Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

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ジュゼッペ・シノーポリ
 1997年夏、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の本拠地、ゼンパーオーパーの指揮者室で、ジュゼッペ・シノーポリと向かい合った。
 ここは歴代の著名な指揮者たちの写真がずらりと額に入れて飾られている部屋。それらをバックに、シノーポリは「私がどんなにこの地位を栄誉あるものだと感じているか、おわかりでしょう」といった。
「インタビュー・アーカイヴ」の第16回は、そのシノーポリ(1946〜2001)の登場。話を聞いてからまもない2001年、まだまだこれから大きな仕事を成し遂げるという矢先、シノーポリはオペラを振っている最中に急逝した。訃報を聞いたときはことばを失い、いつまでも信じられなかった。本当に残念でたまらない。

[アサヒグラフ 1997年12月5日号]


「弦も管もすべてが美しい響きを持ってこそ、
アンサンブルが完全な調和を生み出すのです」
 


 イタリア出身の指揮者ジュゼッペ・シノーポリが、ドイツの古都ドレスデンにある名門オーケストラ、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の首席指揮者に就任したのは、1992年のことだった。それからはや5年、このオーケストラは往年の輝かしい響きを取り戻したと評判だ。
「このオーケストラは来年、創立450年を迎えます。長い歴史を持っているでしょう。昔はさまざまな作曲家が自作を振ったり、初演を行ったりして指揮台に立ったんですよ。ウェーバーもワーグナーも、また、R.シュトラウスも、みんなこのオーケストラで振ったものです」
 シノーポリはその時代の音をよみがえらせたいと願って、このオーケストラのシェフを引き受けた。彼が初めて彼らと共演したのは1987年。録音のためにドレスデンを訪れ、ブルックナーの交響曲を振った。
「確か、第7番だったと思います。その後、同じくブルックナーの第4番も指揮しました。当時はまだ社会主義の統治にあった時代で、オーケストラは録音を除いては、あまりいろんな指揮者のもとで演奏することはありませんでした。
 でも、私はすぐに昔の響きが伝統的に受け継がれていることに気づきました。特に弦楽器の、とてもかろやかで美しい音色におどろかされました」
 シノーポリは当時ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団の音楽監督の地位にあった。それでも、このオーケストラからの誘いにはすぐに応じた。それほど魅力的な音だった。
「私はドレスデン歌劇場管弦楽団の録音は昔から聴いていたんです。歴代の重要な録音をね。そこからは弦楽器がどのように弓を動かしているか、どのくらいの長さに弾くかなど、こまかい部分も聴きとれました。
 この弦の響きはウィーン・フィルやベルリン・フィルとはまったく違うものです。これはこのオーケストラが独特の弓の技術を代々伝えてきたからにほかなりません」 
 シノーポリはそれを維持しつつ、さらに踏み込んで昔の音をより鮮明によみがえらせたいと考えた。ウェーバーやシュトラウス時代の音を。ワーグナーが管楽器の美しさを称して「金の鉄砲」といった、その管楽器の音色も取り戻したかった。
「私は完全な調和を目指しています。弦も管もすべてが美しい響きを持ってこそ、アンサンブルが完全な調和を生み出すのです。ワーグナーは人を威圧するのではなく、軽く、しかも人を引き付けるフォルティシモが出せるこのオーケストラをとても気に入っていました。非常に調和のとれたフォルティシモだったわけです」 
 来年1月の来日公演では、こうしたドレスデンゆかりの作曲家の作品がプログラムに組まれている。
 ドレスデンは美しいエルベ川のほとりに位置する静かな町。第2次世界大戦で廃墟と化したものの、現在は宮殿も教会も劇場も、すべてが元の姿に復元され、町は中世のたたずまいを見せている。
 このオーケストラは町の象徴でもあるオペラハウス、ゼンパーオーパーを本拠地としている。ここはゴットフリート・ゼンパーが設計したイタリア・ルネサンス様式の劇場。ゼンパーがこだわり続けた形式、色調、絵画、彫刻なども現在、見事に再現されている。
「ドレスデンの人々はこまかいところまでこだわり、すべて原形のままに復元された。それがここの人々の気質なんです。ですから私も音楽にこだわりたい。日本ではドレスデンならではの美しい響きをお聴かせします。伝統の音を聴いて、心のなかでドレスデンへ旅してください」
 シノーポリはイタリア人だからイタリア・オペラが得意と思われがちだが、昔から目はドイツ、オーストリア方面に向けられていたという。
「私は10歳のときに《ドン・ジョヴァンニ》の舞台を見て、指揮者になることを決意したんです。モーツァルトのオペラが5つ振れれば、もう思い残すことはない。
 モーツァルトの語法を表現するのは非常に難しい。作品には大きな緊張感と強い光とデモーニッシュ、そして劇場性とシンメトリーの感覚が宿っています。しかし、よく見るとシンメトリックでない場面も存在する。それらは指揮をするときの基本ともなります」
 シノーポリの音楽は作曲家ならではの知的な分析力と楽譜の深い読みが特徴。彼はオーケストラから歌心を引き出す名人。調和のとれたアンサンブルと豊かな歌心に期待したい。

 このときはすぐそばにマイセンがあると知り、仕事仲間3人でオフの時間にタクシーを飛ばし、マイセン焼きを買いに行った。私は子どものころからモスグリーンが大好き。美しいグリーンで絵付けされたティーカップを見つけ、すぐさま購入。いまでは大切なお客さまがあると、このカップにお取り寄せのおいしい紅茶を入れてお出しする。これまでみんなが大感激してくれ、必ず「おかわりっ」という。
 今日の写真はそのマイセンのティーカップ。これを見るといつもシノーポリの一生懸命インタビューに答えてくれた顔が浮かんでくる。
 もう1枚はそのときの雑誌の一部。偉大なマエストロたちの写真の前でシノーポリが誇らしげにポーズをとってくれた。



| インタビュー・アーカイヴ | 23:25 | - | -
ディミトラ・テオドッシュウ
 9月に待望の5度目の来日公演を行うイタリアの名門オペラハウス、ボローニャ歌劇場は、今回ベッリーニ「清教徒」、ヴェルディ「エルナーニ」、ビゼー「カルメン」という3演目を予定している。
 そのなかで、「エルナーニ」のエルヴィーラ役を歌うのがギリシャ出身のソプラノ、ディミトラ・テオドッシュウ。彼女は、輝かしくドラマティックで力強いコロラトゥーラの技巧で世界を魅了している。
 そこで「インタビュー・アーカイヴ」第15回はテオドッシュウの登場。ちょうど10年前にインタビューした貴重な記録である。

[ぴあ 2001年6月11日号 906]

マリア・カラスの再来!? 
フェニーチェ歌劇場の「椿姫」に登場

「私ね、6歳のときに初めてオペラを見て、オペラ歌手になるんだと心に誓ったの。でも、音楽を勉強する機会はまったくなく、本格的に歌を学び始めたのは25歳からなのよ」
 いまや各地のオペラハウスから引っ張りだこの人気ソプラノ、ディミトラ・テオドッシュウはこれまでの経緯を率直に話す。
 彼女は21歳でギリシャを出てドイツに渡り、仕事をしながら音楽を学び始める。
「オフィスワークをしながら、毎日歌のレッスンに行ったの。ものすごくハードだったけど、いつか舞台に立ちたいと夢見ていたから耐えられた。当時から夢は《椿姫》のヴィオレッタを歌うこと。これ以外の役は考えられなかったわね」
 ギリシャ時代からマリア・カラスのレコードを数多く聴き、特にヴィオレッタを歌うカラスに魅せられていたという。
「内面的に深い役、気が狂わんばかりに人を愛したり、人生を逸脱したり、現実にはありえないようなはげしい性格の人物に惹かれる。
 ヴィオレッタも最初のアリア、ジェルモンとの二重唱、アルフレートへの呼びかけ、そして死の床でのアリアなど聴かせどころがたくさんあるでしょ。これらはみなとても深い感情表現が必要となり、技巧的にも難しいものが要求される。作曲家が意図した歌に近づくには、自分が成熟しないとダメね」
 その夢が初来日のフェニーチェ歌劇場の舞台で実現する。テオドッシュウはこれまで何度かヴィオレッタを歌っているが、実は焼失前のフェニーチェ歌劇場では一度も歌う機会はなかったそうだ。
「偶然なんだけど、フェニーチェと初契約を結んだ日にニュースで劇場の火災を知ったの。役は《ドン・ジョヴァンニ》のドンナ・アンナだった。
 私はこの舞台に立てるチャンスを失い、美しい劇場が失われたことにショックを受けた。でも、日本でヴィオレッタを歌うチャンスが巡ってきた。なんて幸せなのかしら。見ててね、全力投球するから(笑)」
 カラスを継ぐギリシャの歌姫は、豊かな声と表現力を武器に、新しいヴィオレッタ像に挑む。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。「苦労してようやくここまで上り詰めたのよ。ひとつひとつの舞台は私の夢であり、生きる糧であり、大切な聴衆とのコミュニケーションの場なの」としみじみと話す表情が印象的だった。
 きっと今秋のエルヴィーラも、全身全霊を賭けて挑むに違いない。

