた。
「これはワインの利き酒のように演奏者の名前を隠して出演者たちが聴きくらべる番組。すごく名誉に感じたよ。最終的に残った相手が偉大なアルバン・ベルクなんだもの。4人ともびっくり。自分たちがやってきたことがまちがっていなかったと確信できた瞬間だった。これまで多くの偉大なカルテットから影響を受けてきたけどもっとも尊敬しているのはアマデウス四重奏団。彼らはずっとメンバーチェンジなし。すぐにアマデウスとわかる響きを保持していた。僕らもそれを目指している」
 グループ名のモディリアーニは偉大な画家から命名したものだが、モディリアーニの絵はすぐに画家の名がわかる個性に彩られている。それに触発された。
「弦楽四重奏曲は作曲家が魂を込めて書いた作品ばかり。それを自分の100パーセントを注いで演奏するわけだけど、いつも作品のすばらしさに没入して心が震えるほど。その感動を聴衆と分かち合いたい。来春のラ・フォル・ジュルネでまた来日するからぜひ聴きに来て!」

 今日の写真は一番上が、このインタビュー時の写真。真ん中は、ナントで撮った写真。でも、左端にいるのはだれ?
 そう、これはラムルー管弦楽団の音楽監督のフェイサル・カルイ。
「ぼくたち、モディリアーニだよー」とふざけてポーズ。でも、第1ヴァイオリンのフィリップが戻ってきたら、「ほらほら、本物のカルテットの写真撮らなくちゃ」と、私はカルイに促された。それが一番下の写真。
 マエストロ・カルイは、ふだんはちょっとカッコつけて渋い感じなのに、実はユーモアたっぷりな人だったんですね(笑)。
 というわけで、そろいました。左から第2ヴァイオリンのロイック・リオ、ヴィオラのローラン・マルフェング、チェロのフランソワ・キエフェル、第1ヴァイオリンのフィリップ・ベルナールです。名前、覚えてね。





| インタビュー・アーカイヴ | 22:33 | - | -
諏訪内晶子
 デビュー当初からインタビューを続けているヴァイオリニストの諏訪内晶子が、長年の夢を実現する「国際音楽祭NIPPON」を創設することになった。
 これは2月2日から16日まで横浜と仙台で開催されるもので、彼女は芸術監督を務め、コンチェルト、室内楽、マスタークラス、チャリティ・コンサートなど、さまざまなプログラムに参加する。
 そのプログラムの巻頭言の諏訪内晶子についてという原稿を書き、日経新聞(31日夕刊)にも同音楽祭を紹介する記事を書いた。
 彼女の記事はこれまで何本も書いてきたが、インタビュー・アーカイヴ第46回は、チャイコフスキー国際コンクール優勝から数年間研鑽を積み、ようやく録音やコンサートをスタートさせたころのインタビューを選んでみた。

[BS fan 1997年1月号]

「人々に知られていない作品を広く世に紹介していくことが演奏家の使命だと思っています」 

「リサイタルにはひとつのテーマをもって臨みたいんです。ひとりの作曲家にしぼるとか、ひとつの時代を取り上げるとか、そのさいプログラムのなかにはふだんあまり演奏されないような珍しい曲を必ず入れていきたいと思っています。人々に知られていない作品というものを広く世に紹介していくのは、演奏家としての使命だと思っていますから」
 1990年、モスクワで行われたチャイコフスキー国際コンクールのヴァイオリン部門で日本人として初の第1位を獲得し、しかも最年少優勝(当時18歳)を成し遂げた諏訪内晶子が、6年を経てCDデビューにこぎつけた。
 コンクール後、彼女はアメリカに留学し、ジュリアード音楽院とコロンビア大学で音楽はもちろんのこと、他の学科も広く学んでいる。
「コンクール直後に、このまますぐにプロとして活動していいものかずいぶん悩んだんです。まだ自分には学ばなくてはならないことがたくさんあるのではないかと。それで留学することを決意しました」
 アメリカでは語学から政治、歴史、音楽史まで幅広く勉強。一時はヴァイオリンが弾けなくなるのではないかと思うほど、机に向かっての勉強に時間を費やした。
 そして寮生活を経験し、さまざまな人との出会いのなかで人間としても大きく成長した。
「先日のリサイタルではさまざまな面を聴いていただこうと、いろんなプログラムを組みました。シューマンのソナタだけを弾いた日もあり、ロシアものとドイツものを組み合わせた日もあります。そして今回はぜひ武満徹さんの作品を演奏したかったんです。『悲歌(エレジー)』もそうですが、彼の作品は間を大切にする感じを受けます。音の最後、フレーズの最後の響きがとても印象的で、静の緊張感がただよっている。能に通じるような、また日本の庭を見ているような、そんな感覚。その静謐さを表したかったんです」
 彼女はアメリカで、いかなるときにも自己を前面に出すことを学んだ。自分がその音楽をどう感じ、どう弾きたいか。それを明確に表現する。
 デビューCDのブルッフのヴァイオリン協奏曲も、自分が感じたままを素直に表現している。ブルッフは旋律が美しく、親しみやすい。特に第2楽章はその美しさが十分に出ているから、ぜひ耳を傾けてほしいと語る。
「今後は現代作品を取り上げ、広めていきたい。そして私と同世代の若い人たちの目をもっとクラシックに向けたい。このふたつが夢なんです」

 諏訪内晶子のこの夢が、ついに実現した「国際音楽祭NIPPON」にも投影されている。同音楽祭は今後毎年開催される予定。ぜひ、彼女の強い信念に基づいたプログラムを体験してほしい。なお、今回は彼女と初共演となる指揮のエサ=ペッカ・サロネン(フィルハーモニア管弦楽団)、ピアノのレイフ・オヴェ・アンスネス、チェロのピーター・ウィスペルウェイ、ピアノの江口玲という国際舞台で活躍するトップアーティストが出演、多彩なプログラムを披露する。
 今日の写真は当時の雑誌の一部。長い黒髪と大きな目はまったく変わらない。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:26 | - | -
ロリン・マゼール
 ロリン・マゼールは真の神童と呼ばれた人で、子どものころからさまざまな才能を発揮してきた。とりわけ記憶力が群を抜いていて、指揮者になってからは全曲暗譜。そして一度会った人の顔は絶対に忘れない。
 5〜6カ国語を操り、どんな分野においても才能をまたたくまに発揮する天才性ゆえ、オーケストラとの衝突もしばしば。
 だが、現在は人間性も音楽性も円熟味を増し、おだやかな表情を見せるようになった。
「インタビュー・アーカイヴ」の第45回はそのマゼール。もう18年も前の記事だから、現在とはかなり雰囲気が異なっているが、彼は非常に率直でストレートに物をいうタイプ。これはずっと変わらない。

[FC VOICE] 1994年 春号

私の基本はドイツ音楽。ドイツの自然が目の前に見えるような音を出したい

 1985年1月1日、マゼールはウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを自らヴァイオリンを弾きながら指揮した。彼のエンターテイナーぶりはすでに定評のあるところだが、このときの姿はまさに音楽を聴衆とともにエンジョイし、オーケストラとともに楽器を奏でて演奏の醍醐味を共有し、その楽しみを衛星放送を通じ、世界中の人々に伝えるという大きな成果をもたらした。
 しかしこの直後、マゼールはウィーン国立歌劇場管弦楽団(ウィーン・フィル)を去り、故郷のピッツバーグ交響楽団の指揮に力を注ぐことを宣言してアメリカに戻ってしまった。ニューイヤーの踊るような指揮ぶりを目の当たりにした私にとって、マゼールとウィーン・フィルとの突然の決別は大きなショックとして心に残った。
 思えばマゼールは若いころからオーケストラとの決裂を繰り返してきた。フランス国立管弦楽団の音楽監督をやめるときも、ウィーン国立歌劇場の総監督を持すときも、常に物議を醸し出してきた。カラヤン亡きあとベルリン・フィルの音楽監督の最右翼といわれたが、その地位をアバドにさらわれるや、「2度とベルリン・フィルの指揮台には立たない」と爆弾発言もした。
 彼は物別れに終わったオーケストラについて多くを語ろうとはしないが、1993年春に来日したときのインタビューで話がこのニューイヤー・コンサートにおよぶと、途端に相好を崩した。
「ニューイヤー・コンサートの指揮は私も本当に楽しみで、あのころのウィーンを思い出すと、なんだか夢のような気がするよ。いろいろ大変なこともあったけど、いまはもう楽しかったことだけが胸の奥に残っている。ヴァイオリンはあれからずっと弾いていないから、いまはもうきちんと弾けないんじゃないかな。ヴァイオリンというのは、日々ものすごく練習しなければいけないからね。忙しくて、いまはもうまったく無理」
 現在は1988年から音楽監督を務めるピッツバーグ交響楽団と、1993年から首席指揮者に就任したバイエルン放送交響楽団の指揮に加え、ヨーロッパ、アメリカの多くのオーケストラの客演を行う多忙な身である。
 そのバイエルン放響とは1993年4月に来日し、長期日本公演を行った。これは今後5回、1年から1年半おきにわたってわが国で定期的に行うコンサート・シリーズの第1回目にあたり、彼はドイツ・オーケストラ界を代表する名門オーケストラから、高い緊張感に満ちた熱い響きを導き出した。
「バイエルン放響はドイツのエリート・オーケストラ。私のディレクションによるシリーズの最初には、ぜひともドイツ音楽をもってきたかった。それも水準の高い演奏をね。このオーケストラで聴くドイツ音楽だったら文句ないでしょ。磨き抜かれた響きと、からだのなかに沁み込んでいるドイツの伝統が音となって出てくるから」
 この来日時のコンサートは、ワーグナーの歌劇「ローエングリン」から第1幕への前奏曲、シベリウスの交響曲第5番、ブラームスの交響曲第2番というプログラム。これは今回スポンサーとの話し合いのなかからテーマを決めたもので、スポンサーのシンボルキャラクターであるスワン(白鳥)に因んでいる。
「ローエングリン」の主人公である騎士ローエングリンは、白鳥の曳く小舟に乗って登場する白鳥の騎士であり、シベリウスの第5番は、湖を渡っていく白鳥を見て曲想を得たというシベリウス自身の記録が残されている。そしてブラームスの第2番は別名「田園」と呼ばれているように、風光明美な湖のほとりで自然を満喫しながら書かれた牧歌的な交響曲である。
「それらの作品に流れる優雅さ、気品などの表情をテーマとして取り上げた。白鳥は美や音楽の象徴。第1回目のテーマにピッタリなんでね」
 彼はひとつのテーマに基づいてプログラムを作るのが好きなようだ。以前の来日では自然をテーマに全プログラムを組んだこともある。
「本当は演奏する場所、時間、空気などから霊感を得て演奏する曲を決めるのが一番いいんだけど、現在はなかなかそうもいかない。インドの伝統音楽などはいまでもその方法を忠実に守っているけど…。昔はアンコールを100曲ほど書いた紙を聴衆に配って“ところでみなさんはどんな曲が聴きたいのかな”と声をかけ、2時間くらいアンコールをしたことがあったらしいけど、こういうの、いいよね。理想だな」
 いまマゼールは21世紀に向けて新しい試みを行っている。それはピッツバーグの宇宙センターのホールで客席にコンピューターをセットし、聴衆がそこにインプットされている数多くの曲目のなかから聴きたい曲を選び、それがメーン・コンピューターで集計され、聴衆が何を聴きたいかが即座に指揮者に伝わるというシステム。それをすぐにオーケストラが演奏するという方法をとりたいが、これには演奏する側の問題や他のホールでは不可能なこともあり、まだ実験段階とのこと。
「私はこうしたテクノロジーが好きで、昔からいろいろ試みているんだが、ようやくいまになってまわりが私に近づいてきた感じがするよ」
 こういって豪快な笑いを見せるマゼール。彼は演奏もエネルギッシュなら語り口も実にパワフル。なんでも数年前に亡くなった母親が98歳。いまも健在の父親は90歳だそうで、だから自分の寿命は100歳だと信じて疑わない。歯も32本健在で、からだもすこぶる健康。子どもは全部で7人いるが、いまの奥さま、ピアニストのイスラエラ・マルガリートとの間に生まれた女の子は9カ月になったばかりと、またもや陽気な笑い声をたてる。
「私は自分が3歳のころのことをよく覚えているんだ。人は若いころに何をしていたかをとかく忘れてしまいがちだが、つねに相手の年齢に合わせてつきあえば、コミュニケーションはうまくいく。現に私は3歳の子どもとはとてもウマが合う。なぜなら、彼は私のことを3歳だと思っているからね」
 オーケストラの楽員ともこの方法でコミュニケーションをとるのだろうか。最近のマゼールは各地で衝突しなくなり、丸くなったといわれるが…。
「昔はすごく苦労したからね。初めてイタリアでオーケストラを指揮したときなんかひどいオケで、音ははずれているし、音楽はできていないし、指揮できるような状態ではなかった」
 若く血気盛んなマゼールはすぐディレクターに文句をいいにいった。するとディレクターは冷ややかな表情でこういった。
「そういうオーケストラだから、若いきみにまとめてもらおうと思ったんだよ」
 マゼールはこのとき指揮者がそういうオケをまとめる力がないのだったら、職業を変えるべきだと悟ったという。いまようやく自分より楽員のほうが若くなり、意志を伝えるのに苦労しなくなったそうだ。そして最近では、またウィーン・フィルとともに仕事をし、1994年のニューイヤー・コンサートでは再び指揮台に立った。
 ロリン・マゼールは1930年3月6日、フランス中北部ヌイイー・シュル・セーヌに生まれた。父はユダヤ系ロシア人、母はハンガリーとロシアの混血。両親はアメリカ国籍をもっていて、一家はマゼールが生まれるとすぐにアメリカに移住した。
 5歳でピアノとヴァイオリンを始め、その後ウラディーミル・バカレイニコフに就いて指揮法を習い、8歳でアイダホ州立大学のオーケストラを指揮したのを皮切りに、11歳でNBC交響楽団やニューヨーク・フィルを指揮して「神童」と騒がれた。やがて成長したマゼールは、ピッツバーグ大学で哲学と語学を専攻し、音楽の勉強と同時にさまざまな知識を身につけていく。
 1945年ヴァイオリニストとしてデビューしたが、49年にはピッツバーグ交響楽団の副指揮者としてデビューを飾り、以後指揮者としての道を歩むようになる。
 そしてその3年後にはイタリアに留学し、これが大きな転機となった。
「私は5歳のころから音楽を始めたけれど、プロの道に進もうと決心したのは、あちこちで指揮をしてからだから、30歳のころだと思う。子どものころに指揮台に立ったのは、乗馬やスキーをしたりするのと同じ感覚で、それが大きくなってからの指揮活動に影響したとは思えない」
 イタリア留学を終えたマゼールは、1960年最年少で、しかもアメリカ人としては初めてバイロイト音楽祭に招かれ、一躍その名を知られるようになる。
 以後、ベルリン・ドイツ・オペラ芸術監督、ベルリン放送交響楽団音楽監督、クリーヴランド管弦楽団音楽監督などと前述のオーケストラを歴任し、一時はカラヤンのライヴァルともいわれた。数多くの賞も受賞しており、1985年にはイスラエル・フィルの終身名誉指揮者にも選ばれている。
 マゼールの記憶力のすごさは有名で、どんな曲でも完全暗譜。以前は驚くほどスリルに富んだ、はげしく燃え上がる演奏を得意としていたが、最近はグッと渋さが増し、バランス感覚にすぐれた円熟味豊かな演奏に変わってきた。
 だが、ぐんぐん高みへと上り詰めていくような高揚感は依然健在で、聴き手の心を熱く燃焼させるワザもなお一層磨きがかかる。次回の来日でも、手に汗握る迫力ある演奏を聴かせてくれるに違いない。

 今日の写真はその雑誌の一部。いつも上質なスーツでビシッと決めている。
 実は、1985年のニューイヤー・コンサートを聴きにいったときに、アンコールでヴァイオリンを弾きながら指揮していた姿を、かなり前の席だった私はみんなのまねをして写真を1枚撮った。
 この話をすると、マゼールは「その写真ぜひともほしい。あのときのコンサートは思い出深いんだ。次に会うときにはもってきてくれるね」といわれた。ところが、当時はまだネガ。いくら探してもみつからなかった。
 というわけで、私はマゼールに会えなくなってしまったのだ。彼の記憶力のよさを知っているため、逃げるに逃げられない羽目に陥るから(笑)。以来、残念なことにマゼールにはインタビューをしていない。でも、もう忘れたかな…。

| インタビュー・アーカイヴ | 18:44 | - | -
パスカル・ロジェ
 単行本のフランスのところに、私がその音色に魅せられているパスカル・ロジェのことを書いた。
 インタビュー・アーカイヴの第44回はそのロジェの登場。

[FM fan 1997年8月11日〜24日 No.18]

ボルドーの上質な赤を思わせる芳醇で色彩感あふれる音色が身上

 フランスの実力派ピアニスト、パスカル・ロジェはフランス作品ばかりではなく、ブラームスをはじめ、リスト、バルトークなど幅広いレパートリーをもつことで知られる。だが、最近は自国の作品を弾くことに集中し、ステージでも録音でもフランス作品を積極的に取り上げ、その粋で洒脱で色彩感に富んだ演奏で確固たるポジションを確立している。
 彼はふだん着の色合わせも実に巧妙で、その音楽同様美しい色彩感に彩られている。

「私は昔から、“色”というものに非常に強い関心を抱いてきました」

―ロジェさんはいつも淡い色をシンプルに着こなし、その色彩感についあなたの音楽を連想してしまいますが、フランス音楽に宿る色彩感というものをどうとらえていますか。
「今日はちょっとおしゃれをしてきたんですが、それが功を奏しましたね(笑)。私は服装というものはその人のキャラクターを反映するものだと思います。どんな色のシャツにどんな色のタイを合わせるかを考えるのは楽しい作業です。私は昔からこの色というものに非常に強い関心を抱いてきました。
 音楽面で見ると、フランス作品には豊かな色彩が感じられます。それらを学ぶときに絵を見ることは欠かせません。それは印象派ばかりではなく、さまざまな時代の絵がその時代の音楽に少なからず影響を受けているからです。
 よくドビュッシーの作品は色彩と関連づけて論じられますが、フォーレもプーランクもサティもパーソナリティは違いますが、そこにはある共通した色が存在していると思います」
―ラヴェルにはそうした色の共通性はないとお考えですか。
「ラヴェルは特別な色をもっています。音全体がクリアで透明感に満ちている。明確さと正確さが2大要素だと思います。これらフランス作品はよくもやもやした霞がかかったような絵と同じようにいわれますが、私はもっとクリアな響きをもっている音楽だと考えています。
 たとえばモネの《ルーアン大聖堂》を思い出してください。あの絵は全体的に淡い色彩で光もけっして強くない。でも、輪郭はしっかり描かれている。ラインがはっきりしているでしょう。多くのフランス音楽もこのようにラインは明確に表現されなくてはならないんです。そこに繊細さと特有の色を加えなくてはならない。これが一番難しいところですね。
 ただし、プーランクとサティは印象派ではなく、キュービズムの影響を受けていると思います。これらの各作品の表現の違いにはペダルが重要なキーとなります。ペダルで音に微妙な変化をつけていくわけです」

「最近になって、フランス音楽が本当に自分に合っているとわかったんです」   

―最近のロジェさんは、再びフランス作品に戻ってきた感じがしますが…。
「若いころはあらゆる作品を片っぱしから弾いていましたからね。でも、あるときふと気づいたんです。自分がもっとも弾きやすい曲は何か、もっとも表現しやすい分野は何かってね。自分への問いかけです。それでフランス作品に行き着いた。これには長い年月がかかったんです。
 人はキャリアを積むことにより、また年齢を重ねることにより、徐々に目が開かれていくものですよね。より心がオープンになり、考えもインターナショナルになっていく。私もフランス人にしては珍しいとよくいわれますが、フランス第1主義ではありません。いろんな国に行くと必ずその土地になじむように努力し、ことばを覚え、食べ物も土地の物を食べ、自然や風土に親しみ、人々との交流を好みます。
 でも、そうなればなるほど自分の本当に弾きたい音楽というものが突き詰められていって、レパートリーが絞られてくる。最近、フランス音楽が本当に自分に合っているとわかったんです。これは音楽家として、人間としてのアイデンティティの問題かもしれない。ですから、いまはフランス作品を弾くのが楽しくて仕方がない。人生の喜びなんです。
 1999年はプーランクの生誕100年にあたる年ですが、ここに向けていまプーランクのピアノ作品の録音が進められています。プーランクは昔から大好きで、演奏しているとおいしいワインを飲んだときのような幸福感に満たされます。ボルドーの上質な赤を飲んだような。この幸福感を聴いている人にも味わってほしいんです。
 私はつねに演奏を通じて聴衆と密接なコミュニケーションがとれるよう努力しています。その語りかけを受け取ってほしい。
 フランス作品はそれが作られた環境を知ることが大切です。それには絵画、料理、ワイン、自然が欠かせません。さあ、みんなでワインのような音楽に酔いましょう(笑)」

 ロジェの音楽からは絵画が連想されることはもちろんだが、どこからか詩が聴こえてくる感じがする。アポリネールやコクトー、ランボー、プルーストなどの詩を愛するというロジェの音楽は、それ自体が詩の朗読のトーンをもっている。ロジェは、芸術や文化が昔はそれぞれ密接な関係をもっていたのに、現在は分離してしまって残念だといった。彼の演奏は、失われた各芸術のつながりを音という媒体で結びつけている貴重な存在かもしれない。

 今日の写真はその雑誌の一部。モノクロなのでわからないが、とても淡い美しいトーンのスーツとシャツとタイの組み合わせ。うーん、いつもながらの、そのコンビネーションのすばらしさにため息が出るほどだった。

| インタビュー・アーカイヴ | 21:39 | - | -
ボー・スコウフス
 オペラ歌手は、舞台ではその役柄になりきっているため、つい本人をその役柄に重ねてしまう場合が多いが、インタビューで会うと、素顔はまるで反対というケースがよくある。
 デンマーク出身のバリトン、ボー・スコウフスも、ドン・ジョヴァンニとはまったく逆の明るい気さくな人柄だった。
「インタビュー・アーカイヴ」の第43回は大柄で陽気なスコウフスの登場だ。

[FM fan 1997年5月5日〜18日号 No.11]

私は歌で喜びを見出し、それを人々に伝えることができれば最高です

 いま、ウィーンで大人気を博しているのがボー・スコウフス。当たり役の「ドン・ジョヴァンニ」のタイトルロールを始め、「タンホイザー」のヴォルフラムなどを得意とし、カヴァリエリ(騎士のように高貴な)バリトンと評されている。 そんな彼はリートも大切なレパートリー。シューベルト・イヤーの今年は日本で「美しき水車小屋の娘」を披露した。190センチを超すスコウフスはステージ映えする容姿の持ち主。さて、その素顔は…。

私はドン・ジョヴァンニというのは若くないとダメだと思う

―1988年に「ドン・ジョヴァンニ」でセンセーションを巻き起こしたわけですが、そのときの様子を聞かせていただけますか。
「実は、初めて大きなステージに立ったのがそのときだったんです。リハーサルから大変で、とにかく初日さえ終わればリラックスできると自分にいいきかせていました。地獄落ちのシーンがすばらしい演出だったんですが、そこまで進めば楽になるだろうと、そればかり考えていました。でも、実際はあそこでミスしちゃった、あそこはこうすればよかったという思いばかりが残り、すべてが終わってもまったく満足が得られませんでした。それから現在にいたるまで、満足のいくステージというのはありません。常に何か課題が残ります」
―どんなドン・ジョヴァンニ像を描いていたのでしょう。
「私はドン・ジョヴァンニというのは若くないとダメだと思うんです。いまを生きる、いまを楽しむ、そんな人間だと思うからです。彼は後悔というものをしないし、誠実感がみなぎっている。あなたを愛していると女性にいうときは本当にそう思っているんです。もちろん3分後には忘れてしまいますけどね(笑)。
 この役を歌うときにはその感覚が一番大切だと思いました。常に情熱を持って、カメレオンみたいに変幻自在にサッと変わっていく」
―フォルクスオーパーの総監督、ヴェヒターさんはどうおっしゃいましたか。
「彼はドン・ジョヴァンニを得意としていた人ですし、私自身とても尊敬しています。そのヴェヒターさんがこの公演直後、『次はウィーン国立歌劇場の契約だよ。いままでのことは忘れて、さあここにサインして』というんです。天にものぼる気持ちでした。
 それから5年間、本当に世話になりました。彼から学んだことはゆっくり役をこなしていくこと。若い歌手はすぐに多くの役を歌い、スターを夢見がちですが、彼はその点をしっかり私に教えてくれました。声の成長に合わせて役を選ぶということを」

リートをできる限り新鮮な声で歌いたい
若い時代に歌いたいリートがたくさんある


―スコウフスさんはオペラとリートを同時にスタートさせていますね。
「リートをできる限り新鮮な声で歌いたいと考えているからです。若い時代に歌いたいリートがたくさんある。それにリートを歌っていると、オペラで何がたりないかがわかるときがあるんです。リートが声楽の先生のような役割を果たしてくれる。シューベルトの『冬の旅』は大好きなんですが、この作品を歌うにはまだ機が熟していない。いろんなことを経験しないと、あの曲は歌えませんから」
―セーナ・ユリナッチ先生から一番学んだことは?
「彼女がヴェヒターさんに紹介してくれたんです。彼女は人生をとても大切にし、歌にも真剣に取り組む。そうした姿勢を教えてくれました。リートには美しい詩がつけられている。その詩を音楽を通して人々に紹介する。その大切さを学びました。
 私は昔から詩を暗唱して朗読することが好きでした。ですからリートに対する彼女の考えがよく理解できます。いま、欧米の大きなオペラハウスから話がくると、キャリアになるから引き受けたほうがいいでしょうが、やはりリートを勉強する時間もほしいし、オネーギンを歌った次の日に『詩人の恋』を歌うなんていうことは私にはできない。ひとつのことに集中したいほうなので。次の計画としては98年秋に初めてハンブルクで『ヴォツェック』を歌います」
―忙しい合間には何か息抜きを?
「ワインを作ることが趣味なんです。ウィーン郊外にワイン畑を持っていて、私は外国人なので友人の畑なんですが、そこで年間400本のワインを作っています。ラベルには毎年オペラの役柄をつけています。いつの日か歌えなくなったらワインを作って暮らそうかと思っているんですよ(笑)。
 私は学費を払うために肉屋でアルバイトをしたり、ボートこぎをしたり、音楽だけではなくいつも何か仕事をしてきました。そういうふつうの人との交流から多くのことを学んできたんです。ですから、そういう人がオペラハウスにきてくれるような音楽を目指したい。みんなが興味を持ってくれるためにはどうしたらいいか、それを常に考えています。
 妻も忙しく、いまウィーンに新しくできたカラヤン・センターの所長をしているんですが、ふたりとも自分がしていることに喜びを見い出せれば一番幸せだと考えています。私は歌で喜びを見出し、それを人々に伝えることができれば最高なんですが―」

 スコウフスの名前であるボーは芸名で、本名はすごく長くてみんなが覚えにくいとか。そのためにデビューしたときに「一番短くボーにしたんだ」と笑う。
 最近はナマの歌声を聴くチャンスに恵まれないが、ぜひオペラの新しい役かリートを聴きたい。来日してくれないかなあ。
 今日の写真はそのときの雑誌の一部。近くで会うと、やっぱりデ・カ・イ。


 
| インタビュー・アーカイヴ | 22:26 | - | -
エマニュエル・パユ
 ステージで演奏する姿を見たり、実際の演奏を聴いたり、またあらゆる写真の表情を見たりしていると、そのアーティストの性格や素顔をある程度想像してしまうものだが、インタビューで会ってみると、まったく自分の考えていた人とは異なる場合がある。
 フルートのエマニュエル・パユがまさしくそんなひとり。いつも雑誌にはいわゆるイケメンの写真ばかり掲載され、CDのジャケット写真もクールな表情。だが、実際はものすごく気さくで、日本の居酒屋が大好きという、自称「おやじ系」の親しみやすい人柄だった。
「インタビュー・アーカイヴ」の第42回はそのパユの登場だ。

[intoxicate 2007年12月号]

さまざまな版の研究、人の話を聞いて解釈を掘り下げたニールセン

 多彩なレパートリーを誇るフルーティストのエマニュエル・パユが、長年あたためてきた大切な作品、ニールセンのフルート協奏曲をついに録音した。共演はサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルという豪華な布陣だ。
「10年ほど前からニールセンのコンチェルトを録音したいと思い、あらゆる版の研究を続けてきました。これまでコペンハーゲンのデンマークラジオシンフォニーと2度演奏する機会があり、そのときにニールセンゆかりの人々から数々のコメントを取り、音楽家にも作曲家や作品に対する思いを聞き、そうしたことを踏まえながら作品の解釈をより深めるよう努力してきました」
 パユはベルリン・フィルの首席奏者を務め、作品の世界初演も行うほどの名手として知られるが、新たな作品と対峙するときは常に人々の意見に広く耳を傾ける。
「私の作品に対するアプローチは昔から変わっていません。作曲家がその作品をいかなる状況で書いたのか、精神状態はどうだったのか、時代背景から歴史、文化まであらゆる状態を調べ、音楽家や研究家からその土地に住む人々まで取材してまわり、作品の内奥に迫っていきます。ニールセンはこのコンチェルトを書いたとき、旅から旅の日々を送っていた。そして体調はすぐれず、その心の痛みや悲痛な叫びまでをも音に託した。強い感情表現がフルートのカデンツァなどに込められています」
 これは非常な難曲とされている。テクニック、表現、解釈などすべてにおいて最高のものが要求される作品である。ラトルはニールセンの交響曲を得意としているため、ライヴ録音は熱い火花が散った。
「長年熟成させた作品をラトルと録音することができ、ラッキーでした。彼とベルリン・フィルはコンビを組んで5年目に入ります。最初は両者が多少とまどいながら歩みを進めてきましたが、いまはラトルが私たちから何を引き出してくれるかが明確にわかるようになりました。仲間がみんな一丸となって同じ方向を目指して進んでいます。管楽五重奏曲はまさにそんな仲間とのコラボレーション。全員一緒に息ができた、という感じです」
 パユは夢を追いかけるのではなく、実現に移す実践派。2008年1月にはJ.S.バッハのソナタを録音する予定だが、ここではずっと尊敬してきたトレヴァー・ピノックとの共演が実現することになっている。
「以前、ピノックが演奏するバッハの《ブランデンブルク協奏曲》を聴いて、特別な何かがその音楽に宿っていることに気づきました。それ以来、大ファン(笑)。今夏、私たちが主宰しているサロン・ド・プロヴァンス音楽祭で共演したんだけど、人間的にもすばらしい! 非常に多くのことを教えられた。録音が本当に待ち遠しいよ」 
 先輩からは多くを学び、それを後輩に伝えていこうと樫本大進や趙静らとの共演を積極的に行う。食事をする時間も惜しいというほどの仕事人間は、常に前進あるのみ。中学時代から1日も休みをとっていないとか…。

 今日の写真はその雑誌の一部。パユは「本当は少し休みをとるようにしないといけないんだけどね」といいながら、すぐに仕事の話を始める。「日本にくるとみんな夜中まで働いていて、それが自然に受け入れられているからすごく安心。ワーカホリックだといわれないからね」と笑う。
 唯一の息抜きは居酒屋で和食に舌鼓を打つこと。それも高価なものではなく、揚げ出し豆腐や焼き鶏や煮物などが好物。楊枝でチッチとやるのをまねして面白がっている。イケメンなのに、困ったもんだ(笑)。




| インタビュー・アーカイヴ | 23:18 | - | -
スティーヴン・コヴァセヴィチ
 先日、ルドルフ・ブッフビンダーの演奏するベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いて深い感銘を得たばかりだが、16年前には、1940年ユーゴスラヴィア系アメリカ人としてロサンゼルスに生まれたスティーヴン・コヴァセヴィチが、すばらしいベートーヴェンを聴かせた。
「インタビュー・アーカイヴ」の第41回は、そのコヴァセヴィチの登場だ。

