Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

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ロリン・マゼール
 ロリン・マゼールは真の神童と呼ばれた人で、子どものころからさまざまな才能を発揮してきた。とりわけ記憶力が群を抜いていて、指揮者になってからは全曲暗譜。そして一度会った人の顔は絶対に忘れない。
 5〜6カ国語を操り、どんな分野においても才能をまたたくまに発揮する天才性ゆえ、オーケストラとの衝突もしばしば。
 だが、現在は人間性も音楽性も円熟味を増し、おだやかな表情を見せるようになった。
「インタビュー・アーカイヴ」の第45回はそのマゼール。もう18年も前の記事だから、現在とはかなり雰囲気が異なっているが、彼は非常に率直でストレートに物をいうタイプ。これはずっと変わらない。

[FC VOICE] 1994年 春号

私の基本はドイツ音楽。ドイツの自然が目の前に見えるような音を出したい

 1985年1月1日、マゼールはウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを自らヴァイオリンを弾きながら指揮した。彼のエンターテイナーぶりはすでに定評のあるところだが、このときの姿はまさに音楽を聴衆とともにエンジョイし、オーケストラとともに楽器を奏でて演奏の醍醐味を共有し、その楽しみを衛星放送を通じ、世界中の人々に伝えるという大きな成果をもたらした。
 しかしこの直後、マゼールはウィーン国立歌劇場管弦楽団(ウィーン・フィル)を去り、故郷のピッツバーグ交響楽団の指揮に力を注ぐことを宣言してアメリカに戻ってしまった。ニューイヤーの踊るような指揮ぶりを目の当たりにした私にとって、マゼールとウィーン・フィルとの突然の決別は大きなショックとして心に残った。
 思えばマゼールは若いころからオーケストラとの決裂を繰り返してきた。フランス国立管弦楽団の音楽監督をやめるときも、ウィーン国立歌劇場の総監督を持すときも、常に物議を醸し出してきた。カラヤン亡きあとベルリン・フィルの音楽監督の最右翼といわれたが、その地位をアバドにさらわれるや、「2度とベルリン・フィルの指揮台には立たない」と爆弾発言もした。
 彼は物別れに終わったオーケストラについて多くを語ろうとはしないが、1993年春に来日したときのインタビューで話がこのニューイヤー・コンサートにおよぶと、途端に相好を崩した。
「ニューイヤー・コンサートの指揮は私も本当に楽しみで、あのころのウィーンを思い出すと、なんだか夢のような気がするよ。いろいろ大変なこともあったけど、いまはもう楽しかったことだけが胸の奥に残っている。ヴァイオリンはあれからずっと弾いていないから、いまはもうきちんと弾けないんじゃないかな。ヴァイオリンというのは、日々ものすごく練習しなければいけないからね。忙しくて、いまはもうまったく無理」
 現在は1988年から音楽監督を務めるピッツバーグ交響楽団と、1993年から首席指揮者に就任したバイエルン放送交響楽団の指揮に加え、ヨーロッパ、アメリカの多くのオーケストラの客演を行う多忙な身である。
 そのバイエルン放響とは1993年4月に来日し、長期日本公演を行った。これは今後5回、1年から1年半おきにわたってわが国で定期的に行うコンサート・シリーズの第1回目にあたり、彼はドイツ・オーケストラ界を代表する名門オーケストラから、高い緊張感に満ちた熱い響きを導き出した。
「バイエルン放響はドイツのエリート・オーケストラ。私のディレクションによるシリーズの最初には、ぜひともドイツ音楽をもってきたかった。それも水準の高い演奏をね。このオーケストラで聴くドイツ音楽だったら文句ないでしょ。磨き抜かれた響きと、からだのなかに沁み込んでいるドイツの伝統が音となって出てくるから」
 この来日時のコンサートは、ワーグナーの歌劇「ローエングリン」から第1幕への前奏曲、シベリウスの交響曲第5番、ブラームスの交響曲第2番というプログラム。これは今回スポンサーとの話し合いのなかからテーマを決めたもので、スポンサーのシンボルキャラクターであるスワン(白鳥)に因んでいる。
「ローエングリン」の主人公である騎士ローエングリンは、白鳥の曳く小舟に乗って登場する白鳥の騎士であり、シベリウスの第5番は、湖を渡っていく白鳥を見て曲想を得たというシベリウス自身の記録が残されている。そしてブラームスの第2番は別名「田園」と呼ばれているように、風光明美な湖のほとりで自然を満喫しながら書かれた牧歌的な交響曲である。
「それらの作品に流れる優雅さ、気品などの表情をテーマとして取り上げた。白鳥は美や音楽の象徴。第1回目のテーマにピッタリなんでね」
 彼はひとつのテーマに基づいてプログラムを作るのが好きなようだ。以前の来日では自然をテーマに全プログラムを組んだこともある。
「本当は演奏する場所、時間、空気などから霊感を得て演奏する曲を決めるのが一番いいんだけど、現在はなかなかそうもいかない。インドの伝統音楽などはいまでもその方法を忠実に守っているけど…。昔はアンコールを100曲ほど書いた紙を聴衆に配って“ところでみなさんはどんな曲が聴きたいのかな”と声をかけ、2時間くらいアンコールをしたことがあったらしいけど、こういうの、いいよね。理想だな」