| インタビュー・アーカイヴ | 22:31 | - | -
清水和音
 ピアニストの清水和音が、1981年の本格デビューから今年で30周年を迎える。先日、インタビューでその話を伺ったが、彼は30年どころか、昔もいまもまったく変わらないストレートな語り口。
「口が悪いのはいまに始まったことじゃない。いつも本音。まわりくどいいいかたは好きじゃないし、いいたいこといって、自由に生きる。それが自分の生きかただからね」
 そうそう、この人はそれが持ち味。演奏もストレート。
「昔、子どものころにピアノがうまいだの類いまれなる才能があるだのと先生たちにいわれて、すごくいい気分でさ。そういわれたから、いまがあるんだよね。ほめられるって、うれしいことだからさ」
 この率直さ、迷いのなさ、変わらないですねえ。
 そんな彼が今日、東日本大震災復興支援の「チャリティーコンサートatカワイ表参道」に出演、4月から全9回行われたコンサートの最終奏者を務めた。「音楽の友」の次号の取材で聴きに出かけたが、清水和音はショパンの「ノクターン 作品55」と「バラード第4番」をじっくりと聴かせ、デビュー30周年の貫録を示した。
 この後もデビュー30周年の記念コンサートが目白押し。8月6日にはサントリーホールで「ラフマニノフのピアノ協奏曲全曲」というビッグなコンサートを行い、9月から10月にかけてはヤマハホールで小曽根真、川久保賜紀、森麻季らをゲストに迎える5日連続コンサートを予定している。
「何か大きなことやってくれっていわれて、ついこんな大変なプログラムを組んじゃってさ。最後まで弾けるのか心配だよ」
 こういって笑う清水和音は、まさに本音トークの達人。だからだろうか、東京音大では、生徒たちに慕われている。レッスンもきっとユニークで楽しいものなのだろう。
 今日の写真は「ピアノの本」(ヤマハ)7月号のインタビュー時のもの。音楽の話から大幅に脱線していき、好きなカメラやクルマやオーディオの話題でほとんどの時間がとられてしまった。
 インタビューの最中から「こりゃ、あとでまとめるの大変だなあ」と思ったが、清水和音のマイペース、好きな話は止まらない。まっ、いいか。これが彼の個性で、いつもながら突っ走っていくんだから。
 でも、記事はきちんとまとめましたよ。エッセンスを取り出して、あたかも自然にしゃべっているように書くの、得意だもんね(笑)。


 
| 情報・特急便 | 22:40 | - | -
長富彩
 今年のリスト・イヤーには、内外のピアニストによるリストの録音が次々と登場してきてうれしい限りだ。
 昔からリストが大好きで、何を弾いても先生に「あなたの演奏は全部リストに聴こえる」といわれたピアニストの長富彩も、セカンドアルバムにオール・リストを選んだ。題して「リスト巡礼」(コロムビア)。
 彼女はリスト音楽院に留学し、バルトークやリストの大家として知られるジョルジュ・ナードルのもとで研鑽を積み、リストの演奏を深めてきた。
 ハンガリー、アメリカでの生活を経て帰国後、昨秋1912年製ヴィンテージ・スタインウェイ(ニューヨーク)を使用したアルバム「イスラメイ」でCDデビュー。以後、コンサートでもリストを多く演奏し、特に「ラ・カンパネラ」「愛の夢 第3番」はひらめきに満ちた創造性豊かな演奏として聴衆の心をつかんできた。
 そんな彼女が、待望のリストの録音でこの得意とする2曲がどうしてもうまく弾けず、録音中に大きな壁にぶつかったという。
 インタビューでは、その苦しみから抜け出すまでの心の葛藤を素直に吐露している。これは次号の「intoxicate」に掲載される予定である。
 長富彩は、「大胆さと繊細さが共存している演奏」と評されるが、まさにこのリスト・アルバムもリストの作品が持つこの両面に肉薄している。彼女いわく「私はいつもリストは本能で弾いています」。まさにこのことば通り、演奏は率直で自然でリストの心をストレートに表現したもの。
 大きな試練を経験したからこそ、そのピアニズムは聴き手の心にまっすぐに染み込んでくる。
 最初にインタビューしたとき、彼女はこんなことをいった。
「私、子どものころからキーシンが大好きで、彼のお嫁さんになるのが夢だったんです」
 これには大笑いしてしまった。こんなにも素直に心情を打ち明けてくれたことにも驚き、またそれをシラッとしていうところもユニークだ。
 彼女はアメリカ時代、経済的に非常に苦労し、精神的にたくましくなったという。いまもふんわりとおだやかで、会った人をみな優しく包んでしまうような雰囲気を持っているが、実はかなり芯の強い性格に思える。
 演奏を聴くと、その芯の強さが一目瞭然。リストはいずれの作品も、その奥に情熱的で劇的なドラマが潜んでいる。それが大好きだという彼女もまた、音でドラマを描き出す。
 ウクライナの作曲家、ニコライ・カプースチン(1937〜)が好きで、ぜひ彼の作品を演奏していきたいと語っているから、今後はカプースチンでさらなるドラマを描き出すかもしれない。
 今日の写真はインタビュー時の長富彩。この表情、ピアノに向かうと一変するんですよ(笑)。




 
| 日々つづれ織り | 22:35 | - | -
アンドレ・プレヴィン
 先日の「インタビュー・アーカイヴ」でシルヴィア・マクネアーの記事を紹介したので、その続きとして第14回はアンドレ・プレヴィンの登場。マエストロには何度かインタビューをしているが、いつもほんわりやわらかなムードが漂っていて、心がなごむ。
 インタビューの最後には、「何度か結婚しているけど、最近は動物や人間よりも盆栽に興味が移った」といってその場に居合わせた全員を爆笑させた。

[FM fan 1991年4月15日〜28日号 No.9]

世界中の指揮者に聞いたら、みんなモーツァルトが一番難しいと答えるんじゃないですか

 門外不出とされていたザルツブルクの冬の音楽祭「モーツァルト週間」が、初めて東京サントリーホールにやってきた。その初日を飾ったのはプレヴィンとウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団。プレヴィンはここでピアノを演奏。彼はこのほかウィーン・フィルを指揮するなど大活躍。そんな超多忙なプレヴィンにリハーサルの合間を縫ってマイクを向けてみた。

散歩の最中に曲が浮かぶなんて映画の世界のことだろうね

――この音楽祭はオール・モーツァルト・プロですが、指揮者とピアニストの両面から見た場合、モーツァルトというのはどんな作曲家でしょうか。
プレヴィン モーツァルトは指揮しようがピアノを弾こうが、とにかく演奏家にとって非常に難しい作曲家です。私は今回のように弦楽四重奏団と組んだり、いろいろな形でピアノを弾きますが、基本的には指揮が中心で、あくまでも自分は指揮者だと思っています。
 モーツァルトを指揮するときいつも考えるのは、モーツァルトというのはそれだけでプログラムが十分に成り立つということです。たとえばブラームスやチャイコフスキーはほかとの組み合わせで演奏されることが多いですよね。でも、モーツァルトはそれだけでプログラムを組んだほうがいい。モーツァルトだけですばらしいコンサートができるのです。
――モーツァルトの難しさというのは、楽譜がシンプルだからこそ、より表現が難しいということでしょうか。
プレヴィン そう、確かに楽譜は簡潔。音符も決して多くない。でも、そのひとつひとつの音のなかにさまざまな意味が込められています。ですから、テクニック的には簡単かもしれないけれど、ひとつのフレーズだけを見ても何百通りもの解釈があるから難しいんです。
 あなたが世界中の指揮者に聞いたら、みんなモーツァルトが一番難しいと答えるんじゃないですか(笑)。そして、もっとも好きな作曲家としてもモーツァルトの名を挙げる人が多いでしょうね。
――楽譜の表面だけを見ていてはダメで、もっとその奥にある作曲家の意図を見出すことが必要という意味ですね。
プレヴィン たとえば、私は京都の庭園が好きなんですが、あれはただ石が並んでいるだけ、砂が敷き詰められているだけと考えたら、それだけで終わりです。でも、ずっとあの石を見つめ、ひとつひとつの配置や意味を考えながら見ていると、その背後にあるものが見えてきます。
 それと同じで、モーツァルトもひとつひとつの音符を見ると、それは単なる音でしかありえない。しかし、ずっとそれを見つめていると、その背後にあるものが見えてくるのです。モーツァルトが本当にいいたかったことは何だったのか。そうなることによって解釈が広がっていきます。
 それから、モーツァルトは自分が悲しい気持ちのときに指揮すると、その気持ちが反映されるし、また気分が高揚しているときは、それがそのままはね返ってくるというおもしろさがあります。
――プレヴィンさんは作曲家でもあり、今度キャスリーン・バトルの曲を作られるということですが、もう構想はできあがっているんですか。
プレヴィン これはカーネギー・ホールから次のシーズンの演奏会用に依頼されたもので、キャスリーンとオーケストラのための曲です。歌詞はトニー・モリソンという女性の詩を使います。まだ全部できあがっていませんが、6曲で構成される予定です。
――いろいろなタイプがあると思いますが、作曲するときはしっかり五線譜に向かって始めるタイプですか。
プレヴィン そうですね、真っ白な用紙に向かってペンを握ってきちんと考えます。そうやって根を詰めないと、インスピレーションが湧いてこないのです。
 私は散歩が好きで、かなり長時間歩くんですが、それが一番息抜きになります。
――その散歩の最中に何か曲が浮かぶということはないのでしょうか。
プレヴィン ハッハッハ! 作曲家が森を散歩しているときにすばらしいシンフォニーが浮かぶなんて、映画の世界のことだろうね。そうできれば楽だけど、実際はもっと地道な仕事ですよ。

