Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

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パーシー・アドロン
 映画「マーラー 君に捧げるアダージョ」のパーシー・アドロン監督に話を聞いたのは、2月初頭のことだった。
 監督はマーラーの音楽との出合い、映画を作ろうと思ったきっかけ、配役に関することからバックに流す音楽まで非常にこまかく話してくれたが、もっとも印象に残ったのは「女性の生きかた」についての話だった。
 アドロン監督は、「私はマーラーというよりも、むしろ妻アルマの生きかたをクローズアップしたかった」と語った。
 このインタビューは、現在発売中の「フィガロ・ジャポン」に掲載されている。
 監督はひと通りインタビューが終わると、「きみは自分の才能をきちんと理解し、仕事に生かしているかい?」と私に聞いた。
「それはいつも私の悩みです。ただし、アルマの時代より現代は女性が仕事をしやすい時代になりましたから、ある程度は生かしていると思います。ただし、映画を見てもう一度考え直したいという気になりました」
 そう答えると、監督は「そうか、そう思ってもらえるとうれしいね。現代社会は才能豊かな女性がたくさんいて、みんな一生懸命仕事をしている。でも、みんなが自分の才能を存分に生かしているとはいいきれない。私は映画を通じて、世界中の女性に自分の人生をもう一度見つめ直してほしいと思っているんだよ。いまからでも遅くない。自分が本当にやりたいこと、目標、夢に向かって歩みを進めてほしいんだ」
 アドロン監督とは、その後内輪の食事会にもお招きいただき、和食の席を囲んだが、彼はここでも私の気持ちを刺激することばをいくつも投げかけてくれた。
 映画監督とは、大勢の人と仕事をともにし、ひとつの大きな作品を仕上げていく。そういう人が語ることばは、ひとことひとことが胸にズシンとくる重みと強い説得力を持つ。
 映画を見て自分の生きかたを考える。マーラーの映画は、私に人生の教訓を与えてくれた。
 もうひとつ驚いたのは、監督の父親が伝説的なヘルデンテノール、ルドルフ・ラウベンタールだということ。
「父は私が子どものころからいつもいろんな作曲家のレコードを聴かせてくれた。でも、マーラーはそのなかに入っていなかったんだ。マーラーは父の趣味に合わなかったようだね。30代半ばになって私はマーラーの音楽と出合い、ことばのないオペラ、または音符に変換された映画のようだと感じた。いつかマーラーの映画を作りたいと思うほどマーラーの作品にほれ込み、ようやくいまになってそれが実現したというわけさ」
 ラウベンタールは1886年デュッセルドルフに生まれ、1971年に亡くなっている。最初はリリックテノールだったが、徐々に声が変わり、ワーグナーのさまざまな役を歌うようになった。監督いわく、1922年から32年にかけてメトロポリタン・オペラで活躍したそうだ。
「父がおもしろいことをいっていたのを思い出す。マーラーは指揮者の音楽であって、オペラ歌手の音楽ではないとね。だから私は長年マーラーの音楽を知らずに過ごし、ようやく大人になってから自分で探した作曲家なんだよ」
 監督はマーラーの音楽ももちろんだが、やはりその人物像に興味を惹かれるという。性格そのものが音楽に投影されているからと。
 音楽を担当したエサ=ペッカ・サロネンとは、彼のドキュメンタリーを撮影したことから友人となり、今回も演奏を依頼したそうだ。
「フロイトとマーラーの対話のシーンに交響曲第10番のフラグメント(断片)が流れるんだけど、それを演奏してくれとエサ=ペッカに頼んだら、目を丸くして、そんな演奏したことがないといったんだ。これはフル・オーケストラではなく、セクションごとの演奏やある楽器の単独の演奏などが49ピース使われる。私が詳細を説明していくうちに、彼は頭が混乱してきたといって、49のリストを出してくれって叫んだんだ。まあ、結果的にはうまくいき、オーケストラのメンバーも初めての経験をおもしろがってくれたけど、指揮者はさぞ大変だったと思うよ(笑)」
 親しい友人だからこそできたことなのだろう。映画では、サロネン指揮スウェーデン放送交響楽団の味わい深い演奏を聴くことができる。

 今日の写真はインタビュー時のアドロン監督。ユーモアとウイットに富み、好奇心旺盛で、雄弁で、奥さま思いで、みんなに好かれるキュートな性格の持ち主。サロネンもこの熱意に押されたのかも…。


 
 
| 日々つづれ織り | 22:40 | - | -
横山幸雄
 ピアニストの横山幸雄に初めて会ったのは、まだ彼がフランスで勉強をしているころで、パリ郊外のデファンスにある音楽院の寮に取材に行ったのが始まりである。
 それからショパン・コンクールでの演奏も聴き、デビュー以来ずっとさまざまな形で取材をし、演奏も聴き続けている。
 ただし、この横山幸雄との出会いはひどいものだった。若かった彼はとっても生意気で(ゴメン)、私の質問に対し、ぶっきらぼうな答えしか戻してこなかった。
「あなた、すごく生意気ね」
 たまりかねて私がいうと、すぐにこう切り返してきた。
「質問がつまらないから、答えようがないよ」
 それからふたりでいい争いになり、それでも私が仕事だからと懸命にインタビューを続けると、次第に本音を明かすようになった。そばにいたカメラマンは、ふたりの壮絶ないい合いに壁に張りついていたものだ。
 だが、それが縁となり、以後喧嘩しながらも本音トークを繰り返している。いまはお互いに「あのときはおもしろかったね」と笑って話せるようになった。
 デビューしてから次第に太ったときは、マネージャーから「伊熊さんだったらはっきりいえるだろうから、もっとやせたほうがいいといってくれ」と悪役を頼まれたこともある。
 これを本人にいったときのことは、想像にお任せ。ホント、ひどい役がまわってきたものだ。でも、スリムになったけどね(笑)。
 そんな彼は、昨年5月にショパンの作品番号がつけられた166曲を一日で弾くというすさまじい演奏会を行い、ギネス世界記録を樹立した。
 さらに今年はバージョンアップ。5月3日に東京オペラシティコンサートホールで、ショパンの遺作を含めた全212曲の連続演奏会を行う(チャリティーコンサート)。
 この時間帯を聞いてびっくり。朝8時から始めて、夜中の2時終了だという。なんと、18時間弾き続けるのである。もちろん合間に少し休憩は入るが、想像を絶する長さだ。
 先日インタビューしたときに私が目をまん丸にすると、「そんなに驚くことではないでしょ。だって、練習するときは10時間ぶっ通して弾いていることもあるんだから。本番よりも練習のほうが大変なんだよ」とケロリ。このインタビューはWEBの「チケットぴあ」に掲載されている。
 体力、気力、実力が充実しているいまの横山幸雄。最近はインタビューでもお互いにおだやかに話しているが、なんだかつまらない…。
 ふたりの合言葉、「デファンスの出会い」。これをいうと、いまではなつかしい思いが胸に迫ってくる。丁々発止の話のほうが、やっぱり刺激的でおもしろいんだよね。
 横山さん、18時間のショパン、頑張ってね!!

