Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

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初めてのイスラエル出張
 イスラエルには何度か出張している。もっとも長く、ひとりで1カ月近く滞在したのは1986年4月のことで、第5回アルトゥール・ルービンシュタイン国際ピアノ・コンクールの取材だった。このときのことはいまでも鮮明な記憶となって脳裏に焼きついている。
 その記憶をたどってみたい。

遠い国

「そんな危険なところにひとりで行くなんて、テロやハイジャックに遭ったらどうするの。頼むからやめてちょうだい」
 取材が決まったときの母のことばである。まわりはみんな、イスラエルに行くというだけで、まず絶句し、次に必死に止め、最後はあきれた、という表情をした。
 それほど当時はイスラエルという国は恐れられ、情報が不足し、かつ遠い国だと思われていた。実際、私自身もどれほどの知識があっただろうか。
 準備を進めていくうちに、漠然とではあるが、アウトラインがつかめてきた。まず、非常に治安がいいこと、チップのいらない国であること、ほとんどの人が自国語以外に英語を話せること、そして地中海地方独特の風光明媚なところで、温暖な気候であること、音楽が盛んであること等々。
「流れ弾にあたらないでね」「戦争に巻き込まれないように」「飛行機、落ちないように祈っているよ」
 数々のことばに送られ、まるで戦地に出向く兵士のように私は日本をあとにした。

歴史の重み

 乗り換えを経て、30数時間ののちにようやく着いたテルアヴィヴはまさに真夏、35度であった。肌寒い東京からきた身では、すぐに対応できない。ただし、もっと困難な状況が待っていた。
 当時のテルアヴィヴの空港は、現在の立派な空港とは大違い。飛行機を降りるとすぐに前面の道路が見えるような小ささだった。そこにはタクシーもバスもまったく見えない。乗客はみな迎えのクルマがきて、いなくなってしまった。
 空港の職員にタクシーはいないのかと聞くと、「今日は安息日なんだよ。でも、大丈夫。いまに宗派の違うドライバーがくると思うから、ゆっくり待ってて」
 こういって、私の夕方着の飛行機がこの日の最後なのか、次の便まで時間があるのか、その人もどこかにいってしまった。
 私は待合室の前でトランクに腰かけ、ひとり待つしかなかった。まだ携帯のない時代である。どこにも連絡はできず、右も左もわからず、待つこと1時間以上。
 ようやく道路の向こうのほうからこちらに向かってくるタクシーが見えたときは、「おお、神よ」という感じだった。こうしてようやく市内に入ることができたのである。 
 テルアヴィヴ市内は、抜けるような青空と乾いた空気がただよい、地中海ブルーと呼ばれる深い藍色をたたえた海がどこまでも続き、風にそよぐオリーブ畑とオレンジの並木が連なり、まるでリゾート地そのものの風景だった。
 しかし、街のあちこちにいまにも朽ち果てそうに建っている何百年とも何千年とも知れぬ建物を見るとき、その悠久たる歴史の重みを感ぜずにはいられない。やはり聖地なのだ。

親切な人々

 イスラエルの人は、道で会ったりホテルで見かけたりすると、「シャローム」と必ず笑顔で声をかけてくれる。初めはこちらもへんに警戒し、構えていたが、慣れてくるとかえってあいさつをしないと物足りない気分になってくるから不思議だ。
 ある日、こんなことがあった。安息日になってしまい、銀行をはじめ新聞もなく、もちろん郵便局もしまっていた。
 私は次の日はもうエルサレムに移るため、友人や家族にあてたはがきの束を抱えて途方に暮れていた。
 するとスッと手がのびてホテルの男性が、そのはがきを自分のポケットにしまいこんだ。私は一瞬あせったが、まかせておけという彼のことばを信じた。
 翌朝早くホテルを出ようとすると、昨日の男性が走ってきて「あなたはいつもこれを欲しがっているから」と郵便局の領収書を渡してくれたのである。(仕事のため、常にあちこちでレシートや領収書をもらっていたので)
 私はこのかゆいところに手の届くようなサービス、気配りに感謝するのも忘れ、ただ呆然と立っていた。
 こんなにもオープンで親切な国が他にあるだろうか。こんなことが一度や二度ではなかった。

意見をはっきり

 毎回、国際コンクールというものは、審査が非常に大変かつ困難を極めるものであるが、このときも本選が行われた日の結果が判明したのは、なんと夜中の1時すぎだった。
 ほとんどの聴衆がそれまで帰らずに、みんな自分の意見を語りあいながらじっと待っている。こちらの人は自分の考えをはっきりと持ち、会場で意見を聞くと「自分はこの人の演奏がいいと思ったのに第1次予選で落ちてしまった。審査には納得がいかない」とか、実に明快な答えが戻ってくる。自分の応援した人が次の段階に進めないとブーブー文句をいい、審査員にまるで食ってかかるような態度を見せ、真剣そのものである。
 このときはアメリカ勢が9人という大部隊を送り込んだが、結局みんな敗れてしまい、たったひとり出場した日本人も第2次予選には進めなかった。
 コンクールには常にドラマがある。本選に進んだ6人の演奏を聴いたり、インタビューをしているうちに、こちらまで一喜一憂してくる。みな屈託がなく、真面目で、明るく、のびのびとしている。
 この国際コンクールの初取材が、以後各地での取材の始まりとなった。

もう一度この地へ

 旅は、多くの人との出会いをもたらす。ほんの限られた日数のなかで、未知の国のたくさんの人と出会った。
 ヘブライ語がまるでわからず、ハッタリ英語だけで勝負する私に手を貸してくれたイラースご夫妻、「3年後もぜひいらっしゃい」といってくれたコンクールのディレクター、ビストリツキー氏、ドイツからコンクールに参加した自国の若者の応援に駆けつけた熱心なふたりの女性、ヨハネスブルクのユダヤ系の詩人で、ナザレとベツレヘムをくまなく案内してくれた人、エクアドルから旅行にきて、民芸品の人形をプレゼントしてくれた兄妹、大喧嘩の末、心が通い合ったパリのカメラマン、日本語を習っているというアニー、深夜にもかかわらず一生懸命スタジオで演奏を聴かせてくれたポップなピアニスト、トマー、風邪をひいてコンクールの最中に咳こんで困っていた私にそっとキャンディを手渡してくれたイスラエルの人たち、そしてなにより、滞在中に私の誕生日を知って、深夜に紀元前の建物のある海辺で「ぼくたちはお金がないから、きみのバースディに歌をプレゼントするよ」といい、みんなで美しい民謡を合唱してくれた人たち。その歌声を聴きながら、私はあふれる涙を抑えきれず、みんなに見えないように顔をずっと海のほうに向けていたっけ。
 シャローム(さようなら)イスラエル、トダラバ(ありがとう)イスラエル、もう一度この地を踏みたい。
 こうして私は一度でイスラエルに魅了され、以後何度もこの地に出かけていくことになる。ただし、最初に会った人たちには、なぜかその後一度も会うことができない。

 今日の写真はピカソが描いたルービンシュタインの絵を用いた、1989年の第6回コンクールのポスター。私の仕事部屋の壁面を飾っている。ただし、このときは第5回とは治安が著しく変化し、どこに行くのもセキュリティが必要だった。



| 麗しき旅の記憶 | 23:51 | - | -
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