自然が好きで、都会で暮らすのは性に合わない

――でも、演奏旅行で世界中を飛び回っていると、どんなときに曲作りの時間をとるんですか。
プレヴィン ほかの職業の人は仕事を離れてリラックスするために旅に出るのでしょうが、私の場合は家にいるときが一番くつろげるますので、作曲もそんなときに集中して行います。ただし、本当に時間がたりないのは事実です。
 たぶんさまざまな都市を回っているためか、私はとにかく自然が好きで、都会で暮らすのは性に合わない人間なんです。以前22年間もロンドンに住んでいましたが、このときも郊外の家から市の中心まで毎日通っていました。
みんなに「よく面倒くさくないなあ」といわれ続けながら…。
 私は、朝静けさのなかで目を覚まして1日を始めたいと願っています。ですからいまも、ニューヨークと、コネチカット州にある緑に囲まれた静かなところと両方に住んでいるんですよ。
――今後のレコーディング計画は。
プレヴィン 向こう2年間で20枚録音する予定がありますから、全部の曲目をいまいえないくらい多い。ひとつ挙げれば、ウィーン・フィルとハイドンの交響曲を6曲入れる予定になっています。
――そうなると、散歩以外まったくオフの時間はとれませんね。
プレヴィン 私はいままでの結婚で8人子どもがいるんですよ。21歳を頭に7歳まで。ですから、空いている時間は子どもたちと一緒に過ごすだけで精いっぱい。ただし、みんな何かしら楽器はやっているんだけど、だれひとりとしてプロになれそうなのはいないなあ、残念ながら。

 短期間に鮮やかな演奏を披露し、あっというまに次なる地へと飛び立ってしまったプレヴィン。今秋にはロイヤル・フィルと来日し、今度は全国公演を行う予定。大の和食党で、ふだんでも週に2、3回は食卓にのぼるという。5カ国語はかるくこなすというプレヴィンは、そのグローバルな音楽性と同様に、異国の文化を上手に生活に取り入れる名人のようだ。ただいま日本語にも挑戦中とか。

 これはもうずいぶん前のインタビューだが、いまも忙しさは変わらないようだ。このときは「私はクラシックの指揮者だ」と明言していたが、その後ジャズにも回帰し、最近はジャズ・ピアニストとしての来日も多い。
 今日の写真はインタビュー時の雑誌の一部。柔和な笑顔が印象的だ。


| インタビュー・アーカイヴ | 22:21 | - | -
田中カレン
 日本を代表する作曲家のひとりとして内外で多数の受賞歴のある田中カレンが、16年のパリ生活の後、アメリカに移ったのは2002年のこと。
 当初はカリフォルニア大学、ミシガン大学の客員教授を務めていたが、現在はカルアーツ(カリフォルニア芸術大学)で教鞭を執っている。
そんな彼女がピアノ曲集「Crystalline」のCDをノルウェーのレーベル2Lからリリースした。
 演奏はグリーグ演奏のスペシャリストとして知られるシグナ・バッケ。彼女はベルゲンのグリーグ音楽院の教授を務め、各地で演奏を行い、音楽祭にも出演している。
 このCDはシグナ・バッケのために書かれた「Water Dance」が含まれ、それが実に清涼な美しい響きを持つ自然体の演奏で、いつしかノルウェーの大自然のなかに紛れ込んだような思いを抱かせる。
 今回のCDは、田中カレンの作品の特質である響きの美しさ、ピュアな音楽性が全面に表れたもので、心が次第に癒されていく。
 もうひとつ、楽譜も出版された。地球へのオマージュとして、自然の力、環境への思い、未来への思いを託して作曲された「こどものためのピアノ曲集 《地球》」(カワイ出版)で、以前の《光のこどもたち》の続編となっている。
 これは絶滅に瀕した動物たちと環境をテーマに書かれた作品。安全でクリーンなエネルギーの開発と地球環境保護を願う意味合いも込められている。
 日本のみならず世界の多くの音楽家が日本の今後を真剣に考え、自分に何ができるかを問い、ひとつずつ行動に移している昨今。田中カレンのこれらの作品は、日々仕事の方向を考え、模索している私に、大きな力を与えてくれた。
 心に染み入る透明感あふれるピアノの音を聴きながら、少しずつ前に進もうと思っている。田中さん、ありがとう!!
 今日の写真はそのCDのジャケット。これだけでも美しいでしょう。





 
 
| 情報・特急便 | 22:42 | - | -
運動不足解消
 長年パソコンと仲良くしているからか、眼精疲労、首と肩と背中が痛く、ついに腰痛まできて、運動不足をしっかり自覚。締切りが重なってくるこの時期は、特に始末が悪い。
 以前はプールに行ったり、ジムに通ったりしたものの、やはり時間がとられて長続きしない。
 そんなときに、家の近くでフィットネスのクラス「Thera Fit(セラフィット)」を見つけた。試しに無料体験を試みたところ、これが実にのどかで自由でリラックスできる。参加しているメンバーも、いわゆる「大人」ばかり。必死で運動しているジムの人たちとは異なり、疲れているときは適度に手抜きをしているとか。
 そうか、こんなおだやかなやりかたがあったのね。最初の15分から20分くらいはマッサージチェアでリラックス。それから40分ほど、ふだん使わない筋肉を伸ばしたり、引き締めたり、ストレッチを行う。
 トレーナーがこれまた、とってもいい人ばかり。体育会系のさっぱり型で、明るく、自然にみんなの面倒を見てくれる。
 1年以上通っている人も多く、70代の人もたくさん。なかにはリタイアした男性もいて、女性にまじって一生懸命ストレッチをしている姿はほほえましい限り。
 というわけで、なんとか週に1度から2度は通うようにしている。
 先日は、そのフィットネスが終わってからニコタマにお茶を飲みに行った。ここでまたまたにんまりと笑ってしまうできごとに遭遇した。
 コーヒー専門店でカプチーノを頼んだら、コーヒーを入れてくれた男性がうしろを向いてなにやら作業をしている。なんだろうと思っていたら、出てきたカプチーノを見て、「キャーっ、かわいい!」と叫んでしまった。
 私のはクマちゃんがミルクで描かれ、もうひとりの分はネコちゃんだった。こういうの、なごんじゃうんだよね。
 今日の写真はそのカプチーノ。イライラしている人、嫌なことがあって滅入っている人、疲労がたまっている人、ストレスでまいっている人、どうぞこの2匹のぽんやりした顔でそれらを忘れてください。