| 終わりよければ…取材奮闘記 | 23:46 | - | -
仲道郁代
 ピアニストの仲道郁代は、デビュー当初から取材をし、インタビューを行っているひとりである。
 ジュネーブ・コンクールも、エリーザベト・コンクールも取材に行き、演奏を聴いてきた。そして1994年の9月にはロンドンの西方に位置するブリストルで行われた海外録音にも足を運んだ。
 彼女はデビューしたころはひたむきで、いつも前を向いて一直線に進んでいる感じで、「いまどれだけ真剣にやるかが勝負なんです」と語っていた。
 そんな彼女はレパートリーを徐々に広げ、さまざまな活動を行い、いまや日本を代表するピアニストのひとりとして確固たる地位を築いている。
「これまでいつもアップアップした状態で、こんなこと自分にできるのかなと思うことでもひたすら挑戦し続け、ここまでやってきました」
 最近またインタビューで出会った彼女は、こんなことばを口にした。
来年秋にはデビュー25周年を迎えると聞き、いままでさまざまなところで聴いた演奏が一気に蘇ってきた。
「高い頂に挑戦するたびに、それぞれの専門家のかたたちに出会い、知識や解釈など多くのことを教えていただきました。それらすべてが糧になっています。本当に人との巡りあわせは大切ですね」
 最近はショパンのピアノ協奏曲第1番、第2番を有田正広指揮クラシカル・プレイヤーズ東京と共演し、ショパンが愛したプレイエルを使用して演奏した新譜と、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第1、2、4番をリリースし、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を完結させた。
 仲道郁代はいま、音楽をもっと社会と結びつけたいと考えている。そのために自分が何ができるか、何をすべきかを模索中だという。そしてできる限り早くできることから実践したいと語る。
 何年たっても、彼女のひたむきさは変わっていない。いつも新しいことに向かって走り続けている。でも、必死さは見えず、明るくにこやかで自然体。このインタビューは「ムジカノーヴァ」の2011年3月号に掲載された。
 
 今日の写真はインタビュー終了後にパッとポーズをとった仲道郁代。
「ねえ、仲道さん、いつも私がインタビューが終わってすぐにブログ用の写真を撮っていいですかと聞くと、みんな似たようなポーズをとるんだけど、どうしてかしら? 別に頼んでいるわけじゃないのに…」というと、彼女はひとこと、「あら、伊熊さんがそういう気にさせるのよ」といった。
 ああ、そういうことなのね。まっ、みんないい顔してくれるから、深く考えなくてもいいかっ。

| 親しき友との語らい | 21:59 | - | -
ポール・ルイス
 今日はマネージメント会社を経営している友人のTさんと、白金でランチをご一緒した。
 そのなかで、この時期に来日してくれるアーティストは本当に貴重で、感謝してもしきれないという話題になった。
 彼女とは職種は異なるが、同じクラシックの世界で仕事をしているため、話がとても合う。ばらちらしをいただき、その後カフェでケーキを食べて紅茶を飲み、結局彼女のオフィスまで行ってまた話し込み、気がついたら5時間もおしゃべりしていた。
「でも、まだ話し足りないね。お互い仕事をしなくちゃいけないし、今日はこのへんにして、また近いうちに続きをしよう!」
 別れた後は、なんだか胸のなかがすっきり。本音で話せる友人は、本当に大切にしたいと思った。それにしても、話し足りないなあ(笑)。
 このときに先日「シューベルト・チクルス」で来日したイギリスのピアニスト、ポール・ルイスの話題が出た。
 彼はいま世界各地で「シューベルト・チクルス」を行っていて、日本では王子ホールで2年間にわたって演奏することになっている。
 4月21日の第1回はピアノ・ソナタ第15番ハ長調、3つのピアノ曲D946、ピアノ・ソナタ第17番ニ長調を演奏。いずれも磨き抜かれたテクニックと深い洞察力に支えられた情感豊かなピアニズムで、真のピアノ好きをうならせる圧倒的な存在感を示した。
 とりわけ印象に残ったのは、3つのピアノ曲の第2曲。香り高く気高く、涙がこぼれそうになるほどの美しさだった。
 今年の1月にインタビューをしたときは、「シューベルトを演奏することは、自分の音楽を発見すること」だと語っていた。
 彼は20代のころからシューベルトを弾いているそうだが、その作品は人間の本質を描き出し、常に人間としての生きかたを問いかけてくる感じがするという。
 よく、シューベルトは奏者が成熟しないと弾けないといわれるのは、そこに大きな理由があるのかもしれない。
「確かに、シューベルトの作品は楽譜を見てすぐには理解できません。時間をかけてじっくりとその内面に近づき、作品が内包する陰影や深い情緒やひそやかでありながら雄弁な語り口をひも解いていかなくてはなりません。でも、それが魅力であり、ピアニストを惹きつけてやまない理由だと思います。人間の根源に根差した音楽ですから」
 ポール・ルイスは、シューベルトの歌曲をテノールのマーク・パドモアと組んで演奏し、録音も行っているが、リートを演奏するとよりシューベルトの本質に近づくことができるという。
「リートのピアノ伴奏をすると、歌詞により世界が具体化し、ピアノの音だけでは見えなかった新たな広がりが見え、色彩感が定まってきます。リートが投げかけてくるのは死や喪失や絶望などが多いのですが、反面どう生きるかという問いかけもあります。それを音で表現するのには、やはり演奏者自身が成熟しないとならないのかもしれません」
 ポール・ルイスの次なる演奏会は7月1日、その後は12月8日の予定だ。心の奥に強い印象をもたらす彼のシューベルト、次回も胸の奥に染み込む音楽を聴かせてくれるに違いない。
  
 今日の写真はインタビュー時のポール・ルイス。知的でおだやかで説得力のある話かたが印象に残る。

| 親しき友との語らい | 21:23 | - | -
新ショーガのべっこう煮
 ウチの近くの二子玉川エリアが再開発で大いににぎわっている。そのなかにいつも新鮮で選び抜かれた野菜を販売している八百屋さんがあり、私のお気に入りのひとつになっている。
 その八百屋さんでとてもいいレシピを教えてくれた。「新ショーガのべっこう煮」という、ショーガを煮るものである。
「えっ、新ショーガなのに煮ちゃうの?」と私。
「だまされたと思ってやってみな、うまいよ。酒のつまみにもいいし、もちろん白いごはんにのっけたってうまい。お客さん、新ショーガはナマ、なんて考えていたら大きなまちがい。これ、やみつきになるよ」
 ベテランの職人風の威勢のいい男性に勧められ、教えられたままにさっそく挑戦。
 そして、できました。べっこう煮。見た目はかんぴょうのよう。でも、ひと口食べたら、目からウロコ。ピリッと香り高い辛さはそのままだが、アクがまったくなく、どんどんいける。ワインにも合いそう。
 というわけで、レシピを公開。ショーガ・ブームのいま、これは男性にもお勧めだ。女性はからだが温まるからいいかも。
 八百屋さんいわく、「コップにお湯を注いで、2、3切れ入れて飲んでみな。からだがぽかぽか温まる、さわやかな飲み物になるよ。夏はジュースのように冷やしてもイケるぜ」とのこと。ぜひ、お試しあれ。


新ショーガのべっこう煮

[材料]
新ショーガ(正味)500グラム、砂糖大さじ5(できたら三温糖)、しょうゆ大さじ5、酒大さじ1

[作りかた]
 /轡轡隋璽は洗って赤いところや汚れている部分を削り、繊維に沿って縦1〜2ミリ厚さに薄切りにする。もちろん皮のまま。
◆‘蕕貿湯を沸かし、刻んだショーガを入れて2〜3分さっとゆでる。
 ショーガをざるにとって水切りし、調味料を入れた鍋で汁気がなくなるまで炒り煮にする。コリコリとした歯ざわりを残すため、あまり強火ではなく弱火のほうがいい。

 今日の写真はできたての一品。こってりしたお料理のあとや、いなりずしに添えても美味。いいもの教えてもらっちゃった。また、ニコタマ行かなくちゃ。

| 美味なるダイアリー | 12:21 | - | -
フェリシティ・ロット
 イギリスの名ソプラノ、デイム・フェリシティ・ロットもこの時期に来日してくれた。
 彼女は1994年にカルロス・クライバー指揮ウィーン国立歌劇場の来日公演でR.シュトラウス「ばらの騎士」の元帥夫人を歌い、2009年にはN響定期に出演したが、今回は初リサイタルとなった。
 フェリシティ・ロットといえば、私は1994年にウィーンでこの「ばらの騎士」を聴いたときのことを思い出す。考えてみれば、あれからすでに17年の歳月が経過した。そのときの記事を再現したい。