FM fan 1997年4月21日〜5月4日号 No.10

ベートーヴェンの作品には人間的感情が存分に現れ、
情熱や優しさ、恋心などが感じられる


 1994年にベートーヴェンのピアノ・ソナタでグラミー賞にノミネートされた実力派ピアニスト、スティーヴン・コヴァセヴィチが昨秋18年ぶりに来日。得意とするベートーヴェンやドイツ・ロマン派の作品で底力を見せつけた。
 1975年まではスティーヴン・ビショップと名乗っていたが、これは母親が再婚した相手の姓で、その後考えるところがあって父親の姓である旧姓に戻し、現在は生まれ変わった気持ちで演奏に臨んでいるという。

モーツァルトも難しいですけど、
ベートーヴェンはとにかく難しい


―現在ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲の録音が進んでいますが、いま全集に踏み切ったのは何かきっかけがあったのですか。
「私は以前EMIで録音していたことがあり、その後しばらく離れ、また4年ほど前に戻りました。そのときに企画が出たんです。ただし、全集というのは正直いってキツイ。ベートーヴェンは大好きですが、全部のソナタが好きというわけではないんです(笑)。それをどう克服し、質の高い演奏にもっていくか、それが鍵ですね。ベートーヴェンはとにかく難しい。モーツァルトも難しいですけど、まったく違った意味での難しさがある。ベートーヴェンは冒険的ですから。
 でも、こうして2002年までにひとつの全集を作り上げるというのは、とても大きな意味を持ちます。以前は落ち着きがなく、すごくアガるピアニストでした。よく恩師のマイラ・ヘスにいわれたものです。そんなに焦って速く弾くなって。安っぽいといわれました。そんなときは私も若かったせいか『フンッ、お高くとまって』なんていい返しましたけど。それがいまやゆったりした気分で音楽と向かい合えるようになった。これは指揮を始めたことが影響しています」
―ベートーヴェンは冒険的とおっしゃいましたが、それは曲の斬新さを意味しますか。
「《ハンマークラヴィーア》を見てもよくわかります。これはとても個性的な曲で、非常に高度なテクニックを要求している。当時のピアニストが本当にうまく弾けたんでしょうか。ベートーヴェンの目指す新しさが理解できたのかな。そういうことを考えると、作品が意味深く、楽譜からもっと多くのことを読み取らなければという気持ちになります。
 冒険的とは、従来のピアノ曲では考えられない書法を取り入れているからです。でも、私はベートーヴェンは偉大な作曲家だから尊敬の念を抱き、神のように崇め、姿勢を正して立派な演奏をしなくてはいけないとは思いません。作品には人間的感情が存分に現れ、情熱や優しさ、恋心などが感じられます。それを自分なりに表現したいと思っています。
 ベートーヴェン自身、相当荒っぽい、まちがいだらけの演奏をした人みたいですよ。人間らしくていいじゃありませんか。心が熱くなりますね」

指揮をしたことで大きな変化を。
音楽の見かたが変わったんです


―指揮をしたことが、ピアニストとしてのコヴァセヴィチさんにどう影響しましたか。
「これはもう大きな変化をもたらしました。音楽の見かたが変わったんですから。以前はコンチェルトや室内楽でも、ほかの演奏家にあまり注意がいかなかったのですが、指揮を始めてから全体を考えるようになりました。
 でも、ピアノを弾くよりも指揮のほうがよっぽど楽です(笑)。自分のからだを使いながら演奏するというのは、本当に大変なんです。決してミスは許されないし。ただし、指揮は決して簡単なものではないということも学びました。いい加減な譜読みではオーケストラがついてきてくれません。
 初めてベートーヴェンの《第9》を指揮したときのことをよく覚えています。これは《皇帝》を弾くことより数段精神的に楽でした。それはあくまでも精神的な面でということです。だって、この私が全然アガらなかったんですから。奇跡でしょう。《皇帝》なんか、もう50回は弾いているのに、いまでもアガるんですから…」

ベートーヴェンの録音が終わったら
指揮とピアノの割合を半々に


―それでは、これからは指揮にかなりの比重がかかることになりますか。
「ベートーヴェンの録音が終わったら、指揮とピアノの割合を半々にしようと考えています。夢は《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を振ること。もうワーグナーが好きで好きで、これが振れたらほかに望むことはないですね。もちろん《カルメン》も《ラ・ボエーム》も好きですよ。でも、ワーグナーの引力は強い」
―指揮を始めると、ほとんどの人がピアノを弾かなくなってしまいます。絶対それはないですよね。ピアノは弾き続けてください。
「ハッハッハ、もちろん大丈夫。じゃ、ピアノの予定を話しましょうか。つい先ごろリン・ハレルと組んでブラームスのチェロ・ソナタを録音しました。実は、ファスベンダーとヴォルフのリートを入れる話があったのに、彼女の引退までに話が進まなかった。残念でたまりません。リートの伴奏はとても興味があるのに。ソロでは、ショパン、リスト、ラヴェルに重点を置いていきたい。それからシベリウスの交響曲第4番を振る計画もあります。いま常任指揮者の話もきているし。あっ、また指揮の話にいってしまった。マズイなあ」

 コヴァセヴィチは、アルゲリッチのパートナーだったことでも知られている。その話題になると、途端に顔を赤らめ、「私は、生涯彼女を愛しているんですよ」と少年のような表情を見せた。
 うーん、アルゲリッチの魅力はやはりすごいのね、と彼のはにかんだ顔を見て感じ入った。
 今日の写真はその雑誌の一部。彼、純粋な目をしているでしょう。


| インタビュー・アーカイヴ | 22:39 | - | -
スティーヴン・イッサーリス
 ロンドン生まれのチェリスト、スティーヴン・イッサーリスには何度かインタビューをしている。もっとも印象的だったのは、彼がソウルを訪れたときにレコード会社の担当者とともに演奏を聴きにいき、そのときにインタビューをしたこと。
 実は、このとき私とレコード会社の女性とは飛行機に乗ってからホテルに宿泊した夜中までずっと話し続け、ほとんど一睡もせずにインタビューに出かけた。
 すると、イッサーリスもオーストラリアから飛んできたそうで、疲れと時差でボロボロだという。
「いやあ、お互いに疲労の極地で、かえってテンション上がるよねえ。ぼくもまったく寝てないんだよ」
 こう笑いながら、イッサーリスはそれでもプロ根性を発揮し、しっかりインタビューに答えてくれた。
 彼は結構気難しくて、いい出したら聞かない、自分の意見は決して曲げないというところがあるが、いったん興が乗るとしゃべりっぱなしになる。
 インタビュー・アーカイヴ第40回は、その後また日本で話を聞いたときの記事。このときは疲れた様子はまったくなかった。

[弦楽ファン 2006年 Vol.3]

ストラディヴァリウスとのミステリアスな恋

―まず、現在使用されているストラディヴァリウス“フォイアマン”との出合いから聞かせてください。
「これは日本音楽財団より貸与されている1730年製の楽器です。7年前にパリで出合いました。初めて音を出した瞬間、まさに“恋に落ちた”という感じでしたね。すばらしい音色で、チェリストを貴族のような気持ちにさせてくれる、宝物に出合った気分でした。自分の出したい音が次々に出てくる。魔法にかかったようで、音楽家冥利に尽きる、とでもいったらいいでしょうか。古典作品から現代作品まで、ジャンルを問わずに演奏できる、懐の深さを有した楽器です」
―イッサーリスさんはガット弦を使用していますが、弦との相性、それから弓との相性は?
「いずれも問題はありません。ただし、レパートリーによっては、他の楽器を使う場合があります。カバレフスキーやショスタコーヴィチなどのロシア作品を演奏するときは、モンタニアーナを使っています。私がもっているモンタニアーナはとてもパワフルで、ロシア作品が要求する表現に合うと思うからです。グァダニーニも長年弾いてきましたが、こちらは優美で繊細で、とても洗練された音色をもっている。“フォイアマン”はその両面を併せもっています。よくストラディヴァリウスは楽器自身の個性が強いために、演奏家が苦労するという話を聞きますが、“フォイアマン”に関しては、そうした強烈な個性に振り回されることはありません。もちろん、個性的で簡単に弾きこなせる楽器ではありませんが、弾き込んでいくうちにぼくの音楽に対する考えを深く理解し、それに応えてくれる。生きた音楽を奏でてくれるのです」
―子ども時代に、もう自分の楽器はチェロだと決めていらしたのですか。
「わが家は音楽一家で、母や姉たちがピアノやヴァイオリンやヴィオラを弾いていて、末っ子のぼくが生まれたときにもうチェロが用意されていた(笑)。チェリストがいれば、アンサンブルの幅が広がるからです。やるしかない、という感じでしたね。まず、8分の1の分数楽器から始め、徐々に大きな質のいい楽器へと移りました。そして“フォイアマン”にめぐり合えた。この楽器は不思議なことに、夢を見させてくれるような面がある。深い愛で包み込んでくれるというか、チェリストに愛を語りかけてくる。情熱的で官能的でもあるんですよ。なんだかミステリアスでしょう」
―よく楽器は以前の奏者の弾きグセというか、音を覚えているという話を聞きますが…。
「まさにそう。ぼく以前にだれが弾いていたのか全部は知りませんが、あるときカリフォルニアで演奏していたとき、フォイアマンの音を覚えているな、と感じた瞬間があります。ことばではうまく表現できないんですが、フォイアマンが出したであろう芯の強い音、すばらしい技巧が楽器から生まれてきたんです。楽器に導かれた感じがしました。ぼくは祖父(ロシアのピアニスト兼作曲家のユリウス・イッサーリス)の残した作品を演奏するときに、あたかも彼に導かれて演奏する感じがして深い感銘を得ますが、それととても似ていました」
―祖父のユリウスさんの思い出を。
「ぼくが小さいころ、もう祖父は晩年で病気がちでした。でも、威厳に満ち、偉大な音楽家との絆を感じさせてくれた。祖父はカザルスに作品を献呈したり、ラフマニノフと交流があり、祖母がそうした人々の手紙をもっていました。祖父からは、音楽に対する愛情を学んだ気がします。音楽への敬意も」
―いつもたくさんの夢をおもちですが、次なる夢を教えてください。
「“フォイアマン”とともに愛するシューマンの作品を数多く弾いていきたい。以前からヨーロッパでシューマンの映像作品を作ったりフェスティヴァルを開催したりしていますが、来年は日本でシューマン・フェスティヴァルを行います。密度濃い内容になるよう、いま構想を練っているところ。期待してください」

 イッサーリスはクリクリの巻き毛で、いつ会ってもバッハやヘンデルのかつらのようなヘアスタイルをしている。「パーマがいらないからいいわね。うらやましい」といったら、「何いっんてだよ。ぼくは子どものころからきみみたいなストレートな髪にならないかなって、いつも髪を引っ張っていたんだよ」といわれ、「ないものねだりだよねえ」と笑い合った。
 今日の写真はそのときの雑誌の一部。この楽器がまさにその“フォイアマン”です。拝ませてもらいました(笑)。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:32 | - | -
庄司紗矢香
 ヴァイオリニストの庄司紗矢香には何度かインタビューをしたことがあるが、デビュー当初の初々しい笑顔と、素直な受け応えはいまも鮮烈な印象として残っている。
 インタビュー・アーカイヴ第39回は、そんな彼女の12年前のインタビュー。ときが経つのは早いものだと、この記事を見てもつくづく感じる。庄司紗矢香は声に特徴があり、とても低くてハスキー。記事を見ていると、その声がどこからか聞えてくる感じがする。

[アサヒグラフ 2000年5月19日号]

昨秋のパガニーニ・コンクールに続く栄誉
スケールの大きい、のびやかな演奏が特徴


 昨秋、イタリアのジェノヴァで行われた第46回パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールで優勝の栄冠に輝いた庄司紗矢香が、今度は第10回「出光音楽賞」を受賞した。
 これは主として30歳以下のクラシックの音楽家を対象とし、意欲、素質、将来性などを考慮して選考されるもので、前年の音楽活動に対して賞が贈られる。毎年、演奏や作曲、学術研究、評論などの各分野にわたり5人が選ばれているが、今回、庄司紗矢香は、パガニーニ・コンクールにおいて史上最年少の16歳で優勝したことが大きく評価された。
「こんなにすばらしい賞がいただけて光栄です。これまで、『出光音楽賞』を受賞されたかたは、すばらしいかたばかりなので、多くの先輩を見習って頑張っていきたいと思います」
 ステージでは、スケールの大きい自由でのびやかな音楽を披露する彼女だが、素顔はシャイで礼儀正しく、ひとつひとつのことばを慎重に選びながら、ゆっくりと話す。
「パガニーニ・コンクールは子どものころからの夢だったんです。いつか受けてみたいと思っていました。でも、まさか優勝できるとは思いませんでしたから、賞状をいただいてもなんだか夢を見ているみたいで、現実味はなかったですね」
 その夢から覚めたのが、審査委員長の語ったひとことだった。審査委員長を務めていた作曲家のフェラーリは、授賞式で庄司をこう紹介した。
「46年のこのコンクールの歴史のなかで、これまで日本人は何人もファイナルに残ってきた。ただし、第1位を獲得する人はいなかった。庄司紗矢香は今回、史上最年少の優勝者であるばかりではなく、日本人として初の優勝者なのです」
 庄司は1983年に東京で生まれた。4歳のときに画家である母親がイタリアへ勉強に行くのに同行、1年間をシエナで過ごす。このころからヴァイオリンに目覚め、帰国後5歳で本格的なレッスンを始めた。現在はケルンで名教授といわれるザハール・ブロンに師事している。
 小学校時代から国内の学生コンクールで優勝したり、さまざまな賞を受賞してきたが、1995年の国際モーツァルト・ジュニア・コンクールを皮切りに、メルキュール・コンクール、ヴィエニャフスキ国際コンクール(17歳までの部門)、ヴィオッティ・バルセシア国際コンクールと、たて続けに優勝。ついにパガニーニ・コンクールの覇者となる。
「イタリアのコンクールで第1位をいただけたのが一番うれしかったですね。パガニーニ・コンクールのときはシエナ時代からの友だちがみんなテレビで見ていて、応援してくれました。小中学校時代にも、よくシエナの夏期講習を受けに行っていたので、イタリアというのは第2の故郷のような感じがしているんです」
 パガニーニのヴァイオリン協奏曲を初めて演奏したのも、このシエナの夏期講習の場だった。当時、12歳。その演奏を耳にした指揮者のルドルフ・パウムガルトナーは、ルツェルン国際音楽祭に参加しないかと声をかける。14歳になった彼女は、ここでパウムガルトナー指揮ルツェルン祝祭オーケストラと共演した。
「その後、パウムガルトナーさんは、このオーケストラのドイツ、オーストリアのツアーにも招いてくださったんです。一番印象に残っているのは、ウィーンのムジークフェライン(楽友協会ホール)で演奏できたこと。いまでも、あのときの感動は深く心に残っています」
 ムジークフェラインはウィーン・フィルの本拠として知られる、音響のすばらしいホール。彼女はここでJ.S.バッハとメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏した。
「このツアーでは、最初メンデルスゾーン1曲という予定だったんですが、結局2曲のコンチェルトを弾くことになり、私にとってはとても荷が重かったんです。そんな私に、パウムガルトナーさんはそっとささやいてくださった。『このホールは内部の色が金色なだけではなく、音も金色なんだよ。だから頑張っていい演奏をしよう』って。それでとても気が楽になり、肩の力を抜いて、ホールの音響を楽しみながら演奏することができました」
 こうした出会いが、若きヴァイオリニストの大きな糧となり、音楽の成長につながっている。今年もフランス、スイス、ロシアなどの音楽祭に招かれ、著名な音楽家との共演も目白押し。大きな舞台が続く。
「いま音楽大学ではソロの勉強とともに、オーケストラや室内楽の演奏にも参加しています。学科の勉強もありますし、ドイツ語も習っているので本当に時間がたりない。大好きな読書や絵を描く時間も限られてきますが、勉強しなければならないことが山ほどあるので、もう毎日必死です。もっといい演奏をしたいからです」

 このときは、日本音楽財団所有の1736年製のストラディヴァリウス「ムンツ」を使用していた。その後、国際的なヴァイオリニストとして世界中で演奏するようになり、日本でも高い人気を誇る。
 今日の写真はそのときの雑誌の一部。現在も、髪型や表情などあまり変わらない。変化したのは演奏のクオリティーである。

| インタビュー・アーカイヴ | 21:50 | - | -
アルバン・ベルク四重奏団
 すでに解散してしまったが、アルバン・ベルク四重奏団のあの研ぎ澄まされた完璧なるアンサンブルは、いまだ耳の奥に強い印象となって居座っている。
 第1ヴァイオリンを担当していたリーダーのギュンター・ピヒラーにインタビューしたときのことも、はっきり覚えている。彼はとても前向きで完璧主義者で、その姿勢から学ぶことはとても多かった。
 インタビュー・アーカイヴ第38回はそのピヒラーの登場。

 
[レコパル 1991年9月2日〜15日 No.19]

世界最高峰のアンサンブルが創り出す音の小宇宙

 モーツァルトがハイドンの作曲した弦楽四重奏曲「ロシア・セット」に触発されて弦楽四重奏曲の傑作「ハイドン・セット」の6曲を完成したのは1785年1月、29歳のことだった。
 弦楽四重奏曲というのは、どの作曲家もとてもシリアスな作品が多いが、モーツァルトの場合もしかり。演奏者は高度な技術と深い音楽性を要求される。
 現在世界最高のアンサンブルといわれるアルバン・ベルク四重奏団は、この「ハイドン・セット」を含む後期の10曲を10数年ぶりにレコーディング。これは現在のメンバーになってからの初録音である。
 ここに聴く第16、17番はまさに彼らの4つの弦がひとつに集積して、まるで音の小宇宙を形成しているようだ。アルバン・ベルク四重奏団はよく完璧な演奏をするといわれる。音楽において“完璧”なんてありうるのだろうか。あるとしたら、それはとてもつまらない演奏なんじゃないかと常々私は考えていた。
 けれども、1989年の来日の際、彼らのシュニトケの弦楽四重奏曲第4番の日本初演を聴いて、完璧でありながら、感動を呼び起こす演奏があることがよくわかった。彼らはまったく非の打ちどころのないすばらしく感動的なシュニトケを披露したのである。
 その日はモーツァルトの弦楽四重奏曲第18番でスタートした。この出だしの第1音から心がピーンと張り詰め、ふだん味わうことのできない緊張感に満ちたモーツァルトが体験できたのを思い出す。
 今回の「狩」の冒頭の角笛を連想させる音型を聴いたときに、あのときの緊張感が一瞬にして蘇ってきた。ああ、この完璧なアンサンブル、同質の4弦の響き、鍛え抜かれたテクニック、これこそウィーンの伝統の音色だと。
 ウィーンかぶれの私が彼らの音でほろ酔い気分になっているときに、第1ヴァイオリンのギュンター・ピヒラーがN響を指揮するために単独来日。さっそく、モーツァルト観を聞きに出かけた。

「リハーサルでは納得がいくまで音楽論を戦かわす」

 素顔のピヒラーは、とても人なつこい真っ青な目をした人。彼らの演奏が完璧であるにもかかわらず、胸の奥に強く訴えてくるのが、その澄んだ目を見て理解できたような気がした。
「モーツァルトの音楽は非常に明確ですから、それぞれの楽器の音が全部きれいにクリアーに聴こえなくてはなりません。これは非常に難しいことです。古典派の音楽というものは、個人の感情をいっさいはさめなかった。それがロマン派になると、個人的感情を含めて表現するようになった。モーツァルトは古典派からロマン派への移行期の人ですが、彼の作品は後期になっても演奏のスタイルは古典派のままで、ただし表現に関しては個人的感情を表しているように思えるのです。ですから、演奏者は古典のスタイルを守りつつ、かなりエモーショナルな表現をしなくてはなりません」
 アルバン・ベルク四重奏団の4人は、リハーサルの最中にとことん納得がいくまで音楽論を戦わすという。そして、ふだんの生活はまったく干渉し合わないのが彼らの流儀だそうだ。
「最近は、特に技術的に完全であることを問われる時代になってきています。それにプラスして4人の個性、個人の音楽の解釈を大切に考えなくてはなりません。そしてそれらを常に新鮮に保っていかなくてはいけない。私も20年間、室内楽一本できましたので、表現力とかアイデアを新鮮に保つため、もっと他のものに挑戦しなくてはならない時期だと思い、指揮を始めました」 
 彼は1994年まで指揮の予約がいっぱいなんだ、といってうれしそうな表情を見せた。「いまの夢はヨーロッパの室内オーケストラから最高のものを引き出すこと」と語るピヒラー。
 弦楽四重奏団でトップを極めた彼のこと、次なる目標の達成も遠い日のことではないのでは…。

 アルバン・ベルク四重奏団とはその後も会い、あるときヨーヨー・マの取材で大阪に出張した際に、パッタリ4人に駅で会うという驚きの瞬間も。そのときにはチェロのバレンティン・エルベンが「やあ、偶然だねえ。実は、私がいま使っているのはヨーヨー・マが以前弾いていた楽器なんだよ」といって、しばし駅構内で話がはずんでしまった。
 それもいまとなってはいい思い出である。
 今日の写真はそのときの雑誌の一部。当時は次々に新譜がリリースされていた。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:53 | - | -
リチャード・ストルツマン
 アメリカ出身のクラリネット奏者リチャード・ストルツマンは、ブレスのすごさで知られるが、実際に会ってみてその胸板の厚さにびっくりしてしまった。
「からだを鍛えるためのスポーツ? 特に何もしていないね。ただ毎日呼吸法の訓練をしているだけだよ」
 こういってストルツマンは思いっきり息を吸い、それを少しずつ楽器のなかに出していく方法をじかに見せてくれた。顔は真っ赤、あごから首にかけては目いっぱい息をためているのがわかるような力の入れかただ。1回が30秒ほどで、これを毎日5分ほど行うのだそうだ。
 この呼吸法でジャズもクラシックもジャンルを飛び越えてどんどん演奏し、人々にハッと息をのませている。インタビューのときに楽器を演奏する人はまれだが、ストルツマンは積極的に吹きながら説明をしてくれる。
 インタビュー・アーカイヴの第37回はそのストルツマンの登場だ。

[FM fan 1998年1月12日〜1月25日 No.3]

私はクラリネットの音で世代のギャップを埋めたい。音楽にはその力があると確信しているんだ

あまりオペラは聴かないんだけど、妻のアドヴァイスを受けるうちに曲の美しさにすっかりハマッて… 

 以前、「ヴィジョンズ」というアルバムのなかでプッチーニの「私のお父さん」のクラリネット版を披露したストルツマンが、オペラ・アリアだけを集めて1枚のディスクを完成させた。これは「カルメン」の「セギディーリャ」や「ポーギーとベス」の「サマータイム」などの耳慣れたアリアを、ストルツマンのフィルターを通してクラリネットで歌い上げたもの。ジャンルを超えて幅広く演奏している彼のオープンな気持ちが音楽に全面的に現れ、聴き込むほどに心が解放されていくような絶妙の味わいを醸し出している。
「正直いうと、私はあまりオペラは聴かないんだよね。あの高音を張り上げる声というのがどうも苦手でさ。それでこの企画が持ち上がったとき、まず頭に描いたのは聴きやすい曲を選ぶこと。私自身その歌が好きで、クラリネットで吹いても十分に歌のよさが表現できるようなものを選曲すること。それでレコード会社のほうから資料を提供してもらい、さまざまな曲を聴いたり楽譜を検討したりして、ようやく18曲に絞ったんだ」
 もちろん膨大な曲を調べていくうちに、いい曲ではあるがクラリネットに向かないというものも出てきた。アリアは人間の声のために作られた曲であり、楽器で演奏すること自体が所詮無理というものもあった。
「妻のルーシーは私よりオペラに詳しいんだよ。彼女の父親はヴァージニアの小さな町でオペラのディレクターをしているんだけど、家ではいつも歌手にレッスンをしていたんだって。それを聴いて育ったからほとんどのオペラの内容や配役が頭に入っている。それで私は彼女のアドヴァイスを受けながら役柄を把握し、歌に結びつけていったというわけ。そのうち徐々に曲の美しさにハマッてきて、削る曲が少なくなってしまって困った(笑)」
 次なる挑戦はブラジルの音楽を主体とした南米の曲を集めた録音。ストルツマンは踊りの音楽が何よりも好きなのだという。
「映画も好きでね、日本の《シャル・ウィ・ダンス》は2度も見にいったくらい。音楽に合わせてからだが自然に動くというものが好きなんだ。からだが自由になると気持ちも解放されて、自分が変わっていくような気がするから。そういう音楽を演奏していきたい」

私と子どもたちの中間の世代に、クラリネットのよさを知ってもらう、これが私の生涯の課題さ!

 ストルツマンは常にクラリネットで何ができるかを模索している。いろんな音楽を吹くのも、クラリネットに縁のなかった人がどこかの入口からスッと入ってきてクラリネットに自然に親しんでくれればと願うからだ。
「いまの子どもたちは学校でこの楽器に親しむことができるけど、その少し上の世代はまったく聴く機会がない。私たちはベニー・グッドマンやビッグバンドで音色はいつも聴いていたんだけどね。その中間の世代にクラリネットのよさを知ってもらうためにはどうしたらいいか、これが私の生涯の課題さ。日本にくるとすごく若い世代の人たちが演奏を聴きにきてくれ、彼らと音楽を通して密接なコミュニケーションがとれる。欧米ではこうはいかない。私はクラリネットの音というものと、その楽器が生み出す音楽で世代のギャップを埋めたいと考えている。音楽にはそれを可能にする力があると確信しているから」
 ストルツマンの趣味はケーキ作り。アメリカの子ども用のテレビ番組でも自慢のケーキを紹介した。その後、子どもたちは親しみをもって音楽を聴いてくれたという。これも音楽導入へのひとつの方法かもしれない。

 今日の写真はその雑誌の一部。彼は天才的な音色の持ち主なのに、ステージでは90度腰を折って深々とおじぎをし、出入りはせわしなく小走り。そこがまた魅力的だ。

| インタビュー・アーカイヴ | 21:03 | - | -
フランシスコ・アライサ
 メキシコ生まれのテノール、フランシスコ・アライサは、私の大好きな声質のもち主だ。彼のドン・オッタービオはすばらしく、役にピッタリ。
 最近はあまり来日しなくなってしまったが、実は10年ほど前にマドリードに取材に行った折、ホテルのフロントにチェックアウトで並んでいたら、すぐ前にいたのがアライサだった。
 えーっ、こんな偶然ってあり? という感じで再会し、彼も以前インタビューしたことを覚えていてくれ、「本当に偶然だねえ。5分違っていたら会えなかったのに。昨夜はそこのオペラハウスで歌っていたんだよ」といっていた。
 インタビュー・アーカイヴの第36回はそのアライサ。いつ会っても真面目でひたむきで誠実さがにじむ。その歌声も役に一途に入り込んでいく歌唱法だ。

[レコパル 1991年10月14日〜10月27日号]

やすらぎを与えてくれる、貴公子アライサの歌声

 モーツァルト最晩年のオペラの傑作「ドン・ジョヴァンニ」の新録がリリースされた。指揮者のネヴィル・マリナー、ソリストのトマス・アレンをはじめ充実した演奏家が並ぶなか、唯一のテノールは、いまや世界中のオペラハウスからひっぱりだこのフランシスコ・アライサ。今作でも、ドン・オッタービオの役を非常に叙情的にこなしているアライサだが、先日来日した折に歌手の役作りについてなど、いろいろと話を聞くことができた。
 ドン・オッタービオはもともと一途な思いを恋人ドンナ・アンナに寄せている役だから、アライサのキャラクターによく似あう。彼はその甘く張りのある声を充分に生かし、愛する人の父親殺しの犯人であるドン・ジョヴァンニへの復讐に燃える青年役を熱唱している。
「ドン・ジョヴァンニ」は、大変な色事師である主人公ドン・ジョヴァンニの地獄落ちというデモーニッシュな内容を備えているが、モーツァルトの音楽は序曲から最後の六重唱にいたるまでこの上なく美しく、また劇的で、アリアも名曲ぞろいである。

「コミカルな役よりも、シリアスな歌が歌いたい」

 アライサの扮するドン・オッタービオの代表的なアリアは、第1幕の「彼女こそ私の宝」と第2幕の「恋人を慰めて」だが、アライサの歌声はまっすぐに伸びた若木のようで、モーツァルトがこの役に与えた珠玉の旋律と、テノールという音域がもつ魅力を充分に堪能できる。このオペラには次々に個性的なバリトンやバスが登場するけれども、そのなかにアライサの澄んだ高音域の歌声が聴こえてくると、そこだけがパッと明るく、やすらぎにも似た思いが感じられる。ドン・オッタービオこそアライサ自身、素のままで歌えるのではないかと思ったら、実際にはこんな答えが戻ってきた。
「モーツァルトのオペラはいままでいろいろな役を歌ってきましたが、私がもっとも自分に近い感情で歌えるのは《イドメネオ》のイダマンテです。あの役はシリアスで非常に難しいのですが、モーツァルトのなかで一番好きな役でもあります」
「イドメネオ」は、いわゆるオペラ・セリアといわれる正歌劇。モーツァルトの得意とした楽しいオペラ・ブッファ(喜歌劇)とはストーリーも音楽もひと味異なる。「イドメネオ」は海神との約束により、息子イダマンテをいけにえにしなければならなくなった父親イドメネオの苦悩を描いたオペラ。だが、アライサがデビューしたのはモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」の青年士官フェルランドだった。これは多分にコメディー的な要素が含まれている役だ。
「私のなかにファニーな部分というのはまったくありません。ですから、あまり長い間コミカルな役が続くと、結構キツイですね(笑)。他のシリアスなものを歌いたくなります」
 笑顔のアライサは人形のような長いまつげのもち主。ステージでいつも王子を演じているからか、全体の雰囲気が貴公子然としている。話しかたには独特のリズムがあり、どんな質問にもゆっくりとことばを選びながら一生懸命答える。
 ファニーな部分はまったくないといった彼が、たったひとことジョークをいったのは、ドン・オッタービオのアリアは技術的に難しくて、たとえお風呂で歌ってもうまく聴こえないよ、と笑ったときだった。
 彼がときおり見せる笑顔は格別で、リサイタルのあと拍手が鳴りやまないときに、はにかんだような表情でアンコールを決める、あのときの笑顔と同質のものだった。
「アンコールというのは、聴衆に対しての私からのギフトです。聴衆と一体になり、親密で家族的な雰囲気に包まれたときは最高です」
 来年はいよいよアライサの得意なロッシーニ生誕200年にあたる年。音楽祭をはじめロッシーニを歌うスケジュールが目いっぱい詰まっている。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。もうあれから20年以上もたつのに、若々しいアライサの姿とみずみずしい歌声はいまだ脳裏に強く焼き付いている。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:12 | - | -
ネルソン・フレイレ
 ブラジル出身で現在はパリでも多くの時間を過ごしているピアニスト、ネルソン・フレイレは、私の大好きなピアニストである。彼は正統的で情熱的で躍動感に満ちた演奏を得意とするが、そのピアノの奥にはえもいわれぬ内省的な美が潜んでいる。
 ショパンもグリーグもシューマンも、フレイレの手にかかると詩情豊かな色彩感あふれる音楽になるが、どこかに静けさとナイーブさが宿っている。
 素顔のフレイレはとても物静かでシャイ。口数は少なく、おだやかで、ちょっと気難しい。
 以前、ダン・タイ・ソンが、「ネルソンは、ぼくがブラジルに演奏にいくときはいつでも自宅のキーを貸してくれる。自由に練習していいよ、家も好きに使ってといってくれる。本当にいい人なんだ」と語っていたが、まさに性格のすばらしい人。
 インタビュー・アーカイヴの第35回はそのフレイレの登場だ。