 
| ああ愉しき(?)、締切り地獄 | 22:48 | - | -
フェデリコ・ガルシア・ロルカ
 年末年始のスペインの旅の目的のひとつに、フェデリコ・ガルシア・ロルカの生家を訪ねることが入っていた。
 昔からガルシア・ロルカの詩が大好きで、どこか死の匂いがただようシンプルで率直な詩に無性に惹きつけられている。
 ガルシア・ロルカの生家は現在記念館として一般公開されているが、グラナダから行くのにひと苦労。バスがあると書いてあったが、それはほとんど通っていないにも等しく、グラナダ駅の近くのバス停にあった時間表は判読不能なほどの古さ。ちょうど駅の前に、ポツリと1台止まっていたタクシーに乗った。
 生家は、グラナダから西へ約14キロほどのフエンテ・バケーロスという小さな村にある。ガルシア・ロルカは1898年6月5日、この村の富裕な農家に生まれた。彼は文学のみならず、音楽、美術にも造詣が深く、劇作家でもあった。この家にはそんな彼の天才性を示すさまざまな資料が展示されていた。
 あまり訪れる人がいないのか、生家には年配の男性がひとり記念館の案内役をしていたが、この人はとても親切で、あらゆる物に関して実にていねいに説明してくれた。
 この村はいまではかなり住宅も建ち、商店もにぎわっていた。だが、電車もバスもないため、多くの人が来ないようだ。こんなにも偉大なガルシア・ロルカの生家がそのまま残っているのに、非常に残念だ。因みに、グラナダ空港も彼の名前がつけられている。
 建物は1階が食堂と居間と寝室。2階が展示場になっていた。パティオをはさんだもうひとつの建物の2階では、ガルシア・ロルカの映像を見ることができる。案内の男性が「ほら、動いているフェデリコだよ。貴重な映像でしょう」と誇らしいげに見せてくれたのが印象的だった。
 彼はさまざまな芸術家との交流があり、画家のサルバドール・ダリ、作曲家のマニュエル・デ・ファリャ、ギタリストのレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサ、映画監督のルイス・ブニュエルらとの親交が知られている。
 ここからグラナダに戻る途中、彼が右翼のファシストによって銃殺される(1936年8月19日)直前まで住んでいたサン・ビセンテ農園(現在はガルシア・ロルカ公園)の一角にあるガルシア・ロルカ記念館に寄った。
 代表作が書かれたこの家は立派な建物で、こちらは世界各地からの多くの観光客でごったがえしていた。
 時間が区切られ、何人か集まると案内の人が説明してまわる。仕事部屋や居間などが当時のままの姿で保存され、いまにもガルシア・ロルカがひょっこり姿を現しそうな雰囲気をたたえていた。
 彼は実に多才な人で、人形劇の背景画なども描いていた。本人が弾いていたピアノもあった。家を訪れ、さまざまな物に触れ、よりガルシア・ロルカが好きになった。もっともっと詩が読みたい。彼が朗読しているCDも入手した。ただし、スペイン語なので、ニュアンスしかわからない。ああ、残念(笑)。
 今日の写真はフエンテ・バケーロスで手に入れたポスター。額に入れて、仕事部屋に飾ってある。それにしても、濃い顔だ…。




| 麗しき旅の記憶 | 23:25 | - | -
及川浩治
 ピアニストの及川浩治には長年話を聞き、演奏も聴き続け、コンクールでも手に汗握る思いで演奏を聴いてきた。
 彼は非常にエネルギッシュで、作品に思い入れの深い、ともすれば作曲家自身が弾いているようなピアノを弾く。
 ショパンでもリストでもベートーヴェンでも、及川浩治が弾くと、作曲家の姿が見えるような思いにとらわれる。彼はとことんその作曲家になりきるからである。
 彼のピアノからは心の内なる叫びといおうか、慟哭のようなものが伝わってくる。
 しかし、素顔は気どりや気負いがまるでなく、フランクで、よどみなく話す。ただし、これは興味のあることに限る。自身が興味のないことに関しては、まったく目もくれない。とてもはっきりしている。
「ものすごくわがままなんですよ。B型ですから(笑)。もっと周囲の人たちに合わせないといけないと思うんですが、それができない。みんなぼくに振り回されるっていいますね」
 だが、これが及川浩治の個性なのである。演奏もあくまでも自己を主張するもので、喜怒哀楽の感情が強く投影されている。
 いつも彼とのインタビューは、楽しくリラックスした時間をすごすことができる。彼も超リラックス。リスト・イヤーの今秋は「リストの手紙」〜フランツ・リストへのオマージュ〜と題したリサイタルを開く(9月11日サントリーホール他、地方公演も有り)。
 今回のインタビューでは、そのリストへの思いを聞いた(「ムジカノーヴァ」7月号に掲載)。彼はリストのヒューマンなところにほれ込んでいるとか。リストの話になったら、何度も曲の旋律を歌っていた。うーん、それほどリラックスしていたのね。
 今日の写真はそのふだんの顔をした及川浩治。
「伊熊さんの前で、こんなにデカイ態度をしている人っていないでしょうね(笑)」
 いえいえ、その自然体の姿がいいんですよ。インタビューでも歌いっぱなしでしたからね…。ぜひ、歌心あふれるリストを聴かせてください。

| 親しき友との語らい | 23:23 | - | -
ジョルジュ・プルーデルマッハー
 ピアニストで、演奏のみならず作曲や編曲をこなす人は多いが、フランスのヴィルトゥオーソとして知られるジョルジュ・プルーデルマッハーもそのひとりである。
 彼は現代音楽にも造詣が深く、ジャズも演奏。ただし、録音ではベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲、「ディアベリ変奏曲」などで評価が高く、2003年にはラヴェルのピアノ作品集のライヴ録音も完成させている。
 そのプルーデルマッハーが4月に来日し、シューベルト、ベートーヴェン、ドビュッシーの作品と、自身が編曲したストラヴィンスキーの「春の祭典」を披露した。そのリサイタルの前日にインタビュー、さまざまな作曲家の作品に潜むテクニカルな面をどう読み解くかについて、明快かつこまやかで具体的な話をしてくれた(インタビューは次号の「intoxicate」に掲載される予定)。
「私はいろんな作曲家の作品と対峙するとき、まずその本人がどんなテクニックを用いてピアノを弾いていたか、それをどう作品に表したか、その時代の楽器をどう扱ったか、現代の私たちがそれをどう理解するかをじっくりと考えていきます。楽譜を深く読むのはもちろんですが、伝記や残された資料や手紙、弟子たちの文章、時代背景、作曲家が置かれた環境なども丹念に調べ、肖像画に描かれた姿勢や手のポジションを見ることも重要だと思っています。そうした多くの要素が実際に演奏するときに非常に有益になるからです」
 プルーデルマッハーは、手のポジションや楽器に向かう姿勢、ペダルなどに関してかなりこまかく話をしてくれた。
 実は、彼はベートーヴェンの録音で第4のペダル、ハーモニック・ペダルというものを使用している。これは既存のピアノに新たに装着し、2段階に踏むことができ、半踏みの状態で踏むとここちよい共鳴を得ることができるという。要は音の保持装置のような役割を果たしているわけだが、説明がとても難しく、プルーデルマッハーも図版をもとに解説してくれた。
 現在は、中国のピアノ・メーカーがこのペダル付きの楽器の製造に着手しているそうだ。
 プルーデルマッハーのリサイタルも、ひとつひとつの響きを非常に大切にするもので、とりわけ「春の祭典」では和声的な響きを重視、即興的な奏法も加え、大作を愉悦の表情をもって弾き進めた。話術も演奏もすこぶる雄弁、マスタークラスの人気が高いのもうなずけた。

 今日の写真は、インタビュー時にテクニックや奏法をからだ全体で表現しながら話すプルーデルマッハー。「私はピアノという楽器を用いて新たな芸術を生み出したいんだよね」と語っていたのが印象的だった。
 