 本当にクライバーが振るのだろうか。また直前になって急きょキャンセルするんじゃないだろうな。3月21日、ウィーン国立歌劇場のオーケストラ・ピットにクライバーが姿を現すまで、この不安はずっと脳裏をかすめ続けていた。
 クライバーがウィーンでR.シュトラウスの「ばらの騎士」を振るというニュースはもうずいぶん前から伝えられていたが、自分の目指す音楽が完璧に表現できないと容赦なくキャンセルする彼のこと、今回も直前までその出演が危ぶまれていた。
 しかし、同じキャストで今秋日本公演が6公演組まれていることもあり、ウィーンでの3公演はたぶん大丈夫だろうというのが大方の予想だった。
 不安を抱えながら現地入りしてみると、なんと立ち見券を確保するのに徹夜で並んでいる人が大勢いる状態。かたやクライバーが投宿しているインペリアル・ホテルには日本のファンが山ほど宿泊し、クライバーのためならいくら払ってもかまわないと決死の構え。ブラックマーケットでは最高2万円のチケットが10万円だ、いや20万円だと大フィーバー。
 歌劇場の前はテレビ中継車がデンと居座り、23日のみの撮影と思いきや、もしもの場合を考えて全日程撮影の準備をしている。
 さて、18日の初日には確かにクライバーが登場し、無事に振り終えたものの、例のおじぎをしてから振り向きざまにタクトを下ろしたためウィーン・フィルの出足がそろわず、クライバーは完全にアガリ、それが歌手陣にも伝染して総アガリ状態になったとか。
 新聞は「クライバーは失敗か!」と書き立て、そのニュースは世界中から駆けつけたクライバー・ファンを不安に陥れた。
 ところが、クライバーもウィーン・フィルも名誉挽回とばかりに発奮し、私が聴いた21日は超の付くすばらしい出来。クライバー特有の踊るような指揮にも拍車がかかり、ウィーン・フィルも負けじと底力を発揮。こんなにも緊張感に満ちた精緻なウィーン・フィルの響きを聴いたのは、正直いって初めてだった。
 歌手はといえば、オクタヴィアン役のアンネ=ゾフィー・フォン・オッターが若々しく凛々しい美男ぶりを見せ、まさに17歳という役どころがピッタリ。銀のばらを届けに行ったときにゾフィー(バーバラ・ボニー)がひと目惚れする気持ちがよく伝わってきた。
 ボニーも可憐で美しかったが、これまでのゾフィーに知的さと意志の強さを加え、独特のゾフィー像を生み出した。
 クライバーが見出したという侯爵夫人役のフェリシティ・ロットも輝きに満ちた自然な歌声で盛んな拍手を浴びていたが、彼女は演技力抜群で、若い愛人を年相応の恋人に譲る微妙な女心をさりげなく表現し、大喝采を浴びた。
 そこにオックス男爵役のクルト・モルが名演技と張りのある低音で切り込んでくるから、もうこれ以上のキャストは考えられない。
 クライバーは絶対にダブル・キャストは組まないから彼女たちは大変だが、それだけに息の合った最高の歌が堪能できるというもの。
 まさにこの日は心が高揚し、頭のなかにはあの有名なワルツが繰り返し登場して、なかなか寝付けなかった。

 そんな思い出がフェリシティ・ロットのリサイタルの間中蘇っては消え、また再び現れ、上質で気品あふれる歌声を全身に浴びながら、私は17年という年月の流れを深く感じ入った。
 ロットの今回のプログラムは長年愛してきたシューマンとプーランク、そして英語の歌の数々。特筆すべきはオッフェンバックやメサジェのオペレッタで、ひとり芝居ようにかろやかな演技を加え、気高く美しく、ウイットとユーモアに富んだ歌唱を披露した。
 そして、アンコールの最後に感動的なシーンが待っていた。ロットは今回の大震災に対して短いメッセージを語った後、「よい明日が来ますように」と聴衆に語りかけ、R.シュトラウスの「明日」を歌ったのである。
 この歌のなんと心に深く響いたことか。とりわけグレアム・ジョンソンのピアノが味わい深く、これまでこんなにも胸の奥に浸透してくる美しい「明日」の前奏を耳にしたことはなかった。もうこれだけで、みなハンカチを出したり、目頭を押さえたり…。

 フェリシティ、あなたのすばらしい歌声は健在でした。しばし現実を忘れ、夢の世界へと旅をしました。本当に感謝しています。


| クラシックを愛す | 00:09 | - | -
ヴィンチェンツォ・ラ・スコーラ
 4月15日、イタリア・パレルモ生まれのテノール、ヴィンチェンツォ・ラ・スコーラが滞在先のトルコで亡くなった。享年53。
 最近は後進の指導にあたることも多く、このときはマスタークラスで教えていたそうだ。
 実は、ラ・スコーラの2007年3月と2008年7月に横浜みなとみらいで行われた「シチリアの情熱・太陽の声〜イタリア・アリアとカンツォーネの世界」と題したコンサートのプログラムの記事を担当した。
 彼はいつもトスティの歌曲から始め、プッチーニのオペラ・アリア、さまざまなカンツォーネと多彩な曲目を熱唱、まさにシチリアの太陽を思わせる明るく透明感に満ちた情熱的な歌声を披露した。
 ヴィンチェンツォ・ラ・スコーラは1958年生まれ。アッリゴ・ポーラ、カルロ・ベルゴンツィに師事。1982年「ヴェルディの声」国際コンクールでツィリアーニ賞を受賞し、翌年ドニゼッティ「ドン・パスクアーレ」のエルネストでオペラ・デビューを果たした。
 その後、ブリュッセルで「愛の妙薬」でデビューしたのを皮切りに世界各地のオペラハウスで著名な指揮者と共演、華々しい活躍をするようになる。
 その真っ青な空にスコーンと抜けていくような明朗な歌声は、ルチアーノ・パヴァロッティの後継者と呼ばれるにふさわしく、2000年にはイタリアの「L´Opera」誌のベスト・テノールの栄誉を受けた。
 日本には何度か来日し、熱狂的なファンも多く獲得した。初来日は、1988年のリッカルド・ムーティ指揮ミラノ・スカラ座来日公演で、「日本の聴衆は音楽に対する造詣が深く、とても静かに集中して聴いてくれる。毎回、ステージに立つたびに驚かされる」と語っていた。
 まだまだこれから活躍してほしいすばらしい才能を持つ人だっただけに、急逝は残念でたまらない。
 これまで聴いた多くの曲のなかでは、作者不詳の「シチリアの歌」がとりわけ印象深い。
 この曲は昔、イタリアとオーストリアが戦争をしていたとき、あるシチリアの兵士が夜明けに「まだみんな寝ているようだ」と歌い始め、歌い終わったところで敵陣のオーストリア軍から「Bravo!」の声がかかったといういわくつきの歌。
 歌詞は悲しい内容で、シチリア訛りで歌われるが、ヴィンチェンツォはいつも思いを込めてじっくりと心に染み入る声で聴かせた。
 ああ、もう一度この曲を聴かせてほしかった。ご冥福をお祈りします。