[intoxicate 2005年夏号]

情熱的で繊細なピアノを奏でる心やさしき自由人

 ネルソン・フレイレは、いつもコンサートのアンコールでひとつの作品をそっと弾き出す。それはグルック作曲「オルフェオとエウリディーチェ」より「精霊の踊り」。ロマンあふれる美しい旋律とゆったりとしたリズムに彩られたこの作品は、聴き手の目を自然に閉じさせ、心身ともに曲に没頭させてしまう不思議な魅力を備えている。
 これはフレイレが子どものころから敬愛し、いまなお部屋に写真を飾り、彼女の思い出を大切にしているブラジル出身の名ピアニスト、ギオマール・ノヴァエスが好んで弾いていた曲である。
 ノヴァエスはフレイレにとって大先輩にあたるが、彼女はフレイレの才能を高く評価し、さまざまなアドヴァイスを与えてくれた。
「精霊の踊り」は、ノヴァエスも録音を残している。彼女の演奏はフレイレよりもテンポがゆったりとし、古雅で気高い雰囲気を醸し出している。そしてフレイレの演奏もまた、非常に味わい深く、涙が出そうなピュアな美しさを秘めている。
 世界各地でフレイレはこの作品を演奏しているが、いずこの地でも常に会場はシーンと静まり、ひとつの音ももらすまいとみな神経を集中させて聴き入る。
「私は幼いころから多くの偉大なピアニストの録音を聴いてきました。ルービンシュタイン、ホロヴィッツ、バックハウス、ギーゼキングなど。ルービンシュタインの実際の演奏を聴いたのは22歳のとき。ホロヴィッツはマルタ・アルゲリッチと一緒にニューヨークで聴きました。これらはいまでも強烈な印象となって残っています。ルービンシュタインの自由さ、明快さはすばらしい。ホロヴィッツはオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団とのコンチェルトでしたが、マルタとふたりでからだのなかを電流が走るほどの衝撃を受けましたよ」
 フレイレとアルゲリッチはともにウィーンに留学したころに出会った。ともに気が合い、音楽的にも共通項があると感じ、以後45年間にわたってよき友人としてのつきあいが続いている。
「私がウィーンに行ったのは14歳のとき。両親と離れ、ひとりになって自由を満喫。練習などせず、散歩したりカフェに行ったり、遊びまくっていた。そんなときラフマニノフがシューマンの《謝肉祭》を録音したものを見つけて大感激。自由でクレージーな演奏だった。早速まねをしてレッスンにもって行ったら、先生に唖然とされた。マルタに出会ったのもそのころで、最初から自然にコミュニケーションがとれた。性格も音楽もまったく違うのに、なぜかウマが合う。いまでは何もかもわかりあっている感じ。ふたりが一緒に演奏すると、どちらかに演奏が似るのではなくまったく異なった第3の人間が生まれ、その人が弾いているようになる。みんなにそういわれるんだよ」
 フレイレはブラジル時代、神童といわれ、両親はその才能を伸ばすべくあらゆる手段を講じた。やがて12歳でリオ・デ・ジャネイロ国際ピアノ・コンクールで優勝し、ウィーンに留学。ここでフリードリヒ・グルダの師であるブルーノ・ザイドルホーファーに師事する幸運に浴す。
「グルダはブラジル人にとってのヒーロー。彼はブラジルでベートーヴェンのピアノ・ソナタ全32曲を演奏した。それを聴いて若いピアニストはウィーンに留学することを切望するようになったんです。彼は私たちに新たな道を拓いてくれた。演奏は健康的で知的で男性的。みんなあこがれたものです」
 2001年、フレイレは長年の沈黙を破ってショパンの作品集をリリース。以後、シューマン・アルバム、そしてショパンのピアノ・ソナタ第2番「葬送」などを立て続けに録音している。
「私は束縛されたり、お仕着せが大の苦手。今回は好きな時期に好きな作品を録音していいよ、といわれたのでOKしたんです。コンサートのプログラムも変更はしょっちゅう。4回くらい変えることはざらだから、いつも関係者から怒られる。でもね、何年も先にどの作品が弾きたいかなんてわかるわけないでしょ。そのときになって、初めてこれがいま弾きたいとなるわけ。だから、私に関しては先のことはまったくわからないね(笑)」
 自由をこよなく愛し、海辺を散歩したり、ボーッとしている時間が大切だというフレイレ。リオ・デ・ジャネイロの家には4匹の犬、パリの家には1匹の猫がいる。彼らはフレイレの演奏するヴィラ=ロボスの作品が大好きなのだという。
「ヴィラ=ロボスの作品にはブラジルの魂が込められている。ジャングルや鳥など自然をほうふつとさせる面もあるけど、人々の心温かな気質も感じられる。ヴィラ=ロボスはまったくの独学で作曲家になった。これを聞いただけでも、ものすごく自由な魂を感じないかい。音楽の壮大さと人間のぬくもり、その両面が共存している」
 フレイレはとてもシャイでナイーブな目をした人である。話しかたもポツポツとしてゆっくり。決して雄弁ではない。しかし、そのことばからにじみ出てくるやさしさと温かさ。これが特有の空気感を生み、いつしか場をなごませる。
 話が終わるときにいつも「フフフッ」といった感じで短い笑い声が入るのも特徴だ。モットーは「小さなことでも幸せを感じること」。演奏も音色のひとつひとつが心に響くもので、ピアノを聴く真の幸せを存分に堪能させてくれる。こういうピアニストはひんぱんに来日してほしいと願うのだが…。
「さてね、先のことはわからないよ。日本は大好きで、和食に目がないからすぐにまた来日したいけど、どうなるかなあ。次の録音? これはレコード会社が決めてくれたよ。シャイー指揮のライブツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とブラームスの2曲のコンチェルトを入れる予定。ボーッとしていちゃいかんね、練習しなくちゃ(笑)」
 何か決められると息苦しくなり、夢の世界に逃げ込むというフレイレ。あくまでも自由を優先して人生を歩む。その人生哲学が演奏に投影され、聴き手の心を解放させ、私たちにも自由を与えてくれる。人はさまざまなしがらみを抱え、それから解き放たれることは至難の業。フレイレのような生きかたは現代人の理想かもしれない。
 今日の写真はその雑誌の一部。いつも彼に会うと、人見知りをするおとなしいクマちゃんのような印象を受ける(失礼)。演奏のみならず、その性格も私は大好きだ。




 
| インタビュー・アーカイヴ | 22:31 | - | -
ミシェル・プラッソン
 1998年6月、サッカー・ワールドカップのフランス大会が行われた年に、トゥールーズで指揮者のミシェル・プラッソンにインタビューすることになった。翌年2月に行われる「東芝グランドコンサート」でトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団とともに来日することになっていたからだ。
 このときは日本代表がトゥールーズで試合をすることに決まっていたため、私は町を散策しながらサッカーショップをのぞいたが、どのショップにも日本のサポーター向けの商品はいっさいない。
 そこでショップのオーナーらしき人に「もうすぐ日本から多くのサポーターがトゥールーズにくると思うから、日本人向けの商品があったほうがいいと思うわよ」というと、その人はびっくりした顔をしていった。
「えっ、日本は野球が好きな国じゃないのか。サッカーなんて見にくるとは思わなかった。そうか、もう時間がないからこれからすぐに日本代表のことを調べて、応援する人たちが好きな商品をたくさん仕入れることにするよ。商売のプラスになることを教えてくれて、ありがとよ(笑)」
 これは仕事以外のほんのひとときのリラックスタイム。さて、インタビュー・アーカイヴの第34回は、そのマエストロ・プラッソンの登場。

[アサヒグラフ 1998年冬]

「輝かしい色彩感に満ちた響きを引き出したい」

 オーケストラは、その土地の風土、気候、伝統や慣習、人々の気質を映し出す存在だといわれる。ベルリン・フィルにはベルリン・フィル特有の国際都市としてのインターナショナルな響きがあり、ウィーン・フィルにはウィンナワルツに代表される伝統に根差した舞踏のリズムが息づいている。そしてアメリカのオーケストラもまた、それぞれの都市の特徴を音色に反映させている。
 サッカー・ワールドカップの日本戦が行われたことで一躍知られることになった南フランスのトゥールーズにも、この町の特徴をリアルに映し出すオーケストラが存在する。1973年に創立されたトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団である。ここは当初、市立として発足したが、やがて県立に昇格し、1980年には国立の名を冠するまでになった。その立役者がミシェル・プラッソンだ。
「このオーケストラの指揮を始めて今年で30年になります。トゥールーズは昔からとても歌が盛んなところで、人々はオペラや歌曲、民謡などを愛好していました。オーケストラ音楽にはあまり興味がなかったんです。私はそんな人々の耳をオーケストラに向けたかった。フランス作品を演奏するフランスらしいオーケストラを育てたかったんです」
 トゥールーズの町は、古くから「ばら色の都」と呼ばれている。それは建物がレンガで造られているからで、教会も市庁舎も学校も住宅も、すべてこの美しいばら色の屋根や外壁に彩られている。スペインに近いからか日差しがとても強く、木々の緑も濃い。
「私の目指す音楽もまさにこの町の色。ぬくもりに満ちた、ばら色の音色なんです。私はこのオーケストラからそうした輝かしい色彩感に満ちた響きを引き出したいと思い、じっくりと育ててきました。いまでは黄金に輝くような音色、真っ赤な響き、または深い海を思わせるような青の音がほしいと思うと、即座にその響きをオーケストラから導き出すことができるようになりました」
 プラッソンはモンマルトル生まれの生粋のパリジャン。両親が音楽家という恵まれた環境に育ち、幼いころからピアノを始めた。パリ音楽院に入学したころから指揮者を目指すようになり、1962年のブザンソン・コンクールで優勝。その後トゥールーズに移り、このオーケストラと二人三脚で歩むようになる。
「子どものころからいろんな楽器を演奏しました。とにかく音楽家になりたかったんです。でも、戦争があったり、母を失ったり、さまざまなことを経験し、早い時期に自活しなければならなくなった。それでピアノで食べていくようになったんです。最初はクラシックばかりではなく、ピアフの伴奏などもしましたよ。コンクール受賞後は各地のオーケストラから申し込みがあったんですが、私はトゥールーズを選んだ。もう生活のすべてをトゥールーズに注ぎ込みました。いまではパリを捨て、トゥールーズに移住したような気分です」
 トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団の演奏は、音楽がとにかく若々しく明快。ここは若いメンバーが目立ち、新しいことに挑戦したいという前向きな姿勢が見られる。
 もちろん、ふだんの定期公演では他国の作品や現代作品など、レパートリーを限定せずに広く取り上げているが、海外公演ではフランスの有名な作品に焦点を絞っているという。
 来年の初来日公演でもビゼーやラヴェル、ドビュッシー、ベルリオーズなどのフランス作品を披露する予定。
「この土地の人は標準語のフランス語とは少々ニュアンスの異なった、鼻にかかるような方言を話します。それはまるで歌うようなアクセントです。私たちの音楽も目指すのは歌うような響き。洗練された洒脱で粋なフランス音楽ではない、もっと人間的な地方色豊かな演奏。それがこのオーケストラの特徴です。ほとんどの楽員がこの土地の出身者ですから、いつも会話は方言のみ。南フランスの民謡のような素朴でシンプルで温かい音楽、それが理想ですね」

 プラッソンはこのオーケストラの指揮を2003年まで続け(現名誉指揮者)、現在は「すばらしい逸材」と称される北オセチア出身のトゥガン・ソヒエフが音楽監督を務めている。プラッソンが作り上げた色彩感豊かな温かい音楽はそのまま引き継がれ、そこにソヒエフの現代的で個性的な色合いが加わり、トゥールーズならではの特質を備えたオーケストラとして歩みを続けている。
 今日の写真はそのときの雑誌の一部。マエストロ自身もとても温かくおだやかな性格で、話を聞いている間中、ふんわりと大きく包みこまれる感じがした。



| インタビュー・アーカイヴ | 14:23 | - | -
ナージャ・サレルノ・ソネンバーグ、セルジオ&オダイル・アサド
 息の合った演奏家同士の共演は、実力がより強く発揮され、音楽の楽しさが倍増する。
 イタリア出身のヴァイオリニスト、ナージャ・サレルノ・ソネンバーグと、ブラジルのギター・デュオ、セルジオとオダイルのアサド兄弟の場合も、才能と才能がぶつかりあい、とてつもないパワーを生み、聴き手をとりこにした。
「インタビュー・アーカイヴ」の第33回はその3人。音楽も濃厚で情熱的ではげしいものだけど、彼らの顔も「すごく濃い(笑)」。3人そろうと、なかなか壮観。こちらも体温が5度くらい上昇する感じだった。

[FM fan 2000年7月10日〜7月23日号]

「曲想がガンガン湧いてきたよ」(セルジオ)
「兄貴は演奏での難しい面は全部オレにおっかぶせる。ひどいもんだよ」(オダイル)
「即興なんて、目が点になっちゃうわよ」(ナージャ) 


 ナージャ・サレルノ・ソネンバーグといえば、ヴァイオリンの濃厚な響きと個性的な容貌、枠にとらわれない奔放な性格で有名だ。ギターのアサド兄弟も濃さでは負けていない。見事なひげは濃い顔の作りをいっそう際立たせ、演奏も深い思考と超絶技巧、内に秘められた情熱などを特徴とし、しかもそれらがごく自然な形で表現される。
 この3人がトリオを組んで録音したのが「GYPSY」(ワーナー)。セルジオ・アサドが各地のロマ(ジプシー)音楽を自分のフィルターを通してスリリングな曲に仕上げたもので、すさまじい超絶技巧が随所に盛り込まれている。
「兄貴はいつもそうなんだ。自分は作曲にエネルギーを費やすから、演奏での難しい面は全部オレにおっかぶせる。ひどいもんさ。これだってとてつもなく難しい奏法が出てきて、ホント録音中は頭が火事になりそうだったよ」
 弟のオダイルはふだん寡黙だが、曲の難しさに触れると、途端に火を吹く。これに呼応するのがナージャだ。
「あら、私の譜面もものすごく難しいわよ。こんなの弾けるわけないじゃない、っていうところがいくつもあったもの。私はクラシックのヴァイオリニストなのよ。即興なんて、目が点になっちゃうわよ。オダイルが火山爆発なら、私は嵐の状態だったわね」
 とにかく録音はすさまじい雰囲気で行われた。だが、セルジオは彼らならできると判断し、難曲を課した。
「オダイルがブーブーいうのは、いつものことさ。ぼくはナージャに初めて会ったとき、その音楽にほれ込んだんだ。すごいエネルギーとパッションがある。曲想がガンガン湧いてきたよ」

演奏も性格も嵐のよう


 アサド兄弟がニューヨークのナージャの部屋を訪れたのは、音合わせのとき。彼らはナージャの部屋に飾ってある鮫のはく製に度肝が抜かれた。
「ふたりはね、私が以前捕獲した鮫が部屋にドーンと置いてあるのを見て恐怖を感じたらしいの。なんていう恐ろしい女だろうって思ったみたい。これは共演するのは大変だってね」
 ナージャはこういって大笑いする。
「そりゃそうだよ。なんて危険な女性だろうって思った。捕って食われるかもって(笑)。でも、音楽的にはピッタリ合ったんだ。不思議だよねえ」
 アサド兄弟は口をそろえる。しかし、ナージャは最初、ふたりのなかに入っていくのに大変な苦労を要した。
「だって、相手は常にふたり一緒に演奏している。すべて理解しつくしているわけでしょ。私はやっていることも違うし、兄弟でもない。共演が決まったときはすごくナーバスになっちゃって、長い間悩んだの。それで初対面のときはカチカチ。でも、その後飲みにいったらすっかり意気投合しちゃって、いまでは妹みたいなもんよ」
 5月には東京・台場にオープンしたライブ&レストラン、トリビュート・トゥ・ザ・ラブ・ジェネレーションで彼らのライブが行われ、このCDから何曲か披露した。
 その演奏は熱くはげしく深く、ナージャはほとんど暗譜。終始ふたりのギターに雄弁に語りかけ、オダイルはひたすらギターを情感豊かに歌わせ、セルジオが全体をコントロールしていた。彼らはヴァイオリンと2本のギターという斬新な組み合わせを存分に楽しませてくれた。
「私にとって、一番難しかったのはすべてが新しいということ。共演者、作品、そして演奏する場も。最初は1音ずつ音を読んでいかなくてはならなかったから大変だったけど、こういう曲を演奏した後にいつものクラシックのレパートリーに戻ると、何かが違っていることに気づいたの。リズムやフレーズのひとつひとつに新しい感覚で立ち向かえる。弾き慣れた曲に異なる角度からの解釈が加わるわけ。これは発見ね。ふたりに感謝しているわ」
 ナージャがこういうと、アサド兄弟はわざと深々とおじぎをする。
「それはどうも。ぼくたちは彼女からエネルギーをもらったよ。こっちが疲れていると、途端にゲキが飛んでくる。演奏も性格も嵐のようにすごい妹さ」

 今日の写真はその雑誌の一部。このインタビューは時間を過ぎてもみんなの話がいっこうに終わらず、お祭りのようだった。あまりにテンションが高かったため、私は1週間くらい、思い出すとクラクラとめまいがする感覚にとらわれた。いやはや、ものすごく熱い3人でした。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:23 | - | -
リッカルド・シャイー
 2005年からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカベルマイスターを務め、ライプツィヒ歌劇場の音楽総監督も兼任しているリッカルド・シャイーは、これまで各地の重要なポストを歴任。だが、素顔はとても気さくでオープン。
 もちろん、指揮台の上ではきびしい表情で集中力に富んだ演奏を展開するが、インタビューでは陽気で雄弁。イタリア人らしさ満載だ。
 シャイーは著名な音楽学者・作曲家のルチアーノ・シャイーを父にもち、1953年ミラノに生まれた。作曲を父に、指揮法をフランコ・フェラーラに学び、14歳で指揮デビューという早熟ぶりを発揮。19歳のときにマスネの歌劇「ウェルテル」を振ってオペラ指揮者としてデビューを果たした。
 第32回の「インタビュー・アーカイヴ」はそのシャイーの登場。彼は声が素敵で、低く深い声で話す。その声をほめたら、「いまはもうかなり時間がたってしまったからこんな声だけど、実は起きぬけの声はもっと低くていいんだよ」とニヤリ。うーん、さすがイタリア人。こんなことをさらりと口にする。こりゃ、まいりましたな(笑)。 

[FM fan 1991年11月25日〜12月8日号]


マーラーの音楽を聴いて、人生の扉が開かれたように感じた
 


 10月5日、指揮界の若武者ともいうべきシャイーに率いられたロイヤル・アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は、以前とはまったく趣を異にするシャープで現代的な演奏を披露した。シャイーはムソルグスキーの「展覧会の絵」では極力テンポを抑え、プロコフィエフの交響曲第1番やラヴェルの「ダフニスとクロエ」では一瞬火花の散るような輝きを見せ、その個性を強く打ち出していた。演奏に先立ち、13日の朝に行われたインタビューでも彼の内なるエネルギーは強烈に伝わってきて、疲れを知らないタフぶりにイタリアの熱血魂を見る思いがした。

住まいもアムステルダムに移し
もうどっぷりです


――それではまず、ロイヤル・アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団が創立100年を迎えた1988年に、35歳の若さで常任指揮者に就任されたわけですが、そのときはかなり重責だと感じられたのではないでしょうか。
シャイー もちろん指名されたときは、「私にとってこれは重大な転機になるな」と思いました。オーケストラにはいろいろな方針があるものですが、このオーケストラは非常に民主的なオーケストラで、常任指揮者を選ぶのも全楽員の投票で行っています。オーケストラの委員会などの承認を受けることも通常通り行われていますが、最終的には楽員の意見が大きくものをいいます。現在このオーケストラは創立してから104年目に入っていますが、歴代の常任指揮者を見ると、みんな40歳以下で就任しています。これはすでにオーケストラの伝統ともいえる事実になっていて、本当に若いときにポストに就いているんです。
――メンゲルベルクは20代前半でしたよね。
シャイー そうです。彼は24歳でした。ベイヌムはたしか、31歳だったと思います。ハイティンクだって30歳だったんですよ。本当に若いでしょ。ですから私の35歳はそんなに驚くことではないかもしれません。
――そうなると、いままで各地で指揮をしていらしたのを1本にしぼって、コンセルトヘボウに没頭という形になったのですか。
シャイー もう住まいもアムステルダムに移しましたし、どっぷりです(笑)。アムステルダムに家を買いましたから。1986年から音楽監督を務めているボローニャのテアトロ・コムナーレのオペラの仕事は続けていますが、ほかの客演はまったくできません。オランダとイタリアの往復だけという生活です。唯一、夏のシーズン・オフのときにヨーロッパで行われるサマー・フェスティヴァルには参加しています。
――コンセルトヘボウはヨーロッパでも指折りの音響のよさを誇っていますが、最初あのホールで指揮されたときはどんな印象をもたれましたか。
シャイー 私はあのホールはヨーロッパ一の音響だと思っています。いつも世界一だと思っていい気分で振っているのです。最初からすばらしいと思いました。でも、東京にもいい音響のホールはたくさんあると思いますよ。私は1983年にロイヤル・フィルと初めて日本にやってきたときに、東京にあまりにも多くのいいホールがあるのでびっくりしたことを覚えています。このとき私が日本に発つ前に、マエストロ・カラヤンから「東京にはいいホールがたくさんあるから、見ておいで」といわれました。

7歳のときマーラーの交響曲第1番を聴いて
ショックを受ける


――最近マーラーの録音が多いのですが、最初にマーラーの音楽に開眼したのはいつごろでしょうか。
シャイー 1960年に父に連れられてローマのラジオ放送局のオーケストラのリハーサルに行ったときに、今回日本で演奏するマーラーの交響曲第1番を初めて聴きました。そのときにものすごくショックを受けました。マーラーの音楽のすばらしさを知るとともに、このときに音楽のプロになりたいと心に決めたのです。私はたった7歳でしたが。
――そんな小さなころに感じるマーラーに対してのショックというのは、いったいどういうものだったのでしょう。
シャイー 実はそのとき初めてオーケストラをナマで聴いたのです。ですからまずオーケストラの音というものに強い感動を受けました。そこで聴くマーラーの音楽は、無限の宇宙の扉を開けたような感じを私にもたらしました。それはあたかも人生を感じさせました。人生というのは終わりがなく、いろいろと学んでいくプロセスのひとつだと私は思っていますから、マーラーの音楽を聴くことによって人生の扉が開かれた感じがしたのです。
――そうすると、今回マーラーの交響曲第1番をプログラムにもってきたというのも、そのころからの長い思い入れがあるからなのですね。
シャイー 自分自身の気持ちもありますが、このオーケストラとマーラーはとても強い結びつきをもっているのです。50年間常任指揮者を務めたメンゲルベルクは、マーラーとは非常に親しい友人でした。ですからマーラーはしばしばオーケストラを訪れ、自分の作品を自ら演奏していました。コンセルトヘボウの104年の歴史のなかでこの時代はとても大切な時期であり、いまでも私たちはこのころの楽譜から多くのことを学ぶことができます。というのは、この時代の楽譜がオーケストラの大切な資料としてすべて保存されているからです。私たちはそれを見ることによって、このオーケストラの歴史と伝統を実際に学ぶことができるわけです。マーラーの書き込みや注意事項がそこに残っているのですから。
――では、歴代の指揮者たちはみなそのマーラーの楽譜に触れて、彼の実際の解釈に接することができたわけですね。
シャイー マーラー以外にも、ブルックナーやショスタコーヴィチが指揮台に立っています。そのころのオーケストラにとっては、作曲家がやってきて実際に振るのは、ごく日常的なことだったのでしょう。

 インタビューが終わって雑談をしているとき、シャイーは「指揮者になっていなければ、建築家か自然科学者になっていたかもしれない。ピアニストになれると思ったことはあるけど、歌手なれるとは思わなかったなあ」と笑った。
 そしてこうつけ加えた。「きみは私の声をほめてくれたけど、指揮しているときについ旋律を歌ってしまうと、オーケストラの演奏はあまりうまくいかない。やっぱり歌手には向いていないんだね」と、またまたニヤリ。
 最近は貫録がつき、巨匠的な風格もただようようになってきたシャイー。また、インタビューをする機会があるといいなあ。あの声、聴きたいし(笑)。
 今日の写真はそのときの雑誌の一部。まだかなりスリムだよね。あっ、こんなこといったら怒られるか、ダンディが売り物なのに(笑)

| インタビュー・アーカイヴ | 22:55 | - | -
グスタフ・レオンハルト
 チェンバリストとして指揮者、教育者として国際舞台で活躍したグスタフ・レオンハルトが1月16日に亡くなった。享年83。
 生前何度かインタビューし、演奏を聴き続け、あるときはベルギーで開催された「フランドル・フェスティヴァル」まで足を運んだが、常に凛としたすばらしい演奏を聴かせてくれ、話も真摯で一徹な感じだった。
 インタビュー・アーカイヴの第31回はそのレオンハルト。来週と再来週アップのヤマハWEB「音楽ジャーナリスト&ライターの眼」でも以前のインタビュー記事を紹介するつもり。
 今日は別の雑誌の記事を取り上げたいと思う。

[FM fan 1996年6月3日〜6月16日号]

バッハはもっとも自分の心に近い作曲家。バッハを弾いていると作品のおもしろさ、深さにどんどん魅せられていく

 チェンバロ、オルガン、指揮と幅広く活動を続けているレオンハルトが来日し、チェンバロとオルガンのリサイタルを開いた。いずれも会場は超満員。静かな熱気に包まれた充実した演奏会となった。
 レオンハルトは余分なものを持つことを好まない。楽譜と着替えを入れた小さなバックひとつで来日し、お土産も必要とせず、常に身軽。その生きかたが演奏にも反映し、音楽は余分な物がそぎ落とされたシンプルな美しさ。
 演奏者自身もぜい肉のまったくないスリムないでたちで、楽器と相まって彫刻のようなフォルムを形成していた。

バッハの音楽は非常に多彩。演奏する側の気持ちを常に刺激します

――プログラムはバッハからフレスコヴァルディ、フローベルガーなど多岐にわたっていますが、何かテーマを決めているんですか。
「いいえ、私はプログラムにテーマのようなものを持たせたことはありません。ただし、2度続けて同じ曲を弾くことを好まないので、前の演奏会とは異なった形のものを組むだけです。チェンバロの場合は好きな曲を組んでいけばいいのですが、オルガンとなるとその場所、楽器が大きく影響してきますから、まず楽器を考えてから組み立てます」
――やはりバッハが一番の中心で…。
「そうです。私はチェンバロに目覚めたのがバッハだったんです。もうかなり昔のことになりますが、ピアノを弾いていたころバッハに出会い、バッハばかり弾いていました。でも、何か違うなと感じていた。そのころチェンバロの音色を聴き、これでバッハを演奏したら、自分が思い描いているような音が出るのではないかと直感しました。もちろんそれはモダン・チェンバロでしたが、私はすっかり魅せられてしまいました。それ以後、バーゼルで本格的に勉強したわけです」
――それから歴史チェンバロに出合ったわけですね。
「ええ、やがていろんな楽器にめぐり合うようになりました。でも、いつもバッハばかり弾いていました(笑)。もちろんほかの作曲家の作品も勉強しましたが、バッハはもっとも自分の心に近く、バッハを弾いていると作品のおもしろさ、深さにどんどん魅せられていってしまうのです。いまでもこの気持ちは変わりません。和声的な展開、フレーズの微妙なつなげかた、多彩なリズム、曲の構成など凡庸なものはひとつとしてありません。バッハはギャラント・スタイルを先取りしていたような、次の時代を見ていた面もあります。また一方、パレストリーナのような前の時代の様式を取り入れた部分もあります。音楽が非常に多彩で、とてもコンパクトにまとまっているかと思うと、次に長いフレーズが出てくる。演奏する側の気持ちを常に刺激します」
――指揮もバッハが多いですよね。バッハの映画「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」にも主演されましたし。
「一時は指揮ばかりしていると自分が実際に弾きませんから、なんだかなまけものになったような気がして辛かったんですが、いまは作品を勉強して演奏会までもっていく過程は同じだと考えています。指揮をしたことで学んだことも多いですし…。実は、あの映画はスタッフがチェンバロとオルガンの両方が弾ける人を探していたため、私に決まったんです。当時は、この両方を弾く人がごく限られていましたから選ばれただけで、選択の幅は狭かったというわけです。でも、尊敬する偉大なバッハを演じられて、とても光栄でした。またまた、バッハが好きになりました」

自分の好きな作曲家の作品を好きな楽器で演奏できる、こんな幸せはありません

――もうすでに多くのレパートリーを演奏し、また録音もしていらっしゃるわけですが、今後何か新しいことに挑戦するということは?
「いいえ、いまは新しいことに挑戦することはまったく考えていません。いままで行ってきたことを深めていき、少しずつ新しい方向が見つけられればと思っています。私はいま本当に自分の好きな時代の、好きな作曲家の、好きな作品を、好きな楽器で演奏できる。こんな幸せなことはありません。理想的な人生だと思って感謝しています。このスタイルがずっと続くことを祈っています」

 レオンハルトは17世紀から18世紀にかけて作られた「ハウス・バルトロッティ」と名付けられたオランダ最盛期の跡を残した大きな家に住み、古い家具や彫刻や美術品に囲まれて暮らしていると話していた。
 その家に関して話す彼の様子を見ているだけで、その時代に運ばれていくような感覚にとらわれた。レオンハルトの演奏、たたずまい、すべてがバッハの時代へといざなう。もう会えない、あの演奏を聴くことができないと思うと、たまらなく寂しい…。
 今日の写真はそのときの雑誌の一部。素敵な雰囲気をたたえているでしょう。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:38 | - | -
イダ・ヘンデル
 指揮者やピアニストは長命で、演奏活動の非常に長い人も多いとされるが、ポーランド出身でイギリスで長く活躍しているヴァイオリニスト、イダ・ヘンデルも80歳を超えてなお現役である。
 彼女は歴史に名を残すカール・フレッシュやジョルジュ・エネスコに師事し、1991年にはイギリスでCBEを受勲しているほどの偉大なアーティストだが、素顔はとても気さくで人なつこい。
 写真撮影になるとしきりに髪型を気にしたり、「顔、変じゃない?」などと私に聞き、「大丈夫ですよ」というと乙女のような笑顔を向ける。
 こうした長年の歴史、偉大な足跡を感じさせるアーティストに会うと、身が引き締まる思いがすると同時に、生きる活力を与えられる。
「インタビュー・アーカイヴ」第30回はそのイダ・ヘンデル。とても印象に残るインタビューだった。

[muse'e 2004年1月号]

人生のあらゆることに好奇心をもつこと!

