Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

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ネルソン・フレイレ
 私の大好きなピアニストをさまざまな角度から伝えたいと思い、ブログに「マイ・フェイバリット・ピアニスト」という新たなカテゴリーを作った。
 第1回はブラジル出身で現在はパリでも多くの時間を過ごしているピアニスト、ネルソン・フレイレである。彼は正統的で情熱的でリズムが天に飛翔していくような躍動感あふれる演奏を得意とするが、その奥にはえもいわれぬ内省的で思索的な美質が潜んでいる。
 素顔のフレイレはとても物静かでシャイ。口数は少なくおだやかで、柔和な笑みを浮かべているが、実は気難しいタイプだ。その彼は、情熱的で奔放で完璧主義者のマルタ・アルゲリッチとは親友同志である。
 フレイレとアルゲリッチはともにウィーンに留学したころに出会い、すぐに意気投合。音楽的にも共通項があると感じ、以後50年以上にわたってよき友人としてのつきあいが続いている。
「私がウィーンに行ったのは14歳のとき。両親と離れ、ひとりになって自由を満喫。練習などせず、散歩したりカフェに行ったり、遊びまくっていました。そんなときラフマニノフがシューマンの《謝肉祭》を録音したものを見つけて大感激。自由でクレージーな演奏でした。早速まねをしてレッスンにもって行ったら、先生に唖然とされましたね。マルタに出会ったのもそのころで、最初から自然にコミュニケーションがとれました。性格も音楽もまったく違うのに、なぜかウマが合う。いまでは何もかもわかりあっている感じ。ふたりが一緒に演奏すると、どちらかに演奏が似るのではなくまったく異なった第3の人間が生まれ、その人が弾いているようになるのです。みんなにそういわれるんですよ」
 彼は正統的で重量感あふれるプログラムを組むが、私が楽しみにしているのは、いつもコンサートのアンコールに登場するグルック作曲「オルフェオとエウリディーチェ」より「精霊の踊り」だ。
 ロマンあふれる美しい旋律とゆったりとしたリズムに彩られたこの作品は、聴き手の目を自然に閉じさせ、心身ともに曲に没頭させてしまう不思議な魅力を備えている。
 フレイレが子どものころから敬愛し、いまなお部屋に写真を飾り、彼女の思い出を大切にしているブラジル出身の名ピアニスト、ギオマール・ノヴァエスが好んで弾いていた曲である。
 ノヴァエスはフレイレにとって大先輩にあたるが、彼女はフレイレの才能を高く評価し、さまざまなアドヴァイスを与えてくれたという。
「精霊の踊り」は、ノヴァエスも録音を残している。彼女の演奏はフレイレよりもテンポがゆったりとし、古雅で気高い雰囲気を醸し出している。そしてフレイレの演奏もまた、非常に味わい深く、ピュアな美しさを秘めている。
 世界各地でフレイレはこの作品を演奏しているが、いずこの地でも常に会場はシーンと静まり、ひとつの音ももらすまいとみな神経を集中させて聴き入り、頬を濡らす人も多い。
「私は幼いころから多くの偉大なピアニストの録音を聴いてきました。ルービンシュタイン、ホロヴィッツ、バックハウス、ギーゼキングなど。ルービンシュタインの実際の演奏を聴いたのは22歳のとき。ホロヴィッツはアルゲリッチと一緒にニューヨークで聴きました。これらはいまでも強烈な印象となって残っています。ルービンシュタインの自由さ、明快さはすばらしい。ホロヴィッツはオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団とのコンチェルトでしたが、マルタとふたりでからだのなかを電流が走るほどの衝撃を受けましたよ」
 2001年、フレイレは長年の沈黙を破ってショパンの作品集をリリースした。以後、シューマン・アルバム、そしてショパンのピアノ・ソナタ第2番「葬送」、ベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」などを立て続けに録音している。
「私は束縛されたり、お仕着せが大の苦手。長年、録音からは離れていましたが、新たな気持ちで始めたのは、レコード会社の人たちに好きな時期に好きな作品を録音していいよ、といわれたのでOKしたんです」
 自由をこよなく愛し、海辺を散歩したり、ボーッとしている時間が大切だというフレイレ。リオ・デ・ジャネイロの家には4匹の犬、パリの家には1匹の猫がいる。彼らはフレイレの演奏するヴィラ=ロボスの作品が大好きなのだという。
「ヴィラ=ロボスの作品にはブラジルの魂が込められています。ジャングルや鳥など自然をほうふつとさせる面もあるけど、人々の心温かな気質も感じられる。ヴィラ=ロボスはまったくの独学で作曲家になりました。これを聞いただけでも、ものすごく自由な魂を感じませんか。音楽の壮大さと人間のぬくもり、その両面が共存していると思うんですけどね」
 ヴィラ=ロボスの話は尽きない。
「リオの自宅にはボクサー犬の雌がいて、私がヴィラ=ロボスの曲を演奏すると目がウルウルになるんです。その様子をドキュメンタリー映像に撮ったものが、You-Tubeで見られますよ。《ネルソン・フレイレ その人と音楽》というタイトルだったかなあ。パリの猫もピアノが好きです。彼らはみなヴィラ=ロボスが好きなんですよ。やはりブラジルの作曲家の作品をブラジル人である私が弾くと魂がこもっているから、犬や猫も感激してくれるんでしょうかねえ」
 このペットの話になった途端、スマホでその映像を見せようと必死で探し始め、インタビューは一時中断。彼らの話題になると幸せそうな笑顔になり、犬や猫をこよなく愛すフレイレの素顔がのぞいた。
 そんなフレイレが、J.S.バッハのアルバムをリリースした。パルティータ第4番ニ長調BWV828、トッカータ ハ短調BWV911、イギリス組曲第3番ト短調WV808、半音階的幻想曲とフーガ ニ短調BWV903ほかという、凝った選曲である。
 最後は「主よ、人の望の喜びよ」(マイラ・ヘス編)で締めくくられるが、ぜひ小さなホールでナマを聴きたいという思いを抱くような、親密的で心に響く演奏。フレイレのバッハは、彼の温かく物静かな性格が全面的に投影された、精緻で静謐で深遠なピアニズムである。
 2014年の来日時に、「フレイレさんはコンサートの選曲や録音に関しても常にマイペースを崩さない人ですが、いまもっとも弾きたい作品は?」と聞くと、こんな答えが戻ってきた。
「よく聞いてくれました、J.S.バッハです! みんな私とバッハは結び付かないと思うようですが、バッハは子どものころから自分のために家で弾いてたんですよ。私の心の糧ともいうべき作曲家です。バルティータと編曲物を組み合わせて録音したいですね」
 このバッハは、何度聴いても、また初めから聴きたくなる、ある種の魔力を秘めている。


ネルソン・フレイレ バッハ
ユニバーサル(輸入盤)478 8449

 
| マイ・フェイバリット・ピアニスト | 22:17 | - | -
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