 今日の写真はそのときのプログラムの一部。日焼けした顔、満面の笑顔が忘れられない。 


| 日々つづれ織り | 15:24 | - | -
ユジャ・ワン
 またまた毎月のことながら、集中的な取材と締切り地獄の日々が巡ってきた。
 東日本大震災の影響から来日アーティストは大幅に減っているが、それでもコンサートは徐々に増え、チャリティ・コンサートが多数組まれている。
 雑誌が相次いで出版されるのもこの時期だ。まず、今日は「音楽の友」5月号が届いた。
 この号では、中国出身で現在はアメリカで研鑽を積みながら国際舞台で幅広く活躍している新進気鋭のピアニスト、ユジャ・ワンのインタビュー記事が掲載されている。
 彼女は3月に来日公演を行い、テクニック、表現力、音楽性ともに度肝を抜くようなすばらしく高度な演奏を披露し、聴衆をうならせた。
 インタビューでもっとも驚いたのは、その留学秘話。10代前半のときに両親がアメリカへの飛行機の片道切符を渡し、ひとり旅立たせたのだそうだ。ことばもわからない、食べ物は苦手、だれも知り合いがいない国に送り出され、途方に暮れたそうだが、「私には音楽があった」といい切った。
 これは日本の両親はとてもまねできないことではないだろうか。中学生になったばかりの子をひとり異国へと留学させるなど、心配でできないと思う。中国の両親は、まさに「かわいい子には旅をさせろ」を実践したわけだ。
「だから私はがむしゃらにことばを覚え、友だちを作り、音楽院になじもうと最大限の努力した」という。うーん、すごい。
 そしてめきめきと頭角を現し、16歳でマネージャーが付き、本格的なコンサート活動を開始し、やがてドイツ・グラモフォンと契約する。
「中国にいたときからイエローレーベルのCDを先生に聴かせてもらっていたので、このレーベルと契約できて夢がかなったわ」
 にこにこしながら、サラリと答える。
 演奏中は類まれなる集中力と緊迫感をただよわせているユジャ・ワンも、素顔はおだやかで自然体。だが、一本芯の通った強さも感じさせる。
 彼女は努力する、視野を広く持つ、練習を怠らない、前進あるのみということばを次々に並べた。そして恵まれている自分におごることなく、勉強を続けたいと語った。
 このときはミニスカートに皮ジャンをはおり、写真撮影のために着替えも用意していた。写真もこまかくチェック。「嫌いな写真が載るのはイヤなの」と、私のブログ用の写真も「見せて見せて」とのぞきこんだ。

 今日の写真はそんな彼女がオーケーを出した1枚。もっとはじけているほうが私は好きだったのだが、ユジャはおとなしいほうをセレクトした。

| ああ愉しき(?)、締切り地獄 | 22:20 | - | -
ギドン・クレーメル・トリオ
 先日のドミンゴに続き、今日もまた胸の奥があまりにも強い感動で痛くなるほどのコンサートを聴くことができた。
 ヴァイオリンのギドン・クレーメルと、リトアニア出身でクレメラータ・バルティカのメンバーとしても活躍しているチェロのギードゥレ・ディルバナウスカイテと、当初決まっていたピアノのカティア・ブニアティシヴィリに変わって急きょ来日を決意したヴァレリー・アファナシエフというメンバーによるトリオの夕べである。
 彼らは震災直後より福島原発の深刻な状況から、何度も「来日を断念せざるを得ないかもしれない」と日本側に伝えてきたそうだが、最終的にはこういうときこそこれまで培ってきた日本の人々との友情を大切に考え、人々を支えたい、手を貸したい、力になりたいと考え、来日を決意したという。
 そんな思いがステージでは静かに熱く燃える音楽となり、J.S.バッハの「シャコンヌ」も、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番も、ショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番も、心に突き刺さってくるほどの強靭な音楽として奏でられた。
 クレーメルの慟哭し、嗚咽し、心の叫びを吐露するようなヴァイオリンに硬質でクールで精神性の高いアファナシエフの完璧なるピアノが寄り添い、このふたりの鬼才に若々しく真摯なディルバナウスカイテのチェロが和すと、えもいわれぬ味わい深いトリオが生まれる。
 彼らはプログラムに日本の人々へのメッセージを寄せたが、ステージではことばは用いず、音楽だけで深い思いを伝えた。
 海外では、日本の深刻な状況が日々報道され、衝撃的な映像も流されているという。各国の政府が渡航自粛勧告をしており、家族や周囲の人々も心配のあまり日本に行って演奏することに強い反対をしているという。
 そんな状況のなか、来日を決意してくれた彼らには、感謝の気持ちでいっぱいだ。音楽は幾多のことばよりも雄弁に気持ちを伝えてくれた。
 ギドン、ギードゥレ、そしてヴァレリー、あなたたちの心豊かな優しい気持ち、熱き友情は決して忘れません!!
 
 
| クラシックを愛す | 23:38 | - | -
名古屋フィルハーモニー交響楽団
 週末は名古屋フィルの定期公演のコンサート評を書くために、名古屋に出張した。
 4月15、16日の両日の第379回定期演奏会で、指揮者はバーンスタイン最後の弟子のひとり、アメリカのドリアン・ウィルソン。ソリストとして参加したのはウクライナ出身で2010年の仙台国際音楽コンクール優勝のピアニスト、ヴァディム・ホロデンコだ。
 実は、12日にホロデンコにインタビューをし、6月2日に浜離宮朝日ホールで行われる「第4回仙台国際音楽コンクール・ピアノ部門優勝リサイタル」の話を聞いたばかり。彼は大好きなメトネルとプロコフィエフという組み合わせでリサイタルを行うことになっている。このインタビュー記事は次号の「音楽の友」に掲載される予定である。
 今回の名古屋フィルのコンサートは「愛と死」シリーズの一環で、R.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」で幕開け、次いでホロデンコをソリストに迎えてリストの「死の舞踏」が演奏され、後半はプロコフィエフのバレエ「ロメオとジュリエット」という聴きごたえ十分な選曲。
 ウィルソンはバーンスタインの弟子らしく、師をほうふつとさせる踊るような指揮ぶり。名古屋フィルとはすでに共演を経験しているからか、両者のコミュニケーションは濃密だった。
 ホロデンコはあまり演奏される機会のないリストの作品を堂々たるピアニズムで聴かせ、コンクール時よりも一層磨きのかかったテクニック、表現力を披露し、自身が編曲したアンコールも2曲聴かせた。
 彼はインタビュー時に語っていたが、ラフマニノフ、プロコフィエフ、メトネルなどのロシア作品が大好きで、自然な形で楽譜と対峙できるという。特にメトネルは長年埋もれていた作品が多く、それに光を当てることに意義を感じているそうだ。
 名古屋フィルの会場である愛知県芸術劇場コンサートホールは、広さ、客席の配置、ステージの位置などがとても親密的なスタイルに形作られていて、ステージ後方の席も間近に感じられた。
 多くのコンサートが中止となっている時期だけに、この場所で、日本のオーケストラと来日したアーティストとの共演を聴くことができ、とても印象深い一夜となった。コンサート評は、次号の名古屋フィルの定期演奏会のプログラムに掲載されることになっている。
 なお、ホロデンコは仙台のコンクール出身者だけに被災地の人々の心配をし、心を痛めていた。それだけに、演奏には心がこもっていた。

 今日の写真はインタビューのときのホロデンコの様子。「仙台はぼくの故郷のようなところ」と語っていた。

| 日々つづれ織り | 22:52 | - | -
プラシド・ドミンゴ・コンサート
 昨夜、「プラシド・ドミンゴ コンサート・イン・ジャパン2011」をサントリーホールに聴きに行った。
 ドミンゴのコンサートはいつもそうだが、着飾った聴衆が多い。
 だが、今回は東日本大震災により海外の多くのアーティストの来日中止が続くなか、日本人の深い悲しみに寄り添い、明日への希望の光を灯すために来日を決意したドミンゴの強い思いを受け止めるため、みな静かに開演を待っていた。
 今回、ドミンゴはアルゼンチン出身のソプラノ、ヴァージニア・トーラと長年組んでいる指揮者ユージン・コーンとともに来日。日本フィルハーモニー交響楽団と共演し、第1部は「ヴェルディの作品から」、第2部は「わが愛しのウィーン」と題したプログラムを披露した。
 そして第1曲目の「シモン・ボカネグラ」のシモンとアメリアとの二重唱から全力投球。いつものようにオーケストラの短い序奏の間にストンと役に入り、あたかもオペラの舞台を思わせるような演技と表現力を見せながら、力強い歌声を聴かせた。
 前半は「エルナーニ」「トロヴァトーレ」「オテロ」のアリアや二重唱が重々しく、深く、熱く歌い上げられ、ドミンゴのこのコンサートに対する心意気が伝わり、胸が痛くなるほどだった。
 後半はガラリと雰囲気が変わって、レハールやカールマン、ジーツィンスキー、ヨハン・シュトラウス2世の陽気でかろやかなオペレッタが次々に登場。ドミンゴの得意とする「メリー・ウィドウ」の「ハンナとダニロの二重唱」ではトーラとのダンスも披露し、会場はやんやの喝采に包まれた。
 しかし、この夜はアンコールがすごかった。プログラムが全部終了したのが21時15分。それから鳴り止まない拍手に応えて、「ベサメムーチョ」や十八番のサルスエラ「そんなことはありえない」などが歌われ、デュオも登場。さらに「日本のみなさんに哀悼の意を表します。音楽が生きるための活力と癒しの一助になることを願っています」ということばとともに日本の歌曲「故郷」を歌いましょうと呼びかけ、全員の合唱となった。
 私のまわりでは、ハンカチを目にあてる女性が続出、男性までも目頭を押さえながら歌っている。なんと感動的な瞬間だろう。
「ドミンゴさん、ありがとう。この夜のコンサートは生涯忘れません」
 私はこう胸のなかでつぶやいた。これまで何度もいろんな土地でドミンゴの歌は聴いてきたが、この日の彼の歌声は、人を元気づけようとする強靭な意志の力がみなぎっていた。
 1日たったいまでも、ドミンゴの温かな眼差しと全身全霊を傾けた歌唱が心の奥に宿り、涙がこぼれそうになる。
 アンコールがすべて終わって終演を迎えたのは21時55分、ほとんど22時だった。3時間にわたって歌い続けたプラシド、本当にありがとう!!
| 日々つづれ織り | 21:31 | - | -
ムーラ・リンパニー
 インタビュー・アーカイヴ第6回は、デイムの称号を持つイギリス出身のピアニスト、ムーラ・リンパニー(1916〜2005)の登場。初めてのインタビューは初来日の1992年だった。

