Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

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エリソ・ヴィルサラーゼ
 ピアノは専門分野として、さまざまなアーティストのコンサートに足を運び、録音も必ずといっていいほど耳を傾け、これまで数多くの演奏を聴いてきた。
 そのなかで、何年に一度か、心が揺さぶられるような演奏に出会うことがある。
 終演後、あまりの感動に席が立てなくなり、胸が熱くなって涙がこぼれそうになり、だれとも話したくない状況に陥るのである。
 もちろん、ホールでみんながいるのに泣くわけにはいかない。だから、その場はひたすら感情を押し殺し、帰り道にひとり感動を反芻し、帰宅してからはもう目が冴え冴えとし、その夜は眠ってしまうのがもったいないと思うくらい幸せな気持ちに包まれる。
 この感銘は、以後、何日間も忘れることがない。
 昨日のエリソ・ヴィルサラーゼのリサイタルが、まさに何年に一度巡ってきた忘れがたき演奏だった。
 モーツァルトの「ドゥゼードの《ジュリ》の『リゾンは眠った』による9つの変奏曲」から始まり、やわらかくかろやかで、嬉々とした音楽が紡がれていく。先日、チャイコフスキーのコンチェルトで聴いた深く厚い響きとはまったく趣きを異とした、高雅で愛らしい響きに、同じピアニストが弾いているのかと驚愕するほど、その演奏は異なっていた。トリルや分散和音の奏法が実に自然で、美味なるオードブルを楽しんでいるよう。
 それが続くブラームスのピアノ・ソナタ第1番で、ガラリと変容を見せた。あのチャイコフスキーのときの深い打鍵と野太い音が蘇り、さらにブラームスのダイナミクスの広さと力強さが4楽章ともにあふれ、圧倒的な説得力ある音楽を披露したのである。
 まるで、19世紀か20世紀初頭のロシアの偉大なピアニストたちの演奏が目の前で展開されているような錯覚を覚えさせるもので、ヴィルサラーゼの恩師であるゲンリフ・ネイガウス、ヤコフ・ザーク、そしてレフ・オボーリンやスヴャトスラフ・リヒテルとの交流のなかから学んだロシア・ピアニズムが生きた形でそこに存在していた。
 なんと形容したらいいのだろうか。この夜のプログラムは、変奏曲がテーマとなっていたが、その主題から変奏へと移りゆくさまも実に自然で、すべての音が有機的に受け継がれていき、最後まで息を殺して聴きいってしまう。
 後半はハイドンの「アンダンテと変奏曲 ヘ短調」から始まり、まさに2度目のオードブルが提供された感じ。健康的で明るく、凛とした主題が幾重にも変貌を遂げ、これから始まるメイン料理への期待が高まる。
 そしていよいよ「シューマン弾き」と称されるヴィルサラーゼの真骨頂、シューマンの「交響的練習曲」の登場だ。私が待ちに待っていた作品であり、これを聴きにこの夜すみだトリフォニーホールに出かけてきた人は多いに違いない。
 冒頭のゆったりとした主題から、一気にシューマンの世界へといざなわれる。理性的で文学的で確固たる構築感に支えられた演奏だが、その奥に幻想的で夢想的で限りないポエジーが潜む。
 当時、シューマンは指を痛めてピアニストになることを断念し、クララ以外の女性とひそかに婚約したり、人生を模索しているときだった。 
 そんなシューマンによる、奥深い内容をもつ大胆で画期的な「交響的練習曲」を、ヴィルサラーゼはあるときは内省的に、シューマンの苦悩をあぶり出すように、またあるときは輝かしい響きで変奏をうたい上げ、創意と工夫に満ちた演奏を繰り広げた。
 この時点で、もうノックアウトされた感じだ。鳴りやまぬ拍手に応えて彼女はシューマンの「森の情景」より「予言の鳥」と「献呈(リスト編)」、ショパンの「2つのワルツより「告別」、「華麗なる大円舞曲」をアンコールで弾いたが、なかでも「献呈」にはまいった。
 私はこの曲を聴くと、ヘルマン・プライの晩年のアンコールが即座に脳裏に蘇り、涙が止まらなくなってしまうのである。
 終演後、先日のインタビューのお礼をひとこといおうと楽屋に顔を出すと、ヴィルサラーゼは「ああ」と叫んでハグしてくれた。
 私は「もう感動して涙が出ちゃって…」というと、彼女はより強く抱きしめてくれた。
 以前は、すごく怖い人だといわれていたけど、本当はすごく優しい人なのだと実感。本当にすべてが夢のようで、まだ今日もその演奏の余韻に浸っている。
 こういう演奏には滅多に出会えるものではない。
 会場はアンコールの終わった後、まさしく総立ちとなり、ヴィルサラーゼをたたえた。
 今日の写真は、終演後の彼女のほっとした表情。先日、握手が力強いと書いたが、ハグもがっしりした感じで、あったかい。こういう感覚は生涯忘れられないものとなる。

| アーティスト・クローズアップ | 22:57 | - | -
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