「あなたが長年演奏を続け、しかも常に聴き手を深い感動に導く、そのエネルギーのもとは、いったい何なのですか?」
 こう質問した私に、イダ・ヘンデルはごくシンプルな答えを返した。
「人生のすべてに興味を抱いているからよ」
 彼女は、オペラや芝居をはじめとする芸術、さらに生きていく上で遭遇するあらゆること、多くの人との出会い、さらにファッションなどにもいつも好奇心をもって接するという。
「自分の気持ちの赴くまま、自然に生きることがモットーなの。子どものころからずっとそうだったわ。自分を表現することが好きだった。子どもってみんなそうでしょ。私の場合、それがヴァイオリンを弾くことだったわけ」
 3歳からヴァイオリンを始め、7歳でカール・フレッシュに弟子入り。やがてジョルジュ・エネスコに師事する。初めてオーケストラと共演したのも7歳のとき。オランダでメンデルスゾーンのコンチェルトを演奏した。そして9歳でベートーヴェン、10歳でブラームスのコンチェルトを演奏する。
「このころから、ブラームスがすごく自分の心に近い存在だと気づいたの。いまでもブラームスを弾くたびに作品のすばらしさを実感する。フレッシュやエネスコから学んだもっとも大切なことは、作曲家に敬意を抱くこと。楽譜からすべてを読み取り、それをあるがまま演奏すること。よくマスタークラスの生徒から『一日どのくらい練習したらいいか』と聞かれるけど、時間じゃないの。どれだけ作曲家に近づくことができるかが大事なの」
 イダ・ヘンデルの演奏は、実に自然体。作品と真摯に向き合い、その深い部分に入り込んでいく。派手なパフォーマンスもなければ、超絶技巧を見せつけることもない。エレガントで高潔でぬくもりが感じられる。
 ポーランドに生まれ、戦争を体験し、さまざまな試練を乗り越えてきた彼女はいま、「人生のすべてを愛している」と悠然と語る。凛とした演奏と相まって、そのことばは力を与えてくれる。
「また、5月に日本に戻ってくるのも楽しみよ」
 友人のマルタ・アルゲリッチに、「別府アルゲリッチ音楽祭」への参加を要請されたのだという。アルゲリッチとはよくベートーヴェンのトリオで共演しているのだそうだ。
「共演する音楽家からはいろんなことを学ぶわね。チェリビダッケからは冷静に作品を分析し、知性を働かせることを学んだ。私はそれまで自分の本能の赴くままに演奏していたから。フレッシュはフィンガリングの大切さをいつもこまかく教えてくれたけど、それもあらゆることを考慮した上で決めること。音楽に終着点はない。私はこれからもずっと作品のすばらしさを学び続けていくつもり」
 現在は、愛犬Deccaとアメリカに暮らす。
「初めてDeccaと録音契約したとき、スタッフがクリスマスに犬を贈ってくれたの。もう何代目にもなるけど、名前はずっとDecca。別府に連れてきたいんだけど、何かいい方法ない?」

 今日の写真はその雑誌の一部。彼女は本気で愛犬との同行を考えていた。その話をするときも、とってもチャーミング。愛すべきすばらしいキャラクターの持ち主である。もちろん、演奏も喜怒哀楽の感情がストレートに伝わるもの。
 イダ・ヘンデルにはその何年か後に東京のホテルのロビーでばったり会い、再会を喜んだ覚えがある。また、ぜひ会いたい人である。


  

| インタビュー・アーカイヴ | 23:13 | - | -
マリア・グレギーナ
 来日するごとに圧倒的な歌唱力と演技力、そして存在感で聴衆を魅力するウクライナのオデッサ出身のソプラノ、マリア・グレギーナ。
 彼女はいま歌っている役にのめり込むことで有名だが、インタビューでもひとつひとつの質問に対してじっくりと考え、誠意ある答えを戻してくれた。
 インタビュー・アーカイヴの第29回はそのグレギーナ。彼女はドラマティック・ソプラノと呼ばれ、「トゥーランドット」「トスカ」「マノン・レスコー」「アンドレア・シェニエ」「ナブッコ」「マクベス」「運命の力」など、幅広いレパートリーをもち、それぞれの役で個性を発揮している。

[marie claire 2002年8月号]

愛に包まれた生活をしたい

「何度歌ってもいつも新しい発見がある。それがひとつの役を練り上げていくことにつながると思うの。同じ歌いかた、表現力で満足したら、もうおしまい。毎回毎回その役にいかにしたらなりきれるか、そればかり考えているのよ」
 いま、世界中のオペラハウスから引っ張りだこの人気ソプラノ、マリア・グレギーナは努力の人である。
 学生時代は「ちっとも勉強せずになまけていた」そうだが、プロとしてスタートを切ってからは自己の限界まで練習し、役になりきり、自分の声を鍛え上げている。
「いつも声がどんな状態にあるか自分の内面に問いかけ、オペラの役を慎重に選んできたの。だれでも若いころは大きな役がくると無理して挑戦してしまう傾向があるけど、これは危険なこと。声をつぶしてしまうから。私はいまだから《トスカ》が歌える。25歳だったら歌えなかったわね。この役はさまざまな歌唱、表現力を要求されるとても深い役だから。いまや私の分身よ」
 現在は「トスカといえばグレギーナ」といわれるまでになった。彼女はこれを歌っている間トスカになりきり、私生活でも彼女のように情熱的にふるまってしまうという。
「歌手は情熱を失ったらダメよね。私もいつも愛に包まれた生活をしたいと思っているわ」
 こういって笑う彼女のかたわらには、学生結婚したというバリトン歌手のご主人が寄り添う。
 彼はグレギーナを世界的な歌手へと押し上げた立役者。一目ぼれでいまでも彼女に熱い気持ちを捧げる。
「今後は《ノルマ》と《椿姫》を歌いたい。どちらも劇的なアリアが多く、一途な愛に生きる役。またずっと熱い目をしていなくちゃ(笑)」
 そんなグレギーナの「トスカ」が今夏日本に上陸。聴衆の心を揺さぶるはげしい舞台になるだろう。

 今日の写真はその雑誌の一部。
 実は、インタビューが終わって彼女はこんな打ち明け話をしてくれた。
 学生時代に彼女に魅了されたご主人は、貧しかったため、昼食を食べずにそのお金をため、それで花束を買って毎日グレギーナに届けたのだという。 
「ここまでされたら、女はみんな降参するわよね。でも、その熱意がいまでも続いているんだから、主人の情熱はすごいと思うわ。私も負けないようにしなくちゃね」
 こういってにこやかに笑う彼女を、温かく見守るようにじっと見つめるご主人。いやあ、まいりましたなあ。グレギーナの話も熱気あふれるものだったけど、ふたりの愛情の深さに部屋はムンムンと熱くなっていました。

| インタビュー・アーカイヴ | 21:16 | - | -
バーバラ・ボニー
 世界一美しいリリック・ソプラノといわれるバーバラ・ボニー。しかし、そのキュートな声とは裏腹に、冒険心旺盛な女性だ。
 彼女の得意とするオペラの役は数々あれど、1994年3月にウィーン国立歌劇場で聴いたクライバー指揮によるR.シュトラウスの「ばらの騎士」のゾフィーが忘れられない。このときはフェリシティ・ロット、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター、クルト・モルら、当時考えられる最高の歌手陣が勢ぞろい。
 いま思い出しても心が高揚してしまうくらいだ。このライヴはDVDに残されているが、最高の「ばらの騎士」と称されている。
 インタビュー・アーカイヴの第28回はそのボニーの登場。ボーイッシュで凛とした美しさがあり、知的で人なつこく、とても魅力的な人だった。

[マリ・クレール 2003年2月号]

人のハートに触れる歌が歌えたら最高

 バーバラ・ボニーの歌声は透明感のある美しい高音が特徴。世界でもっとも優れたリリック・ソプラノ(叙情的な)といわれている。それゆえ、彼女にはオペラのかわいい女性役が多く回ってくる。
「昔からピンクの洋服を着るような役ばかり。声質によるのでしょうが、私自身はショートヘア、パンツ、ゴルフが大好きなタイプ。オペラを20年間歌ったときにもっと違う道があると思い、リート(歌曲)を始めたの。これが可能性を広めてくれた。ピアノ伴奏だけでずっと歌うのはキツイけど、作品は山ほどある。聴衆とのコミュニケーションも密度が濃いの」
 最近、シューマンの歌曲集「詩人の恋」を録音し、注目を集めた。なぜなら、これは男声用の作品だから。
「ハイネの詩は男性の愛を表現したものだけど、それを女性側からとらえるとまた違った魅力が出ると思ったの。私はいつもクラシック音楽の新しい顔を見出し、それに挑戦していきたいと考えている。でも、新しいことをするとヨーロッパではなかなか受け入れられない。冒険をするのも勇気がいるわ」
 ポニーのチャレンジ精神は、遠い祖先がビリー・ザ・キッドということにも関係あるのかもしれない。
「この話にはいろんな説があるのよ。本当はビリーを殺したほうらしい(笑)。でも、私は末裔だと信じている。冒険心は子ども時代から旺盛だったわ。ジュリー・アンドリュースの映画《サウンド・オブ・ミュージック》にあこがれ、髪を切ったりギターを習ったり。いつも何か新しいことを自分に課そうとしていた。
  ザルツブルクに留学したのは、チェロをもっと上達させたかったことと、ドイツ語を勉強するためだったけど、たまたまオペラのオーディションに受かり、オペラ歌手としてスタートすることに。オペラを長年歌ううちにまたチャレンジ精神が頭をもたげてきた。もっと聴衆とじかに向かい合いたい、ハートに触れる歌を歌いたいと思うようになったの。それでリートを歌う道を選んだの」
 ステージでは、故ダイアナ妃のデザイナーとして知られるエスカダの衣裳を着ることが多い。だが、ふだんはTシャツとジーンズばかり。趣味は、ボーイッシュな外見とは逆に女性らしい料理と手芸だ。
「私の職業は、空港や楽屋など待ち時間が長い。そういうときにはいつも刺繍をしている。頭が休まるから。家には年間40、50日しかいられないから、主人と一緒のときは料理三昧。そしてまた舞台へと飛び出すの」

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。インタビューを終えて私がテレコを止めた途端、「もうオフレコね」といって、ジョークやここだけの話というのをたくさんしてくれた。女性にも男性にも愛される、素敵な人だ。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:48 | - | -
サイモン・ラトル
 来週、サイモン・ラトルとベルリン・フィルのコンビが3年ぶり、4度目の来日公演を行う。今回は、樫本大進がコンサートマスターに就任してから初めての来日公演となる。私は初日22日のマーラーの交響曲第9番を聴きに行く予定になっているが、本当に楽しみだ。
 そこでインタビュー・アーカイヴ第27回はマエストロ・ラトルの登場。2004年の晩夏にベルリン・フィルの指揮者室でインタビューを行ったものである。

[Relax 2005年1月号]

「この映画は子どもたち、そして私とベルリン・フィルの人生を変えた。みんな自分の未知なる可能性と創造力に気づいたんだ」

 いま、ベルリン発のひとつのドキュメンタリーが話題だ。それは、サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル演奏のバレエ曲「春の祭典」を、ベルリンの子どもたち250人が踊るというトライアルの熱い記録。古典と現代、そして世代を超えたエネルギーの渦をラトル自らが語る!

「どんな曲を使うか、これがもっとも重要な点だった。だって、考えてみてよ。チャイコフスキーの『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』だったら、どんなダンスをしてもプロのダンサーには勝てない。もっと自由でエキサイティングで、子どもたちが身近に感じられる音楽にしたかったんだ。ストラヴィンスキーの『春の祭典』は若者にとって聴きやすいし、リズミカルで踊りやすい。からだが自然に動き出すと思うし」 
 ラトルはドキュメンタリー映画「ベルリン・フィルと子どもたち」の話になると、途端に早口になる。エネルギッシュな語りはあたかも彼の音楽のようで、ことばが次々とあふれ、手の動きも交えてからだ全体で意思表示をする。ふだんはじっくりとひとことずつかみしめるように話し、相手の反応を見ながら次の話題へと進むが、映画に関しては、とどまるところを知らない。
「現在は世界中の人々が問題を抱え、壁にぶつかり、悩みやストレスにさらされる毎日を送っている。この映画はそうした人たちにぜひ見てほしいと思う。きっと現状から立ち上がる勇気が湧くと思うから」
 ラトルは2002年春、ベルリン・フィルの芸術監督に就任したとき、ひとつのアイディアを契約に盛り込んだ。「教育プロジェクト」と題した、子どもや青少年のための音楽教育プロジェクトである。これは「子どもたちにもっと音楽のすばらしさを感じてもらいたい」というラトルの願いから発したもの。「ベルリン・フィルと子どもたち」はその願いが結実したドキュメンタリー。2004年2月、ベルリン国際映画祭でのワールドプレミアでは観客を熱狂の渦に巻き込み、その後各国映画祭でも特別招待作品として上映されている。
「不思議だよねえ、子どもたちを主役に撮影したものなのに、大人がみんな感動してくれる。音楽に国境はないというけど、年齢も何も関係ないってことがこれで証明されたよね。実際、音楽を説明するのにことばはいらない。いい演奏をすればみんながわかってくれる。映画は子どもたちに“きみたちは自分を変えることができる”ということを音楽を通して訴えているんだけど、これは大人にも通じることだと思う」
 サイモン・ラトルはビートルズゆかりの地、リバプールに生まれた。幼少のころよりパーカッションに親しみ、やがて指揮者の道を歩み始めたラトルは、いまや世界の最高峰に位置するオーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者および芸術監督に上り詰めた。
 だが、素顔のラトルはちっとも偉そうではない。Tシャツやジーンズを愛し、楽員たちとトレーを持ってオーケストラの本拠地であるフィルハーモニー大ホールのカフェでランチの列に並び、「サイモン」と気軽に呼ばれることを好む。1994年、39歳の若さで音楽界への多大なる貢献を称えられて爵位を授与され、サー・サイモン・ラトルと呼ばれるようになったというのに。
 そんなラトルは、幼いころからジャズを聴き、「音楽の大切な要素はリズムだ」と感じてきた。そして、20世紀に生まれた作品や現代の作曲家が生み出す作品を好む。このドキュメンタリーの原題も「RHYTHM IS IT!」。20世紀初頭、ロシアの作曲家、I.ストラヴィンスキーが書いた最高傑作といわれる「春の祭典」の幻想的な響き、神秘的な旋律を強烈なリズムを前面に出しながら指揮している。
「春の祭典」は異教の祭典で春の神の心を鎮めるためにいけにえの処女を捧げ、彼女は死ぬまで踊り狂うというストーリー。音楽ははげしく哀しく美しく、さまざまな表情を持ちながらすさまじいクライマックスへと突入する。初演当時はあまりに前衛的で、大スキャンダルとなった作品である。
 映画では、冒頭からラストシーンまで多くの子どもたちや振付師、ラトルらが自分の人生を淡々と語る。そのことばは非常にリアルで、見る者の心の奥の扉を強烈にノックする力を備えている。人は悩み、困難に直面し、それを必死で乗り越えていくものなのだということが伝わってくる。
「音楽は勉強するものではなく、からだ全体で感じるもの、そして表現するものだと思う。『春の祭典』はリズム、色彩がすばらしく、万華鏡のような作品。音楽が私たちを成功へと導いてくれたんだ」
 ラトルは「コミュニケーション」ということばが大好きだ。指揮者である自分とオーケストラとのコミュニケーション、子どもたちとのコミュニケーション、そして作品とのコミュニケーション。
「でも、忘れてはならないのは聴衆とのコミュニケーション。これなくしては演奏は成り立たない。私は常に聴衆が何を求め、どんな音楽を聴きたいかを把握していたい。自分だけ満足していたのでは時代に置いていかれてしまう。いま現在、みんなが何を欲しているか、それを見極めないとね」
 時代の寵児と呼ばれるラトル。彼の目は世界を見、時代を見、未来を見つめている。

 今日の写真はその雑誌の一部。カメラマンが百面相のようなラトルの表情を撮影し、編集者がそれをページ全体にちりばめた。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:11 | - | -
ブルーノ=レオナルド・ゲルバー
 9月29日、ブルーノ=レオナルド・ゲルバーのリサイタルを聴きに行った。
 彼は長年ベートーヴェンをメインに据えたプログラムを披露しているが、今回の前半もベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番「月光」と第23番「熱情」だった。
 いつもながらゲルバーのベートーヴェンは打鍵が深く、肉厚な音色で、構成力が堅固、圧倒的な存在感を示す。
 ただし、今回は後半にムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」が組まれていた。これがまたすさまじい迫力と熱気を帯びた演奏で、冒頭のプロムナードからパワー全開。とりわけ最後の「キエフの大門」が印象深く、まさに壮大なフィナーレとなった。
 インタビュー・アーカイヴ第26回はそのゲルバー。何度かインタビューをしているが、いつも肌の美しさに感動してしまう。
 実は、あるとき肌のお手入れ方法を聞いたら、あまりに率直に単刀直入に聞いたため、ゲルバーは笑い出してしまった。「きみ、はっきり聞くねえ」といい、いつも使っているという高級クリームを見せてくれた。とても私の手が出せるような栄養クリームではなかったが、香りをかがせてもらったら、とても気品のある自然な芳香だった。いまでもその香りは記憶に残っている。

[レコパル 1994年8月号]


演奏家というのは作品を映し出す鏡。その鏡を毎日磨いておかなければ。


 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音に挑んでいるゲルバーが、突如ブラームスのピアノ・ソナタ第3番をリリース(コロムビア)。なぜここで急にブラームスに寄り道をしたのかと不思議に思っていたところ、来日公演でもベートーヴェンとブラームスを組み合わせたプログラムを披露し、圧倒的な感動を聴き手にもたらした。
 そのブラームスはベートーヴェンの延長戦上にあるといおうか、ベートーヴェンの精神に非常に近いもので、強さのなかに祈りにも似た静けさを感じさせるものだった。
「だって私はミスター・ベートーヴェンではないんですよ。ベートーヴェンがいくら好きでも、そればかり弾いているわけではなく、幅広く演奏しています。たまたまレパートリーに入っていたブラームスを入れた。実にシンプルな理由です」
 いや、決してそうではないはずだ。ゲルバーはベートーヴェンを半分録音したところで、きっと新たなる地平線が見え、そこにブラームスのソナタ第3番に通じるものを感じたのだと思う。
「けっこうこだわりますねえ、きみ。物事をそんなに複雑に考えてもしょうがないんじゃない。私はごく単純にブラームスが弾きたい、そう感じたから録音しただけなんですよ。でも、そうか。そういわれるてみると、確かに心の奥底にベートーヴェンとブラームスが寄り添っているのが見えるような気がするよ。うん、私には彼らふたりはごくそばにいる感じがする。それぞれ離して考えられない存在だね」
 このふたりの作曲家についてしつこく食いさがっていたら、ゲルバーはベートーヴェンがいかに好きかを、滝から水が流れ落ちるに雄弁に語り出した。
 それによると、彼は一生ベートーヴェンだけでも暮らせるという。ベートーヴェンさえ許してくれるなら一生を捧げたいと。そこまで入れ込む理由はいったい何だろうか。
「私はベートーヴェンの作品と人間性の両面を深く愛しているからですよ。彼はいつも上昇志向があり、神に近づこうとした。それが作品を神聖なものにしている。でも、日常的にはとても闘争心の強い人だった。このふたつが同居している。そんなすべてが強い力になって現れている」
 その力とは決して叩きつける強い力ではなく、生命の躍動を意味するという。それがブラームスにも宿っていると。ゲルバーはそんな話をしながらも、練習したくてたまらないという素振りをした。通常、アーティストのインタビューは、撮影込みで1時間である。その1時間がアーティストにとっては惜しいのだ。だからといってゲルバーは、おざなりな受け応えをする人ではない。誠心誠意、相手が納得いくまで話し、こまやかな神経を遣う。
 だが、取材が終わり、カメラマンが機材を片づけるころになると、しきりに楽器のそばに行って鍵盤をなで始めた。指をすべらせ、旋律を歌っている。ホテルではピアノは夜9時までしか弾けないから、それ以後はヘッドホンをつけてデジタルピアノで指の練習を夜中までするといった。
 こういう一途な姿勢に触れると、私はいつもその演奏と同様に心を打たれる。よく大家になると、日々あくせくと練習などしなくても何でも弾けてしまうんじゃないかと思う人がいるようだが、決してそうではない。一流の演奏家ほど練習し、1日のスケジュールは練習を中心に組み立てられていく。それほどたゆまぬ研鑽が必要とされるわけだ。
「演奏家というのは作曲家が精魂込めて書いた作品を映し出す鏡ですからね。その鏡を毎日磨いて、いつでもきれいに映る状態にしておかなくてはならない。同時に感受性も磨かなくてはね。美しい物を見たり聴いたりしたときに本当に感動して、涙を流すほど。こういう心がなくてはいい演奏なんてできっこありません。自分が感動しなくて人を感動させることなんてできるわけがありません」
 ゲルバーは常に美しい物だけに囲まれて暮らしたいと考えている。美しい花、美しい自然、美しい環境、そして美しい音楽。それには自分がだらしない恰好をしていてはいけない。だからいつも人に会うときはビジッとスーツで決めている。
「だらしない恰好をしていると、精神までだらしなくなってしまうんです。それでは偉大な作曲家に申し訳ない。きちんとするということは大変なエネルギーを要しますが、日々の過ごしかたが演奏に全面反映してきますからね。自分の鏡が曇らないようにしているわけですよ」

 今日の写真はその雑誌の一部。肌を磨くのも、美しくありたいためなのでしょうね。その精神にあやからなくては…。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:20 | - | -
ヴァレリー・アファナシエフ
 ヴァレリー・アファナシエフは、ちょっと変わっていると思われている。それは個性的な風貌、ピアニスト以外の文学的な活動をしていること、不思議な空気を生み出すステージなどが影響しているようだ。
 しかし、実際にインタビューで会う彼は、おだやかな笑みを浮かべた物静かで思索的な芸術家という感じ。今秋、リスト・プログラムで来日が決まっているが(11月18日、浜離宮朝日ホール)、ずらりとリストを並べるだけではなく、「リストとその時代へのオマージュ〜葬送〜」と題し、他の作曲家の作品も加え、リストの時代を浮かび上がらせる。
「インタビュー・アーカイヴ」第25回は、そのアファナシエフの登場。ちょうど20年前の彼の「いま」を切り取った感じだ。

[FMレコパル 1991年12月9日〜12月22日号 No.26]

ゆったりとしたテンポが、異様とも思える独特な世界を生む

 アファナシエフの新譜「展覧会の絵」(コロムビア)を初めて聴いたとき、そのあまりにもゆっくりとしたテンポ設定に唖然とした。冒頭の「プロムナード」から、異様とも思える雰囲気を醸し出して曲が進められていくのだ。彼のテンポはただ遅いだけではない。どこか奇々怪々とした趣が曲全体にみなぎり、聴き始めると徐々にこの一種独特の世界に引き込まれていってしまう。
 それは音楽全体の作りかたがあたかも大きな芝居のようで、アファナシエフ自身が主役を演じているような、また彼が演出にまわってもうひとりの分身に演じさせているような、そんな感じがする。
 それもそのはず、彼はこの曲をもとに戯曲を書き(今回のディスクの解説書にはその戯曲の掲載されている)、それを人形芝居炒りで演じたりしている。
 特に「チュイルリー」とか「殻をつけたひなたちのバレエ」などふつうは速くこちゃこちゃっと弾かれるところだが、ここでは打鍵が深く1音1音かみしめて演奏されている。音と音との間のとりかたも長く、私はつい、次の音の出を待って前のめりになりそうな感覚を抱く。
 アファナシエフはナマのコンサートの場合も常に斬新なプログラムを組んできたが、今回の来日公演ではシューベルトの最後のピアノ・ソナタ3曲を一夜で弾くという、これまた彼ならではの画期的な試みを見せた。
 なにしろ、通して弾くと2時間半はゆうにかかるというプログラム。聴き手も相当の体力と気力を要求される。だが、当の本人は超人的な集中力をずっと持続し、バリエーションの部分ではすばらしい構成力と美音を響かせ聴衆を魅了した。
 彼の場合は、ステージに現れた瞬間からすでに音楽が開始されているといっても過言ではない。ちょっとアンニュイな表情でゆったりと歩を進め、いすにすわるやいなやピアノの弦の部分に両手をあてがって何か祈るような仕草をする。そして手をひらひらと宙に浮かせたかと思うと、腕まくりをするがごとく上着の袖から両腕をニョキッと出し、かなり高い位置から鍵盤にバーンと手を下ろし、第1音が鳴り響く。しかしここまでくる間に、もう私の頭のなかには彼の奏でるピアノが鳴っているような気がした。
 演奏中も一瞬たりとも目が離せない。手のひらひらはしょっちゅう行われるが、これが下ろされる瞬間の音に、全神経を集中して気をつけていないと音楽の流れがつかめない。
 アファナシエフはこの両手の屈伸運動とでもいうべき動作でリズムを刻んでいるのだ。シュワーッという感じで上に持ち上げられていくので、聴き手は何か魔法にかかったように彼の手の動きにつられてしまう。
 しかし、演奏はじっくりと練られたもので、曲が進むにつれてその密度の濃い音楽性に身も心もどっぷりとひたってしまった。

これからは小説よりも英語の詩を書いていきたい

 そんなアファナシエフだから、さぞ気難しいか、話の内容がわけのわかならい抽象的なことに終始するのではないかと懸念したが、それはまったく杞憂に終わった。彼はとてもエレガントな物腰で自然な笑みを浮かべながら雄弁に語った。
「ずいぶん前から音楽に戯曲を付けることは考えていました。次にはシューマンの《クライスレリアーナ》を予定しています。ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》もそのうち自分なりのストーリーを付けてみようと思っています」
 アファナシエフはこの「展覧会の絵」の戯曲はたった4日間で書き上げたという。その替わり、こまかい箇所の質問をすると「ああ、もう忘れてしまった。いったいどんな話だったっけ」と逆に聞き返す始末。きっと創作時に全神経を集中するタイプなのだろう。
 彼はピアニストとして演奏しているときは聴衆の反応にはまったく目がいかず音楽に没頭してしまうが、戯曲の場合は少なからず自分が演技をするので、それが観客にどう受け入れられるかとても気になるそうだ。
 ふだんの彼はものすごい読書家で、自らも小説を6作書いて出版している。
「このへんで小説はしばらく休みます。いまは戯曲がありますしね。私は同じことを繰り返して行うことに興味がないのです。常に何か新しいことに挑戦したい」
 彼は現在フランスのベルサイユにひとりで住んでいるが、この家にはお気に入りの家具がたくさんあり、そして何よりも2000本のワインが貯蔵してあるという。もっとも好きなワインはリヨンの南の「ライヤース」という銘柄とか。
 紅葉の時期に日本に来られてとてもよかったとアファナシエフはいった。紫式部や清少納言の書いたものに強く惹かれるというから、きっと次回は戯曲に日本の文学が顔を出すかもしれない。

 今日の写真はその雑誌の一部。アファナシエフが部屋に入ってきたとき、タートルネックのセーターが日本の秋を表しているような色だったので、そうことばをかけると、すごくうれしそうな表情をして恥ずかしそうに「こんな古いセーターをほめられて、とてもうれしい。このセーター、益々好きになりそうだよ」といった。なんてキュートな人なんでしょう(笑)。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:17 | - | -
マルセロ・アルバレス
 今月来日するボローニャ歌劇場の「カルメン」でドン・ホセを歌う予定だったヨナス・カウフマンの来日がキャンセルとなり、代役としてマルセロ・アルバレスが決まった。
 アルバレスは何度もその歌声を聴いているが、常に全力投球型。演技もすばらしく、最近はどっしりとした体型になり、声も以前とくらべると深みと重みが増してきた。
 アルバレスに最初にインタビューをしたのは2000年の春。このときはガルデルのタンゴを歌うために来日した。「インタビュー・アーカイヴ」の第24回はそのアルバレスの登場。

[テレパル 2000年7月15日〜7月30日 .15]

歌声でも、人柄でも魅せる大注目のテノール、アルバレス 

 いま、3大テノールに続く新しい才能として世界のオペラハウスが熱い視線を注いでいるのが、アルゼンチン出身のテノール歌手、マルセロ・アルバレスである。その彼が、アルゼンチンが世界に誇る歌謡タンゴの確立者、カルロス・ガルデルの歌を録音した(ソニー)。
 バックを務めるのはピアソラと共演していたマルコーニやスアレス・パスらの現代屈指のタンギストたち。そのメンバーとともに来日し、スタジオで演奏を行った模様が放送されることになった。あわせて、アルバレスやアルゼンチンの人々のガルデルへの思いを綴ったドキュメンタリーも登場する(NHK)。
 アルバレスは最初タンゴを歌うことに抵抗があったそうだが、録音が進むうちにガルデルの偉大さに目覚め、最後は人生のなかでひとつの大きな仕事を成し遂げた気持ちになったという。
「アルゼンチンではガルデルはいまだに天使とか神のように思われている存在。それを歌うんだからね。大変なプレッシャーだった。大きな声で旋律の流れを重視しながら歌うオペラと違って、タンゴは語りかけるように歌わなければならない。マイクを使って小さな声で歌えといわれても最初はとまどうばかり。
 映像も同時進行で、ガルデルを知っていた人や研究者などにインタビューしたんだけど、それが人間ガルデルを知る大きな手がかりとなった」
 アルバレスは1962年生まれ。アルゼンチンで家具工場を経営していたが、30歳のときに歌手になりたいと思い立ち、本格的な勉強を開始。1995年にイタリアのコンクールで優勝し、その年の秋にデビューしてセンセーションを巻き起こしたという異色の経歴の持ち主だ。
「私はキャリアが始まったのが人より遅い。でも、焦らずに声の成長に合わせてゆっくりとレパートリーを広げていくつもり。歌う喜びをかみしめながらね。
 いまは暗いことが多い世の中だけど、私の歌を聴いてくれた人が一瞬でも喜びが味わえるような、そんな歌を歌いたい。今回、ガルデルの歌と人間性を知って、その思いを強くした」
 アルバレスは、完全に手の内に入るまで新しい役は歌わない主義。自分の唯一の美徳は「努力家であること」という彼は、いま世界の頂点を目指してマイペースで歩みを進めている。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。アルバレスは大変な苦労と努力をして歌手としてのキャリアを得ただけあって、性格がすばらしい。会った人がみなファンになってしまうような、温かく広い心の持ち主。このときのインタビュー後、破竹の勢いで各地のオペラハウスを席捲、とりわけフランスでは評価が高い。
 今回のドン・ホセも当たり役として知られる。舞台が楽しみだ。



| インタビュー・アーカイヴ | 23:28 | - | -
エフゲニー・キーシン
 今秋来日する関係で、いまはエフゲニー・キーシンの原稿が相次いでいる。そこで「インタビュー・アーカイヴ」第23回はそのキーシンにスポットを当てたい。彼には初来日のときから取材を続けているが、そのつどインタビューでは新しいことをいろいろ話してくれる。
 初来日は15歳。そして今回の来日で40歳を迎える。ああ、25年の年月が経過したわけだ。自分の年を考えると、実に感慨深い。いやいや、考えるのはやめよう。キーシンのことだけ考えようっと(笑)。

[FM fan 1991年3月4日〜3月17日 No.6]

ショパンは民衆の叫びの代弁者 
この心を表現したいといつも考えています


 この1月末から2月にかけて、キーシンが5度目の来日を果たした。初めて日本を訪れたときはまだ15歳だった。その華奢なからだからあふれ出てくる無限大の音楽に心を奪われたものだが、その彼もすでに19歳。ここ数年のキーシンはカラヤンと共演したり、カーネギー・ホールにデビューしたりと、まさにピアニストの王道を着実に歩んでいる。
 今回の日本公演も、持ち前の美しい音になお一層磨きがかかり、一種の風格さえ感じさせるすばらしいものだった。そんな彼がひとときのオフ・タイム、自分の音楽観をじっくりと語ってくれた。

