Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

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中村紘子
 昨年の7月26日、中村紘子が大腸がんのために亡くなった。享年72。
 今日は、彼女の一周忌が自宅で行われ、私も参加した。よく取材に訪れたマンションの一室。もうニ度と訪れることはないと思っていたが、主亡き部屋に一歩足を踏み入れると、そこには大勢の人とあふれんばかりの蘭や百合の花かごが飾られていた。
 私は遺影の前であいさつをしたが、ふと中村紘子が現れそうな気配を感じ、不思議な感慨にとらわれた。
 昨年、東京新聞と西日本新聞に追悼文を寄せた。それを下記に記したいと思う。写真は、西日本新聞の紙面。

[中村紘子さんを悼む ショパンの心 追い求め]

 ショパンのマズルカ、中村紘子さんの訃報に触れ、まず脳裏に浮かんだのがこの作品だった。彼女はデビュー当初からショパンのさまざまな作品を演奏してきたが、なかでもマズルカには特別な思いを抱いていた。
 16歳のころに1955年のショパン国際ピアノ・コンクール(以下ショパン・コンクール)の優勝者、ポーランドのアダム・ハラシェヴィチが来日し、彼の弾くマズルカに魅せられ、「それがショパンにのめり込むきっかけになった」からである。
 ただし、若いころはマズルカを公の場で演奏することはなかった。ショパンの心情を素直に表した日々の日記のような小品ゆえ、大きなステージで演奏するには適さないと考えていたからだ。その思いが年齢を重ねることにより変化し、最近は録音でも取り上げるようになった。そこでは、ショパンの内面を吐露するような作風に寄り添った、情感豊かで滋味あふれる演奏を繰り広げている。
 中村さんは1965年のショパン・コンクールを受け、入賞を果たしているが、このコンクールを受けるきっかけとなったのは、ハラシェヴィチから紹介されたショパンの権威、ビグニュウ・ジェヴィエツキに師事したことによる。ジェヴィエツキ教授がショパン・コンクールを受けることを勧めてくれたのである。
 以来、レパートリーの根幹にショパン据え、長年ショパンの作品を愛奏し続けた。同コンクールの審査員を務めた90年には、ジェヴィエツキ未亡人のもとを訪ね、夫人とともに恩師の墓に詣でている。
「人間にはみなそれぞれ完成地点があるんじゃないかしら。人によって千差万別で、40代で到達する人もいれば10代でできてしまう人もいる。私はとても遅いの。ずっとショパンを弾いているけど、まだ完成していないから。こうしてジェヴィエツキ先生の墓前で、“ショパンの心に近づくには何が必要か”と問うと、答えが戻ってくる気がするの」
 ワルシャワの墓地で語っていたことが思い出される。その後、彼女は自身が受けた教えを次世代へとつなげるべく、後進の指導に尽力するようになる。「教えることは自分の勉強でもある」という信念のもとに…。そして、つい先ごろ話していた言葉が鮮明によみがえる。
「このごろ、ピアノがとても面白くなってきたの。ようやく演奏を楽しむことができるようになってきたのよ。本当に遅いわね」
 奏法の工夫、楽譜の解釈から作曲家の真意に近づくことまで、若いころには見えないことが見えてきたのだという。そして可能ならば、50曲以上あるショパンのマズルカの全曲録音に挑戦したいと意欲を示していた。
 中村さんの演奏は常に前向きでエネギッシュ、聴き手に活力を与えるものだった。その音の記憶はいつまでも色あせることはない。
 彼女と話していると音楽へのエネルギー、ピアノへの愛情、後進の指導への熱意が伝わってきて時間が経つのを忘れる。よく私の仕事に関しても適切な助言を与えてくれ、ときにはきびしい意見を率直に述べてくれた。もう、あの直球勝負の身の引き締まるような言葉を聞くことができないのが無性に寂しい。
 世界中の若手ピアニストの動向もいち早くキャッチし、時代に即した支援も試みた。お料理好きでおしゃれで、話題が豊富。常に人々の輪の中心にいるような存在だった。きっと天国でも、美しいピアノと、華やかな笑顔と、得意の話術で、人気を集めているに違いない。



 

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