| アーティスト・クローズアップ | 22:26 | - | -
ロベルト・バッジョ
「イタリア・サッカー界の至宝」「ファンタジスタ(夢のような芸術的名手)」と称されるロベルト・バッジョは、私にサッカーの扉を開いてくれた。サッカーの魅力を知るきっかけを作ってくれたのだ。
 彼の名を知ったのは1990年のワールドカップ、イタリア大会。若々しく野生動物を思わせる動きは、サッカーをまったく知らなかった私の目をテレビに釘付けにした。オフサイドやアディショナルタイムの意味も知らず、UEFAカップやスクデッド(セリエA優勝の代名詞)などということばも理解できなかったが、その後少しずつサッカーを勉強し、多くのことを学んでいった。現在では、スペイン・リーグをはじめ各地の試合を楽しむようになっている。
 ワールドカップの決勝前夜祭として、ルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスの「3大テノール」のコンサートが行われるようになったのは、1990年のこのイタリア大会から。「世紀の競演」といわれたこのコンサートの模様は世界中にテレビ放映され、ふだんクラシックをあまり聴かない人々をも感動の渦に巻き込んだ。
 3人は大のサッカー好き。パヴァロッティはユベントス、ドミンゴはレアル・マドリード、カレーラスはバルセロナのサポーターを自認している。そのカレーラスが白血病に倒れ、奇蹟の復活を遂げたことから、かつてライバルといわれた3人が同じステージに立つことが可能になった。
 以後、ワールドカップ開催ごとに各地でコンサートを行った。その初めてのイタリア大会のときに、私はバッジョを知り、そしてサッカーを知ったのである。
 4年後のアメリカ大会からは、毎回「3大テノール」の取材に出かけることになった。とりわけ印象が強かったのが、1998年のフランス大会。もちろん3人のコンサートの取材とインタビューが目的だったが、このときは幸運なことに私がサッカー好きだということを知り、「3大テノール」の事務局のかたがチケットを手配してくれた。なんと、準決勝のフランス、クロアチア戦である。
 チケットが確保できたとわかり、私は仲間とともにリハーサルを抜け出してサン・ドニのスタジアムまでタクシーを飛ばした。だが、タクシーが止まったのはAのゲイト前。私の席はXのゲイト。もう外まで大歓声がとどろいているなかを必死で走り、ようやく着いたらきびしいセキュリティが待っていた。
「お願い、もう始まっているんだから早く入れてよ」 
 叫びながら、ようやく席に着いたときの驚きといったら。とてつもなく広いスタジアムなのに、隅々まではっきり見える。ジダン、プティ、デシャン、デサイー、アンリ、トレゼゲ、テュラム、バルデスらの姿がはっきり確認できる。クロアチアにはシューケルがいた。
 スタジアム内はものすごい歓声と熱気で、隣の人の声も聞えないほど。ラッパは鳴らす、太鼓はたたく、まわりはみんな目がすでにイッている感じで殺気すら感じる。「これがワールドカップなんだ」と背筋がゾクゾクした。
 ハーフタイムのときに、隣のすさまじい叫び声をあげていた家族と話したら、彼らはアルゼンチン人。4年間家族が一丸となって働き、お金を貯め、ワールドカップに駆けつけるとか。家もなければ定職もなし。それでいいのだそうだ。
「次はお宅の国に行くからね!」
 そうか、次は日韓共催だったっけ。
 試合終了後、フランス人は舞い上がり、大声で徒党を組んで祝杯をあげ、クロアチアからバスで駆けつけたサポーターたちはバスの横にすわりこんでみんなが泣きじゃくっている。それを見た私はもらい泣きしそうになった。
 優勝後のパリはもっとすごかった。シャンゼリゼ通りを裸で行進し、「次期首相はジダンだ!」という合唱が聴こえた。
 そして新聞にはこんな見出しが大きく載っていた。「フランスは移民で勝利をつかんだ」。当時、フランスは移民問題で大きく揺れていた時期だった。
 バッジョが導いてくれたサッカーという楽しみ。彼のナマの試合は、東京でも観戦し、アーティスティックな足技にため息をつくほどだったが、できることなら最後のブレシアの引退試合を見たかった。 
 その後、ナイジェリアのオコチャのファンとなり、いまはコートジボワールのドログバとスペインのトーレスを応援している。彼らはトーレスが今年1月にチェルシーに移籍したため、たまたま同じピッチに立つことになった。このツートップが見られるなんて、昨年までは思いもしなかった。なんてラッキー、チェルシーだけ見ればいいんだもんね(笑)。
 私がバッジョというゲイトをくぐりサッカー場に入ったように、だれかの演奏に魅せられたら、ぜひコンサートホールに足を運んでほしい。サッカーが私の人生を豊かにしてくれたように、クラシック音楽もまた人生の楽しみを倍増させてくれると思う。

 今日の写真は1998年のW杯のチケット。私の宝物としてバッジョの伝記にはさんである。
 
| 麗しき旅の記憶 | 22:55 | - | -
アンドレ・ワッツ
 アメリカのピアニスト、アンドレ・ワッツは、楽屋の外で黒ずくめの格好をして葉巻をふかしていると、俳優のようである。それもどこかのボスかアブナイ役が似合いそう。
 しかし、実際の素顔は気さくでやさしく紳士的。興が乗ると一気に雄弁になり、我を忘れてその話題に突っ走る傾向がある。
 1990年のショパン・コンクールで第1位が出なかった話をしたところ、表情が変わり、熱くなった。インタビュー・アーカイヴ第13回は、そのワッツの登場だ。

[ショパン 1991年1月号]

作品のなかでいかに自分を解放させるかということにポイントを置いている

 1990年11月6日、アンドレ・ワッツのシューベルトを聴いた。即興曲より第1番変ホ短調、ピアノ・ソナタ第20番イ長調、そして幻想曲ハ長調「さすらい人幻想曲」。
 これが前半のプログラムだったが、「さすらい人幻想曲」にいたく感激し、後半のショパンとドビュッシーを聴いてもまだ耳のなかで「さすらい人幻想曲」が鳴っている感じだった。
 そこで今回はこのシューベルトに関しての質問からインタビューに入った。

演奏を楽しんでもらうほうがいい

 素顔のワッツはとても柔和な雰囲気を持った人あたりのいい人。話すときは顔の表情がくるくる変わり、役者を目の前にしているようだ。
 そういえば「さすらい人幻想曲」もひとり芝居のようだった。目もさめるようなテクニック、両足の絶妙なペダリング、いかにも楽しそうで、ワッツのからだの動きにつられてしまうほど、そのノリはすごかった。
「シューベルトは大好きな作曲家だから、ずいぶん演奏している。彼の音楽は本当に自然で、こちらも自然な気持ちで弾くことができるから。彼の作品は最後の3つのソナタが特にすばらしいと思う」
 ワッツはシューベルトをこんなふうに話し出した。シューベルトといえばすぐにリートを頭に思い浮かべてしまう。さまざまな歌手がシューベルトの歌曲のすばらしさを語っているが、ピアノ作品について語ったものはあまり多くない。
「もちろんリートはシューベルトの代表的なものだけど、それだけでシューベルトは語れない。ことばも重要だけれども、私はメロディがとても大事だと思う。シューベルトのピアノ作品はメロディがとても美しいし」
 ワッツの演奏は一種のパフォーマンスのように、見ていて飽きない要素を持っていた。
「知識を演奏のなかに出して弾くということも大事だけれど、私は演奏を楽しんでもらうほうがいいね」
 そう、まさしく彼の基本姿勢は聴き手に伝わった。これはワッツが16歳のときに運命的な出会いをし、デビューのきっかけを作ってくれたバーンスタインの影響が大きいのだろうか。
「もちろんバーンスタインから学んだことも多いし、他の演奏家の影響も受けているよ。演奏家というものは伝統的な弾きかたをしっかり守っている人もいるし、そうではなくそれから解放されて自分の自由な気持ちを大切にして弾く人もいる。私はどちらかというと、演奏するするときにその作品のなかでいかに自分を解放させるかということにポイントを置いているんだ」
 ワッツはもともと自分をオープンに表現していくタイプなので、ピアノを学んでいく過程では、むしろそれを制御し、気持ちをコントロールしていくことに重点を置いたとか。
「私ぱむしろオープンになりすぎて、風車が回っているように音楽がどこかに飛んで行ってしまいかねない(笑)。この自由に開放的に演奏するというのは、ことばでいって教えられるものではないし、自由に表現していいんだよ、っていくらいっても伝わるものではないから」
 それから彼はたとえば、といってラフマニノフの場合は本当に自由に感情をそのなかに出せるんだが、シューベルトの場合はそうはいかないといった。
「シューベルトを演奏するときに聴き手を笑わせようと思って弾くと、聴衆は反対に泣いてしまう。逆に泣かせようと思うと今度はほほ笑みを引き出すことになる。これが難しいところなんだよね」
 
大きな手は有利か

 ところで、ワッツはとても大きな恵まれた手を持っている。しばらくこの手の大きさの話になったが、ワッツに大きな手はピアニストとして有利ではないか、と聞いたところ、彼はこんなユニークな答えを返してくれた。
「手が大きくて得をしたなんて考えたこともなかったなあ。昔、ヨゼフ・ホフマンという有名なピアニストがいたんだけど、彼はとても小さな手をしていた。ラフマニノフは結構大きな手をしていた。そのふたりがニューヨークでほんの目と鼻の先に住んでいた時期があってね、もちろんふたりとも自分こそ世界で一番すばらしいピアニストだと思っていた。
 私はふたりともすごいピアニストだと思っているから、これを考えても手の大きさは関係ないと思う」 
 彼は、だってアルゲリッチだってラローチャだって男性にくらべたら決して大きな手をしているわけではないのに、バンバン弾くでしょ、といって笑った。
「ショパン」編集部にはピアノを習っているんだけれども自分は手が小さいので苦労しているとか、ピアノに向いていないのではないか、という悩みが数多く寄せられる。これに対し、ワッツはこんなアドヴァイスをしてくれた。
「何でも否定的に考えてはいけない。私は指はそんなに長くないけど、掌が大きい。だからいつもデリケートなこまかいところを弾くときは細心の注意をするようにしている。それが手の小さい人や指の細い人は全然考えないで弾くことができるわけだから、この分有利だよね(笑)。ベートーヴェンの《熱情》のこまかいところなんか、指がからまっちゃって大変なんだから」
 ここでワッツは相撲だって大きな力士が必ずしも強くはないでしょ、といい、だから手の小さな人もくじけずに頑張ってほしいと付け加えた。

