Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

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リッカルド・シャイー
 2005年からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカベルマイスターを務め、ライプツィヒ歌劇場の音楽総監督も兼任しているリッカルド・シャイーは、これまで各地の重要なポストを歴任。だが、素顔はとても気さくでオープン。
 もちろん、指揮台の上ではきびしい表情で集中力に富んだ演奏を展開するが、インタビューでは陽気で雄弁。イタリア人らしさ満載だ。
 シャイーは著名な音楽学者・作曲家のルチアーノ・シャイーを父にもち、1953年ミラノに生まれた。作曲を父に、指揮法をフランコ・フェラーラに学び、14歳で指揮デビューという早熟ぶりを発揮。19歳のときにマスネの歌劇「ウェルテル」を振ってオペラ指揮者としてデビューを果たした。
 第32回の「インタビュー・アーカイヴ」はそのシャイーの登場。彼は声が素敵で、低く深い声で話す。その声をほめたら、「いまはもうかなり時間がたってしまったからこんな声だけど、実は起きぬけの声はもっと低くていいんだよ」とニヤリ。うーん、さすがイタリア人。こんなことをさらりと口にする。こりゃ、まいりましたな(笑)。 

[FM fan 1991年11月25日〜12月8日号]


マーラーの音楽を聴いて、人生の扉が開かれたように感じた
 


 10月5日、指揮界の若武者ともいうべきシャイーに率いられたロイヤル・アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は、以前とはまったく趣を異にするシャープで現代的な演奏を披露した。シャイーはムソルグスキーの「展覧会の絵」では極力テンポを抑え、プロコフィエフの交響曲第1番やラヴェルの「ダフニスとクロエ」では一瞬火花の散るような輝きを見せ、その個性を強く打ち出していた。演奏に先立ち、13日の朝に行われたインタビューでも彼の内なるエネルギーは強烈に伝わってきて、疲れを知らないタフぶりにイタリアの熱血魂を見る思いがした。

住まいもアムステルダムに移し
もうどっぷりです


――それではまず、ロイヤル・アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団が創立100年を迎えた1988年に、35歳の若さで常任指揮者に就任されたわけですが、そのときはかなり重責だと感じられたのではないでしょうか。
シャイー もちろん指名されたときは、「私にとってこれは重大な転機になるな」と思いました。オーケストラにはいろいろな方針があるものですが、このオーケストラは非常に民主的なオーケストラで、常任指揮者を選ぶのも全楽員の投票で行っています。オーケストラの委員会などの承認を受けることも通常通り行われていますが、最終的には楽員の意見が大きくものをいいます。現在このオーケストラは創立してから104年目に入っていますが、歴代の常任指揮者を見ると、みんな40歳以下で就任しています。これはすでにオーケストラの伝統ともいえる事実になっていて、本当に若いときにポストに就いているんです。
――メンゲルベルクは20代前半でしたよね。
シャイー そうです。彼は24歳でした。ベイヌムはたしか、31歳だったと思います。ハイティンクだって30歳だったんですよ。本当に若いでしょ。ですから私の35歳はそんなに驚くことではないかもしれません。
――そうなると、いままで各地で指揮をしていらしたのを1本にしぼって、コンセルトヘボウに没頭という形になったのですか。
シャイー もう住まいもアムステルダムに移しましたし、どっぷりです(笑)。アムステルダムに家を買いましたから。1986年から音楽監督を務めているボローニャのテアトロ・コムナーレのオペラの仕事は続けていますが、ほかの客演はまったくできません。オランダとイタリアの往復だけという生活です。唯一、夏のシーズン・オフのときにヨーロッパで行われるサマー・フェスティヴァルには参加しています。
――コンセルトヘボウはヨーロッパでも指折りの音響のよさを誇っていますが、最初あのホールで指揮されたときはどんな印象をもたれましたか。
シャイー 私はあのホールはヨーロッパ一の音響だと思っています。いつも世界一だと思っていい気分で振っているのです。最初からすばらしいと思いました。でも、東京にもいい音響のホールはたくさんあると思いますよ。私は1983年にロイヤル・フィルと初めて日本にやってきたときに、東京にあまりにも多くのいいホールがあるのでびっくりしたことを覚えています。このとき私が日本に発つ前に、マエストロ・カラヤンから「東京にはいいホールがたくさんあるから、見ておいで」といわれました。

7歳のときマーラーの交響曲第1番を聴いて
ショックを受ける


――最近マーラーの録音が多いのですが、最初にマーラーの音楽に開眼したのはいつごろでしょうか。
シャイー 1960年に父に連れられてローマのラジオ放送局のオーケストラのリハーサルに行ったときに、今回日本で演奏するマーラーの交響曲第1番を初めて聴きました。そのときにものすごくショックを受けました。マーラーの音楽のすばらしさを知るとともに、このときに音楽のプロになりたいと心に決めたのです。私はたった7歳でしたが。
――そんな小さなころに感じるマーラーに対してのショックというのは、いったいどういうものだったのでしょう。
シャイー 実はそのとき初めてオーケストラをナマで聴いたのです。ですからまずオーケストラの音というものに強い感動を受けました。そこで聴くマーラーの音楽は、無限の宇宙の扉を開けたような感じを私にもたらしました。それはあたかも人生を感じさせました。人生というのは終わりがなく、いろいろと学んでいくプロセスのひとつだと私は思っていますから、マーラーの音楽を聴くことによって人生の扉が開かれた感じがしたのです。
――そうすると、今回マーラーの交響曲第1番をプログラムにもってきたというのも、そのころからの長い思い入れがあるからなのですね。
シャイー 自分自身の気持ちもありますが、このオーケストラとマーラーはとても強い結びつきをもっているのです。50年間常任指揮者を務めたメンゲルベルクは、マーラーとは非常に親しい友人でした。ですからマーラーはしばしばオーケストラを訪れ、自分の作品を自ら演奏していました。コンセルトヘボウの104年の歴史のなかでこの時代はとても大切な時期であり、いまでも私たちはこのころの楽譜から多くのことを学ぶことができます。というのは、この時代の楽譜がオーケストラの大切な資料としてすべて保存されているからです。私たちはそれを見ることによって、このオーケストラの歴史と伝統を実際に学ぶことができるわけです。マーラーの書き込みや注意事項がそこに残っているのですから。
――では、歴代の指揮者たちはみなそのマーラーの楽譜に触れて、彼の実際の解釈に接することができたわけですね。
シャイー マーラー以外にも、ブルックナーやショスタコーヴィチが指揮台に立っています。そのころのオーケストラにとっては、作曲家がやってきて実際に振るのは、ごく日常的なことだったのでしょう。

 インタビューが終わって雑談をしているとき、シャイーは「指揮者になっていなければ、建築家か自然科学者になっていたかもしれない。ピアニストになれると思ったことはあるけど、歌手なれるとは思わなかったなあ」と笑った。
 そしてこうつけ加えた。「きみは私の声をほめてくれたけど、指揮しているときについ旋律を歌ってしまうと、オーケストラの演奏はあまりうまくいかない。やっぱり歌手には向いていないんだね」と、またまたニヤリ。
 最近は貫録がつき、巨匠的な風格もただようようになってきたシャイー。また、インタビューをする機会があるといいなあ。あの声、聴きたいし(笑)。
 今日の写真はそのときの雑誌の一部。まだかなりスリムだよね。あっ、こんなこといったら怒られるか、ダンディが売り物なのに(笑)

| インタビュー・アーカイヴ | 22:55 | - | -
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