カーネギー・ホールでのリサイタルは夢の実現

――カラヤンとの共演、カーネギー・ホールでの演奏と、次々にすばらしいニュースが伝わってきますが、いま振り返ってみるとどんな気持ちですか。
キーシン カラヤンと共演したことは、ぼくにとってあまりにもすばらしいできごとでしたので、ことばに出して表現してしまうとその実体が失われてしまうような気がします。カラヤンのような人が誕生するのは100年に一度あるがどうかでしょう。そういう偉大な人に巡り会えてとても幸せでした。
 カーネギー・ホールでのデビュー・リサイタルは、ぼくの夢の実現でした。
――今年の暮れにはアバド指揮ベルリン・フィルとの共演ということですが、こういうときのプログラムはどのようにして決めるのでしょうか。
キーシン 今年の12月31日に共演することに決まりました。アバドとは以前一度一緒に演奏したことがあります。そのときはモーツァルトのピアノ協奏曲第20番を弾きましたが、これはマネージメント側で決めてもらいました。まだアバドとは面識がありませんでしたから。その後、実際に会って話すことができ、レパートリーのこととかいろいろ聞かれました。今度の演奏会では、彼の希望で多分ベートーヴェンを弾くことになるでしょう。
――ごく最近モーツァルトのピアノ協奏曲第12番がリリースされましたが、モーツァルトは音楽家にとって譜面はそんなに難しくないのに、演奏するのは非常に難しい作曲家だといわれていますよね。
キーシン カントール先生はいつも「モーツァルトをうまく弾けるのは子どもか大巨匠だ」といっています。ぼくはモーツァルトの音楽はとても簡潔だと思うんです。子どもというのは、そういう簡潔さというものを何のわだかまりもなく、屈折したものもなく素直に無心に表すことができる。かたや大巨匠は、ものすごく練習して苦労して、長い人生のなかでいろんなことを考えて、その結果すばらしい演奏ができるようになるんでしょうね。
 リストを例にとってみると、若いころはテクニックにものをいわせた演奏をしたり作品を書いたりしていますがだんだんにシンプルになっていく。ソ連の多くの作曲家を見ても、ラフマニノフやショスタコーヴィチなど、みんな晩年の作品になるほど簡潔になっていきます。
――年を経るに従って、邪念がなくなっていくというか…。
キーシン そうですね。大巨匠の演奏に対するアプローチも、徐々に余分なものを取り去って無我の境地になっていく感じがします。ソ連の詩人で小説家でもあるパステルナークが、こんな詩を書いています。全部朗読すると長いから最後のところだけ(笑)。「人生が終わるにあたって、すべてが簡潔なものになることを意識するものだ」。このことばがすべてをいい表していると思いませんか。モーツァルトは短い人生でしたが、その生涯は清らかでシンプルな作品そのものです。そんなモーツァルトを演奏で表現するのは、やはり大変うれしいことです。
――ピアノ曲以外にもモーツァルトの作品はよく聴かれますか。
キーシン ええ、いろいろ聴きますよ。好きなのはオペラ「ドン・ジョヴァンニ」ですが、ただ、これだけが好きというわけてはありませんから、1曲だけって書かないでくださいね(笑)。
 特に好きなのは、ピアノ協奏曲第24番なんです。えっ、いまはもう旋律を歌わないのかって? 小さいころは自分の意志を表現する手段が歌うことしかなかったので、しょっちゅう歌っていましたが、いまはもう声変わりしてしまったし、まったく歌いません。

肝心なのは音楽を感じること

――ところで、ショパンの演奏にはルパートが欠かせないと思うのですが、それについてはどんな考えをお持ちですか。
キーシン ルパートは自分の裁量でテンポを決めるということで、自然に音楽を響かせなさいというものですよね。ところが、これは多分に乱用してしまう恐れがある。
 昔、19世紀の末にサフォーノフというロシアのピアノ教師がいました。その弟子に女子学生がいて、彼女がルパートをまちがって解釈していたらしいんです。そしたらサフォーノフが「では、ルパートの指示のないところでも全部ルパートで弾きなさい」といったそうです。そうやってルパートの乱用を防ぎ、不自然だと教えたのでしょう。
 この例に見られるように、ぼくはルパートというのは、常に自分の感性に忠実に自然に使うべきだと考えています。肝心なのは音楽を感じることで、それができれば、テンポのつかみかたもほかのことも自然に理解できるようになるはずです。
――それでは、ショパンのポロネーズやマズルカなどの舞曲のリズムを表現する際にはどんな注意が必要でしょう。
キーシン これらはショパンが舞曲の形式を借りて作曲したもので、純粋に踊るためのものではありません。肝心なのは外面的なリズムなどではなく、その当時ポーランドがロシア帝国から侵略されてその圧政下にあり、民衆がいかに自由を求めていたかということを知ることだと思います。ショパンは民衆の叫びの代弁者だったわけですから。ぼくはマズルカやポロネーズ、そしてソナタを弾くときには、いつもこのショパンの心を表現したいと思っています。
――以前、スペインはとてもすばらしいところだとおっしゃっていましたよね。
キーシン 3年ほど前に行ったときのことですね。このときはたった8日間でしたので、あまりあちこちは見られませんでした。でも、すごくいいところだと思いました。
――それはドイツの芸術家が南国にあこがれるような気持ちと同じような感覚でしょうか。
キーシン 残念ながらぼくがスペインを訪れたのは3月でしたから、モスクワと似たりよったりの気候でした。ソ連だって夏は30度近くになるんですよ。だから気候だけにあこがれたわけではありません(笑)。

 キーシンは決して雄弁なほうではない。むしろひとことずつ考えながらことばを選んで話すタイプ。いつも詩集をポケットに入れているというだけあって、その話はとても思索的だ。まるで彼の一音ずつ大切に弾き込まれるピアノの音色のように。

 今日の写真はその雑誌の一部。こうして見ると、キーシンは25年たってもあまり顔の表情が変わっていない。それに引き換え、私は…。いやいや、考えまい(笑)。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:40 | - | -
ネヴィル・マリナー
 1985年に「ナイト」の称号を受けたサー・ネヴィル・マリナーは、幅広いレパートリーを誇り、膨大な録音を行っているが、なかでもモーツァルトを得意としている。映画「アマデウス」では、マリナー指揮によるアカデミー室内管弦楽団(アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ)の演奏が使われた。
 インタビュー・アーカイヴ第22回はそのマリナーの登場。

[FM fan 1994年10月24日〜11月6日号 23]

私はアンサンブルの美しさを一番重視しています
 


35年間アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズを率いてきたサー・ネヴィル・マリナーが、今年の4月15日に70歳の誕生日を迎えた。地元ロンドンでは「ハッピー・バースデイ・ネヴィル」と題された祝賀コンサートが開かれ、その若々しい指揮ぶりが話題となったが、来日公演でもオーケストラと一体となった、両者の信頼感を強く感じさせる演奏を聴かせてくれた。

これからは19世紀後半から20世紀初頭のオペラを振りたい

――今回のプログラムのなかで特にブラームスの交響曲第4番には室内楽的な響きを感じましたが、これはご自身がヴァイオリニストだったことと関係がありますか。
マリナー 多分あるでしょうね。私はアンサンブルの美しさを一番重視していますから。このオーケストラを作ったときにはメンバーは15人だったんですが、それは全員イギリスの室内楽奏者たちでした。次第に人数が増えて規模が大きくなり、演奏する曲もバロックから近・現代までと広がってきましたが、当初のオリジナルな響きというものは変わらず持ち続けています。
 いまオーケストラは平均年齢が30歳です。契約方式ではないため、メンバーがほかの演奏会で協奏曲を弾いたり、ソロ活動することもまったく自由です。ただし、われわれのオーケストラの目指す方向、みんなの空気に合わない人は1日でクビになってしまうこともあります。たいていは3カ月一緒に演奏すればオーケストラ特有の空気というものに慣れ、すっかりオケの性格を把握した演奏ができるものですが、なかには合わない人も出てくる。
 逆に20年も演奏し続けている人もいるわけです。われわれは自由と金銭的な面は保証していますが、身分を保証しているわけではない。音楽が第一ですから。
――最近は声楽を用いた作品の録音が多く見られますが、今後もこのような方向を?
マリナー 私はかなり多くの録音を行ってきましたが、いつもそれがマンネリに陥らないように心を砕いています。いまは新しい分野を模索している時期で、結構大がかりな作品に興味が移っています。これからしばらくは、19世紀後半から20世紀初頭のオペラを振りたいと考えているんですよ。
――今秋にはウィーンでベートーヴェン・チクルスが予定されていますよね。
マリナー ええ、これも新しい面を入れていきたいと考えています。ベートーヴェン・チクルスは去年と今年の2回、スペインとメキシコで行ったんですが、それは交響曲が中心でした。ウィーンでは久しぶりに「ミサ・ソレムニス」を演奏したいと思っています。
――ピエール・モントゥーから指揮することを勧められたということですが、その時点ではもうヴァイオリンには未練はなかったんですか。
マリナー まったくありませんでした。最後に演奏したのはハイフェッツとピアティゴルスキーらとカルテットを組んだときで、こんなすばらしいメンバーとはもう演奏できないだろうと思い、すっぱり楽器をやめました。
――でも、ヴァイオリンを通じて多くの偉大な演奏家に出会えたわけですよね。
マリナー ええ、昔はオイストラフが自宅まできて、よく演奏してくれたものです。彼は偉大な音楽家でしたが、素顔は飾らない気のいいおじさんという感じでした。確かにヴァイオリンを弾いていたときはクレンペラー、クリップス、カラヤンらの偉大な指揮者のもとでも演奏しました。それが財産になっていることは事実です。
 実はロンドン交響楽団の首席奏者を務めていたころ、ずっとこのままオーケストラで弾いているだけでいいのだろうか、という疑問を抱いていた仲間が6人集まって室内楽を始めたんです。それがやがて15人になって、そこで弓で指揮をしながら弾いていたら、ある日モントゥーがそれを見て本格的に指揮をやってみないかと誘ってくれたんです。でも、私は指揮の勉強をまったくしたことがなかった。それでモントゥーが自分が開いているアメリカのセミナーに来いといってくれたわけです。ここでは正式に指揮を学びました。最初に振ったのはモーツァルトの交響曲第40番でしたよ。
 私のように指揮科を出ているわけではない人間は基礎から学ばなければならないから大変でしたが、ひとつ有利なことはオーケストラのメンバーをいかにしたら自分の音楽に向かせるかということを身をもって知っていたため、これが功を奏しました。
 オーケストラというのは新しい指揮者が来ると、この人はわれわれを利用しようとしているんじゃないか、一体どんな音楽観をもっているのか、威圧的なのかそれとも真に音楽的なのか、などとあれこれ考えます。そういうメンバーを早いうちに自分の音楽に引きつける、これが指揮の一番のコツですからね。

ブーイングの嵐にさらされたこともあるんですよ

――長い指揮活動の間には、いまでも印象に残っている失敗などもあると思いますが。
マリナー ハッハッハ、山ほどありますよ。そうですねえ、何から話しましょうか。あれはフランス国立管弦楽団を振ったときだったかな。モーツァルトが一番高い音を書いた声楽作品を演奏したとき、そんな高い音が出せる歌手いないというので、わざわざカナダの歌手を呼んだんです。そしたら彼女、リハーサルではのどを痛めるからといってその音を出さなかった。当日の最後のリハでも、今夜のためにとっておくといって歌わない。そして本番。ついに彼女は一番高い音を歌わなかったんです。
 私はブーイングの嵐にさらされましたよ。でも、こういうことはすぐに忘れるようにしているんです。大好きなテニスをしてね。イギリスの田舎の家にはテニスコートがあるんですが、そこで毎日ラケットを振っているんですよ。
 最近ではオペラを予定しているときにはソリストを2、3日自宅に呼んでともに食事をし、話をし、お互いのコミュニケーションを図るようにしています。それからリハーサルに入ると、とてもうまくいくからです。もちろんテニスも一緒にします。でもこれは、最後は私が勝たないといけない(爆笑)

今日の写真はそのときの雑誌の一部。マリナーは今秋の「NHK音楽祭」に出演し、カツァリス&N響と共演し、得意のモーツァルトとブラームスを演奏する。久しぶりに、エレガントかつ華麗な音楽を生み出す矍鑠たる指揮姿に会える。


| インタビュー・アーカイヴ | 15:31 | - | -
フランク・ペーター・ツィンマーマン
 フランク・ペーター・ツィンマーマンは、同業者から憧れの目を向けられる人。よく若手ヴァイオリニストが「あんなヴァイオリニストになりたい」「あんな演奏ができたら最高」ということばを口にする。
 インタビュー・アーカイヴ第21回はそのツィンマーマンの登場。

[日経新聞 2007年4月25日号]

王道を歩むヴァイオリニスト、フランク・ペーター・ツィンマーマン

 ドイツ出身のヴァイオリニスト、フランク・ペーター・ツィンマーマン(1965年生まれ)が4月に来日し、ダニエル・ハーディング指揮ロンドン交響楽団との共演でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ニ長調を演奏した。使用楽器は、かつてクライスラーが所有していたといわれる1711年製のストラディヴァリウス。その名器を自由に歌わせ、優雅で繊細でロマンあふれるベートーヴェンを紡ぎ出し、喝采を浴びた。

ロマン的表現に回帰

「このコンチェルトは1981年に初めて演奏し、もう200回以上弾いています。でも、毎回新鮮な気持ちで向かい合うことができ、決して飽きることがありません。最初はロマンチックに弾くことを優先し、やがて急進的な演奏に変化し、現在は昔に戻ってロマン的な要素を重視するようになりました。
 最近楽譜も買い替え、真新しい譜面に注意事項を書き込んで、一から勉強し直しています。カデンツァも、クライスラーの書き残したものを使っているんですよ。この楽器に一番合うと判断したからです」
 父はチェリスト、母はヴァイオリニストという恵まれた環境で育ち、5歳でヴァイオリンを始めた。10歳でオーケストラと初共演、14歳のときにはルツェルン音楽祭に出演して大成功を収め、「天才少年出現!」と騒がれた。以後、アンネ=ゾフィー・ムターとともにドイツの伝統的な奏法を受け継ぐ存在として、国際的に幅広い活躍をしている。

前の時代に生まれたかった

「音楽家の両親が練習を強制しなかったためか、私は音楽を楽しみながら学ぶことができました。16歳までは1日2時間しか練習しませんでした。みんな親がつきっきりで必死にさらっているのに、少なすぎますよね。そのせいか練習嫌いにならず、いまでも練習は大好きなんです」とほほ笑む。
 ただし、苦手なこともある。
「現在は自分を売り込んだり、派手なパフォーマンスを要求される時代ですが、私は地味に着実に進むほうを好みます。本当はもっと前の時代に生まれたかったんですけどね」

バッハは高い頂

 子どものころからハイフェッツ、オイストラフ、グリュミオーの録音に心奪われ、メニューインやミルシテインに教えを受け、こうした巨匠たちの音楽に少しでも近づきたいと願ってきた。ルービンシュタインやリヒテルのピアノにもよく耳を傾け、彼らの姿勢からも多くを学んでいる。
「私が好きな音楽家は、みんな焦らずゆっくりと演奏を成熟させている。その生きかたにたまらなく惹かれます。私はバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ全6曲をいずれ演奏したいと考えていますが、このエベレストのような高い頂は時間をかけて少しずつ登っていきたい。
 ベートーヴェンの作品も生涯ずっと弾いていきたいと思っています。やはりドイツ作品は、レパートリーの基礎として大切にしたいですから」
 11月には再び来日し、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」を演奏し、NHK交響楽団とはベルクのヴァイオリン協奏曲で共演する。ツィンマーマンの往年の名手を思い起こさせる馥郁たる香りに満ちた演奏は、自然で温かく、いつまでも心に残る。
「偉大な作品に余分な手は加えたくない」と語る彼の正攻法の奏法が、心にまっすぐに響いてくるからだろう。

 今日の写真はそのインタビュー時の写真。ねっ、演奏と同様、素顔もほんわかあったかい感じでしょ。

| インタビュー・アーカイヴ | 21:43 | - | -
コンスタンチン・リフシッツ
 いまや21世紀を代表する真の実力派ピアニストとして確固たる地位を獲得しているウクライナ出身(1976年生まれ)のピアニスト、コンスタンチン・リフシッツ。彼は13歳で正式にデビューし、以後驚異的な記憶力により数々の作品をマスター。幼いころから「神童」「天才少年」と呼ばれ、世界各地で活発な演奏活動を展開。その後「若き巨匠」への道をじっくりと歩み、現在はベルリンに居を構え、樫本大進とのデュオでも高い評価を得ている。
「インタビュー・アーカイヴ」第20回はそのリフシッツの登場。現在はヒゲを蓄えた堂々たる自信に満ちた大人の男性というイメージだが、当時はまだシャイで初々しい少年のような表情が印象的だった。

[レコパル 1995年6月号]

自分を天才とか神童などと思ったことはありません

 ロシアからはときどき思いもかけない天才音楽家が現れることがある。そのだれもがスケールが大きく途方もない才能の持ち主で、決して小さくまとまった芸術家ではない。ロシアという国が生み出すこれらの芸術家は、われわれ日本人からは想像もできないような強靭なエネルギーを秘めているような気がする。
 それが証拠にロシア・ピアニズムの歴史をたどってみると、そこからは偉大なピアニストの名前がたくさん出てくる。チャイコフスキーと同時代に活躍したアントンとニコライのルビンシテイン兄弟、ヨゼフとロジーナのレヴィン夫妻、そして最近CDが日本でも手に入るようになったマリア・ユーディナやウラディーミル・ソフロニツキーなど。これらのピアニストが次世代を育て、現代のピアニストがその系譜に名を連ねようと頑張っているわけだ。
 リフシッツに会ったとき、このロシア・ピアニズムが話題にのぼった。彼は極端に口数が少ないのだが、ロシア・ピアニズムに関してだけは雄弁だった。
「ぼくは小さいころからロシア・ピアニズムの流れというものを強く意識しています。これはカンタービレ(歌うような弾きかた)とダイナミズムを重視する奏法ですが、ロシアが長い間育んできた偉大な財産だと思っています。
 特に尊敬しているのはラフマニノフとアントン・ルビンシテインで、録音をよく聴くのはシュナーベルとソフロニツキーです。ソフロニツキーをCDで聴くことができるようになったのはごく最近のことですが、生き生きとした明るい表現に心惹かれます」
 リフシッツは5歳からピアノを始め、モスクワのグネーシン音楽学校でゼリクマン教授のクラスに入ってめきめきと頭角を現した。8歳でオーケストラとJ.S.バッハの協奏曲で共演し、12歳でショスタコーヴィチの協奏曲を弾き、13歳で正式なデビューを果たしてセンセーションを巻き起こした。
 以後、ヨーロッパでの評価はうなぎのぼり。だが、素顔の彼は周囲の騒ぎはどこ吹く風、涼しい顔で淡々と語る。
「よくグールドのバッハをどう思うかとか、キーシンの演奏をどう感じるかと聞かれますが、答えようがありません。ぼくはバッハが大好きだから弾いているだけ。同じ神童としてキーシンはどうかといわれてもコメントすることばが見つかりません。
 第一、自分のことを天才とか神童などと思ったことはありませんし、日々の努力でようやくここまできたと思っていますから」
 リフシッツの笑顔はとてもかわいい。目全体が笑いに満ちた感じになる。しかし、音楽に関する話ではその目が一気に大人びて真剣な光を帯びる。
 バッハが好きで、バッハのない世界は考えられないそうだが、その思いが5歳ですでに芽生えていたというから驚きだ。
 彼は「ゴルトベルク変奏曲」もごく幼いころから勉強していた。ゼリクマン女史はあまりにもバッハを弾きたがるので、最初ちょっと勉強させて少し寝かせ、しばらくしてまたレッスンに使ったという。彼女はリフシッツの気持ちをバッハに向かわせるのに、ゆっくりと時間をかけた。
「ぼくがこの年で《ゴルトベルク変奏曲》(コロムビア)を録音したことに対し、人々はあれこれ質問を投げかけます。バッハの他の曲を演奏してからでも遅くないのではないか、なぜいまこの曲なのかとか。ぼくにとってはごく自然なことなのに、こんなにいろいろいわれるとは思いませんでした。それだけこの曲が大曲だからでしょうけど。ぼくがこの曲を選んだのではなく、《ゴルトベルク変奏曲》のほうから歩み寄ってきてくれたのだという感じがしているんですけどね」
 いいかたはとても控え目だが、このひとことにはリフシッツの計り知れない自信が隠されている。彼の「ゴルトベルク変奏曲」は、まるでマラソンの勝利者のように威厳に満ちているが、表面的には淡々と走りを続けているように見える。その走りはゴールまで確かな計算がなされていて、緻密で浮ついたところがない。計算というのは音楽を大きくつかんでいるということで、各々の走りがひとつの意味を持っている。
 1音1音に込められた深い意味、変奏ごとに異なる微妙な色合い…それはリフシッツのバッハに対する深い愛情の現れであり、リフシッツの声である。
 彼はバッハで語り、豊かに歌っている。これは無口な彼の心からの歌だ。ロシア・ピアニズムの原点は、ピアノを豊かに歌わせること。いま、リフシッツは偉大な奏法の真の継承者になろうとしている。

 今日の写真はその雑誌の一部。樫本大進は、いま日本でリフシッツとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタのシリーズを数年間に渡って行っているが、彼らのリハーサルはリフシッツの自宅に大進が泊まり、そこで行われている。
 大進は音合わせはもちろん楽しみだが、もうひとつ大きな楽しみがあると語る。それは朝ベッドのなかでうとうとしていると、隣の部屋からリフシッツが弾くバッハの音楽が聴こえてくるのだそうだ。それを聴きながら目覚める幸せ。「こんな喜びがあるでしょうか。コンスタンチンのバッハで目を覚ます。夢うつつの世界から実際は現実に戻るのですが、実はこれがまた夢の世界へと引き込んでくれる。すぐに目覚めるのはもったいなくて、なかなかベッドから出られないんですよ(笑)」

 


| インタビュー・アーカイヴ | 12:53 | - | -
ホセ・カレーラス
 インタビュー・アーカイヴ第19回は、ホセ・カレーラスの登場。彼には各地で開催された「3大テノール」のコンサート終了後など、何回かインタビューをしたことがあるが、いつも真摯に、ていねいに、誠心誠意答えてくれるため、そのつど感激してしまう。
 この記事は、カレーラスの「メリー・クリスマス」のCDを紹介したときのもの。それに加えて、彼の人となりを紹介した。

[The CD Club 2002年12月]

 
完璧主義者の美声
カレーラスが歌うクリスマス

どんなときでも全力投球で臨む生きかたが歌声に映る

 歌手にはさまざまなタイプがある。情熱的で明るい歌声を持ち、その声を聴いただけで心に光が宿るような思いを抱かせてくれる人、豊かな声量と抜群のテクニックに、「これは神から授かった天性の素質だ」と思わせる人、歌詞を大切にしながら切々と語りかけるように歌う人、演技力や表現力がすばらしく、役者のような雰囲気をただよわせている人、声は最良の楽器だということを存分に知らしめてくれる人など…。
 ホセ・カレーラスはこのいずれのタイプにも属するようで、実はどれにも当てはまらない希有な存在だ。彼はとても人間くさく、生きかたそのものを歌に反映させるタイプである。そして「努力の人」でもある。もちろん神から与えられた天性の声を持っているが、それだけに頼ってはいない。
 いつでも、どんなときでも自分のすべてを出し切り、失敗を恐れず、ひたすらまっすぐに突き進んでいく。すでに地位も名声も確保しているにもかかわらず、いつも新人のような挑戦する魂を胸に秘めている。
「私は子どものころから歌い出すと止まらない性格でね、昔から家族や近所の人たちに『ほら、またホセが歌い出した。今日も夜まで歌っているだろうよ』といわれたもんだよ。本当に歌うことが好きなんだ。歌があればほかのものは何もいらない、とまで思えるくらい。だからこそ、病気になったときはもう歌えないかもしれないと、どん底に突き落とされた思いがした。でも、神が救ってくれたんだ。いままたステージに立てる、大好きな歌が歌える、それだけで幸せだよ。だから自分の持てるものをすべて出して精一杯歌うのは当然のこと。これからもずっと声が出る限り歌っていきたいと思っているよ」
 こう語るカレーラスは、いわゆる完璧主義者である。それはデビュー当時から現在にいたるまで変わらぬことで、あまり知られていない珍しい作品や小品を歌うときでも、どんなに小さなコンサートで歌うときでも、自己の最高の歌を聴衆に届けようと全力投球する。
 この全力投球の姿勢は、白血病から見事に立ち直った後に、ピアノ伴奏によるリサイタルを世界各地で行ったことに如実に表れている。彼はのどを休ませることができるオーケストラ伴奏によるオペラ・アリアのコンサートではなく、ひとりでずっと歌い続けるリサイタルを復帰演奏会に選んだからだ。
 このときは倒れる前よりひとまわりやせ、青白い顔で必死で歌うカレーラスに、世界中のファンが心打たれたものである。彼は拍手が続く限りアンコール曲を歌い、ひとりでも多くの人の気持ちに応えたいと歌うことをやめようとはしなかった。ここにも完璧主義者らしい顔が表れていた。

新曲も暗譜! 完全に把握してから披露する

 3大テノールのコンサートでも、カレーラスの一途な姿勢は変わらない。彼は新曲も暗譜、完全に自分の歌にしてからステージに臨む。そして歌い込んだ作品と同様の歌唱力と表現力をもって聴衆の心の訴えかける。このひたむきさに聴き手は心を奪われるのである。
 日本公演のときにいつも歌う「川の流れのように」を初めて3人で歌ったときも、カレーラスは歌詞カードをほとんど見ることなく歌いきった。
「私が完璧に暗譜していたって? それはたまたまだよ。いつも暗譜しているわけではないし、新しい曲を短期間で完全に覚えるのは難しいことだからね。プラシドやルチアーノが楽譜を見ていたのは、彼らのポーズが大きかったからじゃないのかな。私はチラッとうまく楽譜を見る名手だから。昔からカンニングは得意なんだ(笑)」
 こうしたジョークも忘れないのがカレーラスのいいところだ。ドミンゴとパヴァロッティとのリハーサルでも、ひとりがうまく歌えなかったり、みんなの意見が割れたりすると、必ずだれかがジョークを入れるが、カレーラスもジョークを連発することがある。それにより、全体のムードが一変し、リハーサルがスムーズに流れることを知っているからだ。
 1998年にフランスで行われたw杯決勝前夜祭の3大テノールのコンサート終演後、カレーラスはこんなことをいった。
「私は自分が納得いくまで練習して、その歌を完全に自分のものにしてからでないと歌えない性格なんだよね。それは子どものころから変わらないもので、少しでも不安要素があるとステージに立てない。ナーバスになってしまうんだ。歌う作品を全部すみずみまで暗譜することは決して楽ではないけど、ステージでもレコーディングでも、暗譜したほうが歌に集中できる。
 これは私のモットーなのかもしれない。自分に難題を課したほうが燃えるタイプなんだ。適度にやればいいことでも、いったん手をつけると、のめりこんでいってしまう。これは生活全般にいえること。だれか止めてよ(笑)」

バーンスタインをうならせた、ひと晩の計り知れない努力

 カレーラスはオペラでもPAを使う野外コンサートでも歌う姿勢はまったく同じ。マイクを使うからといって、手抜きは一切しない。しかも、こうしたコンサートでいつも新しい曲に果敢に挑戦する。歌い慣れた、当たり役といわれる歌だけを歌うというのは、カレーラスのモットーに合わないのだろう。聴衆の拍手が少なくてもいい、スタンディングオベイションにならなくてもいい、私は今回新しい作品に挑戦するんだ、とカレーラスは考え、未知の分野に向かって歩み出す。
 そんなカレーラスは、以前バーンスタインとの共演で「ウエストサイド・ストーリー」を録音したことがあった。このときはリハーサル中に自分の歌に納得できず、途中で歌うことをやめてしまい、バーンスタインをがっかりさせたことがある。しかし、翌日カレーラスは完璧に歌いこなし、バーンスタインをうならせた。この一部始終が映像に残されているわけだが、カレーラスは自分のそんなプロらしからぬ姿を映し出したビデオの発売を禁じることなく、OKを出した。
 ここにはひとりの人間としてのカレーラスが存在している。カレーラスといえども、完璧に歌えないことはある。まして『ウエストサイド・ストーリー』はふだん歌い慣れたクラシックの作品とは歌唱法も表現力も異なったものを要求される。
 カレーラスが止まってしまった曲は、この作品の大切な部分だった。それをひと晩で納得いく形に仕上げたのである。どんなに大変だったことだろう。そんな努力の過程をカレーラスはみんなに見せてしまった。悩み、苦しみ、もがき、そしてついにすばらしい輝きに満ちた歌を歌い上げる。その過程を…。
 以後、カレーラスは「ウエストサイド・ストーリー」を完全に自分のレパートリーとし、各地で歌っている。バーンスタイン亡きいま、カレーラスはこの曲をどういう思いで歌っているのだろう。きっと、あの苦難のときを乗り越え、納得いく歌が歌えた喜びの瞬間を思い出しているに違いない。
 私はカレーラスのこの歌を聴くと、いつもひとつずつ階段を駆け上がろうとする彼の姿勢に触れる思いがし、胸が熱くなる。

ひとりの生身の人間の不器用そうな姿に引きつけられる

 だが、カレーラスはいまではステージで努力の痕跡は一切見せない。楽々と余裕をもって歌っている姿を披露する。だからこそ、聴き手は作品のよさに存分に酔えるのである。ただし、カレーラスの歌には常にヒューマンな味わいがただよっているのも事実である。ひとりの生身の人間が歌っている、そのぬくもりが伝わってくるのである。
 現在はなんでも簡単にすませられること、楽をして大きな成果を得ること、苦労しないことにこしたことはないとされる時代である。カレーラスのようにコツコツと実績を積み上げ、ビッグスターになってからもひたすら努力あるのみ、などという生きかたは敬遠されるのかもしれない。しかし、そんな生きかたに引きつけられる人もいるのである。
 私はカレーラスのどこか世慣れていないような、恥じらいに満ちた、なんだか不器用そうで、うまく立ち回れないような姿を見ると、無性に引きつけられる。スターらしくなく、礼儀正しく、知性的で、しかもどこか危なっかしい。ひとつのことを思いつめると、善悪の判断なしに飛んでいってしまう。そんなカレーラスの生きざまそのものが歌に表れている。

極寒の教会での記憶を彷彿とさせるカレーラスの歌声

 ここに聴くクリスマス・アルバムでも、カレーラス節は健在。曲の冒頭から情熱を傾け、一気に感情がほとばしるように歌い上げていくカレーラスの歌唱法は、クリスマス・ソングを聴き流すものではなく、じっくりと耳を傾けるものに変える。欧米ではクリスマスは祈りに始まり、祈りに終わる。そこに必要なのは敬虔で美しい歌の数々。人々は教会で歌い、家庭で歌う。その伝統をカレーラスの歌声は伝えてくれる。
 以前、カナダからの大寒波を受けてマイナス15度にもなろうという極寒のニューヨークでクリスマスを迎えたことがあった。仕事を終えた私はあまりの寒さに耐えきれず、近くの教会に避難した。そこでは人々がみな目だけ出しているようなものすごい防寒スタイルで、震えながらクリスマスの歌を歌っていた。
 一歩なかに入ったら暖かいだろうという甘い考えは、すぐに氷解した。石造りの建物特有のしんしんとした寒さが足から押し寄せてくる。それでも人々の歌声を聴いているうちに次第に心が暖まってきた。みんな熱心に神父の説教に耳を傾け、ミサのオルガンと聖歌隊に静かに和すように歌っていたからだ。
 広い教会に朗々と響きわたる歌声は荘厳さに満ち、クリスマス本来の祝いかたを知らされる思いがした。キリストの降誕祭は祈りと清らかな歌に彩られる。カレーラスの歌声は、あの凍てついた教会の空気をまざまさせと思い起こさせてくれる。