コンクールって何なんだ

 ワッツはどんな質問にもていねいに誠意を持って答えてくれるが、概してもの静かな印象だ。ところが、話題が今秋行われたショパン・コンクールにおよび、第1位が出なかったことを知ると、途端に声の調子が変わり、口調がはげしくなった。
「どうして1位を出さないんだ。若いピアニストがせっかく一生懸命弾いているのに、審査員はなぜ彼らをバックアップしようとしないんだ」
 彼は優勝者が出ないことにこだわった。今回はそこまでのレベルに達した人がいなかったと判断したに違いないと説明しても、ワッツは納得しなかった。
 そしてどんな審査員の顔ぶれだったか、どんな参加者だったか、と逆に質問攻めにあってしまった。
「マズルカ賞もコンチェルト賞もないなんて考えられない。わざわざ賞を出さないで弾いた人たちを傷つけることは、私としては考えられない。だってコンクールは一生懸命弾いた人を応援するためのものでしょう。いったい今回の審査員はそこをどう考えているんだろう。審査員というのは、コンクール後に若い人たちが成功するように応援するべき立場なのに」
 こういってワッツは、じゃ、だれが若いピアニストをこれから応援していくんだ、いったいコンクールって何なんだ、といい続けた。
「でも、もしもこの記事を今回審査員をした私の仲間が読んだら、彼らとこの件で議論しなくちゃならなくなるね」
 しばらくコンクール談義をした後、彼は苦笑しながらこういった。しかし、その後またこういい出した。
「参加者に対し、1位という結論を出すということは、それなりのよさとかレベルの高さを感じるということだから、そこで1位を出すことによって審査員の資質を疑われると思っているんじゃないかな」
 ワッツはとても正直に、率直にいろいろな意見を聞かせてくれた。そしてテニスのトーナメントの例まで出して、若い人がキャリアを築くことは本当に難しいと語った。
 ワッツは幸運なことにコンクールのタイトルがなくてもデビューできた。それは彼自身本当にラッキーだったといいながら、今回のショパン・コンクールの結果は、現在のピアニストのデビューの難しさを改めて考えさせられることだ、と語った。
「これだけコンクールが多いと、今日優勝しても、明日また違った優勝者が出てきたら前の人は影が薄くなってしまう。演奏者にとって絶対的に安心できるということはなくなってしまった。だから審査員もそこのところを考えないとね」
 つい夢中になっちゃって…もうこれ以上いうとさしさわりが出てきてしまうから、といってワッツは話を終えた。ステージの彼もふだんの彼も、とてもストレートで熱血漢。
 でも、そんななかにじっくり考えながらひとこつずつ話す誠実さと、いわゆる人のよさを発見して気持ちが温かくなった。
 演奏を聴き終わってすぐまた聴きたくなる、インタビューが終わってからもまた会って話が聞きたくなるという気持ちになったのにはわれながらビックリ。
 ただの熱血漢ではない。演奏を通して音楽の楽しさを味わわせてくれたワッツは、素顔もアメリカン・スピリッツのかたまりのようで、聞き手を楽しませてくれた。最近リリースされたCDもエンターテインメントに徹している。これからも注目度100パーセントのアーティストである。

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。大きな手を振り回しながら話す姿は、まさに役者のよう。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:31 | - | -
初めてのイスラエル出張
 イスラエルには何度か出張している。もっとも長く、ひとりで1カ月近く滞在したのは1986年4月のことで、第5回アルトゥール・ルービンシュタイン国際ピアノ・コンクールの取材だった。このときのことはいまでも鮮明な記憶となって脳裏に焼きついている。
 その記憶をたどってみたい。

遠い国

「そんな危険なところにひとりで行くなんて、テロやハイジャックに遭ったらどうするの。頼むからやめてちょうだい」
 取材が決まったときの母のことばである。まわりはみんな、イスラエルに行くというだけで、まず絶句し、次に必死に止め、最後はあきれた、という表情をした。
 それほど当時はイスラエルという国は恐れられ、情報が不足し、かつ遠い国だと思われていた。実際、私自身もどれほどの知識があっただろうか。
 準備を進めていくうちに、漠然とではあるが、アウトラインがつかめてきた。まず、非常に治安がいいこと、チップのいらない国であること、ほとんどの人が自国語以外に英語を話せること、そして地中海地方独特の風光明媚なところで、温暖な気候であること、音楽が盛んであること等々。
「流れ弾にあたらないでね」「戦争に巻き込まれないように」「飛行機、落ちないように祈っているよ」
 数々のことばに送られ、まるで戦地に出向く兵士のように私は日本をあとにした。

歴史の重み

 乗り換えを経て、30数時間ののちにようやく着いたテルアヴィヴはまさに真夏、35度であった。肌寒い東京からきた身では、すぐに対応できない。ただし、もっと困難な状況が待っていた。
 当時のテルアヴィヴの空港は、現在の立派な空港とは大違い。飛行機を降りるとすぐに前面の道路が見えるような小ささだった。そこにはタクシーもバスもまったく見えない。乗客はみな迎えのクルマがきて、いなくなってしまった。
 空港の職員にタクシーはいないのかと聞くと、「今日は安息日なんだよ。でも、大丈夫。いまに宗派の違うドライバーがくると思うから、ゆっくり待ってて」
 こういって、私の夕方着の飛行機がこの日の最後なのか、次の便まで時間があるのか、その人もどこかにいってしまった。
 私は待合室の前でトランクに腰かけ、ひとり待つしかなかった。まだ携帯のない時代である。どこにも連絡はできず、右も左もわからず、待つこと1時間以上。
 ようやく道路の向こうのほうからこちらに向かってくるタクシーが見えたときは、「おお、神よ」という感じだった。こうしてようやく市内に入ることができたのである。 
 テルアヴィヴ市内は、抜けるような青空と乾いた空気がただよい、地中海ブルーと呼ばれる深い藍色をたたえた海がどこまでも続き、風にそよぐオリーブ畑とオレンジの並木が連なり、まるでリゾート地そのものの風景だった。
 しかし、街のあちこちにいまにも朽ち果てそうに建っている何百年とも何千年とも知れぬ建物を見るとき、その悠久たる歴史の重みを感ぜずにはいられない。やはり聖地なのだ。

親切な人々

 イスラエルの人は、道で会ったりホテルで見かけたりすると、「シャローム」と必ず笑顔で声をかけてくれる。初めはこちらもへんに警戒し、構えていたが、慣れてくるとかえってあいさつをしないと物足りない気分になってくるから不思議だ。
 ある日、こんなことがあった。安息日になってしまい、銀行をはじめ新聞もなく、もちろん郵便局もしまっていた。
 私は次の日はもうエルサレムに移るため、友人や家族にあてたはがきの束を抱えて途方に暮れていた。
 するとスッと手がのびてホテルの男性が、そのはがきを自分のポケットにしまいこんだ。私は一瞬あせったが、まかせておけという彼のことばを信じた。
 翌朝早くホテルを出ようとすると、昨日の男性が走ってきて「あなたはいつもこれを欲しがっているから」と郵便局の領収書を渡してくれたのである。(仕事のため、常にあちこちでレシートや領収書をもらっていたので)
 私はこのかゆいところに手の届くようなサービス、気配りに感謝するのも忘れ、ただ呆然と立っていた。
 こんなにもオープンで親切な国が他にあるだろうか。こんなことが一度や二度ではなかった。

意見をはっきり

 毎回、国際コンクールというものは、審査が非常に大変かつ困難を極めるものであるが、このときも本選が行われた日の結果が判明したのは、なんと夜中の1時すぎだった。
 ほとんどの聴衆がそれまで帰らずに、みんな自分の意見を語りあいながらじっと待っている。こちらの人は自分の考えをはっきりと持ち、会場で意見を聞くと「自分はこの人の演奏がいいと思ったのに第1次予選で落ちてしまった。審査には納得がいかない」とか、実に明快な答えが戻ってくる。自分の応援した人が次の段階に進めないとブーブー文句をいい、審査員にまるで食ってかかるような態度を見せ、真剣そのものである。
 このときはアメリカ勢が9人という大部隊を送り込んだが、結局みんな敗れてしまい、たったひとり出場した日本人も第2次予選には進めなかった。
 コンクールには常にドラマがある。本選に進んだ6人の演奏を聴いたり、インタビューをしているうちに、こちらまで一喜一憂してくる。みな屈託がなく、真面目で、明るく、のびのびとしている。
 この国際コンクールの初取材が、以後各地での取材の始まりとなった。