[FMfan 1992年5月11日〜5月24日号 No.11]

だいぶ前に演奏活動を再開したら、もういまは忙しくて

 4月3日に行われたリンパニーのオール・ショパン・プログラムのリサイタル終了後、だれからともなく「すごい、どうしてあんなに若々しい演奏ができるのだろう…」というためいきまじりの声が漏れた。
 ムーラ・リンパニーはいま75歳。「伝説のピアニスト」といわれた彼女は、今回初来日である。その演奏は叙情的でかろやかで、彼女の内から湧き出てくる人間的なぬくもりというような温かさに満ちていた。
 この日リンパニーは疲れも見せず、15分もアンコールにこたえた。

――どうしてこんなに長く日本にいらっしゃらなかったのですか?
リンパニー 私は結婚してから長い間家庭に入っていて、半引退のような状態が続いていたのです。でも、だいぶ前本格的に活動を再開したら、もういまは忙しくて忙しくて、あちこち演奏旅行に飛び歩いているんですよ。マーゴット・フォンテインが晩年になればなるほどからだが軽くなり踊りやすくなったから、踊れなくなるまで踊るといっているように、私も自分が納得いく演奏ができるうちはずっと弾いていきたいと思っています。
――この間ラフマニノフの録音が出ましたが、レコーディングも今後数多くなさる予定ですか?
リンパニー 依頼があればね。私は若いころ、シュワルツコップのご主人であるEMIのプロデューサー、ヴォルター・レッグ氏にドビュッシーの『前奏曲』全曲を録音しないかといわれたことがあったの。でも、そのときはギーゼキングがすばらしい録音を残しているじゃないの、といって断ってしまった。そしたらしばらくして、彼が今度はショパンの『幻想曲』を入れないかっていうの。そのときもコルトーが入れているじゃない、あれ以上には弾けないわ、といって断ってしまった。いまから考えると、惜しいことをしたと思っているの(笑)」
――ハチャトゥリアンに出会ったのもそのころですか?
リンパニー そうです。彼は初めて会ったころは髪がまだ真っ黒で、野性的な雰囲気を持っていました。私はそのころよく“エレガントな演奏をする”といわれていたのですが、1度だけロンドンでハチャトゥリアンとコンチェルトで共演したときは、エレガントどころではなく、ものすごく興奮して野性的な演奏をしたことを覚えています。
――エレガントな演奏をするというのは非常に難しいことですが、それにはどんな要素が必要となってくるのでしょうか。
リンパニー かろやかさも必要ですし、シンプルでなければならないでしょうね。これはいつも議論の対象となることなんですよ。
――いまお住まいはモンテカルロですよね。
リンパニー ええ、もうひとつスペインの国境近くのフランスの小さな村にも家があり、そこでは毎年『ワインと音楽』という音楽祭を主催しています。去年はソプラノのヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスがきてくれたんですよ。私は本当はね、庭師になりたかったんです。それでその村の丘をひとつ買って、自分が植えたかった木や花を全部植えて楽しんでいます。

 リンパニーはお料理が大好きだそうで、この話になったら止まらなくなってしまった。カタツムリがワインに合うとか、日本でてんぷらのおいしさに目覚めたから、帰ってから作ってみるとか…。またすぐにでも来日して“エレガントな演奏”を聴かせてほしいと思う。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。この初来日時にはイギリス大使館で歓迎の立派な食事会が開かれ、そこにご招待いただいたのだが、リンパニーは居合わせた全員が愉しく歓談できるよう、ずっとこまやかな気配りをしていた。彼女の歓迎の晩さん会なのに、なんという優しい心遣いなのだろう。食事もおいしかったが、リンパニーの人柄のすばらしさに心打たれ、いまでもその記憶は鮮やかに残っている。 



 
| インタビュー・アーカイヴ | 16:50 | - | -
ルネ・フレミング
 インタビュー・アーカイヴ第5回は、「メトロポリタン・オペラの華」と称されるソプラノのルネ・フレミング。偉大な歌姫なのに気さくで、とても温かい人柄。笑顔もとてもチャーミングだった。

[marie claire 2001年8月号]