今日の写真はその雑誌の一部。胸の前に手を置く得意のポーズだ。

| インタビュー・アーカイヴ | 21:26 | - | -
クリストファー・ホグウッド
 インタビュー・アーカイヴの第18回は1941年イギリスのノッティンガム生まれの指揮者、クリストファー・ホグウッド。彼は指揮者としてだけでなく、古楽に関する著作も多数あり、音楽学者としても知られる。
 1973年にエンシェント室内管弦楽団を設立、その生き生きとした躍動感あふれる演奏には定評がある。
 インタビューでは音楽について真摯に雄弁に語っていた彼だったが、インタビューが終了した途端、「また、会おうねえ」と両手を高々と上げてにこやかに去って行った。その姿がなんともユーモラスで、印象に残っている。

[レコパル 1991年11月25日〜12月8日 No.25]

モーツァルトが聴いていた音が蘇る! 新発見満載のオペラ

 今年はモーツァルト没後200年を記念し、数多くのディスクがリリースされているが、ここにまたモーツァルトのオペラの代表作「後宮からの逃走」(ユニバーサル)の新録音が登場した。
 しかし、この「後宮」、ちょっと従来の演奏と趣が異なっている。なにしろ指揮は、いまや古楽演奏の大家となった学究肌のホグウッドである。聴く前から「これは何か新しい発見があるな」と胸躍らせたのは事実。そして、やはりありました、大発見が。
 ホグウッドは第1幕の兵士の合唱の前にいままでなかった行進曲を持ってきているのです。これはまったく新しい試み。彼は今回新モーツァルト全集の楽譜をもとに録音しているが、最近発見されたこの行進曲は新鮮な響きをもたらすばかりではなく、ストーリーの展開上、合唱が突然出てくるよりもこのほうがごく自然な感じを受ける。セリム・パシャをたたえる合唱がスッと耳に入ってくるのである。今回はまずこの新解釈に対する質問からインタビューに入った。
「『後宮』はもともと小さな劇場用に書かれた作品です。ですからこの行進曲もいままではふつうの録音には必要とされず、長い間取り上げられずに阻害されていました。この行進曲が記されている楽譜は新モーツァルト全集だけなのです」
 彼はこの楽譜に1978年に初めて出合った。もちろん楽譜の研究は充分なされていたが、これを初めてオリジナルの形で録音するのは自分が最初になるだろうとこのときに思ったそうだ。

随所に新しい試みが見られ、新鮮な感覚が全体を覆う

 エンシェント室内管弦楽団の演奏はオリジナル楽器によるため、モーツァルト時代の響きそのものが味わえる。それはかろやかではつらつとしたリズムを刻む序曲からはっきりと楽器の違いを感じ取ることができ、特に各打楽器の連打が小気味よい。
 トルコ風の異国情緒に満ちた旋律がシンバルやトライアングル、大太鼓のアクセントに乗ってぐんぐん進んでいくさまは、これだけでもうオペラ全体の楽しさを予感させるのに充分だ。
「後宮」は、トルコの太守に捕えられたスペインの高貴な家の娘コンスタンツェを故郷の恋人ベルモンテが救い出すという話。ここに従僕のペドリッロと小間使いのブロントヒェン、そして太守邸の番人のオスミンらがからむ。
 最後は懐の大きな太守の計らいで、ハッピーエンドとなる。
 ここでは歌手陣も若手が起用され、みずみずしい歌声を披露している。特に主役のコンスタンツェ役のイギリス出身のリン・ドーソンと、ベルモンテ役のドイツのウヴェ・ハイルマンは、ホグウッドが絶賛しているだけあって声のみならずこまかい表現力が秀逸である。
 ホグウッドは常に新しい有能な歌手を探すことに努めているという。
 もう一箇所、従来と違っているのは、第3幕18番の「ロマンス」。ここでホグウッドは、ふつうはC管が使われているのだがG管ピッコロを使っている。さらに全体の通奏低音にはチェンバロだけではなく、フォルテピアノを使用。
「みんなモーツァルトが書いたとおりにやっているだけ。別に私の考えでも何でもない、偉いのは作曲家なんだよ」
 と、ホグウッドはあくまでも謙虚な姿勢を崩さないが、これによってモーツァルト時代の音に、さらに一歩近づいている。
 最近ハイドンの交響曲全集の録音に取り組んだり、ヘンデルのオペラに意欲を燃やしたりとエネルギッシュな活動が目立つが、素顔の彼は「自分のしたいことをしているだけ」とあっさり。
「あまり世界中がモーツァルト、モーツァルトって騒ぐんでちょっと危険だと思い、音楽的バランスを取るためにも私はハイドンに目を向けているんだけどね」
 ホグウッドはこのように次々と新しい音楽をわれわれの耳に届けてくれる。
 つい最近のヘンデルのオペラ「オルランド」も世界初録音だったが、今度はヘンデルの「エツィオ」にも挑戦したいとのこと。今回の来日でもなかなか演奏されないモーツァルトのオペラ・セリア(正歌劇)「皇帝ティートの慈悲」全曲を演奏会形式でじっくりと聴かせてくれた。
 実は、ホグウッドは大変なオーディオ好きということが今回の取材で判明。家ではB&Wのスピーカーを使っているのだが、先日訪れた友人宅のポーズのスピーカーに魅せられてしまった。
「ボーズはサイズが気に入ったんです。すごくコンパクトでしょ。パワーのある低音もすばらしいし。もちろんB&Wのクオリティーは、デッカが録音に使っているくらいですから保証尽きですけど、なにしろ場所を取られてしまうので…」
 彼はボーズで「室内楽を聴いたら、きっと最高だ」と力説していた。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。偉大なマエストロなのに撮影のときも結構ジョークを飛ばしていた。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:09 | - | -
ギドン・クレーメル
 ギドン・クレーメルは今春トリオの演奏で来日し、彼ならではの集中力に富んだ鬼気迫る演奏を披露した。
 私はどんなに偉大なアーティストのインタビューでもアガったり、緊張しすぎるということはないが、クレーメルの場合は周囲の関係者がみなピリピリして緊迫感がただよっていたため、それがこちらにも伝わり、妙に緊張してしまったことを覚えている。
「インタビュー・アーカイヴ」第17回は、そのクレーメルの登場。このときはピアソラの音楽について熱く語った。

[FM fan 1998年10月20日〜11月2日号 No.23]

ぼくはピアソラに恋し、ピアソラのエネルギーが伝染し、その音楽に過去へのあこがれを見た

ピアソラとシューベルトには共通項があるんだ。…ふたりともハッピーな曲がないだろう?

「ぼくはいまのタンゴ・ブームというものにまったく興味を抱いてはいない。ぼくは自分のピアソラを奏でるだけ。自分なりに感じたピアソラの音楽を演奏しているだけさ。ピアソラを初めて自分の楽器で演奏したときから、アントニオ・アグリやフェルナンド・スアレス・パスの弾きかたをまねしようとは思わなかったし、タンゴのエンターテイナーになりたいとも思わなかった。自分の心に忠実に、感じたままを弦に託す。それがぼくのピアソラであり、自分の音楽の方向性なんだよ」
 待ちに待ったクレーメルがピアソラを携えて来日した。9月のカレンダーをめくったときから、私はクレーメルのピアソラが聴ける、そのことだけで9月というこの月が、他とは異なった輝きに満ちているように感じられた。「ピアソラへのオマージュ」と題されたコンサートの1時間半は、至福のときを与えてくれた。ピアノのヴァディム・サハロフ、ダブルベースのアイロス・ポッシュ、バンドネオンのペル・アルネ・グロルヴィゲン。いずれ劣らぬ名手ぞろい。4人が奏でるピアソラはあいまいのかけらもなく、隠しごとや飾りや体裁もまったくなく、ナマの感情をストレートにぶつけてくるものだった。
「ピアソラは喜びと悲しみ、ちょうどその中間を歩いている、ギリギリのところを歩いている作曲家だと思う。このように人間の感情が素直に自然に表せる作曲家というのは数少ないんじゃないだろうか。ぼくは他にはシューベルトしか考えられないね」
 クレーメルのシューベルト好きは昔から有名だ。その音楽に込められたえもいわれぬ悲しみに共鳴するという。
「ピアソラとシューベルトの共通項というのはハッピーな曲がないこと。彼らは喜んだりうれしがったり、そういう感情の曲は書かない。ぼくも多分にそういう面があって、子どものころからよく人生について考えるけど、自分の人生には限界があると思っている。自分の存在そのものについても考えるよ。いまは音楽を通して多くのいい友人に恵まれているけど、昔は本当の友と呼べる人はひとりもいなかった。おかしな子どもだろ。いつも自分は何者だろうと自分に問いかけていたものさ」

ぼくらがどれだけ裏で血のにじむ努力をしているか、少しでもわかってほしい

 そんなクレーメルは日々の問いかけを日記に記すようになった。そしてあるとき、それを1冊の本にまとめた。いまでも文字を記すことは好きで、時間が許す限り書いている。
「音楽と同様、何でもすぐに暗記する癖がついているんだよね。だから日常のちょっとしたことも記憶に残っているけど、それを完璧に忘れないようにするためにいつもノートを持ち歩いていた時期があった。去年も1冊本をまとめたんだ。それとインドに旅行した」
 ただし、いまは物理的に時間がたりなくて、なかなか思うように書けないとか。
「ぼくは実際の人生のなかよりも、音楽を通じて自分のアイデンティティを発見するほうが多い。楽譜というものが自分を発見する大きな手助けとなってくれるから、音楽に関しては作曲家とその作品に忠実でありたいと願っているけど、自分なりのスコアというものも書きたい。それが文という形になるのかな」
 クレーメルは1問1問非常にゆっくりと、ことばを選んで答えるタイプ。そのテンポが静寂とある種の緊張感を生み出す。彼のヴァイオリンに通じるような、そしてときに抽象的な表現が顔をのぞかせる。
「ぼくがいま乗っている電車というのは、まだ目的地に着いていない。非常に速い電車で、力もあるから、電車から飛び降りる勇気はない。自分が求めているのは、その旅行のなかでもっと停車をして、駅に降りて新しい空気を吸う時間を確保すること。そのような休息や新しい空気というものが、音楽を作るにあたってとても大切だと思うから」
 演奏家は音楽を作っていく過程、苦労した場面、練習などの裏側はあまり話したがらないのがふつうだ。だが、クレーメルはその部分こそ聴衆に感じ取ってほしいところだという。
「音楽ファンは演奏家がステージで演奏するときや、できあがった録音で演奏を楽しんでいるよね。でも、アーティストがどうやってそのステージまでたどり着いたか、どうやって録音を作り上げたかには目を向けない。ぼくは太陽と同時に月も大切だと思うんだ。裏側の影の部分だよ。楽譜から読み取ったものをどう実際の音にして聴衆の席に届けるか。どれだけ裏で血のにじむような努力をしているか。それを少しでも知ってほしい。自分の仕事をまっとうするために多くの犠牲を払っていることも。ぼくが自分の仕事である音楽に忠実であろうとすると、莫大なエネルギーが必要となる。だからプライヴェートな時間はまったくなくなってしまう。その状況を聴衆が知ることによって偽物と本物、まねごとと真の解釈との差が理解できるようになると思う。そしたらみんなもっと音楽を楽しめるでしょ」

自分のエネルギーが続く限り、ピアソラは演奏していきたいと思っている

 こういうことを語るときのクレーメルの表情は真面目そのもの。天才と称され、何でも楽々と演奏しているように見える人が、こういうことに熱弁をふるうこと自体興味深い。
「ピアソラの演奏を初めて聴いたとき、彼がタンゴを使ってものずこいエネルギーを発していることに感動を覚えた。感情的なエネルギーが音楽によって引き出されていく。世界の南端からきた音楽がこんなにも自分の魂を揺さぶることにぼくは驚愕した。その音楽は親密にぼくに語りかけてきた。なんだかノスタルジックな感情が湧いてきて、胸がいっぱいになってしまった。残念ながらピアソラとは一度も共演できなかったけど、その後、ブエノスアイレスからフエゴ島まで旅をして、ピアソラを演奏したいと気持ちが固まった。ピアソラの世界に自分の道を開こうと…」
 クレーメルのピアソラ・シリーズは今後も続く。次なるアルバムは小オペラ「ブエノスアイレスのマリア」。これは声楽家と語り手をブエノスアイレスから呼んで録音した。その語り手、オラシオはアルゼンチンの詩人で、ピアソラとともにこの曲を書いた人。そして4枚目の構想もすでにできあがっているという。
「はやりだからとか、売れるからということは関係ない。ピアソラに接点を見出しただけ(このことば、プライドの高さを感じますね)。ぼくはピアソラに恋し、ピアソラのエネルギーが伝染し、ピアソラの音楽に過去へのあこがれを見た。自分のエネルギーが続く限りピアソラは演奏していきたいと思っているし、新しい面をそのつど盛り込んでいきたい。ピアソラに関係ある人や影響を受けた人、さまざまな音楽家との出会いがぼくの音楽の幅を広げてくれるし。少しでも時間ができたら読書をしたり、こういう取材でジャーナリストと話すのではなく友だちとゆっくり話したいけどね。いや、ほんのジョークだよ(笑)」
 気難しい表情がこのジョークで一瞬崩れた。一途で一徹で自己にきびしいクレーメル。その演奏は心の奥に深い感動の泉をもたらす。
 今日の写真はその雑誌の一部。カメラマンも緊張していた。

| インタビュー・アーカイヴ | 14:03 | - | -
ジュゼッペ・シノーポリ
 1997年夏、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の本拠地、ゼンパーオーパーの指揮者室で、ジュゼッペ・シノーポリと向かい合った。
 ここは歴代の著名な指揮者たちの写真がずらりと額に入れて飾られている部屋。それらをバックに、シノーポリは「私がどんなにこの地位を栄誉あるものだと感じているか、おわかりでしょう」といった。
「インタビュー・アーカイヴ」の第16回は、そのシノーポリ(1946〜2001)の登場。話を聞いてからまもない2001年、まだまだこれから大きな仕事を成し遂げるという矢先、シノーポリはオペラを振っている最中に急逝した。訃報を聞いたときはことばを失い、いつまでも信じられなかった。本当に残念でたまらない。

[アサヒグラフ 1997年12月5日号]


「弦も管もすべてが美しい響きを持ってこそ、
アンサンブルが完全な調和を生み出すのです」
 


 イタリア出身の指揮者ジュゼッペ・シノーポリが、ドイツの古都ドレスデンにある名門オーケストラ、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の首席指揮者に就任したのは、1992年のことだった。それからはや5年、このオーケストラは往年の輝かしい響きを取り戻したと評判だ。
「このオーケストラは来年、創立450年を迎えます。長い歴史を持っているでしょう。昔はさまざまな作曲家が自作を振ったり、初演を行ったりして指揮台に立ったんですよ。ウェーバーもワーグナーも、また、R.シュトラウスも、みんなこのオーケストラで振ったものです」
 シノーポリはその時代の音をよみがえらせたいと願って、このオーケストラのシェフを引き受けた。彼が初めて彼らと共演したのは1987年。録音のためにドレスデンを訪れ、ブルックナーの交響曲を振った。
「確か、第7番だったと思います。その後、同じくブルックナーの第4番も指揮しました。当時はまだ社会主義の統治にあった時代で、オーケストラは録音を除いては、あまりいろんな指揮者のもとで演奏することはありませんでした。
 でも、私はすぐに昔の響きが伝統的に受け継がれていることに気づきました。特に弦楽器の、とてもかろやかで美しい音色におどろかされました」
 シノーポリは当時ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団の音楽監督の地位にあった。それでも、このオーケストラからの誘いにはすぐに応じた。それほど魅力的な音だった。
「私はドレスデン歌劇場管弦楽団の録音は昔から聴いていたんです。歴代の重要な録音をね。そこからは弦楽器がどのように弓を動かしているか、どのくらいの長さに弾くかなど、こまかい部分も聴きとれました。
 この弦の響きはウィーン・フィルやベルリン・フィルとはまったく違うものです。これはこのオーケストラが独特の弓の技術を代々伝えてきたからにほかなりません」 
 シノーポリはそれを維持しつつ、さらに踏み込んで昔の音をより鮮明によみがえらせたいと考えた。ウェーバーやシュトラウス時代の音を。ワーグナーが管楽器の美しさを称して「金の鉄砲」といった、その管楽器の音色も取り戻したかった。
「私は完全な調和を目指しています。弦も管もすべてが美しい響きを持ってこそ、アンサンブルが完全な調和を生み出すのです。ワーグナーは人を威圧するのではなく、軽く、しかも人を引き付けるフォルティシモが出せるこのオーケストラをとても気に入っていました。非常に調和のとれたフォルティシモだったわけです」 
 来年1月の来日公演では、こうしたドレスデンゆかりの作曲家の作品がプログラムに組まれている。
 ドレスデンは美しいエルベ川のほとりに位置する静かな町。第2次世界大戦で廃墟と化したものの、現在は宮殿も教会も劇場も、すべてが元の姿に復元され、町は中世のたたずまいを見せている。
 このオーケストラは町の象徴でもあるオペラハウス、ゼンパーオーパーを本拠地としている。ここはゴットフリート・ゼンパーが設計したイタリア・ルネサンス様式の劇場。ゼンパーがこだわり続けた形式、色調、絵画、彫刻なども現在、見事に再現されている。
「ドレスデンの人々はこまかいところまでこだわり、すべて原形のままに復元された。それがここの人々の気質なんです。ですから私も音楽にこだわりたい。日本ではドレスデンならではの美しい響きをお聴かせします。伝統の音を聴いて、心のなかでドレスデンへ旅してください」
 シノーポリはイタリア人だからイタリア・オペラが得意と思われがちだが、昔から目はドイツ、オーストリア方面に向けられていたという。
「私は10歳のときに《ドン・ジョヴァンニ》の舞台を見て、指揮者になることを決意したんです。モーツァルトのオペラが5つ振れれば、もう思い残すことはない。
 モーツァルトの語法を表現するのは非常に難しい。作品には大きな緊張感と強い光とデモーニッシュ、そして劇場性とシンメトリーの感覚が宿っています。しかし、よく見るとシンメトリックでない場面も存在する。それらは指揮をするときの基本ともなります」
 シノーポリの音楽は作曲家ならではの知的な分析力と楽譜の深い読みが特徴。彼はオーケストラから歌心を引き出す名人。調和のとれたアンサンブルと豊かな歌心に期待したい。

 このときはすぐそばにマイセンがあると知り、仕事仲間3人でオフの時間にタクシーを飛ばし、マイセン焼きを買いに行った。私は子どものころからモスグリーンが大好き。美しいグリーンで絵付けされたティーカップを見つけ、すぐさま購入。いまでは大切なお客さまがあると、このカップにお取り寄せのおいしい紅茶を入れてお出しする。これまでみんなが大感激してくれ、必ず「おかわりっ」という。
 今日の写真はそのマイセンのティーカップ。これを見るといつもシノーポリの一生懸命インタビューに答えてくれた顔が浮かんでくる。
 もう1枚はそのときの雑誌の一部。偉大なマエストロたちの写真の前でシノーポリが誇らしげにポーズをとってくれた。



| インタビュー・アーカイヴ | 23:25 | - | -
ディミトラ・テオドッシュウ
 9月に待望の5度目の来日公演を行うイタリアの名門オペラハウス、ボローニャ歌劇場は、今回ベッリーニ「清教徒」、ヴェルディ「エルナーニ」、ビゼー「カルメン」という3演目を予定している。
 そのなかで、「エルナーニ」のエルヴィーラ役を歌うのがギリシャ出身のソプラノ、ディミトラ・テオドッシュウ。彼女は、輝かしくドラマティックで力強いコロラトゥーラの技巧で世界を魅了している。
 そこで「インタビュー・アーカイヴ」第15回はテオドッシュウの登場。ちょうど10年前にインタビューした貴重な記録である。

[ぴあ 2001年6月11日号 906]

マリア・カラスの再来!? 
フェニーチェ歌劇場の「椿姫」に登場

「私ね、6歳のときに初めてオペラを見て、オペラ歌手になるんだと心に誓ったの。でも、音楽を勉強する機会はまったくなく、本格的に歌を学び始めたのは25歳からなのよ」
 いまや各地のオペラハウスから引っ張りだこの人気ソプラノ、ディミトラ・テオドッシュウはこれまでの経緯を率直に話す。
 彼女は21歳でギリシャを出てドイツに渡り、仕事をしながら音楽を学び始める。
「オフィスワークをしながら、毎日歌のレッスンに行ったの。ものすごくハードだったけど、いつか舞台に立ちたいと夢見ていたから耐えられた。当時から夢は《椿姫》のヴィオレッタを歌うこと。これ以外の役は考えられなかったわね」
 ギリシャ時代からマリア・カラスのレコードを数多く聴き、特にヴィオレッタを歌うカラスに魅せられていたという。
「内面的に深い役、気が狂わんばかりに人を愛したり、人生を逸脱したり、現実にはありえないようなはげしい性格の人物に惹かれる。
 ヴィオレッタも最初のアリア、ジェルモンとの二重唱、アルフレートへの呼びかけ、そして死の床でのアリアなど聴かせどころがたくさんあるでしょ。これらはみなとても深い感情表現が必要となり、技巧的にも難しいものが要求される。作曲家が意図した歌に近づくには、自分が成熟しないとダメね」
 その夢が初来日のフェニーチェ歌劇場の舞台で実現する。テオドッシュウはこれまで何度かヴィオレッタを歌っているが、実は焼失前のフェニーチェ歌劇場では一度も歌う機会はなかったそうだ。
「偶然なんだけど、フェニーチェと初契約を結んだ日にニュースで劇場の火災を知ったの。役は《ドン・ジョヴァンニ》のドンナ・アンナだった。
 私はこの舞台に立てるチャンスを失い、美しい劇場が失われたことにショックを受けた。でも、日本でヴィオレッタを歌うチャンスが巡ってきた。なんて幸せなのかしら。見ててね、全力投球するから(笑)」
 カラスを継ぐギリシャの歌姫は、豊かな声と表現力を武器に、新しいヴィオレッタ像に挑む。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。「苦労してようやくここまで上り詰めたのよ。ひとつひとつの舞台は私の夢であり、生きる糧であり、大切な聴衆とのコミュニケーションの場なの」としみじみと話す表情が印象的だった。
 きっと今秋のエルヴィーラも、全身全霊を賭けて挑むに違いない。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:31 | - | -
アンドレ・プレヴィン
 先日の「インタビュー・アーカイヴ」でシルヴィア・マクネアーの記事を紹介したので、その続きとして第14回はアンドレ・プレヴィンの登場。マエストロには何度かインタビューをしているが、いつもほんわりやわらかなムードが漂っていて、心がなごむ。
 インタビューの最後には、「何度か結婚しているけど、最近は動物や人間よりも盆栽に興味が移った」といってその場に居合わせた全員を爆笑させた。

[FM fan 1991年4月15日〜28日号 No.9]

世界中の指揮者に聞いたら、みんなモーツァルトが一番難しいと答えるんじゃないですか

 門外不出とされていたザルツブルクの冬の音楽祭「モーツァルト週間」が、初めて東京サントリーホールにやってきた。その初日を飾ったのはプレヴィンとウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団。プレヴィンはここでピアノを演奏。彼はこのほかウィーン・フィルを指揮するなど大活躍。そんな超多忙なプレヴィンにリハーサルの合間を縫ってマイクを向けてみた。

散歩の最中に曲が浮かぶなんて映画の世界のことだろうね

――この音楽祭はオール・モーツァルト・プロですが、指揮者とピアニストの両面から見た場合、モーツァルトというのはどんな作曲家でしょうか。
プレヴィン モーツァルトは指揮しようがピアノを弾こうが、とにかく演奏家にとって非常に難しい作曲家です。私は今回のように弦楽四重奏団と組んだり、いろいろな形でピアノを弾きますが、基本的には指揮が中心で、あくまでも自分は指揮者だと思っています。
 モーツァルトを指揮するときいつも考えるのは、モーツァルトというのはそれだけでプログラムが十分に成り立つということです。たとえばブラームスやチャイコフスキーはほかとの組み合わせで演奏されることが多いですよね。でも、モーツァルトはそれだけでプログラムを組んだほうがいい。モーツァルトだけですばらしいコンサートができるのです。
――モーツァルトの難しさというのは、楽譜がシンプルだからこそ、より表現が難しいということでしょうか。
プレヴィン そう、確かに楽譜は簡潔。音符も決して多くない。でも、そのひとつひとつの音のなかにさまざまな意味が込められています。ですから、テクニック的には簡単かもしれないけれど、ひとつのフレーズだけを見ても何百通りもの解釈があるから難しいんです。
 あなたが世界中の指揮者に聞いたら、みんなモーツァルトが一番難しいと答えるんじゃないですか(笑)。そして、もっとも好きな作曲家としてもモーツァルトの名を挙げる人が多いでしょうね。
――楽譜の表面だけを見ていてはダメで、もっとその奥にある作曲家の意図を見出すことが必要という意味ですね。
プレヴィン たとえば、私は京都の庭園が好きなんですが、あれはただ石が並んでいるだけ、砂が敷き詰められているだけと考えたら、それだけで終わりです。でも、ずっとあの石を見つめ、ひとつひとつの配置や意味を考えながら見ていると、その背後にあるものが見えてきます。
 それと同じで、モーツァルトもひとつひとつの音符を見ると、それは単なる音でしかありえない。しかし、ずっとそれを見つめていると、その背後にあるものが見えてくるのです。モーツァルトが本当にいいたかったことは何だったのか。そうなることによって解釈が広がっていきます。
 それから、モーツァルトは自分が悲しい気持ちのときに指揮すると、その気持ちが反映されるし、また気分が高揚しているときは、それがそのままはね返ってくるというおもしろさがあります。
――プレヴィンさんは作曲家でもあり、今度キャスリーン・バトルの曲を作られるということですが、もう構想はできあがっているんですか。
プレヴィン これはカーネギー・ホールから次のシーズンの演奏会用に依頼されたもので、キャスリーンとオーケストラのための曲です。歌詞はトニー・モリソンという女性の詩を使います。まだ全部できあがっていませんが、6曲で構成される予定です。
――いろいろなタイプがあると思いますが、作曲するときはしっかり五線譜に向かって始めるタイプですか。
プレヴィン そうですね、真っ白な用紙に向かってペンを握ってきちんと考えます。そうやって根を詰めないと、インスピレーションが湧いてこないのです。
 私は散歩が好きで、かなり長時間歩くんですが、それが一番息抜きになります。
――その散歩の最中に何か曲が浮かぶということはないのでしょうか。
プレヴィン ハッハッハ! 作曲家が森を散歩しているときにすばらしいシンフォニーが浮かぶなんて、映画の世界のことだろうね。そうできれば楽だけど、実際はもっと地道な仕事ですよ。

自然が好きで、都会で暮らすのは性に合わない

――でも、演奏旅行で世界中を飛び回っていると、どんなときに曲作りの時間をとるんですか。
プレヴィン ほかの職業の人は仕事を離れてリラックスするために旅に出るのでしょうが、私の場合は家にいるときが一番くつろげるますので、作曲もそんなときに集中して行います。ただし、本当に時間がたりないのは事実です。
 たぶんさまざまな都市を回っているためか、私はとにかく自然が好きで、都会で暮らすのは性に合わない人間なんです。以前22年間もロンドンに住んでいましたが、このときも郊外の家から市の中心まで毎日通っていました。
みんなに「よく面倒くさくないなあ」といわれ続けながら…。
 私は、朝静けさのなかで目を覚まして1日を始めたいと願っています。ですからいまも、ニューヨークと、コネチカット州にある緑に囲まれた静かなところと両方に住んでいるんですよ。
――今後のレコーディング計画は。
プレヴィン 向こう2年間で20枚録音する予定がありますから、全部の曲目をいまいえないくらい多い。ひとつ挙げれば、ウィーン・フィルとハイドンの交響曲を6曲入れる予定になっています。
――そうなると、散歩以外まったくオフの時間はとれませんね。
プレヴィン 私はいままでの結婚で8人子どもがいるんですよ。21歳を頭に7歳まで。ですから、空いている時間は子どもたちと一緒に過ごすだけで精いっぱい。ただし、みんな何かしら楽器はやっているんだけど、だれひとりとしてプロになれそうなのはいないなあ、残念ながら。

 短期間に鮮やかな演奏を披露し、あっというまに次なる地へと飛び立ってしまったプレヴィン。今秋にはロイヤル・フィルと来日し、今度は全国公演を行う予定。大の和食党で、ふだんでも週に2、3回は食卓にのぼるという。5カ国語はかるくこなすというプレヴィンは、そのグローバルな音楽性と同様に、異国の文化を上手に生活に取り入れる名人のようだ。ただいま日本語にも挑戦中とか。

 これはもうずいぶん前のインタビューだが、いまも忙しさは変わらないようだ。このときは「私はクラシックの指揮者だ」と明言していたが、その後ジャズにも回帰し、最近はジャズ・ピアニストとしての来日も多い。
 今日の写真はインタビュー時の雑誌の一部。柔和な笑顔が印象的だ。


| インタビュー・アーカイヴ | 22:21 | - | -
アンドレ・ワッツ
 アメリカのピアニスト、アンドレ・ワッツは、楽屋の外で黒ずくめの格好をして葉巻をふかしていると、俳優のようである。それもどこかのボスかアブナイ役が似合いそう。
 しかし、実際の素顔は気さくでやさしく紳士的。興が乗ると一気に雄弁になり、我を忘れてその話題に突っ走る傾向がある。
 1990年のショパン・コンクールで第1位が出なかった話をしたところ、表情が変わり、熱くなった。インタビュー・アーカイヴ第13回は、そのワッツの登場だ。

[ショパン 1991年1月号]

作品のなかでいかに自分を解放させるかということにポイントを置いている

 1990年11月6日、アンドレ・ワッツのシューベルトを聴いた。即興曲より第1番変ホ短調、ピアノ・ソナタ第20番イ長調、そして幻想曲ハ長調「さすらい人幻想曲」。
 これが前半のプログラムだったが、「さすらい人幻想曲」にいたく感激し、後半のショパンとドビュッシーを聴いてもまだ耳のなかで「さすらい人幻想曲」が鳴っている感じだった。
 そこで今回はこのシューベルトに関しての質問からインタビューに入った。

演奏を楽しんでもらうほうがいい

 素顔のワッツはとても柔和な雰囲気を持った人あたりのいい人。話すときは顔の表情がくるくる変わり、役者を目の前にしているようだ。
 そういえば「さすらい人幻想曲」もひとり芝居のようだった。目もさめるようなテクニック、両足の絶妙なペダリング、いかにも楽しそうで、ワッツのからだの動きにつられてしまうほど、そのノリはすごかった。
「シューベルトは大好きな作曲家だから、ずいぶん演奏している。彼の音楽は本当に自然で、こちらも自然な気持ちで弾くことができるから。彼の作品は最後の3つのソナタが特にすばらしいと思う」
 ワッツはシューベルトをこんなふうに話し出した。シューベルトといえばすぐにリートを頭に思い浮かべてしまう。さまざまな歌手がシューベルトの歌曲のすばらしさを語っているが、ピアノ作品について語ったものはあまり多くない。
「もちろんリートはシューベルトの代表的なものだけど、それだけでシューベルトは語れない。ことばも重要だけれども、私はメロディがとても大事だと思う。シューベルトのピアノ作品はメロディがとても美しいし」
 ワッツの演奏は一種のパフォーマンスのように、見ていて飽きない要素を持っていた。
「知識を演奏のなかに出して弾くということも大事だけれど、私は演奏を楽しんでもらうほうがいいね」
 そう、まさしく彼の基本姿勢は聴き手に伝わった。これはワッツが16歳のときに運命的な出会いをし、デビューのきっかけを作ってくれたバーンスタインの影響が大きいのだろうか。
「もちろんバーンスタインから学んだことも多いし、他の演奏家の影響も受けているよ。演奏家というものは伝統的な弾きかたをしっかり守っている人もいるし、そうではなくそれから解放されて自分の自由な気持ちを大切にして弾く人もいる。私はどちらかというと、演奏するするときにその作品のなかでいかに自分を解放させるかということにポイントを置いているんだ」
 ワッツはもともと自分をオープンに表現していくタイプなので、ピアノを学んでいく過程では、むしろそれを制御し、気持ちをコントロールしていくことに重点を置いたとか。
「私ぱむしろオープンになりすぎて、風車が回っているように音楽がどこかに飛んで行ってしまいかねない(笑)。この自由に開放的に演奏するというのは、ことばでいって教えられるものではないし、自由に表現していいんだよ、っていくらいっても伝わるものではないから」
 それから彼はたとえば、といってラフマニノフの場合は本当に自由に感情をそのなかに出せるんだが、シューベルトの場合はそうはいかないといった。
「シューベルトを演奏するときに聴き手を笑わせようと思って弾くと、聴衆は反対に泣いてしまう。逆に泣かせようと思うと今度はほほ笑みを引き出すことになる。これが難しいところなんだよね」
 