もう一度この地へ

 旅は、多くの人との出会いをもたらす。ほんの限られた日数のなかで、未知の国のたくさんの人と出会った。
 ヘブライ語がまるでわからず、ハッタリ英語だけで勝負する私に手を貸してくれたイラースご夫妻、「3年後もぜひいらっしゃい」といってくれたコンクールのディレクター、ビストリツキー氏、ドイツからコンクールに参加した自国の若者の応援に駆けつけた熱心なふたりの女性、ヨハネスブルクのユダヤ系の詩人で、ナザレとベツレヘムをくまなく案内してくれた人、エクアドルから旅行にきて、民芸品の人形をプレゼントしてくれた兄妹、大喧嘩の末、心が通い合ったパリのカメラマン、日本語を習っているというアニー、深夜にもかかわらず一生懸命スタジオで演奏を聴かせてくれたポップなピアニスト、トマー、風邪をひいてコンクールの最中に咳こんで困っていた私にそっとキャンディを手渡してくれたイスラエルの人たち、そしてなにより、滞在中に私の誕生日を知って、深夜に紀元前の建物のある海辺で「ぼくたちはお金がないから、きみのバースディに歌をプレゼントするよ」といい、みんなで美しい民謡を合唱してくれた人たち。その歌声を聴きながら、私はあふれる涙を抑えきれず、みんなに見えないように顔をずっと海のほうに向けていたっけ。
 シャローム(さようなら)イスラエル、トダラバ(ありがとう)イスラエル、もう一度この地を踏みたい。
 こうして私は一度でイスラエルに魅了され、以後何度もこの地に出かけていくことになる。ただし、最初に会った人たちには、なぜかその後一度も会うことができない。

 今日の写真はピカソが描いたルービンシュタインの絵を用いた、1989年の第6回コンクールのポスター。私の仕事部屋の壁面を飾っている。ただし、このときは第5回とは治安が著しく変化し、どこに行くのもセキュリティが必要だった。



| 麗しき旅の記憶 | 23:51 | - | -
シルヴィア・マクネアー
 雨模様のうっとうしい気分の日が続くと、私はいつもあるCDを聴いて心を開放させる。シルヴィア・マクネアーの「マクネアー・シングズ・ジェローム・カーン・ウィズ・プレヴィン」と「ドリーミング・アメリカ/マクネアー・ウィズ・プレヴィン」(フィリップス)だ。
 でも、これらは昼間の明るい時間帯に聴くものではなく、どちらかというと夜向きの音楽。照明をちょっと落としてウィスキーなどをチビチビやりながら聴くと、もう極楽。天気の悪さなどどこかに飛んでいってしまう。
 ただし、決して多人数でワイワイいいながら聴く音楽ではない。しっとりとことば少なに音楽に酔いしれる。これが最高!
 マクネアーの歌は実に堂に入っていて、こちらが本職かしらと思ってしまうほどのジャジーなノリ。こういうのを聴いていると、なんだかどんどんこっち方面の歌を聴きたくなり、ヘレン・メリルなんかも引っ張り出してしまう。
 ここで注目したいのが、アンドレ・プレヴィンのピアノ。こののびやかさ、実に楽しそうにピアノと戯れている感じの音楽を聴いていると、なんかふっきれた感じがする。
 彼は一時期クラシック1本にしぼり、私は指揮者だと無理やり自分を鋳型にはめていたけれど、この録音のころに「またジャズもやり始めたんだよ」とインタビューで語っていた。ひと皮むけて本当に好きな音楽を楽しんで弾いている、そんな表情が音から見えるようだ。
 今回のインタビュー・アーカイヴ第12回は、そんなシルヴィア・マクネアーの登場。最近は来日の機会がないが、ぜひあの歌声をナマで聴きたい。

[アサヒグラフ 1996年12月6日号]

「私はプレヴィンのすべてを吸収しようと努力したつもり」

 アメリカ出身のソプラノ、シルヴィア・マクネアーは、オペラ、歌曲などのクラシックのレパートリーにとどまらずジャズ、ポップスなど幅広い歌を手がけている。
 それも単なる余技ではなく、アンドレ・プレヴィンのピアノと共演したジェローム・カーンやハロルド・アーレンのソングブックの録音は、絶賛を博した。
「私はアメリカ育ちだから、ジャズもポップスもミュージカルもからだのなかに入り込んでいるの。好きな歌手もエラ・フィッツジェラルドとサラ・ボーンなのよ。
 プレヴィンとの共演もすごく楽しくて、曲に対する違和感はまったくなかったわね。プレヴィンはすばらしいピアニスト。私はスポンジのように彼のすべてを吸収しようと努力したつもり」
 マクネアーがプロのオペラ歌手としてデビューしたのは15年前。以後、バロック時代から現代までさまざまな作品を歌い、いまや世界中の指揮者から引っ張りだこの売れっ子歌手となった。
 年に10カ月は各地を飛び回り、指揮者でピアニストでもあるご主人ハル・フランスとはほとんど離ればなれだと嘆く。
「1998年には、日本で彼の伴奏で歌曲を歌う予定が入っているからそれが楽しみ。歌手の生活というのは一見派手に見えるけど、本当に大変。山もあれば谷もある。のどの調子が悪かったり、時差で体調を崩しているときでもきちんと歌わなくてはならない。
 うまく歌えなくて、深い谷に落ちてしまったときは人にいえないほど落ち込んで、ひとりで滅入るの」
 マクネアーの歌声は明るく自然な高音が特徴で、リズム感のよさが武器。ただし、それを万全に保つのには日々のたゆまぬ努力がものをいう。
 いまはオペラでもいろんな役を歌い、さまざまな曲に挑戦しているが、あるとき先輩格のジェシー・ノーマンにいわれたことばが頭から離れない。
「オペラ歌手は5つの役が歌えればいい。その役が本当にうまく歌えるのなら、決して欲張ることはないっていわれたの。もちろん、私は心に響く音楽なら何でも歌いたいと考えているけど、いずれ好きなヘンデルやドビュッシー、マーラーなどをじっくり歌っていきたいと思っている」
 マクネアーは3歳から母親についてピアノを始め、7歳でヴァイオリンを学んだ。父親が教会の合唱団の指揮をしていた関係上、子どものころから教会でもよく歌っていた。高校生のころはロック歌手を夢見る少女でもあった。
 オペラに目覚めたのは、インディアナ大学時代。いくつかのオペラの主役を歌い、すっかりオペラのとりことなってしまった。
「昔はいまより声のコントロールも役づくりも未熟だった。人間の成長に合わせて声に深みが出てくるのは当然のこと。今後はもっと人間的に掘り下げた内容のある役を歌っていきたい。それが夢でもあるから」

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。彼女はご主人のことを口にするとき、とても幸せそうな表情をした。「一緒に過ごす時間が本当に少ないの。でも、ニューヨーク郊外にある緑あふれる自然のなかにある家で過ごすときは、ほんの短い時間でもすごく有意義なのよ」といってにっこりほほ笑んだ。うーん、たっぷりあてつけられた感じでしたね(笑)。

| インタビュー・アーカイヴ | 23:18 | - | -
ダニエル・ハーディング
 イギリスの若手を代表する指揮者、ダニエル・ハーディング(1975〜)とマーラー・チェンバー・オーケストラが、マーラーとブラームスのプログラムを携えて来日、すばらしく気合いのこもった演奏を披露した。
 ハーディングはパスカル・ドゥヴァイヨンと同様、「前世は日本人だった」と考えているという日本をこよなく愛する人。それゆえ来日を早々と表明し、今回もこの後は新日本フィルを振るなど、かなり長期間にわたり滞在している。
 実は、ハーディングは3月11日に新日本フィルに客演中の東京で東日本大震災を体験、その晩の定期演奏会を予定通り指揮し、すみだトリフォニーホールで一夜を明かしたという。
 一方、マーラー・チェンバー・オーケストラはメンバーの投票により日本公演を行うか否かを決めたが、数人を除きほぼ全員が賛成票を投じ、来日公演が可能となった。
 私は6月8日のブラームスの交響曲第3番、第1番の日を聴いたが、彼らの演奏はこれまで聴いたどの演奏よりもテンションが高く、心がこもったもので、とりわけ管楽器の美しさが際立っていた。
 ハーディングは東日本大震災の支援にも積極的で、休憩時間には義捐金の箱を持ってカフェに現れ、自ら支援を呼びかけた。
 この夜は日本公演の最終日にあたり、終演後にハーディングを囲んでの食事会があり、そこにもお招きいただいた。
 彼と、参加したオーケストラのメンバー数人はとても箸の使いかたがうまく、なんでもオーケストラの本拠地のあるベルリンの和食店に、しょっちゅうランチを食べに行っているそうだ。
 インタビュー・アーカイヴの第11回は、ハーディングの1999年の来日時のインタビュー。12年前になるが、彼は体型も顔の表情も、音楽に対する真摯で自然で情熱的な思いもまったく変わらない。食事会にはヨットパーカーを着てメガネをかけ、携帯を持ってフラリと登場。まだケンブリッジ大学に通っているような、そんなカジュアルな雰囲気をたたえていた。

[フィガロ・ジャポン 1999年1月5日〜1月20日号]