できる限り長く歌い続けたい

 いま、世界のオペラハウスから引っ張りだこの人気ソプラノ、ルネ・フレミングがメトロポリタン・オペラの来日公演でR.シュトラウスの「ばらの騎士」の元帥夫人を歌うために初来日を果たした。
 このオペラは18世紀のウィーンの貴族生活が舞台。そこで起こる情事や恋がオペラ・ブッファ(喜歌劇)的に描かれている。音楽もまさに優雅で官能的、聴くものを酔わせる。
「でも、歌うのはとても難しいの。元帥夫人の役はさまざまな女の感情を表現しなくてはならないでしょ。初めて歌ったのは6年前だけど、それから現在まで自分の私生活の変遷も影響し、ずいぶん歌いかたが変わってきたわ。最初は技巧ばかりに目がいっていたけど、いまは役柄の解釈と表現力に集中するようになった。いかにしたら聴衆とコミュニケーションがとれるか、それを第一に考えるようになったのよ」
 両親はともに声楽の先生。歌手になるのは当然といった家庭環境だったが、子ども時代は引っ込み思案で社交も苦手。本ばかり読んでいるような子だった。
「人前で歌うなんて考えられなかった。でも、音楽は好きだったから音楽大学に進んだんだけど、実はジャズも歌っていたの。でも依然人前で歌うのが苦手で、音楽の先生になろうと大学院に進み、そこでクラシックの奥深さに目覚めたというわけ」
 やがてメトロポリタン・オペラで歌うことが夢となり、舞台で主役を歌い、演じるようになる。
「いまも緊張しっぱなしよ(笑)。でも、できる限り長く歌い続けたいと思っているの。声の成熟に合わせて役を選びながらね。夢は『椿姫』のヴィオレッタを歌うこと。私の声はふつうと逆で高音よりも中低音の発達が遅いので、『マノン』もようやく歌えるようになったの」
 新譜「ドラマティック・オペラ・アリアズ」は、そんな彼女がいまもっとも得意とするオペラ・アリアが詰まっている。フレミングは演技力も高く評価されているが、ここでも各役を歌い分けている。
「私、声楽の先生に『鉄の芯を持った自然の母』といわれたことがあるの。外見と違うでしょ」
 彼女は出産後2週間で、ドミンゴと『オテロ』のリハーサルを始めた根性の持ち主。その歌声も芯の通った感情豊かなものだ。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。フレミングは東京・原宿の様子をアメリカのテレビで見たそうで、ぜひ来日したときには訪れて買い物をしたいと思っていたという。しかし、原宿では好みの物が見つからず、青山でブラウスを購入したそうだ。「素敵なデザインで、とっても安かったの!」。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:00 | - | -
アリス=紗良・オット
 アリス=紗良・オットはいつ会っても元気はつらつ、演奏も迷いがなく、自分の信じた道をひたすら邁進している。
 その潔さ、前向きな姿勢、性格のユニークさは強烈な個性となって、「アリス=紗良・オット」というピアニストを際立たせている。
 彼女は幼いころからいい出したら聞かない性格で、両親はたいそう子育てに苦労したそうだ。ドイツ人の父親と日本人の母親のもとミュンヘンに生まれた彼女は、3歳のころからピアノを習いたいといい続けた。まだ早いと考えていた両親は反対したが、あまりにも強いアリスの要求についに根負けし、ピアノのレッスンを始めさせてくれた。
 そんな彼女は5歳で「将来はピアニストになる」と決意、それを貫き通す。さまざまな国際コンクールで賞を受け、19歳のときに幼いころから憧れていたドイツ・グラモフォンと契約、2008年にリストの「超絶技巧練習曲」でCDデビューを果たした。
 以後、国際舞台で活躍、名だたる指揮者、オーケストラと共演を重ね、日本でも数多くステージに立っている。
 デビュー当初は日本語がまだそんなに得意ではなく、難しい部分になると母親に通訳してもらっていたが、いまではすっかり上達し、難しい慣用句も用い、ジョークも連発し、すっかりリラックスした様子でインタビューに応じるようになった。
 彼女は、会う人みんなを元気にさせるような不思議なエネルギーを発している。気どりがなく、素直で、自然体。
 子どものころはすさまじいいたずらばかりして両親を困らせたそうだが、いまはそのエネルギーがすべて音楽に向いている。
「でも、私は昔から自分のアイデンティティーはどこにあるのかと、いつも悩んでいました。完全なドイツ人でもなく、日本人でもない。中途半端な自分をもてあまし、自信が持てず、落ち込むことが多かったんです。自分の本当の居場所はどこだろうと、常に探し求めていました。でも、ピアノを弾いているときだけは、自分の存在を確信することができた。自分の居場所はここだと思えたのです。音楽がなかったら、私はきっとうまく成長できなかったと思います。いまの自分があるのは、音楽のおかげです」
 現在、アリスは超多忙な演奏活動のなかで自信あふれる演奏を行い、ドイツと日本のいい面を受け継いだことに誇りを持ち、明るい笑顔を見せる。
「私は辰年生まれのしし座で、じゃじゃ馬娘なんです。本来の性格は負けず嫌いの一本気。反対されればされるほど燃えるタイプで、本当にいい出したら一歩も引かない。レコード会社の人もマネージャーもそれを理解してくれ、自由にさせてくれますが、本当は困惑しているでしょうね(笑)」
 だが、大変な努力家で自分が主張したことの責任はきちんととる。練習魔でもあり、演奏できっちり成果を示す。
 これまで多くの雑誌で記事を書いてきたが、アリスの原稿を書くのは実に楽しい。自己主張が強いのに、妙に遠慮したり、ときどき気弱になったり、とても正直だから。それゆえ、原稿を書きながらついにんまりとしてしまうことがある。
 彼女の演奏はずっ聴き続けていきたい。そのつど、大きなステップを駆け上がるような成長を見せてくれるから…。

 今日の写真は昨年冬のインタビュー時のもの。記事は「音楽の友」の2010年12月発売号に掲載された。

| アーティスト・クローズアップ | 22:59 | - | -
フランシスコ・デ・ゴヤ
 1枚の壁画を見に行くという旅をすることがある。私はジョットとフラ・アンジェリコが好きなのだが、これらの壁画は当然のことながらそこに行かなければ見られないわけで、そのフレスコ画は強い引力を持って旅へと誘う。
 今冬のトラブル続きのスペインの旅では、マドリードの「ゴヤのパンテオン」に出かけた。
 ゴヤの自由自在な天井画と壁画が見られるサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂で、「5月3日」の銃殺が行われたプリンシペ・ピオの丘近くに位置している。
 礼拝堂は地下鉄のプリンシペ・ピオ駅から徒歩7分ほどのところにあり、ふたつある聖堂の南側がゴヤのパンテオン(霊廟)で、あまり人が訪れないのか、非常にゆっくりと屈指の名画「パドヴァの聖アントニウスの奇蹟」を中心とする全14場面の連作を見ることができた。
 ゴヤはこの大作を一気呵成に約4カ月という短期間で仕上げたという。外界とは遮断された静謐な場所で見上げるようにして鑑賞した天井画と壁画は、聖アントニウスや天使などがいま描かれたような生き生きとしたタッチ、鮮やかな色彩で存在し、時間を忘れるほどの感動をもたらした。
 こういう絵を見ていると、私はいつもどこからか美しく清涼な音楽が聴こえてくるような錯覚を覚える。このときは、アントニオ・ソレールのチェンバロ作品が浮かんできた。日常から離脱し、天上の世界へと心が飛翔するからだろうか。
 堂内には祭壇下にゴヤの墓が置かれていた。ただし、骨相学研究のため首を盗まれてしまい、首のないゴヤの墓となっているそうだ。
 この礼拝堂の前の道路をはさんだ公園には、礼拝堂をじっと見据えるゴヤの像が建てられていて、自身の墓を見守っている。
 近くに寄って顔の表情を見ると、ゴヤは墓に詣でる人たちを眺めているように思えた。
 もう1か所、サン・フランシスコ・エル・グランデ聖堂に足を伸ばし、小祭壇のひとつを飾る「アラゴン王アルフォンソ5世の前で説教するシエナの聖ベルナルディーノ」を見に行った。
 実は、この聖堂のなかはとても広くうす暗く、その絵はすぐには見つからなかった。聖堂内部を拝観していたとき、案内をしている男性が近寄ってきて、「ゴヤに会いたいかい?」と耳打ちした。
 私は「ええ、もちろん!」と答えると、その男性は「着いておいで」と合図し、ある祭壇の前に案内してくれた。そして脇のスイッチを押してこの祭壇画を照らし出したのである。
 そこには岩の上に立つ聖人ベルナルディーノを頂点とした、ピラミッドの構図の絵が輝かしく荘重さをもって描かれていた。そして男性が指差した。
「ほら、ゴヤがいるよ」
 もちろんこの絵は写真などで見て知っていたが、大きな画面の右端にアラゴン王の従者に扮したゴヤ自身がこちらを向いて立っている様子は、まさにリアリティあふれるもので、絵のなかでそこだけ異なった光を放っているように感じられた。これが画家の存在感の強さだろうか。
 今回のゴヤの絵は、やはり現地に行かなければ会えないもので、問題の多い旅だっただけに非常に印象が強かった。
 また、1枚の絵に会いに行く旅をしたい。