大きな手は有利か

 ところで、ワッツはとても大きな恵まれた手を持っている。しばらくこの手の大きさの話になったが、ワッツに大きな手はピアニストとして有利ではないか、と聞いたところ、彼はこんなユニークな答えを返してくれた。
「手が大きくて得をしたなんて考えたこともなかったなあ。昔、ヨゼフ・ホフマンという有名なピアニストがいたんだけど、彼はとても小さな手をしていた。ラフマニノフは結構大きな手をしていた。そのふたりがニューヨークでほんの目と鼻の先に住んでいた時期があってね、もちろんふたりとも自分こそ世界で一番すばらしいピアニストだと思っていた。
 私はふたりともすごいピアニストだと思っているから、これを考えても手の大きさは関係ないと思う」 
 彼は、だってアルゲリッチだってラローチャだって男性にくらべたら決して大きな手をしているわけではないのに、バンバン弾くでしょ、といって笑った。
「ショパン」編集部にはピアノを習っているんだけれども自分は手が小さいので苦労しているとか、ピアノに向いていないのではないか、という悩みが数多く寄せられる。これに対し、ワッツはこんなアドヴァイスをしてくれた。
「何でも否定的に考えてはいけない。私は指はそんなに長くないけど、掌が大きい。だからいつもデリケートなこまかいところを弾くときは細心の注意をするようにしている。それが手の小さい人や指の細い人は全然考えないで弾くことができるわけだから、この分有利だよね(笑)。ベートーヴェンの《熱情》のこまかいところなんか、指がからまっちゃって大変なんだから」
 ここでワッツは相撲だって大きな力士が必ずしも強くはないでしょ、といい、だから手の小さな人もくじけずに頑張ってほしいと付け加えた。

コンクールって何なんだ

 ワッツはどんな質問にもていねいに誠意を持って答えてくれるが、概してもの静かな印象だ。ところが、話題が今秋行われたショパン・コンクールにおよび、第1位が出なかったことを知ると、途端に声の調子が変わり、口調がはげしくなった。
「どうして1位を出さないんだ。若いピアニストがせっかく一生懸命弾いているのに、審査員はなぜ彼らをバックアップしようとしないんだ」
 彼は優勝者が出ないことにこだわった。今回はそこまでのレベルに達した人がいなかったと判断したに違いないと説明しても、ワッツは納得しなかった。
 そしてどんな審査員の顔ぶれだったか、どんな参加者だったか、と逆に質問攻めにあってしまった。
「マズルカ賞もコンチェルト賞もないなんて考えられない。わざわざ賞を出さないで弾いた人たちを傷つけることは、私としては考えられない。だってコンクールは一生懸命弾いた人を応援するためのものでしょう。いったい今回の審査員はそこをどう考えているんだろう。審査員というのは、コンクール後に若い人たちが成功するように応援するべき立場なのに」
 こういってワッツは、じゃ、だれが若いピアニストをこれから応援していくんだ、いったいコンクールって何なんだ、といい続けた。
「でも、もしもこの記事を今回審査員をした私の仲間が読んだら、彼らとこの件で議論しなくちゃならなくなるね」
 しばらくコンクール談義をした後、彼は苦笑しながらこういった。しかし、その後またこういい出した。
「参加者に対し、1位という結論を出すということは、それなりのよさとかレベルの高さを感じるということだから、そこで1位を出すことによって審査員の資質を疑われると思っているんじゃないかな」
 ワッツはとても正直に、率直にいろいろな意見を聞かせてくれた。そしてテニスのトーナメントの例まで出して、若い人がキャリアを築くことは本当に難しいと語った。
 ワッツは幸運なことにコンクールのタイトルがなくてもデビューできた。それは彼自身本当にラッキーだったといいながら、今回のショパン・コンクールの結果は、現在のピアニストのデビューの難しさを改めて考えさせられることだ、と語った。
「これだけコンクールが多いと、今日優勝しても、明日また違った優勝者が出てきたら前の人は影が薄くなってしまう。演奏者にとって絶対的に安心できるということはなくなってしまった。だから審査員もそこのところを考えないとね」
 つい夢中になっちゃって…もうこれ以上いうとさしさわりが出てきてしまうから、といってワッツは話を終えた。ステージの彼もふだんの彼も、とてもストレートで熱血漢。
 でも、そんななかにじっくり考えながらひとこつずつ話す誠実さと、いわゆる人のよさを発見して気持ちが温かくなった。
 演奏を聴き終わってすぐまた聴きたくなる、インタビューが終わってからもまた会って話が聞きたくなるという気持ちになったのにはわれながらビックリ。
 ただの熱血漢ではない。演奏を通して音楽の楽しさを味わわせてくれたワッツは、素顔もアメリカン・スピリッツのかたまりのようで、聞き手を楽しませてくれた。最近リリースされたCDもエンターテインメントに徹している。これからも注目度100パーセントのアーティストである。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。大きな手を振り回しながら話す姿は、まさに役者のよう。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:31 | - | -
シルヴィア・マクネアー
 雨模様のうっとうしい気分の日が続くと、私はいつもあるCDを聴いて心を開放させる。シルヴィア・マクネアーの「マクネアー・シングズ・ジェローム・カーン・ウィズ・プレヴィン」と「ドリーミング・アメリカ/マクネアー・ウィズ・プレヴィン」(フィリップス)だ。
 でも、これらは昼間の明るい時間帯に聴くものではなく、どちらかというと夜向きの音楽。照明をちょっと落としてウィスキーなどをチビチビやりながら聴くと、もう極楽。天気の悪さなどどこかに飛んでいってしまう。
 ただし、決して多人数でワイワイいいながら聴く音楽ではない。しっとりとことば少なに音楽に酔いしれる。これが最高!
 マクネアーの歌は実に堂に入っていて、こちらが本職かしらと思ってしまうほどのジャジーなノリ。こういうのを聴いていると、なんだかどんどんこっち方面の歌を聴きたくなり、ヘレン・メリルなんかも引っ張り出してしまう。
 ここで注目したいのが、アンドレ・プレヴィンのピアノ。こののびやかさ、実に楽しそうにピアノと戯れている感じの音楽を聴いていると、なんかふっきれた感じがする。
 彼は一時期クラシック1本にしぼり、私は指揮者だと無理やり自分を鋳型にはめていたけれど、この録音のころに「またジャズもやり始めたんだよ」とインタビューで語っていた。ひと皮むけて本当に好きな音楽を楽しんで弾いている、そんな表情が音から見えるようだ。
 今回のインタビュー・アーカイヴ第12回は、そんなシルヴィア・マクネアーの登場。最近は来日の機会がないが、ぜひあの歌声をナマで聴きたい。

[アサヒグラフ 1996年12月6日号]

「私はプレヴィンのすべてを吸収しようと努力したつもり」

 アメリカ出身のソプラノ、シルヴィア・マクネアーは、オペラ、歌曲などのクラシックのレパートリーにとどまらずジャズ、ポップスなど幅広い歌を手がけている。
 それも単なる余技ではなく、アンドレ・プレヴィンのピアノと共演したジェローム・カーンやハロルド・アーレンのソングブックの録音は、絶賛を博した。
「私はアメリカ育ちだから、ジャズもポップスもミュージカルもからだのなかに入り込んでいるの。好きな歌手もエラ・フィッツジェラルドとサラ・ボーンなのよ。
 プレヴィンとの共演もすごく楽しくて、曲に対する違和感はまったくなかったわね。プレヴィンはすばらしいピアニスト。私はスポンジのように彼のすべてを吸収しようと努力したつもり」
 マクネアーがプロのオペラ歌手としてデビューしたのは15年前。以後、バロック時代から現代までさまざまな作品を歌い、いまや世界中の指揮者から引っ張りだこの売れっ子歌手となった。
 年に10カ月は各地を飛び回り、指揮者でピアニストでもあるご主人ハル・フランスとはほとんど離ればなれだと嘆く。
「1998年には、日本で彼の伴奏で歌曲を歌う予定が入っているからそれが楽しみ。歌手の生活というのは一見派手に見えるけど、本当に大変。山もあれば谷もある。のどの調子が悪かったり、時差で体調を崩しているときでもきちんと歌わなくてはならない。
 うまく歌えなくて、深い谷に落ちてしまったときは人にいえないほど落ち込んで、ひとりで滅入るの」
 マクネアーの歌声は明るく自然な高音が特徴で、リズム感のよさが武器。ただし、それを万全に保つのには日々のたゆまぬ努力がものをいう。
 いまはオペラでもいろんな役を歌い、さまざまな曲に挑戦しているが、あるとき先輩格のジェシー・ノーマンにいわれたことばが頭から離れない。
「オペラ歌手は5つの役が歌えればいい。その役が本当にうまく歌えるのなら、決して欲張ることはないっていわれたの。もちろん、私は心に響く音楽なら何でも歌いたいと考えているけど、いずれ好きなヘンデルやドビュッシー、マーラーなどをじっくり歌っていきたいと思っている」
 マクネアーは3歳から母親についてピアノを始め、7歳でヴァイオリンを学んだ。父親が教会の合唱団の指揮をしていた関係上、子どものころから教会でもよく歌っていた。高校生のころはロック歌手を夢見る少女でもあった。
 オペラに目覚めたのは、インディアナ大学時代。いくつかのオペラの主役を歌い、すっかりオペラのとりことなってしまった。
「昔はいまより声のコントロールも役づくりも未熟だった。人間の成長に合わせて声に深みが出てくるのは当然のこと。今後はもっと人間的に掘り下げた内容のある役を歌っていきたい。それが夢でもあるから」

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。彼女はご主人のことを口にするとき、とても幸せそうな表情をした。「一緒に過ごす時間が本当に少ないの。でも、ニューヨーク郊外にある緑あふれる自然のなかにある家で過ごすときは、ほんの短い時間でもすごく有意義なのよ」といってにっこりほほ笑んだ。うーん、たっぷりあてつけられた感じでしたね(笑)。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:18 | - | -
ダニエル・ハーディング
 イギリスの若手を代表する指揮者、ダニエル・ハーディング(1975〜)とマーラー・チェンバー・オーケストラが、マーラーとブラームスのプログラムを携えて来日、すばらしく気合いのこもった演奏を披露した。
 ハーディングはパスカル・ドゥヴァイヨンと同様、「前世は日本人だった」と考えているという日本をこよなく愛する人。それゆえ来日を早々と表明し、今回もこの後は新日本フィルを振るなど、かなり長期間にわたり滞在している。
 実は、ハーディングは3月11日に新日本フィルに客演中の東京で東日本大震災を体験、その晩の定期演奏会を予定通り指揮し、すみだトリフォニーホールで一夜を明かしたという。
 一方、マーラー・チェンバー・オーケストラはメンバーの投票により日本公演を行うか否かを決めたが、数人を除きほぼ全員が賛成票を投じ、来日公演が可能となった。
 私は6月8日のブラームスの交響曲第3番、第1番の日を聴いたが、彼らの演奏はこれまで聴いたどの演奏よりもテンションが高く、心がこもったもので、とりわけ管楽器の美しさが際立っていた。
 ハーディングは東日本大震災の支援にも積極的で、休憩時間には義捐金の箱を持ってカフェに現れ、自ら支援を呼びかけた。
 この夜は日本公演の最終日にあたり、終演後にハーディングを囲んでの食事会があり、そこにもお招きいただいた。
 彼と、参加したオーケストラのメンバー数人はとても箸の使いかたがうまく、なんでもオーケストラの本拠地のあるベルリンの和食店に、しょっちゅうランチを食べに行っているそうだ。
 インタビュー・アーカイヴの第11回は、ハーディングの1999年の来日時のインタビュー。12年前になるが、彼は体型も顔の表情も、音楽に対する真摯で自然で情熱的な思いもまったく変わらない。食事会にはヨットパーカーを着てメガネをかけ、携帯を持ってフラリと登場。まだケンブリッジ大学に通っているような、そんなカジュアルな雰囲気をたたえていた。

[フィガロ・ジャポン 1999年1月5日〜1月20日号]

若き指揮者、ダニエル・ハーディングにインタビュー

 今回「ドン・ジョヴァンニ」でタクトを振るのは、クラウディオ・アバドやサイモン・ラトルに才能を見いだされた新鋭ハーディング。11歳のときにアバドの指揮姿を見て指揮者になろうと決心したという、若き逸材だ。
「アバドのエレガントな指揮、流れるような音楽の作りかた、美しい手の動きにすっかりまいってしまったんです。そのころワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』にハマっていたぼくは、レコード店にCDを買いに行ったんだけど、高くて買えなかった。そのときに店員さんが『ドン・ジョヴァンニ』を勧めてくれ、それがカルロ・マリア・ジュリーニの指揮だったんです。
 以後、このオペラにすっかり夢中になった。でも、アバドのアシスタントになれるなんて考えもしなかったし、『ドン・ジョヴァンニ』が振れるとも思わなかった。本当にラッキーです」
 ハーディングはアバドやラトルから、作品の細部まで追求する姿勢を学んだ。それはピーター・ブルックとの共同作業のなかでも生かされている。
「今回オーケストラも歌手もみんな35歳以下なんです。もちろんぼくも(笑)。みんな経験は浅いけど熱意はある。そこにブルックの経験がプラスされ、若さと経験との融合がなされています」
 ブルックとハーディングは長い時間をかけてこまかな点まで検討し、完璧な美を求めて作品を練り上げたという。
「既存の『ドン・ジョヴァンニ』ではなく、新しいオペラを作り出そうと思っています。舞台も歌手の動きもシンプルでモダンですが、音楽は伝統的な手法でいきたい。
 伝統を踏まえた上で近代的な面をプラスする。ドン・ジョヴァンニも自分たちに近い、人間的で感情豊かな人物としてとらえたいんです」
 流れるような美しい音楽で聴衆を酔わせたいと語るハーディング。もっとも敬愛する作曲家はブルックナーだそうで、神のような偉大な存在を感じさせる音楽、ピュアな魂を感じさせる音楽に目がないという。そのなかに潜む静けさを的確に表現できる指揮者になるのが夢だと。
 そう話すハーディングはまるで子どものような純な目をする。
「『ドン・ジョヴァンニ』も、天上の美しさを持つ旋律が多い。それを静かにじっくりと奏でられたら最高ですね」
 飾らずおごらず自然体の彼に期待!

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。1995年にラトルに代わってパリ・シャトレ座のコンサートを指揮。「すべてはこのコンサートから始まった」と語った。



| インタビュー・アーカイヴ | 17:27 | - | -
オリ・ムストネン
 インタビュー・アーカイヴの第10回は、ヘルシンキ生まれのオリ・ムストネン(1967〜)。常に「何かおもしろいことをやってくれるのではないだろうか」と期待を抱かせるピアニストで、初来日は1990年。
 ベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾いている最中にフーッといすから腰を浮かし気味にしたり、額から流れる汗を右手を跳ね上げるようにして何度もふいたりと、音楽とともにそのステージマナーも興味深く、超没頭スタイルの演奏に聴き手も一瞬たりとも気が抜けない、濃密な時間を提供してくれた。
 インタビューでも終始両手を大きく動かし、表情が次々と変わり、まるで役者を見るような思いがした。

[FM fan 1999年1月25日〜2月7日号 No.4]

「自分がいま何ができるか、何が必要か、
どう音楽とかかわったらいいのか。
これを日々考えています」


ベートーヴェン、バッハ、そしてショスタコーヴィチ

 ベートーヴェンをアイドルだと自認し、めったに演奏されることのない作品までをも研究して録音したり、ステージで紹介しているムストネンは、常にピアニストとして作曲家として新しい方向を模索している人である。
「ベートーヴェンがアイドルだという気持ちはいまも変わりません。ベートーヴェンは昔から私の光であり、導き手であり、神のような存在でもあるからです。ただし、彼は非常に人間的な面を作品に投影させた人だと思います。
 ベートーヴェンを弾いていると、ベートーヴェンその人が浮かびあがってくる。作品と人間性は別という作曲家が多いなか、ベートーヴェンはとても人間くさい、喜怒哀楽のすべてを曲の映し出した人だと思います。だからあまり知られていない作品もぜひ演奏したいと思い、1カ月前には作品107の『10の民謡主題と変奏曲』と作品22のピアノ・ソナタという珍しい曲を録音したんですよ」
 その彼がいま世界中で演奏しているのがJ.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集』とショスタコーヴィチの『24のプレリュードとフーガ』を組み合わせたプログラム。これは2つの組み合わせがあり、現在演奏しているのはすでに録音された最初のプログラムで、バッハに始まりバッハで終わるというもの。
「バッハと同様、ショスタコーヴィチも研究すればするほど魅せられていきます。いま演奏しているバッハとショスタコーヴィチの組み合わせも、長年取り組んできたものです。ひとつ目の組み合わせはバッハのハ長調のプレリュードからスタート、これはグノーの『アヴェ・マリア』でなじみのある天上の美しさを持つ音楽。ここから始まり、バッハを1曲、ショスタコーヴィチを3曲、バッハを2曲というユニットを4回続けていきます。これは調性や構成を数学的に分析して見出した方法で、すべての曲を1度ずつ演奏することができる唯一の方法です。
 もうひとつの組み合わせはショスタコーヴィチを1曲、バッハを3曲、ショスタコーヴィチを2曲というユニットで組まれています。この方法を発見したときは本当に大喝采して喜びましたよ。世紀の発見です(笑)。
 パリでの演奏会にショスタコーヴィチ未亡人が見え、とても温かなことばをかけてくれました。残念ながらバッハ未亡人は姿を見せませんでしたけどね(笑)。バッハ未亡人とはぜひ話をしてみたいんですが…」
 
天才が生み出す芸術の類似性

 ムストネンの父親は統計学者で、ムストネンも幼いころから数学好き。一時は音楽家ではなく数学者になろうと思ったこともあるとか。それだけに分析は得意中の得意。さらに作曲家でもあることから、バッハとショスタコーヴィチの作曲技法のこまかい点まで研究し、ついに納得いく組み合わせを見出した。
「真の天才というのは、ある高みに至ると類似性が見られるものです。バッハとショスタコーヴィチはまるで異なる作曲家のように思われていますが、実際はさまざまな点で類似性が見られます。
 ショスタコーヴィチがバッハの『平均律クラヴィーア曲集』に触発されて『24のプレリュードとフーガ』を書いたように、これらの作品は組み合わせて弾いていくと、私自身いまどちらの作曲家の曲を弾いているのかわからなくなる瞬間があります。
 以前、歌舞伎の玉三郎の舞台を見たときに、一瞬カザルスのチェロを聴いているような感情にとらわれたことがありましたが、やはり類い稀なる天才が生み出す芸術というものは、ある類似性をも生み出すものなんですね。同じような至福のときを与えてくれます」
 ムストネンは今回の来日公演で初めて自作のコンチェルトを披露したが、作曲面にもかなり力を入れ、親友であるチェロのスティーヴン・イッサーリス、ヴァイオリンのジョシュア・ベルをはじめとする音楽仲間とともにそれらを演奏している。
「自分の作品について話すのは得意ではないんです。友人のエサ=ペッカ・サロネンもそういっていますが、自作はまず音を聴いてもらったほうがいいですね。判断はみなさんにお任せします。
 サロネンともよく話すんですが、現在は演奏家と作曲家というものが分離し、演奏家は創造の場が理解できない、作曲家は演奏される現場の状況がわからない。そんな不幸な時代になっています。
 私は幸い両方体験できますから、この喜びや刺激、苦労、問題点などを人々と分かち合いたい。音楽家はもっとグローバルな目を持たないと現代社会に置いていかれてしまいますから。かといって何でもかんでも手を出すわけにはいきません。自分がいま何ができるか、何が必要か、どう音楽とかかわったらいいのか、これを日々考えています。
 最近、作曲家のロディオン・シチェドリンと奥さまのマーヤ・プリセツカヤにお会いしたのですが、二人からずいぶんいろんなことを学びました。彼らはショスタコーヴィチと交流があったわけですからひとつひとつの話がとても心に深い印象をもたらす。ショスタコーヴィチが身近に感じられ、より好きになりました」

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。ムストネンは最近来日がないが、ぜひ、演奏ごとにあたかもその作品の初演をしているような、新鮮で刺激的な演奏を聴きたいと願っている。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:09 | - | -
フリードリヒ・グルダ
 インタビュー・アーカイヴの第9回は個性派ピアニストのフリードリヒ・グルダ(1930〜2000)。1993年11月の来日が最後となってしまったのが、非常に残念だ。
 グルダは地中海に浮かぶイビサ島が好きで、リラックスするためによく訪れるといっていた。そしてそこで手作りの帽子をいくつか買ってくるという。この帽子をほめると、彼はいった。
「代わりの帽子をくれたら、ひとつあげてもいいよ。ただし、私の気に入る帽子に限るがね」
 それ以後、私は日本古来の帽子を探していた。次回の来日時に渡せるように。だが、それはかなわぬ夢となってしまった。

[FMレコパル 1994年2月号]


いい女との戦いはまだまだ続く!?
いたずらっ子健在


 1969年以来24年ぶりに来日したグルダ。こんなに長く日本にこなかったのは、2度目の奥さんが日本人で、彼女との別れが心に深い傷を残したから。それもようやく癒え、息子のリコも大人になったため、気持ちの整理がついたとか。
 今回はクラシックからジャズまで幅広く演奏。まるで新譜の『グルダ・ノン・ストップ』(ソニー)をナマで味わっているような、そんなリラックスしたコンサートだった。
 どの日も自らが本当に楽しんでいる気持ちのいいものだったが、いま一番ノッているパラダイス・バンドとの一夜は、まさにグルダの遊び心満開。1曲ごとにトークを入れ、聴衆とのコミュニケーションを図り、気持ちの赴くままステージを歩きまわる。そして独自の踊りも披露。まるでいたずらっ子がそのまま大きくなった感じ。
 コンサートに先立つインタビューでも、いたずらっ子は健在。気難しい面ばかり伝えられてきたが、実際はとても真摯で純粋で、終始絶やさないにこやかな笑顔も温かく、おどけた表情も魅力的だった。
「私がインタビュー嫌いだって? そんなことはないよ。まあ、若いころはずいぶんいろんな人と衝突もしたし、変なこと書かれたりして頭にきたこともあるけど、いまはもう戦いはすべて終わったんだ」
 グルダはおだやかな表情で「戦いは終わった」といった。いったい何に対する戦いなのだろうか。
 いまだあらゆるものと戦っている戦闘的な気がするし、この人からこんなことばを聞くとは思ってもみなかった。
「音楽に対する戦い、自己に対する戦い、世間の奴らに対する戦い、人生に対する戦い、そして女との戦いさ。
 でも、戦いが全面終わったわけでもないか。何度も辛い別れを経験しているのに、いい女が現れると、ついフラフラッとしてしまうから(笑)。
 まったく懲りないよ。音楽だって同じさ。追及していけばキリがない」
 グルダはその場の雰囲気でどんどん曲を変え、気分に応じてステージを展開させていく、クラシックのアーティストには稀な存在。
『グルダ・ノン・ストップ』でも聴衆の反応を見て雰囲気を盛り上げていくが、それがあまりにもテンションが高く自由で心が解放されているため、昔からあらゆるところで物議を醸し出してきた。クラシックとジャズの両方を演奏することに対する批判も含めて。
 もっとも彼の音楽の中核をなすのは、依然としてバッハとモーツァルトだ。
「バッハとモーツァルトはパラダイスからきた人。ベートーヴェンはパラダイスに到達しようと戦った人。だからまったく違うのさ。私はパラダイスということばが好きなんだよ」
 グルダはいまパラダイス・アイランドというプロジェクトに夢中。これはストーリーを持った音楽劇で、彼はこれを日本で上演し、演出を猿之助に要請したいと考えている。
「好きなことをやるのは金がかかるもの。エンノスケは偉大な才能の持ち主だから、当然莫大な金が必要。日本で上演するのはあくまでも夢だよ」
 戦いは終わったというグルダだが、まだ夢は盛りだくさん。いつまでもノン・ストップの精神で突っ走ってほしい。世間のことばになど耳を貸さずに。

 通常、インタビューは関係者が何人か立ち会うのが恒例となっている。ところが、グルダはそういう人たちをみんな外に追いやってしまった。
「最低限の人数でやろうや。女性だけがいいな。男は全員部屋から出ていってくれよ」
 そんなわけで、このインタビューは非常に深い印象となっていまも脳裏に刻まれている。憎めない人だったし、子どものようで、相手を見るやさしい目の表情も忘れがたい。私のインタビューのなかでも、とりわけ貴重なひとときだった。
 今日の写真はそのときの雑誌の一部。このときはベレー帽をかぶっているが、いくつか代わりの帽子も持っていた。


 
| インタビュー・アーカイヴ | 15:16 | - | -
ジュリアン・ブリーム
 インタビュー・アーカイヴの第8回は、イギリスの名ギタリスト、ジュリアン・ブリーム(1933〜)の登場。アンドレス・セゴビアに師事し、欧米で広く活躍、1959年にジュリアン・ブリーム・コンソートを創設した。
 世界的な名声を確立した偉大なギタリストなのに、とても気さくでユーモアたっぷり。イギリス人らしく紅茶に目がなく、私も紅茶党なので、インタビュー後はその話で盛り上がってしまった。

[FMfan 1996年2月26日〜3月10日号 No.6]

音楽はことばで表現することが不可能なものを
表現可能にしてくれます


 ギターとリュートの世界で確固たる地位を築き、数々の録音を残しているブリームが、昨年38年ぶりに録音したJ.S.バッハの「シャコンヌ」をリリース。12月の来日公演でもバッハをはじめ、多彩なレパートリーを披露し、滋味豊かなギターの音色を堪能させてくれた。

バッハの音楽は偉大です

――いつもブリームさんはプログラムを広範囲の作曲家の作品で組まれていますね。
「私はバロックから現代作品まで、あらゆる時代のものを弾いていきたいんです。それも1回のステージでね。いつも新しい作品に挑戦していきたいし、その姿勢を崩したくない。繰り返し同じ作品を演奏するのは好まないんです。でも、最近はずっと以前に勉強した曲を再び取り上げ、そこにいまの自分を反映させることを試みるようになりました。
 今回プログラムに入れたポンセの『ギターのための5つの小品』は、実は40年以上前に勉強した作品なのです。音楽はことばで表現することが不可能なものを表現可能にしてくれますが、このポンセを再び弾くことにより、私のなかで長い間培ってきた“経験”が音楽という形になって現れてくるように思います」
――それで再びバッハの録音を?
「ええ、1957年の録音ではまだ自分のいいたいことの半分しか表現できませんでしたから。いまようやくバッハのこれらの作品の8割が理解できたかなという感じです。
 ここまでくるのに38年という歳月が必要だったわけです。それだけバッハの音楽は偉大なんです。『シャコンヌ』を完璧に演奏するには、私の人生のすべてと、もう半分くらいの人生を要します」

バッハとは年齢を重ねるごとに見方が変わってくる作曲家です

――今回は『無伴奏チェロ組曲』の編曲を聴かせていただきましたが、これらのアレンジでもっとも大変な部分はどこでしょう。
「音の出しかたの違いということでしょうね。チェロは弓を使いますから、音がどちらかというと水平な感じです。それにくらべ、ギターの音は垂直。これはバッハの舞踊的な要素を演奏するのには適していますが、流麗な音を出すことには適していません。
 ですから私は編曲する際、いかにしたら音がスムーズに流れるか、この点に留意しました。バッハというのは、年齢を重ねるごとに見方が変わってくる作曲家です。経験が深くなればなるほど、各曲の特徴と真の魅力が理解でき、その各々の違いに焦点を合わせて集中して演奏できるようになります。演奏というものが一種の哲学となって私の心のなかに存在し、演奏行為が自分の存在を示すものとなっていく。
 もちろんほかの作曲家にもそれはいえますが、こうした感覚をもっとも強く抱かせてくれるのが、ほかならぬバッハなのです」
――そこにいたるまでには、どんな勉強をしていったらいいのでしょうか。
「まず、お金にあまりこだわらないことでしょうね(笑)。もちろんある程度のお金は人生にとって必要ですよ。でも、自分が本当にしたいことができるある程度のお金があれば、それ以上は必要ないというのが私の持論です。
 金銭にこだわり出すと、コンサートをもっと多く入れなくちゃとか、録音しなくちゃとか、スケジュールに振り回されるようになるでしょ。そうすると“考える”という時間が失われてしまう。ギターを弾いていなくても、頭のなかで常に音楽に関したことを考えるということは非常に大切なことなんです。
 私は昔から大きな邸宅やヨットやクルマにはまったく興味がありませんでした。静かにものを考え、庭いじりでもちょっとする。そこからシンプルな人生が生まれます。シンプルな人生を送ることにより、集中力も増してくる。そして日々バッハと対峙するというわけです」

スペイン音楽はスペインの風土を知らなければ弾けません

――スペイン音楽の場合は、また違った意味合いの勉強を要するでしょうね。
「スペイン音楽は、これはもうひとこと。スペインの風土を知らなければ弾けません。楽譜をいくら見ていてもダメ。スペインに行ってそこの文化に触れることです。歴史、伝統、建築、人々の様子など、あらゆることに実際に触れる。あの国がさまざまな異文化の混合によって成り立っているということを肌で感じることです。
 そのなかで人々か何を一番大切に考えているか。それが理解できたら、音楽もより深いところで理解できるかもしれません。スペインの魂を理解することが大切。
 どこの国の音楽にもいえることですが、その国の魂に少しでも近づけたら、音楽も肉付き豊かなものになるのではないでしょうか」

 今日の写真はその記事の一部。写真撮影のときは、ギターをケースから大事そうに出し、実際に弾いてみせてくれた。その響きのなんと人間味豊かだったことか…。



| インタビュー・アーカイヴ | 15:40 | - | -
ニキタ・マガロフ
 インタビュー・アーカイヴの第7回は、私がこよなく愛するロシア・サンクトペテルブルクの貴族の家系出身でのちにスイスのヴヴェーに生活の場を移したピアニスト、ニキタ・マガロフ(1912〜1992)。
 実はインタビュー当時、彼は日本でレコーディングを行い、それを見学させてもらうことになっていたが、初日には行けず2日目の夕方に駆けつけた。
 するとマガロフは「きみ、遅かったねえ。もう全部終わっちゃったよ。まあ、音ができあがったらゆっくり聴いて」と涼しい顔。
 ああ、なんというショック。通常は3日間くらい録音に費やすのに、なんという早業。長い間、このショックは私の心に居座っていた。

[FMレコパル 1991年5月27日〜6月9日号 No.12]