 いまマゼールは21世紀に向けて新しい試みを行っている。それはピッツバーグの宇宙センターのホールで客席にコンピューターをセットし、聴衆がそこにインプットされている数多くの曲目のなかから聴きたい曲を選び、それがメーン・コンピューターで集計され、聴衆が何を聴きたいかが即座に指揮者に伝わるというシステム。それをすぐにオーケストラが演奏するという方法をとりたいが、これには演奏する側の問題や他のホールでは不可能なこともあり、まだ実験段階とのこと。
「私はこうしたテクノロジーが好きで、昔からいろいろ試みているんだが、ようやくいまになってまわりが私に近づいてきた感じがするよ」
 こういって豪快な笑いを見せるマゼール。彼は演奏もエネルギッシュなら語り口も実にパワフル。なんでも数年前に亡くなった母親が98歳。いまも健在の父親は90歳だそうで、だから自分の寿命は100歳だと信じて疑わない。歯も32本健在で、からだもすこぶる健康。子どもは全部で7人いるが、いまの奥さま、ピアニストのイスラエラ・マルガリートとの間に生まれた女の子は9カ月になったばかりと、またもや陽気な笑い声をたてる。
「私は自分が3歳のころのことをよく覚えているんだ。人は若いころに何をしていたかをとかく忘れてしまいがちだが、つねに相手の年齢に合わせてつきあえば、コミュニケーションはうまくいく。現に私は3歳の子どもとはとてもウマが合う。なぜなら、彼は私のことを3歳だと思っているからね」
 オーケストラの楽員ともこの方法でコミュニケーションをとるのだろうか。最近のマゼールは各地で衝突しなくなり、丸くなったといわれるが…。
「昔はすごく苦労したからね。初めてイタリアでオーケストラを指揮したときなんかひどいオケで、音ははずれているし、音楽はできていないし、指揮できるような状態ではなかった」
 若く血気盛んなマゼールはすぐディレクターに文句をいいにいった。するとディレクターは冷ややかな表情でこういった。
「そういうオーケストラだから、若いきみにまとめてもらおうと思ったんだよ」
 マゼールはこのとき指揮者がそういうオケをまとめる力がないのだったら、職業を変えるべきだと悟ったという。いまようやく自分より楽員のほうが若くなり、意志を伝えるのに苦労しなくなったそうだ。そして最近では、またウィーン・フィルとともに仕事をし、1994年のニューイヤー・コンサートでは再び指揮台に立った。
 ロリン・マゼールは1930年3月6日、フランス中北部ヌイイー・シュル・セーヌに生まれた。父はユダヤ系ロシア人、母はハンガリーとロシアの混血。両親はアメリカ国籍をもっていて、一家はマゼールが生まれるとすぐにアメリカに移住した。
 5歳でピアノとヴァイオリンを始め、その後ウラディーミル・バカレイニコフに就いて指揮法を習い、8歳でアイダホ州立大学のオーケストラを指揮したのを皮切りに、11歳でNBC交響楽団やニューヨーク・フィルを指揮して「神童」と騒がれた。やがて成長したマゼールは、ピッツバーグ大学で哲学と語学を専攻し、音楽の勉強と同時にさまざまな知識を身につけていく。
 1945年ヴァイオリニストとしてデビューしたが、49年にはピッツバーグ交響楽団の副指揮者としてデビューを飾り、以後指揮者としての道を歩むようになる。
 そしてその3年後にはイタリアに留学し、これが大きな転機となった。
「私は5歳のころから音楽を始めたけれど、プロの道に進もうと決心したのは、あちこちで指揮をしてからだから、30歳のころだと思う。子どものころに指揮台に立ったのは、乗馬やスキーをしたりするのと同じ感覚で、それが大きくなってからの指揮活動に影響したとは思えない」
 イタリア留学を終えたマゼールは、1960年最年少で、しかもアメリカ人としては初めてバイロイト音楽祭に招かれ、一躍その名を知られるようになる。
 以後、ベルリン・ドイツ・オペラ芸術監督、ベルリン放送交響楽団音楽監督、クリーヴランド管弦楽団音楽監督などと前述のオーケストラを歴任し、一時はカラヤンのライヴァルともいわれた。数多くの賞も受賞しており、1985年にはイスラエル・フィルの終身名誉指揮者にも選ばれている。
 マゼールの記憶力のすごさは有名で、どんな曲でも完全暗譜。以前は驚くほどスリルに富んだ、はげしく燃え上がる演奏を得意としていたが、最近はグッと渋さが増し、バランス感覚にすぐれた円熟味豊かな演奏に変わってきた。
 だが、ぐんぐん高みへと上り詰めていくような高揚感は依然健在で、聴き手の心を熱く燃焼させるワザもなお一層磨きがかかる。次回の来日でも、手に汗握る迫力ある演奏を聴かせてくれるに違いない。

 今日の写真はその雑誌の一部。いつも上質なスーツでビシッと決めている。
 実は、1985年のニューイヤー・コンサートを聴きにいったときに、アンコールでヴァイオリンを弾きながら指揮していた姿を、かなり前の席だった私はみんなのまねをして写真を1枚撮った。
 この話をすると、マゼールは「その写真ぜひともほしい。あのときのコンサートは思い出深いんだ。次に会うときにはもってきてくれるね」といわれた。ところが、当時はまだネガ。いくら探してもみつからなかった。
 というわけで、私はマゼールに会えなくなってしまったのだ。彼の記憶力のよさを知っているため、逃げるに逃げられない羽目に陥るから(笑)。以来、残念なことにマゼールにはインタビューをしていない。でも、もう忘れたかな…。

| インタビュー・アーカイヴ | 18:44 | - | -
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