 今日の写真は上がサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂、中が聖堂前のゴヤの像、下がサン・フランシスコ・エル・グランデ聖堂。





| 麗しき旅の記憶 | 22:42 | - | -
東京・春・音楽祭
 今日は久しぶりにコンサートに出かけた。「東京・春・音楽祭」の「工藤すみれ チェロ・リサイタル」である。
 これは東京文化会館小ホールで午前11時開演というものだったが、ほぼ満席で、現代作品が多いにもかかわらず、聴衆は本当に熱心に聴き入っていた。
 工藤すみれは2002年に創設された「斎藤秀雄メモリアル基金賞」の2005年の受賞者。2001年から2006年までアヴァロン弦楽四重奏団のチェリストとして欧米で活躍。2003年ニューヨークを拠点とする現代音楽グループcounter inductionの一員となり、2006年からはニューヨーク・フィルハーモニックのチェリストを務めている。
 こうしたさまざまな活動が彼女の音楽を成熟させ、テクニックと表現力と音楽性を磨き上げたのだろう。今日の演奏はいずれの作品も自信に満ち、自分の歌を明確に歌いあげていた。
 とりわけ印象に残ったのは最後に演奏されたバーバーのチェロ・ソナタ ハ短調 作品6で、ピアニストの中野翔太との音の対話が実に雄弁だった。息の長い旋律を両者が互いの音を注意深く聴きながら和し、しかもしっかりと自己を主張していく。
 第1楽章はロマン主義的ななかにも重厚さを見せ、第3楽章は情熱的でアグレッシヴ。間にはさまれた第2楽章は、瞑想的な空気をただよわせながら美しい緩徐楽章をゆったりと聴かせる。
 この第2楽章の中間部には16世紀のイタリアの速い3拍子の舞曲サルタレロが顔をのぞかせるが、この部分が今日の白眉だった。実に生き生きと、躍動感にあふれ、工藤すみれのいまの心身の充実を表していたからである。
「東京・春・音楽祭」は3月18日に開幕したが、今回は東日本大震災の直後だっただけに、中止となったコンサートが多かった。私は3月26日の演奏会の「ショパンとプレイエル」と題した原稿をプログラムに寄せたが、このコンサートも中止と決まった。
 今後この音楽祭は、チャリティコンサートがいくつか組まれている。
 そのなかで、久しぶりに聴く若きチェリスト工藤すみれのみずみずしい演奏は、非常に心に響いた。彼女は1999年と2000年にフィリップスからCDをリリースしているが、そのときの演奏よりなおいっそう主張が強くなった。アメリカで積み上げたものが、大きく花開いた感じだ。彼女の演奏をぜひニューヨークで聴きたい、そんな思いを新たにした。 

 
| 日々つづれ織り | 22:56 | - | -
フランチェスコ・トリスターノ
 新しい才能の出現にはいつも心が高揚するような思い抱くが、ルクセンブルク出身のピアニスト、フランチェスコ・トリスターノの音楽との出合いも、胸がこの上なく高まるものだった。
 トリスターノは昨年2月、東京で2種類のプログラムを披露した。ひとつはJ.S.バッハ、ストラヴィンスキー、ハイドンに自作を加えた多様性に彩られたもので、もう一方はオール・バッハ・プロ。
 いずれも鍛え抜かれたテクニックとみずみずしい表現力を備え、聴き手の心の奥深く浸透してくる強烈なピアニズムで、これまで聴いたどのピアニストとも異なる特有の個性を発していた。
 彼はクラシックのみならず、現代作品からジャズ、テクノまでジャンルを超えて幅広く演奏する。しかも、それぞれのジャンルにおいて高い評価を受け、すばらしい共演者を得ている。
 そんなトリスターノがユニバーサル・クラシック&ジャズと契約し、グラモフォン・レーベルからメジャー・デビューすることになった。5月25日には「bachCage」と題したアルバムをリリースする。このライナーノーツを書いたため、いち早く音を聴かせてもらったが、まさにトリスターノらしい斬新で知的で革新性に満ちた演奏が全編を覆っている。
 選曲はバッハとジョン・ケージを組み合わせ、自作を2曲プラスした、まさに「フランチェスコの世界」を濃厚に描き出したもの。現代作品も自作も気負いなく自然に聴かせてしまうところが、この人の強みだ。
 そして6月には待望の再来日を果たす。6月7日(火)にはHakju Hallで、6月30日には津田ホールでコンサートが行われ、両日とも19時開演。
 今回のプログラムはCDとリンクした内容で、トリスターノの「いま」が存分に味わえることになっている。
 トリスターノは日本にきて一気に大ファンになってしまい、というより「ハマった」というべきか。ふつうの旅館で布団を敷いて寝たいといい、お寿司やてんぷらやすき焼きなどではなく、居酒屋の揚げ出し豆腐とゆず胡椒に舌鼓を打ち、町の銭湯に行っておおはしゃぎ。なんともディープな日本体験を楽しんだ。
 一見モデル体型で、186センチの長身のやせ型。フワフワの巻き毛に小顔。いかにもヨーロッパ人だけど、素顔はきさくで気負いも気どりもなく、すぐにその場になじんでしまうタイプ。日本人に囲まれていても、何の違和感も感じさせない、とても不思議な人である。
 それは幼いころから母親に連れられていろんなところを旅してまわったことが影響しているとか。6カ国語を話し、日本語もすぐにいくつか覚えてしまった。
 今回の東日本大震災に関しては、とても心を痛めていて、すぐにでも飛んできたい様子を見せている。「ぼくは大地が動こうが、放射能が降ってこようが、絶対日本に行って演奏する。被災地にも行きたい」といっている。
 なんていい人なんだろう。これこそ本物の日本好きだ。そんなフランチェスコの演奏、ぜひ聴いてみて。きっと心が通い合うと思うから。

 今日の写真は昨年のインタビューのときに撮った1枚。ちょっと横を向いているけど、これはカメラマンに「どっち向いたらいい?」と聞いているため。その自然な表情を私がパチリ。

| 情報・特急便 | 21:10 | - | -
松田理奈
 現在、日本とドイツで演奏活動を行い、ニュルンベルク音楽大学で教授アシスタントを務めているヴァイオリニストの松田理奈は、16歳のときにトッパンホールのデビュー・シリーズでイザイの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」の第2番と第4番を演奏し、10年後にこの作品の全曲演奏をしたいと夢見るようになった。
 それが26歳になる1年前に実現、昨年全曲録音を完成させた(ビクター)。
 彼女は自他共に認める「直感人間」。演奏も瞬間のひらめきに満ちたもので、自身が楽譜から読み取ったものをそのままストレートに表現。自然で前向きで迷いがない。
 だが、留学先のニュルンベルク音楽大学で師事したダニエル・ゲーデにこれまでの考えをくつがえされ、また、きびしいレッスンを課せられ、演奏が大きな変貌を遂げていく。
 そんな彼女が長年夢見てきたイザイの無伴奏作品に挑んだわけだが、あまりにも集中したため、「イザイやせ」をしたという。
 松田理奈は、そういう話をするときもおだやかな表情と柔和な語り口を失わないが、実は子どものころに学校で大変な「いじめ」に遭っている。
 その辛さから救ってくれたのがヴァイオリンであり、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタだったそうだ。
 いまは自分が経験したことを生かし、同じ悩みを抱えている子どもたちに何かできないかと考慮中。まずは、そうした子どもたちに楽器を送ることを実践したいと語る。
 このインタビューは「日経新聞」の2010年12月16日夕刊に掲載され、またCDのライナーノーツも書いた。

 今日の写真は、「不思議な安心感を抱くことができる作品」というイザイの楽譜と一緒にパチリ。
 音楽は苦難にあるとき、ストレスを抱えたとき、悲しみの淵に沈むときなど、さまざまな場で人々の救いとなるものである。松田理奈がモーツァルトの作品に救われたように、このイザイを聴いた人が、少しでも前に進む力が湧いてくれることを願って…。

| アーティスト・クローズアップ | 21:08 | - | -
プラシド・ドミンゴ
 地震の影響でコンサート中止が続くなか、うれしいニュースも届いている。
 ズービン・メータがNHK交響楽団を指揮してチャリティー・コンサートを行い、ベートーヴェンの交響曲第9番を演奏することが決まった(4月10日、東京文化会館)。
 マルタ・アルゲリッチも5月8日から19日までの「別府アルゲリッチ音楽祭」を通常通り開催するために来日し、8日には「ピノキオコンサートスペシャルatホテルオークラ東京〜子どもと大人のための音・学(おんがく) ピアノ界の巨匠 マルタ・アルゲリッチが贈るメッセージと音楽〜」と題した公演を行うことになった。
 そして親日家で知られるプラシド・ドミンゴは、4月10日(NHKホール)、13日(サントリーホール)に開催される「プラシド・ドミンゴ コンサート イン ジャパン 2011」で歌うため、来日することを発表した。まさに勇気づけられるニュースだ。私は13日に聴きに行くことになっているが、きっといつものコンサートとはまったく異なり、心に強い印象をもたらすものになるに違いない。
 そこで、「インタビュー・アーカイヴ」第4回はドミンゴの登場。彼には何度かインタビューをする機会があったが、常にサービス精神旺盛、雄弁でおおらか。会った人をみな幸せな気分にさせてしまう天才だ。

[フィガロ・ジャポン 1995年11月20日号]

3大テノール日本公演

オペラ・ファンが待っていた世界ツアーが日本からスタート!