しみじみとした感慨にひたれる、優雅で優しいワルツ

 最近、ピアノを聴いてしみじみとした感慨にひたるということが少なくなってきている。すごい超絶技巧に圧倒されたり、きらびやかな音色に酔ったりすることはもちろんある。
 しかし、何度聴いてもそのつど「ああ、生きていて幸せ」などと感じる演奏には、そうめったに出合えるものではない。
 ところが、マガロフのワルツ「舞踏への勧誘〜マガロフ、ワルツをひく!」(コロムビア)を聴いたときに、この“しみじみ”が味わえたのである。
 最初のモシュコフスキーから、これはもう19世紀のサロンの味わい。目を閉じて聴いていると、古い映画の舞踏シーンなどが自然に浮かんでくる。
 ウェーバーもJ.シュトラウスも3拍子のリズムが生き生きとしていて、まるで「さあ、踊りなさいよ」とでもいっているように誘いかけてくる。
 そんな優雅で愉しい音楽を生み出すマガロフの素顔は、優しく、雄弁で、何より長い演奏活動の歴史を感じさせる威厳に満ちたものだった。
「私は同じことを何度も繰り返して行うことが嫌いでね。演奏会でも必ずプログラムを全部変えるんだよ」
 だからレパートリーが広いなんていわれるんだね、といって笑ったマガロフ。4年前スイスのモントルー音楽祭で2週間演奏したときも、彼は毎日違ったプログラムで演奏した。
「私のところによく若いピアニストがレッスンにやってくるんだけど、彼らにいつも作曲家のいいたいこと、楽譜に書いてあることを演奏家が勝手にいじっちゃいかんといっている。ショパンなんか、若い人は自分の解釈を全面に押し出してくずして弾くからね、ありゃいかんよ」

 多くのピアニストが演奏家としての何かを求めにくる

 マガロフは楽譜に忠実に弾くことをモットーとしているが、その演奏は自由で個性的で、今回のワルツなどもマガロフならではの浮き立つようなリズムに彩られている。
 彼のワルツには、1拍目の強拍と2拍目の弱拍との間にほんの少し間があるのだ。これはほんの一瞬息を吸うような間だが、これがワルツの3拍子の支えともなっていて、跳びはねるような軽快な感覚が味わえる。
「ウィンナ・ワルツもあればフランスのワルツもあり、ワルツというだけでは限定できないフォルムがたくさんある。もちろん、ワルツも曲の解釈は作曲家の意図に忠実でなければならないが、他の作品にくらべると演奏家により可能性を与えてくれたのだと思う。それを自由に表現したい」
 マガロフはプロコフィエフ、ラヴェル、バルトーク、ストラヴィンスキーなどに直接教えを受けたり、共演したりしている。いわば大作曲家と同時代に生きてきたわけだ。
「ストラヴィンスキーの前では『カプリッチョ』を何度も弾いたけど、彼はいつも、自分の作品をどうしてみんなあんなにテクニックを優先して弾くんだろうと嘆いていた。ラヴェルは気難しい人でね、トスカニーニがテンポを指示通り演奏しないといってカンカンに怒っていたよ」
 こんな話がポンポン飛び出す。
 マガロフのもとにはアルゲリッチ、内田光子、ダルベルト、ルイサダをはじめ、多くのピアニストが悩みにぶつかるとやってくる。
 彼らはもちろん技術的には何の問題もない。ただ、演奏家として何かが足りないと感じ、その何かを求めて巨匠の門をたたく。
「私は彼らプロのピアニストに、これといって何か教えることがあるわけではない。作曲家の思想、テンポ、リズムに忠実であれ、とアドヴァイスをするだけ。このごろは忙しくて時間がとれないが、それでもみんな年に1度はやってくるね」
 それはそうだろう。ほんの少し話を伺っただけで、なんだか心の奥に温かいものが流れる感じがした。
 演奏家は孤独だから、きっと彼のもとでひとときを過ごしただけでまた闘いのステージに飛び出していく勇気を与えられるのではないだろうか。

 写真はそのときの記事の一部。夫人は名ヴァイオリニストとして知られるヨーゼフ・シゲティの娘で、シゲティにとてもよく似ている。二人はとても仲むつまじく、ほんのりあったかな空気がただよっていた。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:33 | - | -
ムーラ・リンパニー
 インタビュー・アーカイヴ第6回は、デイムの称号を持つイギリス出身のピアニスト、ムーラ・リンパニー(1916〜2005)の登場。初めてのインタビューは初来日の1992年だった。

[FMfan 1992年5月11日〜5月24日号 No.11]

だいぶ前に演奏活動を再開したら、もういまは忙しくて

 4月3日に行われたリンパニーのオール・ショパン・プログラムのリサイタル終了後、だれからともなく「すごい、どうしてあんなに若々しい演奏ができるのだろう…」というためいきまじりの声が漏れた。
 ムーラ・リンパニーはいま75歳。「伝説のピアニスト」といわれた彼女は、今回初来日である。その演奏は叙情的でかろやかで、彼女の内から湧き出てくる人間的なぬくもりというような温かさに満ちていた。
 この日リンパニーは疲れも見せず、15分もアンコールにこたえた。

――どうしてこんなに長く日本にいらっしゃらなかったのですか?
リンパニー 私は結婚してから長い間家庭に入っていて、半引退のような状態が続いていたのです。でも、だいぶ前本格的に活動を再開したら、もういまは忙しくて忙しくて、あちこち演奏旅行に飛び歩いているんですよ。マーゴット・フォンテインが晩年になればなるほどからだが軽くなり踊りやすくなったから、踊れなくなるまで踊るといっているように、私も自分が納得いく演奏ができるうちはずっと弾いていきたいと思っています。
――この間ラフマニノフの録音が出ましたが、レコーディングも今後数多くなさる予定ですか?
リンパニー 依頼があればね。私は若いころ、シュワルツコップのご主人であるEMIのプロデューサー、ヴォルター・レッグ氏にドビュッシーの『前奏曲』全曲を録音しないかといわれたことがあったの。でも、そのときはギーゼキングがすばらしい録音を残しているじゃないの、といって断ってしまった。そしたらしばらくして、彼が今度はショパンの『幻想曲』を入れないかっていうの。そのときもコルトーが入れているじゃない、あれ以上には弾けないわ、といって断ってしまった。いまから考えると、惜しいことをしたと思っているの(笑)」
――ハチャトゥリアンに出会ったのもそのころですか?
リンパニー そうです。彼は初めて会ったころは髪がまだ真っ黒で、野性的な雰囲気を持っていました。私はそのころよく“エレガントな演奏をする”といわれていたのですが、1度だけロンドンでハチャトゥリアンとコンチェルトで共演したときは、エレガントどころではなく、ものすごく興奮して野性的な演奏をしたことを覚えています。
――エレガントな演奏をするというのは非常に難しいことですが、それにはどんな要素が必要となってくるのでしょうか。
リンパニー かろやかさも必要ですし、シンプルでなければならないでしょうね。これはいつも議論の対象となることなんですよ。
――いまお住まいはモンテカルロですよね。
リンパニー ええ、もうひとつスペインの国境近くのフランスの小さな村にも家があり、そこでは毎年『ワインと音楽』という音楽祭を主催しています。去年はソプラノのヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスがきてくれたんですよ。私は本当はね、庭師になりたかったんです。それでその村の丘をひとつ買って、自分が植えたかった木や花を全部植えて楽しんでいます。

 リンパニーはお料理が大好きだそうで、この話になったら止まらなくなってしまった。カタツムリがワインに合うとか、日本でてんぷらのおいしさに目覚めたから、帰ってから作ってみるとか…。またすぐにでも来日して“エレガントな演奏”を聴かせてほしいと思う。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。この初来日時にはイギリス大使館で歓迎の立派な食事会が開かれ、そこにご招待いただいたのだが、リンパニーは居合わせた全員が愉しく歓談できるよう、ずっとこまやかな気配りをしていた。彼女の歓迎の晩さん会なのに、なんという優しい心遣いなのだろう。食事もおいしかったが、リンパニーの人柄のすばらしさに心打たれ、いまでもその記憶は鮮やかに残っている。 



 
| インタビュー・アーカイヴ | 16:50 | - | -
ルネ・フレミング
 インタビュー・アーカイヴ第5回は、「メトロポリタン・オペラの華」と称されるソプラノのルネ・フレミング。偉大な歌姫なのに気さくで、とても温かい人柄。笑顔もとてもチャーミングだった。

[marie claire 2001年8月号]

できる限り長く歌い続けたい

 いま、世界のオペラハウスから引っ張りだこの人気ソプラノ、ルネ・フレミングがメトロポリタン・オペラの来日公演でR.シュトラウスの「ばらの騎士」の元帥夫人を歌うために初来日を果たした。
 このオペラは18世紀のウィーンの貴族生活が舞台。そこで起こる情事や恋がオペラ・ブッファ(喜歌劇)的に描かれている。音楽もまさに優雅で官能的、聴くものを酔わせる。
「でも、歌うのはとても難しいの。元帥夫人の役はさまざまな女の感情を表現しなくてはならないでしょ。初めて歌ったのは6年前だけど、それから現在まで自分の私生活の変遷も影響し、ずいぶん歌いかたが変わってきたわ。最初は技巧ばかりに目がいっていたけど、いまは役柄の解釈と表現力に集中するようになった。いかにしたら聴衆とコミュニケーションがとれるか、それを第一に考えるようになったのよ」
 両親はともに声楽の先生。歌手になるのは当然といった家庭環境だったが、子ども時代は引っ込み思案で社交も苦手。本ばかり読んでいるような子だった。
「人前で歌うなんて考えられなかった。でも、音楽は好きだったから音楽大学に進んだんだけど、実はジャズも歌っていたの。でも依然人前で歌うのが苦手で、音楽の先生になろうと大学院に進み、そこでクラシックの奥深さに目覚めたというわけ」
 やがてメトロポリタン・オペラで歌うことが夢となり、舞台で主役を歌い、演じるようになる。
「いまも緊張しっぱなしよ(笑)。でも、できる限り長く歌い続けたいと思っているの。声の成熟に合わせて役を選びながらね。夢は『椿姫』のヴィオレッタを歌うこと。私の声はふつうと逆で高音よりも中低音の発達が遅いので、『マノン』もようやく歌えるようになったの」
 新譜「ドラマティック・オペラ・アリアズ」は、そんな彼女がいまもっとも得意とするオペラ・アリアが詰まっている。フレミングは演技力も高く評価されているが、ここでも各役を歌い分けている。
「私、声楽の先生に『鉄の芯を持った自然の母』といわれたことがあるの。外見と違うでしょ」
 彼女は出産後2週間で、ドミンゴと『オテロ』のリハーサルを始めた根性の持ち主。その歌声も芯の通った感情豊かなものだ。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。フレミングは東京・原宿の様子をアメリカのテレビで見たそうで、ぜひ来日したときには訪れて買い物をしたいと思っていたという。しかし、原宿では好みの物が見つからず、青山でブラウスを購入したそうだ。「素敵なデザインで、とっても安かったの!」。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:00 | - | -
プラシド・ドミンゴ
 地震の影響でコンサート中止が続くなか、うれしいニュースも届いている。
 ズービン・メータがNHK交響楽団を指揮してチャリティー・コンサートを行い、ベートーヴェンの交響曲第9番を演奏することが決まった(4月10日、東京文化会館)。
 マルタ・アルゲリッチも5月8日から19日までの「別府アルゲリッチ音楽祭」を通常通り開催するために来日し、8日には「ピノキオコンサートスペシャルatホテルオークラ東京〜子どもと大人のための音・学(おんがく) ピアノ界の巨匠 マルタ・アルゲリッチが贈るメッセージと音楽〜」と題した公演を行うことになった。
 そして親日家で知られるプラシド・ドミンゴは、4月10日(NHKホール)、13日(サントリーホール)に開催される「プラシド・ドミンゴ コンサート イン ジャパン 2011」で歌うため、来日することを発表した。まさに勇気づけられるニュースだ。私は13日に聴きに行くことになっているが、きっといつものコンサートとはまったく異なり、心に強い印象をもたらすものになるに違いない。
 そこで、「インタビュー・アーカイヴ」第4回はドミンゴの登場。彼には何度かインタビューをする機会があったが、常にサービス精神旺盛、雄弁でおおらか。会った人をみな幸せな気分にさせてしまう天才だ。

[フィガロ・ジャポン 1995年11月20日号]

3大テノール日本公演

オペラ・ファンが待っていた世界ツアーが日本からスタート!

「まだプログラムはまったく決まっていないんですよ。でも、パヴァロッティは絶対『だれも寝てはならぬ』は私とカレーラスには歌わせないし、私たちだってパヴァロッティには『グラナダ』は渡せない、という暗黙の了解みたいなものはあるんです。あとはたくさんのオペラや民謡、歌曲のなかから自由に歌いたいものを持ち寄って、喧嘩しながら決めるといった感じかな」
 8月に来日したドミンゴは、来夏のツアーに関して笑いながらこう語った。
 彼らはレパートリーが似通っている。それゆえライバルなどといわれた時期もあったが、現在はよき友。一緒に歌うと相手の体調を気遣うという。

世界最高峰の歌手が織りなす、上質なステージは楽しさの極致

「テノールというのは、のどを大切にしないと長年歌えない。若いころはかろやかで叙情的な役を歌っているんだけど、だんだん重く劇的な役を歌うように声が変化していくのがふつう。だから3人ともいまではかなりドラマティックな重い役を歌っているんだよ」
 この3人、ひとくちにテノールといってもまったく歌いかたも声質も異なる。
パヴァロッティは天性の美声を持って生まれてきた人で、のびのある明るい声が特徴。カレーラスはひたむきな歌唱、全力投球型の演技で母性本能をくすぐる。そしてドミンゴはまるで俳優のような存在感と、迫力ある歌声で聴き手の心をとらえる。彼はオーケストラの演奏が始まる数分間で、ストンとその役になりきる名人である。
「オペラの舞台では完全にその役になって歌うからいいけど、こういう3人で一緒にいろんな曲を歌う場合は、瞬時に役になりきるのがとても難しい。でも、それがオペラ歌手としての醍醐味でもあるわけだから、その部分に一番気を使うけどね。これはたぶん日々の鍛錬と慣れが影響するのかもしれない」
 ドミンゴは悲劇のヒーローから威厳のある王、嫉妬に狂う男までなんでもござれのオールラウンダー。そしてちかごろはクラシックばかりではなくジャンルを超えてさまざまな曲にトライし、持ち前の起用さを発揮している。
「一番好きなのは苦悩する役。どうにもならないほど悩む役がいい。私生活ではそうならないように願ってね」
 さて、東京ではどんな歌で酔わせてくれるだろうか。
 ドミンゴは「ふだんクラシックを聴かない人でも絶対楽しめる」と自信満々。プロ根性をかいま見せた。

 今日の写真はその雑誌の一部。実はこのインタビュー時、運ばれてきたコーヒーがものすごく熱く、ひと口飲んだドミンゴは「アッチッチ」と、ネクタイにコーヒーをこぼしてしまった。
 インタビューの間中、そのシミを気にしてハンカチで拭いていたが、結局シミは残ってしまった。それゆえ、写真ではちょっと渋い顔をしている。



| インタビュー・アーカイヴ | 22:10 | - | -
コリン・デイヴィス
 このたびの東日本大震災で亡くなった方々のご冥福を祈り、遺族の方々、被災者のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。
 いまは、こうした月並みなことばを並べることしかできない自分が歯がゆいですが、自分に何ができるか、何をすべきかをじっくり考え、行動に移したいと考えています。いまは自分の役割を精一杯果たすしかないと思っています。


 さて、長い間お休みしていたブログを再開することにした。「インタビュー・アーカイヴ」の第3回は指揮者のコリン・デイヴィスの登場。彼は1980年にイギリス音楽界における貢献により、ナイト(Sir)の称号を受けている。

[FMレコパル 1991年8月19日〜9月1日号 No.18]

物語のなかへと誘う、大きく包み込まれるような演奏
 


「魔弾の射手」の序曲は、これから始まるボヘミアの森を舞台とした愛の物語に、有無をいわせず引き込んでしまう強い引力を持った曲である。
 これをデイヴィスはゆったりとしたテンポで、各楽器を存分に鳴らしながら徐々に聴き手を物語のなかに誘導していく。
 この序曲を聴いただけでもデイヴィスらしさが十分に感じられる。彼は決してオーケストラにも歌手にもせわしない演奏を要求しない。
 前作の「サムソンとデリラ」もそうだったが、ここでも各アリアがのびのびとおおらかに歌われているのは、きっとデイヴィスのタクトがあくまでもゆったりと大きく包み込むように振られているからだろう。
 実際に会って話をしてみると、なおさらその感を強くした。
「若いころは私だってずいぶん目茶苦茶なことをしましたよ。クレージーなほど働きましたしね。年間ものすごい数のコンサートをこなしてきました。でも、もう64歳です。野心や金銭欲なんかまったくありません。音楽だけです。いまは働かないほうが調子がいいんです(笑)」
 もちろん、現在もスケジュールはいっぱいである。だが、年に4カ月間は家族とともに過ごし、一度のツアーも3週間以内にしぼっているという。
「日本は単身赴任者が50万人もいるんですってね。私にはとても信じられません。指揮者というのは常に多くの人を相手に仕事をしているため、エネルギーの消耗がはげしいんです。それを補給し、常に自分を新鮮に保つために、私にとって家族との生活は欠かせないものなのです」
 デイヴィスはじっくり読書をしたり、物を考えたりする時間が音楽家にとっては一番必要だと語った。
 若いころにオーケストラを次々と振り歩いていたときは、本当に音楽を感じ、心から楽しむ気持ちにはなれなかったと。
 この話を聞いてからデイヴィスの演奏に耳を傾けると、現在の彼の心情が痛いほどよく伝わってくる。

「大好きなウナギを、まとめて食べに行くかな」

「魔弾の射手」はドイツ民謡の精神を生かした真にドイツ的なオペラだといわれる。ウェーバーが音楽監督の地位にあったドレスデン・シュターツカペレは、443年という長い歴史と伝統を誇る名門オーケストラ。
 響きはあくまでも漆黒色をした深いドイツの森を連想させる渋い味わいを持っている。特に金管楽器がすばらしく、ここでの演奏も管のまろやかな深い響きに耳を奪われる。
 デイヴィスがこのオーケストラに初めて出会ったのは1980年のことだが、そのときはいわば両者とも恋に落ちたという状態だった。
「このオーケストラは1997年に創立450年を迎え、それを記念して世界中を演奏旅行する計画が立てられていて、ぜひ私にも参加をといわれていますが、まあそのときまで生きていられたらね、と答えてあります」
 ところで、デイヴィスといえばベルリオーズの権威者である。だが、本人はそういわれるのを好まない。
「だいたいね、ベルリオーズをエキセントリックでグロテスクなロマン派の化け物だといった、何か特別扱いする人が多すぎて困るよ。ベルリオーズは他の作曲家となんら変わることはないのに、美しい作品が多いし…」
 デイヴィスがベルリオーズを初めて聴いたのは22歳のとき。オラトリオ「キリストの幼時」の第2部だった。このときに鮮烈な印象を受け、以来ベルリオーズに傾倒していく。
 初めて「幻想交響曲」を振ったのは30歳のときだ。
 彼はしきりに自分の年の話をする。そしてついに「日本で生活すると食生活がいいから長生きできるんだってね。私はウナギに目がないんだが、ロンドンでは高くてなかなか食べられない。日本にまとめて食べに行くかな」といい出した。
 今後は巨匠的な重々しく歩む演奏に、少々脂っこさが加わるかもしれない。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。サー・コリン・デイヴィスは現在83歳。まだまだ元気に指揮活動を展開している。好物のウナギをたくさん召しあがっているからだろうか…。

| インタビュー・アーカイヴ | 17:52 | - | -
ヘルマン・プライ
「インタビュー・アーカイヴ」の第2回は、私が長年その歌声に魅了され続けているヘルマン・プライ(1929〜1998)の登場。

[FM fan 1994年11月21日〜12月4日号 25]

「こうもり」のアイゼンシュタインでは聴衆の笑いを誘い、
「冬の旅」では微妙な感情を表現した名バリトン


 長いキャリアを誇るプライが、ウィーン国立歌劇場の「こうもり」では陽気でコミカルなアイゼンシュタインを演じ、その一挙手一投足が聴衆の笑いを誘った。そしてリサイタルではシューベルトの「冬の旅」で、今度は詩の裏側に潜む微妙な感情までをも表現するようなシリアスな歌を披露し、聴き手の心にどっしりとした重量級の感慨をもたらした。
 
「冬の旅」のあの歌の世界、絶望的な部分に強く共鳴を覚えます

――演奏家はキャリアを重ねていくごとにその音楽から余分なものがそぎ落とされ、シンプルになっていく場合が多いと思いますが、歌手の場合は役を歌い込んでいけばいくほど、表現が濃密になっていくものなのでしょうか。
「歌手はたいていある時期が来ると、活動をしぼるようになります。歌う回数を減らし、レパートリーも限定する。そうやって中身を凝縮させていくわけです。それによってその役や歌の内容が濃くなっていくことは確かでしょうね。ドイツのことわざにこんな言葉があるんです。“限定されたなかでこそ、マイスターというのは真の自分を見せることができる”とね。
 私もいまは以前にくらべてかなりステージに立つ回数を抑え、そのなかでよりよいものを目指すよう心がけています。ですからいまは、自分では30年前よりも高いところに到達したと思っています」
――今回は「こうもり」と「冬の旅」という、コミカルとシリアスの両面を聴かせていただきましたが、プライさんのなかでは、どちらがよりナマの自分に近いのでしょうか。
「だんぜん“冬の旅”のほうです。もちろんプロですからステージではどんな役も歌いますが、私自身のなかにコミカルな要素というものはまったくありません。むしろ“冬の旅”のあの歌の世界、絶望的な部分に強く共鳴を覚えます。
 私もこれまで何度も絶望的なことを味わってきたからです。落ち込むときは、もうかなり下まで落ち込んでしまいます。どん底まで落ちて、また這い上がってくるのです。
 ゲーテの作品もそうでしょう。彼の重要な作品は、みな絶望の状態にあるときに書いたものだと本人がいっていますよね。人間にとって、この下から上へのぼってくる力、それが成長につながるのではないでしょうか」
――それは演奏が納得いかないときに、そういう精神状態になるのですか。
「いいえ、そうともいいきれません。いろんな場合があるのです。
 きっと私がそういう状態に陥るときは、成長を求めているときなのでしょう。こういうときは天から神の声が聞えてくるんです。ちょっと休みなさいという声が。40年ほど前から、ベルギーの北海にある島に家を持っているのですが、精神的によくないときは、すぐそこに飛んでいきます。
 一番の救いは家族ですが、自然も大いなる救いをもたらしてくれます。自転車で島を走りまわったり、散歩をしたりすると、やすらぐんです。それに自然から作る薬草のようなものを研究している友人の医師とも話をします。 ただしここ数年は、そうした外的要素によって精神が左右されるということはなくなりました。私も少しは成長したのでしょう(笑)」
――シューベルトに対する愛は変わらないですよね。
「ええ、もちろん。シューベルトは私の人生の中心点といえるものですから。
 実は“冬の旅”を歌い始めたころ、どうしても楽譜通りに歌えない箇所があって、いつもまちがえて歌っていたんです。ところがある日、1960年代のはじめのころですが、ニューヨークのモルガン・ライブラリーでシューベルトの自筆譜を見る機会があったんです。そしたら私がまちがえている箇所が、実はシューベルトが最初に書いた音だったんです。それがまちがって出版されていた。たった3カ所ですけどね、これは大発見でした」
――「冬の旅」では、伴奏のピアノが重要な役割を果たしていると思われますが…。
「そう、リートを歌うときはいつもピアノに心を砕きます。いまハンブルク音楽大学で教えていますが、この授業の半分くらいは伴奏との合わせに費やしています。
 歌の世界ではピアノは歌手を支え、ともに歌っていかなくてはなりません。歌手のひとり舞台になったり、ピアニストが先走ったりしてはいい音楽はできません。
 昔、ブレンデルと4年間ほど組んだことがありますが、彼はピアノをいかに鳴らすかということばかりに心を奪われていた。私と一緒には歌えなかったんです。ブレンデルはきっと天性のピアニストなのでしょうね。
 そうそう、1997年1月にサントリーホールで6夜にわたってシューベルトを歌う計画が入っています。いまピアニストを探しているんですが、私はリヒテルを希望しているんです。まだどうなるかわかりませんが、ぜひ実現させたいと思っています」

この声は神から授かったもの
引退も神が決めてくれるのです


――最近は演出にも力を入れていらっしゃいますが、今後はどのような作品を手がけられる予定ですか。
「それはいま模索中です。ただ、演出はこれからもどんどんやっていくつもりです。そのぶん歌うほうを減らしていますから。もう私のフィガロを要求してくれるオペラハウスはなくなりましたし、レコーディングの話もきませんからね(笑)。新しい自分を見出さないとね。
 フィガロはロッシーニとモーツァルトの両方を1952年から歌っていますが、一番印象に残っているのはやはりミラノ・スカラ座で初めてロッシーニを歌ったときです。ドイツ人がイタリア・オペラで勝負するのは大変なんです。カルーソーがバイロイトに出演するようなものですからね。
 このときは、始まる前はガタガタ震えていました。でも、幸いなことに舞台は成功しましたので、そのあとはもう赤ワインを浴びるほど飲みましたよ。この成功が私に自信をもたらしてくれました。その意味ではアイゼンシュタインは1977年から歌い始めたのですから、キャリアはまだまだです。
 いつまで歌えるかいまはなんともいえませんが、引退というのは自分では考えないことにしています。この声は神から授かったもの。引退も神が決めてくれるのです。もう歌うのをやめなさいという神の声が聞えるまで、ずっと歌っていくつもりです。たとえ80歳になってもね(笑)」

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。80歳まで歌いたいといっていたプライだが、インタビューの4年後、69歳で帰らぬ人となってしまった。悲しくてたまらない…。

| インタビュー・アーカイヴ | 18:34 | - | -
エレーヌ・グリモー
 これまでインタビューをした記事のなかから、選りすぐって紹介する「インタビュー・アーカイヴ」。第1回はエレーヌ・グリモーの登場。

[PIANO forte 1990年 夏号]

ピアノも彼女に恋をする 

エレーヌ・グリモーが初めて来日したのは、もう3年も前のことになる。このときは建設会社のテレビのCF撮りでの来日だったが、記者会見の席上彼女はみずみずしいピアノを披露した。リストの「ダンテを読んで」、ショパンの「バラード第1番」、ラフマニノフの「音の絵」。みな彼女の得意とするものばかりだった。その演奏は、若々しいなかにも何か強靭な精神力と作品に対する深い洞察力が感じられて、こんなにも美しく、そしてテクニックを持ったピアニストが出現してきたことを大いに喜んだものだった。
「ロシア文学がすごく好きなの。最初に読んだのはトルストイで、いままで自分が読んだもののなかで一番複雑な印象を受けた感じ。ロシア文学を通して、ラフマニノフを弾くようになったといってもいいくらい」
 会見が終わってからグリモーは、文学と自らの音楽のつながりについてこう語った。その後何度か来日し、着実にファンを増やしていった。そして今回の来日では、ヴァイオリンのイザベル・ファン・クーレンとのデュオという新しい顔も見せてくれた。
「イザベルとはとても気が合うの。もう息をするタイミングが同じといったらいいのかしら。フレーズ感もまったく同じなのよ」
 グリモーはファン・クーレンのことを話すとき、すでに長年の友人のことを話すかのような口ぶりである。だが、このふたりの出会いはつい1年前のことだ。
「ギドン・クレーメルの主催しているロッケンハウスで昨年共演したの。そしたらもう初めからピッタリ合って、またぜひ共演したいと話していたわけ。だから今回日本で一緒に演奏できてイザベルも私もとてもハッピー!」
 そのデュオ・リサイタルでは、ショスタコーヴィチをプログラムのメインに持ってきた。それについてグリモーはこんな意外なことをいった。
「ショスタコーヴィチは特に好きというわけではないの。ただ、今回のプログラムのなかの『ヴィオラとピアノのためのソナタ 作品147』は、ショスタコーヴィチが死の直前に書いたもので、内に秘めた強い力を感じる精神性の高い作品でしょ。この曲を弾いているうちに徐々にその魅力にとりつかれてしまって…」
 プログラムはファン・クーレンと話し合いながら、しかも楽しみながら決めていくそうだ。東京での演奏会は、若いふたりの真摯な姿勢と重厚な音色が印象的だった。ふたりの互角の音のぶつかりも聴きごたえ十分、さすがに息はピタリ。
 さて、今年は4年に一度のチャイコフスキー・コンクールの年。彼女は前回これにチャレンジした。そのときの気持ちはどうだったのだろう。
「とにかくモスクワに行きたかったの、それだけ。別に入賞しなければいけない、なんて全然思わなかった。実はね、このコンクールを受けたいと先生にいったら、準備期間も少ないし絶対無理だといわれたの。でも、自分の意志で行っちゃった(笑)」
 このときは決心してからコンクールが始まるまで、たった4カ月しかなかった。しかし、彼女は入賞こそしなかったが、ここで多くのものを得たという。
「第一、ロシアがこの目で見られた。ただし、どこに行くのにも制限があって、結局ホテルとコンクール会場の往復で終わってしまったけど、たくさんの友人ができたし、他の人の演奏も十分聴けたから勉強になったわ」
 コンクールで、彼女がいいと思った人はみんな予選落ちしてしまった。これによってコンクールへの考えかたというものがだいぶ変わった。そしてロッケンハウスの仲間にこのことを持ちかけた。
「私は審査員がまったく音楽をわかってくれないと思っていたから。そしたらクレーメルもアルゲリッチもいろいろ意見をいってくれたの。バレンボイムもコンクールのありかたを教えてくれたし。いまはもうコンクールは受けないつもりだけど、初めて受けたコンクールが大きいものだったから、ずいぶんためになったわ」
 なんでもパリのコンセルヴァトワールに在籍中には、どこかのメジャーなコンクールを受けるように義務づけられているとか。彼女は自分の意志で選び、そして多くのことを学んだ。そんなグリモーは幼いころからがむしゃらに勉強するタイプだった。
「パリのコンセルヴァトワールに入る前に、地元のエクサン・プロヴァンスのコンセルヴァトワールで勉強したんだけど、このころはまだ8、9歳だから何もわかっていなくて、ただ必死でピアノを弾いていただけ。ピアノを始めたころは、モーツァルトやベートーヴェンのやさしい曲を弾いていた。そのうちにブラームスの作った『ブラームス・エクササイズ』という和音とか音符の説明なんかが入っているやさしい曲集を先生が見つけてくれて、これはとても楽しかった。ただ指の練習とか、音階の練習ではなく、総合的に音楽が学べるという本だったわ」
 ツェルニーもあったが、性に合わなかったらしい。そして15歳のときの初レコーディングでラフマニノフに出合った。
「それまではシューマンが好きで好きで(笑)、シューマンばかり弾いていた時期があるの。シューマンには素朴な自然を感じる。たとえば彼の音楽は、ある木があってそこから枝分かれしたという感じではなく、まったく別のところから現れてくるような原始の力を感じるの。人間の本質のような。その感じがとても自分に近いわけ。だからシューマンにはすごく親しみを持っている。同じものを持っている人だから」
 シューマンのなかにある心の葛藤、それらの人間的な面に共感を覚えるという。その対極にあるのはシュトックハウゼンだそうだ。グリモー自身の理解の外にあるという意味で。
 彼女は、フランス人にしては珍しく英語が堪能。フランスなまりなどまったくない。それもそのはず、グリモーの父親は言語学者である。ロシア語にもぜひトライしたいそうだから、近い将来彼女が原語でロシア文学を読む酢姿にお目にかかれるかもしれない。

 今日の写真は、2011年1月に来日した際のインタビュー時のもの(記事は「CDジャーナル」3月号に掲載中)。彼女は昔からほとんどノーメイク。でも、美女のなかの美女。演奏もすばらしいけど、素顔もナイス!

| インタビュー・アーカイヴ | 22:31 | - | -
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