若き指揮者、ダニエル・ハーディングにインタビュー

 今回「ドン・ジョヴァンニ」でタクトを振るのは、クラウディオ・アバドやサイモン・ラトルに才能を見いだされた新鋭ハーディング。11歳のときにアバドの指揮姿を見て指揮者になろうと決心したという、若き逸材だ。
「アバドのエレガントな指揮、流れるような音楽の作りかた、美しい手の動きにすっかりまいってしまったんです。そのころワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』にハマっていたぼくは、レコード店にCDを買いに行ったんだけど、高くて買えなかった。そのときに店員さんが『ドン・ジョヴァンニ』を勧めてくれ、それがカルロ・マリア・ジュリーニの指揮だったんです。
 以後、このオペラにすっかり夢中になった。でも、アバドのアシスタントになれるなんて考えもしなかったし、『ドン・ジョヴァンニ』が振れるとも思わなかった。本当にラッキーです」
 ハーディングはアバドやラトルから、作品の細部まで追求する姿勢を学んだ。それはピーター・ブルックとの共同作業のなかでも生かされている。
「今回オーケストラも歌手もみんな35歳以下なんです。もちろんぼくも(笑)。みんな経験は浅いけど熱意はある。そこにブルックの経験がプラスされ、若さと経験との融合がなされています」
 ブルックとハーディングは長い時間をかけてこまかな点まで検討し、完璧な美を求めて作品を練り上げたという。
「既存の『ドン・ジョヴァンニ』ではなく、新しいオペラを作り出そうと思っています。舞台も歌手の動きもシンプルでモダンですが、音楽は伝統的な手法でいきたい。
 伝統を踏まえた上で近代的な面をプラスする。ドン・ジョヴァンニも自分たちに近い、人間的で感情豊かな人物としてとらえたいんです」
 流れるような美しい音楽で聴衆を酔わせたいと語るハーディング。もっとも敬愛する作曲家はブルックナーだそうで、神のような偉大な存在を感じさせる音楽、ピュアな魂を感じさせる音楽に目がないという。そのなかに潜む静けさを的確に表現できる指揮者になるのが夢だと。
 そう話すハーディングはまるで子どものような純な目をする。
「『ドン・ジョヴァンニ』も、天上の美しさを持つ旋律が多い。それを静かにじっくりと奏でられたら最高ですね」
 飾らずおごらず自然体の彼に期待!

 今日の写真はそのときの雑誌の一部。1995年にラトルに代わってパリ・シャトレ座のコンサートを指揮。「すべてはこのコンサートから始まった」と語った。



| インタビュー・アーカイヴ | 17:27 | - | -
山椒の実の佃煮
 時間がないときに限って、貴重な食材を見つけてしまう。今回はみずみずしい山椒の実が手に入った。早速、佃煮にトライ。
 まず、100グラムほどの山椒の実をさっとゆでて水にさらす。水にさらしてアク抜きをしながら、はさみか手で実をひとつずつ枝からはずす。これが一番時間がかかり、面倒な作業だ。
 鍋に山椒の実と水、酒各100CCを入れて火にかけ、実がやわらかくなるまで弱火で煮る。
 ほぼ汁気がなくなったらしょうゆ25CCを入れ、最後にみりん25ccを加え、熱湯でさっと塩抜きしたちりめんを適宜混ぜ合わせて、できあがり!
 これはあつあつのごはんに乗せたり、おにぎりの具にしても美味だが、いろんなバリエーションが考えられる。肉そぼろとあえたり、梅肉や大葉、ミョーガなどとあえてもおいしい。
 一番のお気に入りは、竹輪とキュウリとワカメの酢のものの上にトッピングするレシピ。これはちょっとおしゃれな小皿に盛ると、あらら不思議、料亭のつきだしのよう。
 今度、だれかの家で飲み会があったら、持って行こうかな。でも、いまはみんな忙しくて集まっている時間がないし。ああ、そのうちに「ちりめん山椒」がなくなっちゃうよ(笑)。

 今日の写真は料理前の美しい色をした山椒の実と、できあがった「ちりめん山椒の佃煮」。



| 美味なるダイアリー | 12:08 | - | -
パスカル・ドゥヴァイヨン
 私は遠い祖先がスペイン人だと勝手に思い込んでまわりに笑われているが、「私は前世は日本人だったんだよ」などと真顔でいって笑いを誘っているのが、フランスのピアニスト、パスカル・ドゥヴァイヨン。
 彼は数々の国際コンクールで賞を得、独特のニュアンスと色彩感に彩られた演奏で高い人気を誇っている。現在はベルリン芸術大学教授、英国王立音楽院(ロイヤルアカデミー)客員教授、Music Alp クールシュヴェール夏期国際音楽アカデミーの芸術監督を務め、日本人の弟子も多い。
 そんなドゥヴァイヨンのもとには教えを請うピアニストが後を絶たない。だが、本人は子ども時代は練習嫌いで、反抗期も十分に経験したとか。だからこそ、弟子のさまざまな悩みが理解できるのかもしれない。このインタビューは「ムジカノーヴァ」の4月号に掲載されている。
 ドゥヴァイヨンは大変な和食党で、毎晩日本酒を欠かさないという。ピアニストの夫人、村田理夏子の手料理に舌鼓を打っているそうだ。
 ふたりはとても仲睦まじく、話術も呼吸がピッタリ。それもそのはず、ふたりはピアノ・デュオを組み、本格的な活動を展開している。
 つい先ごろ、リスト生誕200年を記念して「リストそして悪魔」(レグルス)と題した新譜をリリース、大作「ファウスト交響曲」の作曲者自身による2台ピアノ版を演奏している。
 これはすさまじいまでの超絶技巧を要する作品だが、彼らはまさに息を合わせ、作品の奥に潜むドラマを浮き彫りに、聴きごたえのあるデュオを披露している。
 なお、11月17日には東京文化会館小ホールで「村田理夏子、パスカル・ドゥヴァイヨン ピアノ・デュオ・リサイタル〜ファウスト交響曲CDリリースを記念して〜」と題したコンサートが行われる。
 プログラムはデュカスの「魔法使いの弟子」、リストの前奏曲、そしてリストの「ファウスト交響曲」が組まれている。
 ドゥヴァイヨンはライナーノーツにこう記している。
「リストは、ファウストとメフィストという2つの性格をはっきりと比較対照し、悪魔と人間はおそらくそれほどかけ離れていないもの…そして、単にそれは、まったく同じ実体の2つの顔なのではないか、ということを指示しているように感じられる」と綴っている。
 リスト・イヤーに登場した2台ピアノによる「ファウスト交響曲」。ふだんはあまり聴くことができないこうしたすばらしい作品を耳にすることができるのも、メモリアルイヤーならでは。リストの奥深さに開眼する思いを抱く演奏である。
 もうひとつ、ドゥヴァイヨンがピアノのテクニックについて書いた本が出版された。題して「ピアノと仲良くなれるテクニック講座」(音楽之友社)。ピアノに行き詰ったあなたに、ピアノ教師のあなたに、ピアノを一生の友としたいあなたに向けて、名教師ドゥヴァイヨンが紙上レッスンを行うという趣向だ。ドゥヴァイヨンが読者に親密的なことばで語りかけるように書かれており、基礎の大切さを自然な形てわかりやすく示唆し、あたかも彼のレッスンを受けているような感覚を抱かせる。
 もちろん、訳者は夫人の村田理夏子が担当。ここでも二人三脚のすばらしい仕事ぶりを発揮している。

 今日の写真はインタビュー時のおふたり。もうこの表情で、息の合ったリストが想像できるでしょ。

| 情報・特急便 | 23:42 | - | -
週刊新潮
「週刊新潮」に、創刊当初より連載されている「掲示板」というページがある。毎週、各界で仕事をしている男性ふたり、女性ふたりが登場するページだ。
 現在、こんな物を探している、こんな人物を探している、いまこんなことを考えているけれど、いいアイデアはないだろうかといったようなことを読者に知らせるページである。
 今日発売(6月9日号)のこのページに出ることになった。依頼のお話をいただいたとき、さて、何を告知するべきか、はたと悩んでしまった。
 ずっと探している昔の録音がいいのか、資料を探している旨がいいのか、あるいはもっと広い視野に立って考えたほうがいいのか。
 しかし、悩んだのは1日だけだった。
 私は独立したときからずっと、クラシックを広めたいという気持ちで仕事をしてきた。そのためなら、自分ができることは何でもするという覚悟だ。しかし、いまだクラシックは広まったとはいえない。
 いろんなことをしているつもりだが、もっと何かできることはないかと、いつも頭を悩ませている。
 せっかくこういうチャンスをいただいたのだから、一般のかたたちにクラシックを広める方法が何かないか、アイデアを提供してもらおう。
 それを担当の編集のかたに話したら、「それでいいですよ」という返事をいただいた。
 このページは、読者から手紙やメールが届くそうだ。
 少しでもいいから、返事がくるといいなあ。私が思いもよらぬアイデアが寄せられるかもしれない。それにより、仕事の内容に変化が生まれるのではないだろうか。
 首を長くして待っていよう。なんだか胸がわくわくドキドキするなあ(笑)。
 
| 日々つづれ織り | 23:13 | - | -
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