「まだプログラムはまったく決まっていないんですよ。でも、パヴァロッティは絶対『だれも寝てはならぬ』は私とカレーラスには歌わせないし、私たちだってパヴァロッティには『グラナダ』は渡せない、という暗黙の了解みたいなものはあるんです。あとはたくさんのオペラや民謡、歌曲のなかから自由に歌いたいものを持ち寄って、喧嘩しながら決めるといった感じかな」
 8月に来日したドミンゴは、来夏のツアーに関して笑いながらこう語った。
 彼らはレパートリーが似通っている。それゆえライバルなどといわれた時期もあったが、現在はよき友。一緒に歌うと相手の体調を気遣うという。

世界最高峰の歌手が織りなす、上質なステージは楽しさの極致

「テノールというのは、のどを大切にしないと長年歌えない。若いころはかろやかで叙情的な役を歌っているんだけど、だんだん重く劇的な役を歌うように声が変化していくのがふつう。だから3人ともいまではかなりドラマティックな重い役を歌っているんだよ」
 この3人、ひとくちにテノールといってもまったく歌いかたも声質も異なる。
パヴァロッティは天性の美声を持って生まれてきた人で、のびのある明るい声が特徴。カレーラスはひたむきな歌唱、全力投球型の演技で母性本能をくすぐる。そしてドミンゴはまるで俳優のような存在感と、迫力ある歌声で聴き手の心をとらえる。彼はオーケストラの演奏が始まる数分間で、ストンとその役になりきる名人である。
「オペラの舞台では完全にその役になって歌うからいいけど、こういう3人で一緒にいろんな曲を歌う場合は、瞬時に役になりきるのがとても難しい。でも、それがオペラ歌手としての醍醐味でもあるわけだから、その部分に一番気を使うけどね。これはたぶん日々の鍛錬と慣れが影響するのかもしれない」
 ドミンゴは悲劇のヒーローから威厳のある王、嫉妬に狂う男までなんでもござれのオールラウンダー。そしてちかごろはクラシックばかりではなくジャンルを超えてさまざまな曲にトライし、持ち前の起用さを発揮している。
「一番好きなのは苦悩する役。どうにもならないほど悩む役がいい。私生活ではそうならないように願ってね」
 さて、東京ではどんな歌で酔わせてくれるだろうか。
 ドミンゴは「ふだんクラシックを聴かない人でも絶対楽しめる」と自信満々。プロ根性をかいま見せた。

 今日の写真はその雑誌の一部。実はこのインタビュー時、運ばれてきたコーヒーがものすごく熱く、ひと口飲んだドミンゴは「アッチッチ」と、ネクタイにコーヒーをこぼしてしまった。
 インタビューの間中、そのシミを気にしてハンカチで拭いていたが、結局シミは残ってしまった。それゆえ、写真ではちょっと渋い顔をしている。



| インタビュー・アーカイヴ | 22:10 | - | -
コリン・デイヴィス
 このたびの東日本大震災で亡くなった方々のご冥福を祈り、遺族の方々、被災者のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。
 いまは、こうした月並みなことばを並べることしかできない自分が歯がゆいですが、自分に何ができるか、何をすべきかをじっくり考え、行動に移したいと考えています。いまは自分の役割を精一杯果たすしかないと思っています。


 さて、長い間お休みしていたブログを再開することにした。「インタビュー・アーカイヴ」の第3回は指揮者のコリン・デイヴィスの登場。彼は1980年にイギリス音楽界における貢献により、ナイト(Sir)の称号を受けている。

[FMレコパル 1991年8月19日〜9月1日号 No.18]

物語のなかへと誘う、大きく包み込まれるような演奏
 


「魔弾の射手」の序曲は、これから始まるボヘミアの森を舞台とした愛の物語に、有無をいわせず引き込んでしまう強い引力を持った曲である。
 これをデイヴィスはゆったりとしたテンポで、各楽器を存分に鳴らしながら徐々に聴き手を物語のなかに誘導していく。
 この序曲を聴いただけでもデイヴィスらしさが十分に感じられる。彼は決してオーケストラにも歌手にもせわしない演奏を要求しない。
 前作の「サムソンとデリラ」もそうだったが、ここでも各アリアがのびのびとおおらかに歌われているのは、きっとデイヴィスのタクトがあくまでもゆったりと大きく包み込むように振られているからだろう。
 実際に会って話をしてみると、なおさらその感を強くした。
「若いころは私だってずいぶん目茶苦茶なことをしましたよ。クレージーなほど働きましたしね。年間ものすごい数のコンサートをこなしてきました。でも、もう64歳です。野心や金銭欲なんかまったくありません。音楽だけです。いまは働かないほうが調子がいいんです(笑)」
 もちろん、現在もスケジュールはいっぱいである。だが、年に4カ月間は家族とともに過ごし、一度のツアーも3週間以内にしぼっているという。
「日本は単身赴任者が50万人もいるんですってね。私にはとても信じられません。指揮者というのは常に多くの人を相手に仕事をしているため、エネルギーの消耗がはげしいんです。それを補給し、常に自分を新鮮に保つために、私にとって家族との生活は欠かせないものなのです」
 デイヴィスはじっくり読書をしたり、物を考えたりする時間が音楽家にとっては一番必要だと語った。
 若いころにオーケストラを次々と振り歩いていたときは、本当に音楽を感じ、心から楽しむ気持ちにはなれなかったと。
 この話を聞いてからデイヴィスの演奏に耳を傾けると、現在の彼の心情が痛いほどよく伝わってくる。

「大好きなウナギを、まとめて食べに行くかな」

「魔弾の射手」はドイツ民謡の精神を生かした真にドイツ的なオペラだといわれる。ウェーバーが音楽監督の地位にあったドレスデン・シュターツカペレは、443年という長い歴史と伝統を誇る名門オーケストラ。
 響きはあくまでも漆黒色をした深いドイツの森を連想させる渋い味わいを持っている。特に金管楽器がすばらしく、ここでの演奏も管のまろやかな深い響きに耳を奪われる。
 デイヴィスがこのオーケストラに初めて出会ったのは1980年のことだが、そのときはいわば両者とも恋に落ちたという状態だった。
「このオーケストラは1997年に創立450年を迎え、それを記念して世界中を演奏旅行する計画が立てられていて、ぜひ私にも参加をといわれていますが、まあそのときまで生きていられたらね、と答えてあります」
 ところで、デイヴィスといえばベルリオーズの権威者である。だが、本人はそういわれるのを好まない。
「だいたいね、ベルリオーズをエキセントリックでグロテスクなロマン派の化け物だといった、何か特別扱いする人が多すぎて困るよ。ベルリオーズは他の作曲家となんら変わることはないのに、美しい作品が多いし…」
 デイヴィスがベルリオーズを初めて聴いたのは22歳のとき。オラトリオ「キリストの幼時」の第2部だった。このときに鮮烈な印象を受け、以来ベルリオーズに傾倒していく。
 初めて「幻想交響曲」を振ったのは30歳のときだ。
 彼はしきりに自分の年の話をする。そしてついに「日本で生活すると食生活がいいから長生きできるんだってね。私はウナギに目がないんだが、ロンドンでは高くてなかなか食べられない。日本にまとめて食べに行くかな」といい出した。
 今後は巨匠的な重々しく歩む演奏に、少々脂っこさが加わるかもしれない。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。サー・コリン・デイヴィスは現在83歳。まだまだ元気に指揮活動を展開している。好物のウナギをたくさん召しあがっているからだろうか…。

| インタビュー・アーカイヴ | 17:52 | - | -
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